複雑・ファジー小説

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それでも獅子は吼える
日時: 2017/07/08 14:38
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: 4xvA3DEa)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

当小説はリレー企画「無限の廓にて、大欲に溺す」のスピンオフになります。
設定、世界観はあちらに準拠していますので、あちらから確認下さい。

Re: それでも獅子は吼える ( No.32 )
日時: 2018/04/17 12:20
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 薄闇の中、陽の出ぬ内に屋敷を発つ。フェベスの言葉には甘えず、馬に跨りこの都を去るのだ。此処は様々な大欲と思惑が渦巻いている。東のように貴族は一丸となり、領民を守り、武力の下、外敵を打ち払うという、単純な事が出来ない程に巨大化した利権、それらと敵対する者達が醸す武力と闘争の臭いがして仕方ないのだ。血の流れる前の何者かが何かを企むような、鼻につく饐えたような臭いだ。腐敗した権力、それを雪ごうとする血の呼び水。近い内に戦が起きる前、必ずこういった不快な臭いに鼻が刺激される。平和に呆けた貴族には分からないだろう。生まれてから今までの一生の内、半分戦地に身を置くような地獄の中で生き、その地獄を常とする者にしか分かるまい。故にセームには感じるのだ。この都は持たん時が来ている、と。だが、訪れるであろう滅びは自らの手で招くか、外敵が齎すのか、セームには憶測が付かない。どちらも有り得るのだ。このままハイドナーを放っていたらならば自警主義を振り翳し、怪しきを斬り、罪無い物を吊るし、憲兵を阻害するような暴走をする事だろう。フェベスの招いた獅子を放し飼いにしていたならば、既得権益の全てを喰らい尽くし、それでもなお足りないと獲物を探す事だろう。故に、故にである。今すぐにでもこの都より離れ、兵を入れずとも近隣のコールヴェンへ退き、兵を待機させておく必要性を感じたのだ。巻き込まれずとも情報を入れ、有事となったとしてもすぐさま駆け付ける事が出来るようにだ。
 セームはクルツェスカの石畳を駆ける。北門を越え、郊外に広がる田畑を抜けて、薄闇を置き去りに登り来る東の陽を睨む。真っ黒な馬の鬣が風に靡き、己の黒髪もまた一様。風を受け、乱れに乱れる。陽へと突き進んで行く、乱れた黒は東より来た輩を求めるのだ。
 平地を抜け、山道へ至る。蹄は朝露を踏み散らし、陣地へと戻ったと皆に知らせてくれる。地べたに座り込んだグスルトの姿があり、彼はセームが帰ってくるなり苦笑いを浮かべながらぐるりと辺りを見回していた。そこには色街の飲んだくれと大差ない、だらしない姿をした同胞達の姿があった。ある者は地面の上に寝転がり、またある者は酒瓶を抱き抱えている。緊張も何も見られない。彼等が兵士であるという事すら忘れてしまいそうな程にだ。セームもまた彼と同じように苦笑いをしながら、馬から降り、その鼻面を何度か撫で付けた。
「補給は」
「今日の昼には来てくれるそうだ」
 手綱を受け取りながら問う彼はその言葉を聞くなり、安堵の溜息を吐く。無理もないだろう、糧食は底を見せ始め、水は節約の果てに更なる節約を強いなければならない事態である。士気が落ちるだけではなく、馴れない気候は兵の損失に繋がりかねず、その損失が起き始めたならば秩序は乱れ、野盗の類と成り果てる。それも上等な得物を持ち、苛烈な訓練、実戦経験を積んだ危険な存在へとだ。セームの配下は傭兵上がりが異常に多い、彼等を手放したならばその途端に領地、領民、果てには己に牙を剥きかねないからだ。一度傭兵を雇ったならば、もうそれは一生の付き合いとなる。ならば自身の兵として使ってしまったほうが安全なのだ。
「随分と派手にやってくれたな、こいつ等」
「東から西へと来たんだ、鬱憤も溜まるさ。俺も例外じゃあない」
「そう……酒は飲んだか?」
 セームの問いにグスルトは首を横に振って、静かに笑っていた。グスルトは下戸である、酒を勧めたところで一滴も飲めまない。それ所か煙草の一本も吸わない。回りから面白くない男だと言われていたが、セームは違う。飲めばなくなり、程度を過ぎたならば理知すら失う魔性の水、燃え煙となり灰となったならば何の価値もない葉などに金を出すような者ではない堅実な副官が気に入っているのだ。言葉などなく互いに静かに笑っているだけであったが、クルツェスカの張り詰めた空気を感じてきたセームの気は多少ともなり紛れるのであった。
「補給の後は?」
「明日まで此処で野営、明後日早朝のうちにコールヴェンへと向かい、そこで兵を別つ。私はコールヴェンに残る。お前は東の指揮を頼む」
 その言葉にグスルトは怪訝そうな表情を浮かべていた。無理もないだろう、彼はクルツェスカで何が起きているか知らない。知るはずもない。軍において命令に疑問を抱くのは褒められた事ではない、だがしかし。今この命令に疑問を抱くのは正解である。何が起きているか、何故か、それを知ろうという意思の発露故だ。
「……クルツェスカで何が?」
「外患に内憂を討たせ、その外患が我々をクルツェスカに招こうとしている。それ以外にも内憂は多く、外患もまた多し。事態は混迷を極め、あの都は戦の匂いがしている」
 フェベスが招き、外患を以ってして内憂を打ち払う。増長した外患は更なる外患を求め、敵を牽制し戦に備える。随分と手の込んだ事を考えるとグスルトは関心していた。ロノペリへもそういった工作の出来る人間を送り込む事が出来たら、東部防衛も幾分楽になるだろうにと、だ。戦というのは真っ向からぶつかり合うだけではない、後方の霍乱、中長期的な工作も必要なのだ。今の東部防衛にはそういった者達は居ない。
「……了解。軍を分けよう、半々でいいか」
「お前達に二千、私は千で充分だ」
「あぁ……死ぬなよ」
「今日で最後みたいに言うな。明日もあるだろう。全く……」
 何かある度、明日で世の終わりかのように大袈裟な物言いをする彼には呆れたものである。補給が三日途絶え、海岸線にロノペリが上陸、各地で略奪が開始された地獄の様な状況でも弱気を見せ、明日にでも死んでしまう瀕死の病人のような青褪めた顔をしていたのが昨日の事のようだ。そんな事は日常茶飯事であり、クルツェスカには戦の匂いこそせど、まだ有事に在らずという状況なのだ。焦る必要はなく、火を付けないように立ち振る舞うだけで良い。
「まぁ、補給まで暫く時間はある。少し、昔話をしようじゃないか────」
 口から出るのは幼い頃の話。ただただ淡々と語り、互いに静かに頷き、笑っている。戦地では未来の話をすべきではない。過去の話で笑っているのが丁度良いのだ。共に歩むのも明日まで、暫くは別々の場所に行く。国を守ろうという意思は変わらない。同胞であるという事は変わらない。東か、西かという話だけであるのだ。
「セーム、我々の大将。あんたが笑ってられなければ俺達も不安ってもんさ、昔話をしながら笑っていてくれよ」
 静かに語るグスルトの黒い瞳、それはとても強く射抜くような物へと変わっていた。己の目にも不安の色があったかと、自嘲して長い黒髪を手櫛で整えると、取り繕ったような笑みを浮かべてセームは語るのだった。昔の穏やかで何も知らず、爛漫として生きていた時代の事を。

Re: それでも獅子は吼える ( No.33 )
日時: 2018/04/20 14:41
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 暫くの間、クルツェスカに血が流れる事は無かった。相変わらずジャッバールとナヴァロが睨み合いをしている現状ではあったがルフェンスの兵が出入りするという話が流れた途端、ナヴァロが大人しくなっているのだ。市街戦に於いてはジャッバール不利が確実、ナヴァロが優位ではあるがルフェンスの出入りを危惧し、彼等は身動きが取れずに居る、そうしている内にジャッバールは装備の調達、配備を進め、抑止力を潤沢な物へとしていく。
 バシラアサドから出たルフェンスへの進駐依頼は狙い通りに功を奏していた。彼等は運河より来るとフェベスへ伝えたようだ。実際はコールヴェンに軍の一部を置き、そこにセームの姿まであると聞く。これにより戦わずしてナヴァロへの攻勢は成功したのだ。次の一手はアレナルから入る銃火器の制限である。相手となるのはハシェミト商会の海運を担うミナ・ハシェミトである。強欲な海蛇を相手取るとなると、その相手の悪さに思わずバシラアサドは苦笑いを浮かべざるを得なかったが、戦わずしてナヴァロを弱体化させるにはそれしかなく、彼女との交渉を上手く進めなければならない。故に今、彼女は船に揺られている。
 ドレント湾の潮風は厭に強い潮の匂いを漂わせている。それはバシラアサドからしてみれば新鮮な物であった。それは彼女だけではなく、護衛として来たバッヒアナミルも同じである。彼は海自体が珍しいのだろう、舳先へ立ってまじまじと穏やかな海面を見据えていた。彼の長く伸びた黒髪が風に靡き、幼い頃と比べてとても大きくなった後姿は頼もしく見える。
「ナミル、海に落ちてくれるなよ」
 そう茶化すと彼は笑みを湛えながら「大丈夫ですよ!」と言い放ち、再び海面を見据えていた。年齢不相応な柔和で幼さすら感じさせるような雰囲気こそ漂っているが、彼の腰には二振りの刀剣、肩からは小銃が吊り下げられていた。あんな形でも彼はセノールの戦士であるのだ。それも武門の男である。そこらの獣よりも気が付き、獣染みている。人の皮を被っているだけなのだ。
 バッヒアナミルの傍らに立ち、バシラアサドは彼が見ているであろう海面を見遣った。ドレントの海は深い青。切り裂かれた波が漸く白を作り出している。ふと北西を見遣れば空は黄身掛り、明らかに砂が飛び交っているのが見えた。青と黄のコントラストは鮮やかだというのにそれがどうにも薄汚れて見えて仕方がない。砂漠には血塗れの勇名を轟かす者達が住まい、この深く青い海を欲深な商人達が行き来する。彼等の薄汚れ、血腥い性根が混ざり合い、世界を彩っているように見えて仕方ないのだ。
「どうしました? 難しい顔をして」
「……何でもないさ」
 その様な事を口走ったならば嗤われてしまう事だろう。少し引き攣った笑みを浮かべたバッヒアナミルの顔が脳裏に思い浮かぶ。普段、馬鹿馬鹿しい事を口走ったり、おどけてみたりする彼であったが根底にあるのは、厭に常識的でセノールの慣習に縛られた思考、思想である。それは唾棄すべき物であるのだろうが、首まで漬かった者達の間に生まれ、それを是とし育ち、今に至った者がそう簡単に捨てられる物ではない。彼とて今はジャッバールを支持し、傘下に加わっているが何時手の平を返すか分かったものではない。そんな事を思ってしまう自身の浅ましさにバシラアサドは静かに溜息を吐き、己をせせら嗤いながら彼の背を叩いた。
「なんです?」
「裏切ってくれるなよ」
「まさか。死んだってそんな事ないですよ、例え同胞を手に掛けて"裏切り者"って謗られてもです。……人って簡単に死にます、少し小突いただけで。俺もアサドも……。皆、みーんなね。同胞を一人、二人殺したってそれは些細な事でしかないんです。別に謗られる事が怖いだなんて事はないですよ、勝てば良いんです。勝てば。昔のアゥルトゥラみたいにですね」」
 そうやって彼は静かに笑うばかりであった。柵に肘を突きながら彼はどこか遠い目をして、ドレント湾の海面をただ呆けたように眺めている。普段、軽薄を装っているというのに彼が腹に据えた覚悟を引き出されてしまったという事に気恥ずかしさを感じているのだろうか、バシラアサドを見向こうともしない。仕方ない奴だと思いながらも、彼にそこまでの覚悟を抱かせてしまっている事実に少しばかりバシラアサドは物悲しさに似た情を覚えざるを得なかった。



 ドレント湾を越え、降り立った街。そこはシェスターンというドレント商会の本拠であった。現にミナ・ハシェミトの出迎えがあり、彼女は腕を前に組んだまま海を眺めている。メイ・リエリスの者よりもやや茶掛かった赤毛が風に棚引き、暗褐色の瞳は厭に溌剌とした印象を宿している。どうも自分の周りに居る頭が切れる女というのは、ハヤ然りこのような人物が多いとバシラアサドは思いながら、彼女へと歩み寄っていく。
「久しぶり」
「久しいな、装甲艦を買った時以来か」
 ミナは穏やかに笑っている、この女がアレナルの海運を牛耳り、私掠行為に精を出す国公認の海賊だとは誰も思うまい。大方、このような素面を表に出そうとしない笑みを湛える者は危険と相場が決まっている。左手の人差し指を下げたまま、ぐるりと回すと、それに気付いたバッヒアナミルは悟られないように目だけで辺りを見回していた。背後は海である、兵など伏せようはない。
「あぁ、そうかもね。中古艦でも上等でしょ、あれは良い買い物だったでしょ。まぁ、歩きながら話そうか。それと……兵なんて伏せてないよ、君らと戦えば私だって死ぬだろうし、このシェスターンは血みどろだ。それは勘弁願いたいからね」
 肩を竦め、そう苦笑いをしている彼女のそれは本心だろう。無駄、無益な争いは避ける。商人であればまずはそういった損得から物事を判断する。ミナの言葉を信じ、警戒を解かないようにとバッヒアナミルへ目配せしつつ、歩き始めた彼女の傍らに付く。バシラアサドよりも頭一つ分、背の高い彼女の歩く速度は僅か速い。
「さて、屋敷につく前に触りだけ聞いて置こうかな」
「単刀直入に言う、ナヴァロへ武器を売るな」
 無理難題だという事は承知だ。本当の狙いはこれではない、ドレント商会は死の商人である。各国で武器を欲する者達が居たならば、それらに取り入り、武器を安く大量に売り捌き火種を撒き散らす。血と火を好み、それを商いとする。故にその不可侵ともいえる聖域を阻害するような事があれば、ドレントの青い海、その海底から怒り狂った巨大な海蛇が姿を現すのだ。敵を海底に引き摺り込み、何事もなかったようにまた眠りにつくような化物がだ。
「武器を扱うのはうちの専売特許なんだけどね、船で積めるだけ積んで大量にってさ。なに? ジャッバールはうちの商売敵にでもなろうって?」
「我々が我々で使う分以外に武器を作れるとでも? 残念な事ながらセノールにお前達同様の生産能力はない」
「何万挺も小銃作っておきながらよく言うよ、あんなの北の馬糞野郎共の模造品じゃない」
「うちの技師に聞かせたらお前の額に風穴を開けてしまいそうだな。何にせよ、お前達と競合しようって気はない」
「じゃあなに?」
 ミナがそう問う。眼前の石段を彼女は一歩上るも、バシラアサドはその前で立ち止まり、静かに嗤っていた。随分と察しの悪い事だと。商いを邪魔する訳ではないならば選択肢は少ない。その少ない選択肢を考えられないのか、と。
「近々、武器をカシールヴェナとワッケン、レーフスからクルツェスカに全て移す。順繰りという形だがね、武器の数は限られているし、我々にこれから一から大量生産をし始める程の能力はない。防備のため、アレナルの銃が欲しいのだよ、我々の物よりも良く、安く、大量にあるだろう。……ナヴァロに売る分も此方に売ってはくれないだろうか。金に糸目は付けない、故郷を守らねば成らんのだよ」
 思っても居ない言葉をつらつらと吐き、バシラアサドは珍しく湛えた笑みを隠そうとしない。横から見ていたバッヒアナミルは幼い頃、よく見た顔だと久々のそれに安堵を抱く。しかし、最早それは獅子の武器でしかない。善良を装い、業悪を隠し、背を見せた途端に刺し殺す。その前準備のための武器だ。
「商人ってもんがどういう物か、よーく知ってるよ。全く……分かった、今ナヴァロから発注されている分の弾はあいつ等に渡す。それは筋を通すって事だから。銃は逐次、ワッケンに届ける。そこから弾は隔週で輸送するよ、幾ら欲しいのさ?」
「……小銃は三万、弾はありったけ」
 目の前にちらつく利益があれば、商人という生物は飛び付かざるを得ない。そう育てられ、それを是とし生きてきた故の習性なのだ。ナヴァロの武器、兵站をこれで絶つ事が出来る。互いに温存する事となるが、彼等にこれから先の増強はない。ジャッバールは時が経つにつれ、武器の数を増やし、戦力増強に勤しむのだ。
「へぇ、戦争でもするのかい」
「戦争……戦争とな。我々が成せるのは虐殺だけだ」
「おそろしい事で。ま、色々込み入った話は屋敷で、だね」
 軽口を叩き、二人は顔を見合わせていた。海蛇は笑い、獅子は嗤う。傲岸に、不遜に。ただただ笑みが絶えないのだ。そんな状況に虎は胸の高鳴りを感じていた。これならばアゥルトゥラを滅せるのではないのか、と。獅子に付いて来たのは間違いでなかったと言えるのではないのか、とだ。愚者三様がそこに在り、業悪ばかりが肥えて行くのであった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.34 )
日時: 2018/03/18 23:10
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 豪商の物とは思えない程に簡素な屋敷、調度品の類に贅を凝らしている訳でもない。生活感はなく、人の気配も矢張り感じられない。此処に人が住まう限りは、人の息衝く感覚という物が必ず存在するはずだ。此処には全くそれがなく、静まり返った空気だけが屋敷の中に充満している。違和感ばかりを覚え、バッヒアナミルは勿論の事ながらバシラアサドも落ち着かない様子である。二人の前を行くミナはそれが当たり前だろう、と言わんばかりに鼻で笑いながら、硬く閉じられた扉を手の甲で叩く。軋むような音を立てながら、ゆっくりと開いた扉の向こうにも矢張り人は居ない。
「……空の屋敷ですか。屋敷ではありませんが先人達がよく使う手段でした。急拵えの陣の周囲に大勢の兵を伏せ、敵を招き入れ鏖殺とする。ですが、此処に人は居ませんね。何故です?」
 耐え切れなくなったのだろうか、バッヒアナミルはそう問いながら部屋に歩み居るなり、扉を閉じる。バシラアサドの前に立ちはだかり、何があっても良い様にと己の刀に手を掛ける。
「あぁ、うちは普段誰も居ないんだ。皆して彼方此方飛び回ってる、私も普段は港、船の上。最悪、甲板で寝泊りしているのさ。バシラアサド、あんたもそうでしょう。敵中で寝泊りしている」
「あぁ、敵に紛れて眠る気分はとても良い。何時、寝首を掻かれるか楽しみでな。夜しか眠れんのだ」
「私は眠れないんだよ、船酔いするからね」
 そうやってせせら笑いながら、冗談を吐くミナの背を見ながらバッヒアナミルは首を傾げる。彼女もバシラアサド同様に悪事を働き、その一挙手一投足で人の善悪の秤を傾けさせ、他者の幸福を奪い、他者の不幸を打ち払ってきた。そこには血と命が流れ、商いの副産物として死という事象が生じたはずだ。だが、何故だろうか。彼女にはそれを成してきたというはずだというのに、死を生み出してきた者特有の翳りが見られない。バシラアサドの背に圧し掛かり、さぞ愉しげに、さぞ嬉しげに嗤っている死と血の化物の姿が見られないのだ。この女とて業悪を成してきたはずだ、だというのに何故と疑問を抱かざるを得ないのだ。
「敵を増やしに増やし、何れ海から叩き出されるかも知れませんね」
「そりゃあないね、此処は私の庭さ。叩き出すのは私の仕事。私はアレナルを守っている、アレナルの富を願っている。全てのアレナル国民は私の味方、そこにドレントの海という揺るぎようのない居場所があるんだ。何も恐れる事はない」
 抱いた疑問に対する答えは思ったよりも早く帰ってきた。彼女には悪行を積んでいるという自覚がないのだ。あくまでアレナルに尽くし、海という道を駆け抜けているだけに過ぎない。アレナル国民以外がどれだけ死のうが知った事ではなく、自分が直接的に関与していたとしても悪びれ、罪悪感に苛まれる事もない。故にバシラアサドに見られる、悔み戸惑うかのような翳りが全く見られないのだ。
「蛇、海蛇みたいな人ですね。……尤も陸に叩き上げられたら、ただの女でしかないんでしょうけど」
「……海蛇、海蛇かぁ。そりゃ良いね。私をドレントの海底から引き上げて、陸に引き摺り揚げられる者など居るものか。腹を、首を、頭を、手足を。無残に食い千切られて、食い散らかされる。……どれだけ悔い悔やんでも、悔やみきれないまま死ぬだけよ」
 背を向けたまま、大仰に語って述べた海蛇にバッヒアナミルは少しばかりの恐怖に似た何かを覚え、唇を真一文字に硬く結び、閉ざす。ハヤの恨みや敵対心という真っ黒な内面を煮詰めたような印象を抱く。これが味方だったならば、どれだけ心強い事か。運の無い事に眼前の海蛇は敵とも味方ともつかず、ただただ利権に座し、目を光らせ続けるだけの化物である。今の自分の言葉で機嫌を損ねたりしてしまっては居ないだろうか、と不安げにバシアラサドの背を見つめるばかりであった。
「はぁ……」
 深く溜息を吐いた自分よりも小さな背中が、一歩、二歩と後ずさる。黒い髪が揺れ、それが目の前まで来た途端、バッヒアナミルの視界に火花が走る。左足を踵で踏まれ、右の頬に拳が飛んできたのだ。目の前には海蛇よりも恐ろしい獅子が居る、その事をすっかりと失念してしまっていた事に恥じ入りながら、彼は俯いた。
「すみ────」
 謝罪を述べようとした瞬間、矢継ぎ早に右足を踵で踏まれ、言葉が詰まる。
「……これで手打ちだ、良いか」
「上等、上等。虎も所詮は借りてきた猫、獅子が相当怖いようで」
 振り向いたミナはさぞ楽しげに笑っていたが、その目は笑っていない。張り付いたような笑顔に彪を思い出すも、彼はもう少し表情が薄い。どうにもこの業悪の道には似通った人間が大勢居るようだと、バッヒアナミルは苦笑いを浮かべながらバシラアサドから少しだけ離れた。
「ま、いいや。適当に座って。うちは客人に茶の一滴も出しやしないんだ。どうしても飲みたいなら海水があるけど」
「遠慮しておこう」
 促されるまま腰を下ろしたバシラアサドの背を見据え、バッヒアナミルは三歩ばかり離れた場所へと控える。腰の刀に掛けていた手を下ろし、加害意識はないと意思を露とする。誰かの護衛として歩むならば、身に付けておかなければならないセノールとしての最低限の礼儀である。小さく頷き、ミナを見据えると彼女はにやにやと笑っていた。その笑みには悪辣な意思は一切見えず、どこか感心しているかのようであった。
「さて。私に一つ聞かせておくれよ、何をしようとしてるんだい? バシラアサド」
 その問いに「美味い話なら私も乗せてくれ」とミナは続け、更なる業悪を積み重ねるべく優しげな笑みを湛えている。声色は厭に優しげであるというのに、どこか恐ろしげな物だった。バシラアサドはふと一つの事を思う。アゥルトゥラやアレナルの人間はよくこんな顔をする、と。腹の中に飼い、孕んでいる業悪が顔を覗かせているのだ。メイ・リエリスのフェベス、ハイドナーのロトス、今まで屠り続けてきた商人達や、付け込もうと尻尾を振る貴族達。皆が一様にこのような顔をする。だがしかし、ミナ・ハシェミトのそれは一等酷いものに感じられるのだ。底はなく、踏み込んだら最期、首まであっという間に浸かってしまう泥沼のよう。もがき、苦しむ内にそこに住まう化物に食い殺されてしまうのだろう。
「一言だ。アゥルトゥラを討つ」
 やっぱりとミナは相変わらず笑ったまま、こくこくと頷いている。他国の事だ、知った事ではない。あの辺りの人間が屍の山と化そうともアレナルが被害を被る訳ではない。もし被るような事があれば、アレナルとセノールの戦争に発展する。そうともなれば制海権がない以上、セノールの不利は確実。陸戦となったとしても長期戦を戦い抜く体力はまだセノールにはない。
「積年の恨みを晴らすってところ?」
「東伐。その主導を私が担う。……これは聖戦なのだよ。我々セノールが積年の恨みを晴らし、アゥルトゥラを討ち滅ぼす為のな」
 表情一つ変えず、淡々と思っても居ない事を嘯く。恐らく今の自分は酷く冷たく、凝り固まった人形のような顔をしている事だろう。背後に控えるバッヒアナミルには見せられたものではない。そんな獅子に相反し、海蛇は嬉々とし、目を輝かせている。その輝く目の中にある闇の翳りはドレントの海よりも遥かに深い。
「へぇ、そりゃあ銃が欲しい訳だ。形振り構っていられないだろうしね。いいよ、美味い話に食いついてこそ商人、相手を食い潰してこそ商人だ。所で兵站は?」
「東へ進みながら略奪しかあるまい」
「侵略者は恐ろしい事で」
 軽口を叩いてはいるが彼女達が話しているのは戦争の算段である。矢継ぎ早に繰り出される笑えない冗談に聞き耳を立てる事の五分ばかり経った頃、漸く話が尽きたのか。バシラアサドが咳払いを一つ。
「……まぁ、荷はきちんと届けるよ。金庫を空にする準備をしときな」
「お前こそ荷で船を沈めてくれるなよ」
 静かで冷ややかに笑う獅子と、今にも大声で笑い出しそうに肩を震わせている海蛇。異様な光景だと思いながら、バッヒアナミルは何事もなく事は済んだと内心、溜息を吐いた。獅子の語る聖戦、それを成す日が待ち遠しく、白亜に三様の黒い悪が映える。全ては歪み、拉げた大欲に基づく業。誰も欲に溺す事なく戦場を駆け抜ける。目を閉じれば、そんな光景がありありと広がり、虎はさぞ機嫌良さそうに口角を吊り上げるのだった。

Re: それでも獅子は吼える ( No.35 )
日時: 2018/11/25 02:20
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 鉛のような空、汚泥が混じったかのような暗い海を見据えていた。昼を少し過ぎた辺りから、空模様は崩れ始めていた。穏やかであるはずのドレント湾に白波が立ち、埠頭では急遽、舫作業が行われ始めていた。シェスターンの港は巨大であり、船の往来が激しい。今もまるで海の魔物から逃げ込むようにして、入港しようとしている船の姿も見られた。
「海の匂いがします」
「……あぁ、これだけ近いのだからな。仕方もあるまい」
 ハシェミトの屋敷から、港までの距離は二町ばかりしかない。海が荒れたり、満潮時には海風が磯の匂いを運んでくる事だろう。
「慣れない匂いで鼻が利きません……」
「お前は犬か?」
「そうですねぇ……犬みたいになーんにも考えないで、愛嬌振りまいて生きていられたら楽ですね」
 何処か含みのあるバッヒアナミルの言葉だったが、彼もまたナッサルの武門に生まれた男である。四男という跡継ぎとなる訳でもないが、ただの武辺者では居られない。持つ者として生まれたからには、その義務を果たし、責務を負わなければならないのだ。権限はなくとも、先人達のように立ち振る舞わなければならない。
「お前も難儀な事だな。ナッサルの血に飼われているだけではないか」
 その言葉にバッヒアナミルは目を見開き、僅かに唇を噛み締めた。彼の表情には確かに怒りの色が見える、それはバシラアサドの侮蔑に対する怒りか、ナッサルの血に対する怒りかは分からない。問う気にもならなかった。何故ならば、あのような怒りを露にした彼に対し、困惑を覚えたからである。虎の名を冠す彼を"借りてきた猫"などと揶揄するのは間違いだった、かという思いすら抱く。
「俺は思うんですよ、皆死んでしまえば良いって。そうしたらナッサルは俺の物です、俺もアサドの真似して兄殺し、父殺しをしておけば今頃ナッサルは総軍でジャッバールと共にあったはずなんです。ただ、それは超えちゃいけない一線だと自分に言い聞かせてきました、俺は超えちゃいけない線の向こう側からアサドの背中を見る事しか出来ないんですよ。……こうして血に縛られるのなら、ザワやバズィド、アリー、アーゥフを殺しておけば良かったと思うんですけどね」
 己と同じ道を辿るべきだった、と吐露する彼を見据え、バシラアサドは小さく溜息を吐いた。彼女の青い目に篭るのは悔恨の念であった。自身の身勝手な行動、思想が彼を苦しめ、歪めてしまっているのだろうと。アースラの時もそうであった、彼女は捨て置かれたと心痛を抱いていた。それであったとしても、そうであったとしても彼等は成すべきではない業を犯さず、超えざるべき一線を越えずにあった事に安堵を覚えるのだ。
「お前はそれでも私と同じ道を辿らなかったのだろう。……私の業はもう拭いきれそうにない物だ。血で手を汚している訳ではないというのに、何時の間にか私は首元まで血に浸かりきってしまった。……ナミル、お前が私のような業を負うべき時はまだ先の事。そう事を急ぐな、流れは私が作る」
「……えぇ、俺はそれまで背中を守りますから。何があってもね。同族を殺しに殺して誹られようともです。という事でですよ、アサド。……お客さんです」
 壁に立て掛けた小銃を携えながら、バッヒアナミルは港を睨む。彼の視線の先にはアレナル製の銃を背負ったアゥルトゥラの姿があった。恐らくはナヴァロの追手だろう。ミナが手引きしたとは考え難く、独自にバシラアサドを追って来たと考えるのが妥当であった。数にして五人、目標一人、護衛一人を殺すには充分すぎる人数である。
「何か仕掛けてくるなら丁重に持成してやれ。土産もなくして客人を帰すともなれば、サチの名折れだ」
「鉛の馳走をくれてやりますよ、アサドは隠れていて下さいな」
「あぁ、分かった。任せたぞ」
「えぇ、勿論」
 バッヒアナミルは笑っている。必ず帰って来い、と彼の胸を軽く拳で叩き、何事もないようにと言葉なく祈るのだった。



 獅子の祈りを胸に虎は駆け抜ける。鉛色の空は遂に泣き始め、叫び声を上げている。海は唸り、猛り狂う。獣のようなそれが視界に入るなり、海の匂いは戦の前の咽返るような得も知れぬ匂いへと姿を変わっていくのだ。路地の陰へと身を潜め、大きく溜息を吐いた。先程までの暑さは何処へ消え失せた事やら、彼の吐く息は白み消えていく。僅かに震える手をぐっと握り締め、血の通う感覚を忘れきらない内に腰の刀へと手を伸ばしては間髪居れずに引き抜いた。そして、物陰から身を現す。
「……ナヴァロの方々でしょうか」
 突如として姿を現したセノール、それに彼等の歩みは止まる。そして手には抜き身の刀。僅かに開かれた唇は震え、その隙から零れる白い息。宛ら狂った獣の如く。
「だとしたらどうする……?」
 問いに問いで返すが、彼等は得物に手を掛けてしまった。その行動はナヴァロの者であるという答えであった、敵意がないのならば困惑の色を発しながら、否定するのが常である。得物に掛けられた手を一目するなり、虎は薄っすらと開かれた唇の形を変え、笑みを湛えるのだ。
「お持て成しするだけですよぉ」
 雨を蹴り、虎は踏み込んでくる。抜かれた刀が逆袈裟に男の胴を裂いていく。舞い上がった血の飛沫は彼を汚す、足元に広がった水溜りもまた然り。豪雨に命は流れ出ていくばかりなのだ。血とも雨ともつかない液体を踏み散らし、もがき呻きながら苦しむ男を他所に次の者へと虎は迫っていく。銃は構えさせない、得物は抜かせない、反撃はさせない。殺し、屠るためだけの暴力は一方的に振るわれるべきなのだ。
「この──」
 その口から飛び出るはずだった怒号は行き場を増やし、弱弱しく風を切るような音へと変貌していく。裂かれた喉元から吹き出る血を浴びるも虎は次の獲物へと駆けて行く。残りは三人、得物はすっかり抜かれてしまった。幸いにして銃を構えるだけの時間はなく、彼等の手にはアゥルトゥラで使われている幅広かつ、厚みのある剣である。あの剣を受け、凌ぐのは悪手、刀ごと切り裂かれ身を裂かれてしまう事だろう。ともすれば選択は一つであった。未だ抜いていない方の剣を引き抜くのだ。それはアゥルトゥラの物と同じ代物であった。鞘と刀を投げ捨て、再び虎は血混じりの水を蹴る。一合、剣を交え男の肩に手を掛けて、そのまま身体を往なしながら喉元を裂いては、刃をあおると血が吹き上がり、残った血に泡が湧き上がる。それも雨で潰えていく。男の身を離せば、彼は呻きながら石畳へと斃れ込む。
 その後の男は叫び、一心に虎を断つべく剣を振るっていた。音を置き去りにする程、苛烈なそれを躱すと、男は追い討ちを掛けるように二の太刀を繰り出す。その剣を切っ先で往なし、すっかり下がりきった腕へと虎の剣は食い込んでいく。骨まで届いただろうか、痛みに吼える男の手から零れ落ちる剣が音を立てるよりも早く、剣は頸へとめり込み虎の身を赤く染め上げていた。
「……あと一人」
 虎の見据える先、その男はセノールの刀。それもガリプの扱う曲刀を手にしていた。人を斬り、血を吸いに吸った刀は厭に存在を主張し、雨天の下だというのに鈍く、輝いている。まるで虎の血を欲するように、闘争の愉悦を求めるようにだ。血溜まりの中に転がる己の刀を拾い上げ、今まで使っていた剣を未だ呻き、苦しむ男へと投げ付ける。刃は肉を穿ち、骨へと至る。血が滔々と湧き上がっては、赤く赤く石畳は汚れていく。
 刀を先に繰り出したのは曲刀の男であった。彼の一撃は雨の雫を断ち、目で追うにも難しく感じられた。一合、二合、三合と切り結び、虎が感じたのはこの男と殺し合えば、自身の命すら危ういという事であった。それは理屈に則った物ではない、獣に備わる本能のような物である。命をやり取りに肌がひり付き、鋭く細い針で全身を刺されているかのように神経が研ぎ澄まされていく。その何とも形容し難い感覚にこれが闘争の愉悦か、と口角が吊り上がっていくのが分かる。
「愉しいか、獣」
「えぇ、とっても」
 短く交わされた言葉、恐らくは次の一合、二合のうちに決着は付く事だろう。恐らくそれは刹那である、だがしかし。虎の身には長く、終わりが見えないように感じられた。それは自分の身に先がない事を暗示している訳ではない、備わる本能が闘争の終焉を忌諱し、目を背けているのだ。繰り出された刀は空を斬り、切っ先と切っ先がぶつかっていく、虎の刀は男の頸へ、男の刀は行き先を失い、虎の左胸を裂く。身を焼くような痛みであったが、それを闘争の愉悦が掻き消していく。吹き上がる男の血が目に入り、視界は赤く染まりきっている。赤の向こう、からりと音を立てるのは男の刀であった。自身から流れ出る血を左手で抑えながら、虎は雨に語らい、嗤うのだ、闘争の愉悦を。

Re: それでも獅子は吼える ( No.36 )
日時: 2019/03/17 23:15
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

(2019/2/25 加筆)
(2019/3/17 再加筆)

 左胸の傷を押さえながらバッヒアナミルは痛みを誤魔化すべく、大きく溜息を吐いた。それでも痛みは紛れず、手に持った刀で倒れ込む男を二度ばかし斬り付けると壁に手を付いて、崩れ落ちるように座り込んだ。長い黒髪が血と雨に塗れ、重くしな垂れている。既に力なく、事切れている男の死体を睨み、これと同じ物になって堪るものか、と自身に言い聞かせながら、数を数えると死体は四体、まだ一人だけ辛うじて生きているようだ。
「ばっ……けものが」
 裂かれた喉を押さえ、ひゅうひゅうと風を切るような音を出しながら、半分死んでいる男が声を震わせながら、バッヒアナミルを罵る。化物、そう呼ばれるなり彼は刀を手にしたまま、ゆっくりとその半死人へと歩み寄り、まるで塵でも見て、嘲るような思いを声に出さずして語る。足元から胴へ至り、斬り引かれた首を超え、頭の天辺まで一頻り見終えると、彼は漸く口を開いた。
「えぇ、よく……よく言われますと、も」
 痛みに震え、上ずった声であったがその表情は冷たく、無情なものであった。刀の切っ先が半死人へと向けられ、それが静かに彼の身体へと迫っていく。目指すは心臓、慌て恐怖の色を隠しきれないその男は何やら、屠殺される家畜のように悲鳴とも、怒りとも付かない声を上げ、切っ先を握り締めていた。刃は指を裂き、肉を滑っていく。滴った血は雨の雫と混じり合い、潤滑剤の役割を果たしているようだった。肉へ食い込み、心臓へ至ると潰れた蛙のように奇妙な声を上げながら、男は事切れていた。
「ふふ」
 思わず声が零れ、笑みを浮かべたままバッヒアナミルは刀を鞘に収めた。
 冷たい雨は身体の熱を奪い取り、闘争の愉悦に囚われた思考を雪ぎ落としてくれる。思考が身体と共に冷えていくにつれ、斬り付けられた痛みが増していく。脳裏に思い浮かぶのは化物と呼ばれた、クィアット・ハサン・サチの姿である。彼はこの痛みに苛まれながら、八度も死んだのかと思えば、彼の壮絶たる思い、覚悟に敬服せざるを得なかった。刀を鞘に収め、再び胸の押さえ付けながらぼんやりと歩き出す、早く戻らねば、背後の骸と同じ道を己も辿る事だろうと言い聞かせ、歩調を早めるのだったが、ふと一つやらねばならない事を思い出すのであった。



 雨音には雷鳴が混じり始め、時折稲光が走る。バッヒアナミルの帰還はまだか、と窓から身を乗り出して大路を睨むも人の子一人見られず、港も等しく誰一人として居ない。ただただ海が荒れ狂い、黒い波が化物のように蠢いているばかりだった。ふと、脳裏を過ぎるのは彼がこのまま戻って来ないのではないのだろうか、という不安であった。護衛一人付けず、どうして世を歩けようか。自分は業悪を重ね、血の川に首元まで浸かりきっている。世より厭われ、恐れられる人の形をしただけの怪物であろう。だと、いうのに一人になってしまったと思えば、世が恐ろしく、周りの全てが人の形をした怪物に見えて仕方がないのだ。無意識に握っていた銃を持つ手が震えている。自分の手だけで化物を殺せようか、獅子を囲い、悪辣に囀る化物へ鬼胎抱かず、屠れようか。不安の種は芽を出し、獅子を恐怖の妄執へと駆り立てる。
「……ジャッバール」
 身が凍りつくような思いだった。背後より声を掛けてきたのはミナであり、彼女の背景を思い出せば、ナヴァロの兵でも引き連れてきたのではないか、と思えるのだ。振り向きざまに引き抜いた拳銃をミナへと向けると、彼女は両手を挙げながら、にやにやと張り付いたような、不気味な笑みを湛えていた。
「一人、か」
「あぁ、勿論。ナヴァロの兵なんて呼んでる訳ないでしょ。あんな話をして、アンタから中身が漏れたら私の首まで飛んでしまう。それは良くない、ドレントの大海蛇が怒り来るって、アゥルトゥラを食い尽くしてしまう」
 そんな軽口を叩きながら、彼女は椅子へと腰掛けバシラアサドへと窓を閉めるようにと指示を出した。「こんな雨の中、窓を開けているだなんてハシェミトの人間は遂に頭までおかしくなったと思われてしまう」などとやはり軽妙な語り口で冗談を叩いてはいるも、彼女の顔付きは厭に冷たく、表情などなく、感情まで欠落しているかのように感じられた。
「アゥルトゥラの状況を聞いておきたいんだ。……東から来てるでしょ、彼方此方で殺しあってる貴族が」
「ルフェンスか」
「えぇ、彼等は私達ハシェミトからしても目の上の痣瘤でね。お陰でヴィムートの馬糞共から私掠も侭成らない。監視されちゃってね、あんまり見られたくないのよ。私達は"清廉潔白な商人"だからね」
「ほざけ」
 いい加減、ミナの軽口を止めなければ問いに答える事も侭成らないとバシラアサドは一蹴すると、彼女は漸く口を閉ざして机に頬杖を突きながら、早く答えろとでも言わんばかりにバシラアサドを見つめていた。
「ルフェンスの兵はクルツェスカに時折入ってくる。近隣の──恐らく運河沿いの都市に居るはずだ。それでも総軍ではあるまい、東部防衛もしなければならないだろう」
「だろうね、となれば数が少ない方が本軍。つまりはセームが居る方だろうけどね。アイツは百の兵を千に、千の兵を万に見せかけて戦う術を持ってる、防衛戦の天才だよ」
 ミナの言葉に矢張りルフェンスを嗾け、ナヴァロの行動を阻害したのは正解だったと内心思うのだった。そんな兵の目があれば、ナヴァロとて軽率には動けないだろう。何より此処シェスターンに追手を放ってきたのが、その良い証である。今回の追跡はクルツェスカや、その近隣での行動がしにくく、苦し紛れではあるが、兵を放つタイミングを見計らっていたという事なのだ。ともすれば、ルーイットの言うように砂漠へ兵を伏せ、ナヴァロを一気に討つ事も可能だろう。
「何れはアンタもアイツと当たるよ、地獄だねぇ。五百年越しの地獄だ、ジャッバールとルフェンス。愉しそうだよ、本当に」
「……わるい奴だ」
「アンタもね」
 二者の間に悪が漂い、浮かべられた笑みは薄いというのに、さぞ愉快そうな物に見える。そんな時であった、何者かが階下の玄関を開き、呻いているのだ。一瞬にして二人の顔付きから笑みは消え失せ、硬く強張ったものへと変貌していく。一様に得物を取り出しては、一歩、また一歩と階下へと至る階段を目指し歩み、漸く辿り着いたと思えば、一段、一段と下って行く。玄関へ近付くにつれ、得物を握り締める手に力は篭り、バシラアサドに至っては引き金に指を掛け、撃鉄を起こしていた。鉄錆びたような血の匂いが漂い、玄関口には何かを握り締めたバッヒアナミルが胸から血を流して、肩で息をしていた。驚きこそしたが、それを悟られては成らない、とあくまで平静を装いながら彼へとまた一歩、一歩近付いていく。
「武働きご苦労、傷を出せ」
「け、っこう……ふかく斬れてまして、ね」
 傷の具合など聞いていないというのに、彼はそれを伝えてくる。これでは埒が明かないと衣服を破ると傷は骨にまで達しているようで、赤い肉と血の中から白い骨が顔を覗かせていた。その骨も傷を負っているようで、バシラアサドの手ではどうしようもなく、ミナを睨む。
「医者を呼べ。医者だ」
「へぇ、身内にはお優しい事で」
「……呼べ、さもなくば撃つ」
 揶揄の言葉に一拍置いた後、バシラアサドはミナへと向き直っていた。彼女の手には銃が握られており、その銃口はミナへと向けられていた。此処でミナを撃ってしまえば、自力で医者を探すしかない。全てが後手に回り、バッヒアナミルの命も危うい事だろう。それが分かっていながらも、感情が先走り、怒りをミナへと向けていた。
「あぁ、はいはい。呼んでくるよ。……借りてきた猫だなんて言えないね、何人斬った?」
 軽口を叩きながら問えば、バッヒアナミルはにぃっと不敵に笑いながら、開かれたままの手をミナへと翳した。五人も斬った、かと関心しながら、空恐ろしい思いを抱きながら、雨の中、シェスターンの街へと駆け出すのだった。



 ミナが聞くに屍は雨曝し、目すら閉じぬまま絶命していた。ある者は首を、ある者は胴を。腕を失い、やはり首を裂かれている者もあった。皆が皆、急所を裂かれ死んでいたらしく、手当てを受け眠っているバッヒアナミルが空恐ろしく思えた。何をどうしたら五人もまとめて相手取り、手傷こそ負えど、皆殺しに至るというのだろうか。
「……傷の具合は」
 別室に控えていたバシラアサドが何時の間にか背後に迫り、眠っているバッヒアナミルを見下ろしていた。医者が来るまではバッヒアナミルを黙って見ていたのだが、処置が始まるなり動揺し出し、別室に控えていたのだ。
「普通なら死んでる、まぁよく生きてるってさ」
 傷は筋肉は勿論ながら鎖骨を断ち、第二肋骨まで到達していた。辛うじて動脈を躱してこそいたが、深く普通の人間ならショック死しても不思議ではない状況であった。止血し、細かく縫合した程度するしか出来ず、痛みを和らげるための芥子から精製した鎮痛剤を出されたらしく、それを入れた巾着をミナはひらひらと見せ付ける。
 芥子の番が芥子の世話になるのは皮肉な事であったが、とにかく死なずに済んだのは幸いである。彼が死したならば、アレナルの地に身を潜め、迎えを呼ぶ必要もある。とてもではないが、一人では歩けたものではない。
「死なれては困る。……レーフスや、ワッケンなら問題はないが、国境を越えた途端に"歓迎"される」
 椅子を引き、ミナの隣へとバシラアサドは腰を下ろす。
 アゥルトゥラやアレナルの人間と比べて、明らかに赤黒い手が眠っているバッヒアナミルの頬に触れた。慈しむ様にも、不安に怯え、縋る様にも見える。その手は武門の者でありながら、傷は少なく、節くれ立っている訳でもない。明らかに女の物であった。得物もある、心得もある。しかし、それだけでは戦は出来ない。それだけでは自分の身を守れない。
「ただ一人のジャッバール、そこで死んだら全て終いって?」
「……あぁ、そうだ。皆殺してしまったからな」
 最早、ジャッバールはバシラアサドただ一人。彼女が死せば、それで事は潰える。尤も残してきた道、築き上げた城を拾う者こそ居るだろう。だがしかし、取り合い、奪い合えば衰える事は確かである。何よりセノールに対する報復を考える者など一人も居らず、アゥルトゥラへの報復としての力を身に付けてしまうだろう。本来の目的として使えず、誰一人としてその本来の意思を継ごうとしないのだ。
「業の深い事で」
 そう揶揄するように呟き、ミナは溜息を吐く。親殺し、兄殺しなど褒められた事ではない。寧ろ人の道から逸脱した行為である。その様な人物と知っていながら、こうして商いの契りを交わし、その悪行の片棒を担ぐ。己に対する侮蔑を吐き出したのだ。
「私が? 業が深いだと? おかしな事を言うな。……民族の慣わしだの、武門の掟だのと人を人とも扱わず、その道を狂わせる者達の方が余程、業が深いと言えないか? 私は歪んだ道を断ったに過ぎない」
 その業人の血を引いているだろうにと嘲笑い、お前もまた業を犯しているだろうに、とミナは嘲笑う。口角が釣り上がり、笑みに面持ちが歪む。僅かに開かれた口から覗く、赤い舌の先が二つに割れているのではないか、と思える程にその容貌は恐ろしげに見え、僅か戦く獅子と海蛇の視線は絡み合う。
「そうさ、業が深い。深いなんてもんじゃあない、ドレントの海の底にだって届きそうだ。その癖して悪人に成りきれていない。半端にも程があるバシラアサド」
 相変わらずバッヒアナミルの頬から手は離れず、彼の体温を確かめる様にゆっくりと這う。人を殺め、それを正当化し、冷血で狡猾に振舞おうというのに、彼女の青い瞳は憂いを帯びている。獅子に人の情など要らず、死に掛けた配下の事を捨て置けない彼女は、真なる悪人ではない。
 誹られると一瞬だけ眉を顰め、バシラアサドは視線を逸らしてしまった。青い瞳はバッヒアナミルを見下ろし、何時の間にか手指で彼の長い髪を弄ぶ。その様子はミナにとって、何処となく艶かしくも見え、同時に彼女の本心、底が見えてしまった様な気がした。
「……セノール、武門の者達には私を慕う者が多い。その様な者たちとは私も親しくして来た。幼い頃から見知った者も、親しい者も多かった。……大事な友だ、二人と居ない掛け替えのない者さ」
 淡々と語る彼女に対し、ミナは返す言葉を持ち合わせなかった。心底、がっかりしたのだ。本質は悪人ではない、それどころか悪役ですらない。弱く、揺らぎやすい臆病者だ。深く、負い過ぎた業に潰され掛けそうな、瀕死の獅子。それが目の前に居る。彼女は何かの為に全てを振り捨て、何かの為にただひたすら前進するだけの怪物ではないのだ。
「臆病さ、そんな臆病で何が出来る?」
「戦の算段が出来よう、ミナ。私をあまり侮ってくれるな。……私の下に居る者達は化物ばかりだ。なぁ、ナミル」
 眠っているはずの虎の名を呟く。ふと、視線が彼へと向けば、薄目が開かれ、黙ったままミナを睨んでいた。背中を冷たいものが伝い、取り繕うような笑みを浮かべざる得なかった。
 臆病な獅子は業に握り潰されそうになりながらも、化物達に背を押され、支えられ壊れながら走り続けている。事が成ったなら、恐らくその身は崩れ、消え去っている事だろう。それでもなお、築いてしまった道を直走る。そんなバシラアサドが馬鹿馬鹿しくも、羨ましくも思え、ミナは再び溜息を吐いた。

 虎は厭に白けた天井を黙ったまま、睨み続けていた。輩である獅子は椅子に腰掛けたまま、胸の前で腕を組んで眠っている。海蛇は自身の寝所へ帰ったのか、つい四半刻前程から姿は見えない。
 嵐が来ているのか、屋敷は軋み、悲鳴を上げている。唸り、猛り狂う海に怯え、戦いているかの様だ。屋敷と同じく、傷も悲鳴を上げており、疼く様な痛みと鋭く酷い痛みが行ったり来たりを繰り返す。痛みを耐え殺すも、声が漏れ、熱を帯びた身体を捨てたくなる。
 寝台の脇に立て掛けられた刀は、手を伸ばせば届く。鞘から刀を放ち、首に走らせたならば、この痛みからも解放されよう。しかし、救われた命、拾われた命を打ち捨てるのは最たる愚行。何よりも愛しく、慕う友に死に姿を見せるなど、情けないにも程がある。馬鹿馬鹿しい考えは捨てようと、目を瞑り大きく溜息を吐いた。
 今を思えば、あの瞬間、自分は死神に背を押されたのだろうと思えた。五人の追手を相手取ろうなど、普通では考えられない。そもそもなら考えてはならない事である。一人で相手取っても精々、三人が限度である。あの場では斬り合うより、他は無かったのだろうが、だとしても真正面からやり合うのは愚作である。幸いにも皆、死神に背を押され、冷静を欠いていた事だけが救いだった。恐らくは死神は武人、武芸者の魂を好むのだろう。魂を得られるならば、抜け目なくそれは背に負ぶさり、冷たい骨の手で首を掴み、囁くのだろう。「殺し合え」と。
「……ナミル、早く寝るんだな。先から厭に動くじゃあないか」
「少し傷が痛みまして……痛み止めはありますか?」
「耐えろ、あまり使って良いものじゃない」
 欲しくて堪らなくなる、とバシラアサドは続け、テーブルに据え付けられた椅子へと移っていく。長い黒髪がふわりと揺れ、心地よい香りが鼻をくすぐると、胸が高鳴り、目が冴える。痛みの中に沸々と劣情が沸き立ち、彼女を見遣れば、青い瞳と目が合ってしまい、どこか都合の悪さを感じて、再び天井を見遣る。
「目を閉じろ。ぎらぎらと、そんなお前の目は見たくないものだ」
「……一応、男ですから」
「そうさな、男になってしまったな」
 冗談を交わすも、どこか気恥ずかしくバッヒアナミルは彼女を直視出来なくなってしまった。どうしたものか、と溜息を吐くと傷が痛み、短く呻き声を上げる。その様子がおかしかったのか、バシラアサドは短く笑い声を上げていた。
「カシールヴェナに良い人は居ないのか」
「……居ません、俺は武働きのための存在です。家を継ぐ訳でもありませんから、その様な者が居たとしても……満足に養えません」
 ナッサルには四人の兄弟が居る。上からアリレザ、イフサジャラル、ラシェッド。そして、バッヒアナミルだ。ナッサルを継ぐのはアリレザであり、イフサジャラルも、ラシェッドも家を継ぐ訳ではない。ましてやバッヒアナミルが継ぐという事は絶対有り得ない話である。戦争の為に家に飼われる、獰猛な虎でしかないのだ。
「私が男で、お前が女だったら貰っていたというのに」
「それは有り難い話ですが、石女だったら──すみません」
「気にするな」
 無神経な発言だったと詫びるも、バシラアサドは笑っていた。事実は事実であり、仮に人の子を孕む事があったなら、今こうして顔を向け合わせる事もない。悪行を犯しているが、友と共にあるのは心地が良い。であるからこそ、傷を負うだけで心が戦く。
「では、言わせて下さい。……アサドの代でジャッバールは潰えるのでしょう?」
「……あぁ、そうだな。私の代で終わりだ。ディエフィスの血統も五十年前に途絶えた。ジャッバールの血を引く者は居なくなる」
 仕方ない事だ、と自嘲するように述べ、彼女は大きく欠伸を一つ。血統が絶える事には微塵も興味はないらしく、自身の行いがその原因となった事に対して、悪びれる様子すら見られない。
「でしょうね。口惜しい。ただただ口惜しい……」
 彼は天井を見据えたまま、ただただ呟く。他家の人間が何故、ジャッバールの血筋が途切れる事を惜しむのだろうか? バシラアサドにはそれが分からず、彼女の青い瞳はじっと彼を見据えるばかり。途絶えたなら別の家門から人間を挿げ替えるだけ。皆が皆、何処かの家門を継げる様にと戦と政治の教育を受けてきている。陣中に籍を置いていないジャリルファハドや、ナッサルの兄弟でも構わないのだ。
「……誰も器にないんです、誰も最も優れた血統を持っていない。血が途絶え、誰かを挿げたとしても、それは偽者のジャッバールです。……ガリプの様な捨て駒、猪武者は誰だって出来るでしょう?」
「敵に戦かないというのは難しい事だ。……彼等は隣で親兄弟が死せど、動じる事もない。そして、誰よりも早く戦地に赴き、誰よりも最後に戦地より去る。それの如何に難しい事か」
「だから、二度も血が途絶えた。本物のガリプはもう居ません。……血は大事じゃないですか。大義名分を成し、人を狂奔に駆り立てるそれは"本物"じゃなければ醸せない物です」
「結局の所は為人だ。名の呪いに振り回され、名の様に振舞うか、名の様に振舞わないか。それだけだ。……私はそれに嫌気が差したがな」
 バシラアサドは自嘲する様に笑い、肩を震わせていた。セノールの業、サチの呪縛、ジャッバールの名。全て擲てるのなら、擲ち思うように振舞いたかった。しかし、歳を取り、業に手を染め生きている内、どうしてもセノールという民族の負の側面をなぞってしまう。然も当然の様に、然も自然にだ。彼は寝台に伏せたまま、哀れむでもなく、ただただバシラアサドに視線を向けていた。口は閉ざされ、また何かを囀る訳でもない。傷に痛み、顔を顰める訳でもない。
「ナミル、よく聞いておけ。私達は何処まで行ってもセノールだ、何処まで行っても。皆が皆、業に染められ、名に縛られ生きている。……であるから──」
「であるから、誰でも良いと? ……俺は認めませんよ。アサドが死ぬのはずっと、ずーっと先だ。そうなった時……おかしな奴が、使えない奴がジャッバールに挿げられたら……消します」
 などとバッヒアナミルは口走り、大きく溜息を吐いた。返す言葉もなく、ただただ取り繕う様に笑うしか出来ず、同時に申し訳なさをバシラアサドは感じる。そんな先まで生きている気などなく、そんな先までバッヒアナミルが生きている保証はない。死へと直走り、民族は愚か、隣国まで巻き込んだ壮大な自殺に付き合わせようとしているのだから。


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