複雑・ファジー小説
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- アンソニー (完結)
- 日時: 2017/02/10 22:23
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
永遠って、なんでしょう?
- Re: アンソニー ( No.22 )
- 日時: 2017/02/05 14:49
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
「アノンと、これからも一緒におりたいですか」
「せやな」
「アノンが孤独だからですか」
返事がない。
さすがに核心をつきすぎたかなと後悔した。
寝返りを打って、先輩のいるベッドの方に向く。
すると、勢いよくカーテンが開いた。私を、冷たい目で見下ろす先輩がいた。やっぱり、綺麗な顔をしている。顔だけでいえば満点だ。
深い翡翠色の瞳。この目が綺麗なのだと、アノンが言っていた。
確かに、そうやな。
吸い込まれそうなほど、美しい。
「 」
ああ、そうか。
そんな簡単なことだったのか。
つまらない嫉妬。
私はアノンとアンソニーの関係が羨ましかっただけだ。なにも知らないのに、お互いがいないと生きていけない依存性のある毒みたいな二人を、羨んだだけだった。本当はそんなことないのに、彼らが生きている世界が、別物のような気がしていた。
憧れていた自分に気づく。
平凡な生活ではなくて、彼らのような、歪んだ日常を送るのもいいかなって。
「生理痛、どうだった?」
授業が終わり、アノンが心配して保健室に来てくれた。腹痛はまだおさまっていないけど、だいぶん楽になった。
「さっきよりはマシやな」
「よかった。ものすごく痛そうだったから」
「また病院行ってみるわ」
靴下とローファーを履いていると、奥から先生が申し訳なさそうに口を開く。
「藍島さん、隣に寝てるの槙島くんなんやけどね。熱があって、まあまあ辛そうなんよ。藍島さんの授業が終わったら、一緒に帰るって言うてたんやけど」
「アンソニー、一人暮らしですもんね」
どうしようかな、とアノンが頭を掻く。
迷っているな、と思った。私の前で、あまり槙島先輩と親しくしたくないみたいだ。私に気を遣っているのかもしれない。
槙島先輩はさっきからイビキをかいている。たまに寝苦しそうな咳をする。
「帰ってあげたら?」
私が言う。
アノンがこちらを見た。
「辛そうやし、そうしたげよ」
「なら……一緒に帰ります」
そう答えたアノンの表情が優しい。先輩が絡むといろいろな顔を見せる。ああ、恋をしているなと思う。こんなにわかりやすいのに、本人が一番気づいていないと思う。そこもずいぶん面倒くさそうな二人だ。
保健室から出て、一緒に教室に戻る。
「雪、降りそうやな」
曇っている空を見て、呟いた。
実際、雪が降るのはもっとあとだろう。
だけど、アノンは小さく息を吐いて、私の指に自分の指を絡ませる。温まった私の指に反して、アノンのはとても冷たかった。
苦手な冷えだったけど、混ざり合う体温は不思議と心地いい。
「せやな」
そう答えた彼女の訛りがおかしくて、思わず口元が緩んだ。
- Re: アンソニー ( No.23 )
- 日時: 2017/02/07 22:01
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
第五章 サラ
カーテンから差し込む朝の光は、私にとって眩しすぎる。
意味不明な唸り声をあげながら、精一杯手を伸ばして、カーテンを閉めようとする。だけど、横で眠る恋人が邪魔でうまくいかない。
仕方なく体を起こした。
クーラーが効きすぎる。リモコンはどこだ。
ああ、あった。恋人の左腕に踏まれていた。
「起きたん?」
まだ眠たそうな恋人が抱きついてくる。寝ていたんじゃなかったのか。返事の代わりに額にキスをした。くすぐったいのか眉間にしわが寄る。
シャワーは帰ってから浴びよう。服を着て、歯を磨く。化粧をしなくても綺麗だと恋人が言ってくれたので、顔だけ洗う。
「どこ行くんやっけ」
「兄さんとこ」
短く答えて部屋から出る。
気分は晴れない。私の心を映したような空だった。そうだ、傘を持たなきゃ。百均で買ったビニール傘を持つ。忘れないように、忘れないように。
二番目の兄が「頼みがある」と言って、久々に連絡を寄こしたのが一年前。梅雨の時期だった。
寡黙で風変りで、なにを考えているのかよくわからない。それが二番目の兄への印象だ。私には三人の兄がいるけど、中でも二番目は、同じ血を引いていながら、どこか近寄りがたい苦手な存在だったのだ。小さい頃、男所帯だったせいか、顔立ちのわりにかなり男気のある女子だった。喧嘩をしようものなら手が出る。口も達者で、力も強い。舐められるのが嫌いで、「こいつ潰す」と思ったら遠慮も容赦もなかった。怪我だらけの私を見て、一番上は「誰の妹やと思ってんのや」と怒り狂ったし、三番目は「星奈、恥ずかしいねん。ちょっと女の子らしくしてみ」と呆れ顔だった。
喧嘩っ早い長男と、落ち着きのある三男。
その真ん中にいたのが、二番目の兄、清吾である。通称「二番目」。一郎次郎三郎ならまだしも、ミナト、セイゴ、ナツというちぐはぐな名前のおかげで、私は彼らが一体どの名前なのか覚えられない。正確に言うと、瞬時に名前が出てこない。よって、私は彼らを番号で呼んでいる。
二番目は、さっきも言ったけど家族のなかでも滅多に喋らなかった。
声をかけても「ふん」「ぬう」など、気の抜けた、変な返事をする。一番目は彼を「つまらんやつや」と言うけど、三番目は「実はめっちゃおもろいんちゃん」と評価している。
私は、なんだか生まれつき深い闇を持っていそうだと、勝手に彼を印象付けていた。
ぼんやり遠くを眺めて、たまに我に返り、最初からそこにいた周囲の人間を初めて認識している──そんな人だった。とにかく自分以外に興味のない兄だった。
私が13歳のとき二番目は就職して一人暮らしを始めた。
それから10年間、私は二番目と話をするどころか顔すら見合わせずに生きてきた。
なのに。
一年前。
そうだ、私が23歳になった日の朝。
見知らぬ番号から電話があった。登録していなかったので、誰だろうと思い、電話に出る。
「もしもし」
一泊あいて、
「星奈か」
いきなり、名前を呼ばれた。
最初、だれだかわからず頭をフル回転させて心当たりのある人物を探したが、けっきょくわからなかったので、
「すみません。どちらさまですかね」
と、正直に尋ねた。
「清吾やで」
そう言われたときも、一瞬、だれだっけと思考が固まった。
10年だ。それだけ時間が空いていれば、実の兄とはいえ、声を忘れてしまう。
久しぶりすぎて興奮状態の私に対して、二番目は驚くほど静かに言った。
「頼みがあるんや」
待ち合わせ場所の駅のホームに10分前に着いたのに、すでに二番目はそこにいた。
改札口を抜けてすぐの喫煙所で、煙草を吸っているのが見える。色白で細くてパーマをあてた黒髪は肩まである。髭を剃ればもっと若く見えるのに。
私が近づくと気づいて、ぺこっと頭を下げた。
つられて私も下げる。
一年前も、同じような感じで10年ぶりの再会を果たしたっけ。
特に挨拶もないまま、私は隣に並んでバッグから煙草を取り出す。
「火、やるわ」
そう言って、ライターを近づけてくれる。無言で火をつけ、大きく息を吸い、吐いた。白い煙が灰色の空に馴染んでいく。
「悪いな。たびたび、こういうこと頼んで」
「悪いって思ってへんやろ」
「ああー……いや、思ってるで。俺のことなのに、申し訳ないなぁって」
「養子にもらうからや。もっと考えな」
10歳も年下の妹に言われて、二番目が自嘲気味に口元を緩ませる。
ちゃんと食べているのか心配になるほど痩せていた。
「ああ、戻ってきた。トイレ、行っててん」
「…………」
二番目が見つめる先へ、私も視線を動かす。
駅のトイレから出てきたひとりの女の子。
まだ小学校にあがって間もないぐらいの年。大きな目はウルウルしていて、なんだか小動物みたいにキョロキョロ動いている。歩くたびに「ペチッペチッ」と効果音が聞こえてきそうだ。深い緑のワンピースを着て、大きすぎる麦藁帽を被っている。背中には大きなリュックサック。ものすごく子どもっぽいんだけど、顔立ちははっきりしていて、将来ぜったいに美人になるだろうって感じだ。
女の子は私たちを見つけると、早歩きになる。
ペチペチペチペチッと音が聞こえてきそうだ。
そして私たちの前まで来ると、ニカッと笑い、
「ほしなさん、お久しぶりやなぁ」
人懐っこい笑みを浮かべた。
「久しぶりやで、紗良ちゃん」
紗良ちゃんは、二番目の血のつながりのない子どもなのである。
私が彼に頼まれたことは、彼が仕事で外国に行くあいだ、彼女を預かってほしいというものだった。
- Re: アンソニー ( No.24 )
- 日時: 2017/02/08 21:34
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
二番目が女の人と付き合っていることも、その人と籍を入れたことも、私は全然知らなかった。10年ぶりの電話で初めて知ったし、子どもがいるということも初耳だったのだ。もっとも、その子は二番目ともその相手の女性とも血はつながっていないのだけど。
「俺、いまデザイナーやってん。それで、外国でもちょっとやりたいなって思ってて、そのチャンスがきとんねん。俺が外国に行っとるあいだだけ、子ども、見てくれへんか」
「ええけど。学校とかどないするん」
「学校、行かせてない」
「そうなん。ええよ。子ども、おったんやね」
「養子やけどな」
10年という空白の時間は確かにあったはずなのに、私と二番目は淡々と会話をしていた。まるで昨日ぶりに話しているかのようだった。
一年前に初めて顔を合わせたけど、紗良という少女は特に迷惑も世話もかけない、とてもいい子だった。
仕草のひとつひとつが女の子らしい、可愛い子だった。目が大きくて透き通っている。することすべてに「ああ、子どもだな」と納得がいく行動をする。お菓子をもらうために一生懸命下手な嘘をつくところとか、転んでも泣くのを必死で堪えて変な顔になるところとか。目鼻立ちがはっきりしているので、実際の年齢より二つ三つ年上に見えるかもしれない。それに話し方もはきはきしている。
どうして二番目の奥さんが紗良といてやれないのか尋ねると「あいつ、浮気してんねん」と返ってきた。そんな女性と今も一緒にいる二番目の考えが理解できないけど、元から変わった人なので、そこらへんも相変わらずだった。養子を迎えておきながら浮気をするなんて、とその奥さんに批判的な意見を持ったが、他に好きな人ができたのなら、もうそれはしょうがないことだろう。恋愛ほど移り変わりの激しいものはない。
一年前の再会から、私はたまに紗良ちゃんを家に預かっている。
長くて一週間。短くて三日。
そのあいだ、紗良ちゃんは健気なほどしっかりしている。七つか八つだと思うけど、泣いたりわがままを言ったりしない。それどころか洗濯物や掃除など、率先して手伝ってくれる。あの二番目が育てていて、よくこんな子になったなぁと感心させられるのだ。
二番目と別れて、紗良ちゃんと近くのファミレスに寄る。
なんでも好きなのを食べていいと言うと、お子様ランチを頼んでいた。私はハンバーグ定食を注文する。家族連れで賑わっていて、そういえば今日は日曜日だったと気づいた。
紗良ちゃんは大きな目をクリクリさせて、どこか一点を見つめている。
なにを見ているのか気になる。何気なくそちらに視線を向けたけど、特に変わったものはない。ドリンクバーコーナーとソファ席があるだけ。
「紗良ちゃん、大きくなったなぁ」
「せやろ。うち、毎日いっぱい牛乳飲んでんねん」
「牛乳かぁ。私も好きやで」
「ほしなさんは背ぇ、高いもんなぁ」
私は168センチある。牛乳を毎日飲んだからではない。遺伝だ。うちの家系は高身長なのだ。
しばらくすると頼んだ料理が運ばれてくる。
オムライスに目を輝かせながら、口いっぱいに頬張る。子どもの食べるときの顔って、どうしてこんなに幸せそうなのだろう。だけど私は、特に子どもがほしいとは思わない。
熱々のハンバーグにナイフを刺し、切り分ける。一口を口に入れて、嚙み締めた。久々に食べると美味しい。恋人がうちに来ると、料理人なので彼がご飯を作ってくれる。そのとき、主に丼やパスタ、シチュー系が多い。手の込んだものは私生活であまり作りたくないのだという。
「最近、お父さんが、パパのこと話してくれるんやで」
「ん?」
突然の話の展開についていけず、首を傾げる。
紗良ちゃんはフライドポテトを咀嚼し、飲み込んだあと、「パパっていうんはな」と続けた。
「うちの本当のパパのことやねん」
「────なんて聞いたん?」
「うちには、本当のパパとママがおってな。お父さんとお母さんは、育ての親っていうらしいわ」
「そうなるなぁ」
「ほしなさん知ってたんか」
「うん」
頷くしかない。
けど紗良ちゃんは明るい。
「ふたりもお父さんがおるなんて、ラッキーやわ」
そう言っていた。
案外、この程度の年齢の子にとって、誰が親なのかそうでないのかなど、どうでもいいのかもしれない。一緒にいたい人が傍にいてくれれば、本当の親だとか育ての親だとか、関係がないのかも。
養子であるということも、紗良ちゃんは幼いなりに受け止めているのだ。
紗良ちゃんと家に帰ると、すでに恋人は出勤していた。
ご丁寧に「お邪魔します」と挨拶をしてから靴を脱ぐ。大きなリュックサックを六畳半の居間の隅に置いて、自分はどこに座ればいいのか迷っている様子で、立ち尽くしていた。もう二回は来ているのだが、他所の家で緊張しているのだろうか。
「ここに座り」
座布団を出すと、その上に正座する。けど足が痺れるのが嫌なのか、すぐに足を崩した。
「変わってないな。ほしなさんちの、匂いがするわ」
「どんな匂いやねん」
「なんか、懐かしい」
前回は半年前だったか。あのときも「懐かしい」と言っていた。なんなら、初めて来たときも。
コップにオレンジジュースを淹れて出すと、美味しそうにそれを飲む。
扇風機をつけて、しばらく二人ともぼーっとしていた。
静かだ。
紗良ちゃんはまた遠くを見ている。たまに自分の世界に引きこもることがあると、二番目が言っていた。何度呼びかけても応答しないのだと。目は開いて起きているのに、こちらがなにをしても反応がないらしい。
実は数か月間だけ小学校に通わせていたけど、それが問題で、本人が行き辛さを感じたらしい。授業中もどこかを見ていて、叱られているのに無反応。周囲から浮いて、からかわれるようになり、先生もお手上げ状態だったという。毎朝、腹痛を訴えるようになり、ひどいときには吐いてしまうため、行かせるのをやめたと言っていた。
「おうちでなにしよるん?」
ふっと質問を投げかけると、紗良ちゃんの肩が少しビクッとする。そして、私のほうへ向き直り、しばらく考えたあと、
「お父さんの仕事場で遊んだり、絵とか描いたりしてんねん」
「絵かぁー。なんか、紗良ちゃんらしいな」
「うち、ピアノも習いよんやけど、めっちゃ弾けるで」
「そうなんや。紗良ちゃんって、なんでもできるんやな」
得意げに笑う。えくぼができていた。
ああ、なんだか。
私は二番目の言葉を思い出して、暗い気持ちになる。
この子を残していった、本当の親たちのことを。
- Re: アンソニー ( No.25 )
- 日時: 2017/02/10 21:53
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
「紗良の親、死んどるで」
紗良ちゃんが初めて私の家に泊まりに来た日。彼女が寝静まった夜遅く、私は外国にいる二番目と電話をしていた。向こうはまだ夕方だった。
二番目は悪いことを今から話すという罪悪感からか、それとも疲れているのか、声が低く掠れていた。
「もともとうちのもんが子宮の病気で、子どもができんくてな。養子をもらおうって話になって、そこから登録とか、手続きとかして、やっと子どもと会うことができた。まだちっこくてな。ようけ泣きよった。そのとき、一度だけ、その子の親とも会ったんや」
この日の二番目はよく喋った。
これを逃せば、もう喋る機会もない。そう思っていたのかもしれない。
「まだ、14歳とかっていうてたなぁ。中学生にしては、もういろいろと世間を見てきとるって感じの子やった。泣きよる我が子を、なんにも感じてないような目で見てて、俺たちからしてみれば、不思議な子やった。産んでくれてありがとうと、うちのもんが言うたときも、なんでお礼を言うんやと聞き返しよった。それから、ああ、こうも言っとった。
その子の父親は、薬でラリった自分の友だちに刺されて死んだって──。殺された日から数か月後に妊娠がわかって、もう堕ろすこともできん状態やったから産んだ。それだけなんやって──」
言って、大きく息を吐いた。
私は、自分のなかにどんどん黒いものが溜まっていくのを感じた。それがなんなのか、今でもわからない。冷たくて、悲しくて、やりきれないもので溢れて、吐き気すら覚えた。
「これからどうするんやと聞いたら、どこか遠くに行くって言うてたな。遠くで、自分を知らん人間のところで、静かにおりたいって。別れ際も泣かんと、笑いもせんと、ほんまに人の心があるんかと思うぐらい、芯の冷えた子やった」
紗良ちゃんの出生を聞きながら、私は隣で眠る彼女が起きませんようにと心のなかで祈った。起きて、私の動揺する顔を見て、きっと彼女はすぐに察する。感じ取りやすい子だから、敏感に私の顔色の変化に気づくだろう。そして、子どもっぽく「ほしなさん、どしたんや。なんかつらいことでもあったんか」と言って、心配そうに顔を覗き込むだろう。
電話を切ったあと、私は、音が立たぬように襖を開けて、眠っている紗良ちゃんの布団に潜り込んだ。寝息をたてる彼女を抱きしめるように、腕を回す。あったかかった。せめてこの子が夢を見ているあいだは、満たされた幸福な時間が訪れていますようにと、普段は信じていない神様に願った。
一日目はずっと家のなかにいて、特になにをするでもなく、ダラダラした。今回の滞在日数は短く、明後日の昼には二番目の迎えが来る。
こう見えても私は社会人なので、平日は出勤しなければならない。
と言っても、私が勤めているのは、高校の同級生の営む雑貨屋だ。小春というそこのオーナーには、あらかじめこの日に紗良ちゃんを連れていくと、連絡を入れてある。
一階が雑貨屋、二階が自宅になっているので、そのあいだ紗良ちゃんは二階で見てもらっている。小春の母親が遊び相手になってくれているらしい。人見知りはしないけど、大人に気を遣うので心配だったが、紗良ちゃんも可愛い雑貨やぬいぐるみを見て楽しそうなので、こちらも安心した。
小春は穏やかで名前のとおり春に訪れる暖かい陽だまりのような子だ。私がデスクワークの日々で、目の下にクマを作り、嫌味な上司と度重なる残業で何度か倒れたときも、ずっと支えてくれた。離れて暮らす家族より、私を心配してくれていたと思う。けっきょく会社を辞めて、これからどうしようかと困っていたときも、「うちで働いたらええわ」と誘ってくれた。
小さな雑貨屋だけど、ネットなどで口コミが広がって、お客の出入りも多い。
仕入れてくる雑貨は珍しいものから洒落ているもの、流行りのものもあって、小春はセンスがいいと思う。
「しばらく会わんかったけど、紗良ちゃん、大きくなったなぁ」
「せやろ。牛乳、飲んでるねん」
一回目のときに連れてきたので、一年ぶりの再会になる。まだ二度しか会っていないのに、小春と紗良ちゃんは年の離れた姉妹のようだ。
営業時間は夕方の6時までで、そこから夕ご飯はどうだと誘われた。どうせ帰っても何もないのだし、お言葉に甘える。
可愛い木のテーブルに、生姜焼きとみそ汁が並べられる。調理師免許を持っているという小春の母親は料理が得意だ。私の恋人もそうだけど、周囲には料理に携わる人間が多い。三番目の兄も板前さんだし、従姉はどこかの保育園の給食を作っている。
紗良ちゃんはとても丁寧にお箸を使う。それはほぅっとするほど綺麗で、二番目が育てたとは思えないと再々疑念を抱かせる原因のひとつになっている。
「紗良ちゃん、これも食べや」
「めっちゃ美味しいねんで」
「おかわりいる?炊き込みご飯、あるからな」
「お母さん、ちょっと盛りすぎやわ。女の子はダイエットとか、気にしてるんやで!」
「ダイエット!?いや、まだちっこいんやから、痩せるとか気にせんの!」
小春と小春の母親のやりとりを耳にしながら、あたたかいみそ汁をすする。
これが、家庭の味か。
私も体験した覚えがある。ちゃぶ台を取り囲んで、から揚げひとつで争いを繰り広げていた。父親の雷が落ちて、一番目と三番目が号泣したこともある。二番目はそのときなぜか食卓にいなかったっけ。
紗良ちゃんはとても嬉しそうに食べていた。
ニコニコしながら。
なにを考えているのかわからない笑顔で、食べていた。
- Re: アンソニー ( No.26 )
- 日時: 2017/02/12 11:04
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
夏の夜空は星が瞬いていた。それぞれが自己を主張しようと、懸命に輝いているようだ。でも、残念なことに私の肉眼ではどれも同じに見える。
小春と母親に礼を言って、私と紗良ちゃんは住宅街を歩いて帰っていた。
暗くて少し怖いと紗良ちゃんが言ったので、しっかりと手を握っている。怖がりなのは知らなかった。街灯がチカチカと点滅している。そろそろ寿命だろうか。その光に集まる小さな虫たちが、ときどき顔にぶつかって痒い。
街はまだ起きているけど、紗良ちゃんといると、世界には私たち二人だけしかいない気がしてくる。この子を守れるのは私しかいない。私を必要とするのはこの子しかいない。そんな暗示に陥る自分がいて、首を横に振る。
「美味しかったな」
なぜか喋らない紗良ちゃんに話しかける。
無言の時間を苦痛と感じたことはない。だけど、なぜかこのときは、喋らなければと思った。
握る手の力が少し強まった。
「せやな。美味しかったな」
「紗良ちゃん、めっちゃ食べてたやん」
「だって美味しかったもん。うちでは、最近、ごはんとかないねん」
「そうなんや」
奥さんが浮気をしていると二番目は言っていた。もしそれが事実なら、家庭をそっちのけにして、男との逢瀬に費やしているのかもしれない。この子の気持ちも知らないで。二番目も二番目だ。外国なんかに行かず、この子の傍に居てやればいいのに。それか、紗良ちゃんも一緒に連れて行けばいい。私みたいなのにあずけたって、この子が気を悪くするばかりだ。
紗良ちゃんがもう少し大人だったら。
こうして自分の意見を主張していたかもしれない。
だけど、まだ彼女は幼い。
また私のお腹に黒いものが溜まってきた。それを払拭したかったけど、話題を逸らせばこの子から逃げていることになるかもしれないと思いとどまる。
「紗良ちゃんはお父さん好き?」
「好きやな」
「本当の親に会いたいとか、思ってへん?」
「あー……どうやろなぁ。わからんなぁ」
それは答えを濁しているわけではなく、本当に困っているようだった。
会ってどうすんねん。
そう言いたげだった。
「うちはひとりになりたい」
その言葉に、思わず目を見開いた。
ひとり、かぁ。
「どうしてなん」
「ひとりのほうが、楽やねんって」
「だれから聞いたん」
「アンソニー」
だれだ、それは。もしかして、絵本かなにかのキャラクターだろうか。
怪訝な私の表情に気づいたのか、慌てたように付け足す。
「と、友だちやねん」
「そうか。友だちなんやな」
「うん。うちの、たったひとりの友だちなんやけどな。コドクを、知ってんねん」
「孤独?」
「うん。うちも、孤独やねんって」
驚いた。すでに紗良ちゃんは、自分が「孤独」で「寂しく」て「ひとりぼっち」だと知っているのだ。
「うちはきっと大人になったら、いろいろ苦労するんやろうなぁ。心に、ぽっかり穴が開くかもしれん。でも、そうならんと、わからん世界もあるやろ。見えんことやって、ある。だったらうちは、いろいろなものを見たいんや。それで、もし、うちを産んだ人に会えたら、その話をするって決めとんねん」
「──それがどれだけ辛い話やっても?」
「辛い話やっても。それで、」
紗良ちゃんは笑う。
小春の家で見た笑顔とは違う、子どもらしい無邪気な笑顔だった。
「それで、よぅ頑張ったなって、抱きしめてもらうねん」
私は思わず彼女をきつく抱きしめた。
息ができないほど強く。
きっと、だれからも愛されていないであろうこの子の、記憶の片鱗に自分は抱きしめてもらえたという記憶が残るように。
苦しい、と小さく聞こえた。腕をほどくと、前髪が乱れた紗良ちゃんの大きな目が見えた。
「今日は一緒の布団で寝よか」
「ほしなさんと?ええよ」
明日、二番目が迎えに来たら、紗良ちゃんをあずかるのはもうやめると言おう。
二番目は「そうか」とだけ言って、もう連絡を寄こさないだろう。元から人間に対して執着しない兄だ。10年も連絡をしなかった妹に頼むようなやつなので、子どもの預け先の素性などどっちだっていいのかもしれない。
今夜が私と紗良ちゃんの最後の時間になる。
朝がくれば、彼女はあの大きなリュックサックを背負い、二番目と待ち合わせの場所へ向かう。別れ際、私に大きく手を振り「さよなら」と明るい笑顔を見せるだろう。
そして、孤独を背負い、ひとりぼっちの世界に帰っていくのだろう。
(完)