複雑・ファジー小説

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What A Traitor!【第2章6話更新】
日時: 2019/05/12 17:48
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: 日曜日更新。時間帯未定。

全てに裏切られても守らねばならないものがあった。



【これまでのあらすじ】
 十年前、アメリカンマフィア【アダムズ・ビル】の幹部であったリチャード=ガルコは拳銃自殺で死んだものとされていたが、彼は祖国イタリアの架空都市トーニャスにて契約金次第でどんな事でも行う裏社会の代行業者【トーニャス商会】の代表取締役を務めていた。
 リチャードの目的とは何なのか? そして究極の裏切りの末に笑うのは果たして誰なのか──。
 米墨国境の麻薬戦争を終えて、アルプスの裾野であるトーニャスにも寒い冬がやって来た。リチャードは旧友と呼ぶある男から連絡を受け日本広島へと向かうが、それはこれから巻き起こる戦争の幕開けに過ぎなかった。
 舞台は粉雪舞い躍る和の国日本へと、第二章継承編始動──。



閲覧ありがとうございます。
読みは【わっと あ とれいたー!】
作者は日向ひゅうがです。
ペースとしては大体300レスくらいで完結したらいいかな、くらいです。

【注意】
・実在する各国の言語やスラングを多用しております
・反社会的表現、暴力表現、性的表現を含む
・表現として特定の国家、人種、宗教、文化等を貶す描写がございますが作者個人の思想には一切関係ございません

【目次】
序曲:Prelude>>1

1.麻薬編~Dopes on sword line ~ >>3-33(一気読み)

2.継承編~War of HAKUDA succession~>>34-55
>>34>>35>>36>>37>>38>>39(最新話)

※全話イラスト挿入

用語解説&登場人物資料>>2(NEW1/26更新)

【イラスト】
※人物資料>>2へ移転
タイトルロゴ(リチャード)>>10
麻薬編表紙>>3
麻薬編扉絵>>30
継承編表紙>>34
参照2000突破リチャード>>14
参照3000突破ホセ>>21
参照4000突破シャハラザード>>28
1周年&リチャード誕生日>>35
参照6000突破ホセ>>38




※Traitor=裏切り者


since 2018.1.31

Re: What A Traitor!【第1章23話更新】 ( No.25 )
日時: 2018/10/18 23:50
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1035.jpg

ⅩⅩⅢ

 ——米墨国境、密林最前線基地にて。

 光を通さない分厚い膜の中、彼女は祈るように身体を縮こめていた。
 ファティマは現在一人で基地のテントに籠もっている。
 狭い空間に熱気が立ち籠めて気道を塞ぐ、髪と肌を隠す漆黒の布が素肌にじっとりと張り付く。ここは環境こそ違えど故郷の灼熱気候とよく似ていた。
 しかし幼い頃の記憶は靄がかかったかのようで明確に思い出すことは出来ない。ただ確かなことはファティマ=ムフタールという名前とアフガニスタン出身という事実のみ。
 ファティマは独り瞳を伏せ、翡翠と形容されし虹彩は翳りを見せた。そして長い袖の中で汗ばむ拳を握りしめる。
 ロバートから手渡されたのは迷彩柄の隊服だった。屈強な猛者共が集う【onyx】には大柄な隊員が多く、それが彼女の体格に合わせて作られた特注品であることは容易に伺えた。現在テントに残されているのは敬虔なイスラム教徒である自身に配慮してのことだろう。
 あの人はいい人、とファティマはそう思った。副隊長であるロバートは多くの戒律と共にあるイスラム文化を理解し受け入れてくれた。隊服を受け取って説明を受けた時も頭の布は被ったままで大丈夫だからと付け足された。
 徐々に外では太陽が昇りゆく。ニカブによって口と鼻が外界と遮られているせいで呼吸が苦しい。
 酸素を求めて上体を起こすと朽ちたパイプ椅子が音を立てて軋む。彼女の姿はまるで肉の揺り籠の中で外の世界を待ち侘びる胎児のようだった。
 ファティマはムスリム女性の着用する漆黒のローブであるアバヤ、そのポケットからカバーの付いた小さなナイフを取り出した。息を大きく吐き、そっとカバーを外す。
 眉間に皺が寄り、翡翠を嵌め込んだような瞳は痛みに耐えるが如く苦悶に揺れた。小振りな刀身が彼女の瞳を映して鈍く輝く。
 緑色の歪んだ輝きを受けて間髪入れずに手の震えが訪れた。指先で摘まんだ滑らかな生地は波打ち、蠕動ぜんどうする。
 そしてファティマは長い袖を捲り上げた。
 
 露わになった彼女の左手首には幾多もの裂創が奔っていた。

 完全に塞がって薄い線だけになったもの、深く傷付けられ肉が隆起したもの、負荷を重ねて赤黒く色素沈着したもの、そして治癒途中の生傷。
 腕を覆い尽くすまでの傷はもはや肘窩ちゅうかにまで達している。彼女の生きる世界にて不浄とされる左手だけを傷つけた結果、ファティマの左手首は蛇腹のように醜く変わり果てていた。
 しかし【彼女】を呼ぶ為に目は背けられなかった。戦場において自身が成せることはこれしかなかった。
 ファティマは祈りの言葉と共に、手首へと刃を押し当てる。

「お願いします……」

 そして更に力を込め、塞がりかけた傷を薄い刃物でこじ開ける。
 柔肌を裂いて。内なる肉を曝いて。神経を辿って。意識の奥深くまで。決して目を逸らすなと涙で滲む世界に声無く吼える。
 刹那の痛みなどもう怖くなかった。切り付けるナイフとまた一つ壊れていく手首をファティマは涙ながらに睨み付ける。
 押し進めた刃物を自身から離してしまうと、皮膚が捲れて割れた肉の隙間が此方をじっと見ている気がした。ぬめぬめとした液が爛々と光る双眸のようで、嫌な筈なのに不快な筈なのに目が離せない。
 そしてファティマは心臓からせり上がる血液の奔流を感じた。中枢神経は握られ、何者かの支配に呑まれゆくのに逆らうことは出来ない。
 つぷ、と血液が玉になって傷口から溢れるのを見届けると彼女はそのまま赤と緑が点滅する激しい目眩に身を委ねた。



「しっかし女は準備に時間が掛かるねェ」

 朽ちた木に腰掛けたディンゴは頬杖を突いて唇を尖らせた。
 現在ディンゴ、ロバート、そして浩文の三名は最前線基地から少し離れた場所でファティマが隊服に着替えるのを待っている。浩文は既に普段のスーツから支給された黒いスポーツインナーと迷彩の隊服に着替えを済ませていた。
 常に隊列の最後尾にて構える【onyx】司令塔のディンゴは成り行きで、商会員の世話役であるロバートは再度作戦について確認する為基地に残っている。この奇妙な取り合わせは戦闘直前の精神が張り詰めた中にて彼女の同朋である浩文も一緒に居た方が安心するだろうというロバートの判断だった。
 本拠地には簡易的な武器庫も併設されており銃火器は勿論各種弾薬の補充も出来るようになっている。
 浩文は愚痴を零すディンゴを一瞥して、無感情に言い放った。

「いえ彼女はそういうわけじゃないと思いますよ」
「アァ?」

 その時、三人はテント入り口の布が擦れる音を背後で聞いた。どうやらファティマが着替えを終えて出てきたらしい。
 テントに背を向ける形で三つ巴になっていた三人はほぼ同時に彼女を振り返った。
 ファティマに言葉を掛けようとしたロバートは息を呑み、浩文は視線の先にいる彼女を昏色の瞳で見つめる。
 そしてディンゴは低い声で誰に言うでもなく呟いた。

「——成る程ナ……【コレ】か。あの時感じた違和感はヨォ」

 初めて【トーニャス商会】を尋ねたときリチャードと商談をする傍らにて事務所に入ってきた。第一印象は育ちの良さそうな、そして何の邪気も感じられない少し鈍臭い女。
 最初は経理か情報を請けもつ事務員とばかりに思っていたのだ、商会の戦闘員だと聞いたときには酷く驚いた。何故なら手を血に染め闇に浸し続ける人間特有の漏れ出る殺気と決して隠せない血の臭い、それらを微塵も感じられなかったからである。
 疾うの昔に前線から退いたイタリア人からも、見た目には礼儀正しい中国製眼鏡からも、猛獣にはなりきれない小さなチワワ犬からも、それは例外無く漂ってくる。
 あのときディンゴを襲ったのは違和感だった。この女が果たして人間を殺すことが出来ようか、と。
 そしてその答えはいまディンゴの目の前に顕現した。

「四つ目の兄ちゃん。ありゃあドコのどいつダ? オレらのプリンセス=ムスリムは一体全体【何処】に行きやがったンだ……?」

 ディンゴの問いに浩文は声帯を引き絞るようにして言った。

「ファティマさんは……【彼女】で間違いありません。しかし、今立っているのは——」

 そして【解答】を寄越す。

「明日をも知れぬ千夜一夜を生き抜いた、領せる地の麗しき姫君。その名を冠する【シャハラザード】です」

 彼女はニカブを被っていなかった。
 鬱蒼と茂る密林にて滅多には吹き込まない風に彼女の長く豊かな髪が躍る。緑地帯からの照り返しと青々とした葉を透かす木漏れ日によって波打つ髪の所々が瞳と同じ緑色の輝きを持った。
 袖の無いノースリーブ型のブラックインナーが翡翠色の光沢を持ち、小麦色の肌が露わになっている。黒いアバヤに秘匿されていた彼女の秘密。
 少し歩くだけで彼女の豊かな胸部は揺れた。豊満な肉付きではあるもののそれら全ては決して脂肪分のみで構成されているわけではない、腹筋や二の腕はネコ科の猛獣を思わせるしなやかな筋肉で覆われていた。
 彼女は虚空に手を伸ばし、東の空を昇りゆく太陽に目を細めた。
 瞳を縁取るキャットラインには平生の彼女と比べて明らかな険がある。しかし一切の曇りが無い翡翠色の虹彩は紛れもなく彼女と同一のものだった。
 彼女は三人に気付いていないのか、それとも気に留めてさえもいないのか、場所を覚えるようにテント付近をゆっくりと歩き回っている。
 ロバートは【シャハラザード】と呼ばれたファティマを食い入るように見つめた後、禿頭に冷や汗を浮かべ浩文を振り返った。

「シャハラザード、だと? ファティマさんは多重人格……解離性同一性障害なのか」

 浩文は横に首を振って静かに応えた。
 
「詳しいことは分かりません、私と出会った時には既にもう。【onyx】隊長、そして副隊長。部外者である私がお願い申し上げること、それが失礼にあたる事は重々承知していますがここから先をどうか【良く聞いて下さい】」

 浩文は遠くの彼女を一瞥する。
 ロバートは浩文の言葉に首肯し、ディンゴは黙ったまま彼女の様子を窺うだけだった。

「刃渡りや武器が持つ殺傷能力にどれくらいの制限があるかは不明ですが、彼女は……ファティマさん自身の手で凶器を握ること、自身の血を見ること、そして最後にファティマさんの意思決定によって表面に出てきます」

 主人格がファティマであることは間違いないらしい。
 いきなり出てきてはいそうですかとまるごと信じることなどロバートには出来なかった。今まで隠されていた顔立ちが明かされた驚きが予想以上に大きいこともあったが、それとはまた異なるベクトル。
 やはり纏う雰囲気は別人のものだった。控えめに柔和な笑みを浮かべていた彼女の面影など何処にも感じられない。唯一神への崇拝を捨て、漆黒のアバヤに隠された彼女の闇を一身に背負う【彼女】。
 自身を傷つけ顕現を願う。まるで生け贄のようだ、とロバートは眉間に皺を寄せた。

「今のファティマさん……いえ、シャハラザードに複雑な英語は通じません。意思疎通は可能ですが彼女が理解するのはアラビア語と簡単な英単語。そしてそれらを用いた極めて簡略な文構成の英語のみです」

 そして浩文は深く息を吸い込んで、小さな声で隊長と副隊長の両者に告げた。

「勿論本名の呼び掛けにも反応しません。特に……彼女の姓である【ムフタール】。これだけは絶対に何があっても口に出さぬようお願いします」

 浩文は彼女の姓を口にしたとき最も声量を落とした。
 ちらとシャハラザードを見遣るが特に変わった様子はなく、豊かな髪を揺らしながら歩き回っては樹木の幹に触れたり空を見上げたりしている。
 彼女の様子に安堵するかのように浩文は息を吐いた。

「何故だ」
「何故かは私にも解りかねます。しかし、以前一度だけ戦闘時に姓で呼んでしまった際には酷く激昂し手が付けられなくなりました」

 そして苦虫を噛み潰したような顔で力無く笑う。

「殺されるかと思いました。比喩でもなく、誇張でもなく」

 一体何が引き金となるのか分からないが仲間まで殺めようとしたシャハラザードの狂気にロバートは生唾を飲み込んだ。

「彼女は他者の命を奪うことへの躊躇、そして自身が死ぬことに対して何の躊躇いも無いんです。彼女には失うものも行く先を阻むものもない」

 再び南風が密林を吹き抜けた。長年生きる幹を震わせ、天に伸びる幾重もの枝を揺らし、老いた枯茶は落葉する。
 浩文は咳払いをして、二人に確認した。

「気を付けるべきはこの二点です。シャハラザードには簡単な英語を使うこと、そして姓の件。これらの性質からいって統率を重んじる【onyx】の闘い方と相性が良いとは言い切れませんが」
「臭うわ」
 
 彼女は浩文を遮るように、シャハラザードとして初めて言葉を発した。その手には彼女の為に用意された小銃が二丁握られている。
 平生のファティマよりも低く、ざらついた声質。しかし良く通る声だった。

「鉄と火薬の臭い」
「ね、行きましょう」

 そして振り返る。翡翠を嵌め込んだような瞳が三人を射貫いた。ぎらつく木漏れ日が彼女の虹彩に射し込み、木陰の合間で爛々と光った。
 浩文は言いかけた言葉を紡ぎ出す。

「彼女は強いです。間違いなく。そして何よりも恐ろしく狡猾で勘が働く、作戦遂行の邪魔にはならない筈です」

 今まで黙って浩文の話を聞いていたディンゴはそこで初めて口を開いた。

「——ハハハ、たまんねえナ。イイ身体してンねえ」
「な、何を」

 あれほど彼女について伝えたのにこの男は、と浩文は呆れかえるしかなかった。
 彼はシャハラザードを品定めするように視線を滑らせ漆黒の巻き毛を弄ぶ。
 浩文は眼鏡の奥の黒い眼を細めてたしなめるようにディンゴを見た。相変わらず舐めるような視線と淫猥に引き攣る左頬、しかし彼が纏う雰囲気は全く違うものへとその色を変える。

「ま、勿論その香り立つような危険な色気もそうだガ……目眩を起こすほどキツイ血と臓物の匂いが、ナ」

 光を拒む三白眼の強膜は凶刃が如し波紋を呼び、瞳は深い闇と深淵を湛える。その瞳は南米を手中に収め、神話の頂点に君臨するゆうの余裕をも映した。
 無彩色と対をなす赤い舌が傷の入った唇をゆっくりとなぞる。さながら猛獣が虎視眈々と獲物を窺うように。
 彼らはシャハラザードと向かい合ったままで暫し膠着状態が続いた、しかし。

 突如、爆発音が密林に轟いた。

 遅れてやって来る爆風の余波が彼女の髪を巻き上げる。
 薄い緑色に煌めく髪が重力に従って彼女の肩に落ちると、シャハラザードは首を傾げて微笑んだ。
 翡翠を囲む睫毛は刃物のような鋭さを湛え、口元に貼り付けられるのは冷酷な微笑。
 
「あら。それではお先に」

 彼女は爆風がやって来た方向へと駆け、疾風のように密林の奥へと潜り込んでいった。
 ロバートは濃い緑に溶けゆくシャハラザードを目で追っていたが、かぶりを振って二人に言った。

「隊長、浩文さん、今の音はビルの連中です」
「ええ、そのようですね。さっきの爆音から察するに敵方はかなり大がかりな装備で国境を攻略しようとしている。包囲網に合流するなら早いに越したことはありません、私達も行きましょう」

 浩文は傍らに置いていた銃火器を手に取ると、ロバートの瞳を見据えて首肯した。
 しかしディンゴは朽ちた切り株から立ち上がろうとはせず、首から提げたオニキスの革紐を指に巻き付けながら言った。

「アー、三日前の作戦会議で言ったコト覚えてっか?」
「勿論です」
「ええ」

 それは『【onyx】にしか出来ない勝ち方がある』と先日彼が言っていた内容に他ならなかった。
 作戦内容も把握している。
 また浩文にとってその作戦は目から鱗が出るほど意外なもので、確実に【アダムズ・ビル】の戦力を削り取り国境付近にて長年に渡るビルとカルテル両者の衝突を終結させる可能性を秘めていた。
 成る程この作戦ならばビルとカルテルの間に立ちはだかる兵力の差を一気に覆すことも可能だろう、と。しかし問題は【相手がチキンレースに乗ってくるかどうか】であり、作戦遂行の全ては相手次第だった。
 今は歴戦の【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】を信じるほかない。
 ディンゴは低い声で告げた。

「そンなら良い。全部あのまま変わンねェ」

 浩文でもなくロバートでもなく真正面をひたと見据えるディンゴの瞳にやはり光は宿らなかった。
 ロバートはおずおずと尋ねる。

「隊長はいらっしゃらないので?」

 ディンゴは片目を閉じると、左手をひらひらと振って左の口角を不器用に上げてみせた。

「オレぁいっつも最後尾の殿しんがりだろ? 行っちまいナ、すぐ追いつくヨ」
「……分かりました。では浩文さん、行きましょう」
 
 浩文は迷い無い瞳でロバートに応を寄越す。
 そしてディンゴは二人が包囲網に合流する為に密林に消えたのを見届けると、腫れぼったく厚い一重瞼を閉じた。
 ディンゴには国境戦争とは別の、もう一つの戦いが残されていた。
 刹那の追憶、これまでの人生が走馬灯のように中枢を駆け巡る。
 己の首が落とされようとも地に堕とすことは許されない首の黒瑪瑙。返り血を浴び吼える自身と一面に広がる血液と臓物。そして守れなかったひとりの愛しい人。割られても決して割らなかった口。
 左頬に刻まれたのは傷だけではなかった。喜びも怒りも哀しみも、生きる意味も、愛も。
 しかし今となってはそんなもの何処にも残っていなかった。当時を思い返す度に彼の左頬は疼痛を起こす。
 さあ感傷は終わりだ、と野犬は瞼を開けた。
 そして隊服の胸ポケットを探り髪紐を取り出す。

「は、失うモンなンざオレにも無えヨ。どこまで歩いて行ったって棺桶をねぐらにする死人に過ぎねェ」

 乱雑に巻き毛を括ると、裂創の奔る首筋が露わになった。
 続いて腰ポケットを探り、煙草のソフトケースと銀色のライターを一緒くたに掴む。
 そして歌うように朗々と、しかし牙を突き立てるように低く鋭く。

「生きてぇヤツから殺してやるヨ」

 火を点け、煙草の吸い口を犬歯で噛み潰す。
 再び爆風が本拠地まで吹き込んできた。これ以上縄張りで好きにされるわけにはいかない。
 熱風によって前を開けた隊服が翻り、内に仕込んだ凶刃と弾薬が鈍く輝く。
 そして腰のガンホルダーに手を掛けた。
 彼がグリップを握るは、光を拒む彼の瞳と同じ色をした漆黒。野犬はトカレフTT-33の安全装置を跳ね上げた。

「さァカチート共、涎垂らしてイイ声で啼いてみナ。案外——おっ勃つかもしンねえぞ?」

 遂に戦禍の火蓋は切って落とされた。

ⅩⅩⅢ

Re: What A Traitor!【第1章23話更新】 ( No.26 )
日時: 2018/10/21 20:36
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1046.jpg

ⅩⅩⅣ

 単騎、翡翠色の疾風を纏う。

「なぁにそれ。象でも撃つの?」

 突如現れた刺客に【アダムズ・ビル】の歩兵は目を剥いた。

「では御機嫌よう」

 シャハラザードは一瞬の躊躇いもなく敵の頸部にダガーナイフを突き立てた。正中線を切り裂き、甲状軟骨まで刃を奔らせる。
 柔い首肌と空っぽの気道を割る感覚に愉悦を抱きながらも、力の要る喉仏に突き当たると唇を尖らせて勢い良くダガーを引き抜いた。
 敵兵は眼球を白黒させながら口から鮮やかな血の泡を吹く。濁音とノイズは溢れる血液に溶かされ叫ぶことすら許さない。
 幾ら喀血を浴びようともシャハラザードは拭う素振り一つ見せず、むしろ恍惚とした表情で血の間欠泉に迫った。眼底から不気味に光る翡翠と彼女の頬に注ぐ鮮血の色彩比に目眩が舞い込む。
 そして刃を抜かれて制御を失い彼女側に倒れ込もうとする敵兵の鳩尾を無慈悲に蹴り飛ばした。

「防弾ジャケットも無しによく肉薄できるな……」

 ロバートはシャハラザードの戦い方を見て、誰に言うでも無く呟いた。
 彼は浩文と共に包囲網の最も外側を形成しており自動小銃を傍らに置いている。
 開戦してからある程度敵兵の数が捌けるまではシャハラザードが単騎敵方の懐に飛び込み、撹乱した後に包囲網から射撃を行うといった作戦形式をとっていた。
 現在、第一の掃射が終わり小銃掃射部隊の第二隊との入れ替わりと立て直しを図っている最中だった。
 しかし【アダムズ・ビル】との兵士数の数は十倍にも及んでおり【onyx】の作る包囲網はどうしても薄くなってしまう。鼠の子一匹通さない彼らの強靱な包囲前線は普段の力を発揮できないでいた。
 当然一斉射撃にも隙が生じてしまう。
 ジャングルにおける戦闘、即ち密林戦は市街戦とは決定的に異なる要素を持っていた。
 硬い幹を持つ樹木が鬱蒼と生い茂り、伸び放題の蔓と蔦が視界を遮る。足下では泥のぬかるみに足をとられ、低木層帯の草木が移動の障害となる。走って移動することもままならない音を立てずに隠密行動に徹するにも適さない土壌だ。
 人間が鉛玉と躍るには到底相応しくない舞台だった。
 しかし【onyx】の人間は密林にて敵を下すために特化した訓練を積んでいる。【アカプルコ・カルテル】の資金源であり武力の要衝であるドラッグプランテーションの守護神として南米の裏史上にその名を轟かせていた。
 カルテルの要を潰そうとする相手方は必ず歩兵だ。国家が抱える軍隊でも無ければ民間の職業軍人でも無い。農薬散布を行うヘリコプターへの対策は考えなくとも良かった。
 現在撃ち方は止め。
 浩文はロバートに答えた。

「動きにくいんだそうです。防弾繊維で出来た装備を渡した事もあったのですが『重い』とその一言だけ。すぐさま突き返されましたよ」

 彼女の戦い方には合わないんでしょう、と浩文は鉄火場に目を向けた。
 シャハラザードの猛攻は依然として止まらない。
 樹木から樹木へと飛び回り、突然目の前に現れる人型を大型の銃を構えるビルの歩兵たちは捉えきれないでいた。
 太い幹を足場に、太い蔓を命綱として上空からも攻撃を行う。自らをカタパルトのように蹴り出す為に滞空時間は短く、隙は少ない。
 敵の懐は彼女に支配されているかのように見えた。
 しかし今対面しているビルの部隊はほんの僅かな表層に過ぎない。今矢面に立っている兵士たちを倒したところで次から次へと湧いて出てくる。
 ビル側にとっては一人二人の死傷や消耗など関係無い、幾らでも戦力補充が出来る人数を抱えていた。
 一方【onyx】は個々人の連携の上に成り立っている。三十しかない命、一人の生死が戦況を分けるのだ。替えなど一切効かない。
 それがビルとカルテルの間にそびえ立つ、どうにも解消出来ない兵力の壁だった。
 掃射部隊の第二陣が形成されると、シャハラザードは第六感から自身の背面にある味方の陣を一瞥した。
 火薬と金属を詰めた鉄。自身へ銃口を向けている。その指は引き金に掛けられている。いつ発砲されるかとも知れぬ攻撃姿勢。
 しかし彼らが撃つのは決して自分ではない、自分と同じ敵、自分が殺さなければならない敵を彼らは殺す。
 シャハラザードは赤い唇を蠱惑的に歪めると緑色を映す濡れ羽色の髪を翻し、火線の外側へと撤退した。
 ロバートは彼女が弾幕の及ばない所まで退くのを視認すると、大声を張り上げた。 

「Fire!(撃て!)」

 小機関銃の顎門が火を噴く。
 連続する薬莢の排出に鉄の銃砲は噴煙を上げた。呼吸する度に噎せ返りそうな程の量の硝煙が鼻に舌にべったりと付着する。
 しかし煙が晴れると、すぐさまにビルから反撃の銃弾が【onyx】の脇を掠め始めた。
 四方八方に展開される【onyx】の弾幕は十数人の歩兵を戦闘不能に追いやり、数人の身体の一部を吹き飛ばしていたものの所詮その程度でしかなかった。三百の兵を捌ききるのはとてもではないが威力が足りない。
 平生よりも密度の薄い弾幕では決定力に欠けた。
 シャハラザードも敵方を上手く撹乱してくれていたがそれだけではいつまで経っても敵方勢力を削ぐことは出来ない。
 流石目下急成長中の大組織、【アダムズ・ビル】といったところだろうか。歩兵各々の戦闘能力は決して高くなく烏合の衆であることには変わりないが、それでも確かに一筋縄ではいかない歯応えがあった。
 いつもとは違う勝手に対してロバートは歯噛みする他なく、樹木の幹にて銃弾をやり過ごしつつ敵方を睨み付ける。

「埒が開かんな……」

 止まぬ銃弾の雨、確実に不敗神話【onyx】は押されつつあった。
 【onyx】の強さは単純な戦闘力だけではなく表舞台には決して立たないという隠匿性にもある。
 しかしあらゆる角度の情報から研究し尽くされたかのように、高度な戦略性を持つ【onyx】の爪牙が【アダムズ・ビル】には通らなかった。

 突如弾幕が途切れ、茂みから血飛沫が上がる。シャハラザードは未だ捌けたまま刃を振るっていないにも関わらずだ。
 悲鳴も無く鮮やかな赤が点々と次々に弾けた。柔く熟れた石榴が如く人間の頭部が潰れゆく。
 鉄火場に乱入した鉄灰のホローポイントは慈悲無く生命を喰らった。
 ホローポイント弾とは弾頭の先端に空洞くうどうを有する弾丸であり、円錐型のフルメタルジャケットには無い潰れや切り込みが描かれている。
 拳銃の弾丸として広く使用されるフルメタルジャケットは貫通力に優れているが、ホローポイントは着弾時の弾頭の変形により貫通せずに体内に留まる事が多い。
 そして対象物に着弾すると弾頭が炸裂膨張し、身体に深刻な損傷を与えるような機構を持っている。
 内なる肉に鋼鉄の華が咲いた。
 飢えた野犬が身体髪膚を漁るかのようにホローポイントは獲物の肉を食い散らかす。
 烈火を噴くは死神TT-33トカレフ、即ちディンゴの得物で間違いなかった。
 ロバートは勝鬨の如く雄々しく叫ぶ。 

「隊長!!」

 硝煙と茂みの奥にて浩文はその時初めて南米の頂点に立つ男、ディンゴの闘いを見た。
 ホセがストリートでの戦闘を経て培った疾手と閉所戦闘の技術やシャハラザードの第六感に依る動き、そのどれにも似ているようで、しかし全く異なるものだった。
 【野犬】と揶揄され、又畏怖される彼の戦闘技術は違和感などという言葉では生ぬるい、異質そのものだった。
 ビルの隊員は肉薄するディンゴに対し、小銃を下ろし拳銃の銃口を向ける。
 混戦の中、浩文が目にしたのは独特な構え。前傾姿勢をとる類を見ないその構えは密林の最奥に棲まう猛獣を思わせた。
 木々の陰を縫い、発砲、装填、そのヒットアンドアウェイを繰り返す。
 多対一の構図をものともしない彼の白兵戦闘。ホローポイントは確実に一人また一人と鋼鉄の華を手向けに葬り去った。
 背筋の凍て付きと違和感を超越する異質感の正体は、密林戦における彼と土地の恐ろしいまでの調和だった。 
 単純なスピードではおそらくホセの方が勝っている、勘ならばシャハラザードの方がきっと働く、単純な射撃精度ならば浩文に軍配が上がるだろう。
 しかし密林においては彼の独擅場だった。
 フルメタルジャケットの乱痴気な土砂降りでは漆黒の一陣となった彼を止めることが出来ない。常人では仇となるはずの視界不明瞭と遮蔽物をディンゴは全く問題としなかった。
 一生を懸けても辿り着けない彼の領域。寧ろ、彼の真骨頂はこの混戦にあった。

「──クソが」

 しかしディンゴは苛立たしげに左頬を歪めた。
 一人の兵士が拳銃を放り投げ、腰ホルダーに収められた小型の短機関銃に手を掛けたのを見たのである。
 肉弾戦において完全なるアンプレディクタブル。白兵戦におけるセオリーの崩壊。
 そして拳銃の代わりに構えられた機関銃は超至近距離で発砲された。
 幾多もの円錐形の凶器がディンゴに向かって牙を剥く。銃身から蹴り出される桁違いの数の薬莢。射出される凶弾は大地を抉り土煙を呼んだ。
 戦場では一度の瞬きですら生死を分ける。機関銃という突発的なイレギュラーに対して、ディンゴは一度思考をクリアにすべくまばたきの時間を挟んでしまっていた。
 数々の弾丸の中でも一発の弾丸がスローモーションに移ろい、金属光沢を鈍く放つ。意図せぬ弾丸は彼の心臓を狙った。
 ディンゴは瞬間的に下肢に力を込め上体を反らす。しかし一拍が仇となり、完全に躱しきれなかったフルメタルジャケットは彼の左前腕を掠めた。
 そして肉ごと皮を削ぎ落とされる。
 弾頭がめり込み、表皮組織を分断。触れた部位から根刮ぎ喰らう瞬間空洞、そして弾丸の軌跡である永久空洞が彼の皮膚を容易く引き裂いてみせた。
 命に別状が無ければ幾らでも被弾する、だがその分何倍にも返してやれ。という信条が彼の闘い方であった。
 幾千もの傷をこの身に受けようとも決して慣れることない痛みに奥歯を噛み締めた。遅れて命の奔流が腕から流れ出した。
 しかしそう易々と止まってもいられない。
 そろそろ第三波が来る、とディンゴは射程外へと流れる血はそのままに密林の中をひた走った。
 
 そしてロバートの声がこだまする。

「第三陣! 撃て!!」

 三度目の掃射。
 第一陣と変わらぬ熱量と弾幕、しかし硝煙が晴れてもやはり血煙が上がることは無かった。
 ディンゴは時間ギリギリで飛び込んだ大樹の木陰に身を潜め、肩で息をする。

「チッ、クソッタレめ。ま……よくもった方ではあるかねェ」

 ディンゴは隊服ジャケットから無線機を引っ張りだし、唇を寄せた。

『ボブ、聞こえっカ』

 ロバートからすぐに応答が返ってきた。

『はい、聞こえます』
『おう上等ダ。そンならヨ、後退しろ』

 後退。これが意味するところが分からない彼では無かった。

『……分かりました』

 そして、静かに無線機を切る。
 隊長の命を受け、そしてロバートは力の限り叫んだ。

「Go astern!!(後退!!)」

 ロバートの号令と時を同じくして【onyx】が動いた。
 蜘蛛の子を散らすように国境南側へと一斉に駆ける。脇で控えていたシャハラザードも豊かな髪を翻し彼らに続いた。
 戦略的撤退、しかし敵方に背を見せた事は変わらない。
 【アダムズ・ビル】も状況確認を経た後に【onyx】隊員らを追う。いつぞやの小組織とは全く異なる、冷酷なるチェイスだった。
 本拠地にて分かれて戦場に来てから一度もディンゴを近くで見ていない、とロバートはふと思った。遠目で詳細は分からなかったが確かビルの凶弾に被弾していた筈だとも。
 号令を出したロバートは隊員らと共に行動することなく、ブッシュに身を隠してビルの歩兵をやり過ごした。
 ビルの軍勢は過ぎ去ってしまうと、彼はディンゴがまだいるであろう国境北側へと走った。

 ビル兵士の血の池のすぐ近く、大樹の陰にディンゴの姿を見つけることが出来た。
 彼は大樹に凭れて座り込んでいる。

「隊長、左腕から出血が……やはり被弾していたのですね」

 ディンゴはぼんやりと前をみながら、ロバートの声に答えた。

「ア? こンなの掠り傷だヨ」

 しかし彼の言葉とは裏腹に、抉られた傷口からの出血が止まらなかった。心臓が脈打つ度に赤く生命が流れ出す。
 ディンゴの黒いインナーの袖は更にその色を濃くし、どす黒く血に濡れる面積を押し広げていった。
 彼は一つ舌打ちをして踵を返し、右手をひらひらと振った。

「唾つけときゃ治ンだろ」

 しかしロバートの顔には緊張と焦りの色が浮かんでいる。
 どんな状況でも動じる事なく隊を牽引してきた彼だったが、そのヘーゼルカラーは不穏に揺れていた。煤けた頬と身体に跳ねた泥と返り血が今回の密林戦の苛烈さを物語っている。
 ロバートは銃声の止まぬ南方向を忌々しげに一瞥すると額の汗を拭った。

「隊長、やはり頭数を減らさないうちにはどうにも」
 
 ディンゴは一度もロバートの顔を見なかった。
 隊服の胸ポケットからガーゼを取り出し、口と片手を使って器用に傷口付近を縛った。
 そしてロバートの言葉にも返答は寄越さない。
 息を大きく吐いて天を仰ぐ。


「──本当はアイツのいねェうちに終わらせるつもりだったンだけどナァ……」


 一切脈絡の無い一言。
 逼迫した戦場には到底似つかわしくないような間延びした声にロバートは眉を顰めた。

「隊長?」

 しかしディンゴは空を仰いだまま、疑問符の乗ったロバートの言葉を無視して続ける。

「悪いコトしたとは思ってンだヨ、コレでも一応」

 そして深く息を吸い込んだ。
 正午の位置にて最高点を陣取る太陽が彼の虹彩に映り込む。

「アイツにも覚悟があったンだ。自分の家族とその居場所を守る権利も、ナ。……ハァ、ソレを踏みにじって立場で無理やり抑え付けてヨォ」

 ディンゴは縮こまった自身の瞳孔を、鋭い陽光から守るように傷だらけの手で目を覆った。
 
「でもどーせオレにゃヒトの気持ちなんざ分からねェしヨ。もうちょい上手くやれる方法があったンかもしれねえと考えたコトもあったガ……」
「いつの間にかあんなこまっしゃくれたガキに情が移っちまったンだろナ、情けねえ話ダ」

 無骨な指の隙間から遮りきれずに漏れ出た陽光が射し込む。
 褐色の皮膚に透かされた光は真っ赤になってディンゴの網膜に焼き付いた。

「隊長失格かねェ。難しいモンだナ、全く」

 もう片方の手で首から提げたオニキスの首飾りを革紐に沿ってなぞり、先端に結わえられた黒瑪瑙を指先で撫でる。
 瞳と同じ黒を湛えた宝石に触れる指先は優しかった。しかし革紐は経年劣化が激しいのか所々が傷んでいるようでひびが目立つ。
 そして、左頬が自嘲気味に引き攣った。

「だけどヨ、炙り出すのにも徹底的に洗うのにも思った以上に時間がかかっちまったンだ。1年ダ、1年。天下のカルテルが笑わせやがるゼ、クソッタレ」

 爆音を伴う銃弾の音は遠くに、彼の異質な笑い声だけが天高い蒼穹に消えていった。

「アイツんトコならあンの犬っころもちったぁ満足するかと思ってヨォ。アー、オメエに懐いてッだろ。だーからこンなまどろッこしいコトにもなってンだけどナ。どっかしら似てンだろうヨ」






「その上っ面だけには」






「────先程から一体、なんの、話を、しているのですか」

 ロバートはディンゴに一歩歩み寄ろうとした。隊長という彼の肩書き、その呼び掛けが喉奥まで出てきてつんのめる。
 そして、彼のひび割れた口元から笑みが消えた。
 ディンゴは目を覆っていた手を退け、苔むした袋小路に至って初めてロバートを見る。

「オイ」

 強膜は充血し、濁った赤に囲まれた漆黒は彼を射殺さんばかりに見開かれていた。

「今すぐその汚え口閉じろヨ……オレぁ銃でテメエを喰いたくねェ」
「ほ、本当にどうされ」

 野犬は唸るように低く突き付けた。

「【アダムズ・ビル】戦略部門工作員、ロバート=コスター」

 ディンゴに歩み寄るロバートの足が須臾に止まる。両者の間、彼の足下で何かが割れる音がした。
 何ということは無い。その正体は唯の朽葉だった。

「忘れたとは言わせねェ」

 対するディンゴは木の幹に手をついて立ち上がる。 
 赤血と漆黒の混淆。ヒトの形をした獣。

「テメエだけはこの手でハラワタ引き摺り出して嬲り殺しにしてやる……必ずダ」

 逆光の中、野犬はこの瞬間の為だけに人生を賭して砥ぎ続けてきた爪牙を剥いた。

ⅩⅩⅣ

Re: What A Traitor!【第1章25話更新】 ( No.27 )
日時: 2018/10/29 23:50
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1051.jpg

ⅩⅩⅤ

 立ち上がったディンゴは負傷した腕を庇いながらも、血走った瞳でロバートを睨み付けた。

「整形でもしたカ? いンや無駄だね。テメエの声は削ぎ落とされそうになったこの左耳が覚えてンだヨ」

 顔面の左側、広範囲に渡る古傷が焼けるような錯覚に襲われる。
 彼の左頬の皮膚全てと【大切なもの】を奪ったのは眼前にいるこのロバート=コスターという男に他ならなかった。
 血と闇に佇む深淵なる因縁。
 ディンゴの光無い三白眼が見据えるのは、【onyx】副隊長ロバートという男がただ【アダムズ・ビル】のスパイだったという事実だけではない。
 手繰り寄せるのは霞むような過去。
 しかし今でもありありと浮かぶ当時の記憶に、どこまでも絡み付く螺旋状の因縁が二人の間には存在した。

「……尻尾掴みかけたのは一年前、小物共と戦ったあの日とその同時期ダ」

 それはイタリア左遷の一週間前、小規模な南米出身の組織との密林戦。
 取るに足らない烏合の衆と約束されていた筈の勝利。
 【onyx】が楽勝で下した相手だったが、一年前、先の戦闘の全容が薄い違和感の膜に覆われていたのは事実だった。
 
『Demn!! It`s a fucking trap!!(クソッタレ!! ここじゃない!!)』

 ディンゴの鼓膜に今でも残る小柄な彼の大きな遠吠え。
 彼のお陰でプランテーションの損壊は最低限に抑えることが出来たと言っても過言ではない。 
 この戦乱から出来るだけ遠いところへ押しやる為に、現在は信頼できる人間に預けている。
 どれだけ恨まれようとも嫌われようとも構わない。
 世界に裏切られ続け、それでも牙を剥き続けてきた彼に後処理をさせるわけにはいかなかった。

「怪しむべきところは情報錯誤。カルテルを出し抜くなンざあンな小物共に出来る芸当じゃねェ」

 ディンゴは唸るように続けた。
  
「あれからカルテルの諜報部が再調査すると、一年前【onyx】と戦ったあの小物共は見事【アダムズ・ビル】に吸収されていタ……。当時も正式な下請けにはなってなかったようダが、傘下に入ってはいたモンらしい」

 血の流しすぎかそれとも別の何かからか、負傷したディンゴの前腕は震えている。

「どうせテメェのワイフだのガキだのと理由を付けてビルに知り得た情報を繋いでいたンだろ。逆探知困難な諜報用端末なンざ使いやがって……割れてねェとでも思ったかこのヒリポジャス」

 一度や二度では無い。
 ディンゴは、ロバートがホセに英語を教える勉強会の最中に家族からの連絡だと彼に断って席を立つ仕草を度々目撃していた。
 キューバとメキシコの時差はおよそ一時間である、普通に考えて人間が行動する時間帯は二カ国間でそう変わらない。夜中や人気ひとけの無い時間帯の通話では逆に怪しまれる対象となり得るのだ。
 本部との連携を取りつつ全容が明らかになった際には、成る程巧妙な手口だと思わずにはいられなかった。

「一年前の情報錯誤、そンでもって今回の国境戦争で研究し尽くされたビルの動き。近接戦で誰が機関銃なンざぶっ放すンだ? 誰かがお漏らししてる他ねェよナァ」

 ディンゴは銃弾に肉を食い千切られた腕を一瞥する。
 傷口の心臓寄りにて縛られたガーゼは徐々に彼の血を吸い始めていた。

「異様なスピードでの副隊長就任、テメエのことは元々睨んでたンだ。そンで……まさかカルテル内部にもビルのスパイが入ってテメエの諜報活動の補助をしてたなンざな、すっかり平和ボケして腑抜けになったカルテルには見抜けなかったンだろうヨ。どっち向いても胸糞の悪い話だクソッタレ」

 ロバートという男は僅かな期間で類い希なる働きを見せ【onyx】副隊長に収まった訳では無く、【アダムズ・ビル】の工作員と組んでカルテルに侵入していた諜報員だったのだ、と。
 ディンゴは左頬を不器用に歪めて笑った。

「テメエと一緒にアカプルコにやって来たトモダチは今頃メキシコ湾の海底だろうナ」

 そして一呼吸置いて。

「──明らかになったのはテメエらビルが探ってンのが【コード=エンジェル】。ソイツだってコトも、ナ」

 【コード=エンジェル】。
 枝葉が遮り遠鳴りする銃撃音の中であっても、彼の言葉は透けるような蒼穹に天高く吸い込まれていった。
 次いでディンゴの顔が苦渋に歪む。

「まだ手を引いていなかったとはねェ。眠れる獅子を起こすカ……この掛け値無しの大馬鹿野郎共め」

 野犬は静かに牙を剥いた。低く険のある声で。
 耳を揃えての証拠を突き付けられたロバートは今まで彼の言葉を黙って聞いていたが、ここに来て初めて端を発した。

「サイケデリックドラッグPCP──通称エンジェルダストと呼ばれる薬物を兵士に服用させ軍事行為を行った南米裏史上に秘匿されたとある作戦……だったな」

 冷静に、且つ表情一つ変えずロバート改め、ロバート=コスターは事務報告かのように淡々と言葉を紡いでいく。

「1990年代。否、それ以前からメキシコは世界規模の大きなドラッグマーケットだった。各国のマフィア、ギャングや麻薬カルテルが組織の大きな収入源である薬物を発注し利益を得る、波風が立つことはありながらも薄氷の上には成り立ち得る関係性だった」

「しかしグローバル近代化の波から、政府からのテコ入れが厳しくなり各グループの代表筆頭は次々に逮捕されることとなり……元々地盤の緩かった中南米情勢が一気に不安定になることは火を見るより明らかだろう。そして各地で起こる麻薬戦争は更に激化していった」

 ロバートの話は今からおよそ二十年以上前に遡った。
 野犬の内に眠る遠く閉ざされた過去の黎明。激震する南米にて目立ち始めた移民問題、雇用率の低下と失業率の増加に街は荒廃してゆき治安は乱れていくばかりだった。
 淡々としたロバートの声に自身の内側から手垢を付けられるような錯覚に陥る。

「当時、ただの弱小カルテルに過ぎなかったアカプルコも勿論統合吸収の危機にあった。昔はホンジュラスやベネズエラにだって巨大麻薬組織は幾らでもあったからな。そしていよいよ終わりすら見せない武力抗争に切羽詰まった【アカプルコ・カルテル】は何とか当時の状況を打開するべく、組織が抱える戦闘部隊にとあるコードを発令した」

 微かに届く爆風が樹木に付く葉を揺らした。
 木漏れ日がモザイク画のように移ろい、ロバートのヘーゼルカラーに鋭利な光が射す。

「如何なる凶刃凶弾にも屈さぬ兵士を作るために【アカプルコ・カルテル】が下した苦肉の策。それが【コード=エンジェル】」

 また、左頬の古傷が痛んだ。
 皮膚も汗腺も削ぎ落とされた左半分、感覚はもうあまり残っていない筈だ。
 ロバートは続けた。
 しかしこれまでのような無表情ではなかった。ほんの少しずつ、徐々に、彼の口角は冷酷な侮蔑の色を含ませてゆく。

「【アカプルコ・カルテル】には古来より巨大貿易港として栄えたアカプルコという地の利があった。小規模な組織ではあったが薬物取引の方面には強かったんだろうな」

 遂に口調から透けて見える嘲り。

「そこでカルテルが目を付けたのがエンジェルダストという薬物だった。【コード=エンジェル】という名前もこの薬物由来だろう。元より外科手術用麻酔薬として用いられていたドラッグでそいつは人間の感覚を麻痺させ鈍らせる。言わずもがな、痛覚も」

「カルテルは痛みの感じない兵士を作ろうとした」

 ロバートの瞳孔が細まる。
 ディンゴは奥歯を噛み締める他無かった。それは紛れもない事実であり、そして。

「初期の方こそ例のコードは成功した。ああ、エンジェルダストを静脈注射された兵士たちの活躍には目覚ましいものがあったそうだな。大き過ぎる武力を獲得した【アカプルコ・カルテル】は破竹の勢いで他勢力を下し、自らに統合していった」

 ロバートの眉尻は厭らしく下がり、同時に口角を歪ませた。

「そしてこの戦乱の中、急激に力を付けた負け知らずのカルテルの戦闘部隊は【神話】だと……そう持て囃され、南米中に畏怖されるようになったんだ」

 南米の不敗神話、それは何処かで聞いたような謳い文句だった。
 ロバートの厭に芝居がかった大袈裟な口調は更にドラマティックに移ろう。

「大規模麻薬抗争は【アカプルコ・カルテル】の単独勝利で終結を迎えようとしていた。しかし──」

 遠い爆風に揺らされた樹木はロバートの頭上に影を落とした。
 鈍く輝くヘーゼルカラーとの陰影がビビッドに現れる。
 密林に立ち籠める熱は地面ごと揺らがすような目眩を呼んだ。

「薬物濫用による症状が兵士達に顕著に現れた。まあ……当たり前だろうなドーピングではなく違法ドラッグを使えばそうなるのは必然だ」

 流血のせいか、それとも強い日差しと高温のせいか足下が揺らぐような感覚に襲われる。
 瞳孔の開ききったディンゴの瞳はロバートの唇の動きを半ば狂気的に追った。
 目を離すことなど出来ない。

「戦闘を終えてカルテル本部へと回収される筈だった兵士らは錯乱、幻覚、見当識障害、偏執病の症状を呈した」

 一弾指、フラッシュバックする。
 共に戦ってきた仲間の豹変、尋常でない奇声、味方への発砲。ディンゴはサイケデリックに浮かされ疑心暗鬼に取り憑かれた人間を見てきたのだ。
 抗争終期には勢力争いだけではない、血で血を洗うもう一つの戦争があった。
 断片的な記憶。夥しい量の赤と飛び散る肉片。止まぬ銃声と獣に成り下がった人間の叫喚。
 記憶の最後にあるのは当時未だ若かったディンゴを庇うように倒れる一人の男と、辺りに散らばる人間を成していた器官と組織だった。

「【コード=エンジェル】に頼り切っていたカルテルだったが傘下組織に残っていた兵力を使い、辛くも優位終結を勝ち取った。だがそのコードは勿論中止。この業界では信用と格好付けが重要だ。【不敗神話】と畏怖される部隊がただのヤク漬けのモルモットだったというなら折角手に入れた南米とその名の失墜も免れまい。部隊を抱えるカルテルにとって汚点となり得るそのコードは永遠に隠蔽されることになった」

 ロバートの嘲りを含んだ口角は、下卑た笑みへと明らかにその相を変えた。

「現在の神話たる【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】のバックボーンが【ソレのなれの果て】だなんて一体この世の何人が知っているんだろうなぁ……ディンゴ=スアレス」

 ディンゴ=スアレス。
 久方ぶりに聞くその名前は更なる頭痛を呼んだ。
 左耳から、右耳から、背後から地中から、四方八方から幻聴がする。

『お前名前無いのか、それとも言いたくないのか……はぁ困ったな。 よし、じゃあ俺が勝手に付ける! なーんだよ、そんな顔すんなって! うーん、そうだな』
『あっ、俺の出身地にはディンゴというイヌ科の動物がいてな、とにっかく獰猛で……おまえにピッタリだろ? いーや、冗談だって。ひひっ悪かった悪かったっての。ディンゴは強いけど群れで協力して狩りをする仲間思いのヤツでもあるんだ』
『だからお前の名前はディンゴだな! ほら俺の名前とも似てる。 ちなみにスアレスは俺の親戚から拝借したんだ!ふふん、どうだイイ名前だろ!』

 【コード=エンジェル】を発端とし、そこから伸びた枝葉はディンゴから全てを奪った。
 【彼の声】が何度も何度も飽和して反響する。
 野犬は震える奥歯を噛み締めて残響を追い出した。
 あの時は何を言われているのか皆目見当が付かなかったが、時の経った今なら分かる。

「資料は完全に抹消されることなく残っていたよ」

 ロバートの声でようやく聴覚を取り戻したディンゴは、右手で額の汗を拭った。

「流石、学のない南米人共だ。素晴らしい」

 ロバートは人工的な笑顔を作り、無感動な拍手を送った。
 芝居がかった口調に不釣り合いなほどのチープな表情が却って不気味だった。
 数回手を打ち合わせたところでリタルダントがかかり、硬い掌に衝撃が吸収されゆく。
 そして完全に音が止んだところで、再びロバートは口を開いた。

「しかし……コードの発令に異を唱え、エンジェルダストの注射を最後まで拒んだ者がいた。それが当時の隊長ディエゴ=ロア=アルバノス。そしてディンゴ=スアレス、お前だ」

 前者の名前を聞くことになろうとは、と刃毀れするほどに犬歯を噛み合わせた。
 記憶をいいように蹂躙され、穢れた手垢を付けられる。
 野犬の瞳孔は開いたままだった。

「お前は【コード=エンジェル】発令からの唯一の生き残りだった。共にコード発令に反発していたディエゴは銃乱射事件の際に死亡したようだがな」

 血だまりに伏す二人の生命。
 一つは何発もの散弾を背中側から打ち込まれ息も絶え絶えの死に体、もう一つは絶望に揺れる若き生命。

『あーあディンゴぉ。なーんかさもう無理みたいだわ、俺。わりいなあ、もっとお前にコトバとかさ、メキシコのブンカとかさ、教えたいことあったんだけどなぁ……』
『ん……ほらセンベツ。やるわ。持ってけ、な』

 再び襲う極彩色の目眩と先程のフラッシュバック。
 風は無い筈なのに首元の革紐に縛られた黒瑪瑙が揺れた気がした。
 しかし深層意識に眠る己に牙を突き立て、ディンゴはロバートに中指を突き立てた。

「……闇に葬った失敗策と分かって【コード=エンジェル】の猿真似をするってンか。カハハッ──! 随分とビルの小父様方は暇なンだなァ?」

 しかしディンゴの煽りを耳にした途端ロバートは表情を崩した。
 そして腹を抱える。
 耳障りな笑声が密林を縫った。
 巨躯をくの字追って、馬鹿に大きい音量で、逆に相手を煽り返すように。
 その異様な姿にディンゴは眉間に皺を寄せるしかなかった。
 不気味な笑声そして引き笑いののち、ロバートは上体を起こした。
 目の端に涙を溜めて、顔の前で手を振る。

「猿真似! ハッ……お前が言うか! そうかそうか……ああすまない、何とも愉快でな」

 ロバートは目を見開いて、ディンゴに突き付ける。
 優しげなヘーゼルなど最早何処にも残っていない、攻撃行動に付随する迷彩にも似た緑と黄色のスクランブル。

「ベネズエラブラジル国境付近のアマゾン秘境に棲まう戦闘部族【ヤノマミ】」

 捨て去った筈の出自。
 何故お前がそれを知っているのか、何故、何処から。
 ディンゴの血走った双眸はこれ以上無いほどに見開かれた。
 
「食人族として人々から恐怖の対象とされたヤノマミ族だったとはな。さしずめお前は文明と初接触した頃の野蛮人だった、というところか?」

 森がざわめく。空高く舞う鳥の声が耳に障る。葉の擦れ合う音と枝葉のたわむ音が五月蠅い。

「はは……どうして知っているのか、という顔をしているな。前隊長の手記にお前の話す正体不明の言語が書き留められていてそこから割り出した、と言えば納得するか?」

 黙れ。

「お前らヤノマミ族は独立言語族だからな。母語と何の類似性も持たない西語と英語を習得するのはさぞ難儀だったことだろう。その耳障りな訛りも成る程頷ける」

 黙れ、黙れ黙れ。いちいちうるせえンだヨ。

「どうせそのディンゴ=スアレスという名前もベネズエラ国籍取得の為に拵えられた偽名でしか無いのだろう」

 コイツだけは。

「──ンな昔のコトなンざどうだって構わねェ。テメエだけは、テメエだけは……」

 【あの日】の記憶が暫時脳内を駆けた。
 追憶に準じて古傷の疼痛が酷くなる。

『そうか口を割らないのなら俺が手伝ってやろう』
『叫ぶと裂けて二度と戻らないぞ』
『血液と唾液と脂汗と涙でグチャグチャだな。いい顔してるぞ、鏡でも持ってきてやろうか』
『ははは、そんな目で見てくれるなよ。ほら、もう一層削ぐから動くな。暴れると刃が目に刺さるぞ』
『痛いか、ならばコードについて全部吐け。楽に殺してやる』

『ああ、強情だな。それなら【こちら】はどうだ──?』

 黒いノイズが這い回る記憶に度々迷い込む野犬は、忌まわしい声に首根っこを掴まれ今一度現実に引き戻される。

「そうか、それなら」

 そして核心に触れようとするロバートの手。
 二十年前、左頬にナイフを宛てがい一枚ずつ皮を剥がしていったのと同じ手だった。
 絶対不可侵の領域。
 螺旋状に巻き付く悔恨の枢軸。
 それは救えなかった人の名前であり、最も聞きたくなかった言葉だった。 


「覚えているのは【愛しい人】の声だけか?」


 次の瞬間、ロバートの視界からディンゴが消えた。
 見知った疾手なのに、相対するとこうも追えないのかとロバートは舌打ちした。
 そしてロバートは今まさに側頭部に叩き込まれんとするディンゴの回し蹴りを視認する。そして前腕の橈骨とうこつでそれを防いだ。
 刹那、ヘーゼルとオニキスの交錯。
 背後に涎を垂らす地獄の番犬のビジョン。ロバートは野犬の赤い眼光に戦慄を覚えた。
 一瞬のうちに溜めた筋力を瞬間的に解放し、蹴りのエネルギーを持った脚を押し返す。
 ディンゴはロバートから飛び退き、首の関節を鳴らした。

「……当然乗ってくンだろボールズヘッド。殺す、殺す、殺す、殺す、テメエだけは絶対殺す」
「はは、馬鹿の一つ覚えみたいにキルを繰り返しても俺は喰えないぞ。人食いの野蛮人」

 そしてロバートは下卑た笑みを浮かべ、赤血に染まるディンゴの双眸を見据えた。

「せいぜい【あの時】の二の舞にはならんように、な」

 彼が言い終わるより早く狂犬は犬歯を噛み合わせ、地を蹴った。

ⅩⅩⅤ

Re: What A Traitor!【第1章26話更新】 ( No.28 )
日時: 2018/11/11 22:41
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6199.jpg

ⅩⅩⅥ

 ディンゴは地を蹴り、ロバートに肉薄した。
 刃毀れしそうな程に口内に据わった凶刃を噛み締める。
 今も穿たれた銃創からは生命が赤く流れ出している。剥き出しの闘争本能と全身の昂ぶりは不規則な脈拍となって血液を押し出した。
 酸素に触れ、黒く結晶化した紅が両者の間隙に飛び散る。
 空間を裂くディンゴの右拳がロバートの頬に影を落とした。
 眼球を狙う目潰し。人間の強膜は存外強靭で、並大抵の衝撃では破る事など困難である。ディンゴは力を速さに変える拳骨を目標の直前で開き、爪で角膜を抉り取ろうと試みた。
 しかし嘲りを含んだ笑声が耳朶に沿って飛び込む。歪む瞳の稜線、爛々と光るヘーゼルは確かに拳の切っ先を捉えた。

「は──手負いの獣にやられる俺では……」

 ロバートは再びその橈骨でディンゴの拳を薙ぐ。 

「無い!」

 そして彼の攻撃はロバートの太い腕に遮られた。
 交錯する骨肉は強い震盪を起こし、ディンゴは跳ね返ってくる衝撃に顔を歪める事しか出来ない。左頬の傷は歪んで裂創の繊維を伝っていた脂汗が飛び散った。
 硬い橈骨と細い拳の骨同士の衝突では前者に圧倒的な分がある。
 ディンゴは余計な衝撃を逃がす為、ロバートに弾かれるがままに右手を宙に遊ばせた。
 接地すると同時にバックステップで後退し、相手のリーチでは届かないところにて呼吸を整えようとする。
 ヒットアンドアウェイ。二度も見切られてしまった今もうこの戦法はロバートに通じないだろう、とディンゴは歯噛みするしかなかった。
 しかしその目は死んではいない、ヘーゼルを射抜く三白眼は静かに黒い炎を燃やす。

「抜かったな。同じ手を食うか、原始人め」

 ロバートはこれ見よがしに右手を掲げて指の骨を鳴らしてみせた。
 もともとディンゴは筋骨隆々な方ではない。野生の猛獣を思わせるしなやかな筋肉と強靱な撥条ばねが彼の強みではあったがそれでもやはり線は細かった。
 それに反してロバートは2m近くの巨躯と体重があり、重厚な筋肉の鎧に覆われている。【onyx】の中でも頭一つ抜きん出て体格の良い彼だったが近接戦闘訓練にもその特異性は現れた。
 小技をものともしないパワープレイと大振りの強力な打撃。武器を用いない丸腰で行う近接戦闘訓練において彼の右に出る隊員はいなかった。
 ロバートは唯の工作員ではない。共に【アカプルコ・カルテル】の本部に侵入していた仲間からの押し上げ操作はあったものの、彼は確かに【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】の副隊長に収まる実力を持っていた。
 元より死角を利用し疾手で相手を翻弄する戦法を採るディンゴと、巨大な体躯と膂力で全てをねじ伏せるロバートの戦法には大きな違いがある。
 ディンゴの戦い方が死につつある以上、近接の肉弾戦闘に応じるしか無い。
 両者の型はそもそもの相性が悪かった。

「銃を抜くか? 俺は一向に構わんぞ」
 
 忌まわしい淡褐色が万華鏡のように中枢神経に射す。
 ディンゴはどうしてもトカレフTT-33で、ホローポイントの銃弾で目の前の男を喰うわけにはいかなかった。内なる肉を穿つ鋼鉄の花など【彼女】への手向けにはならない。
 野犬は今更殺意を隠そうともせずに唸った。
 この両手で曝く筋繊維に、晒す脂肪に、引き摺り出す臓物に意味があると信じて野犬は牙を見せた。

「ア……? テメエの方こそ防戦一方だろ、ボールズヘッド。そのドタマに乗っかった不能マグナムでも抜いてみろヨ。怖くてチビっちまうかもナァ……?」
 
 ディンゴは折節襲い来る銃創の痛みと残っていない退路を誤魔化すように口角を吊り上げる。
 そしてトカレフは疾うに弾切れのホールドオープンだった。弾薬は持ち合わせているが入れ替える時間も余裕も無い。この狡猾な男がそれを許すはずも無かった。
 旧友を訪ねて商会の門を叩いたのは組織と今回の国境戦争の為ではない。己の私怨を晴らすための布石と場の攪乱。全てはこの時の為だった。
 しかしディンゴも組織に身を置き、隊長という肩書きにある以上カルテルを勝利に導かねばならない。そのために商会に依頼し、戦闘員を利用した節も勿論あった。浩文とファティマの両名の力は予想以上のもので、自分が戦線を離脱したとしてもまだ猶予はあるだろう。
 そして戦場に立っているのは他でもない南米の不敗神話【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】だ。今は共に戦ってきた朋友を信じるしか無い。
 だが眼前に立ちはだかるのは圧倒的不利。計算が狂う要因となったイレギュラーは幾つもあった。
 小型機関銃に撃たれるという近接戦闘におけるセオリー違反にて負った傷。そして仕舞いに掘り起こされたのは捨て去った己の出自。 
 ディンゴは紛れもない正真正銘の密林の民だった。
 ロバートが突き付けた事実に嘘は一つも無い。
 文明の人工光が若かりしディンゴの網膜を焼いたのとほぼ同時期、彼は全てを失った。しかしそれは自ら選び取った道で代わりに初めて手にするものもまた数多くあった。
 前隊長ディエゴ=ロア=アルバノス。彼の名を再び耳にすることがあろうとは。
 あの忌まわしき【コード=エンジェル】にて彼は禁断症状で半狂乱になった仲間の凶弾からディンゴを庇って戦死した。ディンゴの首から提げられている黒いオニキス石の首飾りも死の間際に彼から受け取ったものである。己の首が落ちようとも地には堕とせぬ【onyx】の名前。彼の死の原因となったコードを探られるのは自身の内臓を暴かれるような感覚だった。
 そして出会ったのは。

『私の名前ね、スペイン語で【愛しい人】っていう意味があるんです』

 また幻聴がした。追憶は必ず古傷の疼痛を呼ぶ。

「何を言うかと思えば。この手で貴様を再び失望させた果ての死に意味があるんだろうが」

 ロバートはディンゴを遙か上から見下ろした。嘲笑うかのようにディンゴの大切なもの全てを目の前で引き裂いてみせた男。
 霧散していく疼痛と幻聴の中ではっきり見えたのは絶対的優位に立つ強者の嘲笑。それが分かっているからこそディンゴは爪を出し、牙を剥く。格好も何もない。
 負け犬の遠吠え。弱い犬ほど良く吠える。そんなものクソ食らえだった。

「死ぬのはテメエだ」

 もう届かない筈の爆風がディンゴの前髪を揺らす。

「出来るものなら」

 数分の間もなく両雄は再び激突した。
 ロバートは吼え、拳で空を切る。
 迷い無い右ストレートがディンゴの頭目掛けて振り下ろされた。ディンゴは風斬りの拳骨を皮一枚のヘッドスリップで躱す。しかしその風圧から厭でも察せられる威力に戦慄した。眼前の空気が消し飛んだのだ。大振りでもテレフォンパンチでも無い凶器、一発でも直撃すれば骨はひしゃげ肉は潰れ皮は切り裂かれるだろう。
 ロバートは躱されたと見るや否や左のフックでディンゴの顎を狙いにかかった。脳震盪など起こせば瞬時に雌雄は決着してしまう。ディンゴは動体視力と脳をフル稼働させ、すんでの所で顎を引く。筋張った固い拳が目の前を過ぎる。命を刈り取る豪速に鼻先と前髪が焦げた。
 フックの反動で捻りを加えられたロバートの上半身が一弾指停止する。ディンゴはそれを見逃さず好機としてローキックで体制を崩しに掛かかった。半身を捻ったのち重力に任せて相手の膝の腱へと鋭角に脛を叩き込む。銃創から血液が噴出するのも構わず拳を握り締めて末端に残る力の残滓を足に乗せた。
 全てを振り絞った下段蹴りはロバートの腱にクリーンヒットする。
 しかし彼の体幹は揺るがされることも、その表情を苦悶のものに変えることも無かった。膝を柔らかくして衝撃を地へと逃がしつつも土台は踏ん張りが効いている。
ディンゴは驚愕を瞳に落とし込んだまま、柔なブローをロバートの左頬目掛けて打ってしまう。
 鈍い殴打音とその感触で拳が彼に届いたことを知ったが、ディンゴにはまるで敢えて被弾したかのように見えて仕方が無かった。ディンゴは拳で弾いたロバートの頭部を見る。左側に跳ね飛ばされた顔に嵌め込まれた淡褐色と目が合った。
 瞳孔の開ききったオニキスを凝視する爛々としたヘーゼル。
 ロバートは肉の寄った左頬を歪めて、笑った。

「やはり、軽いな」

 絶望に呑まれそうになった。
 一体どうすればこの男をねじ伏せることが出来るのか。
 小手先の拳も足も効かない、そして銃はホールドオープンのままでは鉄の塊に過ぎない。
 しかし一つだけ手は残っていた。しかしそれが成功する保証も何処にもなく、もしそれが失敗して潰えてしまったならば真の意味での死がディンゴを待っている。
 だが最奥にくるのは、二十数年胸に抱き続けてきた殺意をそんな最後に代えても良いのかという自問自答だった。
 圧倒し、この手で奴を引き倒し、これまでの怨嗟全てを以て酷く責め抜いて殺してやる筈だろう、と。自身の全てを奪い今更暴いた奴に安寧とした死を与えるつもりか、と。
 ロバートが手強い事はディンゴも重々承知だった。二十数年前の邂逅にてもその実力差をまざまざと見せつけられ、敗北した。何一つ守ることの出来ない負け犬で、どうしようもない弱者だったのだ。
 自身の命などもはやどうなっても構わない。若かりし頃にエンジェルダストのバッドトリップによる銃乱射事件で、この男に全てを蹂躙し尽くされた時点で、死んだようなものだった。歩く死人に命など惜しいものか。
 自分が死んでいれば良かったのに、と後悔は尽きない。こんな自分に命を遺した彼らの弔いに何が出来るだろうか。自分のせむとす事は正解か、不正解か。果たして自分が許せるか。過去の自分が未来の自分が、今の自分を。 
 しかしディンゴに血迷うほどの血はもう残っていなかった。
 失血に震える手で懇願するように左頬に触れ、【愛しい人】を想う。

 守れなくて、悪かった。
 あの時から何一つ変わらなかった。オレは弱いままだ。
 なあ、こんな決着でもオマエは許してくれるか。

 瞳を閉じても答えなど当然返ってくる筈も無い。
 ディンゴは左頬を歪めて、苦々しく笑った。
 そして須臾にバックステップでロバートから距離をとる。もはや軽やかな足取りでは無かった、疲労物質の溜まりきった筋肉を酷使する泥臭さが付き纏う。

 卑怯でも、無様でもいい。矜持すら放れ。此処はテメエの領分だろうが、狂犬。

 ディンゴは深く息を吸って、浅く吐いた。
 ロバートは透明な唾を吐き捨てて不敵な笑みを浮かべる。未だディンゴのカウンターを待つ余裕を見せる。そして野犬はそれに乗った。罠だろうが、どんな顛末が待っていようがそれに乗るしか無かった。
 体重を下に移動させ、トップスピードに移行すると共に死角に入る。並大抵の人間ならば捉える事すら困難な獣の構え。しかし立ちはだかる男はいとも容易くそれを破る、そんなこと百も承知の大博打だった。
 そして鉄錆に浸食された撥条を使って最後の力と速さを拳に乗せる。風を切るスピードと空間を制圧する膂力。これが正真正銘最後の賭けだった。

 しかし伸ばした拳は呆気なく彼の腕に叩き落とされ、容赦無い殺気が籠もったクロスカウンターが被さる。
 ロバートは愉悦に顔を歪ませ、圧倒的勝利を確信した。

「何度やっても──」

 だがしかし、先に相手を捉えたのはディンゴのブーツ底の仕込みナイフだった。
 ロバートの脇腹にディンゴの蹴りが叩き込まれようとする。
 急襲は見切られていた筈だった。ロバート自身もディンゴの動きなど見切っていた筈だった。
 しかしそれこそが活路。ロバート=コスターという男は自身の力に驕っていた。
 自身を絶望の淵に追い詰めていたぶる為に決して銃を手にしないであろう事も。ディンゴは彼の性質を見抜き、そして全てを諦めた。
 どうせヒットアンドアウェイの仕舞いには拳が飛んでくるだろうと、そんなもの軽くいなせると。ロバートは密林の野犬を過小評価していたのだ。そして彼の領分である密林の疾手を完全には捉え切れていなかった。
 どんな不利な状況にあっても自身の戦法を曲げなかったのは、その布石。
 どれだけ牙を剥いても爪を立てても叩きのめされ、正攻法では敵わないと突き付けられた末の断腸の選択だった。
 真っ向からねじ伏せて、【彼女】への手向けとしたかった。しかし、全てを出し切って尚、届かなかった。きっと手負いでなくとも彼には最初から敵わなかった。
 【愛しい人】の全てを奪った男への復讐として選んだのは自身への裏切り。
 努力などという生ぬるい言葉には反吐が出る、そんな言葉で片付けられるような人生も送ってきていない。今日この時に復讐の為に研鑽を重ねた自身を裏切ってまで、殺す事を選び取った。
 黒いインナーを裂いて表皮に触れる。その凶刃を視認した大きなヘーゼルは見開かれ、唇は間抜けな音を漏らした。

「お、あ」

 ディンゴは踵をロバートの腹により深く沈めた。刃毀れするほど奥歯を噛み合わせて疲弊しきった身体に鞭打つ。筋肉が軋んで裂創から銃創から血を噴くがそれでも全身に力を込めた。ロバートの脇腹に突き立てたナイフを力に任せて横真一文字に奔らせる。
 ぐじゅ、と汚らしい水音がしたのち、鮮血が迸った。
 ロバートは目を白黒させて、呻きながら膝をつく。ディンゴは刃を引き抜くと血の付着した靴底でロバートを蹴り倒した。

「──が」

 ディンゴが男の血の染みた黒いインナーを引き裂くと、自らが創った傷から赤黒い内臓が飛び出ていた。
 野犬が無感情に両手で傷口を容赦無く広げる。血反吐が詰まったロバートの気管からは濁った音が漏れ出た。ディンゴはざっくり開いた傷口を見下ろすと感情の籠もっていない目で腹腔に手を突っ込んだ。

「ぅあ゛」

 ロバートは感情の残滓を振り絞って自分の体内を掻き回すディンゴの腕に爪を立てるも、野犬は腹から腕を引き抜いていとも容易く力無いロバートの手を振り払う。これまでの力関係は逆転、太陽が落とす二人の影は大いなる自然の弱肉強食に他ならなかった。
 ディンゴは掌を天に透かして地面に落ちる手首に踵を落とす。指に繋がる腱を切断する為だった。腱を切ると指先は繊細な制御を失う。顔を苦悶に歪めて手首から命を噴き出すロバートを一瞥して、ディンゴは再び傷口に手を突っ込む。異物を突っ込まれて痙攣する腹腔をぐじゅぐじゅと探ると血が止め処も無く溢れて返り血に汚れた。
 そして一等柔らかい肉の管を力任せに引っ張り出す。露わになった小腸を引き摺り出すとロバートは目を反転させ奇声を上げた。
 ディンゴは引き掴んだ小腸を叫喚する入り口に押し込む。唾液と血反吐に塗れるのも構わず喉奥まで己の拳と肉管を詰め込むとロバートの身体は魚のようにびくびくと跳ねた。そして彼の傍らに立つと腹から繋がったままの小腸を口に含ませた顎を爪先で勢い良く蹴り上げる。
野犬の選んだ復讐は自身の内臓を生きたまま食い千切らせる事。神話を擬える事も高尚な理由も必要なかった。かち合った歯の隙間からじゅぶと内容物が漏れるのを見る。
 この男に左頬を削がれた時の自分とよく似ていた。鼻水と涙と血液と唾液と吐瀉物と脂肪と肉片に汚れた顔面。筋肉の弛緩で漏れ出た排泄物が放つ異臭が鼻を衝いた。
 そして身体の孔という孔から体液を垂れ流す宿敵の耳元で囁く

 人食いの野蛮人と畏怖されるヤノマミ族。しかし彼自身人肉を食ったことなど無かった。

「テメエの糞袋の味はどうだ。美味いカ? 死ぬ程美味いヨナァ」

 やがてロバートは全身を痙攣させた後、白目を剥いて動かなくなった。



 不思議なことに血を流し横たわる怨敵の亡骸を目の前にしても新たに湧き出た感情など何処にも見当たらなかった。
 自分が受けた以上の痛みを、【彼女】が背負わされた以上の痛みを以てもっと惨たらしく殺してやりたかった筈なのに。野生のままに遺体を損壊しても構わなかった。だがそれはしなかった。ただ感情の振り幅を喪失しているだけだろうか。否、それとも。
 ディンゴはよろよろと足を引き摺って、死体から離れるとその場に座り込んでしまった。

「──アー、クソ。疲れタ」

 そして仰向けになって草の生い茂る地面へ倒れ込む。
 全てを清算しきって返り血と痛みに塗れた身体を休めたかった。疲労困憊の身で眠り落ちて、名も無き密林にて生を終えたとしても一向に構わない。
 しかし今となって彼は一匹の野犬ではなかった。彼にはいま現在も己の命を燃やして戦っている仲間がいる。襲う疲弊に目を閉じても彼岸にて微笑む【愛する人】の姿を見つけることなど出来なかった。
 走馬灯を見るのはまだ早い、感傷など今は捨て置けば良い。

「ココでくたばってるワケにもいかねェか……!」

 ディンゴは笑う己の膝に活を入れて立ち上がる。叩き込まれたダメージと酷使した筋肉が軋んで身体の至る所が悲鳴を上げたが、そんな事になど構っていられなかった。
 野犬は足を引き摺りながら国境を南に下り始める。
 背景に鏤められていた銃声も今では遙かに南に遠のいてしまって、もはや断続的にしか聞こえない。
 しかし聞こえる、戦争は未だ止まない。キリングマシンを形成する一個師団の仲間たちは忠実にその作戦を守り、戦場に生きているのだ。
 ディンゴは息を深く吐いて、満足に動かない足を前に進めた。 

 全ては思惑通りに。
【アダムズ・ビル】一掃の作戦完遂はすぐ近くまで訪れていた。

ⅩⅩⅥ

Re: What A Traitor!【第1章27話更新】 ( No.29 )
日時: 2018/12/10 16:35
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: 7ZQQ1CTj)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1059.jpg

ⅩⅩⅦ

 メキシコの名も無き寂れた町の中、二人の男が古びた街道を抜けようとする。
 そのうちの一人、赤土の匂いが立ち籠める村には場違いなほどの上質なトレンチコートの生地がメキシコの強い日差しを受けて輝く。
 粗末な掘っ立て小屋の中で来ない客をひたすら待ち続ける小太りの中年男は昼下がりのこの頃、数日前の新聞を頭に被って眠りこけていた。時おり訪れる物好きな観光客か、近隣住民が都市部へ買い出しに行くときぐらいしか店に客が訪れることが無い。車貸しの店主は本日も業務時間を睡眠時間に変える。
 その筈だった。
 舗装されたものの疾うにひび割れてしまったコンクリートに耳慣れないヒール音が反響する。そして埃っぽい村には異質過ぎる甘く蠱惑的な香りの訪れ。甲高い靴の踵は車貸しの店の前で止まった。
 ただならぬ気配を感じた中年男は寝ぼけ眼を擦って顔を上げると、宙に舞う絹糸が目に飛び込んだ。
 否、絹糸などではない。それは太陽光に白飛びするほどの細く淡色をした長い髪だった。

「ここから国境へ行きたいんだが……車を頼めるかな」

 その声の主は柔い光を蒼玉が如し瞳に落とし込んだ美しい白人の男だった。
 一切の訛りが無い流麗なスペイン語と紅を差したかのような唇に村の中年男は目を丸くする。
 しかし女性的な顔立ちとは反して高い位置から降ってくるバリトンボイスに、中年男はでっぷりと肥えた腹を掻きながら片眉を吊り上げた。

「国境だと? 白人のあんちゃんよぉ、馬鹿言っちゃいけねえ。今は麻薬カルテルの抗争が激化してとてもじゃねえが貸せねえな。大事な商売道具が戻ってくる保証なんか何処にも無いね」

 麻薬カルテルの抗争、と店主が口に出したところで白人の男は後ろを振り返って誰かに目配せをした。
 どうやらこの妙な風貌の男、一人ではないらしい。
 気になった店主は男の背後を覗き込むように身体を反らして目を細めると、彼の後ろには奇抜な髪色をした青年が一人、傍に控えているのが分かった。
 青年の髪には眩しい白と目に痛いビビッドレッドが毛先に差している。しかしそれとは対照的に殴打痕のような濃い隈と険のある瞳。そして白地に黒雷のような模様が印刷されたシャツ。数多の黒いアクセサリ類は堅牢な鎧のようにも思われた。
 戦禍渦巻く国境に行きたいとのたまうこの見慣れない男達に、店主はますます不信感を募らせる。
 店主が青年の背格好をじろじろと品定めするかのように目を細めていると、視線を上に滑らせた際に彼の瞳とかち合った。

「なに見てんだよ」

 異様な光を放つ瞳だった。
 刃物の波紋を思わせるぎらついた眼光と独特な縞の奔る血走った目に、店主は思わず息を呑んで目を逸らす。
 取り繕うように咳払いをしながら新聞紙を広げていると、白人の男はトレンチコートの懐から何かを取り出した。

「なら1台買い取ろう。これで足りるか」
「なに言っ……え、あ?」

 買い取るというふざけた発言の意図も全く分からなかったが、差し出された札束に店主は目の玉を剥いた。
 見たこともないような束の紙幣が此方に差し出されているではないか。
 男は紙の価値を半ば押し付けるようにしてトレンチコートを翻す。

「ペソは生憎持ち合わせが無くてな、米ドル札だ。贋札ではないと思うが一応確かめてくれ」

 白人の男は店主が呆けた顔を晒しているのを一瞥もせずに小屋の壁に掛かっていた鍵を一つ取る。こんなに蒸し暑い日だというのにその美しい男は黒の革手袋をしていた。

「マスター、御用があれば【トーニャス商会】まで。──さあ行こうか、ホセ」

 ぽかんと口を開けて二人を見送ることしか出来ない店主は、しばらく後に店の裏に停めてあった車のエンジン音を聞いた。
 そして押し付けられた札束と数日前の新聞紙を交互に見る。
 広げた新聞紙は逆さまだった。

******

 この森を抜ければ目的の地だと、浩文は奥歯を噛み合わせた。
 国境付近では影の落ちる鬱蒼とした密林だったが南に後退するにつれて木々もまばらになりゆき、今日の空が青かったことを知る。
 しかし感慨を抱く暇すら無い。此処は銃弾が空を裂き、戦禍渦巻く戦場だった。
 苔むした蔓の合間で近くの隊員が吼える。

「隊長と副隊長はまだなのか!」
「分かりません!」

 浩文はそう答えるだけで精一杯だった。そして幹の影に身を隠して呼吸を整える。
 事実、ディンゴからもロバートからも隊に向けての連絡は一切無かった。数時間前にビルに向けて第一陣の迎撃掃射をした後から二人の姿はなく、それから一度も前線に復帰してきていない。
 まさかそんなことは、と思いつつ密林のなかで二人の遺体を軽く捜索してみたが当然見つかるはずも無かった。血痕はおろか手掛かりも発見出来ていない。
 必ずどこかで生きているのだろうが、戦闘にて深手を負ってしまったのか未だ姿を見せていなかった。

「シャハラザード、もう一度行けますか」

 浩文は隣で息を潜めていたシャハラザードに声を掛ける。

「……大丈夫。いけるわ」

 シャハラザードは頷いて、腰のガンホルダーに手を掛けた。
 だが、奇襲を仕掛け戦況を作る為に誰よりも動く彼女の消耗は激しい。野生動物のように自分の弱っているところなど決して見せようとはしなかったが、胸を上下させて肩で息をしているのは確かだった。
 しかし腐っても【onyx】というわけか、敵の数は掃射部隊を構えていたときよりも敵の人数は捌けていた。場数の差か、個々の戦闘力の高さか、装備品の差かは分からない。そして皆消耗しているもののカルテル側の死傷者は、隊長副隊長の両名を除いて、浩文が見回してみたところいないようであった。
 幾人もの血を吸ってなまくらになったナイフは今は大人しくシャハラザードの腿のホルダーに収まっている。

「最初の目的は覚えていますか。この作戦の、です」

 一呼吸すら置かず木の陰から銃口を差し向け、撃つ。
 混戦の中で手応えがあったかは分からない。
 しかし浩文は敵方からの凶弾が巨木の幹に弾かれて足下に転がるのを見逃さなかった。

「なあに、ばかにしているのかしら」

 シャハラザードは吐息を漏らすように微笑んだ。
 しかし浩文は彼女を見ることもせず、ホールドオープンになった銃に弾薬を装填する。

「していませんよ、ただの確認です」

 シャハラザードは紅を引いたような赤い唇に人差し指を添えて、考えるような素振りをみせた。そして戦場においての悠長で緩慢な仕草に彼女の狡猾さと脆弱性を垣間見る。いよいよ呼吸も苦しい筈であるが、やはり彼女は外部の人間に決して自身の弱みを見せようとしなかった。
 人格の交代が起こってはや半日、これまでこなしてきた仕事を考えても長い方である。
 今回彼女に任せた仕事も極度の緊張と負担を強いるものだった。
 ファティマとシャハラザードの両名を繋ぐ精神面も相当摩耗しているのだろうことは想像に難くない。

「メキシコ方面への、ええと、何かしら」

 しかし瞳に宿る翡翠は砕けない。

「ああ、思い出した──インダクションよ」

 緑の貴石を囲んだ漆黒の稜線は歪む。

「これだから英語はいやなの。ええ、いま私たちがメキシコに下っているのはそのため……分かっているわ」

 今度はシャハラザードの瞳を見据えて、浩文は首肯した。
 双眸の翡翠が妖しく輝く。

「その通りです。ディンゴさんたちが戻ってくるまで持ちこたえましょう」

 シャハラザードは浩文の言葉に浅く頷いて、敵陣右方向へ走り去った。浩文も再び銃を構える。
 辺りはおよそ密林とは異なる様相を呈してきた。木々の数はもちろん遮蔽物自体が少なくなってきており、【onyx】の麻薬プランテーション守護に関する密林環境特化の戦闘技術も活かせる場面も徐々に少なくなってきている。
 兵の物量を削がれた【アダムズ・ビル】陣営と、密林という鎧を砕かれつつある【アカプルコ・カルテル】陣営。しかし今後の戦況次第ではどちらにも転び得るだろう。
 しかし決して不確定要素ではない。戦況ならば自ら作るしかない。
 浩文は弾薬を補充する隙に一番近くにいた隊員に尋ねた。

「目的地まではあとどれくらい距離がありますか!」
「あァ!? あと1kmもねぇよ!」

 隊員の返答を聴いて浩文は唇を引き結んだ。
 1km、あと1000m凌ぎきれば此方の勝ちは見えてくる。しかしその僅かな距離こそが遠い。
 再びビル部隊の弾幕が張られ、カルテル側の防戦を余儀なくされる。単騎でビル陣営の懐に向かったシャハラザードは無事だろうが、如何せん噴煙で視界が悪いので確認のしようがない。
 これ以上後退して向こうに勘ぐられないだろうか、とも考えた。馬鹿の一つ覚えのように見え透いた後退を繰り返しているわけではなかったが、この期に至っては相手がいつ【onyx】の思惑に気付くかが鍵だった。
 前線にて指揮を執る隊長のディンゴか副隊長のロバートさえいればこの状況をどうにか引っ繰り返す打開策を見出せていたかもしれないが、戦場においてタラレバは無い。南米の不敗神話【onyx】は断じて烏合の衆などではなかったが、やはり円滑な作戦遂行にはトップ二人の力が大きかった。
 そして相手の作る弾幕が途切れた隙に、木々の向こうから短い悲鳴が上がった。
 シャハラザードが刺客として、相手陣営の弾薬補充の隙を縫って急襲を掛ける。
 しかしこれも複数回にわたって行われている作戦で、そろそろ向こう方にも見切られてしまうだろう。極度の集中を必要とし、シャハラザードの体力を確実に削り取る。この陽動の攪乱ももう二度とは使えない。
 今のうちに距離を稼がねばならない。【onyx】本隊は此方側に弾丸を撃ち込まれないうちに移動を始めた。

 これが最後の悪足掻きだと、戦略的後退が泥臭い敗走だと、向こう側に思われていれば重畳。

 【アダムズ・ビル】の狙いは麻薬プランテーションの焼き払いなどではなく、端から【アカプルコ・カルテル】の抱える【特殊高火力殲滅部隊「onyx」】を真っ向から叩くことであった。
 カルテルの大きな資金源である麻薬農園を焼き払いに掛けるのはあくまでもオマケに過ぎない。多くのソルジャーを動員させたのも確実に【かの殲滅部隊】を殲滅するためだった。
 カルテルを下せば南米を掌握したも同然である。その出自はともかくとして【アカプルコ・カルテル】を南米の主たらしめたのは組織に忠実なキリングマシンの【onyx】に他ならない。
 ラテンアメリカの裏社会を牛耳る【アカプルコ・カルテル】を統合吸収する事こそが【アダムズ・ビル】の目的だった。

 敵陣営の中で再度銃声が轟くも枝葉に吸収されてしまって、それはまるで鈍い殴打音のように聞こえる。
 シャハラザードがどうなったかは依然として分からない。しかし今は彼女の生存を信じるしかなかった
 形振り構わず、森の中をひた走る。不格好でも何でも構わない。ホールドオープンを訴えかける武器ですら疲労しきった身体には重たかった。
 木々の切れ目がとうとう見えてくる。今まで暗い森の中を駆けずり回っていたせいか、柔らかな丸い木漏れ日でさえ閃光弾のように感じられた。
 遮蔽物を抜け、急接近するのは赤く燃える太陽。そして眼前がホワイトアウトする。

 『肉を切らせて骨も断たせろ。結局のところ最後まで血が流していた方が勝者だ』

 金刺繍をたなびかせ葉巻の紫煙を燻らす絶対君主の声が浩文の脳内にこだました。
 そして【onyx】の背を追う軍勢のどよめきが、遮蔽物を失ったことにより一層鮮明に抜ける。
 そう、遮蔽物は現在無い。敗走を演じて蜂の巣にされるのは御免だった。もっと早く動け、と疲労物質の溜まりきった両足を叱咤する。 

 彼らは遂に森を抜け、戦いの舞台を移した。



 二人は遂にばらつく銃声が降る国境の町に立つ。そこは山林と隣接した小さな町だった。
 金髪の男が纏う香水と打ち鳴らすヒールの音を絡める空っ風は薫風に変わり、段々とその色を夕へと微睡ませる空へ溶けていった。
 トレンチコートを羽織った男は傍に控える白毛の青年を見下ろす。
 青年と視線がかち合うことは無い。
 元々この町で暮らしていた住民らは逃げてしまったのか、家々に息を潜めているのか、はたまたそのどちらか分からないがこの町は乾いていた。

「なんとか間に合ったな」

 突如銃声が山を抜け、一等大きく鮮明に響く。

「ああ」

 密林の第一線を抜ける軍の怒号。
 抗争は遂にメキシコ市街戦へと移ったようだ。
 全てはあの野犬の計算通り。示し合わせたかのようにこの町で鉢合わせたのも彼の狡猾さのためだった。彼の軍隊は聞いた話と数分も違わずにメキシコへ抜けたのだ。
 あの酒場での夜、彼は全てを聞いた。何故自身の部下を遠く離れたイタリアの地へ置き去りにしたのか、どのようにして多勢に無勢であるビルの軍勢を下すのか、その勝算、そして作戦の概要。
 要は密林戦ではなく市街戦にあったのだ。

「はは、困ったな。前線を退いてもう長いんだ」

 独りごちて、トレンチコートの懐を探る。
 口ではそう言ってみたが久方振りに握るベレッタのグリップは存外手に馴染んだ。過去と違うのは引き金と肉の境に黒革一枚を隔てるようになったこと。
 彼と共に過ごしたこの1年間で使い古した今更を改めて問う。

「Jose, are you OK?(任せたぞ、ホセ)」

 自分より遙かに小さな背中に全てを預ける日が来るとは。
 リチャードは背中越しに彼を見遣った。

「Sir,yes,sir. My Boss.(うっせえ。バーカ)」

 ホセは反して真っ直ぐ前を見つめたままで。しかし返事はそれで十分だった。

「もう鎖は要らないだろう。好きなように食い散らかせ」

 言うより早く、リチャードが立つ方向の街角の物陰から武装した男が一人姿を現す。
 【onyx】の隊服ではない、ビル陣営の兵だった。兵は閑散とした町に立つ異様な二人の男に一瞬たじろぐも、前に立ち塞がる者を滅さんと銃を構えた。

「やれやれ。躾もされていないのか」

 リチャードが瞳を伏せると、金刺繍が如し長い睫毛が瞬く。
 しかし一弾指、兵の首から間欠泉のように鮮血が迸った。
 空を裂く弾道の余波がリチャードの長い髪を揺らし、次第に硝煙のきつい香りが漂ってくる。ホセはいち早く敵の気配を察知することで半身を翻して、引き金を引いていた。
 抜かれた大口径の銃口は猛る獣のように煙を吐き出している。
 兵の顎門はホセが構えるデザートイーグルと業火のフルメタルジャケットに食い千切られていた。
 まるで鷲が獲物を攫う急襲のようにその命を矢庭やにわに絶つ。
 赤い眼光たなびく縞瑪瑙が如き彼の瞳は自らの主に仇なす者を射貫いていた。

『ボス、オレはアンタの銃だ』

 ナポリで交わした最後の契約と彼の覚悟が脳裡を過ぎる。
 リチャードは黒革に包まれた指でベレッタの安全装置を押し下げた。轟轟音の中にあっても何物とも混ざらない、かちり、と固い音。
 暫く振りに戦場で聴く【それ】はやはり錠前を外す音に似ていた。

ⅩⅩⅦ


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