複雑・ファジー小説
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- What A Traitor!【第2章6話更新】
- 日時: 2019/05/12 17:48
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
- 参照: 日曜日更新。時間帯未定。
全てに裏切られても守らねばならないものがあった。
※
【これまでのあらすじ】
十年前、アメリカンマフィア【アダムズ・ビル】の幹部であったリチャード=ガルコは拳銃自殺で死んだものとされていたが、彼は祖国イタリアの架空都市トーニャスにて契約金次第でどんな事でも行う裏社会の代行業者【トーニャス商会】の代表取締役を務めていた。
リチャードの目的とは何なのか? そして究極の裏切りの末に笑うのは果たして誰なのか──。
米墨国境の麻薬戦争を終えて、アルプスの裾野であるトーニャスにも寒い冬がやって来た。リチャードは旧友と呼ぶある男から連絡を受け日本広島へと向かうが、それはこれから巻き起こる戦争の幕開けに過ぎなかった。
舞台は粉雪舞い躍る和の国日本へと、第二章継承編始動──。
※
閲覧ありがとうございます。
読みは【わっと あ とれいたー!】
作者は日向です。
ペースとしては大体300レスくらいで完結したらいいかな、くらいです。
【注意】
・実在する各国の言語やスラングを多用しております
・反社会的表現、暴力表現、性的表現を含む
・表現として特定の国家、人種、宗教、文化等を貶す描写がございますが作者個人の思想には一切関係ございません
【目次】
序曲:Prelude>>1
1.麻薬編~Dopes on sword line ~ >>3-33(一気読み)
2.継承編~War of HAKUDA succession~>>34-55
壱>>34 弐>>35 参>>36 肆>>37 伍>>38 陸>>39(最新話)
※全話イラスト挿入
用語解説&登場人物資料>>2(NEW1/26更新)
【イラスト】
※人物資料>>2へ移転
タイトルロゴ(リチャード)>>10
麻薬編表紙>>3
麻薬編扉絵>>30
継承編表紙>>34
参照2000突破>>14
参照3000突破>>21
参照4000突破>>28
1周年&リチャード誕生日>>35
参照6000突破>>38
※Traitor=裏切り者
since 2018.1.31
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅡ更新】 ( No.15 )
- 日時: 2018/07/03 00:46
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=958.jpg
ⅩⅢ
————21年前、メキシコ=アカプルコ。
メキシコはアカプルコ。
貿易商と観光業に依る観光都市として栄え、各国の要人らを初めとする富裕層の五感を悦ばせる。
太陽と大地の境目をとっぷりと埋めるウルトラマリンブルーは艶なり。風吹けば濫立する椰子がラテンの熱をひたすら煽る。星を鏤めた濃紺の帳を背景に、富める紳士淑女は夜毎美酒を片手に遊戯した。
最近開通したハイウェイでは様々な高級車がエンジンを噴かす。笑う太陽にあてられた金属光沢はまるで厚化粧のように思えた。
海上リゾートが有名なのは勿論のこと、アカプルコは白いビルやホテルが多い。青と白が織りなす爽やかなツートンカラーは人々をより一層深い非日常へと連れ去った。
真昼は白浜と競う建築物のスペクトル乱反射。玉蟲色をしたサングラスの下に広がるマスカラアイシャドウは何ミリリットルか。日暮れにて情熱の球体スカーレットは鴎の歌に送られる。綺羅燦然絢爛豪華を極めるメキシコの宝石は決して輝きを失わないのだ。
目下のすっかり漂白されてしまったアカプルコを見下ろして、青年は一人歯軋りをした。
何事にも裏はあるものだ。と、これは誰の言葉だっただろうか。
風光明媚なランドスケープも、少し郊外に出てしまえば地獄の入り口へとその顔つきを一瞬のうちに変える。
どれだけ砂浜に陽光が降り注ごうとも山間部には気付けば暗雲が立ち籠めていた。鈍重な鉛色をしたどん詰まりの空、海浜に広がる蒼穹の皺寄せを喰うのはいつもの事だった。急激且つ無理な都市化は確実に沿岸部と山間部の経済格差を広げていた。
ここに正義など無い。縋りついて助ける神もいない。あるのは暴力と麻薬、そして貧困だけだった。
爛れた性の匂いに色付けられたむせ返るような硝煙とドラッグの刺激臭が路地に満ち、それは凝縮された後にどす黒い廃液となってアカプルコに生きる彼らの血を汚した。
路上に力なく横たわるホームレスには蝿が集り、生ゴミが辺りに散乱している。散乱した衣類と数日前の新聞。衛生状態は劣悪、ゴミと排水の臭いが路上に漏れ出ており文字通りその環境は酸鼻を極めた。瓦礫の上を毒虫が這い、濡れそぼったドブネズミがその上に足跡を付ける。危険信号を示すシンナーの黄色い袋が湿った風に転がされ、銅線枝垂れる電柱に張り付いた。
幼子の泣き叫ぶ声と年増女の罵声を遠く聞く。そして肉の殴打音。
壁から剥がれた蛍光スプレーの粒子が舞っているような気がして、青年はその不快感から瘴気を追い出そうと試みた。しかし乾いた咳を三回しても何も変わらない。この街自体が腐っていることなど産み落とされた時から自明の事だった。
犯罪の跋扈する悪の吹き溜まり、死せる腐肉の掃き溜め。これがアカプルコのもう一つの顔だった。
そしてそのようなストリートで生き抜こうとする者達が存在した。彼らは外野から【ストリートチルドレン】と区別される人種だった。
露天商や行商等のインフォーマル産業が沿岸部にて急成長を遂げたフォーマル産業に吸収されなかった為、ストリートチルドレンやホームレスが増えてしまったと表向きではそう言われている。社会保障の欠如と不安定就労、そして児童虐待や薬物犯罪の温床。治安維持の為、と時には暴力に依る排除の対象にもなっていた。
肉親がいるが養育放棄からグループに入る者、家庭の収入を助けるため相互扶助関係を結んでいる者など一口にストリートチルドレンと言っても俗に言う浮浪児だけで構成されている訳ではない。
安い労働力として買い叩かれ、庇護の代わりに肉親から性的奉仕を求められる日常。少な過ぎる収入は元締めに搾取され、残りは薬物に消える。
夕暮れ、彼らは帰路に着く。屎尿の悪臭満ちる蛆湧きのマンホールが彼らの唯一つのエデンだった。雨風を凌げるのは勿論の事、アカプルコの強烈な日差しさえも遮ってくれた。しかし夏は籠もる熱と湿気から熱射病に倒れて帰らぬ人となる仲間もいる、去年も一人亡くなった。だがあの鋼鉄の窖を離れる選択肢は彼らに用意されてなどいない。絶え間なく降り注ぐ不当な暴力と世界の理不尽から守ってくれる堅固なシェルターにも等しかった。
娼館からは醜女の甘えかかるような嬌声が灰の十字路に反響する。荒い息と態とらしい善がり声が昼夜関わらず響き渡った。このストリートでは女性に安定した職など与えられず、エイズや性感染症の危険性と隣り合わせで日銭を稼ぐしか生きる道はない。生命とは何か、ヒトが人たる尊厳の剥奪が此処にはあった。
アンモニア臭漂うユートピアへと少年少女はひた歩く。今日の収穫は露店商から盗んできた小振りな果実四つと牛乳二パックだ。これを皆で分ける。性別年齢体格を考慮してリーダーが平等に行き渡るようにするのだ。
暫時甲高く大袈裟な絶叫と、奥歯で噛み殺された唸り声が絡み合って二階の窓から、目の前に降ってくる。
一人の少年がふと視線を地面に遣ると、娼館の立て看板の陰にぼろ布に包まった【何か】を見つけた。
黒い肉片と悪露が絡んで膠のようになった粗末な繊維。青白く小さな腕が助けを求めるように力なく虚空を掻くのを見た。
少年は息を呑む。
生きた人間の赤ん坊で間違いなかった。
「イド、やめとけ」
リーダー格の青年からイドと呼ばれた少年は赤子の前で立ち止まったまま動かない。
少年は名をイダルゴといった。齢六つにしてストリートチルドレンのグループに属している。塵を被った髪と対照に意志の強い光を宿す瞳。無論彼らの中では最も幼く、庇護される立場にある。肉親は母親が一人いるのみで、彼女もまた娼婦として働いていた。自宅で客を取り、その日を生きる。イドは生まれてこの方暖かな母性に触れた覚えがなかった。家で待つのは、獣のように快楽に喘ぐ雌の顔をした女だった。彼女の腕の中にいるのは自分ではなく毎夜顔の違う男。彼女の乳房に触れ、その先端を口に含むのは自分ではなく、羽振りの良い不特定多数の男。
彼の父親は客から伴侶へと昇華した中年男だった。父と笑い合った記憶はおろか、もう顔すらも覚えていなかった。4年前に出稼ぎの為に米国へ渡ったが以来音信不通となっている。養育放棄だった。自分で歩けるようになって自身を取り巻く世界を知覚したとき、路上で暮らす【彼ら】の門を叩くのにそう時間はかからなかった。
イドは泣かない赤子を見下ろし、無意識に手を伸ばそうとする。
黒血を吸った布きれから覗くのは青黒い臍の緒。赤子の顔にも血がこびり付き、この世に生まれ落ちたその直後路上に捨て置かれたことは想像に難くなかった。
メキシコの主要宗教はキリスト教である。そしてカトリックに堕胎は許されない。赤子の母親は避妊すら出来ない環境に置かれ、育てる力も無く、父親すら不詳で頼れる人もいなかったのだろう。破水の不安と闘いながらも自身が生きる為に反り立つ欲を喉奥まで咥える。ドル紙幣で頬を叩かれ喉を鳴らす刹那、腹を内側から蹴られる。膨れた下腹部と大きな葛藤。
否、何の感慨も抱かなかったかもしれない。
「イド」
青年は無感情に二度目を告げる。
イドは青年を振り返って、舌っ足らずに口ごもった。
「でも。このままじゃ死んじゃうよ、ジョム」
グループリーダーである青年の名はジョムといった。齢は今年で18になる。このストリートで今日まで生き抜き、十字路の掟を知り尽くしている者の一人だった。
イドを見下ろし、昏色の声で低く諭す。
「人ひとりをグループに入れるということはお前の食べる分だって減るんだ、分かってんのか。しかも腐りかけのゴミ溜めから拾ってくるもんじゃ駄目なんだよ、リスクを犯してミルク手に入れなきゃいけない。お前がそのガキの面倒を見るってえのか? 無理に決まってる」
彼の言葉を受けて、イドは力無く俯いた。
彼らだけではなく、このストリートでは生活に余裕のある集団は存在しない。ましてや摂食や排泄も一人で満足に出来ない赤子を引き取るなど自殺行為にも等しかった。命を賭して露店から食べ物を盗み、足りないときは屑籠を漁り、暴力を覚悟して物を乞う生活で命を繋いでいる彼らにはお荷物でしかない。
人口集中は破綻を招く、言外の意味などまだ把握しきれない幼いイドは上目遣いにジョムを見た。彼らもまた純白に隔絶されたアカプルコの、メキシコの縮図だった。
「でも」
「デモもストもねーよクソッタレ。イド、無理なもんは無理なんだ、置いていけ」
歯切れの悪いイドにジョムは語気を荒げる。しかしイドは押し黙って今度こそ彼の瞳を見つめ返した。
イドは娼館の裏に捨て置かれた赤子に自身を重ねていた。このまま放っておけば死は避けられない。夜が更ければ肋骨の浮いた野良犬が赤子の額に涎を垂らすだろう。払暁には音も無く柔肌を切り裂き、軟骨は凶牙の前にこじ開けられる。命が内包する鉄臭い水分を啜る音と共に次の朝が来るのだ。
二人の後ろに控えていた坊主頭の少年がおずおずとジョムに声を掛けた。
「ジョム、もう日が暮れる。露店のジジイ、ここまでは追っかけてこねーとは思うけど……そろそろ行かなきゃ。みんなもきっと腹空かせてる」
ジョムは坊主頭の少年の言葉に首肯し依然として動こうとしないイドの手を取ろうとした。
しかしその瞬間、夕刻の静寂はぴりりと破かれた。突如としてくぐもった声が十字路に大きく跳ね返る。声の主は坊主頭の少年に背負われていた小さな女の子だった。
少女は自身を背負っている少年の肩やら頭を少々乱暴に叩いて、下ろすように乞うた。少年はジョムとアイコンタクトをとった後に苦笑しながら屈む。
自由の身となった幼女はよたよたとジョムに歩み寄って、彼の腕に抱きついた。そして彼の手を引き掴んで煤に塗れた掌に彼女の細い指を押し当てる。
幼い少女は鼻息を荒くして、時々声を漏らしながらもジョムの掌を柔く引っ掻き続けた。
(でも、ジョムも、反対されました、あなたの仲間から。しかしあなたは拾ってくれた、わたしとイドを。ジョムのおかげでわたしは出来ています、生きること。だから——)
語順の滅茶苦茶な拙いアルファベットをひた連ねる。公教育を受けていないため上手く文字を綴れない。次の言葉が上手く出てこず焦ったようにジョムの掌をとんとんと叩く。
ジョムは嘆息しながら手をゆっくり引っ込めて、少女の柔らかい髪を撫でた。
「エバ」
栗色の長い睫毛に澄んだ大きな瞳。煤けた粗末なワンピース。ジョムの口唇の動きから自分の名前を呼ばれたことを読み取り、少女は笑った。
エバはイドと同い年の、聾唖の少女だった。
彼女もまたこのストリートで生まれ育ち、貧窮に喘ぎながらも両親と彼女の三人家族で助け合いながら暮らしていた。父親は街中の清掃業、母親はエバと共に靴磨きを。
しかしエバに聴覚障害があることが分かると少女の両親は途端に蒸発してしまった。家の内壁に使われている崩れた煉瓦を山に捨ててくるという仕事を頼まれ、数時間かけて家に帰るともぬけの殻になっていたのだ。現在もエバは両親の所在を知らない。労働力の無い【不要な子供】とみなされると捨て置かれる事もまたこのストリートの尋常である。お前は無価値の出来損ないだと言外に突き付けられ、愛する家族に裏切られた彼女の精神状態を推し量ることなど到底不可能だった。
そうして心神共に衰弱しきった状態で三日三晩一人で町外れを歩いていたところをジョムたちのグループに保護されたのだった。当時は発話は疎か聞き取ることが難しいエバを迎える事にグループの中でも賛否両論が巻き起こった。しかしジョムが心神を喪失したエバに寄り添い、字を教えた。一方でグループメンバーに説得を続けた。その結果として今がある。
エバは睫毛と同じ栗色の瞳を輝かせてもう一度ジョムに笑いかけた。小首を傾げながら小さな手で彼の腕を左右に振る。
ジョムは頭をがしがしと掻いて、誰に問うでもなく投げかけた。
「おい、先月グループ抜けたのは誰だっけか」
「えっと……ホセ=アルボルノスが18になったから街に出て、あと、うん、女が居た筈だ。名前は、ええと」
坊主頭の少年が応えた。口元に手を遣ってうんうんと唸る。
するとイドが間髪入れずに答えた。
「カミラ=マルチネスだよ、ボクは覚えてる」
そうかとジョムは端的に言うと、赤ん坊のぼろ布を解いて体を確認した。嬰児は男児だった。
体を拭かれた形跡は無い。しかし鱗のように乾いた血液に覆われているものの目立った外傷は無く、極端に痩せている訳でもない。
その時初めて赤子は鈍く小さな声を上げ、そして笑った。
エンジェルスマイル。それは目も見えない耳も聞こえない生後間もなく五感を扱えない嬰児が時折見せる笑みを表す。天使の微笑みとも形容されるこの新生児微笑は防衛本能に依る表情筋の反応と結論づけられているが、赤子の綻んだ顔は彼らに特別な意味と福音をもたらした。
ジョムはぼろ布を丁寧に元通りに巻き直した。
「そうだったな。じゃあこいつの名前は、ホセ=マルチネスだ」
ジョムはイドの頭を二度軽く叩いた。
そしてとっぷりと暮れた赤銅色を背に受けて、彼は一人エデンに向かって歩き出す。待てよジョム、と坊主頭の少年が彼の後ろに着いた。
山間部にしては珍しく晴れ渡った空だった。モーブに薄く色づいたちぎれ雲が還る太陽の為に路を開ける。鯨波を湛える潮騒がここまで聞こえてくる気がした。叢雲を掻い潜った斜陽が射し込み、彼らの輪郭を明るくなぞる。
エバはイドの服の裾を所在なさげに掴んで、彼と共に赤ん坊の前に進み出た。
「ホセ」
イドは新たに仲間と認められた赤ん坊を抱き上げて、そっと彼の名を呼んだ。
ⅩⅢ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅣ更新】 ( No.16 )
- 日時: 2018/07/08 11:23
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=963.jpg
ⅩⅣ
————10年前、ホセ=マルチネス12歳。
路地に捨て置かれていた赤子のホセ=マルチネスが拾われてから優に12年もの月日が経っていた。厚い雲の向こうで沿岸を照らす太陽が傾きつつある午後、昔と変わらないアカプルコの裏。
ホセは12歳の少年に成長し、アカプルコの裏路地で仲間達と共に逞しく生き抜いていた。ストリートで与えられた名前と日に日に増える傷を抱え、彼は自らの二本足でこの生まれ育った地獄に立っている。
しかし表舞台でもメキシコ国会一党独裁政治の崩壊や麻薬マフィアの暗躍など新たな問題が勃発し、国内の情勢は回復の兆しを見せるどころか一層苛烈を極めていた。
ホセは乳児期に満足な栄養を摂ることが出来なかった為に、栄養失調が蔓延するこのストリートの中にあってもやはり彼は一等小柄だった。しかし腕っ節は強く仲間内や他グループとの衝突があっても喧嘩は負け無しでそのうえ刃物の扱いも上手く、今ではグループの中で中心的な存在となっていた。そして年少者には優しく、徒にその力を行使しない姿勢も高く評価されている。
ジョムは疾うの昔にグループから退き、現在はアカプルコ市街地の建設現場で働いていると風の噂に聞いた。ホセも18歳になりグループリーダーを務めるようになったイドと彼を陰から支える同期のエバと共にストリートに生きている。
現在は彼らの居住区であるマンホールの中で各々休息をとっていた。相変わらず不衛生でもはや何が源なのか判別不可能な異臭を放つ空間ではあったが、彼らにとって安住の地であることには違いなかった。
ホセは地べたに腰を落ち着け、イドは拾った三日前の新聞を読み、エバは二人と少し離れた場所で髪を梳いている。彼らより年少の者は外で遊び回っているらしく今その姿は見えなかった。
今日は朝市にて店仕舞いの隙を狙って集団で食物を盗み、少ないながらも成果を得ることが出来た。しかし昔とは違って公的組織である警察権力は無法地帯だったこのストリートでもその力を段々と増してきており、食べ物を得られる手段だった窃盗も週にそう何度も行えることではなくなってきている。自然淘汰か人的淘汰かはたまた酔狂な保護活動か、ストリートにいる浮浪児も明らかにその数が減ってきていた。
ホセは一つ伸びをして徐ろに立ち上がり、そして外の明かりが漏れ出る方向へゆっくりと歩き出す。粗大ゴミの中から拾ってきた煤けたソファに座るイドはホセに声を掛けた。
「ん? どうした、ホセ」
イドの言葉にホセは立ち止まり、腹を擦りながら少し笑って答えた。
薄っぺらい衣擦れの音、粗末な生地の黒いシャツに皺が寄る。
「んーやっぱりお腹空いちゃってさ。なんか探してくる」
どんなに体格が小さかろうが貧しい環境にあろうが、彼は食べ盛りの少年に違いなかった。配分された残飯や盗みで手に出来る食べ物で到底満ち足りる筈も無い。
先刻の正午、イドはホセが仲間内で一番小さな女の子に自分の配給分のパンを密かに分け与えていたのを知っていた。今までもそういう事は何度かあったが、イドがそれを指摘すると彼は顔を赤くして否定した。ホセは自身の善行にはやたら弱気で、妙な所で格好付ける節があった。それが結局自身の首を締める結果になったとしてもそれを止めることはない。
彼はこれから何かを探してくると言っていたが、富裕層の食べ残しを求めて街郊外でゴミ漁りをするのが精々関の山だろう。ゴミ漁りは空腹を満たすため仕方無くやることだ、誰も好きでやっているわけではない。小蠅が飛び回る屑籠をひっくり返し、汚泥の溜まった地面に膝を付き、四つん這いになり誰が堕としたかも分からない食べ残しに頭を突っ込む。ホセは共に生き抜いてきた仲間の前でもそれを決してしようとしなかった。
唯今日を生きることに形振り(なりふり)構っていられない筈なのに彼は頑なにその生き方を曲げようとしない。おそらくこれからも、いつになっても、何があっても。
それを痛い程分かっているイドはただ首肯した。
「そうか、遅くなりすぎるなよ。あと今日は警戒が強くなってるかもしれないからそれにも気を付けてくれ」
頻繁に朝市やそういった類いの大きな催行に合わせて盗みを働くと、大人達の警戒は無論強くなってしまう。
ホセは決して頭の悪い少年ではなかったが、時折見せる沸点の急降下や一度狙った獲物への執着の強さからイドは懸念を抱いていた。
「うん」
ホセは短く応を返すと今度こそ外へ出ようと歩みを進めた。だがその瞬間駆け寄ってきたエバがホセの腕に手を伸した。
彼は驚いたような顔つきで手を引っ込めようとしたが、なんとも呆気なく彼女の細腕に絡め取られてしまう。ホセは所在なく手を預けて頬を掻いた。
そして12年前とは違う滑らかな手付きでホセの掌に柔く筆跡を残す。
(私は心配。大丈夫?)
栗色の長い睫毛に縁取られた瞳孔と近く相対した。同じ位置のぶつかる視線。彼女の呼吸音が直接鼓膜を揺する。
そうして最後のクエスチョンマークが打たれた後、ゆっくりと指が離れる。彼の心臓は震えて小さく跳ねた。
「だ、大丈夫だよ……ありがとう」
近頃はエバと居るとどうにも落ち着かなかった。
意思疎通の為に取られた手は熱を持ち、彼女の爪がこそばゆく掌を引っ掻く度に愛おしさが込み上げた。そうして呆けているとエバは「ちゃんと分かっているの?」と頬を膨らませ上目遣いにホセを見る。
彼女が絡めた腕と爪先の軌跡だけがやたらと熱を持った。これまでは家族としてイドと同様に彼女を愛していたが、最近はどうしようもなく動悸がして胸が痛い。今もこの心臓の鼓動が彼女に聞こえていないかそれだけが気がかりだった。
あの少女は灰の十字路にあっても輝きを失わない18歳の美しい女性に成長していた。
ものを言えないぶん力が籠もる彼女の栗色の瞳に見つめられると、つい言葉に詰まってしまう。仲間とコミュニケーションを取るために彼女は人の唇の動きを読む。その美しい瞳は動きを逃すまいと読唇に努めるのだ。ホセはあの真っ直ぐな瞳に弱かった。
この感情を定義付ける術を持たず、好意と呼ぶにはあまりにも幼く青い。それは触れれば溶けてしまいそうなほどの淡い淡い恋心だった。
「それじゃあ行ってくる。なるべく遅くならないようにするから」
******
そうしてホセは一人、アカプルコの裏と表の境目にあたる路地にやって来た。今日はアカプルコ全域で曇りらしく沿岸部にも暗雲が立ち籠めている。潮騒こそここまでは聞こえてこないが時折太平洋から吹き込む湿った風を頬に感じた。路地を縫う潮風と重たい鉛色の空を受けて、体はうだるような湿気に包まれている。黒いシャツは大気中の水分を吸って零である明度と彩度をより一層落とし込めていた。
夕方には雨が降るだろうか、早く帰らないといけないな。
この【境界線】は彼らが生活するストリートから少々離れたところにあり、飲食店が軒を連ねている大通りの一つ山側にある。しかしいくら沿岸部に近いとは言っても所詮裏は裏でしかない。壁には悪童共がネオンカラーとスラングで自己顕示を施し、フィルターが噛み潰された煙草の吸い殻が至るところに落ちている。ぬかるんだ汚泥と犯罪とドープスを孕んだ裏路地と何一つ変わらない。
リゾートからも近いボーダーラインでさえこのザマだ。いくら表向きを見目麗しいビル群で漂白と除菌を重ねたとしてもこの街の本質は変わらないだろう。ホセは一人下唇を噛んだ。
わざわざ遠い場所まで足を運ぶのも全ては仲間に見られたくないが為だった。
貧困は惨めだ。12年生き延びてきて未発達な視覚にはあまりに重過ぎるものと数多行き遭ってきた。泣き叫ぶことすらも許されず、死さえも救済と思える程の阿鼻叫喚。故郷は蔓延る麻薬に焼かれている。害虫の湧くエデンにて仲間と褥を共にして、この地獄の中に在っても生き様だけは気高くいたいと思っていた。それこそが人間としての尊厳を剥奪された自分でも此処に存在しても良いのだという依り代だった。一種の祈りにも等しい支柱。
暫く徒歩で裏路地を彷徨っていると行き止まりに突き当たった。しかし同時に飲食店のものと思しきダストボックスを見つけることも出来た。
静かに駆け寄って蓋を開ける。廃棄したてなのか定期的に手入れされているのかは分からないが、匂いは大丈夫そうだ。食べられないほど腐っていない。
自立型のゴミ箱を横倒しにして食べられそうなものを探す。勿論紙ゴミや可食部ではない固い野菜くずが多いが、まれに客の食べ残しやオーダーミスでそのまま廃棄された料理が放り込まれていることがあった。
「あっ」
思わず喜色を含んだ声が漏れてしまう。袋詰めにされた賞味期限一週間前のバゲットを発見したのだ。密封されており普段よく見る緑色のカビは視認出来ない。【消費期限切れというだけ】で廃棄するなどよほどの高級店なのだろうか。しかしそんなことは些末な問題だ、腹を満たすことが先決である。
焦る手で透明な袋を破る。更に水分を失って石のように固くなっていたが、唾液で戻しつつ無我夢中で貪った。
胃に落ちる感覚に至福を覚えた瞬間、密かな足音と同時に煙草の匂いと酒臭さを感じた。
背後に、誰かいる。
強烈な酒気と紫煙がより一層鼻を突く。
「こんなところに猿がいるなぁ」
低い声が渦巻き管に到達した刹那、髪を引き掴まれ汚泥の中へ仰向けにされた。
同時にゴミが散乱した。
「痛——!?」
涙に滲む視界。声の主は光と感情の籠もらない死んだ目をした中年男。朝の露天商の主人でもなかった。
誰。
しかし間髪入れずに男の拳がホセの鼻目掛けて振り下ろされた。
「ッ——!?」
衝撃に発熱し、小鼻がひしゃげて血が噴きだす。歯茎ごとへし折られるかのような巨大質量。半身を起こしていた体は再び泥の中へ打ち付けられる。一拍遅れる激痛と恐怖。
男の拳にホセの鮮血と唾液がべっとりと付着した。
「うわ、汚えな」
ホセのシャツで乱雑に手を拭うと、男は今度は彼を足蹴にした。
底の磨り減ったサンダルが腹にめり込む。
男は咥えていた煙草を手に持ち替えると彼の顔目掛けてそれを落とした。
「ぉえ……ぐッ!?」
熱と血に混じる灰。顔面で燻る火種に半狂乱で首を振った。
男は全体重を愉悦に任せて彼の下腹部に乗せる。退かそうと男の脚を掴むが力の差はどうやってもひっくり返すことが出来ない。仰け反り衝撃を逃がそうとする。苦悶に眼球が何度も反転した。
抗う度に胃と腸が悲鳴を上げる。情けない声と漏れ出る空気の振動、そうして遂に胃の内容物を吐き出した。仰向けのままで口や喉に残留し呼吸もままならない。
「許可無く猿が喋るんじゃねえよ」
シャツの胸ぐらを掴まれ吐瀉物に汚れた顔を晒される。そのまま引き摺られ、突き当たりの壁に押し付けられた。
後頭部を打ち付け、未消化の物が大量の唾液と共に服へ垂れる。
「ぅあ……」
頬を張られた。何度も何度も繰り返される。
一弾指、食い縛った口内に奥歯が触れたらしく血の味が広がる。鼻から合流した鉄錆を力なく口から垂らすしかない。
「お前らみたいな下等生物は黙って人間様の玩具になってればいいんだ」
「ゃめ」
それでも止まない。意識も飛ばない。
男はひとしきり顔面を蹂躙すると痛みを与えるのを止めた。
「悪い悪い、可哀想に血が出ちゃったなあ。消毒してやるよ。感謝しろクソガキ」
半分開かなくなった瞼の隙間から視界を拾うと、男は徐ろにズボンのベルトに手をかけた。
アルコールが徐々に分解されつつあるのか、震える手で金属音を呼ぶ。
目が逸らせなかった。
露わになったのは黒ずみ萎びた男の性器。大人の排泄器官を間近で目の当たりにするのはこれで初めてだった。
顔に粘ついた先端が触れ、そのまま頬に押し付けられる。それは裏路地の地肌と比較しても相違ない不快なぬかるみのようだった。醜悪に息を呑む。引き攣った顔面の筋肉に沿って執拗に撫で付けられる。何度も肉の露出した切り傷に触れ、破けた表皮を捲る。ひたすら痛みと羞恥と倒錯に苛まれた。
どれだけ願っても逃げることは叶わない。
「ひ、ぁ」
滑る頬と酒精に占められる呼気。
嗚呼、眼前の男は消毒だとか言っていたか。
痛みに苛まれノイズが奔る脳味噌でも、次に何をされるのかは容易に察しが付いた。
「やだ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、それだけはやめ」
懇願と声の震えに合わせるかのように垢の詰まった尿道が痙攣する。
背後は壁、膂力に髪を引き掴まれ逃げる事は疎か顔を少しも動かせそうにない。髪を掴む拳には更に力が籠り、毛切れを起こす音が大脳に響いた。
とぷんと満ちてくる汚水を視認した瞬間、ホセは目と口を、顔のありとあらゆる孔をぎゅっと閉じた。
狂気、憎悪、殺意、恐怖、震駭、空虚、自棄、怨嗟、無念、絶望、諦観。
そして下卑た水音が降る。
「ッ——!!」
視界をブラックアウトさせた一拍子遅れ、液体を感じた。
濁った黄色が辺りに飛び散る悍ましい音が路地裏に反響し、耳朶をなぞって滲出した。浴びせかけられる一種の欲は髪の一本一本を伝って頭皮に染み入り、脳を犯される。
アルコールのトリガーによって降りかかる嫌悪は止むことなく、更に勢いを増した。
どれだけ力を入れて顔を強張らせても強酸が如く引き結んだ唇の皺、体中の毛穴、60兆個ある細胞の隙間を溶かし内部の体組織を犯そうとする。顔が穢され、首筋を伝ってそれは服を濡らした。どこまでも染み入って繊維が重くなる。
どうして。嫌。何で。
軟口蓋が震え、今しがたものを放り込んだ胃が制御不可能に蠢動し、喉奥から何度も何度も低い音が絞られる。
「口開けろよクソガキ、なあおい聞いてんのか、無視してんじゃねえぞ」
一瞬の衝撃。下腹部に膝が重く入る。肋骨が軋み、腹筋から上の筋肉が全て痙攣する。
そうして反射的に口を開けてしまった。
くぐもった声を押し出し、唾液を散らす舌。遠くなった耳は何処か満足げな男の呼吸音を知覚した。
頭を抑え付けられ一挙注ぎ込まれる。嗅ぎ慣れ馴染み無い味が、ずたずたに切れた口内に染みた。男の体液が傷跡をなぞって体内に滲出する。アルコールの絞り滓が犬歯の隙間を縫って押し寄せる嘔吐欲求。
黄ばんだ不浄が味蕾を犯し、一時的な至福から生理的嫌悪へ書き換える。
熱いのか冷たいのか分からない不透明な液体は舌下から分泌された粘度の高い唾液と混ざってどこまでもしつこく口内に残った。
「がッ……っうぇ、お、あ」
声と涙で唾液と胃液で押し流す。コンクリートの粗い壁面に押し付けられ黄色く濡れた髪共々頭蓋骨を摺り下ろされた。
次に口を閉じれば何をされるか分からない。汚穢を閉じ込めたままでいたくも無かった。
無制限に染み出す唾液が唯一の拒絶。瞼の裏で何度も眼振が起こった。生理的反応に依り涙腺から水分を引き摺り出す。しかし濁流はキャパシティを超えて喉奥に一筋流れ込んで胃に落ちた。
一体どれほどの時間蹂躙されていたのかもう分からない。ノイズに焼き切れた中枢神経、思考を放棄してどれほど経っただろうか。
血痕の残る壁に凭れて焦点の定まらない双眸で男の方向へ虹彩を力なく移動させる。男は此方に背を向けてシャツを整えていた。そして胸ポケットから紙巻き煙草を取り出して、安っぽいオイルライターで火を点ける。路地に引き延ばされる紫煙。麻痺した嗅覚をそのまま殴る紫煙。
数秒後ホセの視線に気付いた男は無言で歩み寄ってきた。太陽の向きが変わるほど時間が経っていたらしく、逆光で男の表情は見えない。
嗚呼、また顔を殴られるだろうか、今度は腹を蹴られるだろうか。今度は何されるんだろう。あれよりひどいことかな。でも痛いのは嫌だな。あんなに痛いくらいだったら、もう。
「ああ良かったなあ、綺麗になって」
濡れそぼった顔にかかるのは酒気帯びの二酸化炭素と副流煙のトップノート。血の付いた拳を開いて自身の体液にまみれた少年の頬に優しく触れる。
男は不気味なほど慈愛に満ちた声と笑みを以てホセの頭を撫でて、それからは一度も振り返ることなく路地裏を後にした。
気が付けば山向こうに還ろうとしている太陽の燃える頭が見えた。充ち満ちる路地裏の瘴気は何処へか、空気は嫌味なほど澄んで黄昏を含んでいた。
イドとエバに言い付けられてからもう何時間経ったのだろうか。
地面に浮くいつもと変わりない虹色の混合油を眺めていたら、いつの間にかその水面は純な鬱金色を写していた。夕暮れの色かそれとも。
ああ帰ろう。帰らなきゃ、みんな待ってるから。
体に纏わり付く煙草の残り香とアルコールの残滓、そして生乾きの尿。それは無慈悲な手で刻み付けられた掠り傷と切り傷に染み入って、もう消えない気がした。痛めつけられた骨身は何をするにも自重と圧力に軋み、筋繊維はぼろぼろに解けていくようで。
痛い。臭い。汚い。穢い。
ホセは時々膝を折りながらもコンクリートの壁を伝い歩き、そして空を仰いだ。美しい夕べには焼けた無窮が広がり、彼と同じ方向に巣のある鴎は先導するように風に乗る。
鴎の白い腹を見て、彼は路地の入り口で吐ければ吐けるだけの胃液を再度口腔へ送った。
ⅩⅣ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅤ更新】 ( No.17 )
- 日時: 2018/08/03 21:04
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: 2mVH7ZuJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=975.jpg
ⅩⅤ
「ホセ、お前どうしたんだ? その傷……」
「ちょっと」
「ちょっとって……そんな訳ないだろ」
マンホールに辿り着いたのは、日も疾うに暮れきった濃紺の時間。
ソファに体を預けて微睡んでいたイドだったが、ホセの姿を見るなり飛び起きた。
腫れ上がった顔面と内出血で紫に滲む瞼、痛々しい切り傷から広がる表皮の裂け目、濡れて生乾きのシャツ。
夕方見送った姿とはまるで違う異形。言わずとも彼の身に何かが起こったことは一目瞭然だった。
ホセはイドの前におぼつかない足取りで進み出ると、目を合わさずに言う。色の籠もらない声と陰を落とし込めた瞳には光が射さない。
「イド。オレ臭くないかな」
「え——臭いって」
あの後は近くの公衆トイレで全てが消えるまで全身を擦った。
薄い皮膚を掻き壊してまで上書きしたかったあの忌まわしい記憶に血が滲む。
傍目から見ればシャワーを浴びることの出来ない貧困層の子供がトイレの水道で水浴びをするという何とも同情を誘う光景。街ゆく小綺麗な大人たちに警察を呼ばれなかっただけマシだろう。
水道の前に立って、口をゆすいでも、喉奥まで水を流し吐き出しても、あのおぞましい感触はどうやっても消えてくれなかった。
そして濁流が一滴となり臓腑へ流れ込んだあの瞬間がフラッシュバックする。
ホセは衝動的に蛇口をひねった。これ以上水流の勢いは増さないのは分かっているのにそれでもひねり続ける。もはや水として体を成さないそれは自身を濡らす衝撃波となって跳ね返った。
その衝撃を下から迎え、体重の増加を顕著に感じるほどの生水を胃に流し込む。水流に押し退けられ膨らむ頬、歯間を過ぎる流水、喉を刺すウォーターカッター。
無理矢理不透明な不定形を腹の底へ押しやった。そして事務的に舌を突き出して、軟口蓋を指二本でぐっと押し込む。
吐き方はイドから教わっていた。腐ったものやカビの生えた食物を誤って食べた時にこうしろと言っていた彼の顔が浮かぶ。こんな使い方をするとは夢にも思っていなかった。
生理的反射に依り腹筋が波打ち、消化器官が震えた。内臓は疲弊しきっていたが情けなく絞られた声と共に淀みなく大量の水を吐き出す。
重力に従って水が地面に墜落した。涙腺から引き絞られた靄で煙る視界、過敏になった聴覚。
地面に打ち付けられた水は蝸牛までも犯したあの濁音に似ているような気がして一層の嫌悪を誘う。
ひとしきり洗浄が終わった後は薄い緑色をした油膜の張った水がだらしなく口から糸を引いて垂れるだけで、固形物はもう出てこなかった。
「別に気にならねえけど……」
イドは二重の意味を込めて訝しげにホセを見る。その眼差しにあてられると刻み込まれた傷が熱を持った。
ホセはイドの返答を受け、彼の顔を見ないままに首肯する。
「そっか」
同時に幾分か救われたような気分にもなった。
恐怖と裂創を植え付けられ、頭から歪んだ欲を引っ被った自分だとしても穢れは残っていないのだと錯覚出来る。
イドは二度瞬きをすると、努めて明るく歯を見せた。
「血は止まってるみたいだし。まあ大丈夫か、傷口が腐らないように気を付けろよ」
「うん」
イドはそう言うとソファからやおら立ち上がり、マンホールの奥の方に向かって歩き出した。
劣化したダンボールと喧しい色をした包装紙を踏み分ける音がコンクリートの壁に一定のノイズと共に反響する。
そして剥き出しの汚水配管に跳ね返ってアタックがぼやけた彼の声がホセの耳に届いた。
「何があったかは聞かないけどさ、シケた面してんなよ。ほら【アレ】やってみるか?」
マンホール奥から戻ってきたイドはおどけた仕草で口元に右手を遣り、そして深呼吸する。一瞬にして彼の頬に浮き出る恍惚の色と虚ろに融ける虹彩の輪郭。
ホセは痛む喉を上下させ、生唾を飲み込む。
彼の左手には小振りのアルミ缶と皺の寄ったビニール袋が握られていた。
彼の言う【アレ】とは有機溶剤の吸引である。
最近になってイドも手を出したらしく、髄液を揺らすような刺激臭を纏ったままマンホールに帰ってくることも多かった。流石に10歳に満たない子供達と通気性の悪いマンホールで吸引することはなかったが、最初は勿論ショックを隠しきれなかった。
脳を焼かれ廃人同然になった大人達、そして薬に溺れて大人になりきれなかった仲間達をホセは腐るほど見てきた。
イドも彼らと同じような末路を辿るのだろうか。臭気にあてられぐるぐると中枢神経に酔いが回る。ホセはこれまで泥を噛んで共に生き延びてきた彼の堕落だけはどうしても見たくなかった。
この地獄にあっても導きをもたらしてくれる気高い彼に救いを見出したかったのだ。しかしそれは叶わなかった。
どんな人間だとしても最期はこの路地に殺される。神も伝道者モーゼもこの世界にはどこにもいないし、淀んだ瘴気と薬瓶の亡骸ばかりだ。結局のところ金と暴力が支配者なのだから。
そして羽音の絶えない楽園にシンナーと吸引具があることにもひどく動揺した。自分が知らなかっただけでイドはもうシンナーを手放すことが出来なくなっているのだろうか。
もう何も考えたくなかった。
一過性の麻痺が残る顔面の筋肉を操作し、口角を歪める。
上手く笑えているだろうか。
「あー。ううん、いいや」
ホセは有機溶剤やドラッグの類いには手を出さないことを今よりずっと幼い頃から決めていた。
決して好奇心が無かったわけでもなかったし、薬物を体に入れることが仲間と認められる第一種のライセンスになっていた風潮があったことも否めない。
しかし薬物を拒むことは人間として生きられなかったヒトのなれの果てを見せつけるストリートへ捧げる一種の復讐であるとさえも考えていた。
体液が滞留して重たくなった瞼を押し上げたならば、地面に強く打ち付けられた眼窩が軋んで骨片を零しそうになる。
ホセはここで初めてイドの顔を見た。
「ん、そうか」
幸運なことに彼の顔に怒りや失望の色は張り付いていなかった。
ホセはゆっくりと瞬きをし、鼻から深く息を吐き出す。今イドに拒絶されればそれこそ【生きてはいけない】のだ。
だが安堵したのも束の間、彼は次にズボンのポケットを探った。
「それじゃ煙草はどうだ? ケースごと落ちてた」
自然な動作で差し出されるソフトケースに瞳孔と汗腺が開く。
手を出そうとしないホセにイドは返答を待たずケースとライターをぐいと押し付けた。そうして押し付けられるがまま受け取ってしまう。
刹那、皺の寄ったビニールの感触に全身が強張るのが分かった。
煙草。
あの匂い。
嗅細胞が一斉にどよめいて嗅覚に紐付けられた先刻の惨劇が蘇る。
有害で燻される路地裏、顔の中心に振り下ろされる拳、膂力にひしゃげる鼻梁、迫るアルコールの呼気、そしてアンモニア臭に塗り潰される五感。
脳を占める阿鼻叫喚に耐えるように奥歯を噛み締める。それでもフラッシュバックする羞悪に犬歯がかち合わず硬い音が頭蓋骨にひたすら響いた。
痛い、酷い、惨い、嫌だ。なんでいまこんな、こんな。
「ホセ。ホセ? なあおい、どうした?」
イドの声で一気に現実へと引き戻され、息を呑む
「——ッ! な、なんでもない!」
「でも顔色悪いぞ」
現れた煙たい幻覚をマンホールに満ちる慣れ親しんだ毒気で何とか押し流した。
しかしイドは訝しげにホセを見つめる。ここで彼にバレるわけにはいかなかった。勿論心配かけたくなかったというのもあったが今はただただ口に出すことすら悍ましい、その一点のみだった。
イドの視線を取り繕うように煙草を一本取り出し、ライターを右手に持ち替える。
緑色の透明なオイルライターは三回目の打ち石でようやく火球を吐き出した。そしてホセは眩惑の残り香からくる筋肉の痙攣を何とか誤魔化しながら、火を煙草のフィルターに擦り付ける。
二秒後赤熱する先端部から白煙が立ち上る。それは災厄をもたらした男の後ろ姿からくゆる紫煙と重なった。
いつまでもこうしているわけにはいかない。こうして呆けている間にも煙草の先端部は灰に帰っている。
ホセは意を決して吸い口を犬歯で迎えた。
乾いた紙に前歯が触れ、骨伝導で奇怪な音を聞く。それを振り切るかのように苦虫を噛み潰したような顔で吸い口を噛み潰した。
「——!?」
予想以上に重い衝撃が脳を殴りつける。速攻の頭痛と鼻を抜ける黒い刺激。傷だらけの口内に奔る縦横無尽の裂創を埋め立てるかのように粘るタールが取り付く。
不味い。まさにその一言に限った。
肺胞から延びる血管を通って内臓を黒く染め上げる感触。あんなに苦しい思いをして綺麗にしたのに黒い記憶は再度臓腑に滲みだしてくる。
その拍子に肺一杯に煙を吸い込んでしまい、むせ返った。
異物を排斥する防衛機構。咳き込む勢いで咥えていた煙草も地面に落としてしまった。
もういい。そのまま焼け付いて消えようとしない傷も外に追い出してくれ。
窒息寸前、酸素の足りない頭で願う。
「ごめ、ちょっとオレ、だめかも、ん、いいや、返す」
ホセは俯いたままソフトケースとライターをイドに差し出した。
ゴミ溜めから覗く灰色の床に未だ火種が燻る煙草を靴の裏ですり潰す。
気管の襞に煤が残っているようで苦みが取れない。喉が切れるかというほどに咳き込んでも黒い苦みは解消されなかった。
「大丈夫か? 悪いな」
イドはホセの手から煙草を掴み取ると、くしゃっとズボンの尻ポケットにねじ込んだ。
箱から取り出した当初から比べて約三分の二の長さに縮こまった煙草を見ながらホセは力無く呟いた。
「ううん。ごめん。一本、無駄にして」
イドは俯くホセの背中をさすってやりながら笑った。
「気にすんなよ。ええと、そしたらセルベッサはどうだ?」
イドは室内隅に立っている茶色の酒瓶を親指で指し示した。
セルベッサとはスペイン語でビールのことである。
ホセの前に立ちはだかるのはまたしてもそれらを彷彿とさせるモノだった。本当は一刻も早く奥に引っ込んで眠ってしまいたかったが、リーダーの完全な善意であるため無碍には出来ない。
「まあ嫌なことあったならさ、うん、呑んで忘れろよ」
イドは荒っぽく背中をさすっていた手で彼の肩を軽く叩く。
断る選択肢など元より存在しなかった。シンナーと煙草、二度も断ってしまったから今度こそ受け取らねばならない。
違法薬物でも有害な煙でもない。酒なら何とかなるだろう。路上に生きる者ならば老いも若きも皆美味そうな顔をして飲んでいたことも覚えている。
「そうだね。イドがそう言うなら……飲んでみようかな」
浴びせかけられる歪んだ欲と穢れた酒精が脳裡を掠めたが口角を上げておく。
無理に作った表情のせいで未だ硬化していなかった瘡蓋が切れ、鮮血が薄く滲んだ。
「なんだ。お前飲酒も初めてなのか、えっと12歳だろ?」
酒瓶を取ってきたイドはホセの真正面にあたるゴミ山の上に腰を据えた。
「たぶん」
12歳にして薬物、煙草、酒すらも手を出したことのないホセはアカプルコのストリートにおいて珍しいケースだった。
成長するにつれて皆何かしらのイリーガルに手を出し、自ら破滅の道を辿っていく。しかしストリートだけではない、メキシコ全土において混沌を極める政府の決めた年齢制限などあって無いようなものだった。
元より不健全な嗜好品に対して確固たる拒絶意思は持っていた。体質として喫煙を受け入れられないのはたった今知ったのだが。
だから酒も自分がどこまで飲めるのか知らない。
イドは栓を抜いてホセの前に瓶を置いた。
「ほら飲んでみろよ」
開栓した瞬間からアルコールの匂いがマンホールに薄く立ち籠めた。
空気を意識すると途端に息苦しくなる。煙草ほどでは無いもののアルコールが皮膚や粘膜に纏わり付くことを考えると上手く呼吸が出来なくなった。
茶褐色の瓶だから中身は見えないがきっとアレと同じような色をしているのだろう、とも思ってしまう。その色といい路傍によく転がっている薬瓶がそのまま大きくなったような怪物みたいだ、とも思った。
先刻刻み付けられた醜悪はどこまでもぴったりくっついて離れてくれない。目の前に屹立する瓶はとても大きく重たそうだった。
一つ深呼吸をして両手で瓶を持つ。同世代に比べて体つきがよくない彼は手も小さかった。
「Gracias(ありがとう).」
マンホールの熱気に蒸かされた瓶は濡れていた。
飲み口に唇を固く押し当てて、恐る恐る傾ける。引き結んだ唇に生ぬるい液体が触れるのを認識すると少しずつその縛りを解いていく。
発泡性の液体は唇の皮を溶かすような甘痒い痛みを伴った。
口内に流れ込んだ液体は傷をなぞって、その裂け目を小さなナイフで何度も刺す。気泡が発生しては傷の中で弾けて肉を融かす。
満ちていくじんわりとした痛み、これは煙草の比では無かった。
更に行き場無く舌の上で転がしていても甘くなるどころか苦みばかりが増していき、飲み込むタイミングを完全に見失ってしまう。
救いを求めるように視線を彷徨わせると、相対するイドと目が合った。気付き微笑む彼、いよいよ吐き出すわけにもいかなかった。
熱を持った液体を奥に留めて一気に舌を押し下げる。形容しがたい不快感の後、鬱金色のセルベッサは疲弊しきった喉を焼きながら胃に滑り落ちた。
ホセは緩慢な動作で瓶を地面に置いて、暫く呻いた後に無声音を引き絞った。
「あー……きついよこれ」
ホセが再び苦しげに俯くのと同時に、イドは瓶を片手でさらってしまうとそのまま一気に煽った。
大きく喉を上下させて嚥下音を響かせる。
そしてホセの顔を覗き込んで、額に張り付いて水っぽい前髪を掻き上げてやるとイドはまた笑った。
「あれ、お前顔真っ赤だぞ。まさかセルベッサで酔っちまったのか?」
全く自覚は無かったがいよいよ酒も駄目らしい。
「倒れられたらしょうがないしよ、セルベッサも止めとくか」
そう言われると体が火照ってくるような気がする。埋め込まれた裂創が炎症を起こしているだけかもしれないが。
側頭部で小さく頭痛が芽吹く。多くの刺激に触れ過ぎたせいか吐き気が再度戻ってくる。
ホセは瓶を持って奥に引っ込むイドの背中に向かって今出せる最大限で精一杯の声を出した。
「イド……あの、ごめん、なさ」
出した、つもりだったが一体何に謝っているのか自分でも分からず着陸点を失った言葉は尻すぼみになった。
シンナーを断ったことか、煙草を吐いてしまったことか、それとも酒すらも飲めない不甲斐ない自分に対してか。
消え入りそうな声の謝罪はイドの耳に入らなかったのか返答が無かった。
壁のコンクリートに繰り返し跳ね返り、拡散。絡み合う汚水配管に音波が衝突し、霧散。
嗜好品はストリートチルドレンが持つべき第一種のライセンスだ、と隣の路地で暮らす洟垂れが先日そんなことを言っていたのを思い出した。
マンホールが昏く胎動する。
もしかしてオレはスラムで足掻く悪ガキにすらなれないのか。
このままでは唯の半端者だ。勿論父の顔も母の顔も知らない、その生死も、即ち己の出自も。
このストリートにさえも居場所がなくなったならどうすれば良いのだろうか。己を見失い、仲間からも生きることを許されなくなったら。
ここが地球最後の楽園なのだと嘯いて、同じ傷を抱える者と垂れる膿を舐め合い正気を保つ日々。
ホセにはいつかエデンが崩壊する審判の日がやってくるような気がしてならなかった。
「……エバ」
愛しい人の名が口を継いで出る。しかし彼女の名を呼んだとしても決して彼女に届くことはない。
そうしてホセはそのとき初めてエバの姿がないことに気が付いたのだった。
ⅩⅤ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅥ更新】 ( No.18 )
- 日時: 2018/09/03 18:57
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: PZ90N.oj)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1000.jpg
ⅩⅥ
翌週の同時刻。
ホセは破れたソファから半身を起こす。負った傷も治りかけ、心身の調子もおおかた回復していた。
今日は蓄えておいた食料があったため盗みに出ることもなく午後から夕方まで眠り込んでしまっていた。一つ伸びをして寝ぼけ眼を擦りながら周りを見回すがイドもエバも彼の近くにはいないようだった。
マンホール内部の熱が籠もった梯子を登って外へ出る。
地下の居住区よりかは幾分マシな外気を肺まで吸い込んで、そのまま大きく吐き出した。ホセたちストリートチルドレンが暮らすアカプルコ山間部は今日も曇りである。
空の淀みを見上げて汗を拭うと異臭を纏う生ぬるい潮風が額を撫でた。白い街を海風はストリートを駆け上り、身体を蝕む瘴気へ変わる。
ホセは肺に溜まった吸気を呼気に変え、イドの隠れ家へ行くことに決めた。マンホールからそう遠くない位置に存在するトタン屋根の小屋が彼の隠れ家である。ホセは以前よりイドから気になることがあればいつでも尋ねて構わないと言われていた。
彼の隠れ家には数ヶ月前に一度だけ案内されたことがあった。少年期を経るとイドは今のグループから離れて暮らすことが多くなったがそれは勿論イドだけではない。グループを巣立つ時期になると徐々に独り立ちの準備も兼ねて別居を構える者も多くなる。そしてその隠れ家とは彼がシンナー吸引を行っている場所でもあった。イドは隠れ家から帰ってくると必ず服に刺激臭を巻き付けている。
数分ほど歩くとすぐ小屋に行き当たった。
排気ガスで汚れたコンクリート塀はひび割れている。ガラスのはまっていない窓を覗いてみるが、ホセの低い身長では背伸びをしても中の様子を窺い知ることは出来ない。
暫くのあいだ所在なく右往左往していると中から物音が聞こえた。
衣擦れのノイズと、混じる微かな吐息。
イドは小屋の中にいる。確証を得たホセは小屋へと歩みを進め、腐りかけた木製の扉を押し開けた。
「ねえいるんでしょイド——」
軋む蝶番。舞い上がる埃と大鋸屑。壁に背を預けた四角い人影。
確かにそこにイドはいた。しかし。
「……なに。ノックぐらいすれば」
鈍く室内を映すシンナーの缶。砂埃で灰に汚れた成人雑誌。膝まで下ろしたズボン。そして剥き出しの鼠径部を這う五指。
処理しきれない情報が一挙ホセの視神経に押し寄せた。
膨張した男性器。自分の知らないイド。小部屋に漂う有機溶剤の微粒子が痛みを与える。先週路地裏にて植え付けられた忌まわしい記憶が五感全てにてフラッシュバックした。
緊迫で口内が粘つき、味蕾がありもしないアンモニアを吐き出す。蘇る嘔吐欲求。肺に頼るな、肩で息を。皮膚の上から気道をなぞってゆっくりと彼から視線を外す。
嗅細胞を責め立てる刺激臭と甘い快楽の残滓が滴る部屋、彼と相対して指一本動かせなくなる。
その方面には無知なホセにも彼が何をしているのかは分かった。心臓が何度も何度も胸骨を内側から殴りつける。冷や汗が止まらなかった。
「あっ、いや」
何とか絞り出した声は情けなく裏返った。吸気に混ざる有機溶剤がひたすら苦しい。
目の当たりにする家族の自慰行為。性交渉や自慰に際してドラッグを使用する者は少なくないと聞いたことがある。イドは【コレ】に【ソレ】使っていたのだろう。頭が割れるように痛い。気道を掠めて肺胞、血液と脳が犯される予感に横隔膜が震えた。
無言の呵責とフラッシュバックによる吐き気に苛まれる。喉が渇いて仕方がない。
上手く二の句を継げずに視線を彷徨わせているとイドは苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「出て行くか早く用件済ませるかどっちかにしてくれるか。これ、辛いんだ。分かるだろ」
分かるだろ、と言われても未だ初心なホセにはそれが分からなかった。精通は疎か性的興奮を自覚したことも未だ無い。
出て行くか、情けないが足が竦んでしまって動けそうにもない。用件、用件。自分は何をしに来たのだろうか、正当な理由も無く彼を暴いてしまった。もしかしたら彼を訪ねるそれなりの理由はあったのかもしれないが、過度の刺激を脳髄に喰らった今それは思い出せそうにもない。彼の満足する理由を、早急に理由を用意しなければ。
内外からの刺激にぐらつく脳味噌からどうにかして言語機能を絞り出す。
「えっと……エ、エバはどこにいるかなって……最近この時間帯にはいないし、イドなら……知ってるかなって思った、んだけど——」
ホセが言い終わらないうちにイドは返答を寄越す。
「さあ、知らないな。そこらへんでチビ達と遊んでるんじゃないか。……これで良いか」
ホセは鼠径部から中心に滑らせたイドの指に力が込もるのを見た。
自身の眉間に皺が寄る。思わず目を逸らしてしまう。
「う、うん。ありがと、じゃあまた後で……」
そしてホセは一度も彼の顔を見ることなくその場を後にした。
******
小屋への道を引き返し、マンホールの方角へと歩き出す。
指先に力を込めて吐き気と動悸を精一杯抑え付けた。
親のように兄のように慕ってきたイド。黒血と薬物に汚染されたストリートにあっても生きる道を示してくれた彼。そんなイドを聖職者か何かだと思い込んできた自分がいたのは確かだった。
だからこそ衝撃が大きかった。
家族の肉欲を目の当たりにしてしまったことか、有機溶剤に溺れていたことか。そのどちらがよりホセの心に痛々しくのし掛かったかは定かではない。
家路を辿る足取りは重たかった。
波と共に押し寄せてくる夜に片足を突っ込んだアカプルコ。厚い雲に覆われていじけた空が景色の上半分を占領している。それ故早くも切れかけのガス灯が壁の落書きを照らしていた。
先程に同じく夕刻の路地裏に気持ちの良い思い出など何処にも無かったが、ホセにはどうしても外に出なければならない理由があった。
最近夕暮れ時にエバの姿が見当たらないのだ。地下の居住区やその辺りも探してはみたものの暗がりの中では彼女の足跡すら見つけることが出来なかった。
もしかすると他グループの男に脅されているのではないか、自分やイドにも言えないような悩みがあるのではないか、と勘ぐってもみたが翌朝目を覚ますとエバは必ずホセの隣にいた。エバは綺麗なままで顔にも身体にも傷一つ無い。そして決まって彼女は寝ぼけ眼のホセに柔く微笑んで、虹色のセロハンに包まれたキャンディを一つ握らせてくれるのだった。
乾いた包装紙の擦れる音が耳に残っている。
エバからもらったキャンディは自分の毛布の下にまとめて隠していた。グループの様子を見るに他に彼女からキャンディをもらった子供はいないようだった。募るのは彼女の想いと七色の甘味。昨今の記憶は栗色の睫毛と揺れる瞳。
もし飴を口に含んでしまったら何かを失ってしまうような気がして、一つたりともその包み紙を開けることが出来なかった。グループの年少者に見つかってしまうのも正直面倒だったから、という理由も勿論あるのだが。
夕闇に消える彼女、微笑み、飴。言いようのない不安が胸をせしめ、それはホセを突き動かすに至った。
生唾を飲み込み、薄闇に塗れた路地に足を踏み入れる。
ホセは一週間ほど前に此方の方角に溶けゆくエバを見た。
よぎる不安を振り払い、縋り付くように足首を掴む夕刻の影を蹴って走る。
影法師が手を掛け闇に引き摺り下ろそうとする感覚。沿岸部でうるさいほどに光を撒き散らす街灯などこのストリートには無い。見慣れた路地裏の筈が今日だけはその崩れ落ちた瓦礫が恐ろしかった。
走っても走っても無機質なコンクリート壁が続くだけで景色は変わらない。道中の痩せこけた野良犬に想い人の行方を尋ねたところで意味は無いだろう。
排気ガスで動く身体と心臓。しかし幾ら探せどエバへ繋がる手掛かりは何処にも見当たらない。そればかりか一歩一歩前へ進む度にアカプルコの空は暗くなるばかりだった。
「どこ、エバ」
生まれつきの聴覚障害で、口を利くことが出来ないエバ。
どういう理由があって単身路地裏に出掛けていくのかは分からない。
走り続けて燃料切れを起こしそうな身体に、酸欠の脳味噌に彼女の柔い掌の感覚を押し付ける。
始まりはこの世の全てから見放された落し胤でしかなかった。しかしこんな地獄に生まれ落ちて、生を認めてからずっと一緒だったエバ。母のように、姉のようにいつも傍に居てくれたエバ。不浄な地獄に射す一筋の光、やがて時間が流れると同時に彼女はホセの生きる意味になった。
一人黙って夕刻姿を消すのも心優しい彼女のことだ。野良猫に餌をやっているのかもしれない。親が居ない子の面倒を見ているのかもしれない。
しかし最後の一つは考えたくも無かった。
もしかすると、自分の知らないところで大切なひとができたのかもしれない。
「エバ」
名前を呼んでみたところで音波として彼女の鼓膜を揺らすことは出来ない。
冷静に考えると必ず彼女は翌朝帰ってくるのだ、自分を置いて行くことはしない。
一度足を止め、深呼吸をする。
気が付けば鈍色の空は錆び付いたような色に移ろっていた。太陽と月の境目に鳴き声を響かせる鴎たちも疾うに巣に帰っている時間である。イドと顔を合わせるのは億劫だったがそろそろマンホールに、自分たちのエデンに帰らなければならない。
ホセが踵を返そうと左足を引いた刹那、路地壁に反響する音が静寂をぴりと裂いた。
音源は路地突き当たりの右、更に細い、入り組んだ通路。
押し殺したようなくぐもった音質。おそらくその正体は何かに遮断され直進しない女性の声。
冷や汗が頬を伝った。
「ッ——!?」
エバの声かどうか、確証などどこにもない。
それでもホセは再び駆け出した。
「そこにいるの!?」
返事は無い。ホセは突き当たりの壁にて砂埃を巻き上げ、停止する。
不透明な声に危機感を覚えた。しかし本当にエバかどうか確認が取れないまま飛び込むのは危険だろう。もしも声の主がエバで危ない目に遭っていれば尚更だ。
感覚を研ぎ澄ませ息を小さく吐いてから、殺す。
ホセは周囲よりも一層闇を湛える見通しの悪い通路へと慎重に歩みを進めた。
「ねえ、エバ。そこにいるの? 帰ろう。帰ろうよ」
通路は狭くなる。腹の底から出し切ることが出来なかった声帯の震わしは何度も壁に跳ね返って内耳に留まった。
道幅が狭くなるとそれに比例してゴミが多くなり、それと同時に嗅細胞に粘つく異臭も酷くなった。
もはや嗅ぎ慣れたものの一つである屎尿や生ゴミの臭いではない。もっと酷い匂いがする筈の腐敗物や路上に横たわる死臭とは全く異なり、そして慣れない匂い。形容しがたい残穢を言語化すること、ホセにはそれが出来なかった。
しかしそれでもどこか脳の片隅に引っ掛かる記憶の破片。鈍く煌めく欠片を集めて追憶を試みるが、人為的に打ち欠いたような尖った破片には触れることは叶わなかった。
思い出せない、それとも思い出したくないのか。
奥歯を噛み締め、摺り足で音源へ距離を詰めていると突如道幅が広がった事に気が付いた。知っているストリートとは全く別の区域に出たようで、見慣れない看板を吊った飲食店の小窓から漏れ出る光に目が眩んだ。
グラスのかち合う音と、大人の喧噪が耳につく。大人の声は無駄に大きくて、低くて、喧しくて、恐ろしい。
道しるべだった微かな女性の声は粗野な喧噪に呆気なく打ち消されて聞こえなくなってしまった。
ホセは道に面した飲食店のダストボックスに身を隠し、視力の回復を図る。自分たちのねぐらであるストリートに人工灯は無い。
暗い路地を走り続けていたせいか瞳孔は縮こまったままで光に慣れようとしてくれなかった。
路地に漏れ出る酒気は頭痛を呼ぶ。光源を睨み付けていると、毛むくじゃらの腕が乱雑に窓を開けて、同じく毛だらけの無骨な指が煙草を投げ捨てた。
酒と煙の眩惑にホセは犬歯を精一杯噛み合わせて耐え忍んだ。久方振りの嘔吐欲求と不快感が襲い来る。五感を殺しに来る路地裏の宙を己の牙で噛み砕いた。
聴覚と嗅覚は削られてしまったが視覚は回復しつつある。
二度ゆっくりと瞬きをしてから目を見開く。ホセは声がしていた筈の前方を見遣った。
「え」
やはりそこにいたのはエバだった。
「え?」
そして満ちる臭いと記憶が繋がる。
「あ」
先週の路地裏、男、イドの部屋、成人雑誌の印刷臭、鼻が曲がりそうな甘ったるい空気、この異臭。
足下を見た。根元が縛られた細長い紐のようなものを踏んでいた。
「あれ」
足をどかすと、磨り減った靴底に液体が付着する。
「あれ」
前方に視線を移す。
「ぁあ」
そこには啼く女がいた。長い前髪が額に張り付いていて、それは見慣れた栗色をしていて。潤む瞳は栗色の長い睫毛に縁取られていて。
未だ短い一生を捧げて焦がれたひとだ。見間違うはずも無い。
ホセの想い人は赤茶けたマットレスの上で太った男に組み敷かれていた。
吼える女。何度も彼女の中へと男の一部が沈むのを見る。初めて見る彼女のところは白く糸を引いていた。
彼女の紅潮した頬に男の脂汗が滴る。彼女はだらしなく伸ばした舌でただただ男の舌を求めていた。
沈むマットレスの縫い目を目で追う。見たことのない枚数の紙幣が彼女の下着に詰められていた。
幼い頃よく聞いた舌っ足らずの駄々とよく似た涙声。しかし吐息の混じる唸り声は聞いたことが無かった。
そこにいたのはホセの知っているエバではなかった。
はにかみながらホセの手をとって指文字を紡いだ腕は男の首に回されている。
ホセの為に向けられていた眩しい笑顔は雄と雌の体液にまみれている。
肉の殴打音が脳を揺らす度に彼女との記憶が塗り変わっていく。
訳も分からず涙が零れた。
しかし最初に知覚したのは絶望ではなく、下腹部の熱さと痛みだった。
ホセは半狂乱で走り出す。
闇と静寂を裂いて、ゴミ箱を転がしながら、躓きながらも走った。
喚いて叫んで、脳が創り出す勝手な感情を声で掻き消す。
嘔吐きながら走り続けて辿り着いたのは奇しくも胃の内容物を全て捨てた先週の公衆便所だった。
よろめきながら中に入る。空っぽの肉体は本能で動いていた。
奥に一つだけある個室の扉を蹴って、震える手で鍵を鳴らす。閂が嵌まったのは暫くしてからだった。
扉に背を預けて肩で息をする。どうすればいいか、なんてのはよく知っていた。何故か、今日見たばかりだから。
背徳感と興奮で体中から汗が噴き出す。
見様見真似猿真似で。嗚呼、生地に手を掛けて引きずり下ろす。
こんなのまともじゃない許されないかもしれない、と最後の倫理が枷になる。
しかし枷を運ぶシナプスは疾うに断線していた。
恐る恐る触れて、それから握力を伝える。
その後はもう駄目だった。
粘液で滑る手と蕩ける水音。脳から脊髄へ駆け巡る快感が髄液を湧かす。
もはや残った理性すらもそれを止めようとしない。押し殺すように息を長く吐く。奥歯を噛み合わせて呼吸と鼓動に耐える。
そして濡れた摩擦と掛かる圧を押し返すように膨張した
「っ……ぁ゛」
絶世の快楽を然るべき器官から吐き出す。壁に片手をつくと襲い来る未知の感覚を逃がそうと断続的に下肢が痙攣する。
最後の残滓を自ら絞り出すと同時に背徳感と後悔で視界がぼやけた。
体中の毛穴が開く。鼻水が止まらない。軟口蓋と横隔膜が痙攣する。言葉にならない無声音が喉の奥で裏返る。
そして汗に濡れる掌に残る蕩けた廃棄物を初めて見た。
しばらくは、何も考えられなかった。
厚い雲に溶かし込まれた廃液が夜を引き連れる。気が付くと体液が滲みないようにして履き直していたらしく、四肢を放り出して路地壁に背を預けていた。
祈った後の終止符とよく似た響きのソレは既に端が乾いて、歪になっている。ホセは震える手で水っぽい歪みをコンクリートに何度も何度も摺り付けた。硬く粗い壁面に圧を掛け続ける柔肌は皮が裂けて血が滲む。
しかし瘴気と廃油を吸った路地壁は白濁を弾いた。
掌からは滲んだ赤が混ざり、酸素に触れた彼女への感情は赤黒く変色する。
五指に残る色を直視すると暫時眩惑が襲った。
擦り切れたマットレス。響く甘い殴打音。皺の寄った高額紙幣。目を離せなかった肉の境界線。目の当たりにした彼女の恍惚。そして、そして。
「ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう。くそ、くそくそくそくそ。おれ、さいあくだ」
*
それからエバとは一言も話すことないまま、彼女はグループからの卒業を迎えた。
彼女がいま何処で何をしているのかは知らない。生きているかも、死んでいるかも。
そして気が付いた時には彼女のくれた飴玉は消えていた。野犬が持って行ったのか子供達に気付かれたのかは分からないが跡形も無くなっていた。
むしろ都合が良かった。
自らを売らねば生きられなかったことも今なら分かる気がする。
しかし一つを認めてしまうと分からなくなる事も増えた。ストリートに反旗を翻すことの意味も、自身の命の価値も分からなくなってしまった。
楽園だと信じ込んでいたのは蟲の湧く不衛生な下水道。
最奥で息づくのは穢れた命。
エバはイヴでは無かったのだ。
ホセが女性に触れられなくなったのはそれからだ。
ⅩⅥ
- Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅦ更新】 ( No.19 )
- 日時: 2018/09/05 00:08
- 名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: PZ90N.oj)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=1005.jpg
ⅩⅦ
イドの薬物摂取量は以前よりも明らかに増えていた。
否、常時体内に入っている状態にも等しいだろう。
彼は有機溶剤では飽き足らず、錠剤、乾燥植物、粉末の炙り、果てには静脈注射にも手を出すようになっていた。
住み処であったマンホールにも殆ど姿を現すことなく、外れにある小屋に引き籠もっている状態が続いている。
薬物を血中に落とし込み、力無く生ゴミを漁る日々。そしてドラッグが尽きると街の方へ彷徨い歩き物乞いや引ったくり行為に及ぶ。
ホセらのグループを導いてくれていた筈のイドは消息を絶ち、路地に生きる子供達は現在混乱の中にあった。
グループの誰もがイドの行方を知らなかったのである、たった一人、ホセを除いて。
イドとホセの年齢差を埋める人間はおらず、生を繋ぎ止めるイドの一番近くにいたホセが引き継ぐしかない。
子供達の生命は僅か齢十二の手に託されることとなった。
「イド。入っても良いかな」
現在ホセは小屋の木製扉の前に立っていた。
嘆くような人面を象った木目を見つめて、軽く拳を握った手の甲を板に打ち付ける。
腐った木材は二度鈍い音を跳ね返した。
「いるの?」
端から答が返ってくることなど期待していない。
今のイドと会話が出来るとも思っていない。
「ねえ、入るよ」
しかし今日ホセがイドを尋ねたのは他でもなかった。
無論【あの日】から小屋に足を踏み入れてはいない。瞼に焼き付いた光景が足が竦ませる。記憶に紐付けられた記憶が今でも嘔吐を誘う。
それでもホセはこの地獄に射す一縷の光明を彼に見出したかった。
12歳の小さな肩にのし掛かる他者の命の重み、連日に渡る精神の消耗。
身も心も衰弱しきったホセに頼れるのはもうイドしかいなかった。どんな彼でもいい、彼の肉を依り代に思い出を重ねるだけで良い。唯、イドに会いたかった。
皆で過ごしたマンホールに帰ってきてくれるかもしれない、貧しくてもそれなりに幸せだと思えていたあの頃に戻ってくれるかもしれない。
神に見放され続けてきたホセにとって跪くべき神はイダルゴ、即ちイド、その人だった。
悪露と泥に濡れた自らを抱き上げ、命と名を給うた神。彼がいなければ産み落とされた日の 夜が明ける前に野良犬の腹に収まっていただろう。
顔も名も知らない娼婦の股ぐらからの落し胤、この命はホセの両親の所有物ではない。
イドに向ける感情。感謝という言葉すら陳腐。今更になって気付いたのは信仰か、宗教か、狂信か。
未だに彼を信じているのだ。過去のものとなった彼の雄姿に縋り付いて、遙か遠くに霞む幻想を夢見て。
それは或る意味自暴自棄な祈りだったと言い換えても良かった。
静かに扉を開くと、大鋸屑が舞って視界を塞ぐ。部屋に射し込む光が塵に乱反射して室内がよく見えない。
「——ん? ホセ?」
その声色に息を呑んだ。
「イド……?」
気圧差によって生じた渦が手狭な小屋に潮風を呼ぶ。
街から駆け上がった真白な風は勢い良く室内に吹き込み、埃の霧を晴らした。
「うん? オレだけど……?」
ホセは精神汚染で濁り始めた目を見開く。
イドは幸せだった時と何一つ変わらない表情をして壁に背を預けていた。
散乱したゴミや薬瓶を除けた中央に腰を落ち着けている。
骨と皮ばかりに痩せた身体、掻き壊しで荒れた表皮、落ち窪んだ瞳、変色した歯茎と歯列、抜け落ちた体毛、鼻につく体臭。
彼は二目と見られないほどの変わり果てた姿になっていた。
しかしいつものように困り笑いを浮かべる彼の表情だけは、ホセが渇望していたそれだけは何一つとして変わっていなかった。
「——お、おいおい。どうしたんだよ」
目を丸くしてはにかむイド。
今では立ち上がるのも困難な様子で、ホセに歩み寄るため膝を立てようと試みては肩をすくめている。
ホセは眼前に存在する光景を信じることが出来ずにただ立ち尽くすばかりだった。
唇が不器用に愛し神の名をなぞる。
「イド」
しかし乾いた舌では彼の名前を呼ぶことすらままならなかった。
イドは柔らかな光満ちる瞳でホセに頷く。
「イドぉ……」
滲む視界に陽光が白飛びした。
感情の過積載は遂にキャパシティオーバーで涙腺から積み荷を放り出す。
ホセは重たかった命の足枷を蹴り飛ばして彼に駆け寄った。
部屋を占めるゴミを掻き分け、躓きながらも彼に手を伸ばす。この彼を逃してはならない。早く、早く届いてくれと指先を逸らす。
そして半ば倒れ込むようにして彼の胸に飛び込んだ。
ぼろ布と化したTシャツを拳が痛くなるほど引き掴む。脂肪も筋肉もなくなってしまった彼の胸に顔を埋めて深く呼吸する。
骨張った、とても薄い身体だった。
「そんなに呼ばなくても分かってるっての」
イドは目を伏せてホセの頭を撫でる。睫毛が抜け落ちたせいで傍目に眼の輪郭は暖まらない。
鱗のようになった皮膚片がホセの柔らかな髪を引っ張った。
ホセは彼の存在を確かめるよう胸骨に耳を寄せた。微かな心音が骨伝導で脳内で不規則に響く。
彼の鼓動はもはや福音のそれに等しかった。
「そんなにくっつくなって。お前だって暑いだろ?」
イドは照れくさそうにすっかり肉の削げた頬を掻く。
ホセは目の端に涙を溜め、何度も何度も彼の心臓に頬を擦り寄せた。
「うん、うん。あったかいねイド。すごくあったかいんだ」
イドの体臭はいつの間にか知らない匂いに変わっていた。
マンホールで寝食を共にしていた時とはまるで違う、刺激臭とも甘ったるい香水とも判別の仕様が無い独特な体臭。
しかし本当はよく知っていた。それは路地裏の更に奥、最奥、もっと暗いところに満ちる瘴気。路地に生きてきた人間がヒトでなくなった時に最後発する匂いだった。
低体温に変わってしまったイドに自らの平熱を分けるようにすりよる。
ぼさぼさの髪と縒れたTシャツの衣擦れ音が隅に積まれたゴミ袋の皺に沿う。
ホセはイドの胸に頭をぐっと押し付け、無声音で呟いた。
「昔はさ、もっと狭い中で、あのマンホールでみんなとこうして眠ってたんだ」
自身が小屋に投げた言葉を口内で反芻する。成長するにつれて鋭利になった犬歯で宙を噛む。
戻らない過去を口に出してしまうと存外心の深いところに突き刺さった。
甘ったるい単語を選ぶ度に首筋に埋まる逆の刃。縋る体温も感じられない。
過ぎ去った時間も失った時間も所詮同等だ。産み落とされてからずっとこの路地裏で生き抜いて、今に至る。
ホセはイドの服を掴んでいた握り拳を緩めた。
「んー、懐かしいなあ。お前寝相悪くて何回脇腹蹴っ飛ばされたか分かんねえけどな」
あっけらかんとして笑うイドに対し、ホセは少々拍子抜けすると共に安堵を覚えた。
もう二度と見られないと思っていた屈託の無い彼の笑顔。彼の笑窪と愛した声に霞がかった記憶を引き摺り出される。
三人で笑い合った日々。飢えと寒さの厳しい夜も身を寄せ合えばここは地上のエデンだと思えた過去。重い蓋をして閂を掛けた筈の【彼女】との記憶も零れてくる。
しかし楽園は崩壊してしまったのだ。
そしてそれを認めてしまうにはあまりに背丈が足りなかった。
正気の彼と言葉を交わす度にまだ楽園は修復可能なのではないかと思わずにはいられない。肋の浮いた御神体といまいち感じられない体温に全てを願掛けしたかった。
乾いた目尻が再び涙腺をこじ開け、再び視界不明瞭を呈する。
「そうだったんだ……」
決して彼には見せないよう、顔中から流れ出る体液をイドの服に押し付ける。
涙腺が再び開いたせいか彼の服に染み込んだ何かに冒されたせいか分からないがひどく角膜が痛んだ。
鼻水と涙に滲む安っぽい化学繊維は予想以上に水分を吸い、低彩度へ移行する。
「ま! 別に気にしてねえけどな!」
イドは朗々として笑い、ホセの頭を二度軽く叩いた。
自らを導いてくれる手。彼の生き方を映した器用な指先。委ねる逞しい腕。ホセはその懐かしい感触を咀嚼するように目を閉じる。
彼の手のぬくもりを一時的なものにしたくはなかった。
ホセは乾ききった舌根を下げて、無い唾液を胃に送る。
「ねえイド」
「んー?」
そして彼の微弱な心音量に合わせて、口内で呟く。
いっそこのまま聞こえなければ聞こえないままで良いとさえ思っていた。
「マンホールに戻るつもりとか、ないの」
遂に、言ってしまった。
否、元よりそのつもりだっただろう。
解いた右手の震えを抑えるために押し付けた左手。
両手は不可解な程に祈りの格好をとった。親指が交差し肉の十字架を成す。
「ああ。そうだなあ」
幸か不幸か、声は届いていたらしい。
イドはホセの頭から手を退けた。
「すぐじゃなくてもいいよ。うん、すぐじゃなくても、いいんだ」
一息で言い切る。
部屋に満ちる埃を吸気に変えたところで、遅れてやってきた喉の痛みを知覚した。
未だ彼に体重を預けたままでいる。強張った身体は動こうとしなかった。
禁忌に触れた。もう退けなかった。
退けられた手に何をされるのか皆目見当が付かない。
「そっか」
無感情では生まれない声色。
ホセはイドの次の呼吸を待った。
「——久しぶりにみんなの顔見てみるのもいいかもな」
イドはゆっくりと、しかし確かに回る呂律で言った。
そして、それはホセの最も欲する答えだった。
告解の果てに見た光明。渇望と救い。
ホセの縮こまった瞳孔に射す光は湿った強膜に半月状に引き延ばされた。
「はは、なんだよ。お前そんなに泣き虫だったか?」
イドの手は再びホセの頭に柔く乗せられた。
絡まった髪に指を絡めてくしゃくしゃと撫でられる。首肯すら出来ない。彼の脇腹にうずめ直した顔は結局上げていない。
ホセは下唇を噛んでしゃくりを上げようとする横隔膜の微細動を抑えるのがやっとだった。
煙に巻かれ続けた期待は今度こそホセを裏切らなかった。
未だ震える手で、今度は彼のTシャツではなく薄くなった彼の身体に腕を回す。
「そうだホセ」
名前を呼ばれた。
眼前の神が給いしこの名前。
痛む目と洟の出た鼻を乱暴に擦り、取り繕う。声が上擦らないように咳払いを一つした。
「ん……なに?」
ホセは半身を起こし、彼の顔を見る。
落ち窪んだ眼窩に溢れんばかりの光を湛えた瞳。
しかしそれは決してホセを捉えてはいなかった。
開けっ放しの木製扉の遙か向こう、鉛色に崩れ始めた空を虹彩に映している。
そして血色を失いひび割れた唇からしわがれた声を穏やかに紡ぐ。
呼気はひどく甘く饐えた匂いで。
「エバはもう帰ってきたか?」
輪郭の蕩けた、焦点の定まらない瞳だった。
******
翌朝迎えに来てほしい、とイドの方から言われた。
昨日、彼の最後の一言に心臓が跳ねた。
何も【彼女】の名前が出たからというだけではない。最悪の想定にホセは道中かぶりを振った。
久し振りに人間と会話して少し混乱していただけなのだろう、きっとそうだ、と何度も何度も自身に言い聞かせた。
やはりアカプルコの山は曇天を留め、
俯きつつも彼の小屋へ続く往路をひた歩く。
路地壁に視線をやると否が応でも分かる、やはりこの路地は特に荒れ具合がひどかった。
爛れた性の匂いとイリーガルな抜け殻が道に散乱している。律儀に積まれたゴミ袋はおそらく市街地から不法投棄されたものだろうことも伺えた。
浮浪者やストリートチルドレンがゴミ山から必要なものだけを持って行ってしまうために、半透明なビニール袋は無遠慮に破かれていた。
壁にはスプレー缶で描かれた巨大な落書きが路地壁を占めていた。
一つや二つではない。口汚いスラングや人名、はたまた聖書の一文が目に痛いネオンカラーを押し付けられてる。
そして、イドの小屋との距離が縮まると周りのものとは一線を画す大きな落書きがホセの目に付いた。
昨日もこれはここにあったかもしれない、ただ単に気付かなかっただけかもしれない。
突如として目に飛び込んだ不健康な色に、ホセは何故か足を止めてしまった。
路地壁を張り付いた塗料に此方を伺う怪物を見る。
不浄な赤黒い路地壁にイエローの蛍光塗料が示すのは【我が神よ】。
目を見開き、生唾を飲む。
毒々しい色合いと馬鹿に大きいアルファベット三文字に目眩がしそうだった。
ホセは両目を擦って、再び小屋の方へ歩く。
数十秒とかからずに小屋はその全貌を現した。
しかし刹那、市街地から駆け上る海風と共に違和感がホセの身体に纏わり付く。
何故か、小屋はひどくみすぼらしい佇まいに変わっていた。
厳密に言うと小屋の外観は変わっていない。しかし過去に彼に連れられてやって来たときはそのようなことは思わなかったのだ。昨日でさえ引っ掛からなかったのに。
心臓が早鐘を打つ。
硬直した足は思いと裏腹に前へ進もうとしなかった。
冷や汗で滑る拳を握りしめ、渾身をもってふくらはぎを殴りつける。
何かが、何かがおかしい。
衝撃に除細動を掛けられた脚を前へ。
足をもつれさせながらも走った。
切れる息。
小屋の前で蹴躓く。
自由のきかない手。
顎を強打した。
生理的反射で瞑る目と飛び出る塩水。
数秒唸った後に目を開けると腐った木製扉があった。
痛みに歯を食い縛って、手を付き、膝を立てる。
ドアノブに手を掛ける。
潮風が吹き込み、埃が舞う。
「イド」
微粒子の幕が晴れた。
「イド」
昨日と同じ位置。
中央にて伏す人影を見た。
「イド」
昨日の甘く饐えた臭いが部屋中に満ちていた。
「迎えに来たよ」
静かに中央に歩み寄る。
「いつまで寝てんの」
足下で薬の包装が割れる音を聞いた。
「ねえ起きてよ、聞いてるの、ね」
そして中央に辿り着く。
おかしな方向に曲がった彼の首。
信じたくなかった。全てが嘘だと。
扉とは逆方向に回り込む。
それではどこまでが真実だったら溜飲は下がったのか。
彼の顔を見た。
血走って飛び出した目と長く垂れた舌。首や腕を掻き毟った痕。
固まった血が床に点々と飛び散っている。
昨日の穏やかな表情の痕跡などもうどこにもなかった。
痛みと恐怖に怯えた瞳の色。心臓に重ねる硬直した手。
露出した角膜と強膜に埃が付着している。
ボロボロになった彼の体はところどころ人間のかたちを成していなかった。
「嘘だよ」
彼の排泄物の中に膝をつく。
半固体と混ざった液体は冷たかった。
ホセはイドの縒れたシャツの裾を握る。
何度彼の身体を揺すっても不透明な涎が垂れてくるだけで答えは無かった。
彼の傍らに転がっていたのは薬瓶と粉末のこびりつく透明なビニール。
それは二種類以上の薬物を同時に摂取するドラッグカクテルだった。
見ただけで分かる。よく知った路地裏の臭い。
転がる肉と薬瓶はホセにあまりに残酷な意味を突き付ける。
薬物中毒者のなれの果て、人間のかたちをした亡者が最期に縋るところだった。
「帰ろうって……みんなんとこ、帰ろうって」
ホセは頭蓋骨に皮を纏っただけの彼の頭を両手で掻き抱く。垂れ流しの体液に滴る体液が混ざった。
イドの頭は取り落としそうなほどに軽くて、そしてまた止めどもなく溢れた。
「いったのに」
亡骸は答えない。
苦悶の最期をホセに見せつけるだけで答えない。
「——。」
そうか。
最初から神様なんかこの世界にいないんだ。
縋った神は禁断の果実でなく安い錠剤とサイケデリックに浮かされた人間。
崩落の音を聞いたのも実は空耳に過ぎなくて、最初から楽園なんて何処にも存在していなかったことを。
そんなことくらい本当は分かっていたのに。
自罪はきっと地獄の最中で望み過ぎたことなのだろう。
白んで滲む世界に吼え、砥いだ牙を剥く。
神がこのクソ野郎、そんなにこの命が憎いか。
「あ——」
暫時、咆哮。
慟哭。
涕涙。
嗚咽。
終止。
再度、崩壊。
ⅩⅦ