複雑・ファジー小説

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What A Traitor!【第2章6話更新】
日時: 2019/05/12 17:48
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: 日曜日更新。時間帯未定。

全てに裏切られても守らねばならないものがあった。



【これまでのあらすじ】
 十年前、アメリカンマフィア【アダムズ・ビル】の幹部であったリチャード=ガルコは拳銃自殺で死んだものとされていたが、彼は祖国イタリアの架空都市トーニャスにて契約金次第でどんな事でも行う裏社会の代行業者【トーニャス商会】の代表取締役を務めていた。
 リチャードの目的とは何なのか? そして究極の裏切りの末に笑うのは果たして誰なのか──。
 米墨国境の麻薬戦争を終えて、アルプスの裾野であるトーニャスにも寒い冬がやって来た。リチャードは旧友と呼ぶある男から連絡を受け日本広島へと向かうが、それはこれから巻き起こる戦争の幕開けに過ぎなかった。
 舞台は粉雪舞い躍る和の国日本へと、第二章継承編始動──。



閲覧ありがとうございます。
読みは【わっと あ とれいたー!】
作者は日向ひゅうがです。
ペースとしては大体300レスくらいで完結したらいいかな、くらいです。

【注意】
・実在する各国の言語やスラングを多用しております
・反社会的表現、暴力表現、性的表現を含む
・表現として特定の国家、人種、宗教、文化等を貶す描写がございますが作者個人の思想には一切関係ございません

【目次】
序曲:Prelude>>1

1.麻薬編~Dopes on sword line ~ >>3-33(一気読み)

2.継承編~War of HAKUDA succession~>>34-55
>>34>>35>>36>>37>>38>>39(最新話)

※全話イラスト挿入

用語解説&登場人物資料>>2(NEW1/26更新)

【イラスト】
※人物資料>>2へ移転
タイトルロゴ(リチャード)>>10
麻薬編表紙>>3
麻薬編扉絵>>30
継承編表紙>>34
参照2000突破リチャード>>14
参照3000突破ホセ>>21
参照4000突破シャハラザード>>28
1周年&リチャード誕生日>>35
参照6000突破ホセ>>38




※Traitor=裏切り者


since 2018.1.31

Re: What A Traitor!【第1章Ⅷ更新】 ( No.10 )
日時: 2018/11/11 21:59
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6104.jpg




 リチャードに担がれてからというものの、目的地にすぐ到着した、らしい、という話を聞いた、覚えが今でもある。
 何とも煮え切らない語末、しかし追憶に関して、その箇所は不明瞭であるのだ。海馬を幾らノックしてみても、現在も腹部に深く刻まれた袈裟懸け状の裂創がそれを咎めた。

 担がれて、というのは最初の方こそディンゴはリチャードに肩を貸してもらい、自分の足で歩いていたが、余りもの激痛に次第に誤魔化しが効かなくなり、一歩も動けなくなってしまった為だった。
 司令塔への酸素運搬をサボタージュする足りない血潮、鈍痛で薄れゆく意識と乱れる呼吸で軋む肋骨に何度も跪く。
 最早どうにも制御の効かない身体に、己の血に汚れた犬歯を以てして臍を噛んだ。
 心身が折れそうになるその度に、彼の脇腹に触れないようにそっと、しかし力強く下から肩を持ち上げられる。鋼のような筋肉の安定した土台に全体重を支えられ、否が応にも両足で立たなければならなくなるのだ。
 そして、リチャードは微笑んで気の抜けそうな声で大丈夫かだのほら頑張れだの、まことしみったれた路地裏に似つかわしくない言葉でディンゴをゆるく叱咤した。歯を食い縛り立ち上がれば、声色をあからさまに明るくして此方に笑いかける。
 いちいちうるせえんだよ。
 これまで他者を噛み殺す為に砥いできた犬歯を剥こうにも、喉は渇ききり、腹の筋繊維を自発的に動かすことは叶わない。今は呻く事ですらその傷に深く響き、障った。
 頭上から降ってくるネオンサインと表通りのエンジン音は嘲笑してくるように感ぜられる。
 素性の知れない男におんぶに抱っこでようやくエテ公みてえな二足歩行が可能なザマか。嗚呼死ぬほど情けねえ。これなら死んだ方が幾分かマシだろう。
 唯々この世の全てへの憎悪、その一点のみで、ディンゴは一歩ずつよたつく足を粘つく汚泥へとめり込まさせていた。

 しかしその気力さえもいよいよ尽きようとする。
 何とか騙し騙しもっていた体幹が今度こそ効かなくなり、急に膝の力が抜ける。肺から漏れ出た空気が気管を過ぎ、喉を掠める。決して喉をやられていたわけでは無いが、穴を穿たれていたかのように幽き息が漏れる。白く眩む視界の端に捉えた、彼の腕も間に合わない。行き場のなくなった全体重は前方へ投棄された。
 異臭を放つ汚泥に、半身を打ち付けるがままに。もうどうやってもエンジンはかかってくれなかった。閉まらない口に血液と埃の絡んだ廃油が滲出してくる。一本たりとも動かせない指先から悪寒の浸食が始まる。眼位が定まらない。今度こそ、もうどこにも立ち上がる力は残っていなかった。
 リチャードは何も言わずに一息吐き出して、だらりと力の入らないディンゴの足と肩を抱えると、ヘドロや返り血そして彼の体液に塗れるのも構わず、その広い両肩に彼を担ぎ上げた。

 一拍の後。大きな袈裟懸け状の裂傷が直接布地に触れ、圧迫され、気が触れそうになった。よもや声にならない声で突如襲い来る痛みに吼える。路地裏の鉄骨に飽和反響。しかし切なる咆哮はマットな地べたに引きずり込まれるのみだった。
 衝撃と自重により肋骨が悲鳴を上げ、体内で骨の欠片を零す。四肢の痙攣と眼振が止まらない。乾ききった筈の喉奥から粘性の高い唾液が分泌され続ける。湿りぼやけた極彩色の視界が何度もぐらつく。
 当然の反応、残った胃液を彼の背中へと吐き散らす事となった。
 しかしリチャードは何一つ動じること無く、歩みを止めない。手入れの行き届いた革靴を、淡々と黒く脂ぎったアスファルトへ下ろす。 
 高い位置から揺さぶられる振動に付随する断続的な吐き気、激痛、狂気。理性と痛覚をかなぐり捨てることが出来たらどんなに楽だろうか。
 しかしそれは即ち、手放した筈の記憶への回帰に続く、螺旋状の後悔にも等しかった。
 
 意識はそこで途切れる。

******

 二階以上は廃屋ともつかない、寂れたビルの一階。所々建物の塗装が剥げ、無機質な基礎コンクリートが剥き出しになっている。重たそうな門扉の下からは、乳白色の薄明かりが漏れ出ていた。

「Amanda, are you there?(アマンダ、いるか?)」

 リチャードは鉄製の扉を勢いよく開け、つとめて明るい声でこの部屋の主に呼びかける。
 部屋の内装はごく一般的なオフィスの白壁に灰色の滑らかなフローリングに、大きな金属製の薬品棚と四つのベッド。そして、ほつれた薄いカーテンで申し訳程度に仕切られた向こうには大きな診察台と、椅子が二脚。部屋の奥には別の部屋へと伸びる細い廊下がある。扉一枚を隔てた向こうに簡易的な手術室があることも、一番手前の薬品棚に準無菌室を作れるバルーンが収納されているも勿論知っている。
 しかし部屋自体はそれほど広くないので、大きな備品と立ちこめる薬品の刺激臭とバンテージ類の匂いが更に圧迫感を演出した。
 白衣の主はリチャードに背を向けて、最奥に設置された薬品棚の整理をしている。白衣の裾から伸びる長い脚、いつも通りの赤いピンヒール。大きなリングピアスに長い縮毛、うなじからのぞく肌色で黒人女性だと判断出来た。
 入り口に一番近い蛍光灯が数秒感覚で点滅を繰り返し、汚泥の跳ねた革靴に光の波紋を落とす。
 アマンダと呼ばれた主の返答を待たずに、リチャードは失神したディンゴを入り口に一番近いベッドに横たえる。次いで回復姿勢を取らせ、呼吸を確認した。
 か細くはあるが自発呼吸はしていた。適切な治療を施せば予断を許さない状況では無さそうだ。否、適切な治療を受けられれば。
 そこでようやくアマンダはリチャードに向き直り、苛立ちを隠そうともせずに刺々しい口調で見咎めた。

「Not again, Mr.fuckin'?(またアンタかい?)」

 リチャードの青い瞳を光の無い眼で見据え、そしてアマンダは異臭に眉を顰めた。
 その異臭は上から出る体液の全てを引っ被った彼の上着と、彼の背負ってきた人間からも漂っていた。そして生乾きの吐瀉物の饐えた臭いが、中でも一段に鼻を衝く。
 アマンダが一つ舌打ちをすると、リチャードはわざとらしく肩をすくめて、ジャケットを脱いでみせた。

「つれないな、シニョーラ? 大きなカーネを拾ったんだ。どうだ、看てやってくれないか」

 リチャードはディンゴを寝かせたベッドサイドにどすんと腰掛け、アマンダに笑いかける。時折ディンゴと彼女を交互に見遣りながら、彼女の表情を探った。どんな状況、患者であろうと彼女は間違いなく請ける、とリチャードは高をくくっている。
 自身にとって【適切】な治療費と引き換えにギャングやマフィア、脱走囚、傭兵、難民等々、例えどんな訳アリの人間であっても秘密厳守で医療行為を行う。当時の彼女はメキシコシティで、闇医者と呼ばれている人間の一人だった。
 アマンダは溜息を吐いて、目にかかる前髪を掻き上げると、二度素早く瞬きする。

「チッ、アンタと出会ってからロクな事が無いさね。ったく、勝手にベッドを使うんじゃないよ……。——幾ら出せるんだい?」

 アマンダは腕組みをして、吐き捨てるように言う。
 リチャードの思惑通り、アマンダはこの話に乗ってくる素振りを此方に示した。未だ動かないディンゴを一瞥し、ざっと見積もり見解を述べてみる。

「裂傷打撲だけだな、見た目ほど酷くない。5万ドル」
「冗談お言いでないよ、他当たんな色惚け男」

 アマンダは眉間に皺を寄せ、舌打ちでリチャードに即答した。
 乾いた笑いで取り繕い、吊り値方法を再考する。彼女の足下を見たつもりは毛頭無かったが、どうやらこの価格設定では甘かったらしい。
 しかし毒を孕んだ言葉とは裏腹にアマンダは、ベッドサイドに寄ってディンゴの腹を視診し始めた。

「ふん、これじゃあ破傷風も気になるね、洗浄が必要だ……ん、アンタ肋骨も折れてんのかい」

 アマンダはディンゴの腹を暫し診ていると、おもむろに紫色に腫れた脇腹を指圧した。
 しなやかな筋肉にめり込む赤いネイルのきっさき、そして患部を押し込む。
 瞬間、ディンゴは短く吼え、息を吹き返した。瞳孔が開き血走った目を剥く。痛みに対する脊髄反射か、上体を撥条ばねのように起こした。経年劣化のせいでオフホワイトになったシーツには、大量の汗に乾いた汚れが滲み、また傷口が開いたらしく鮮血が染みていた。
 アマンダは険のある瞳でディンゴを牽制しつつ、一歩後ろに下がる。

「えっ、そうなのか? はは、良く喋れてたなぁディンゴ」

 そして、リチャードだけが暢気に微笑んだ。何事も無かったように、ベッドサイドに備え付けてあった丸机に頬杖を付いて、彼に向かって、おはようと左手をひらひらと振る。
 ディンゴは唸りながら手探りでベッドの柵に手を掛け、俯いて目を覆う。
 失神により強制的に充電されたせいか、彼の掴んだ金属錆びが浮いた寝具柵は軋み、褐色の腕には筋が浮いた。

「てめえ……クソッタレ、どこなンだ此処は……」
「うん? 医者のところさ。というか、なんだお前英語話せるんじゃないか」

 リチャードは眉を八の字にして唇を尖らせた。ディンゴは未だ柵を握り締め、事態を噛み砕くように座位のままでいる。
 そして幼子を宥め賺す(すかす)ような調子で声を掛けた。

「それだけ元気なら大丈夫さ、すぐに良くなるぞ。——っと、そうだ。アマンダ、俺と一緒にイタリアでビジネスをする話はどうなったんだ?」

 リチャードはアマンダがいる後方に身体を向けて、ベッドサイドから彼女を見上げた。
 右手の革手袋を外し、人差し指と親指で自身の唇をなぞる。目を細め、首を傾げて彼女の表情を伺った。それに付いて肩迄伸びた金髪が揺れる。
 アマンダは最初の方こそ追い払うように手の甲を見せたが、どこまでも青く澄んだ瞳にひたと見据えられ、また一つ舌打ちをした。

「寝言は寝てから言いな。何度も言っただろう、あたしゃ誰とも組む気は無い。特に、アンタみたいなビルを崩したいなんてほざくファッキンクレイジーとはね」

 アマンダは全てを言い終わる前に背を向け、部屋の奥へと向かった。行き先は給湯室だろう。
 彼女と語らうとき、必ずキリマンジャロコーヒーが彼女の片手にあった。立ち上る湯気に挽き立ての豆の香り。お茶を淹れに席を立つ、これを対話が始まる合図と捉えるのは少々身勝手だろうか。
 給湯室は手術室へと向かう廊下の脇にある。衛生的に如何なものかとも思ってみたが、この業界に於いて彼女の仕事に関する良くない噂は聞かなかった。問題が生じなければ問題ない、まさしくそうだ。
 リチャードはアマンダの白い背中に向けて一人、朗々として笑った。

「はは、また振られてしまったか。まあいいさ、また気が変わったら教えてくれよ、シニョーラ=アマンダ。暫くメキシコシティに留まる用事も出来たしな」
「そうさね。即刻帰って共同募金でも立ち上げな、イタ公」

 見えない返答が壁から跳ね返ってくる。
 そして次第に濃くなるコーヒーの薫りに胸を躍らせていると、背後で乾いた衣擦れが聞こえた。
 吐息混じりに手負いの野犬は言う。

「——ビルに報復だァ……?」

 手負いの獣を刺激しないよう、目は合わせない。身体を少しずらし、視線が丁度斜めを陣取るように心得る。

「無理して喋らなくてもいいんだぞ? はは、そうだな。ほんのこの前までパレルモ支部にいたんだ」
「あンだと……?」
「でも言っただろう。今は飼い犬ではないぞ、うん、それは本当だ」

 切れかけた蛍光灯を反射する地面に視線を落とす。心なしか点滅する頻度が早くなっているような気がした。
 ディンゴはぼろ布のようになった黒のインナーで吐瀉物と血液に汚れた口元を拭い、無声音に色が付いた掠れ声を絞り出した。

「ナァ、そいつぁやっぱり新進気鋭の【みんなのパーパ】で正解か……? クソッタレめ。笑わせンな、腹が捩れちまうヨ。てめーの残機が無限として、カイク渇望の最後の審判を迎える日の方が近えナ……オレのポジャ賭けたっていいゼ……?」

 彼は時々噎せ返りながら、しかし不敵に笑った。猜疑、揶揄、畏怖、嘲笑、愚弄どれが本当だろうか。否、恐らく全てを含有しているのだろう。
 ディンゴは横目に彼の表情を瞥見したが、やはり柔らかく微笑を湛えるその表情からは何も読み取れなかった。
 リチャードは光の波紋が絶えず拡大縮小する床を見つめたまま回答を寄越す。

「そうか? 俺は至って大真面目だぞ?」

 一人ごち、屈託の無い笑顔でその時初めてディンゴの瞳と相対した。光の無い三白眼と、透き通ったサファイアが交錯する。
 ディンゴはあからさまに顔を顰めると、荒れ放題の後頭部をがしがしと掻いた。
 この男はあの【アダムズ・ビル】とまともにやり合おうとしているのか、頭がおかしいに違いない、とその時は唯そう思った。前頭葉に飛び切り良いのをもらったか、薬で飛んでいるかの二択としか思えない。

「——テメエ本当に狂ってやがンな……」
「狂ってるんだよ、そいつは」

 突如、声の闖入者とコーヒーの強い薫り。唯一といっても良い程のまともな嗅覚に豆の香りが嗅細胞を刺す。
 マグカップを片手に持った白衣の黒人女性は、二人と少し離れた椅子に腰を落ち着けた。 
 ディンゴはほぼ悄然として、何の意味も無くアマンダの姿を目で追っていたが、はっと己に立ち返り吐き捨てた。

「は、頭沸いてんカてめえはヨォ……。付き合ってらンねえ……オレぁ帰るゼ。治療費は自費でもつ。【礼儀知らずな野良犬】じゃねえからナ、バックレたりしねえヨ……ッ——!!」

 柵を引き掴み立ち上がろうと試みたが、再び筆舌に尽くしがたい激痛が彼を襲った。
 汚れきったシーツに赤黒い血がぽたぽたと滴り落ちる。それを視認したとしても、彼は止まらなかった。
 リチャードを押しのけようとするも、激痛に苛まれて力の込めようが無い腕では、筋肉質な彼の体は動かなかった。

「おいおい、その傷じゃ無理だろ」
「うっせえナ、道開けろヨ……」

 ディンゴは渾身を以てしてハリボテの牙を剥いた。虚勢を張らねば、この座位を保つことでさえも耐えられはしない。肩で息をする。圧倒的に血が足りない。仮にここで医院を飛び出したとして結末など決まっているのにな、と半ば諦観していた。
 リチャードは血走った獣の瞳を再度見据える。彼を押しのけようとした肩に置かれた手は多量出血によって震えが止まらない。

 一息。そしてこの状況下、否、全てに於いて有り得ないことを、その唇で紡いだ。

「いや、待ってくれ。俺たちもうアミーゴだろう?」
「——ア……?」

 今思い返しても、一番間抜けな顔を奴に晒したのはその時だったように思える。
 アミーゴ。それはスペイン語で友達、友人を表す言葉だった。
 血錆びがこびり付いた脳味噌で意味をもう一度再確認する。これまで意味用法を間違えて学習し、使用していた可能性が出てきた。しかし悲しくもそれは有り得なかった、それほどまでに唐突で阿呆らしく、馬鹿げていて、毒気を抜かれるには十分過ぎた。
 黒いんだが白いんだが分からない女医のいる方向から、飲み物にむせ返って止まらない咳払いを聞く。
 サタデーナイトフィーバーをキメていたのはお前の方だろうと、今では笑い話に出来るのが救いか。 
 リチャードは長い睫毛を伏せて、暫く考え込んだ素振りの後に人差し指を立てた。

「歯に衣着せない物言い、あとは意外と素直なところとかな、うん、気に入ったんだ! お前の人間性に興味は無いと言ったな、あれは前言撤回しよう。友達になってくれ」

 これまでの美術品に類いする微笑などでは無い、リチャードは歯を見せて邪気の無い笑みを浮かべる。
 平生より虹彩部分の小さかった三白眼は更に小さくなり、点を穿つのみで。
 あまりにも拍子抜け。文字通り開いた口が塞がらず、呆気にとられる。全てを喰らえと低く囁いていた本能はすっかり萎えてしまい、ベッドにへたりと座り込むしか無かった。

「お花畑なヤツだナァ……? 寝首掻くような真似してみろヨ、首と胴をセパレイトにしてやンぞ……」
「そんな事しないから安心して眠ってくれ。あっ今のはR.I.Pじゃないぞ? はは、邪推してくれるな」

 何一つ笑えないジョークを一つ残し、脳内お花畑は柔らかくディンゴの背中を叩いた。
 回らない頭、うざったい妙ちきりんな男に、そして唐突な眠気。もう何も考えることは出来なかった。
 ビルと彼の関係、カルテルとのパイプを欲する理由、彼は何を目的にしているのか、何も分からない。しかし今だけは何も考えたくなかった。
 とりあえずの休眠を、それだけでいい。身の振り方は後で考えれば良いだろう。

「チッ、いちいちうぜえヤツだな……。——テキーラ奢れヨ」

 そう言うと彼はリチャードに背を向けて横になった。
 物理的に表情を読み取れない野犬に向かってもう一度微笑んで、ベッドサイドから立ち上がる。それでもやはりガタのきている安息地は、金属の軋む音を響かせるのだった。

「この通りに良い雰囲気のスペインバルがあるんだ。腹の傷が治ったらそこへ行こう」



Re: What A Traitor!【第1章Ⅸ更新】 ( No.11 )
日時: 2018/10/10 19:50
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /0vIyg/E)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode




————イタリア=ナポリにて。

「は? お前……ビルにいたの?」

 ホセは平生より大きな瞳をぱちくりさせてリチャードを見上げる。今日の快晴を映す、とても澄んだ瞳だった。
 本日のホセの装いはフォーマルなブラックスーツと清潔感を重んじたオールバックである。これら全てはリチャードがホセに先日言い渡したドレスコードだったが、彼は特別抗議するようなこともなく唯浅く首肯しただけだった。普段からファッションに拘りを持っている彼のことだから、確実に噛み付いてくるだろうと思っていた矢先のことだったので拍子抜けしたことは記憶に古くない。
 白に赤が入った派手な髪は多めの整髪料で襟足へと撫でつけられている。猫のように狭い額と短く整えられた眉が露わになっているぶん、ただでさえ童顔な彼はより一層幼く見えた。ホセは21歳の青年だったが、リチャードの目から見ても凡そ成人しているようには見えない。
 ホセはいつも好んで着用している白黒ゼブラ柄のカッターシャツではなく、卸したてのホワイトカラーに黒いネクタイを締めて、同じく漆黒のスーツに身を包んでいる。しかし糊のきいた背広は一切彼の体に馴染もうとせず、完全に服に着られている状態だった。
 そして両の人差し指と中指に黒光りする指輪、二連ネックレス、細身のバングルや多種多様なピアス等の装飾品だけは一つの取りこぼしなく身に着けられている。そのアンバランスさも相まって、どうにも小さな子供が肩を張って大人に近付こうと背伸びしているような印象を与えた。
 少々話は変わるがメキシコ原産世界最小の愛玩犬であるチワワはアップルヘッドと呼ばれる丸みを帯びた特徴的な頭部の形をしており、愛犬家達からチャームポイントだと持て囃されている。丁寧に整えられた彼の現在のヘアスタイルと重なり、リチャードはついついその赤色に手を伸ばしてしまいそうになるのを抑えた。
 流石に怒られるかな、と心の中で苦笑するしかない。

 現在彼らが立っているのはイタリアはナポリ、カヴール広場である。
 トーニャスからナポリに至る道中はバス、特急列車や地下鉄を幾つも乗り継いでやってきた。トーニャスがあるイタリアの北端から地中海沿岸中南部のナポリまでは随分時間が掛かる。商会が持つ移動用車はあるものの大仰な装甲や防弾装備がナポリの街中では妙に目立ってしまい、公共交通機関を使わざるを得なかったのだ。
 山間の農村部を長距離移動バスで駆け抜けて、初めて満員電車を体験したホセは何度も人混みに流されてしまいそうになった。それ故、雑踏の中でも一際背の高い男を頼りにするしかなかったのである。癪ではあったが、時々気付かれないようにリチャードのトレンチコートの裾を指先で掴んでは離すこともあった。知らない人間と肩が触れあう度に、ホセは何度悪態吐いたか分からない。
 カヴール地下鉄駅から近いこの広場だったが、観光客らがごった返しているというわけでもない。元々観光名所と呼ばれるには世界遺産や他の建造物に圧倒され過ぎており、国立博物館へ向かう人々が通り道として広場を過ぎるか、地元住民が木陰のベンチでシエスタをとっている程度である。その上夕刻を過ぎてしまうと、お世辞にも治安は良いとは言えない場所になる。 
しかし晴れ渡る青空に地中海から運ばれる潮風、そしてどこか南国風情漂う緑の植え込み。リチャードは【かの時代】よりこの場所が嫌いではなかった。

「ああそうだ! ふふ、これでも一応上の人間だったんだぞ?」

 ホセの新鮮な反応を受けて、リチャードは微笑みつつ人差し指を唇に押し当てる。
 今日の彼もいつもとは少し違う出で立ちだった。いつもならば高い位置できつめに結われている金髪は、項部分にて布製の髪紐でゆったりと括られている。そのせいか平生よりも一層長く感じられ、地中海の風がふわりと巻き上げた金糸にホセは思わず目を奪われた。目深に被った白いボルサリーノと金縁のサングラスが、どこまでも青い瞳に影を落とす。本日はスーツも彼のお気に入りである濃青色のジャケットと黒いカッターシャツではなく、ホセと揃いのフォーマルスーツを着用している。
 それでもこの着熟しの中、黒い革手袋を頑なに外そうとしないのは少し違和感が残った。

「ッ——!? ふ、ふうん。あっそ」
 
 ホセは諸々の動揺を振り切るように、ぶっきらぼうに会話を切り上げてそっぽを向いてしまう。
 実はリチャードも道中ホセとの間をもたせようと悩み抜いた末、ディンゴとの出会いの物語を彼に語っていたのだった。九年前に死に損なっていたディンゴを助けた事、そして【アダムズ・ビル】パレルモ支部の幹部だった事。しかし例え現時点で【ここまで】話したとしても特別今後の針路に差し支えることは有り得ないし、このように些細なこと迄は隠し通すことは出来なかったように思う。 
 今のホセにディンゴの話をするのは気が引けたが、存外に反応は悪くなく、時折ゆっくり瞬きをしながら黙って此方の話に耳を傾けてくれていた。
 しかし同時刻メキシコ湾海上にてディンゴが核心に迫る過去を深く抉り取り、商会員両名に向けて掲げている事など予想だにしてなかっただろうが。
 リチャードはホセの斜め後ろから距離を詰めると上半身をくの字に折って、彼と目線の高さを合わせて彼方を指差した。濃紺を透かし晴れ渡る青を背景に、白い荘厳が顕現していた事にホセは初めて気付く。

「——ホセ、見えるか? 少し遠くに、うん、あの白い建物だ。あれがナポリの守護聖人サン=ジェンナーロを奉っているナポリ大聖堂。そしてここからじゃ見えないが……サンタルチア港の方には卵城カステルデッローボがあるんだ。ノルマン人の魔術師がこの城を作るときに『この卵が割れるときにナポリも滅びる』という呪いをかけた事に由来するそうでな。可愛い名前だろう?」

 リチャードは横目にちらとホセの表情を伺う。

「わ——すっげ……」

 リチャードは柔く微笑み、ホセはしまったと口元を抑えて表情を強張らせた。
 そんな彼の肩を二度叩き、リチャードは朗々と笑う。

「そうだろうそうだろう! なあホセ、ナポリに来たことは無いのか?」

 リチャードに顔を覗き込まれ、逃げ場の無くなったホセは歯切れ悪く答えた。いつもなら遮ってくれた筈の赤は残念ながら現在後ろに逃げてしまっている。 

「あるにはあっけど……飛行機だの車だの、移動続きでンなもん見る暇ねーし」
「はは、そうか。疲れて寝ちゃってたんだな!」
「うっせえな悪いかよバーカ!!」

 爽やかな笑顔を浮かべて図星を突くリチャードに、ホセは牙を剥かざるを得なかった。
 初めての飛行機は空の上というのに有り得ないほど揺れたし、離発着時には耳が痛いしで疲れない方がイカれてる、と決して口にはしないが短い眉を吊り上げる。
 リチャードはホセが見せる犬歯など意にも介さず、サングラスの奥にある瞳を細めた。

「でもアカプルコも世界有数の保養地だろう? あの陽光射し込む白浜、輝く紺碧の海を一度この目で見てみたいんだ」

 そして再びホセを見遣る。
 しかし先ほどの激昂など嘘であったかのように、彼の瞳は寂寥の色をとっぷりと湛えていた。少し俯きがちに。そして睫毛が影を落とす。流れるような一連の動作はスローモーションにて移ろい、植え込みの長身樹の木漏れ日が不規則に虹彩のハイライトを奪う。
 そして小さな唇が消え入りそうな声で言葉を紡いだ。余りにも小さな口跡、いつもの犬歯は唇に隠れて見えなかった。

「別に。もう覚えてねーし。——そんな綺麗なとこ……オレは知らねえよ」

 ホセは洟をすするように、一つ鼻を鳴らした。
 深耽に満ちた瞳、少し角度の緩い眉、引き結んだ唇。初めて目にする彼の憂いにリチャードはどうしても二の句を継げなかった。
 そして暫しの沈黙と膠着を経て、ホセは突如身を翻しリチャードの懐に入った。

「おい、ライター貸せ」

 唐突なホセの言動にリチャードは思わず肩を強張らせた。

「——えっ!? な、なんでだ。火が点けられないじゃないか……」
「うっせーな四の五の言わずに早く出せよ。気が付けばモクふかしやがって……あんだよ、オレへのあてつけか? いちいちくっせえんだよ。没収だ、没収。」

 ホセはリチャードのネクタイを掴まんばかりの勢いで捲し立てる。
 先のしおらしさは一体何処へ消えてしまったのか。リチャードは苦笑いを浮かべて生命線を何とか取り繕おうと図ったがそれも空しく、ホセは矛を収めようとする気配すら見せない。
 結局は彼の威勢に押し負けて、トレンチコートの懐から大人しくデュポンを取り出すしかなかった。

「そんなに言わなくても……なあ、会合が終わったらちゃんと返してくれよ……?」
「あ? オレだってこんなモン持ちたくもねーよ」

 ホセはリチャードの手から素早くデュポンを奪い取ると、乱暴にジャケットの懐に突っ込んだ。デュポンを求める空しく虚空を掻く。ホセは暫く考え込むような素振りを見せた後、上目遣いで躊躇うように切り出した。連絡会に付いてきて欲しいと伝えたあの日と全く同じ目だった。

「——あのさ、連絡会って何すんの」

 リチャードは嗚呼と記憶を掘り返すように右上へと視線を泳がせた。黒革で唇をなぞり、言葉を選ぶ。

「今まで月に一度、浩文と一週間ほど外出することがあっただろう。少しばかりやんちゃなシニョーレたちとお茶会をするのさ」

 リチャードはぴんと人差し指を立てて、極めてにこやかに言い放った。それに反してホセは眉間に皺を寄せ、表情を曇らせる。

「やんちゃな、って……誰だよそいつら」

 刹那、カヴール広場に風が吹き込んだ。飆は落葉と彼の髪を再び巻き上げ、彼らの視線交錯を分断する。枝葉を揺すられ、地に堕とすのは点滅する木漏れ日。

「輓近【アダムズ・ビル】の靴を舐めた奴らと、な——さあ行こうか、ホセ。今日に限ってシエスタは適応外なんだ」

******

 ——同時刻、メキシコ湾海上にて。

「ボスが【アダムズ・ビル】の構成員だった……?」

 浩文は脂汗を額に浮かべて、誰に言うでもなく悄然と呟く。
 船倉の中はいつの間にか湿気と熱気が立ち籠めていた。丁度太陽がメキシコ湾の真上に来る時間帯なのだろう。直射日光に焼かれた甲板の熱が船倉に伝導していた。サウナと化したのは唯一外界と繋がるハッチが鉄製なのもあるだろう、重い蓋周辺の空間が心なしか陽炎が如く揺らぐように感ぜられる。
 滝のように顎を伝って滴り落ちる汗。彼の流汗は絶え間なくスーツの黒いスラックスに落ちて、更に黒々しく染み込んだ。狭く暑苦しい船内であるからか、否、それだけではないだろう。
 長い時間、視界不明瞭な中で不規則な海流に三半規管を上下左右揺さぶられていた。心許ないランプから漏れ出る油臭さも相まって、きっと中枢神経群にもその余波は現れているのだろうと思った。降って沸いた情報量に疲弊しているのか頭が痛い、ぐるぐると目の前が渦巻いた。
 【アダムズ・ビル】は今回の依頼において、商会にとっての明確な敵であると言い換えても良い。
 出生や過去に関して、相互干渉しないのが商会内における暗黙の律格だった。それ故、誰一人としてボスであるリチャード=ガルコの詳しい経歴について何一つ知らない。スウェーデン系移民の血を引くマルタ系シチリアン、40歳、男。やっとの事で脳味噌から引き出せた確かな情報はそれくらいか、全くもって笑えてくる程だ。
 だからこそ眼前の片言英語を話す男のもたらした廣報は、浩文とファティマの両名の度肝を抜くには十分過ぎた。
 ボスがあのビルの出身という事実。そして、【アダムズ・ビル】の崩壊を目論んでいること。
 先程からやたらと喉が渇く。汗も止まらない。しかしこんなに蒸し暑いというのに当てもなく握った拳は震えているのか。
 浩文は唯ひたすらどこまでも続く深淵に立たされた心持ちだった。触れてはいけない禁忌にべったりと手垢を付けたような、虎の尾を踏んだような、内臓が凝り固まる厭な予感が彼の胸中を占める。 
 そしてボスは平生ならば即決で承諾するような商談をもっともらしい理由を付け、渋った。その事はビルを抜けた理由、そして報復に値する何かと関係するのだろうか。
 否、俺は何を言っているのか、しない筈が無いだろう。
 【何】が彼を報復へと駆り立てたのか。【何故】ビルから身を引いたのか。【何時】までビルの人間だったのか。ありとあらゆる疑問詞が浩文の脳内を支配した。
  9年前というと【アダムズ・ビル】と呼ばれる組織は、勢いこそあったもののそれほど規模が大きくなかった事を記憶している。しかし今では各国のマフィアを吸収買収懐柔し、肥え太りきった世界有数の反社会的組織である。
 そんな組織に報復など果たして可能なのか。浩文は奥歯を強く噛み合わせながら、かつてのディンゴと同じ猜疑を抱いた。
 ファティマも口元に手をやり、一言も発せずにいる。アバヤに覆われた表情の全容を伺うことは困難であったが、彼女の眉とその翡翠は明らかに動揺の色を湛えていた。
 二人の反応に対しディンゴは愉快そうに口角を歪めて、左手をひらひらと振ってみせた。

「クク、アイツ本当にオマエらに言ってなかったとはナァ?……アー、嘘は吐いちゃいねえ、吐く必要が何処にもねえからナ。オレと出会った時にゃもう一匹狼だったみてえだがヨ」

 ディンゴは今の今迄弄んでいた眼鏡を、持ち主の胸元に押し付けた。
 すっかり腑抜けてしまった浩文は取り落としそうになりつつも、力の入らない両手で目を受け取る。習慣で何も考えずに眼鏡を掛けると、彼の指紋で視界は白く煙っていた。二人が邂逅を果たした血塗れたあの日のように。浩文は何となくレンズを拭うことが出来ずに、湿ったスラックスの上にて手を遊ばせる事しか出来なかった。
 ディンゴは再び元の位置に腰を落ち着けて、左手でネクタイを緩める。誠実実直という人間性からはおよそかけ離れた人物ではあったが、普段から服装だけは着崩さずにしっかりネクタイを締めていた。ボタンを外すことはおろか袖を捲る所も、彼がトーニャスにいる三四日のあいだ一度も目にしたことが無い。
 そうしてボタンを上から一つ、二つと外していく。その時初めて、浩文はディンゴが装飾品の類いを身に着けていることに気付いた。先端に小振りな石が結わえられている革紐を首から提げている。その石はどこまでも光を拒絶しきった色で、しかしどこまでも澄んだ光沢を湛えていた。それなりに多方面に博識な浩文であったが、天然石の事についてはおよそ門外漢にも等しく、今は引き下がる他無い。
 彼の汗ばんだ胸板にはボタンを数個外しただけでも分かってしまう、抉り取られたような袈裟懸け状の裂創が何本も奔っていた。濡れた漆黒の巻毛は首筋や鎖骨一帯に張り付き、引き攣った筋繊維に従って汗が伝う。
 当時負った傷も未だに残っているのだろうかと、無遠慮だとは分かっていたが浩文はどうしても彼の傷から目が離せなかった。

「だからボスは今回の依頼も承諾しかねていたのでしょうか」

 浩文は彼の傷と例の石を見つめながら、ぼんやりと問いかける。
 彼の視線に気付いているのか否か、ディンゴは鎖骨をゆっくりとなぞった後人差し指で革紐を張ってみせた。

「ン……さてどうかねェ?」

 ランプの仄明かりに、胸元の石が鈍く反射する。
 彼の話が終わった後、初めてファティマがおずおず口を開いた。

「でもどうして……一体何が理由でビルから離脱したのでしょうか」
「——その答えはアイツの口から直接聞きナ。ま、簡単に【その時】は来ねえと思うガな」

 ディンゴが唇を舐めると示し合わせたかのように、やたら慌ただしい足音の後、ハッチが鈍い音を立てて真っ直ぐな陽光を通した。
 直射日光に暖められた生ぬるい潮風と共に荒々しい語気のスペイン語が唾と共に頭上に降りかかる。相変わらずそれらの解読は出来ない。
 ディンゴは間延びした声でクルー達に応えると、今しがたやり取りした旨を投げ、やおら立ち上がって伸びを一つした。

「おら立てヤ、もうそろそろ着港する時間らしい。上陸したらまずは【オレの部隊】を紹介してやるヨ」

 ハッチへと伸びる錆びた梯子に手と脚を掛けようとしたその刹那。ディンゴは何かを思い出したように、胸ポケットから髪紐を取り出して慣れた手付きでその巻き毛を括った。
 いつもは癖の強い長髪で隠れていた項と左頬の裂創が、その時初めて露わになる。汗の滴る歴戦の傷跡が目立つ首筋。引き攣った左頬は耳にまで達していた。
 深く傷の残る其の横顔に、最早平生の軽薄さなど微塵も無い。
 南米を統べ、組織に仇なす森羅万象をその爪牙を以て跪かせる【特殊高火力戦闘部隊「onyx」】その頂点に君臨する者、その人であった。


Re: What A Traitor!【第1章Ⅹ更新】 ( No.12 )
日時: 2018/05/27 14:13
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: .A9ocBGM)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=930.jpg




 ナポリ郊外バーストリートの深奥、そこが今回の舞台だった。
 破顔する太陽と晴れ渡る蒼穹の目下、夥しい数の黒服と明度の低い高級車が狭い路地にひしめき合い、相反する無彩色を醸成している。そして本日路地裏の心臓となった建物周囲は武装した黒服らによって守られ、黴臭い酒場は一城の要塞へとその姿を変えていた。有象無象の手にはショットガンやライフルの小銃、懐には拳銃。銘々の黒光りする得物を見て、毎度のこと大袈裟では無いかとリチャードは嘆息した。ホセは広場より満員電車の中よりも幾らか緊張した面持ちで顕現した目的地を見据え、半歩後ろを付いてきている。しかしその歩みは依然として力強かった。
 二人の足下にて敷き詰められた暖色煉瓦は無機質なコンクリートへと、いつの間にか其の様相を変えていた。瞬間スタックヒールの接地が甲高く移ろい、一段と大きく路地裏に反響する。此方に気付いた黒服の一人が訝しげに片眉を吊り上げた後、素早く銃を下ろしてリチャードらを恭しく出迎えた。  
 ようこそ、此方でチェックを、とマニュアル通りの案内にルール通りに従う。
 建物入り口まで進み出るよう言われると、両手を挙げたままに金属探知機に掛けられる。そして胸元で警告音。リチャードは慣れた手付きで護身用のベレッタを第三者組織の黒服に預ける。彼の後ろでホセも同じくチェックを受けていたようで、不服そうな顔を隠そうともせずに懐の拳銃とフォールディングナイフを渡していた。
 リチャードはサングラスをトレンチコートの衣嚢に仕舞う。彼は虹彩のメラニン色素が少なく日光に過敏な為に、晴天時の外出にサングラスが欠かせなかった。しかしこの先待ち受けるは【口喧しい闇】である。一縷の光明を手繰り寄せねば、この連絡会と銘打った深淵に勝機は見出せない。目の前を遮るものなど、もう不必要だった。
 全てのチェックを受けた後、二人は蝶番が重々しく軋む音を共に聞いた。

 牙城内部は案の定、暗かった。高度数のアルコールと煙草の匂いが彼らの足下へ擦り寄る。急激な視界明度の変化により現在視力は無いに等しく、その分鋭敏になった嗅覚と圧覚は殴打されるが如く刺激された。そして、一拍遅れて瘴気を蒼天下へ吐き出す重厚な閉音がもう後戻り出来ないことを、冷酷に告げる。
 目が慣れてくると、先程と同じような黒服らが壁際に控えているのに気が付いた。それほど大きくはない室内に10人程度。しかし外にいた人間とは明らかに異なる雰囲気を纏っている事は容易に察知し得た。舐めるように全身を品定めし威圧する双眸、そして明確な殺気が彼らの肌の表面を焦がした。
 仄暗い空間に低彩度の間接照明が揺らめき、陰影を幾重にも作った。黒い肉壁を横目に部屋中央に向かって歩みを進めると、例のアルコールと煙草が綯い交じった異香は強くなる。リチャードは背後でホセが息苦しそうに咳き込む音を聞いた。
 そしてヒールは一定の拍子を保ったまま小気味良い音を鳴らし、ようやく本日の賓客と相見えた。
 空間最奥に三席。
 向かって左にてドメニコ=カストランテ。イタリア全土の禁輸を取り仕切りナポリの密輸王と呼ばれる、紳士然とした初老の男である。
 中央にてヴィニシモ=ジョルジョ。イタリアでは売春禁止法が定められているが、彼はその法の目を掻い潜り会員制の裏風俗サービスを経営して巨万の富を得ているという。でっぷりと腹の出た彼はリチャードを見るなり下卑た笑みを浮かべた。
 
「——よぉロメオ。遅れてくるとは、随分と良い御身分だな? おい見ろドメニコ、どうやらこのデカいマルチーズは礼節というモノを知らんらしい」

 ジョルジョは口髭を右手で弄びながら、高い位置から象のような脚をテーブルに振り下ろした。その衝撃により飲み残しが煌めくグラスと酒瓶が飛び跳ね、転がり、墜下。茶色の酒瓶は派手な音を立てて割れ、グラスの内容物は虹色に飛び散った。ジョルジョは椅子にふんぞり返り、鼻を鳴らす。
 リチャードは以前よりこの男の相手が不得意だった。
 紳士とは程遠い振る舞い、美意識の欠片も無い体型、粗野な言動。その全てがジョルジョを敬遠する要因となっている。
 リチャードはボルサリーノを左手に、右端のソファに浅く腰掛けながらジョルジョに回答した。

「——ああ、14時開始でしたな。純金のモデルノは計時もお早いようで?」

 リチャードの返杯を受け、ジョルジョの顔から余裕ぶった笑みが消える。彼は金時計輝く左手を中空に遊ばせ、低い声で呻る。

「……口の利き方に気ィ使えよマルチーズ」

 こめかみに青筋に浮かべたジョルジョをドメニコは一瞥し、静かに問うた。

「付け人の中国人はどうしたんだね?」
「彼は出張にて出払っておりますので。本日はその代わりの者が私の傍に控えています」

 リチャードはドメニコをひたと見据えて答える。それを聞いた彼はふむと首肯し、皺の多い手を組むだけでそれ以上は何も言わなかった。
 密輸王ドメニコ、やはりジョルジョとは貫禄も気韻も格が違った。彼が顧問コンシリエーレを務めていた密輸組織は古来よりナポリに拠点を構え、その類い希なる商才と組織自体の質の高さからイタリア全土をその手に掌握し、支配してきた。裏社会におけるドメニコの采配と武勇伝には事欠かない。ビルが西欧に進出してくるまでは、確かに彼の組織がラテンヨーロッパ有数の巨大勢力だった筈だ。且つ最後までビルには吸収されまいと闘っていた事も記憶に古くない。リチャードはこの誉れ高きナポリの雄、ドメニコ=カストランテなる男がそう簡単に【アダムズ・ビル】の軍門に降ったとはどうしても思えなかった。
 リチャードがビルにいたことはドメニコ、ジョルジョの両名とも把握していない。幹部だった、とは言ったものの【パレルモ支部のボスに昇進して直ぐにビルから離脱した】という理由付きだからだ。
 そしてその前提でこの連絡会を乗り切らねばならない事は、極めて大きな困難となってリチャードの肩にのし掛かった。本日の議題はどうせ視えている。どんなにボロを出そうがこの場で即刻どうこうされる可能性は極めて低い。しかし如何に商会の経済的リスクを減らし、そして如何に自身の保身を図るかが本日の彼のタスクだった。こんなところで終止を迎えて良い訳が無い。

「チッ……その青臭いガキがかぁ? 【トーニャス商会】の人員不足も相当だな」
「ッ——!?」

 ジョルジョは後ろに控えるホセを一瞥して、嘲笑するように鼻を鳴らした。
 ホセは拳を震わせ、歯を食い縛り顔を俯かせ必死に抑えている。それはかち合うバングルとリングの金属音が此方まで聞こえてきそうな程で。
 どんなことがあっても椅子に座る者の目を見てはいけない、これもナポリ出発前に彼に申し付けた事だった。平生より気の短い彼のことだ。連絡会に来る道中含めて慣れない服装、場所、雰囲気に相当神経を磨り減らしているに違いない。
 彼は未だ年相応の青年であるのだ。此処で何か言葉を掛けたとしても、いつものように彼の神経を逆撫でする結果に終わるかもしれない。だがそれでもやらねばならない事があるのだ。
 否、彼の為だと偽善をかます余裕など無い。今はどうしても己にこの場を凌ぎきる呪詛を打たねばならなかった。
 眉間に皺を寄せ拳を握り締めるホセに、リチャードはそっと目配せをした。ホセも視線に気付く。そして存外素直に歩み寄ってきた。自分と同じ整髪料の芳香、手入れし過ぎた短い眉にあどけなさの残る唇。
 傍に寄った刹那、耳打ちをした。

「Not a problem at all.Trust me,Jose(何も問題無い。ホセ、俺を信じろ)」

 信じろ、か。
 虚勢を張って命令形を使ってはみたものの、所詮は相手の出方次第でどうとでも転がされる。何しろ二対一の完全なるアウェイだ。どれだけ保身に回っても【無傷】とはいかないだろう。我ながらよくも薄っぺらい事を嘯いたものだ、と嘆息してゆっくりとホセの顔を見上げる。
 
 また、今まで見たことの無い顔をしていた。
 踵を返して後方へ戻る刹那に垣間見えた傷ついたような、泣きそうな、胸を衝かれたような表情。それはディンゴからイタリア残留を宣告されてから、時折彼が見せるようになった表情とよく似ていた。
 一瞬たじろぐリチャードだったがこの戦場は待ってはくれない。

「内緒話は宜しくねえなあ」

 ジョルジョの地の底から響くような声色でリチャードは一気に現実に引き戻された。
 彼は相変わらずの癖か、右手の親指と人差指で口髭を弄っている。リチャードは改めて小さく息を吐いた。
 余計な思考を挟むな、どう展開すれば有利に場を作れるか考えろ、ジョルジョは逆上せやすい分まだ御しやすい。取り繕え、活路を見出せ。
                           
「は、これは誠に申し訳御座いません。英語です、シニョーレ=ジョルジョ。不得意で在らせられましたかな?」
「何だと——?」

 計画通りだ、乗ってきた。【本題】が来る前に何とか場を攪乱し、核心を突く準備を整わせなければ良い。いつもなら本題に入るまでまだ時間はある筈だ、引き延ばせ、見失わせろ。

「御二方、漫談はそれ位にしてくれるかね。——さて、議題は分かっているだろう。勿論【アカプルコ・カルテル】の動きについてだ」

 しかし無情にも審判の喇叭は吹かれてしまった。彼らを出し抜くにはあまりにドメニコの存在が大きかった。彼は場を知っている、小手先の交渉人心掌握術など無意味だ。
 ジョルジョも平静を取り戻したらしく卑俗な笑みを浮かべ、ここぞとばかりに追及してくる。

「てめえら商会がカルテルと組んでるってのはここらでも有名な話でなあ。まあ……あんだけ図体のでかい組織だから、否が応でも情報は入ってくるんだ。それこそ【否が応】でもな」

 何とか解を捻出する。この期に及んでカルテルとの関係性を取り繕うことはむしろ自殺行為だろう。

「ええ。否定は致しません、否定する【理由】すら私どもにはありませんゆえ。連絡会発足当時から申し上げている通り、商会は中立を謳う組織です。如何なる組織とも利害の一致の末に取引こそすれど、共同歩調をとることは無い。それは即ち、私どもがカルテルと取引に及んでいたとして【貴殿らに咎められる理合いにも無い】ということです」
「おいおい。取っ替え引っ替えすんのはトロイアだけにしとけよ。種馬宜しく手前の後始末が出来なくなる前にな」

 下品な男だ、とリチャードは再度ジョルジョを軽蔑した。その仕事ぶりも普段の言動について何一つ賛同するどころか尊敬に値する箇所など見つかりやしない。つい睨め付けてしまいそうになるのを理性で押さえ付けた。
 相反してドメニコは冷淡に、そして的確に核心へと距離を詰める。

「しかしね——もはや黙認するわけにもいかないんだよ、商会の」

 どうしたものかとリチャードは歯噛みするしかなかった。平生ならば情報交換で終わる粗略な連絡会だった筈だが、今日はやけに食い下がってくる。米墨国境戦争に派兵したのはもう割れているということなのだろうか、いや流石彼らの情報網を以てしてもそれは無いだろう。先程のような回りくどい言い方をしなくても、最初に突き付ければいいだけの話だ、そこは安心して良い。
 忘れかけていた焦燥が大手を振って遠くから駆け寄ってくる。何かこの場を切り抜ける良い方法は、と脳味噌を回転させようとするもエンジンが全く掛かってくれなかった。それは何故か、いつも人間と対話するときには欠かさなかったパルタガスの紫煙が無かったからだ。

 リチャードは無意識のうちに葉巻に手を伸ばしてしまっていた。

 いつものルーティン通りに唇で柔く挟み、デュポンを探る。いつもの衣嚢に硬さを感じない違和感。
 気付いたときにはもう遅かった。
 そうだ、ホセに預けてしまっていたのだ。知覚した刹那、リチャードは爪先から血の気が引くのを感じた。奥歯を強く噛み合わせると、所在ない葉巻も圧力で軋んだ。
 さしずめ始原の人類様に仇をなす大馬鹿間抜けのエテ公か、傑作だな。畜生あの時渡さなければ、とホセへの憎悪もその時脳裡をよぎったのかもしれない。しかしもう疲弊しきった中枢神経は物を考えてはくれなかった。
 もう次の行動を選ぶ選択肢すら出てこない事への諦観が脊髄から這い上がる。

 一弾指、暗闇にて馴染み深い整髪料が香った。それは葉巻を咥えていても強く、有り得ないほどの薫風で。
 目の前を掠める白と赤の影。それは急降下して、衣擦れの収束と共に落ち着く。
 そして数分の間もなく、化粧板がかち合う心地よい反響が低い天井を衝いた。
 
 俄には信じ難かった。しかし顔に当たる薄灯りと、口内に満ちるパルタガスの味は真実を告げる。
 彼は他組織の眼前で【俺に跪いて忠誠を誓った】のだ。あの時あの場で【あの野犬】にさえしなかった事を、だ。
 ホセの選びとった自己犠牲と奉仕。【それ】が成す意味を理解した時、脊髄に残る諦観は椎間板へ押しやられ、痛い程に脳髄を揺さぶった。全神経がさっさと麻薬を出せと視床下部に指令を喚き散らす。

 俺はどうやらホセ=マルチネスという男を見くびっていたらしい。
 
 そうか、端っからこれを狙っていたんだな。全てお前の計算尽くで掌の上。何て見上げた奴だ。成る程愛玩犬と言ったこともあったか、馬鹿も休み休み言え。訂正させろよ、奴はとんでもなく理性的且つ獰猛な【番犬】だった。
 胸が熱い、年甲斐も無く武者震いが止まらない。不意に笑みが零れそうになるのを唇を噛んで堪えていると、マンマの味より親しい鉄錆の味が口内に広がった。俺は今どんな顔をしているのだろうな、きっとひどい間抜け面を晒している。あいつらに漏れ出ていなければ良いが、いやしかし、これは駄目だろう。否だ【こんな事】を我慢出来る奴がいて堪るか。
 彼の手により染み渡るニコチンとパルタガスの馨香は、麻薬が如く甘ったるく脳を犯す。煙脂の染み込んだ髄液は沸騰する。
 お前はどんな思いで、どんな顔をして俺に頭を垂れたんだ。なあ、教えてくれよ。その献火にどんな祈りを捧げたんだ。
 【ファミリア】から【ファミーリャ】への転遷。毒棘を有す外殻を受容し、彼は自身の牙で噛み砕き嚥下した。小さな体では背負いきれない幾重の苦悩がそこにはあっただろう。嗚呼、何て皮肉なもんだろうな。
 良いだろう良いだろう、英断の代価にお前の望む終焉をやる。どれが良いんだ、幾億通りから選べ。
 身命を賭して自分の【家族】を護るのが【お前のボス】ってものだろう。
 俺自身の保身なぞ知ったこっちゃねえ。肉も切らせて骨も裁て、最後にお前の血が此処に流れていなけりゃ【意味】が無いんだ。

「——時に、シニョーレ。昨今、偽ユーロ札の流通が急増していることをご存じでしょうか?」
「プータじゃねえんだ。論点をずらすんじゃねえよ」

 偽ユーロ札、その単語がジョルジョの鼓膜に届いた須臾に彼は瞼を痙攣させた。
 喰い気味の返答がジョルジョを穿ち得た銃弾だったことを確信する。彼は空のグラスにウイスキーを注いで一気に煽った。あまりに狼狽した手付きだったもので、テーブルに飛沫が千発跳弾する。相変わらず感情を支配するのが蕪雑な奴だ、どうしてこのような人間が人の上に立っているのか不思議でしょうがない。
 リチャードはドメニコの片眉の角度が急になるのも見逃さなかった。 

「【勅令】には無い筈です。——ああ、何故お前が知っているか、そんな顔をしていらっしゃいますね? 【あれだけ図体のでかい組織ならば、否が応でも情報は入ってくる】んですよ。それこそ【人員不足の深刻な商会】にも、ね」

 リチャードはジョルジョに柔く笑いかける。偽ユーロ札の蔓延、これは唯の憶測でしかない一つの大博打に過ぎなかった。不発が恐ろしく、どうしても出せなかった切り札。しかしヴィーナスはリチャードにキスをした。
 元来【アダムズ・ビル】とは米ドル偽札密造を主産業としていた団体である。今でこそモノカルチャーではなく細分化が図られ、組織を形成しているが偽造紙幣が現在も大きな収入源となっているのは変わらない。
 そして昨今、ビルは懐柔吸収した組織に印刷機を貸与し世界各国で米ドル紙幣を大量に印刷させているという話を耳にした事があった。
 ここで幾つもの手掛かりを元に理論を組み立てる。異様な数の偽ユーロ札の流通、ビルに最後まで抵抗した密輸王の存在、ここから導き出せる仮定は一つしかない。
 それは彼らが親に唾を吐き、偽ユーロ札を独自ルートで製造している事実だった。

「何が言いたい」

 先刻よりしわがれた声でドメニコが呟いた。
 リチャードはパルタガスの紫煙を喉奥で寸止めし、口内で転がし、一挙吐き出す。
 肘掛けの一部分が灰皿になっている事などその時は露知らず。パルタガスの腹を柔く擽り、床に灰を零した。

「【アダムズ・ビル】は貴男方が思うよりずっと狡猾で、恐ろしく、貪欲だ。私は【何の因縁】か、それを【痛いほど知っている】のです。さて、シニョーレ……アダムの堕とした林檎を囓ったが最期、楽園から永久に追放されてしまうかもしれませんな——?」


Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅠ更新】 ( No.13 )
日時: 2018/12/01 01:28
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=941.jpg

ⅩⅠ


 かの連絡会の顛末はというと、驚くほど呆気無かった。
 リチャードは全弾撃ちつくしの完全ホールドオープン、後は撃たれるか否かを両手を挙げて待つのみだった。先の通り証拠不揃いの一か八かの異端審問である。一歩間違えれば十字架に磔になっていたのは此方だった。大博打だとは分かっていても【家族】を、自身のファミリアを守るためにはあれしか選択肢は残されていなかったのだ。
 例の科白と暫しの沈黙の後、ジョルジョの護衛と思しき黒服が焦ったように三竦みに割って入り、彼に耳打ちをした。すると彼は短い足を振り子のようにして勢いよく椅子から立ち上がり、上擦った声で金時計を見た。

『おっと時間のようだ、済まないがオレは忙しいんでな。まあまあ今日はここでお開きにしようじゃないか、なあドメニコ。それと——命拾いしたなマルチーズ』

 自らの零した蒸留酒に足を取られ躓き、黒服に両脇から支えられて会場を後にしたのは大層滑稽だった。
 そうして欠けた三竦みにドメニコと唯二人取り残されたリチャード。互いの無言の牽制が空間を占めていたが、ドメニコが先に席を立つとそれも終演を迎えた。付け人が音も立てずに彼へ歩み寄る。
 神の采配によって幾千もの黒い勝利を掴んできた筈の喉はいつの間にか疲弊しきって、ただの風穴へと劣化していた。

『まるで全てを見てきたかのような口振りだな』

 リチャードは遠ざかるドメニコの背中へ向かってそれに応えるように独白した。しかし彼の鼓膜に届ける気など毛頭無い。

『俺の視てきたものが【全て】じゃないさ』

 重厚な扉が彼の為に開かれたのだろう、気圧差で生じた突風が酒帯びの空間へ吹き込んだ。青空の下で遊んでいたはずのつむじかぜは仄暗い牢に幽閉され、リチャードの髪へ不安げに絡みつく。
 そして君主と番犬は一拍子遅い鉄扉の閉音を、再び二人で聞いた。



「なあホセ」
「ん、ホセ?」
「シニョーレ=マルチネス?」

 ホセとリチャードの二人は現在サンタルチア港にいた。引き続きの快晴とナポリに着港しているクルーズ船のフラッグがこの青空に虹を添える。
 リチャードは連絡会以降一言も発さないホセを心配に思って、声を掛けてみるのだが一切返答が無い。短い眉の距離を近くに保ったまま不機嫌そうに唇を尖らせて押し黙って、前を見据えているだけだ。しかしリチャードはどうしても【例の献火】について彼の真意が知りたかった。でもそれを聞くのは今ではない、とりあえず今は彼の言葉が欲しかった。
 彼はゆっくりと一つ瞬きをすると、晴朗な顔でホセを呼んだ。

「ぺぺちゃん……?」

 リチャードは彼の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。彼の狭い瞳孔が外に出てから初めてリチャードを真正面に捉える。

「あんだよさっきからいちいち人の名前呼びやがって! いちいちうるせえンだよアホか!? てめえがな! いつもみてーにな! ポンコツだとな!オレが恥かくんだよ!! 今度それで呼んでみろ……てめーのポジャ引き抜いて卵城に埋めてやっかんな」

 ホセは小さな咆哮の句切りごとにリチャードの分厚い胸板を小突く。
 リチャードは平謝りと苦笑いで彼をなだめようと務めたが、いつもと何一つ変わらない様子の彼にかえって不思議と安堵感を覚えた。
 ホセは舌打ちを一つして犬歯を剥き出したまま、懐からデュポンのライターを取り出すとリチャードにぐいと押し付けた。

「チッ——何がやんちゃなシニョーレだっつーの。胸糞悪いジジイばっかじゃねーか。は、あいつらてめえがビルの元幹部だって聞いた日にゃあ、お上品なスーツの中に一等でけえのをぶちまけるに違いねえな」

 ホセはどこか得意気に鼻を鳴らしてリチャードを横目に伺った。ホセのハードワックスで整えたオールバックは潮風に煽られ、朝と比べて自由を得てきていた。
 サンタルチアのディープブルーはリチャードのサファイアに層一層深い蒼を与える。蒼玉を縁取る金刺繍は地中海を過ぎる日輪に照らされ、ナポリの透明な空気に溶かされた。

「俺はもうビルの人間じゃあないさ。今日は肝が冷えた、もうあんな綱渡りは御免だな。浩文とファティマが無事だと良いが——」

 言いかけて、リチャードは少し後悔した。
 ホセは自分の【家族】であると共に唯一の拠り所だった本家が面する窮地を前に、直属の上司からイタリア残留を言い渡されたのだ。こればかりは【戦力外通告】即ち【捨てられた】と思っていても仕方が無い。
 自分が蚊帳の外に追いやられた問題を再び掘り起こすべきでは無かったな、とリチャードは頬を掻いてホセに掛けるべき言葉で脳内検索をかける。
 しかしホセはリチャードと同じく水平線へと視線を投げて、苦々しく笑ったのだった。眉は鈍角を作り、青い風に揺れる前髪。
 未だ斜陽になりきれない日輪が彼の横顔にセピアの陰影を作る。例の、濡れた瞳だった。

「ああ……そーだな」

 リチャードはこの表情を前にして未だに対処法を見つけられないでいた。不可侵の深淵を覗く、その代償は如何程なのか。
 そして突如として、リチャードは一度も食事を共にしたことが無かった事を思い出した。休日は商会員らに手製のパスタやティラミスを振る舞うことも多々あったが、その席にいつもホセの姿は無かった。 
 二の句はこれしか考えられなかった。

「そうだホセ、お腹空かないか?」

 リチャードは黒革に包まれた人差し指をぴんと張ってホセに微笑む。相反してホセは瞼を擦って、唇を尖らせた。

「別に、何か物食う気分じゃねーし。だいたいあんな空気の悪いとこに長居すりゃ気分も悪くなるっつーの——」

 それを遮って腹の虫が大きく鳴き、ホセの顔は一気に紅潮する。それが出港直前のクルーズ汽笛と奇跡的に重なり、リチャードは堪らず噴き出してしまった。

「ふふっ、この近くになかなか雰囲気の良いトラットリアがあるんだ! 少々遅い時間にはなってしまったが、そこでランチにしよう」

******

 あれから一時間もしないうちに、カルテルの船はメキシコ湾沿岸にある寂れた小さな町に着港した。
 光を乱反射して輝く澄んだ青と深い緑が占める手つかずの自然、南国と形容するに相応しいパノラマがそこには広がっている。
 トーニャスも山々に囲まれた自然豊かな土地であったが、生えている植物も空気の香りもまるで違う。干された藁束の香ばしい匂いと肥沃な泥の湿気に正対する爽やかな潮風。しかし、一番の相違点は太陽だった。商会本部は厚い雲を捕らえやすい山間部にあるので、見上げるのはいつも曇り空だったことを記憶している。雨も多く、日照時間は比較的少ない。トーニャスにいた時よりもずっと陽気なそれに、いつもより近くでつむじを焼かれているような気さえする。
 異様に長い釣り竿や錆びた小舟らは、黒ずくめの来訪者に怯えるように木造廃墟入り口から此方を伺っていた。それらの背後には鬱蒼と生い茂る森と苔むした丘陵。潤沢な湿度を内包するジャングルに船倉とはまた違った熱線が、彼らを真上からじりじりと焦がした。しかし高らかに笑う太陽とそのともがらの歓迎は決して不快なものではない。
 鋭角に射し込む陽光、憎たらしいほどの快晴と前髪を揺らす潮風に、浩文はレンズの奥で目を細める他無かった。いっそのことスーツジャケットを脱いでしまおうかとも考えたが、それはやめた。どれだけ【破り捨てた】としても消えることない【青龍】の刻印が彼を引き留める。どこまでも青過ぎるメキシコ湾の蒼穹を見上げて、仮初めの涼を感じるように努めた。ボタンに掛けようとした手は暫し虚空に彷徨わせた後、元通り体側に下ろした。
 船から降りる瞬間、ファティマの頭部を覆う黒いニカブが首元から透明な風を孕んでふわりと膨れた。どこまでも光を掴んで離そうとしない足引きのアバヤがたなびき、空と山の境界に一点の黒を滲ませる。
 上陸直前、元々は活気溢れ地元住民らの喧噪で賑わう漁港だったとディンゴから聞いたが、いざメキシコの地に降りると真っ昼間というのに人の姿は何処にも見られなかった。決して大きくは無いが、人々の息遣いや生活感が未だ残る漁港。何故かとディンゴに尋ねると、マフィアの抗争の為だと彼は一言端的に告げた。 
 メキシコは決して安寧とした土地とは言えないが、とりわけ国境付近は治安が悪い。
 今でこそ【アカプルコ・カルテル】が南米一帯の麻薬カルテルを統合し、製造から流通に至るまでの一切を管理しているが、一昔前まではこの湾岸一帯も流血が絶えない土地だったという。マフィアやギャングに類いする者たちは自らが信ずる血の掟や信条のもと、民間人を巻き込んで抗争を繰り広げることは滅多に無い。しかし麻薬カルテルは違う。組織に仇なし、行く手を塞ぐ者は女子供であろうと慈悲など無い。カルテルに噛み付いた人間には身体が許容し得るありとあらゆる苦痛や責め苦を与え【見せしめ】とする。ディンゴから聞く話によると、カルテル協定を周辺組織と網羅する以前の2000年代は酷かったという。修羅の国メキシコ、その悪名は地元警察組織に片頭痛をもたらした。上がらない検挙率、蔓延する殺人や遺体損壊。そこでカルテルはその状況を利用し【アカプルコ・カルテル】は警察組織や政財界と強固なコネクションを創り上げたという。元々南米全土を統合する気でいたカルテルにとっては都合が良かった。警察や政治家らと設立当時より脈々と受け継がれる太いパイプの存在と、現在の地位に君臨する【アカプルコ・カルテル】。カルテルは必要悪として秩序を創造し、公的機関は麻薬の拡散を黙殺する。
 必要悪。これまで己の生きてきた道を鑑みると、その単辞は巨大質量を以て浩文の内臓の奥底深くに黒く沈殿した。 

 暫く歩くと、ジャングル入り口の脇に大きな迷彩テントが幾つも張られているのを発見した。
 森に溶け込む軍用パップテント、その中心を陣取る本拠地は奥行き面積ともに小さめの家屋ほどあるだろう。生ける神話と評される部隊を目の前にして、否応なく心臓は早鐘を打つ。
 二人は生唾を飲み込み、ディンゴに先導される形で恐る恐るテントの中に入った。



「【トーニャス商会】の胡浩文とファティマ=ムフタールだ。まあ……さしずめ共に今回の作戦に参加する【仲間】ってコトになるナ。出来る奴は英語で対応しろ、オレもこっからの総指揮は英語で執ル。は、お前ら間違っても噛み付くンじゃねーぞ」

 どっと巻き起こる笑い声がテントの支柱を揺さぶった。
 今のはもしかして気の利いたジョークだったんだろうか、と紹介の為に前に立たされた浩文は咄嗟に作り笑いを浮かべる。
 それほど自身の思い描いていた【特殊高火力殲滅部隊『onyx』】と【彼ら】はあまりにも似つかなかったのだ。
 取り留めの無い会話を楽しみ、軽口を叩き合い、そして笑い合う。彼らが裏社会にて暗躍する神話だとは未だに信じられない。
 ディンゴに連れられて中に入った時もそうだった。罵詈雑言、出会い頭の投石や銃口を向けられることすら覚悟していた。他を寄せ付けない徹底的な排他性を持った冷徹なプロフェッショナル集団、豪毅な猛者共の戦列という先入観。しかし【現実】は、自分たちの横を通り過ぎる浩文とファティマを一瞥したのみで隣に座る隊員と再び【世間話】に興じる中年の男たち。スペイン語の意味は分からないが、彼らの言動からは拒絶や抗拒など何一つ感じ取れなかった。
 【逸話】の通りの極限状態を生き抜いてきた人間が醸成する雰囲気では無かった。
 状況をいまいち噛み砕けないまま棒立ちでいると、ひしめき合う隊員の中から立ち上がった一人の男が、浩文とファティマ両名の元へと歩み寄った。

「【onyx】副隊長、キューバ出身のロバートだ。君たちの世話役を頼まれていてね、気軽にボブとでも呼んでくれ。首領と隊長から話は通っている、短い間だが宜しくな」
 
 禿頭とくとうの偉丈夫。ロバートはその字面と正に合致する容姿をしていた。
 スキンヘッドに不釣り合いな程の剛毅な眉、迷彩服の上からでも分かる分厚い筋肉、よく通る芯のある声、強い意志の光を宿すヘーゼルカラーの瞳。そして腕まくりした肌に刻まれた歴戦を物語る幾多もの創痍。外柔内剛の豪傑、ロバートは浩文に向かってにこやかに手を差し出した。
 浩文は眼鏡の奥の瞳を丸くして、ロバートの手を柔らかく握り返す。

「よ、宜しくお願いします……」

 節くれ立った太い指と短く硬い爪、そして傷を重ねるその都度再生してきた皮膚はまるで巌のようだった。
 ロバートはもう一度浩文に微笑みかけると、ファティマの方へ向き直り同様に握手を求めた。

「あ……私は」

 ファティマは眉を八の字にして、黒に包まれた手を抱いた。怯えたように軽く俯き、上目遣いにロバートの表情を伺う。シャリーアにおいてムスリムの女性は男性に触れることは出来ないのだ。
 ロバートは一瞬弱ったような顔で片眉を吊り上げたが、すぐさま合点がいったように頷くと豪快に笑いながら手を下ろした。

「ん? ああそうか! これは失礼したな、気を悪くしないでくれ。ええと……そうだ、ファティマさん。男ばかりで暮らしにくいこととは思うが、生きて仲間の元へ帰るまでの辛抱だ。宜しくな」
「お気遣い感謝しますわ! こちらこそ宜しくお願いします!」

 ファティマは表情をぱっと明るくして、ロバートに応えた。
 異なる宗教文化にも寛容で、ファティマが説明せずとも理解し得た。成る程この隊の中でも信頼され、その地位に就いている訳だ。
 ロバートが二人に着座を促すと、腕を組んで控えていたディンゴが前方中央に進み出た。二人は隊員らの波をかき分け、混じ入って後方端のシートに腰を落ち着ける。

「まあ早速だガ……今回の対【アダムズ・ビル】米墨国境戦争についての作戦会議を始めル」

 鶴の一声、否、野犬の寡言が亜空間へと塗り替えた。
 これまでテントに溢れていた音が一瞬で消えたのだ。暖色の消失。呼吸音さえ許されない切迫、メッシュ素材の衣擦れ音だけが防弾防音繊維に柔く吸着する。
 太陽光が燦々と降り注いでくるメキシコ湾岸に屹立する密閉性の高い容れ物、そんな中など暑いに決まっている。拭っても拭っても玉のような汗が滝のように噴き出し、体は水分を欲する、筈だった。
 張り詰めた亜空間は氷河を湛えた。凍て付く二酸化炭素の境界線は二人を刺す。

「アメリカに送っタ潜入部隊によると、三日後の早朝——21日払暁、ココの……国境付近ジャングル識別番号Aのドラッグプランテーションに焼き払いが仕掛けられるらしイ。警護を終えてオレたち【onyx】とカルテルのソルジャーが交代するこの一週間で決着を付けるおつもりだったンだと」
 
 ディンゴは国境付近の詳細な地図と鳥瞰図、最後に衛星写真の三つをホワイトボードに貼り目的地を指した。どうやら今回の作戦の要であるプランテーションは街中から比較的近い場所にあるようだ。
 そして彼は引き攣った左頬を吊り上げた。

「ヤツラの攻撃を待つ道理なンぞ無い。コッチからぶっ放してやれ」

 ホワイトボードの余白に黒マーカーで追加情報を書き込んでいく。緯度経度方角距離と時折綯い交じるは数字とアルファベットの混合コード。癖のある字だが解読する云々には至らない。
 一通り情報修飾が終わったところでディンゴはボードに背を向けた。 

「だが——あンの【子犬】が言ってたコトも間違いじゃねえ……。率直に言っテ、今回でビルのくるみ割り人形を殲滅するのは不可能ダ」

 平生よりも低い声で端的に告げる。彼の言う【子犬】には心当たりがあった。一週間程前に商会を飛び出してからというものの彼についての情報連絡は皆無で、今どこで何をしているのかも分からない。どうせ今も社長を困らせているのだろうと、浩文は呆れ返ると共に一欠片の郷愁を覚え嘆息した。
 色濃くなる無音としじま。しかしそれを割る者がいた。

「た、隊長——!」
 
 副隊長のロバート。彼は眉間に皺を寄せて立ち上がった。士気を高めるべき作戦会議で敗色を仄めかすなど言語道断だ、と言いたげな面持ちで。しかしそれだけ逼迫した状況にあることはカルテルに明るくない浩文とファティマでさえ歴然だった。
 しかしディンゴは鋭利な三白眼でそれを制す。

「ボブ、手前が一番分かってンだろうガ。ナパームの詰まったランチバスケット持ってピクニックと洒落込むのは訳ねえ。だがヨ、ココにはどうしても覆せねえ人数差が生まれちまう。今回動員されるビルの歩兵は300人、それに対して【onyx】は総員30名……ッと、32名だったナ?」

 ディンゴは人差し指の腹で唇をなぞり、後方に腰を落ち着けている浩文とファティマに目配せをした。

「そう躍起になって野郎共の汚え尻なンざ追い回さなくたっていいンだヨ。【onyx】はそんなに阿呆じゃねえからナァ……テメエのリビドーなんざ捨て置け、お上の利益が最優先ダ。これ以上プランテーションで【あぶり】をさせねえように、今は退かせれば良イ」

 野犬は首元の革紐をなぞり、漆黒の縞瑪瑙を指先で弄ぶ。三つの地図と隊員らの顔を見比べ、そして息を深く吐き出すと唇を舐めた。

「一つだけ方法がある。オレ達【アカプルコ・カルテル】にしか出来ねェ勝ち方が、ナ——」

 三日後黎明、戦乱は静かに鎌首を擡げる。


ⅩⅠ

Re: What A Traitor!【第1章ⅩⅡ更新】 ( No.14 )
日時: 2018/06/10 16:36
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: /48JlrDe)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs/index.php?mode=image&file=6145.jpg

ⅩⅡ


 ホセ=マルチネスは非常に参っていた。

「さあ、冷めないうちに食べてくれ! ナポリの中でもここはカルボナーラの隠れた名店でな。人でごった返したりもしてないし、雰囲気もなかなか良いところだろう?」
「あ……あー、うん」
「どうした? 遠慮しなくても良いんだぞ、俺の分はもう少し後で持ってきてくれるだろうしな」

 ホセが見下ろす先には綺麗に盛り付けられ、ほわほわと湯気を立てるカルボナーラが鎮座していた。
 濃厚な鶏卵とチーズクリームで飾られたスパゲッティ=アッラ=カルボナーラ。この店では塩分の多いペコリーノチーズが使われているらしく、老若男女世代問わず人気があるらしい。中央にて多めに振られた黒胡椒が、それらをもたつかせることないようアクセントの役割を果たしている。そして、この薄くスライスされた豚肉の塩漬けこそがこの店の魅力なんだ、と眼前のイタリア人は言っていた。
 四十路という年齢と、凡そ業深きその身にはそぐわない無邪気な笑顔でプレートを勧める。何も知らないような顔で微笑みかけるのだ。
 朝から何も口にしていなかった空きっ腹の彼にはこれ以上無い御馳走だったが、その薄い胸は焦燥と欺着に締め付けられるばかりだった。
 
 もう誤魔化せない。

「別に……そういうわけじゃねーよ」
 
 彼は下唇を噛んで、犬歯をかち合わせるしかなかった。

******
 
 入店の鈴は小気味良くころころと笑った。
 結局、断り切れずに連れてこられてしまったのだ。腹の虫を大きく鳴かせてしまった手前、頑として拒絶すれば逆に怪しまれてしまうだろう。しかし牙を剥いて反撃する気にさえならなかったこともまた事実だった。
 先の連絡会と【これまで】の途次みちすがら、もう【そんな事】しなくても良いのかもしれない、そう思える程で。

 サンタルチア港からそう遠くない場所にそれは静かに佇んでいた。港から街の方へ少し歩いて、大通りに入る。そして大通りから小道に抜けて、角を二つ曲がる。その後に相見える急な坂を登った頃にリチャードは顔を綻ばせた。もうここまで来てしまえば海鳥の鳴き声は聞こえなくなる。
 しかし、彼の言うようなナポリの隠れた名店などという出で立ちでは決してなかった。蔓が這う煉瓦の外壁、煤けた鎧戸、扉口へと誘う崩れた石畳、赤錆びのせいで店名を解読出来なくなった吊り看板。手入れはそこそこな外観でお世辞にも別段流行っているとは言い難かった。
 蒼穹下の清新な午後、そしてシエスタの微睡み漂う街中の甘い雰囲気と相まって気怠げなその暖色はトーニャスの煉瓦路地をどこか想起させる。地中海由来の南風が昼下がりの坂を駆け上り、二人の頬をそよと撫でた。
 何の変哲も無いトラットリア、もしかするとネガティヴイメージすら付きかねない外観。だがトマトソースの爽やかな薫風と、暖かな木製燻製香が店舗の出窓から逃げ出しているのを鼻できくと、否応なく食欲はそそられた。
 廃棄されたばかりで若干の熱を帯びる肉片より美味しいものがあると知ったのはトーニャスに来てから初めて知ったことだった。町市場で売られている豚肉の燻製やチーズを恐る恐る口に放り込んだ時の感動は凄まじく今でも忘れられない。人々の活気は香辛料、泥と藁が香ばしく彩る景色はありありと瞼の裏に思い出せる。
 しかし刹那、暗雲に隠され微笑まない太陽の虚像がホセの脳裡をよぎった。身体に焼き付いた数々の裂創と、味蕾が吐き出す泥の記憶。光っては燃え尽き、消えていく。ホセは下唇を噛み潰し、昏い眩惑げんわくを追い払った。
 ホセは何故リチャードがこの店を選んだのか不思議でならなかった。
 ヴェネツィア金刺繍が如し御髪に映える、紺青の背広と間隙に立つ漆黒。丁寧に磨かれたアルティオリ。平生よりブランド志向であるこの男が、何故このような寂れた大衆食堂を選んだのか。
 何となく気になってそれとなく尋ねてみると、リチャードはホセを柔く一瞥してボルサリーノを目深に被り直した。
 大学時代の行きつけだったんだ。
 そう端的に告げる彼の表情は陰って、見えなくて、ホセは言葉を飲み込んだ。
 垣間見えたのは、カヴール広場で聞かされた【過去】以前の話だった。裏社会に生きる者は例外無く劣悪な環境に生まれ育った者、という持論のホセは内心その事にも驚かされた。大学という学府の詳細はよく分からないが、金に余裕があって且つ学問的向上心がある者が行くようなところだとは心得ている。
 言うまでもなく、彼自身は学校になど縁は無かった。【青空教室】ではいつも灰被れのコンクリートに蛍光スプレーで乱されたスペルと、早口に捲し立てられる猥雑な言葉が溢れていた。母語の読み書きは、食べていく為に16の時分、麻薬の売人へ転身して必死になって覚えたくらいだった。
 リチャードが名前を呼び、声を掛ける。ホセは生唾を飲み込んで彼の後に続いた。

 店の奥まった四人掛けの席に通されると、リチャードはトレンチコートを柔く畳んでから余った隣の座席にボルサリーノを置いた。
 シエスタが終わりかける今の時刻にも他の客は当然いる。皺の深い老夫婦、新聞を読む紳士、忙しなくペンを走らせる青年。しかしそれがかえって長閑な店内によく調和していた。
 リチャードは給仕の男にメニュー表を持ってくるよう頼むと、棒立ちのホセに腰を落ち着けるよう促した。最早ここまで来てしまってはどうしようも無いので、ホセはリチャードの斜め前の席に座る。真正面に相対しないようにそこだけは気を配った。
 暫くして給仕がメニュー表を持ってくると、リチャードはホセにも見えるようにテーブルを縦断する形でメニューを広げた。
 凝ったイタリックが目に飛び込んでくる。ラテン語を源とするイタリア語とスペイン語は互換性が高く、ホセもある程度なら理解できた。成る程看板メニューなだけあってカルボナーラが最初の見開き頁に大きく書かれている。その他にはボロネーゼ、ペスカトーレ、ボンゴレビアンコ、ジェノベーゼなどの馴染み深いスパゲッティの名前を幾つか見つけることが出来た。
 リチャードはパスタ料理の書かれた頁を捲り、もう片方の手で後れ毛を耳に掛ける。

「ホセ、お前の誕生日はいつなんだ? そういえば聞いたことがなかったなと思って」

 それはあまりにも唐突な問いだった。

「あ? どうでもいいだろ。そんなこと」

 声が上擦る。パスタの次頁はピザメニューだった。

「そんなこと、じゃないさ。ファミーリャの誕生日は祝うものだろう? 」

 そう言うとリチャードはキッチン近くに控えていた給仕を呼び、カルボナーラを二つ注文した。
 先程からこの【ファミーリャ】という呪詛がやたら脳髄を揺さぶって仕様が無い。イタリア語で【家族】を表す血の楔。ホセの母語であるスペイン語の【ファミリア】と音は似ているが、この両者は全く似て非なるものだった。これらの間に沈殿する本質が、全く違うものであることはもう痛いほどに分かっている。
 そしてありとあらゆる森羅万象が【此処】と【彼方】では何もかも違った。同時にどんなに牙を研いだとしても噛み砕けない障壁もまた屹立するのだ。
 答えねばならないのか。
 ホセは液状拘束が緩まった前髪を掻き上げて、背凭れに身を預ける。この舌打ちがどう捉えられているかなんてもう易々と把握できた。

「チッ——ねーよ、誕生日なんか」

 己を穿ち得る弾丸は内壁の煉瓦に跳弾した。その時咀嚼音、嚥下音、紙の擦れ、流しの音、窓を叩く風の声、全てが示し合わせたかのように店内に溢れる物音として須臾止む。
 ちらと横目にリチャードを窺った。
 顕われるは引き結ばれた唇、開かれた瞳孔を囲う円と鈍角の眉は驚愕の記号。分かっていたのに零距離で銃身を突き付けられたような心持ちがした。期待は毒杯、希望はいつも煙に巻かれる。犬歯同士は滑ってしまい刃毀れし、奥歯を強く噛み合わせるしか出来ない。いつもこうだ、埋められない距離、埋まらない距離。やはりどこまでも神とやらに線を引かれる。彼らと自分は【違う】のだ。
 乾く目を庇って瞬きをした次の瞬間、視覚の構築する世界は変貌を遂げていた。網膜が受け取る光の乱反射を視認したホセの瞳孔は更に収縮する。
 眼前の男は表情筋を緩ませ、瞳に光を湛えていた。

「じゃあ今日にしよう! この時を以て、6月8日はお前のコンプレアンノだ」

 コンプレアンノ。それが表す言葉の意味は分かった。しかしそれを口にする【意味】はどうしても分からなかった。何故か、生み堕とされてからというもののコンプレアニョスには尽く縁が無かった。
 胸焼けを誘うような甘ったるい単語を反芻。予期せぬフルメタルジャケットにホセは牙を剥く。そうしなければならなかった、そうすることしか出来なかった。

「は? い、 いや、意味分からねえって……てめーな、マジで何言って——」



「皆、無いんだ。誕生日が」

 紛う事なき純銀の弾丸。一弾指、左胸に撃ち込まれ、息を呑む。
 不可視の弾丸は心臓に触れる。瞬間空洞を穿たれ、その隙間を埋めるように銃弾は崩壊して染み入った。殴られたときよりも蹴られたときよりも叩かれたときよりも肉を削がれたときよりも痛かった。
 RIPバレットが永久空洞を作り、抉る。
 その返答に解を見出せない阿呆の振りはもう出来なかった。
 だから、と彼は続ける。

「Buon compleanno,Jose(誕生日おめでとう、ホセ)」




 そして、いまに至る。




「嫌いなものとか入ってるか?」
「違えよ」

 違う。

 そんな事じゃない。

 ホセは食べ方を知らなかった。
 そしてずっとずっとその事がどうしようもなく惨めだった。
 
 フォークの正しい使い方なんて知らない。どっちの手に何を持てばいいのだろう。右手は何本の指で銀食器を支えれば良いのか、そして左手はどこに落ち着ければ良いのか。
 今まで決して口に入れるのが嫌で食べなかった訳ではない。決まり切っている、食べられなかっただけだ。
 一度も食事を共にしたことが無いのはその為。週末の昼には気付かれないようにいつもオフィスを抜け出した。それでも時に肩に掛かる手を払って、いらねえと牙を剥いて、思い付く限りの暴言で塗り固めて。窓から美味しそうな匂いと業態知らずの暖かな笑い声を背中で知覚し、薄い胸を更に磨り減らした。埋められなかったのは身長差でも出身でも無い。オレ自身と商会にある明確な境界線だった。
 寂しい。
 それを認めるのはどうしても時間がかかった。
 アカプルコからトーニャスに飛ばされ、そこで出会ったのは同じ裏稼業の人間。しかし彼らは自分の出来ないことが沢山出来て、自分の持ってないものも沢山持っていた。遂には唯一の心の拠り所だった本家からはイタリア残留を宣告された。もうどこにもお前の居場所は無い、と突き付けられているようで。いらねえのはオレの方か、とあの日行く宛ても無い癖に扉を蹴って飛び出した。
 それだけじゃない、初めて己の境遇を嘆き喚いたのもあのときだった。どうして満足に食事も共に出来ないんだろう、何故オレは路上での生活しか知らないのだろう。諦観が溢れて止まらなかった。アマンダとシンに見つけられたときは内心焦ったけど、きっとあのままじゃ帰れなかったから。だからこそ今まで拒んできたおかえりの声は驚く程すとんと心に落ちて、オレはその晩また瞼を腫らした。
 あいつがオレを連絡会に連れて行ったのも人がいないから単にオレを選んだだけだろうが、それでも良かった。
 火やるから貸して、そんな簡単なことすら言えない。相反する【信じろ】という言葉。不格好なあの踏襲は一途な祈りだった。
 地を舐め野犬に跪いた記憶は燃焼光を上げる。

「Grazie.(ありがとう)」

 リチャードは給仕に微笑む。どうやら彼のカルボナーラが席に運ばれてきたらしい。
 先に食べるぞ、とそれはぐるぐる混濁する意識の中でもはっきり聞こえた。上手く応えられたかは記憶に無い。
 彼は熟れた手付きで右手にフォークを持った。そのまま事も無げに器用にスパゲッティを巻き取るのを呆然と眺める。口に運び、咀嚼。そしてイタリア語で美味しいと言った。
 顕現するはやはり流麗、しかしその全てがやけに緩慢な動作だった。へえ、そうやって食べるのか、初めて知った、とおよそ見当違いな感想が大脳で唯揺らめく。

 へえ、【そうやって食べる】のか。

 ——と、此処で全てに気付いた。寧ろ気付かない訳にはいかなかった。

 今日ここまでに在った意味を持つ全てが心臓に転墜し、超速で脳髄に送られる。殴られたような衝撃。噛み合わせの悪い牙で必死に衝動を抑え付ける。
 目頭が熱くなって、咽頭が激しく痛んだ。
 震える手でフォークを持つ。この震えがばれてはいないだろうか、だがしかしそれもどうでもよくなっていた。同じ金属でも鉄塊と円錐の鉛とは全然違って、手に馴染まない。
 次に不器用にパスタを巻き取る、こんな事よりスピンコックの方が幾分楽だと思った。間違ってはいないかと内心に秘め、恐る恐る口に運ぶ。
 やはりイタリアで食べる初めてのものは総じて外れが無かった。

「美味しい」

 長い時間を経て、ようやく言えた言葉。

「うん。美味しいな」

 そして、応えてくれた。

 *

「なあ、おい。なんつーの、ここ」
「ん?」
「この店の名前聞いてんだろうがよ。……何て言うの」

 一呼吸。南風にそよぐ睫毛は何を指すのか。

「【Ricordo】という店だ」

******

 店を後にしてからは何処へ行くあてもなく、また導かれるようにサンタルチア港に戻ってきてしまっていた。
 道中は一言も交わさずに。急坂を下り、角を二つ曲がって、小道に抜ける。そうして大通りに出れば、家路を辿る海鳥が疾手のように頭上を掠めるのを視認出来た。
 港に辿り着くと、燃え盛る斜陽はいよいよ水平線の彼方に飲み込まれようとしていた。丁度二人が出くわしたのは、汽笛を上げる鯨が聖母の手を離れようとするその瞬間。旅人と見送りを繋ぐペーパーテープが名残惜しそうに伸び、そして水溶性の未練は断ち切れる。色彩豊かな別れが事切れる度に人々の歓声が上がった。手を振り、振り返し、そして焔が如しティレニア海へと遠のく。
 ホセは汽笛の余韻に身を委ねて白い鯨波をぼんやり眺めていたが、リチャードの呼吸に呼応するように瞬きを一つした。

「ホセ。俺は……お前のことを少し勘違いしていたのかもしれない」
「あ? 何改まってんだよ、気持ちわりーな」

 道行きの際に常時付き纏っていた居心地の悪さなど疾うに感じなくない。そして、ホセの導き出した【真理】は正解だった。
 波止場の欄干に背を預けて、リチャードはボルサリーノのブリムに手を掛ける。

「お前がどんな人間か。何を見てきて今のお前があるのか。——そしてどう生きてきたか、俺は何一つ向き合ってこなかった」

 そうしてリチャードは彼に正対する。朱色渦巻く遠景と鋭利な癖してやたら近景を占めるサファイアが、訳の分からない印象派絵画を思わせた。
 今までの事だって全て【そう】だった。唯一神に祈りを捧げてようやく漂着した居場所を奪われ、裏切られたも同然。子犬はその小さな牙を砥ぐしかなかった。何故か、それしか知らなかったから。この唇で次に何を紡げば良いか、安全牌の選択肢などもう何処にも残っていない。
 刹那、波紋に手を引かれた海風が二人の間隙に躍った。それはリチャードの長い髪を巻き上げ、両者の視線交錯を遮る。煌めく金刺繍は艶やかに脆弱な整髪料を香らせた。
 夕凪に戻るまでには随分と時間を要したように思う。しかしほんの一瞬だったかもしれない、刻一刻と移ろいゆく無窮の天と雲は時間感覚を静かに狂わせる。
 しかし、ホセの笑声を聞いて我を取り戻したのははっきりと知覚出来た。そしてとうとう抑えきれずに体をくの字に折って、噴き出す。今度はリチャードと真逆の方向を向いて肩を震わせ始めた。

 彼の予期せぬ反応にリチャードは唯々拍子抜けする思いだった。
 それはきっとリチャードが彼の笑顔を目にしたのはこれが初めてだったからで。そしてそれはきっと恥ずべき事だったのかもしれない、とも思った。
 ホセはリチャードに背を向けたまま、呟く。目の端に溜まった涙を拭うような仕草も見せた。

「ひひっ……あー面白え。あんだよ、お互いの過去に手垢付けんのは【ファミーリャ】の御法度じゃねーのか?」

 リチャードは今度こそ何も答えなかった。
 押し寄せる波のさざめきだけが響く港と、ウミネコの対旋律。潮風は間もなく群青の夜と明星を引き連れて港に駆け寄ってくるだろう。
 ホセはリチャードにゆっくり向き直ると、片眉を不器用に吊り上げて唇を尖らせてみせた。

「ま、てめーからも聞いちまったしな。この業界に生きるモンとして貸し借りは作りたくねーし」

 赤い宇宙に黄昏を拾う風に、悠久が吹き渡る。短い睫毛が落とす影は層一層濃くなった。昏色を閉じ込めたままの瞳に最後の陽光が射し込み、そして輝く。
 彼はぎこちなく口角を上げて、鋭い犬歯を全て見せた。

「なあ、どっから話そうか————ボス?」


ⅩⅡ


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