複雑・ファジー小説

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What A Traitor!【第2章6話更新】
日時: 2019/05/12 17:48
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: 日曜日更新。時間帯未定。

全てに裏切られても守らねばならないものがあった。



【これまでのあらすじ】
 十年前、アメリカンマフィア【アダムズ・ビル】の幹部であったリチャード=ガルコは拳銃自殺で死んだものとされていたが、彼は祖国イタリアの架空都市トーニャスにて契約金次第でどんな事でも行う裏社会の代行業者【トーニャス商会】の代表取締役を務めていた。
 リチャードの目的とは何なのか? そして究極の裏切りの末に笑うのは果たして誰なのか──。
 米墨国境の麻薬戦争を終えて、アルプスの裾野であるトーニャスにも寒い冬がやって来た。リチャードは旧友と呼ぶある男から連絡を受け日本広島へと向かうが、それはこれから巻き起こる戦争の幕開けに過ぎなかった。
 舞台は粉雪舞い躍る和の国日本へと、第二章継承編始動──。



閲覧ありがとうございます。
読みは【わっと あ とれいたー!】
作者は日向ひゅうがです。
ペースとしては大体300レスくらいで完結したらいいかな、くらいです。

【注意】
・実在する各国の言語やスラングを多用しております
・反社会的表現、暴力表現、性的表現を含む
・表現として特定の国家、人種、宗教、文化等を貶す描写がございますが作者個人の思想には一切関係ございません

【目次】
序曲:Prelude>>1

1.麻薬編~Dopes on sword line ~ >>3-33(一気読み)

2.継承編~War of HAKUDA succession~>>34-55
>>34>>35>>36>>37>>38>>39(最新話)

※全話イラスト挿入

用語解説&登場人物資料>>2(NEW1/26更新)

【イラスト】
※人物資料>>2へ移転
タイトルロゴ(リチャード)>>10
麻薬編表紙>>3
麻薬編扉絵>>30
継承編表紙>>34
参照2000突破リチャード>>14
参照3000突破ホセ>>21
参照4000突破シャハラザード>>28
1周年&リチャード誕生日>>35
参照6000突破ホセ>>38




※Traitor=裏切り者


since 2018.1.31

Re: What A Traitor!【第1章Ⅲ更新】 ( No.5 )
日時: 2019/01/26 17:42
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=863.jpg





「——カルテルのソルジャーになり、ビルに噛み付け、と?」

 部屋の空気が一変したことは誰からも明らかだった。
 リチャードが平常のバリトンより一層低い声で呟いたことで、凍て付き、それでいて肌を焦がすような緊張が生まれた。
 浩文の覚えている範囲の中、交渉の際にここまで逼迫した状況に陥ることなどなかった。
 色欲に溺れて狂人と化した一般人からの私刑代行依頼。下卑た笑みを浮かべる老人からの酒税逃れに依る密輸依頼。自身の過剰攻撃行動から、その仲間にも見捨てられたロマの民による移民排除を推す極右議員への脅迫依頼。経営が立ちゆかなくなった消費者金融会社による後払いでの強請依頼。反社会的勢力と癒着関係にある政治家から、極秘裏に請われた護衛依頼。
 思いつく範囲で、どれもこれも一癖ある仕事や依頼人だった記憶があるが、我らがボスの手腕によるものなのか、契約段階で面倒事があった覚えは無かった。
 しかし今回はどうだろう。【アカプルコ・カルテル】【アダムズ・ビル】共に裏社会にて知らぬ者はいない巨大組織である。浩文はディンゴの先ほどの発言に対し、言及された組織の大きさゆえ、確かに面食らったがそれ以上にリチャードの反応に驚いた。
 リチャードは顔の前で指を組み、眉間に皺を寄せてディンゴを睨み付けている。リチャードがいつも嵌めている革手袋の擦れる音を最後に、全くの無音が事務所の空間を埋め尽くしていた。
 対するディンゴもリチャードから目を逸らすことなく、ソファの背凭れに左腕を回した。
 今しがた、部下とじゃれ合っていた軟派で陽気な中年の姿など何処にも見当たらない。彼の通り名はディンゴ、彼は裏社会にて畏敬と一種の嘲りをもってして【野犬】と呼ばれている。

——しばし張り詰めた沈黙が流れる、正に一触即発。

 ホセも浩文も二人の間に満つ張り詰めた空気に圧倒され、ただ押し黙るしかなかった。
10秒か、1分か、それとも永遠か、時の濃縮された静寂を木製ドアの蝶番の軋む音が打ち破った。

「お早うございます、ボス。——あら、皆さんお揃いでしたのね」

 彼女は、ドアノブを閉め切る最後まで丁寧に握り、翡翠色の瞳を細めて微笑んだ。
 イスラム教徒女性の伝統衣装のアバヤに身を包んでおり、布の切れ目から覗く褐色の肌と澄んだ緑の瞳でしかその人を判別することは出来なかった。
 しかしその声の主は確かに、商会員のファティマ=ムフタールだった。
 ファティマは浩文やホセに会釈して、奥の方へ引っ込み、自分の為にコーヒーを淹れ始めた。調子外れの鼻歌が聞こえる。
 しかし幾らか天然が入ったファティマの存在は、確実に場の雰囲気を和らげたのだった。

 ディンゴは漆黒の闖入者をしばし目で追っていたが、ふと左の引き攣った口角を歪めた。
 そして先ほどの殺気を孕む空気など無かったかのように、あっけらかんとして切り出した。

「は、そう怖い顔するンじゃねェヨ、折角の色男が台無しだゼ。——ン、まあ語弊があったナ。カルテル側で【アダムズ・ビル】との抗争に介入しろ、の方が正しイ」

 ディンゴはソファに預けた左手をひらひらと振って、嘆息した。
 眼前の男の意味する言葉をようやく理解した浩文は、長らくの緊張が解けたことと相まって思わず。

「抗争に介入……」

 そう零してしまっていた。
 各国から寄せられる一般人、堅気では無い輩などから数多くの依頼をこなしてきたが、確かに反社会勢力同士の抗争に介入したことは無い。
 浩文は光の無い三白眼に射竦められていることに気が付いた。

「あ。す、すみません……」
「気にすンなヨ、四つ目の兄ちゃん。奴らはナ、遂に剣線(ソードライン)を越えちまったのサ」

 ディンゴが肩に掛かる巻き毛を弄びながら答えると、彼の後ろに控えていたホセが眉間に皺を寄せた。

「あんだよ、ソードラインって」

 今まで一人考え込むようにして、沈黙を保っていたリチャードが一つ咳払いをした。
 シガーケースを開いて残り少なくなったパルタガスを取り出す。リチャードの仕草から察した浩文は彼の傍らに屈んで、以前より彼から託されていたデュポンライターで火を点けた。来客があるからとガラステーブルから捌けていたクリスタルの灰皿を持ってくるのも忘れてはならない。
 少し暖まってきた空間だったが、デュポン特有の冷たく甲高い金属音が天井を衝いた。

「イギリス議会庶民本会議場の床に引かれた2本の赤線の事だ。発言者質問者は踏んでもいけない、越えるのは勿論御法度という暗黙の決まりがあるが——しかし、どういうことだ。それなりの説明責任を果たしてもらわないと、この依頼を受けることは無条件に出来ないぞ。ディンゴ」

 リチャードはディンゴをひたと見据え、葉巻を歯と唇で軽く挟み、柔く噛み潰す。
 相手からの返答を待つようにして、口腔内に溜めた紫煙をゆっくりと吐き出した。葉巻は紙巻き煙草よりも煙量が多い。視界が白く靄がかかる。
 しかしディンゴはしばらく唸った後口をへの字にして、突如としてテーブルに手を付いて、リチャードに噛み付かんばかりに身を乗り出した。

「聞いてくれヨォ、リッキー! クソッタレ……先月はヘロイン畑がやられタ、その上今月の頭にゃ国境沿いのコカインときてやがンだ。——チッ、ビルの連中は尻にブッ飛ぶほどのジョロキアと鉛玉が欲しいようだナァ!?」
 
 彼の豹変振りに呆気にとられたリチャードは、思わず葉巻を取り落としそうになった。
 吠えたディンゴが乱暴に腰を下ろすと、ソファのスプリングが軋んだ。

「近年、ビルの連中の手で国境付近のオレたちのシマが荒らされ始めタ。ン、まあ中米でカルテルに向かって唾を吐く命知らずがいンのは、今に始まったことじゃねえけどナ」

 ディンゴは黒のネクタイを緩め、腰ポケットから煙草のボックスと鈍色のライター、両方を掴み取る。

「いつものネオンカラーしたライターじゃないんだな」
首領ヘフェにもっと良いモン使えって怒られタ、変わンねえだろ、火点けば。つーかてめえ話逸らすんじゃねェヨ。——新参者に好きなようにやられちゃあカルテルの名折れってナ、首領は近々米墨べいぼく国境の密林で戦争をヤる気満々なのサ。なにしろ【ミリオンダラーの大損害】ダ。10万ドルなんざ屁でも無え、勿論請けンだろ?」
 
 ディンゴはそう吐き捨てて、犬歯で吸口を迎えた。
 状況は飲み込めた、しかしボスは何と言うだろうか。浩文はリチャードの横顔を見つめた。
 リチャードはパルタガスから零れようとする灰を、透明に輝く灰皿に落とした。
 
「商会は公平中立を売りにしている。どこかの組の傘下に入って戦争をする気はさらさら無い。だから、ディンゴ、お前の依頼を受けることは出来ない」

 再び空気が凍て付くのが分かった。
 ディンゴは唇を舐めて、目にかかった長い前髪をゆっくりとかき上げる。
 
「オイオイ、こんなド田舎まで来てそりゃねーだろうガ。手前はオーストリアが永世中立国ってえのは真に受けるクチか? 違うだろ。【色んなモン】と折り合い付けてンのさ」
「【アダムズ・ビル】と【アカプルコ・カルテル】どちらも俺たちの生きる業界でその名を知らぬ者はいない超巨大組織だ。これからの裏社会を揺るがす戦争に我々商会が入り込む余地は無い。カルテルに肩入れして、今後の契約に差し支えるのは御免被る」

 リチャードがそう突き放すと、ディンゴは俯いて肩を震わせた。
 彼は笑いだした。
 堪えきれずに時折吹き出し、傷跡の目立つ手で顔を覆う。仕舞いには仰け反って大笑いしだした。
 異様な彼の振るまいにホセも、浩文も言葉を失った。事務所の奥でコーヒーを飲んでいたファティマも心配そうに此方を見つめる。
 ディンゴはしばらく馬鹿笑いした後、ぴたりと天を仰いだまま静止した。
 そうして、この場にいた誰もに耳慣れない言葉で何かを呟いてから、リチャードを見下ろすように告げた。

「てんで面白くも無え話だなァ……笑わせんなヨ——【アダムズ・ビル】のパーパの首に一等ピスを引っ掛けてえのはお前だろうが、リッキー?」



Re: What A Traitor!【第1章Ⅳ更新】 ( No.6 )
日時: 2018/03/08 13:50
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: Ueli3f5k)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=866.jpg




 トーニャスの夜は早い。
 日の入りと共にこの町は眠りにつく。羊飼いは子飼いの群れを小屋に押し込め、農夫は農具をそのままに、出稼ぎに出ていた者は一直線に帰路を辿る。
 山から吹くおろし風に、足りない袖で手の甲を隠し、前屈みに歩みを進める人々。
 都会のように深夜でもブルーライトの染み出る高層ビルが無ければ、けばけばしく輝くネオンサインなどこの村には無い。極めつけに少し郊外に出れば、街灯すら無いような田舎町だ。
 あるのは澄み渡る冷気、綺羅燦然たる満天と、山向こうから遠鳴りする獣の声だけである。
 しかし、煉瓦造りの奥深くのまた奥深く、この町唯一の酒場は宵っ張りだった。
 看板など出ていないし、一見すると穀物庫と見紛うほどの飾り気の無さで、人の気配も感じられない。しかし酩酊をもたらす蜜の香りに、どうしても人は惹かれるもので、景気は上々らしい。その内情はというと、マスターたった一人で店を切り盛りしているようだ。年若い男店主ではあるが、作る酒の美味さや接客に定評がある。
 今夜、知る人ぞ知る隠れ家【BAR:F】は二人の男によって貸し切られていた。

「ククク……リッキー、まさかあーンな安い挑発に乗ってくれるとはナァ?」

 褐色の無骨な指がショットグラスを揺らした。
 ライムを摘まむ力を込めすぎて果汁が滴るのも気にせず、犬歯で果肉を迎える。
 案の定、噛み潰した酸味が彼の引き攣った左頬を濡らした。

「お前の口車に乗せられたわけじゃないさ。単に10万ドルを溝に捨てるのは惜しいと思っただけだ。最近はどうもしょっぱい仕事続きでな……この前は経費込み4万ドルで古美術贋作20点の運搬だった。梱包代にすらならないだろ」

 語尾に棘を残して、ワイングラスを傾けた。
 グラスに注がれているのは【チェラスオーロ・ディ・ビットリア】と呼ばれる、彼の故郷であるシチリア島でしか造られないワインである。
 彼はタンニンは控えめだが果実感のあるこの銘柄を好んで嗜み、シチリアビーチを吹き抜けるような華やかな香りを楽しんだ。
 間接照明の暖色灯がグラスを通って屈折し、葡萄酒が揺らめく度に、漣が海底に落とすような陰影を描く。

「ナァおい、リッカルド」
「その名前で呼ばないでくれるか」

 カウンターテーブルに備え付けられた椅子一つ開けで並んで座った彼らは、互いに目も合わさずに言葉を交わした。
 リッカルド——彼は、久々耳に飛び込んできた音に眉を顰めずにはいられなかった。
 この男にいつ零してしまっていたのだろうか、と少し鈍った脳内を一通り探ったが全く記憶に無い。何しろいつも先に悪酔いするのは自分ではなく、この連れの男だったからだ。勿論吐かされた記憶も無い。
 一つ飛ばし隣に座る連れの男、ディンゴはテキーラのショットグラスを一気に煽った。

「商会のヤツらは知ってンのか——オメーがビル出身てえのをヨ」

 暫し静寂が訪れる。
 しかし昼の刺すような沈黙では無かった。互いに引き金に指は掛けておらず、白鞘は収めたまま握っていない。
 バーカウンター向こう、仕切りで見えないアイスペールが甲高い音を立てた。

「何だ急に。——誰にも言っていない。伝えるべき理由がどこにも無い」

 リチャードは肩にかかった金髪を払って、背に流す。
 過去に【アダムズ・ビル】の構成員だったこと、それをファミーリャの商会員全員に秘匿していること。それは事実だった。
 【トーニャス商会】の中で互いの過去を詮索するのは暗黙の相互理解の元、禁則である。しかしリチャードは雇用に至る過程で、大まかには全員の経歴を把握している。一応の立場上と、禁則から、自らの過去を尋ねられることなどまずあり得ないが、小狡く言わないつもりではいた。否、ビルにいたことぐらいは吐くだろう。しかしそれ以上は。
 ディンゴはただ低く鼻を鳴らして、グラスの縁の岩塩を指ですくい取って舐めた。
 しばし空のグラスをぼうっと見つめていると、店主が店の奥から戻ってきた。

「ボス、ディンゴ様、申し訳ありません。セラーの手入れをしておりましたら……グラスが空ですね、何かお作り致しましょうか?」

 【BAR:F】のマスター、エフスティグネイ=アハトワ。彼は中華系ロシア人である、ファーストネームが少々長いので、常連客には親しみを込めて、エフと呼ばれている。
 エフは糸目を更に細めて、蠱惑的に口角を上げた。
 薄暗い店内では分からないが、照明に照らされると薄く緑色に染めた髪の毛がよく映えた。黒く塗られたネイルが艶やかに光っている。エフ自身取り立てて美形というわけでも無かったが、中性的な顔立ち、品を感じる所作や、心得たその言葉遣い全てがバーの空気を妖しく彩り、ひたすら気分を酔わせた。
 ディンゴは腕まくりした袖から伸びる両腕に視線をよこした。何故なら、エフの浮かべる柔和な表情には、およそ似合わない豪快なトライバルタトゥーが彫り込まれていたからだ。
 そして汗ばむ上腕部にもうっすらと蛇のような、稲光のような、漆黒の紋様が浮かび上がっていることに気付いた。
 
「アンタも堅気の人間じゃねーのカ」

 ディンゴの無粋な質問にも、エフは微笑んで答えた。

「ふふ、ご名答です。以前はモスクワのチェルタノヴォにいました。一般のお客様がいらっしゃる時はきちんとカフスボタンまで留めるのですが、作業中どうも暑くなってしまって……お気に障りましたか」

 ディンゴはエフが言い終わらないうちにカウンターに突っ伏して、軽く手を振った。

「いンや、珍しくもねーヨ。それよりもテキーラの追加ダ」

 リチャードは倒れ込むディンゴを横目に、エフに目配せをした。 

「エフ、彼にあれを出してくれ」
「はい、ボス。ディンゴ様少々お時間頂きます」

 エフは首肯すると、再び店舗の奥に引っ込んでいってしまった。
 アレって何だヨ、とごねるディンゴにリチャードは目もくれず、煌めく数々のボトルを眺めていた。このバーにはキープしたボトルが何本もあるが、来店するそのたびに新しいイタリアンワインが入ったのだと聞くと、どうにも堪えきれずに、試飲と銘打って、気付けば何本も自分のものにしてしまっている。 
 想像よりも早くカウンターに戻ってきたエフは、白いラベルの貼られたテキーラの透明な瓶を手にしていた。
 その瓶を訝しげに見つめていたディンゴだったが、二度ゆっくり瞬きをすると、カウンターに両手をついて勢いよく起き上がった。

「カスカウィンのタテマドテキーラじゃねーカ!? どうしてこんなド田舎にあるンだ……?」
「ふふ、全世界に約850本しか無いと言われている希少なテキーラでしたね。詳しくはお伝えしかねますが様々なツテを辿って入手致しまして……今お開けしますね。ディンゴ様、チェイサーはどうなさいますか?」
「ア? そんなモンいらねーヨ」

 伝統製法であるタテマド製法で作られるテキーラを造る蒸留所は、テキーラの本場メキシコでも一件しか存在しない。
 その上日々造られ、熟成を経た後に店頭に並ぶテキーラとは異なり、決められた日にしか釜が開かないのもその希少性を高めている大きな要因である。
 待ちきれずに語気を荒げるディンゴを、リチャードは嘆息しながら見咎めた。
 確かにディンゴの肝臓は鋼鉄で出来ているかのようで、悪酔いはするものの、彼の二日酔いに悩む姿は見たことが無かった。
 しかし養生するに越したことは無い。

「もう俺達も若くないんだぞ……エフ、彼にはコロナビールを頼む。——そういえば今日メアリーは来ていないんだな」
「何しろ平日ですので。まだまだお酒の飲めるお年になられたばかりなので、自重して頂きませんと。流石に毎日いらっしゃるようなら、カルアミルクではなくヤギミルクをお出ししなくてはなりませんね」

 メアリーとは、よくこの酒場で出会う女性だった。
 女性といっても、未だ化粧の仕上がりや顔立ちは幼く、聞くところによると大学生ということだった。
 とにかく情熱的な女性で、その容姿といい一度会ったら忘れることが出来ないのだが、平日の今夜はいないようだ。

「アー美味え! この燻製感がアニェホとも違うナ」

 ディンゴは一気に空けたショットグラスをカウンターに叩き付けた。
 エフは眉一つ動かさず微笑みを湛えたまま、ディンゴが乱暴に置いたグラスをそっと回収し、ライムと塩を縁に添えた新しいグラスを置いた。
 
「申し訳ありません、まだお伺いしていませんでしたね。ボスは何になさいますか?」

 リチャードは暫く考え込むような仕草を見せた。
 衝動的にスピリタスのストレートを、とも言いたくなったが、もはや悪乗りをするような歳でもない。

「ん、ああ……それなら『フレンチコネクション』を頂こうかな」
「はい、畏まりました」
「あンだよ、当てつけカ?」

 『フレンチコネクション』というドリンクは、1971年制作された映画が元に創作されたカクテルとされている。
 果実感のあるまろやかなブランデーと、イタリアを代表するリキュールであるアマレットから主に作られ、リチャードは『フレンチコネクション』の甘いが硬派な口当たりに癖になった。
 映画の大まかな内容としては、ニューヨーク市警の刑事がフランスの麻薬密輸犯罪を追うという物語なのだが、そのことは完全に失念していた、成る程ディンゴが噛み付くのも分かる。

「はは、違うさ。お前まさかもう酔ったのか」

 エフはミキシンググラスに氷を入れ、それから水を八分目まで入れてかき混ぜた。こうすると氷が溶けにくい球状になり、ミキシンググラス自体も冷え、美味しく作ることが出来るのだとエフは言っていた。
 冷却用の水を捨てる際に付属のストレーナーと呼ばれる蓋で氷が出て行かないようにしてから、グラスを傾ける。
 そして、あらかじめ氷で冷やしておいたロックグラスの中身を捨て、飲み口を拭き取った。
 エフにとっては何気ない一連の動作が、リチャードにはどうしようもなく美しく感ぜられた。
 彼との出会いもまた血腥いものだったな、とアマレットの香りに思いを馳せずにはいられない。
 
「ンな訳ねえだろ。——リッキー、ペペちゃんの事だけどヨ」

 彼の言うペペがホセの事だと結びつけるのにはどうも時間がかかった。
 
「何だ」

 ディンゴはコロナビールに少し口を付けて、何かを考えるように三白眼を右上へ泳がせた。
 それから頭をがしがしと掻いて、少々灼けた声で唸る。
 再びビールに口を付けると、一気に半分まで飲み干した。

「やっぱアイツはメキシコに連れて行けねーワ」 

 カクテルは疾うに完成していたが、混ざりあった液体は互いの香りを打ち消し合うように、その香りを霧散させていた。


Re: What A Traitor!【第1章Ⅴ更新】 ( No.7 )
日時: 2018/06/30 13:14
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=867.jpg





「ンで——結局請けてくれるっつーコトだったンだよナ」
「ああ、間違いない」

 昨晩、戯れに数えただけでもテキーラのショットを20杯飲んでいた筈だったが、ディンゴは二日酔いで参っている素振りなど全く見せなかった。
 常人ならば泥酔又は昏睡してもおかしくない純摂取量である。
 リチャード自身は極端にアルコールに強いわけではない。翌朝に響かない程度に、自らはセーブしつつ嗜んでいる為『フレンチコネクション』から『ゴッドファーザー』を頼んだのみだった。
 
 そして今朝はメキシコに向けて出発する為に改めて、事務所に集っていた。
 商会の荒事専門の【執行部】即ち、戦闘員らには昨晩、詳細の一切合切を既に連絡している。
 ディンゴはソファに深く体を預け、リチャードと壁際に控えていたファティマの顔を交互に見比べて、一つ欠伸をした。

「そしたらエート……ミス・ムスリム、ちょっと金勘定してくれヤ」
「——彼女の名前はファティマだ。経理担当じゃない、お前と共にメキシコに渡る」
「は、マジでぇ……?」
「ふふっ、本当ですわ」

 ファティマは澄んだ翡翠色の瞳を悪戯っぽく細めて、アバヤに覆われた口元に手を遣った。
 愉快そうに肩を震わせて鈴のように笑う。
 ディンゴには、ファティマからまるでその筋の者が纏う筈の殺気、悪意、血の匂い、硝煙、それらが何一つ感じられなかった。
 それらは簡単に消せるものでは無い、少なくとも彼の野犬たる嗅覚をもってして【それ】を感じ取ることのできない者はいなかった。
 やたら腰の低い中国産の眼鏡、遙か昔に前線から退いた筈のイタリア人からも【それ】は例外無く、ドス黒く漏れ出ている。
 一点の曇りも無い翡翠のみを晒している、敬虔なイスラーム教徒の女が人を殺す事が出来るとは、俄には信じ難かった。

「総務は他にいる、今は帰郷しているがな。経費別でカルテルがもってくれるんだろう? また追って連絡してくれれば、こちらで見積もっておくさ」

 トーニャス商会には【執行部】の他に【医療部】と【情報部】が存在する。
 執行部はホセ、浩文、ファティマの三人が在籍しているが、その他の部署には一人ずつの在籍だった。
 医療部にはリチャードよりも歳上のタンザニア人女性のアマンダ=サベレレ=バヨダ、情報部には同じく中年のインド人男性のシン=ナンビアーがそれぞれ受け持ってくれている。
 医療部は文字通り商会員の健康管理や治療が主な業務なのだが、率直に言って激務である。
 裏社会の人間は容易く公的な医療機関にかかることは出来ない。身分証明の必要性、個人情報及びカルテが残ることに依る特定、保険が効かない事による高額な医療費請求など、裏稼業で生計を立てていくことに於いて高い障壁が存在する。
 医療行為の出来るアマンダあってこそのトーニャス商会だ、とリチャードはいつも言っていた。戦闘の避けられない依頼が入ると、アマンダは憎まれ口を聞かせながら、露骨に嫌な顔をしたものだった。
 アマンダは今年で47歳になる。三人の戦闘員を仕事の都度に捌く苦労は計り知れないだろう。だからこそ、仕事の落ち着いた今の時期に半ば無理矢理有給をアマンダに押し付けた。頑固な彼女のことだったから、なかなか素直に受け取ってくれなかったが、今頃はフランス観光を楽しんでくれているだろう。
 情報部は経理及び総務も兼ねている部署であり、ここも医療部に負けず劣らず激務に追われる部署だった。 
 主な業務としては決算経理、ビッグデータ処理、顧客情報の管理、さらにはパスポートの偽造等も行っている。シンは普段は口数の少なく怠惰な人間であったが、デュアルデスクトップの前では饒舌だった。
 彼は、自作のマシンに足りないパーツを買い足しに行くのだと、今やIT大国に成長発展した母国へと帰郷している。
 トーニャス商会運営には欠かせない二人がトーニャスを離れて1週間と少しになる。しかし、そろそろ帰ってくる頃だろう。

「ン、そんじゃ頼むワ。作戦はまたカルテルの戦闘部隊と合流した時に伝えっカラ、そのつもりでナ」

 ディンゴがソファから立ち上がろうとした瞬間、ホセが口を開いた。

「ディンゴ、国境付近で戦争っつったけど本部のアカプルコには行かねえの? オレ、一回本部に寄りたいっつーか——」

 ディンゴはホセの言葉が紡ぎ終わる前に、告げた。

「アー、そのコトだけどヨォ。ペペちゃん、オメーはお留守番だ」

 俯き、漆黒の巻き毛が遮って、表情は読めない。
 
「——は?」

 ホセは平常大きな目を、更に見開いた。
 濃い隈は皮膚の伸張と共に薄れ、小さな瞳孔が揺れる。

「ディンゴと話し合って決めた。ホセ、お前は俺と共にイタリア残留だ」

 リチャードが突如生まれた緊張に低く割って入った。
 ホセにはリチャードの言葉など全く耳に入らなかった。己が生きる場所と同じ色をした、耳朶の装飾が内耳への侵入を拒んだ。
 ホセは暫くぽかんと口を開け、どうしても二の句を継ぐことが出来ずに、しゃがれて乾いた声を喉奥から絞るのみだった。
 数回瞬きをして、眉が痙攣する。事態をようやく把握してくれた体は、筋を立てて拳を握りしめる仕草をした。人差指と中指の黒いしがらみが、刹那鈍く光る。
 己に仇なす全てを食い千切る筈の牙は、奥歯から軋んで、今にも刃毀れしそうだった。

「い、いや——有り得ないだろ? オイどういうことだよ……説明しろよディンゴ!!」
「ホセ」

 ホセはディンゴに噛み付くように詰め寄った。
 ディンゴは無感情な三白眼で、彼を見下ろしたまま応えない。

「こんなクソ田舎まで来て助太刀頼むってさ、実は相当やべーんだろ!? オレがメキシコにいた時も小競り合いはあったよな……? でも応援頼むって無かったじゃねーか! あんだよ……畜生……残れって何なんだよ!!」

 ホセは犬歯を剥き出して、己の感情を露わにした。
 ショートブーツの踵で床を鳴らし、威嚇。自分の上司が腰を落ち着けていたソファの脚を蹴る、安くない感触と僅かな反発。攻撃を加えられた無機物にはくっきりとした足跡が残る。文字通り尊厳を踏みにじる大きな痕には、自身見覚えがあった。
 ようやく届いた高かったんだこれ、と自分を異国を縛り付ける男が、数週間前言っていたことが脳裏を掠める。
 しかしそうするしか、今しがた宣告された意味を理解することも、噛み砕いて嚥下することもままなかった。
 横暴に対していとも容易く傷を許した価値ある無機物を見て、更にホセは収まらなかった。 

「てめーだけぬくぬくド田舎で生き存えてカルテルを裏切れってえのか!? ふざけてんじゃねーぞ! オレは商会の人間なんかじゃねえ!! 【アカプルコ・カルテル】のファミリアだッ!!」

 虚空を咬んだ後、冷たい汗が左頬を伝ったのを知覚した。
 ほんの少し頭が冷えて、壁際にいる商会員の顔あたりに視線をなで付けると、二人とも痛そうな顔をしていた。
 盗みにしくじって路地裏で袋叩きに遭ったとき、謂われの無い冤罪で知らない大人に殴られたとき、舌を噛みながら錆びた針で体に穴を穿ったとき。
 そんなことの後、決まって自分が晒していた情けない顔になんだかよく似ていた。
 しかし己の前に立ちはだかる狂犬は非情で。
 いつかと同じ目で強制した。

「Jose,esta una orden.Te quedas aqui.(ホセ、命令だ。ここに残れ)」

 狂犬は、自分が一生を掛けて砥いだ牙を根元から噛み砕いて、その破片を吐き出した。
 あの日と同じ、肥溜めの方がマシなストリートで初めて遭ったあの日とそっくり同じように、己の非力さと服従心を奥深く植え付けられる。
 目が合わせられない。顔を上げられない。汗が溢れてくる。奥歯がかち合わない。手が震える。足が竦む。膝が笑う。地面が崩れる。

 なあ、どうしてなんだよ。

「ッ——! Cabran!!(くそったれ!!)」

 気が付けば、訳も分からず木製のドアを蹴っ飛ばしていた。

******

 浩文が気が付いた時には、もうホセは事務所の中にいなかった。
 しかし足形の泥が付いたソファを見ると、まだ彼の憤慨による熱気が部屋の中にこもっているような気がする。平生よりいつ火が点くか分からず、ホセを扱いあぐねていた浩文だったが、あれほどまで感情を剥き出しにした彼を目にしたのは初めてだった。
 浩文の隣に控えていたファティマは、目の端にうっすら涙を浮かべて、ただ狼狽えていた。
 一瞬彼女と目が合い、その濡れた翡翠に心臓を鷲掴みされたような感覚に陥った。しかしどうにも居たたまれず、視線を逸らすしか術がない。
 ファティマと浩文は昨晩リチャードから連絡をもらって、ホセはメキシコに渡らないことを知った。
 浩文は、どうして彼らがそのような判断を下したのか考えても詮無い事だと理解している、しかし。

「ボス……」
「大丈夫だ。すぐに戻ってくるさ」

 リチャードは眉尻を下げて柔らかく、二人に笑いかけた。
 確かにトーニャスに行く宛てなど無かったが、どうにも野暮ったい感情が浩文の胸を占めていた。
 ディンゴは手を組んで、上に伸びをして、こちらに向き直る。
 先ほど覆っていた黒い重圧は疾うに霧散しており、彼はいつもの軽薄さを湛えた笑みを浮かべた。今ばかりはどこで負ったのかも分からない、左頬の大きな傷痕がただただ目立つ。
 そんなディンゴに浩文は戦慄を憶えずにはいられなかった。

「ミラノからリスボンまで飛ンだ後は、船でメキシコまで渡ル。報告連絡相談は大事デスってこったナ、昨日のテキーラが盃ダ」

 ディンゴは犬歯を見せて、ゆるく手を振った。
 そうしてリチャードに正対する。

「また会おうヤ、リッキー。ペペちゃんのコト頼んだゼ」

 それはトーニャスに来て彼が初めて見せた寂寥の顔だった。
 ホセの言っていた事はきっと、どれもこれも本当のことなのだろう。
 数多の穢れた命の上にあぐらを掻き、棺桶に片足を突っ込んだまま、残飯をかっ喰らう自分たちに、生への執着など今更無い。
 浩文とファティマはとても静かで、赤暗い深海へと続く水面を凪ぐだけの、しかし血塗られた戦乱の予感を感じ取った。
 リチャードはディンゴをひたと見据えて首肯する。

「ああ。——浩文、ファティマ。【トーニャス商会】の名にかけて必ず依頼の遂行を」

「それと……俺からも命令だ。生きて帰ってこい」

 【生きろ】とは何と強い言葉だろうか。
 誰からも生を願われた事の無い者にとって、それは麻薬ドープスとも知覚為うる拘束具だった。
 世間は彼を絶対悪と定め、排除しようとするだろう。
 しかし浩文にとってリチャードは、腐りかけた心身を持つ自分を人間たらしめ、肯定してくれた人だった。それは同じ杭を心臓に打ち込まれたファティマも同じだろう。
 応は導かれるまでも無い。

「イエス、ボス」

 こう応えると、決まって彼は不敵に口角を上げた。
 自分たちも彼をボスたらしめるだけの、一つの機構なのかもしれない。だがそんな事はどうでもよかった、実に些末なことだ。【生きろ】を撃ち込まれた、彼の弾丸になる理由に、その事実は十分過ぎた。
 ディンゴは前髪を乱雑に掻き上げて、唇を舐める。

「挨拶は済んだカ? ——アー……忘れるところだっタ、おらよ餞別だ、リッキー」
 
 ガラステーブルに衝撃が走る。

「おっと——ん、何だ?」

 ディンゴが残していったのは、いつしか強請ったパルタガスのボックスだった。


Re: What A Traitor!【第1章Ⅵ更新】 ( No.8 )
日時: 2018/06/30 13:16
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: XCi1wD91)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=891.png



 昨日の一件から、表の店や事務所を尋ねるものなどおらずリチャードは事務所の中で一人、コーヒーを胃へ流し込んでいた。
 ホセは飛び出したまま未だ帰ってこない、しかし特段探すようなこともしなかった。腹が空けばすぐにでも戻ってくるだろう、と楽観している。
 自分にもあんな時期はあった、もう遠い昔の事ではあるが。
 【トーニャス商会】は表向きはトーニャス火薬として名乗り、弾薬や猟銃などの火薬類を卸売りする他、事務所と防音扉で繋がる店頭でも、量は少ないがその類いの品を取り扱っている。
 一週間に一度、月曜日だけ表の店を開け、客を待つ。
 店舗の内装は、この町馴染みの煉瓦造りをわざと残して、ほどほどに古く、性能を控えめな銃を店頭に並べるようにわざと気を遣った。
 そして店を尋ねてくるのは、若い頃イノシシを捕っていたというハンチング帽のよく似合う陽気な老父や、無愛想でいかにも山男然とした猟師だった。しかし店を訪れるそもそもの人数が少なく、客が来さえすれば、ああ今週は客が来た週だったなという認識でしかない。
 大抵、店先に出て接客をするのはリチャードだった。
 田舎町には眩しすぎる毛色をしたやんちゃな子犬、全身黒ずくめのイスラーム教徒、白衣の黒人、コミュニケーション能力が今ひとつなインド人、など他の商会員では目立ってしまうという理由もあったが、リチャードはただこの長閑のどかな村に住む人々との交流が好きだった。
 ただどうしても社長である自らが仕事を詰めなければならない時は、上記に当てはまらない浩文が店に出ることもあったが、それでも無理を言って店頭に立つことが殆どだった。
 イノシシに畑を荒らされた事、一頭のヒツジが臨月を迎えた事、隣町はもう少し栄えているのにトーニャスときたら、など村人と何気ない言葉を交わすことで、過ぎゆく戦乱の日々を、一時的に忘れられる。
 リチャード自身、【彼】と【とある邂逅】を果たすまではごく普通な一般家庭の生まれに相応しい、陽に当たる世界を歩いていた。
 血濡れた硝煙香る下界に堕とされて尚、陽光を欲するか。
 ひどく皮肉っぽい感傷に襲われ、彼の手には少々小さいカップのコーヒーを一気に煽った。
 
 その時、数人の気配を感じた。
 事務所は防音壁が守る要塞となっているが、ドアだけは彼の好みでウォルナットを用いているので、ドアの取っ手を握る気配と長年培った嗅覚が、何人かの訪問を報せる。戦闘員が誰一人居ない今、事務所襲撃を受けてしまえばひとたまりもないが、幸い敵意を孕んだ緊張は感じられない。 
 リチャードの第六感は当たりを引いた。
 扉が蝶番を軋ませ、よく知る顔を見せる。

「おかえり」

 リチャードは破顔させ、彼らを出迎えた。
 白衣でなく見慣れない私服を着たアマンダ=サベレレ=バヨダ、相変わらずスフィガータな格好をしたシン=ナンビアー。
 アマンダはグレーのトレンチコートを羽織り、そこから健康的に筋肉がほどよく付いた脚がすらりと伸びている。豊かな縮毛で頭頂部にシニヨンを作って、深紅のバンダナで前髪を留めている。赤いハイヒールの踵で事務所のドアマットを突くと、揃いの色でまとめたピアスが揺れた。黒人である彼女の肌にアクセントとなる赤の小物遣いと、グレーのコートを主とする全体の無彩色が中心のカラーバランスが良く映えた。
 シンはというと対照的に、深い緑色に黒のチェックが入ったネルソンシャツを、今にもすり切れそうでウオッシュの効き過ぎた安物のシーンズに押し込んでいる。
 アーリア系インド人であるシンは、決して女性に見向きもされないような素材を持っている訳では無かったが、人と会う時の身だしなみについてはとかく無頓着だった。
 髪も無造作に跳ねたままで、帰省先で一切手入れをしていなかったのか、無精髭も伸び放題である。
 彼ももう38歳になる。最低限身なりを整えないと浮浪者に間違われても致し方ない。今日の彼のファッションコーデも、旅に出る直前着ていたものとほぼ同じでは無かろうか。
 もう少し服装に気を付けたらどうか、とシンに言ってみるも風に向かって説教をするようで、全く張りの無い生返事をよこしてきた彼は、リチャードの記憶に新しかった。
 
「アマンダ、シン、久し振りだな。それと——」

 そして彼らに挟まれるようにして、俯いて顔を見せようとしない例の子犬、ホセがいたのは意外だった。 
 アマンダが三人の中で一等早く口を開き、大方を説明する。 

「ボスはお変わりないようで。シンとは空港で出会ってね、まあ何ならってことで一緒にバスで帰ってきたのさ。そんで——コイツはバス停の前でくたばってるとこを見つけたんだよ。何してんだいアンタ、まったく」

 アマンダはホセの顔を覗き込むようにして、険のある眉を八の字に曲げる。アマンダもまたホセより身長があった。
 ホセはほんの少し斜角に顔を上げ、女性であるからなのか、直接触れるまではいかないものの鬱陶しげに、黒いリングが光るその拳で虚空を緩く殴りつける。
 リチャードは一瞬だけ隙を見せたホセを見逃さなかった。
 乱暴に擦ったのか瞳は真っ赤に充血し、平生より濃かった隈はより一層濃くなっていた。涙の跡もうっすら残っている。
 折り合いの付けられない事があれば涙を流す、妙な既視感がリチャードの胸を衝いた。
 普段は虚勢と小さな牙を剥き出し他者を吠え立てるホセは、未だ大人になりきれない子供なのだと、彼の様子を見て、リチャードは眉尻を下げずにいられなかった。

「うっせえよ……クソババア」

 応も、いつもの威勢の良い小型犬の吠え声ではなく、洟が詰まって消え入りそうな涙声だった。
 アマンダはホセが悪態吐くのを意に介する様子も見せず、肩をすくめながら事務所の奥へと歩みを進め、デスクの上に荷物を置いた。
 アマンダにホセと共に取り残されたシンは、再び俯いてシャツの袖で強く目をこする隣の小型犬と微笑むリチャードを交互に見て、あからさまに狼狽しつつ言った。

「えっ、あっ、ねえボス、ボクのマシンは大丈夫かな——あっ痛い!? すぐそうやって殴らないでくれよ……」

 ホセは顔を上げないまま、シンの脇腹にゆるく拳を入れた。突如受けた理不尽な攻撃にシンが大袈裟に痛がってみせると、ホセは彼を殴りつけた方の手で再び目を擦った。
 商会内ではいつもこうだった事を思い出す。
 戦闘員の中では一人浮きがちだったホセは、大人しいシンに対し事あるごとに絡んでいた。
 彼にとっての故郷は勿論メキシコのアカプルコで、忠誠を示すべき飼い主及び、彼を守る家族は【アカプルコ・カルテル】だ。
 果たして商会は取り残された彼の第二の【ファミーリャ】になり得るだろうか。
 リチャードは頬杖を付いて、シンとホセの動向を目を細めて見守った。

「うるせえ……見んな。てめえいちいちカレー臭えんだよ」
「え、えっ?」

 ホセはそう吐き捨てると、わざと足音を大きく立ててリチャードと遠く離れたデスクチェアに、腰を落ち着けた。
 またも取り残されたシンはシャツの袖を交互に嗅ぎ、動揺の色が籠もった瞳でリチャードを見つめる。

「はは、そんなことないぞ、シン。」

 リチャードはソファから立ち上がり、シンの肩を抱いて事務所内に招き入れた。
 奥の給湯室で、リチャードの飲んでいたのと同じタンザニア産のコーヒーを淹れているアマンダにも聞こえるようにリチャードは声を張る。

「二人とも今日はゆっくり休んで、また時間のある時に土産話でも聞かせてくれ」

 大きな溜息を吐いて、アマンダは零した。

「はあ。いつ時間があるか、たまったもんじゃないねえ」

 リチャードは苦笑して、そう言ってくれるなよと付け足した。
 ディンゴがほんの二日前にトーニャスを訪問し、仕事の話を急に詰めなくてはならなかった為、シンとアマンダには【執行部】の二人がメキシコに発ったこと以外は伝えられていない。しかし聡明な彼女はホセ以外の戦闘員がいないことで、また荒仕事が舞い込んだことを悟ったのだろう。
 着色された毛先と同じ色の目をしたホセを村はずれのバス停で見つけたときに、今回は七面倒な一筋縄でいかない仕事なのだろうという事も感じたのかもしれない。
 シンを迎え入れてソファの席を譲ったついでに、リチャードはホセの座るチェアへと歩みを進めた。
 未だ洟をすすってべそっかきの残滓を漂わす彼を刺激しないように、努めて優しい声で声を掛ける。
 チェアの上に土足のまま三角座りをしている彼と、目の高さを合わせるように屈む。

「おかえりホセ。帰ってきたところ早々で悪いんだが、俺と一緒にナポリに——今週末の連絡会に付き添ってくれないか」

 リチャードの思わぬ申し出に不安と焦燥を湛えて濡れる瞳が、今日初めて彼を捉えた。


******


 当初の予定通りディンゴ、浩文とファティマの三人は、トーニャスからカルテルの運転手付きの車に乗り込み、まずはイタリアのミラノ空港を目指す事となった。
 車内は同じようなガタイを持つ普通車よりも狭かったが、それでも運転手を含めて四人で乗るには余裕があった。
 ファティマが助手席に座り、ディンゴと浩文が後部座席に座る、という何とも奇妙な絵面が三時間ほど続いたのは致し方ないことだった。
 基本的に身分の高い要人は運転手の後ろに乗せるのがマナーとされている。
 そして【アダムズ・ビル】だけではない、カルテルに仇なす組織のスナイパーから、ディンゴが狙われる事への対処という点でも後部座席に乗らなければならないといった理由からだった。
 ディンゴはいつものおちゃらけた調子で、くつろいでくれなどとのたまっていたが、浩文はとてもそんな気分にはなれず、車内では呼吸すら躊躇うほどだった。
 そんな浩文を知ってか知らずかディンゴは煙草を取り出し、頻繁に一服付ける。
 彼がリチャードと見えない火花を散らしていた際にはそれどころではなく、分からなかったが、彼が紫煙をくゆらせる度に珈琲の芳香が、狭い車内に充満した。
 特徴的な珈琲の香り、そして黒地のパッケージに橙色のロゴから、ウルグアイ産の【アークロイヤル ワイルドカード】を嗜んでいることが判明した。
 何故このようなことをと尋ねられれば、自らの経験知識に基づき、煙草の銘柄を推察することぐらいしか、浩文には車内ですることが無かったからだ。
 そしてディンゴと運転手がスペイン語で連絡事項を交わしていていた時、浩文とファティマはひどく肩身の狭い思いをした。
 同じラテン系言語である為、普段からトーニャスにて耳にするイタリア語とは似通った箇所もあったが、商会内で使われる言語は英語であるため、浩文とファティマの両者ともイタリア語で上手く意思疎通出来ないし、ましてやスペイン語を理解することはかなわなかった。 
 カルテル側もそれが分かっているのだろうことは理解に難くない。ここは自分たちの範疇だと見せつけられているような気もしたが、それは流石考えすぎだろうか。
 街へと続く山道は悪路ではあったが、それなりの装備が整った専用車だったのだろう、いつも感じていたストレスを殆ど無しに山道を抜けた。いつもなら臀部を強打したり、頭を天井に打ち付けたりすることが往々にしてある事に、少々不満を感じていたことは否めない。
 生きて帰ってこれたならば、ボスにそれとなく移動用車の買い換えを提案してみよう、と浩文は心に誓った。

 都市部に出て、空港へ到着し、飛行機でリスボンへ飛んだ後は早かった。
 リスボンはポルトガルの首都で、大西洋に近い都市である。
 ここまで一切休み無くぶっ通しで車に乗り、飛行機に乗り、リスボンから大西洋沿岸まで移動する最中に、夜明けを告げる太陽が大西洋沖に顔を覗かせた。       
 やがて、一隻の中型船が水平線の彼方から八重潮をかき分け、ゆっくりと接岸した。
 ディンゴから聞くに、カルテルの持っている船だから心配するなということで、二人は意を決して船へと乗り込んだ。

 船内は時計も無く、携帯電話の電波も届かない。
 暗く狭い船倉に三人がそれぞれ中央に向くようにして座る。暗闇を微妙に照らすランプの薄明かり、あの光を見つめていると時間の感覚も狂ってくる。 
 大西洋の横波に揺られ続けてどれほど経っただろうか、という時。

「あの、ディンゴさん」

 ファティマが唐突に口を開いた。
 ディンゴは頭の後ろに手を組み、目を閉じたまま応える。

「ンー?」

 素っ気ないディンゴの態度とは対照的に、ファティマは身を乗り出して翡翠色の瞳を輝かせて言った。

「ボスとはどこでどのようにしてお知り合いになったんです?」

 この唐突且つ大胆過ぎる質問に、脇で静観していた浩文は思わず目を見開いた。

「ファ、ファティマさん!?」

 ファティマは何がまずいのか分からないといったような、きょとんとした様子で小首をかしげる。
 ディンゴは何かを考えているのか、先ほどの姿勢で目を閉じたままだ。浩文はこれから協力せざるを得ない、だがどうにも得体の知れない彼の機嫌を損ねるような事は極力したくなかった。
 しかし、浩文の心配などよそに、ファティマは微笑んで続ける。

「この暗くてじめじめした船内ですもの。きっとまだまだ長旅にだってなるでしょうし、何かお話しません? それとも浩文さんは、ボスの交友関係に興味がお有りでないんです?」
「い、いや……そういうわけでは」

 リチャードの交友関係と言われると、興味は確かにあった。
 形の上ではファティマを咎めてみたものの、謎の多いリチャードの過去を知る男がそこにいいて、それを知る機会が与えられるとなると、楔となり得るその言葉は尻すぼみならざるを得ない。
 言い淀む浩文に割って入るように、ディンゴは大きな欠伸を一つした。

「は、別に取って喰いやしねーヨ。ナァ、四つ目の兄ちゃん、つまンねー男はモテねえぞ?」
「——わ!? ちょ、ちょっと何するんですか……?」

 ディンゴはにやりと笑うと、ゆっくりと浩文に近付き、ひょいと眼鏡を奪った。
 彼の行動に度肝を抜かれた浩文は、数回瞬きをして固まってしまった。ファティマは二人の様子を見て今回の旅の中で、初めて声を出して笑った。
 ディンゴはレンズを覗き込んでみたり、眉間に皺を寄せつつ眼鏡を掛けたりして遊ぶ。
 浩文は、彼の此方に手を伸ばして眼鏡を取る、その初動が全く分からなかった、否、見失ったわけではない。予備動作が判りにくい上、動きの緩急に恐ろしくキレが付いているのだ。しかし、浩文も長らく一瞬の判断によって生死を左右される鉄火場に立っている人間である。気を張っていない一瞬の虚を突かれたとて、相手の動きを見失うなど日常生活の動作において無かったはずだ。
 彼がおもむろに距離を詰めたかと思えば、次の瞬間視界が滲んでいた。

「アー……オレとリッキーが、だろ? 暇潰しに、覚えてる範囲で話してやるヨ。——まあ、そーンなに面白え話でも無えけどナ」

 ディンゴは持ち主に返す素振りは見せず、浩文の眼鏡を弄びながら、ファティマと、一つ顔のパーツが欠けてしまったような彼の顔を交互に見合わせ、口角をゆっくりと上げた。


Re: What A Traitor!【第1章Ⅶ更新】 ( No.9 )
日時: 2018/11/11 22:00
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=898.jpg



————9年前、メキシコ=メキシコシティ。

「クソッタレ……」

 仄暗いメキシコシティの路地裏にて、狂犬は低く唸る。
 杜撰な衛生管理の飲食店の廃棄物と、虹色の廃油が混ざり合ったヘドロに塗れるのも構わず、一人の男は壁を背にして倒れ込んだ。
 繁華街の喧噪を背に、腹部から溢れ出る大量の血液を手に延ばしては、苦々しく口角を歪める。血を流しすぎたようで、最早立ち上がる余力さえも残っていない。
 幸いなことに内臓をやられたわけではなさそうだが腹部の裂傷が酷い。依然として激痛は止まない、どうやってここまで移動出来たのか自分でも不思議なほどだった。脳内麻薬は疾うに切れてしまっている。楽観したとしても、確実に肋骨は折れているだろう。
 乾いた血痕を辿って、死の足音がそこまで迫っていることは、回転しない脳味噌だとしても容易に悟る事が出来た。

 現在でこそ彼の所属する隊、特殊高火力殲滅部隊【onyx】は少数精鋭の猛者が集い、自分たちの領分である密林戦や機密性の高い隠密活動を主としており、その高い勝率から他の反社会組織からも神格化されている節があるが、当時から戦闘部隊の最上位には属していたもののやはり組織の駒に等しい唯の武力部隊でしかなかった。
 場末の若い不良共を少々手懐けてしまえば済むような、取るに足らない仕事が部隊に回ってくることも当然ある。
 そのような折、久し振りに単身用の任務が、彼の元に舞い込んだ。
 その内容は【アカプルコ・カルテル】の商品を外部に横流し、挙げ句その商品で麻薬パーティーを無断で開き、高額な会費をせしめて私腹を肥やす阿呆の始末と、そいつの隠している残った麻薬の回収という彼にとっては、鴨撃ちにも等しい楽な仕事だった。
 当時の彼は、あまつさえ仲間内でも戦闘狂だと呼ばれている程で。
 防弾ベストや予備の弾薬マガジン等の嵩張る装備さえも不要と考え、六発装填のハンドガン一挺のみを懐に忍ばせ、ターゲットの潜む廃屋に単騎突入する。
 死角である不安定な排水管で二階へとよじ登り、窓を静かに外して侵入する。そこまでは良かった。しかし中はもぬけの殻で、暫し室内を歩き回ってみたが、人の気配はおろか、廃倉庫然とした埃っぽい部屋からは生活感が一切感じられなかった。
 違和感に眉を顰める。ハンティングではなく、罠だった。嗚呼【カモ】はオレの方か。
 生憎、部屋の外へ繋がる扉を背にしてしまっている、此方が餌場に飛び込んだと脳髄が知覚したときにはもう遅かった。
 中毒者特有臭、震わしの咆哮、背後から羽交い締め、重い脂肪の塊が覆い被さる、野郎の滝のような汗がシャツに染みて。
 中枢神経からの危険信号を待たずに、反動を付けてブーツの仕込みナイフで後ろを蹴り上げる。存外軽い感触と鈍重な叫喚、そして緩む拘束。強襲してきたバターボールの一体どこを刺したのかは考えたくなかった。
 そして扉の向こうから沸いてきた4人の男が彼ににじり寄り、徐々に距離を詰める。彼の夜目は皆一様の落ちくぼんだ瞳、濃い隈、赤い鼻、拭いきれない涎、吹き出物の潰れた肌を捉えた。
 二時の方向にて痩身の男が拳銃を構えると、神だの蟲だのと喚きながら彼に向かって発砲する。
 だがしかし所詮薬でキマりまくった素人の予備動作と命中精度、彼の目を以てすれば見切るのは容易だった。 
 火薬に押し出されたヘッドショット狙いの凶弾はやはり逸れ、彼の顎門を喰らおうとする。それを予知し、身を屈めておいた。第六感通り、彼の頭上を烈火のフルメタルジャケットが掠める。
 甘いな、エクスタシー貪って飛んでる奴に狩られるオレじゃねえ、と地べたで一呼吸つく。
 そして右手で懐の拳銃を取り出し反撃に地を蹴ろうとしたその時、眼下で何かが転がるのを視認した。
 閃光音響手榴弾、スタングレネード。
 物体から迸る刺々しい閃光、それは一瞬にして光の爆裂へと。
 咄嗟に閉じた瞼越しに収縮の間に合わなかった瞳孔から網膜を焼かれ、轟轟音に鼓膜を上下左右揺さぶられる。
 しかし神経が既に焼き切れたドーピーな亡者共には関係無い。生理現象として硬直した一瞬の虚を突かれ、伸びた巻き毛をあっという間に引き掴まれる。
 頭部に走る痛み、肌に降りかかる臭気を纏う汗と涎、頬に衝撃、腹部に膝、締まる頸動脈、腹に触れる冷ややかな凶刃、刹那熱を持つ。
 地べたに再び転がされ、靴底の雨が降ってくる。今だけは惨めな防御姿勢を取るしかない。
 幸いなことに好機を伺う間に銃口を向けられることは無かった。先の威嚇射撃にしか銃弾は込められていなかったのだ。
 所詮、頭のイカれた捨て駒。勝手に錯乱し、銃乱射なんざ起こして大事にするのは飼い主も望んじゃいないだろう事は容易に伺えた。
 体中に満ちてくる激痛と、短絡を起こした視覚聴覚を本能の牙に預け、手始めに真正面にいるであろう五月蠅い肉塊をぶち抜いた。

 そこから後は彼自身よく覚えていない。

 交戦後の興奮による知覚過敏で、闇に漏れ込む表通りのネオンサインや寂れた誘蛾灯すら、光を拒む彼の三白眼には鬱陶しい。
 スタングレネードにより視覚は光を拒み、彼の得意だった夜闇は黒く塗りつぶされている。断続的な耳鳴りで聴覚も暫くアテにならないことを思い知る。
 男の着ていたものの大部分は凶刃に切り裂かれ、体中至る所から血が滲んでいる。
 装備を整えていればもっと軽傷で済んでいただろう。しかし仕事にタラレバは無い。これはオレのミスだ。
 先ほどの5人組の中毒者はプロフェッショナルではなかった。さしずめ自分を始末しなければ薬を回さないとでも言われたところなのだろう。しかしそれも逃げる時間稼ぎの捨て駒に過ぎないことは容易に窺えた。
 いよいよ呼吸すら面倒になってきた。意識混濁が起きようとしている。硝煙とニコチンに毒された脳漿が追憶を勝手に始めた。
 古傷が疼痛が起こす錯覚、肉を削り取られる記憶、口を割られても割らなかった口。
 それなりに人生の中には愉快痛快なこともあったのかもしれない、しかし走馬灯の中では一切壇上に上がることは無かった。
 そして一瞬ちらつく赤毛の女性の記憶。だがそれも霞がかってしまって、血の足りない頭では彼女は誰なのかも判断が付かなかった。
 野犬と呼ばれた自分に、ホモ=サピエンスを人たらしめる心が果たして存在したのか、もう今となっては分からない。
 棺桶を前にして、それは些末なことだった。
 
 ここから遙か遠く【野蛮】だった頃もそうだ、あの頃から何一つ変わってはいない。30代も半ばを迎える彼だったが、それしか生きる道を知らなかった。
 彼の本能が、闘え、噛み付け、喰らい尽くせと、這々の体で路地裏に敗走した今この時でさえ叫ぶ。
 滾り続ける彼の本能は、今も止まる様子一つ見せずに、腹部から赤黒く流れ続けている。
 彼の名前はディンゴ。ずっと前、やたら眩しい文明の光が初めて彼の網膜を焼いた時とほぼ同時期、頽れた膝と過敏な脳味噌に野犬の名を刻み込まれた。
 9年前、一兵卒でこそなかったが隊長という肩書きは未だ無い。

 棺を蛍光色で落書きされた路地壁、別れ花を残飯と化した葉物野菜にするのを認めたその時、甲高い耳鳴りに混じって何者かの足音を捉えた。
 誰だ。
 静かな息遣い、動物性香水と葉巻の強い匂い、片足が着地する際の振動、狭い路地の音の反響、衣擦れ、靴の種類、纏う硝煙。
 そこから導き出された答えは、男。高身長。筋肉質。強い体幹。そして嗅覚が告げる同業者の匂いというオマケ付きだった。
 さっきの五人組のように【粉末の商売仲間】の匂いはしない。
 通り名の如く野犬のような人生だ。いまさら生への執着など無い。しかし己に仇なす者に最期を蹂躙される事だけは彼自身が許さなかった。拳に力を込め、奥歯を強く噛み合わせて最期の迎撃準備を整える。
 しかし、メキシコシティの夜闇を縫って現れたそいつは、ぎらつく殺意など持ち合わせてはいなかった。

「?Que te pasa?(何があった?)」

 未だ続く耳鳴りの中でも、はっきりとした輪郭を持つバリトンが頭上から降ってくる。
 直に喰らった閃光のお陰で、視界は未だ完全回復していないのでそいつの詳細は分からないが、今のところ此方に危害を加える様子は皆無だった。
 ディンゴが応えず黙秘を続けていると、男はその場を離れること無く、続けた。

「?Hablas ingles?(英語は話せるか?)」

 しかし感情のこもらない低音。その声色にはどうにも抗い難い、返答を強制させるものがあった。
 ディンゴはどうにかして喉の奥から無声音と有声音を綯い交ぜにした呻きを絞り出してみる。

「……No hablo? Entiendes espanol?(……いンや、わかんねえな。スペイン語はどうだ)」

 正直、ネイティブの隊員をおちょくる分にも差し支えは無かったが、何しろ今の状態である。英語を脳内で変換して、噛み砕いて理解する、そして再び英語として発話するのにはエネルギーが要る。
 しかしスペイン語もまた、ディンゴの母語では無かったが。
 使用年数は後者の方が長い。いつも以上に舌は回らないが、それでも英語より体力を使わずに済む。

「Hablo un poco de espanol.(少しなら)」

 そいつもおそらくラテン語圏出身なのだろう。少し、とは言い難い流暢なスペイン語で応じた。
 降下する衣擦れによって、男が屈んで真正面に正対したことを察する。

「はは、随分とやられたもんだな。この傷じゃ多勢に無勢ってとこか」

 虫の息のディンゴを目の前にして、そいつは愉快そうに笑った。しかし嘲笑とはまた違う、旧知の仲にある者同士のじゃれ合いのようなものに近似していた。
 徐々に機能を回復しつつある聴覚がこれは耳障りな音だと己に耳打ちし、内に眠る獣が唸りを上げ、枷の嵌められた前足で砂を掻く。
 一般人では足を踏み入れもしない路地裏に分け入って、明らかに日の当たる住人ではない血みどろの人間に声を掛ける。やはりマトモな思考回路の奴ではない。一体何が目的だ。

「堅気じゃねえとは思ってたが……てめえどこのモンだ——ッ……!!」

 廃油で滑る路地壁を伝って立ち上がろうとするも、腹部の傷口が引き攣って膝が笑ってしまう。震える足を殴りつけて活を入れるが、やはり立っていられず再び汚泥の中へと尻餅を付く。畜生、何て惨めな事だ。
 血の乾いた上着に再びじんわりと鮮血が滲む。今はただ声のする真正面を睨み付けるしか出来なかった。
 得体の知れない男に生殺与奪の権限を握られ、くたばり方を決められる。それはディンゴにとっては不愉快極まりない事だった。
 それでもそいつは飄々として言う。やはり嘲笑の色は混ざっていなかった。

「——っと、幾らあのカルテルの手練とはいえ、手負いの獣にのされる俺じゃないさ。今動くと誇張抜きに死んでしまうぞ? 安心してくれ、今はどこの飼い犬でも無い」

 今、こいつはカルテルと言ったのか。
 動揺に揺れる瞳孔を視認されたのだろう。正対する目敏い男は一言端的に、腕章だと告げた。
 現在は作戦内容の機密性保持の為やその他の理由で廃止されているが、数年前までカルテルの【onyx】に所属する戦闘員は腕章を付ける事を義務づけられていた。 今でも腕章の模様がその体に刻まれている隊員は多い。
 ディンゴが左肩に手を遣ると、血が膠のようにこびり付きボロボロになった腕章のざらつく感触は確かにそこにあった。
 【onyx】はこれほどまでに認知されるようになったのか。

「は。信じられねえな……」
「仮に俺がどこかの番犬だとして、お前とこうして会話していることすら無駄だろう。ヘッドショットの餞(はなむけ)でこの話は仕舞いさ」

 その男は、おどけた調子で銃声の擬音を口にした。成る程、例の追手ならばこうして無駄話をしている暇も無いだろう。もっとこいつを疑ってかかるべきだろうが、正常な判断を下せるほど頭に血が回らない。今この瞬間にも生命は流れ出ている。今しがた塞がり始めた組織を捻じ切り、立ち上がろうとしたのが仇になったか。
 そして声の調子、間の取り方、抑揚、そのどこを取っても説得力を感じさせる男だった。場末のチンピラにこんな雰囲気を纏う奴は、ディンゴの知る中ではどこにもいない。どの組織にも所属していないという内容の真偽には毛ほども興味は無かったが、それなりの地位を持つ人間だったのかもしれない。
 しかし何一つとして事態は咀嚼嚥下できなかった。

「解せねえ……テメーの目的は何だ」

 ディンゴがそう吐き捨てると、男は待ってましたと言わんばかりにぱっと声色を明るくして、微笑みの色を乗せて言った。

「流石に【onyx】の隊員だけあるな。話が早くて助かる、本題に入るまでに死んでしまわないか心配だったんだぜ?」

 衣擦れ、そして更に声が近くなる。
 その時初めて、ディンゴの薄弱な視覚が男の顔面情報を肉の管制塔に送った。
 そいつは白人だった。太く整えられた眉と長い睫毛、高い鼻とどこか蠱惑的な唇。男性的要素と女性的要素とが融解共存し、メキシコシティの掃き溜めの中であっても芸術品のような秀麗さを放っていた。
 癖の無い金髪は高い位置で括られ、肩甲骨の辺りでそいつの一挙手一投足に合わせて揺れる。
 とりわけ妙だったことは、そいつが夜間にも関わらずサングラスを掛けていることだった。時折、澄んだ蒼瞳がグラスに映り込んだネオンサインの反射光にも劣らない極彩色を放つ。
 やはりどこまでも奇妙な男だった。
 こいつも厄介な【訳アリ】か。ディンゴは再び奥歯を強く噛み合わせた。

「率直に言うと、恩を売っておきたいと思ったんだ。ここいらを縄張りにする古参ではあるが【アカプルコ・カルテル】は今後もっと大きくなる」

 葉巻の薫風が前髪を揺らす。その中でも一等甘ったるいパルタガスの薫りによく似ていた。

「——あンだと……?」

 予想していなかった男の返答に、思わず眉間に皺が寄る。
 徐々に明瞭になりゆく視界に、男の背後から漏れ出る都市の輝く欠片が乱反射した。
 そいつは整った片眉を吊り上げ、口角を上げる。

「お前がどこで生き、何を重んじ、どんな人間であろうと……それはこの際、至極些末などうでも良い事なんだ。この屑籠メキシコシティの中でサタデーナイトフィーバーをやらかしたお前に、偶然出会った。【アカプルコ・カルテル】の【onyx】に所属している——【アダムズ・ビル】に敵対する組織に、な。はは、電柱にピスを引っ掛け散らす礼儀を知らずな野良犬じゃ有るまい、仁義を立てない訳が無いだろう?」

 黒い革手袋で、言葉を紡ぐ唇をゆっくりとなぞる。
 疲弊しきった脳漿に情報を孕んだ血液の奔流が流れ込む。正常な心身だったならば問答無用で一発くれてやっている程の事を言われているのかもしれない。しかし男の言葉はディンゴの中に何の抵抗なく染み入る。
 成る程、こいつはカルテルとのコネクションパイプを欲している。そしてビルとの確執持ちということを匂わせた。第一印象以上に厄介な奴であることは、朧気な意識の中でもはっきりと掴めた。
 素性の知れない男について行くことの利と血の渇望を天秤に掛け、そして彼方へ傾く。

「さあ、腕利きの医者を紹介してやろう。立てるか? 俺の名前はリチャード・ガルコだ。どうぞ好きなように呼んでくれシニョーレ」

 そう言うと、リチャードと名乗るその男は、やおら立ち上がり黒の革手袋を嵌めた手を此方に差し出した。
 今考えても、その手を取る以外に選択肢は無かったのだろうと思う。

「ディンゴでイイ……敬称は好かねェ」



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