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*61*
「終息」
◇
「消えてしまった」
御影を前に、私はうまく説明ができなかった。
混乱もしていた。吉祥天を失って、その吉祥天が大事にしていた猫が、ふと、唐突に消えてしまった。なんとかしなくては、なんとかして猫を探さなくては、と、そう彼に訴えた。
御影はコーヒーカップを置いて言った。
「世界が終わるんだ」
それから、顔を覆った。
「ああ、どうしたことだろう。兆候はあったんだ。本が増えて、世にでまわろうとしていた。神が僕に語りかけなくなった。何より、夕月、君が生まれてしまった」
だんだんと感情的に、焦るように、急きこむように言い切ってから、御影は私を見た。顔を覆っていた手で頭を掻き毟って、私をまっすぐに見た。
「でも、それが神の意思だ……。それなら、僕は」
彼は立ち上がる。座っていた椅子ががたんと音を立てた。
「夕月。猫は、もう戻らない。君がやったんだ。君が消したんだ」
それは。
「君が持っているのは、世界を終わらせる力だ」
受け入れるためには、それはあまりに、重い響きだった。
「君にはそれができる。そして、それが神の意思だ。分かるね? 終わらせるんだ。未練も、ためらいも、戸惑いも、必要ない」
頭の芯を揺さぶられているような感覚に陥って、ようやくそれが収まった時、私は御影の顔をもう一度見た。
そうは言っても。私は、彼が一番、未練も、ためらいも、戸惑いも、一番持ち合わせているように思う。誰よりも、一番。
唇を噛んだ彼は私から目を逸らして、声を上げてうずくまった。
「愛していた」
愛していた。その声が僅かに漏れた。この世界を、愛していた。空を、街を、人々を、愛していた。神様を、愛していた。
私は考える。私は、世界を終わらせることができる。でも、私がそれを選ばなかったら?
*
御影には落ち着き、ことと気持ちを整理する時間が必要だった。
私は、マンションを出た。
夜、ぽつりぽつりと灯る街灯。満月、個性豊な虫の音。幸せに生きる人々。世界。御影が愛した世界。
吉祥天がいない今、何となく私は、音無を訪ねていた。
「あら、夕月ちゃん。いらっしゃい」
音無は店の奥に私を通し、紅茶を淹れて私の前に座った。私には、彼女に語りたいことはなかった。それが分かっていたのか、彼女は青いギンガムチェックのテーブルクロスを指先で摩りながら、話を始めた。
「世界は終わっちゃいけないんですって」
びくりと、体中が緊張するのが分かった。
「終わらせたりしないって。金堂くんが死んでしまって、露木くん、見た目よりずっと、ショックを受けていたのかな」
露木。彼女の話によると、私が来るすぐ前に、彼はここに来ていたらしい。
「……すごく悩んでいるみたいだった」
私は少しためらったが、それでも、聞いた。
「音無さんは、どう思うの」
「え?」
「世界は、終わらせちゃいけないと思う?」
彼女は考え、それから言った。
「人が死んでしまうのは悲しいことだし、一樹や露木くんや金堂くんの事も好きだし、終わってほしくない。でも、本当は分かっている」
なんて、悲しい顔で笑う人だろう。
「私、全部、知っているの。この世界は、神様が身勝手に創った、彼の、未練のカタマリなの。これがあるから、ずっと、痛みから抜け出せない。それなのに露木くんは、この偽物の幸せを守ろうとしているわ」
音無は続けた。
「世界は、終わったほうがいいの」
私は、音無の話を聞いた。音無が音無でない世界のことを。この世界を創った、神様のことを。
世界は終わったほうがいい。彼女のその言葉は、愚かな神への、厳しい優しさなのだ。
私は席を立った。
*
露木が行く場所に心当たりがあるかと聞いたら、音無は教えてくれた。御影のところに行ったらしい。
白い男が力を持っている者を殺して回っている。彼はそれを止めるために、御影を守るために、マンションに向かった。
私は黒々としたアスファルトを走った。マンションから持ってきた傘をしっかり握って、力いっぱい走った。
身を守るための、傘。
露木には白い男を止めることはできない。自分の意思は、似てはいても、自分以下の存在には止められない。そんな確信があった。御影が死んでしまう。死んでしまう。
子供の足では間に合わない。息が苦しくなって、心臓が痛くて立ち止まり、私は握った傘を見た。神様の杖。
まだ、使えるだろうか。どうか。私は思いついた途方も無い案に、かけた。
私の能力は、「消す」ことだ。この傘は、「創る」。
傘を開いて、目を閉じ、呟いた。
「消えろ」
私と御影までの距離だけを。
「生まれろ!」
世界もろとも消えてしまわないように、この傘で。
風が吹いた。強く、吹き付けた。
目を開く。息をつく。
目の前にはちゃんと、マンションの、御影の家の、扉があった。
扉を開き、靴を脱ぎ捨て、彼がいるはずの扉が開いているのを見て、私は傘を放り投げてまた、廊下を走った。
部屋の中に、うずくまったままの御影と、白い男が見えた。叫ぶ。
「待って!」
白い男がこちらを向いた。
「待って、神様」
白い。でも、今ならよく見える。露木と同じ顔。いや、私の知る露木よりも少しだけ、若い。白い半袖のワイシャツ、それから制服の黒いズボン。
「待って。私が全部やるから、待って。露木が来るまで待って」
上がった息。絶え絶えの声を絞り出した。
男は、御影に伸ばしかけた右手を引き、下ろす。神様はそのまま、すうっと消えてしまった。
私は大きく吸って、安堵の息を吐き出した。うずくまっていた御影が、顔を上げた。
「この終わりにはちゃんと、意味があるんだ。……神様を助けられるんだ。僕は、僕は世界を愛する前に、神様を愛している。これ以上のことは、無い」
「……そうね」
それが御影の、彼なりの答えだった。
私も、伝えないといけないのだ。
そして、露木は来た。開け放した玄関の扉から。
露木は私を見て、言った。
「世界は終わらない。終わらせない。やっと作ったんだ。幸せな世界だ」