コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ

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  の甼
日時: 2017/07/22 00:39
名前: Garnet (ID: z/hwH3to)

Welcome to ???street.
Nickname is,"KUMACHI"


Their birthday...4th May 2016
To start writing...7th May 2016

(Contents>>)


【Citizen】(読み仮名・敬称略。登場人物の括弧内は誕生日)


●上総 ほたる (5/4)
●氷渡 流星  (12/23)
●佐久間 佑樹
●柳津 幸枝

○ひよこ
○てるてる522
○亜咲 りん
○河童



☆ ただいまスレ移動措置に伴い、スレッドをロックしております。 ☆
☆ 『  の甼』は、新コメライ板へお引っ越しする予定です。   ☆

*







 ──────強く、なりたい

Page:1 2 3 4 5 6 7 8



Re:   の甼 ( No.36 )
日時: 2017/01/27 18:02
名前: Garnet (ID: r3vekOHJ)

「えぇ! 反対方向のに乗っちゃった?! しかも快速〜?!」
「ごめん。ま、じ、で、ごめんっ!」

 驚きすぎて間延びした声が、ざわつく車内に吸い込まれていく。
 休日ということもあり、月美町内のそれよりも随分と満員具合は増していたし、家族連れや恋人同士なんかのお客さんも多かったから白い目で見られることはなかったけど、咄嗟に手のひらで口を塞いで、周りのひとへ頭を下げてしまった。流星くんはそんなわたしの前で、ぱんっ、と手を叩き合わせて謝ってくる。神社じゃないんだからやめてよとも思ったけど、そんな気持ちよりも、今は別の嬉しさが勝っているから何も言えない。
 スローペースな朝食で気が緩んでしまったわたしたちは、また改札を通って、流星くんでさえあまり乗ることがないという別の路線のホームに向かっていた。しかし、エスカレーターが目の前に迫ってきたというときに、彼が電光掲示板を見るなり、わたしの腕を引いて走り出したのだ。短いブーツのかかとが、黒い階段の上で大きな音を響かせる中、どうしたのと、かろうじて訊けたものの、いいから急いでくれという返事しかもらえず、発車ベルとともに、満員電車に押し込まれた。しかも目的地とは反対方向で、5駅分以上は飛び越える快速だった。
 これでは用もない東京方面に向かってしまう。発車後すぐ、それに気がついた彼はかなり慌てていたけれど、とりあえず次の駅で降りれば何とかなるはず。

「流星くん、次ってどこで停まるの?」
「……県境越えるかなあ」
「う、嘘ぉ〜」

 と、思ってきいてみたらこの様だ。1回休んで7マスは脇道に逸れている。
 流星くんの携帯電話で時刻表を調べてみたら、次にわたしたちが乗ることのできる下り電車は40分近くあとなのだとわかって、余計に気分が沈んだ。

「そんな顔しないでよ。お昼ごはんは、ほたるさんの好きなところでいいからさ」
「…………コンビニおにぎりでいい」
「え」
「嘘! オムライス食べたい! それが駄目なら回るお寿司!」
「えぇ〜」

 また顔に出していた、というのもあって、プチわがままを発動してしまった。でも、オムライスと回転寿司が好きなのだというのは事実だ。あ、あとハッシュドポテトも。要するにわたしは"子供気ない"ということで。
 その後降り立ったひと気のない駅近くのコンビニで、新しいネックウォーマーと黒い手袋を買って、もう1マス休んだ。









 氷渡江実えみさんは、明陽からこの町へ来るに至ってのことを、掻いつまみつつも順序立てて解りやすく説明してくださった。こちらが話しにくそうにしているのを、感じ取ってしまったのだろう。無理もない。

「いちばんの理由は、DV、でした……。限界が近づいてくるまで、暴力なのだと思えずにいた自分を恥じましたし、恐ろしかったです」

 夫婦間の暴力。そんなものがこの世界に存在してしまうのだと知ったときは、許せない、信じられないと、暫く怒りが収まらなかった。勿論今もだ。夢の中で笑うあの人も、息子も娘も、そんなことは絶対にしない。
 何故そのような深いところを私にさらけ出してくれたのだろうか。
 すると、伏せられていた睫毛が不意に立ち上がって、流星と同じ、透き通った飴色の瞳が柔らかく私を捉えた。

「こっちに来てからこんなことを話せたのは、佐久間さんと柳津さんだけですよ」
「佐久間さん、というのは、もしかして南区の方かね?」
「ええ、流星の友達のお母さんです。一度授業参観のときに会ってから、勤め先が近いのか、あちらの近辺のコンビニなんかでよく見かけるようになって。今ではよき相談相手であり、友人、ですね」
「そうかそうか、そらぁ良かった。そういう存在がいるといないとじゃー、互いに心ん持ちようが全然ちげーでよ…………おっと、失礼」
「あんどんねーです。この辺の言葉には、もう慣れとりますけ」
「すみませんねえ、ハッハッハ……」

 流星にもあの子のほかに友達がいたのだと、きちんと知ることができて安心した、というところもあるが、それ以上に、江実さんが月美町に慣れてくれたようだと知ることができたのが、今の私には一番の嬉しい収穫だ。久々に家族以外で明陽訛りの混じった言葉を聞けて、何とも言えない心地よさを感じる。突然笑い始めた私を見て、彼女は目を真ん丸にした。

「いやいや、本当にすみません。何だか懐かしくってねえ」
「あ、その、お気になさらなくていいですよ。それより、流星は」
「…………あぁ」

 先程まで輝くように明るいものだった表情が、私が言葉を濁した途端、みるみるうちに陰りを溜め込んでいった。

「もしかして、挨拶もせずに帰ってしまったりなんてしました? まったくあの子は失礼なことを」
「いいえ、そういうことじゃあ無いんです、行方不明というわけでもねぇんですよ。行き先の見当は付いてんでが、貴女にその理由をきちんと説明できるかどうか。ただ、訳もなく江実さんを置いて出ていったわけではないのだということを……解って、ほしい」

 最近日本でも販売が始まったとニュースで聞いた、薄いスマートフォンを取り出し、電話を掛けようとする彼女を止めるため、これでも必死に出来ることを手探りしては"何も言えなくとも理解してほしい"というサインを散りばめ続けている。言い訳がましいことは承知しているつもりだ。
 すると彼女は、手元でそっと、スマートフォンのロック画面を暗くして、先程までの明るい表情が嘘だったかのように俯いてしまった。
 電源くらい切っているだろうと、頭ではわかっていても、そうはいかなかったのだと思う。

「あたしが……」
「え?」
「あたしが、ちゃんと流星のこと、考えてあげられなかったから……。あの子のため、あの子のため、なんて言っていて、結局は自分のことしか考えてなかったんだわ」
「そんなこたぁ、無いと思うけんがな」
「……」

 華奢な方が震えて、部屋に薄く差し込み、机の上に落ち込む白い朝日を、不規則にちらつかせる。

「一人きりで子供を育てたことなんて無いし、ましてや理不尽な暴力から守りきれる自信も無い。全く知らない新しい土地で、自分だけで住まいを見つけて、子供を学校に入れて、職を見つけて、ここまで強く生きることだって出来やぁせんでな。恥ずかしい話だが、昔は町なかで孤立しておったし、実は社会経験も嫁入り前後の数年ほどしかねぇんですよ」
「幸枝さん」
「だから、あなたは立派な母親だと、あっしは思うでな」

 これが精一杯だ。
 感じたことを正直に彼女に伝えれば、きっとまた、流星によく似た笑顔に戻ってくれるだろうと、そう思っていた。しかしその願いは全くの逆方向に叶ってしまった。
 江実さんは、遂に堪えきれずに涙をぼろぼろと溢し始め、自らを痛めつける為のような声色で、こう言ったのだ。

「勝手に苗字を変えても、ですか」

Re:   の甼 ( No.37 )
日時: 2017/02/18 20:55
名前: Garnet (ID: XnbZDj7O)






 朝でも昼でもない時間、すずめ一羽さえいないこの場所は、とても、とても、静かだ。
 わたしたちとは反対方面に向かうほうの線路を隔てたホームでは、さっきまで和服姿のおばあさんが時刻表とにらめっこしていたけれど、いつのまにかそんな彼女の姿も見えなくなっていた。遠くに車の走る音や、さっき寄ったコンビニの隣のビルにあるドラッグストアの呼び込み音声や、時々下のターミナルに滑り込んでくるらしいバスのウィンカー音なんかがぼやぼやと空に乱反射するばかりで、本当にここが明陽町よりも栄えた場所なのだろうかと、疑いたくなってくる。
 東京の人に言わせてみれば明陽もこの辺も大差なく、田舎、のひとくくりなんだろうなあ、と考えたら何だかバカみたいで情けなくって、眠気に襲われた。
 ふたりきりで改札を抜けるわたしたちを見掛けた若い駅員さんが「待合室の空調が壊れているから、南側のホームの端っこのほうに行けば暖かいよ」と親切に教えてくれたので、わたしは今、丁度そこに根を張らせていただいている。本当にありがたい。暖かい。雨風にさらされてきたせいか、屋根の下にあるベンチよりは幾分か錆び付いているけれど、次の便を逃してしまいそうなくらい座り心地はいい。
 こうして、マフラーに顔をうずめて。公園で微睡んでいた彼を夢の中で呼んだのも、もう随分昔のことのよう。

「ほんとに、何もいらないの? ココアとかはちみつレモンとか、あったのに」

 夢の世界へ落ちそうになっていたわたしの隣に、彼が買ってきたばかりのサイダーのボトルを持って腰を下ろした。

「うん……流星、かえってきてくれたんだ」
「は?」

 寝ぼけてやんの、と笑われてしまった。実際寝ぼけている。でも、言葉自体に誤りはないはずなのだ。
 彼を横目に見上げると、サイダーを飲みこむ度に揺れる炭酸の泡が、陽の光に弾けてきらめいていた。だんだんとそれが眩しく感じてきて、あっという間に目もさめていった。そうしてふと、生まれたての疑問がぽろり、口をつく。

「ねえ、流星くんは、何でわたしに何も訊かないの?」
「だって、何も訊かないで欲しいって言ったのはほたるさんのほうだろ?」

 即答だ。

「あ……そうでした」
「そういえば、ほたるさんだって、どうして何も訊かないんだよ? 僕はけっこうオープンに構えてるつもりなんだけどな」

 ふたりして、まっすぐ前を、向いたまま。
 彼が不意に、本当に今思い付いたことのように、訊ねてきた。

「で、でも、わたしは何を訊く必要があるの」
「そうだなあ、例えば」

 思わずコートを翻し、身体ごと隣に向けていると、瞬きとともに茶色い瞳が空を見上げて、膝にのせていた角張った拳から順々に指を開いていく仕草をしてみせた。

「なんで僕が、自分のことを"僕"と言うのか」

 人差し指。

「なんで僕の名前が、ヘンな所だけ変わってるのか」

 中指。

「ほかにも、レギュラーを取るほど頑張った部活を、どうして卓球部のある北中への転校とともに、わざわざ、辞めてしまったのかとか。本当は色々気がついていたはずだよね? 何なら今、その疑問に答えちゃってもいいんだよ。人もいないし、明陽に帰るなんていういいタイミングだし」

 そして3本目の親指を開いて手を握り直し、いきなり吹いてきた風に、それを全部ポイ捨てするみたいにパーにして、わたしの前に差し出してきた。

「まさか、全部知っているからとか、言わないよね…………あずみ」

 最後の言葉とともに流星くんは……流星は、わたしを逃すまいとするように、目をばちんと合わせて、それからずっと、離してくれなかった。
 時が、止まってしまったみたいだった。
 こんなときに、そんな顔で、そんな声で、わたしの名前を。本当の名前を口にするのは、ずるすぎる。

「りゅう、せい」
「お前は……何者なんだ」

 揺れる深い双眸に、ひどく怯えているようなわたしの表情がはっきりと映っていた。
 そんなとき、タイミングが良いのか悪いのか、わたしたちの乗る、いわき行きの電車の到着を告げるアナウンスが響いて。

「ま、何だっていいんだけどさ…………そういえば電車賃のことだけど、財布に余分に入ってるのを忘れてたんだ。何とかなりそうだよ」
「なら、よかった」

 彼は何事もなかったかのように目を逸らし、立ち上がった。薄く白い靄を吐きながら、わたしも小走りに背中を追いかけた。
 朝ごはんのときにマフラーを自分で巻き直したせいで、電車の引っ張ってきた風が髪を容赦なく振り回して、やけに首もとが寒い。
 今日は、陽が出ているのに冷える。
 生ぬるい暖房の空気が頬にまとわりつく、誰も乗っていない車両にふたりでそっと潜り込んだ。








「テストのときや、新しいノートや教科書に名前を書くとき……今でもそう書いてしまいそうになる。そう名乗ってしまいそうにもなる」

 窓から射し込む白くきらきら輝く光のなかに顔を埋めて、流星くんが、そっとその口を開いた。
 間違えて乗ってきた満員電車が嘘のように、ここは誰もいない。隣の車両には白髪混じりのおじさんが居眠りをしていたけれど、さっき、もうひとつ向こうの車両の方に歩いていってしまったのが見えた。
 わたしは乗り物に強いほうではないので、流星くんの隣に座りたい気持ちは山々だけど、仕方なく吊革へ指を引っ掛けるにとどめている。

「スガワタリ、リュウセイ。これが本当の名前なのに。勝手にヒドリュウセイにされちゃった。」

 久しぶりに耳にしたその名前は、何だかもうよそよそしい響きで、今まで存在していたことが嘘だったかのように、彼を知らんぷりしている。
 そう。すがわたり。月美川のほとりで聞くことの叶わなかった、その名前。それで思わず「リュウセイ……?」と顔をゆがめてしまったこと。もしかして、よく似た別人だったのだろうかと、あのときは内心酷く焦ったのを痛くおぼえている。

「今僕が、母親とふたりで暮らしてることって、知ってるっけ」
「おばあちゃんから聞いたよ。ご両親、縁切られたんだね」

 彼は、こく、と無言で頷き、続けた。

「あのとき警察を呼んだのは、間違いじゃなかった。ようやく戸籍に×が付いたときは、ホッとしたよ。ほんとに、長かった」

 ふと目線を上げて、外を見ると、穏やかな海原が広がっていて、海の上を走っているみたいに感じた。

「困ることなんてなかった。住む町さえ違うけど、ほとんど変わりはないんだ。アイツが家に帰らないのは元々だったし、怪我してよく寝込んでいた母親に代わって、家事もやってたし。でも、そんな大事なことを勝手に決められたのが、今でも少し引っ掛かってる」
「でもそれは、きっと何か、わけがあったからでしょ?」
「わかってるよ、勿論。アイツにから僕らが見つからないようにするためのほんの気休めだってことくらい。もともと女姓婚で、頼れる人もいないから完全には変えられないし。
 ……あの男は僕を、自分の子供だなんて思っちゃいない。きっと模範囚になって刑期を縮めることなんてチョロいもんで、そのあと妻子揃って殺されかねないだろうね。だからわざわざ彼女は、スガワタリの名を捨てたんだ。中途半端に明陽から近いところに引っ越したくせして」
「流星……」
「別に、たかだか名前を変えたことなんかに対して怒っているわけじゃない。言いたいこと、解ってくれる?」

 わかるけれど、わからない。
 今までに見たことのないような目をする彼は、わたしにも何か訴えかけるようだった。

 僕は、そんなに信用のおけない人間か?

 耳のすぐそばで訊かれているみたいに声がする。心の声だ。今、上総ほたるとして生きている理由も、どうしてあなたの傍に居続けているのかも、すべて打ち明けてしまいたい。でも、そうしてしまったら、あなたは────。
 もどかしくて、苦しくて、たまらなくなった。
 おばあちゃんから緑の色が消えた真実だって本当は知っているのに、言えない。黙りこんだわたしを見詰めてくる瞳が、だんだん気遣わしげな色になってきた。もしかしたら今、わたしは笑っているのかもしれない。絶対にこの場所に踏み込まないために、踏み込まれないように、必死になって隠そうとして、限界を超えている。良くも悪くも、どうかしてしまっている。
 どうして此処まで無理ができるのか、自分でも理由はわからない。

「…………お昼、洋食屋さんと回転寿司、どっちがいい?」
「うーん、」

 あまりにも不自然な話題転換を持ち掛けてきた彼は、電車の揺れでさらさらとほつれていく前髪に隠すみたいに、わずかに眉をひそめていた。
 それに合わせてごく自然に答えたつもりのわたしは、どんな顔をしていたんだろう。

「流星くんが、行きたいところでいいや」

 外の景色を見やるふりをして、わたしたちがどんな風にガラスに映り込んでいるのだろうと考えてみたけど、こんなに明るい時間なのだから、何も見えるはずがない。
 無益なため息を、

「海があおくて綺麗だね」

昇華する。
 この痛みが、わたしの身勝手な願いを叶える為の代償だというのなら。最後まで、この気持ちと闘い続けようじゃないの。

Re:   の甼 ( No.38 )
日時: 2017/03/16 23:03
名前: Garnet (ID: oxhIolIx)









「誰も正しくはないし、誰も間違ってはいない。そう思ったね」

 目を瞑っていくらか考えたあとの私の言葉に、江実さんは涙を拭いながら顔を歪めた。
 些細な混乱を訴えるようなそれに既視感が纏わり付き……正確には自分の中に小さく渦を作っただけなのだが、そんなことを悟られるのは少々情けないので、ここは一つ、曲がりなりにも長くを生きた婆さんである私から意見させていただいた。

「あなたも流星も、ひとを守れるなら、自分はどうなってもいいと考えている。…………他人の事なんか、言えたもんじゃねえが」

 もう何十年前になるだろう。ひとを愛することを知ったのは。
 もう何十年前になるだろう。瞳の緑を掻き消したのは。自らすすんで人を傷付けるみちを選んだのは。
 このまちに初めての足跡を残したのは。自己犠牲というものが芽を出したのは。
 この世界に、おりてきたのは。
 もう、何十年前に、なるだろう。

「ただ、あんたたちの想いは素晴らしい」

 人間というのは不思議な生き物で、生きても生きても生き足りない。学んでも学んでも学び足りない。それなのに、神様はひとつ人生を廻る度に記憶を消してしまわれるのだ。時たま、その作業をうっかり忘れてしまうことや故意に省略するもあるが。それゆえ、幾ら輪廻を繰り返しても、人は必ず罪をおかしてしまう。現に私も江実さんも、流星も、こんなに"罪"を生み出している。もし地獄という場所があるのなら、既に要領満杯で地球上の人間は消え去っているし、対照として考えるところの極楽はさぞかしお暇でのどかであろう。
 申し訳ないのだが、この無限のサイクルに、一体何の意味があるのだろうか。その答えを導き出すことが不可能な我々にも、精々やってやれる極めて単純なことといえば────。
 ──────。
 ──────。

「それを、あなたがもっと、素直な言葉で伝えられたら。ふたりは、今よりずっとずっと、幸せになれんじゃないかい。……そんだけのことやでよ」

 そう、ただそれだけのこと。








 中学校の入学祝いだと、約2年ほど前の春休みに買ってもらってから使い続けているスマートフォンを手にとって、待ち受けを開いた。
 同級生の中では比較的珍しくヒビひとつ入っていない画面に、お行儀よく並んでいるアプリのアイコンたちは、夏休みに小学生の妹が色別にわけやがってからそのままになっている。妹曰く「こうしたほうが絶対きれいだもん」だ、そうだ。
 元に戻そうかと試みてはみたけれど、何度も挫折したしその度に彼女に直されるし、こうなったら待ち受けを初期化してやろうかとも思ったものだけど、そうするとまた自己流に修正するために時間を割くことになるし、そうしてもまたやられたのでもう諦めた。スタート画面のパスワードも、母さんさえわからないくらい長くしてあるのに、すぐに解読してしまうのだ。
 幸い、メールやSNSのプライバシーだけは守っていただいているので、今のところは彼女のホーム画面に悪戯し返すだけにとどめている。いくら春から塾通いを始めるからとはいえ、小学生のくせにスマホを持たされるなんて、しかも最新機種なんて生意気め。俺なんて小6の学年末テストで死ぬほど勉強してやっと買ってもらえたんだぞ。
 ……とはいえ、この間の中間テストの成績は最低最悪だった。誰に似たんだろうというほどの天才優等生の妹を前にすると、なにも言うことはできまい。期末テストでまたやらかせば、きっと没収されるだろう。だから、次は本気だ。次は。
 緑色一帯のアイコンたちの中から、いつもお世話になっているSNSアプリを見つけ出してタップする。通知が39件となっているが、そのうちの20件ほどはまだ既読を付けていない公式アカウントからのどうでもいいメッセージで、残りが人間相手のまともな返信を示すものだ。
 その中に、あいつの返信も混ざっていた。
 氷渡流星、とシンプルに、特に捻りもなく本名で名乗ってあるスペースは、他の誰よりもすっきりとしていて、その代償にさびしく見える。友達一覧からアイコンを開かないとわからないけど、少々画質の荒いアイコンは、いつか彼が教室で読んでいた小説の表紙を小洒落てななめに撮ったもの。未設定のままよりは幾分かましだろうよ、と設定したのだと思う。
 真っ先に、流星とのトーク画面を開いた。絵文字が全く見あたらない真っ黒な吹き出しの羅列は、昨日の夕方5時過ぎで途切れていた。
 その瞬間だ。何かがおかしいと感じ取ったのは。

<じゃあ、ポストにでも突っ込んでおいて>

 小説なんてまっぴらごめん、というような俺だったけど、最近流星が、ある文庫本を貸してくれた。

───これなら佑樹でも読みやすいと思うんだ
───ありがとう、ゆっくり読むよ

 真っ白な光が差し込む朝。リュックの中から大事そうに取り出したそれは、月美に引っ越してくるとき、車の中で読んでいたものなんだと教えてくれた。
 流星は、ここへ引っ越してきた理由や、それに関連することを前から詳しく教えてくれなかった。互いに初めて言葉を交わしたときも、

───離婚
 
のひとことで済まされたことをよーく覚えている。ぶっきらぼうに?いや、無表情に。そんな彼が、初めて自分から、心の奥の方を見せてくれたような気がして、嬉しくなってしまったのだ。俺にしては今日雪が降ってもおかしくないくらいのスピードで、ついに昨日読み終えることができたので、そろそろ自分も読み返したいと言っていた彼に、報告の連絡を入れた。そうしたら。

<じゃあ、ポストにでも突っ込んでおいて>

 この様なのだ。
 あんなに丁寧に扱っていた本を、思い入れのありそうな本を、読み返したくなるような本を「ポストにでも突っ込んでおいて」??
 おかしいにも程がある。
 言い方は悪くなるが、流星は休日に外へ繰り出すようなタイプでもないのだから、俺が家に直接ピンポンではいどうぞとしに行けば一番面倒臭くないし失くす心配だってないのに。
 それくらい、あいつなら解るはずだ。そんな意味もない冗談は言わない人間だ。

悠花ゆうか、ちょっと俺、出掛けてくる」

 行動に移そう、と考え始めたときにはもう、居間に寝転がっていた身体を無意識に起き上がらせ、2階にある自分の部屋からジャンパーとマフラーを引っさげて再び居間へ戻ってきていた。
 食卓でノートやドリルを広げる妹の悠花が、目を真ん丸にしてこちらを見ている。ばあちゃんの家に行ったとき、彼女が悠花にも俺にも「ちょい、ゆうちゃん」と呼び掛けたときみたいだった。

「え? どうしたの、急に?」
「あー、友達の………………学校に忘れ物! 宿題持って帰ってくるの忘れちまったんだよ! じゃ、行ってくるから」

 乱暴な足音が弾けるのも気にせず、テレビの前に置いてあったスマホをポケットに押し込んだり、マフラーをわたしよりもいい加減に首に巻いたり。そんなお兄ちゃんを、たいへん間抜けな顔をして目で追っていたら、いつの間にか、その姿は玄関の外へ消えていました。
 たとえ相手がきょうだいであろうと、最低限の挨拶はきちんとしなくてはいけません。かなりの時差をつくってようやくわたしの口から声が出ましたが、大事なことを思い出したもので、最後まで言うことはできませんでした。

「いってらっしゃ────あ、今日って学校開いてないんじゃ」

 日曜日と祝日は、先生たちもお休みなのだと、金曜日の帰りの会のときに担任の先生が言っていたのです。けれど、それは月美南小学校の話。お兄ちゃんの通う月美北中学校がどうかはわかりません。
 昇降口に鍵がかかっていないといいけどな、と思いながら、わたしは計算ドリルの続きを解くために、芯先が潰れてきた鉛筆を持ち直しました。終業式前日までが提出期限の宿題なので、今のうちに片付けてしまいたいからです。
 そうして、誰もいなくなった家の中で5問ほど筆算を解いたころでしょうか。廊下から、がさがさっと音がしたので、もうお兄ちゃんが帰ってきたのかと顔をあげたら、その正体はママでした。
 両手に抱えた重たそうな買い物袋の口から葱とごぼうがはみだしているのと、お魚の銀色なんかが透けて見えるので、きっと夕ごはんは和食です。パパは和食が好きだから、お友だちの引っ越しの手伝いをしている今日でも早く帰ってくるでしょう。
 パパはママに、いぶくろをつかまれている、らしいです。

「何か佑樹がすごい勢いで飛び出していったけど、何かあった?」

 息を切らしながらも、買ってきた食材をせっせと冷蔵庫に詰めながらママがきいてきました。
 どんなに忙しくても、相手を見て話してくれるから、わたしはママとのおしゃべりが大好きです。今も、ちょっぴり垂れた大きな目がわたしの目と合いました。

「うーん、友達の宿題を取りに行くとかって言ってた気がする」
「…………は?」

 ママはいつもちょっぴり、ちょっとだけ、男の子みたいな話し方をします。お兄ちゃんやパパと話すときは、もっと男の子みたいになります。今は"ちょっぴり"と"もっと"が綺麗に半分ずつの声でした。
 ……残念ながら、わたしは伝言ゲームが得意じゃないのです。

Re:   の甼 ( No.39 )
日時: 2017/04/08 23:11
名前: Garnet (ID: x03fhwcN)

*



 歩行者用の橋を渡りきり、堤防を下りた2つ先の角を左に曲がれば目的地だ。早速呼び鈴を押してみたけど何も聞こえないので、もう一度鳴らしてみたけれど誰も出ない。白いドアを控えめに叩いてもみたけど、中から全く人の気配はしなかった。11時も近いから、寝ているなんてことは彼らならありえないだろうに。
 母親は、平日なら基本的に夕方まで仕事で帰らないので一度しか会ったことがないけど、週末や祝日には家にいると言っていた。部屋がよく片付いているのも手料理が当たり前なのも、休みの日には親子で引きもり暇になるからだと、笑いながら。
 まずはきちんと彼の携帯に電話をかけてみる。出ればラッキー、程度の構えで。今繋がらなくたって焦ることはない。履歴は残る。呼び出し音の合間がやけに長く感じて、吐き出す息が光と溶けていく、真っ青な空を見上げてしまった。この様子では雪どころか綿雲さえ寄り付かないだろうに。そんな空をカラスが静かに横切っていった瞬間、試みは失敗に終わったことが人工音声で告げられた。電源自体が、入っていなかった。
 湧き上がる嫌な予感に心乱す間もなく、次にかける先は我が家。丁度3コールで母さんが出てくれた。

『佑樹? あんた昼はいら──』
「流星の母親の連絡先、教えてくれ」

 曇る声を遮って、最低限の用件だけを伝える。突然の要望にため息をつかれたのがよく聞こえけど、受話器越しにでも何かを感じ取ったみたいで。番号を送るからと言って電話は切れた。
 早速届いた新着メッセージに並んだ11桁の番号に触れて、再び通話アプリを呼び戻す。スマホを耳に当てて数十秒ほど経っただろうか。

『はい』
「こんにちは、佐久間佑樹です。母から番号を聞きまして」
『あら久しぶり。佑樹くんだったのね』
「突然すみません」
『いいのよ。どうかした?』
「流星に借りた本を返しに家へ行ってみたんですけど、誰もいなくて。連絡もとれなくて」
『それで私に? 丁寧にありがとね。ポストにでも入れてくれれば良いよ』
「いえ、それは駄目です。大切な物だから」
『そうなの?』
「引っ越してくるとき、ずっと一緒にいた小説だって」
『…………』

 柔らかな声が、ばちんと音を立てるように途切れた。流星のお母さんも過去を切り離したい考えだったのなら、二度も同じあやまちを繰り返したことになる。まずい。指先から変な汗が出てきた。

「あ、あの」
『……ごめんなさい、何でもないの! もしかして今、うちのアパートにいる?』
「はい」
『わかった、ちょっと待ってて』

 まさか今から来るんじゃ、というのはさすがに勘違いで、腰が抜けそうになる保留メロディが流れ始めた。
 今日は急に仕事が入ったのかもしれない。なんの仕事なのかは知らないけど、もし忙しい職人だったらとんだ邪魔をしたなと、そういうことが今は心配だ。
 なんてことは無駄な杞憂だったのだけど。

『お待たせ。実は私、柳津さんの家にお邪魔してるのよ。ことの次第をお話ししたら、是非此方にいらしてくださいって』
「えっ?」

 は?
 なんで。

『ああ、柳津さんって北区の』
「それは知ってますけど、あの、何で」
『できれば顔を合わせて話したいの。良い、かな。通話料金も掛かっちゃうだろうし』
「…………わかりました」

 ほんとにごめんね、じゃあまた。
 そう言って、向こうで江実さんが頭を下げるのが見えてしまったような気がして、流星のことを訊くのも忘れたまま電話を切った。それくらい不意討ちで意味不明で。
 あの婆さんとふたりに何の接点があるのだろう。家もそんなに近くないのに。またも考えるより先に、手が動いていた。

〈休みの日に流星見かけたことあるか? ていうか今日どっかで見てねーか?〉

 フリック入力でさっさと打ち込んで、クラスメート限定公開で投稿する。男子の中ではタイムラインをよく使うほうだと言われているし自覚もあるので、これなら自然な形で捜せるだろう。柳津邸には向かうがその後が不安なので、もしものときにおいとまさせていただく為の、簡単な口実のお役目でもある。
 氷渡宅から歩き始めて5分も経たぬうちに、聞き慣れた通知音がポケットにこぼれた。歩きスマホなんて器用なことはできないので、近くのガードレールに寄りかかって、軽く脚を絡ませながら通知を開く。

《みねこう:なんで?何かあった?》

 質問に質問で返された。いるよなあ、こういうやつ。

〈いや。休みの日とか出掛けてるのかなーって思って。珍しくずっと既読付かねんだ〉

 嘘も方便だ。

《そんなのお前が一番知ってるだろ笑》
〈はwおれだって毎日一緒にいるわけじゃねえしww〉
《草生やすなよ、悪かったからさ笑笑》
〈…草?〉

 何度もスマホを震わせるくだらない会話で、瞬く間に画面は黒くなっていった。結局お前は見たのか見てないのか。あきれ半分で訊いてみたけど、やはり見ていないとのこと。それから暫く、コメントは追加されなかった。
 そもそもこんなことを思い付いたのが馬鹿だったんだ、もう投稿ごと消してしまえ。と編集ボタンに指が掛かったタイミングで、スマホが震えた。

《くにょーしあゆ:そういえば、結構前の平日だけどお屋敷の近くで見かけたことあるよ。例の大学生たちが捕まった日。野次馬としていたわけではなかったぽいけど》
〈お前、そこいたの?!〉
《くにょーしあゆ:うん、塾帰り。パトカー半端なかった〜》
《Kaito:まじかよー全然気づかなかったwwwwあ、流星のことは俺もしらねっす》
〈了解、ふたりともありがと〉

 2人が"事件"の話題を持ち出すと、俺の返事の後、合図でもされたみたいに画面上がその話題で盛り上がりはじめた。犯人のツイッターを知ってるだの、メンバーのひとりが流星と同じ明陽出身だの。いつもならそこで〈お前らはひとのTLで何やってんだ〉くらい書き込むのだが、どうも今日は思考がそちらへ傾かない。
 もやもやが、濃くなっていく。悪いけどあの人に対して好意というものがこれっぽちもないのだ。だって──。
 事の発端を掘り起こすより前に、思いきり舌を噛んでしまって現実に帰った。涙が出るレベルで痛い。そういや、昼はいらないのかという母さんの質問に答え忘れていた。空腹に耐え嫌いな人間の家で舌の痛みを飼いながらの長話なんてそれこそ拷問だ。暴力だ。そこまで考えたところで反射的に首をふって、密度の低い頭の奥に押し込む。もう3年生になるというのにこれはいけない。
 と、その時。

《奥山 薫:おいクソガキ、くだらんことしてないで次のテストの勉強しなせーよ!【べーっ】
 …なんてねー笑 その流星って男の子なら、今朝学校いくときに土手で見掛けたよ。薫に合唱祭の時の集合写真も見せてもらったから、間違いない!【ピース】【キラキラ】
 奥山 さつき》

 絵文字なんて普段から滅多に見るものじゃないので、たかが3個の突然のスパンコールに目が痛くなってきた。最後の行に気がつくまで何度目眩のように視線をさまよわせたか。こんなことは初めてで、心中を察してくださったらしい彼女が恐ろしく速く、解説のコメントを続けて投下する。

《…ごめん、わかると思うけど、今のはお姉ちゃんにやられた。
 高校にお弁当届けにきて投稿に気づいたんだけど、私が人前でケータイいじってるのを面白がった彼女に取られちゃったの》
〈べつにそれは構わないけど。まださつき、近くにいるか?〉
《いる》

 文面からもわかる通り、奥山さつきというのは、クラスの学級委員長、奥山薫(おくやま かおる)の姉だ。奥山家は200年はくだらない位長く続いている家系で、町内に同じ苗字を見かけるときは大抵が親戚だ。薫とさつきはふたつ違いの本家の姉妹で、高校は代々の伝統で隣町のお嬢様学校に通うことに──と、ここまで話せば大体事情は察することができよう。

〈そのときアイツ、一人だったか?〉

 さつきの受験のストレスがきっかけで、親と殴り合いも同然になったところを目の当たりにしたことがある。万が一と春まで奥山と佐久間双方の両親に接触を控えさせられた為詳しいことは知らないのだが、なんの迷いもなく女子高進学に向け勉強を始めた薫に対してさつきのほうは事がすんなりと運ばなかったらしい。それを思うと、両親たちの苦労がしとしと滲んでくるほどよく解る。妹よりも姉と仲が良いから余計。
 なんで歳上のさつきとのほうが仲が良いかって、薫を見ていると悠花を連想してよくむかつくからだ。反対もまた同じに。
 そろそろかな、という頃、薫の超速返信の4倍ほど時間がかかって、どちらが打ち込んだのかはっきりと判らない返信がきた。

《いーや、佑樹たちと同い年くらいの女の子と一緒だったよ?わたしそんとき音楽聴いてたから、何を話してたのかとかはわからないんだけど。
 あ、その子目が青いの、綺麗だったなあ!あとすごくかわいかった!》

 青い目の、同い年くらいな女の子?そんな人が彼の交友関係の中に?
 生憎、知り合いの知り合いからも友達の友達からも、そういった話は聞いたことがない。転校生や帰国子女で町内の中学生なら尚更、小さな町の小さな話題になっていたっておかしくないのに。いや、まてよ。土手……河原……?女の子…………。
 この単語の並び、何処かで。







第三章 『ライアー・ボーイ』 完

Re:   の甼 ( No.40 )
日時: 2017/06/08 17:23
名前: Garnet (ID: UsiAj/c1)

第四章 『クライアー・ボーイ』





「彼女たち、どうします? 失敗しそうであれば、もう一度助太刀に参りますが」

 地に降り注ぐ太陽の光で出来上がったような美しい金の長髪をうねらせ、女は問いかけた。髪と同じ色のその瞳は、姿の見えぬある者を、見上げている。
 しかしその"ある者"は彼女を無言で制し、つかの間の沈黙の後、落ち着いた低い声色で言った。

「焦ることはあるまい。必要があれば、そなたを向かわせる……しばらくは静観するのだ」
「承知しました」

 女が右手を左肩へ軽く添えるように敬礼をすると、白さで包まれていた辺りは、合図でもかけたように快晴の空へ一変した。暑さも寒さも感じない、風も吹かない、鳥も飛行機さえも飛ばない青空へ。
 遠くにたなびく雲の連なりが銀嶺のごとく、強く輝き、目の奥をちりちりと刺される。

「わたくしは、あなたのような気高い乙女になれる気がいたしません」










 月美から明陽に向かう道中では、おそらく3番目くらいに賑やかな場所であろう駅で途中下車をした。お昼時にはちょっと早いけれど、ここを逃してしまうと後々困るだろうということで、意見が一致したからだ。
 窓辺がいいなという小さな願いは当然のごとく打ち砕かれ、人の行き来の多い、フロア中心部のテーブルをはさんで向き合う形となった。

「前に見つけた洋食屋さん、水戸に移転してたみたいで……ごめんね」

 まだ半分ほど残っているオムライスを前にスプーンを置いたわたしを見て、勘違いをしたらしい。向かい合って座る彼に、とても申し訳なさそうに謝られてしまった。

「気にしないで、そういうことじゃないよ」
「でも……」
「流星くんと食べるご飯は、何でも美味しいの。今は少しお腹いっぱいになっちゃっただけ」

 まだ彼が明陽にいたころ、父親と顔を合わせたくなくて逃げ込んだ先は、ありふれたファミリーレストランに改装されていた。移転先の住所や電話番号なんかが書いてある小さな紙を貼られた出入り口や窓辺に残る面影も、わずかなもの。こんなに変わってしまうんだと、流星くんは戸惑いの表情を隠しきれずに呟いた。普段独りごとなんて滅多に言わないというのに。
 当時はまだお客さんの出入りも少なく、呼び込みをしていた店員さんが、遅くにひとりで、地元民でもなさそうな制服姿のままやって来た流星くんを、半分保護するような形で迎え入れたらしい。事情を察した店長のおじさんが、帰り際に連絡先のメモをそっと渡してくれたなんて、わたしだったらきっと泣いちゃう。
 もとあった店は決して潰れたわけではないし、むしろ繁盛しすぎて拠点を変えたくらいなのだけど、こうも真新しい塗装やテーブルがわたしたちを取り囲んでいるのは、何だか生々しくて心に刺さるものがある。

「無理しないでね」

 そう彼は言い、温かそうなドリアの上に乗っかった半熟卵を、銀色のふちでわりと勢いよく開いた。…………の、だが。

「うわ、間違えた。卵は最後までとっておこうと思ってたのに!」
「もー、なにやってるの」
「笑うなよっ」
「ごめん、ごめん」

 やけになるように、手近に置いてあったチキンを頬張ったのを見て、ついに笑ってしまった。
 でもまあ、あるある。卵はもちろん、ショートケーキのいちごとか、モンブランの栗とか、プリンのさくらんぼとクリームとか。うっかり先に食べちゃったり食べられちゃったり、崩したり。って、あれ、甘いものばっかり挙げてる。
 例によって朝の出来事を思い出してしまい、今回は水だけの彼の手元を恨めしそうに見つめては、ぴっかぴかのテーブルに突っ伏した。笑っていたと思ったら突然前触れもなくへこむという、相手からしたらそれはもう意味不明な動きをわたしはしている。それでも流星くんは、楽しそうに笑ってくれた。

「……今度、絶対に連れていってあげるからさ」

 そのせいか、笑い声の合間に突然真面目な表情でなげかけられた言葉がわからず、聞き返しても何でもない、とはぐらかされてしまった。
 こういうことが、よくあるような気がする。それは言うまでもなく、わたしが誰かを、何者なのかを知っているからなのだけど。でも、たったそれだけにしては、瞳が憂いを帯びすぎているというか。
 ……まさか、秘密を知られちゃったんじゃなかろうか。
 そう考え始めたら、手が震えてきそうになった。彼を信じていないわけじゃない。それでも、これは大きな、そしてとても重い賭けだから。焦りを悟られてはいけない。
 ごくごく自然な振る舞いを続けられるように祈りつつも、目の前のお皿の上を空っぽにするまで、わたしはほとんど、自分から話しかけることはなかった。





「結構のんびりしちゃったね」
「そうだな……なんか、腰が重たいや」

 来店時にはほとんど聞こえもしなかったBGMが、意識せずともよく聞こえるくらいにはお客さんが減ってきた。さっきまで辺りに満ちていたたくさんの人の感情の渦が外に流れ出していくようで、思わず吐いた安堵のため息のつぎには眠気が誘ってくる。
 店員さんが、空になったデザートのお皿を下げていくのをぼんやり眺めていたら、流星くんに笑われてしまった。

「朝早かったのに色々なことがあったもんね。そういえば、早起きは弱かったっけ」
「ううん、むしろ強い方だと思うんだけど……おかしいな、眠くなってきちゃった」
「じゃあ、今のうちに少しだけ寝ておきなよ。店の人になにか言われても、うまくやるからさ」

 本来なら、だいじょうぶ、それよりも先に電車に乗ろうと、言うべきだし、そうしたかった。でも、瞼にのりでも塗られてしまったような、この粘り気のある睡魔には、どうしても打ち勝てそうにない。

「うん……ありが、と」

 そうしてわたしは、ソファの椅子に深く体重を預け、壁にもたれてしばしの間彼の言葉に甘えることにした。
 赤みを帯びて溶けていく視界の中で、どこの国の誰が歌っているのかもよくわからない音楽がフェードアウトしていく。おやすみ、という声がしたのも気のせいかもしれない。
 導かれるように、吸い込まれるように、短い夢をみることになった。


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