複雑・ファジー小説
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- ガラスの靴に、接吻を。 【完結】
- 日時: 2017/11/13 00:25
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: 0wn7Mpgp)
- 参照: 接吻は、くちづけ、とお読みください。
初恋が忘れられない。亜咲はそういう人です。そういうものを、詰め込みました。
【episode1】 >>01
【episode2】 >>12
【episode3】 >>29
*epilogue >>39(トーシ様よりいただいた挿絵を掲載)
□ ライアーブルー
>>40
□ あとがき >>41
*
完結 2016.11.18
*
親愛なる天使に。
- episode1 ( No.1 )
- 日時: 2016/11/16 16:30
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: BzAyvfNA)
あなたに会って初めて、こんな苦しみを知った。
あなたに会って、私は喜びを知った。あなたと笑いあって、私は幸せを知った。
知りたくなかった。本当は知りたかった。
ただただ無我夢中で、ガラスの靴に接吻をした。
あなたからもらった苦しみを消すために。あなたへの消えない想いを拒絶するために。
嗚呼、シンデレラ。どうか私のこころを砕いて。
影山える[Elf]
…氷系美人。有栖川家に住んでいる。複雑な前世がある。
有栖川 留衣[Al]
…好青年。えるの弟。純情。
千代田 千晶[Cheshire Cat]
…気持ち悪い。糸目。えるを気に入る。
木村 杏奈[Anastasia(Ana)]
…恋に恋する女の子。蛇に絡め取られる。
*・・・・・・・・・・・・*
○ episode1【Open the curtain of the story】
冷たい灰 >>02-03
a grin without a cat >>04-05
雨音に紛れて >>06-07
猫になりたい蛇のお話 >>08-09
雨、のち、気まぐれに赤。 >>10
番外編『赤毛のリン』 >>11
- 冷たい灰 ( No.2 )
- 日時: 2016/09/28 22:51
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: hd6VT0IS)
ぱちり、と目が覚める。真っ白な天井が見えて、嗚呼、そうだここは有栖川家なんだった、と思い当たった。そんな当たり前のことを、今更だけど。
ベッドに腰掛けて壁の時計を見ると、長針は6を指していた。どうやら今日は少し早く起きすぎたようだ。
まだ夢現に時計をぼおっと見つめていたが、睡魔を振り切って部屋から出た。階段を下りて、洗面所へと向かう。明かりが点いているので、誰かか起きているのだろう、と私は思った。
「あ、おはよー」
先客が、洗面所で歯磨きをしながら私の方へ明るく笑いかける。168cmの私よりも身長が高い彼は、とても綺麗な顔をしていた。
「……おはよ」
「なんだよつれねぇなぁ」
ぼそっ、と呟く。すると、少し赤っぽい髪が揺れ、むっとした表情で洗面所に迎えられた。
「アルが朝から元気すぎるだけじゃない?」
「ちがーう。エルフがテンション低すぎなだけだって!」
しゃこしゃこと赤色の歯ブラシを動かしながら、アルは叫んだ。本当に朝から元気だ。だからだろうか。彼の明るい姿を見ていると、どこか胸がざわつく。私はアルの歯磨きが終わるのを待ちながら、足でたんたん、と床を鳴らし、もやもやとした気分を吹き飛ばした。
「というか私のこと、エルフって呼ばないでくれる? 毎日言ってるけど」
「えー」
ぐちゅぐちゅぺっ、と歯磨きを終えると、アルはこちらに振り返り、笑う。
「だって、エルフはエルフじゃん。俺がアルであるように」
何でもないことのように、彼は言った。
エルフなんて、柄じゃない。それでもこうやって受け入れてしまっているのは、アルがそう呼ぶからかもしれない。
私は誰もいなくなった洗面所で1人、水色の歯ブラシを手に取った。
「エルフお姉ちゃんおはよっ!」
「ぐえっ」
スマホを操作してリビングのソファに座っていると、小さな物体が私のお腹に衝突してきた。案の定みぞおちにクリーンヒットし、しばらく悶える。
「……お、はよ、リン……」
「うん! くまさんも、おはようって言ってるよ」
リンの手には、茶色いクマのぬいぐるみ。まだ小学1年生のリンは、いきいきとしていて、可愛らしい。私から1歩後ろに下がって、リンはクマと共にお辞儀する。アルによく似た赤茶の髪が、ゆらゆらと揺れた。
「おー、リン。今日ははやいな」
「あっ、アルお兄ちゃんもおっはよー!」
ひとっ走りしてきたようで、シャワーを浴びていたアルがリビングにやってくるなり、リンが突撃する。アルはぎょっとしたけど、時既に遅し。リンはアルの足に掴みかかった。
「ん!」
「うーん、わかったわかった」
リンがアルのお腹に乗っかって、くまさんを鼻元まで近づける。アルは仕方ないなぁ、というように、リンの頭を撫でた。その姿に、私は『笑った』。
「相変わらず、笑わない子ねぇ」
黒髪の女性が、リビングに来るなりため息を吐く。私を冷たい目で見下ろすこの女性は、アルとリンの母親である、雫さんだ。
「少しくらい、笑ったらどうなの?」
不機嫌そうに呟く。途端にアルは立ち上がり、雫さんを睨みつけた。
「おい母さん、そんな言い方っ」
「私はあなたをわざわざ引き取ってあげたんですからね」
「わざわざって……」
「アル」
今にも掴みかかりそうな勢いのアルを止める。アルはこちらを見て、くしゃりと顔を歪ませた。
「まったく。あの人ったら、とんでもない『お荷物』を残していったものだわ」
頭にかああ、と血が上る。しかし、雫さんはそれに気づかなかったようで、ぷい、と後ろを向き、着替えるために自分の部屋に戻り始めた。
「エルフ……ごめんな」
「別にいいのよ」
こころとは裏腹に、私の口からこぼれるのは、冷たく澄んだ声。こころは怒りの業火で煮えくり返っているというのに。
脳裏にガラスの靴がチラつく。嫌だ。絶対に、あなたの世話にはならないんだから。
**
有栖川家に、父親という存在はいない。2年前、彼は癌で亡くなった。
とても、優しい人だった。私の頭をその大きな手で、初めて撫でてくれたのが、彼だった。
『ずっとずっと愛してる』
『あなたのこと、忘れないわ』
病室で雫さんはしきりにそう言っていたけど、最近彼女は毎晩お酒と香水の香りを纏って帰ってくる。つまりはそういうことなんだろう。
酷い人じゃなければ良い。私は朝食を食べながら、そう思った。
- 冷たい灰 ( No.3 )
- 日時: 2016/09/18 20:04
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: VhCiudjX)
- 参照: ガラスの破片が胸へと突き刺さる
時刻は8時。すっかり用意ができたため、私は家を出る。
「いってきます」
「え、やっべ」
ばたばたと騒がしい音をたててアルが階段から下りてくる。アルが後ろから走ってきていることは見なくてもわかったが、とりあえずまあ無視してそのまま歩いた。
「ちょ、待てよエルフ」
「キムタクみたいに言わないで」
持ち前の運動神経で、すぐに私の隣に辿り着く。まったく、一応6時起きのはずなのに、どうしていつもいつもこんなに準備に手間取るのか。
私ははあ、とため息を吐いた。
「家ではともかく、外でエルフって呼ぶのやめて」
「えー、だってもうだいぶ定着したし……慣れ?」
「慣れとかそういうものじゃないでしょ。万一学校でエルフなんて言ったら、迷惑を被るのは私なんだからね」
「エルフ」は何も知らない奴からすれば、私の「える」という名前と見た目でつけられたあだ名だ。彼がエルフと呼ぶ度に、私は奇異の目線にさらされる。
「はいはいわかりましたよエルフ」
アルは理解しているのか理解していないのか、制服のポケットに手を突っ込みながら、飄々と頷く。
私は眉をひそめて、
「アル!」
「ほら。エルフだって俺のことアルって呼んでんじゃんか」
「……私からあなたに話しかけることなんて無いからいいじゃない」
むーっ、と唸る私に、アルはかかかっ、と明るく笑う。こちらまで明るくなってしまうような、快活な笑みだった。思わず私の口元が緩む__はずもなく。ただ心にさざめきをもたらしただけで、表情にはなにも出なかった。
「お? なら俺が毎日話しに行ってやるよ」
「うるさいどっか行け」
それだけはやめてくれ。君は一応イケメンなんだから、いじめが起きそうだ。
「冷たーい」
「冷たくしたのは誰よ」
冷たくなるのは、あなただから。なんて、心の中で呟いてみた。
毎日毎日、こういった会話を繰り返しながら、私たちは登校する。アルと話していると、どこか心がざわめいた。
私は楽しい、のだろうか。アルと会話していて。
傍から見れば一方的にアルが話しかけているように見えるその光景を、私と同じブレザーを着ている周囲の少女たちは、どこか悪意のこもった目で見ていた。
***
「じゃあまた後でな、『える』」
「……絶対に来ないでちょうだい、『留衣』」
「『える』は恥ずかしがり屋さんだな」
「うるさいさっさと失せろ」
「おお、こわ」
にやにやと薄ら笑いを浮かべるアルと強制的に別れ、『1−8』の教室に入る。もちろん挨拶してくれる友だちもおらず、私は静かに窓際の1番後ろの席に座った。何人かの視線を感じたが、それはいずれも友好的なものとは言えない。いつもそうだ。私は協調性が無いから。
プラチナブロンドの髪、青い瞳、明らかに純日本人ではない顔立ち。なぜならば、私はハーフだから。
人は自分と違う者を受け付けないらしい。私はどこへ行っても異邦人。迫害の対象なのだ。もちろん、こんなに嫌われているのはこの容姿のせいだけではない。
「ねえ、ちょっとアンタ」
今日は珍しく、誰かが話しかけてきた。顔を上げれば、後ろに何人かを連れて私の机の前に仁王立ちしている、ケバい女子。確か、この自分がこのクラスのリーダーよ、という感じは、木村 杏奈だ。日本人特有の薄い顔立ちを気にしてか、ファンデーションやコンシーラーなどを使って無理やり立体的に見せようとしているのだろう。アイプチに失敗したのか、汚らしい二重瞼が重そうに瞬いた。
「……なに?」
ぶっきらぼうにそう返す。どこまでも冷たい私の声は、彼女の表情を歪ませるのに十分だ。
「なに、じゃないでしょ」
「……は?」
「少しくらい美人だからって調子にのらないでよ」
それは私のことを褒めてることになるけど? と嘲笑う。
しかし、滅多なことがない限り表情が変わらないように『作りかえられた』私は、よく心の中だけで感情表現を済ませてしまう。案の定表情が変わらなかったようで、目の前のケバい女子はむっ、とした顔をしていた。
「で、用件は?」
「……別になんでもないわよ」
いつまでも無表情の私にしびれを切らしたのだろう。彼女はくるりと踵を返し、配下の者と共に去っていった。
「まるであの人みたいね、あの子」
そっと呟いてみる。あまりにもその声は小さすぎたため、それが周囲に気づかれた様子は無い。
頭の中でそうね、と笑うシンデレラを振り払い、私はバッグから教科書を出す。
ふと窓の空を見ると、澄み渡るほど青の中に、黒い烏が見えた。
- a grin without a cat ( No.4 )
- 日時: 2016/09/18 20:56
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: VhCiudjX)
- 参照: 鏡の国のアリスを読み直さなくっちゃ
4時限目が終わり、おひるやすみ。私には一緒にお昼を食べる友人なんていないから、がやがやと騒ぐ教室を出て、中庭に向かう。照りつける太陽と、梅雨明けの兆しの見える青空。もうすぐ私の嫌いな季節がやってくる。自由に。私の気持ちなんて知らんぷりで。
中庭のベンチに座って、お弁当箱を取り出す。そこは私だけの特等席。お弁当を膝の上にのせ、ナフキンをゆっくり解いて、どことなく幸せな気分でオレンジの蓋を開けた。
何も入っていなかった。お弁当の中身はからっぽ。
「しくじった……」
思わず、弁当箱を掴む手に力が入る。
雫さんは不機嫌なとき、必ず私にお弁当を入れない。それは中学の頃から月に1度程度あり、もう慣れていたつもりだった。なのに。今朝の雫さんの行動から予測できなかった。最近雫さんは妙に機嫌が良かったから。まあ、理由はわかりきっているけど。怒りに正常な意識を奪われていたんだろうな。
だから駄目なんじゃない? と、シンデレラが笑ったような気がした。
「仕方ないか。購買に行こう」
はあ、としぶしぶ立ち上がる。ポケットの財布には確か500円が入っていたはずだ。購買のパンは高くても150円程度。お手頃価格のため、スタートに出遅れた私は無事にパンを手に入れることができるだろうか。そんなことを考えつつ、私は走り始めた。
**
「……これはもう無理ね」
案の定、購買は混んでいた。そのほとんどが男子で、あたりにむわん、とした汗の臭いが立ち込めている。……臭い。
私も女子にしては身長は高い方だけど、やっぱり男子とは体格が違う。男子に力で敵うわけがない。
諦めて帰ろうとしたとき、
「お困りですか、お嬢さん」
嫌な声が聞こえた。湧き上がる不快感に、そのまま振り返りもせず、中庭に戻ろうとする。
「いやいやいや、ちょっと待ってって!」
声の主が、意外な速さで私の前に躍り出た。ベージュのベストと右耳の2つのピアスがきらりと光る。
「……どいて、千晶」
「気軽にチェシャ猫とお呼びくださいませ」
「……」
「冗談だってば冗談冗談」
明るく染められた髪に手を当てて、チェシャ猫が平謝りする。私よりも低い位置に頭があるため、どちらかといえば茶目っ気に溢れていたけれども。
「まったく……お嬢さんは冗談が通じないのかな」
「そんなことわかってるわよ。それより、その呼び方やめてって何度も言ってるでしょう。不快なの」
「そんなこと言っちゃって。本当は嬉しいくせに」
「そんなわけないでしょ」
普段ほぼ表情を変えることのない私は、わざと眉を吊り上げて、いらいらを伝えた。しかし、彼はずっとにやにや笑いを維持し続けながら喋る喋る。アルの快活な笑顔とは違い、どこか裏のある笑顔。私は、いつもいつもこうやって何かと絡んでくるコイツのことが嫌いだった。
「もういいから、あっちへ行って」
まるで空気のようにまとわりついてくる彼を振り切って中庭に戻ろうとすると、
「おやぁ、本当にいいのかな?」
「……なにが?」
くくくっ、と気色の悪い笑い声をあげて、彼がどこからかパンを取り出した。私は思わず立ち止まる。ぴらぴらと彼の手で揺れるパンは紛れもなく、1日1つ限定の『特大焼きそばパン』だったのだ。
「なんでそれを……」
「いや、もしかしたら君のお弁当の中身がからっぽで、パンを買いに来るんじゃないかなあって」
「なに、それ」
「予感だって。チェシャ猫の直感」
ひひひっ、と唇の端をつりあげながら、彼が私との距離を詰める。
「欲しいんでしょ」
「……別に」
「お腹が空いてたまらないんじゃあないの?」
ぐっ、と言葉に詰まる。彼の言う通り、私のお腹はもう限界だ。気を張り詰めていないと、1番聴かれたくない奴に音をきかれそうで、私は顔を顰めた。
このままこんな奴にずっと絡まれなければならないのなら……と、私はパンを奪う。
「……いただきます」
「言ってることとやってることちょっと違うけどね? まあ、よろしい」
にやにや笑いをそのままに、彼は物理的に大人しく引き下がった。
「ご贔屓に」
「あんたの世話になんてならないわ」
「それはどうだろうね?」
途端に、彼の雰囲気がガラリと変わる。少し俯きがちにこちらを睨めつけるかのように笑う。長い前髪に隠れたその笑みは、歪んだ三日月の形をしていた。
「君はいつか僕に頼らざるを得なくなるよ、絶対に」
まるで獣のような獰猛な笑みに、私はごくり、と唾を呑み込む。彼の行動の節々から、いつもの軽薄な雰囲気が少しずつズレを生じ始める。鏡に映された彼にヒビが入っていく、今の彼は、まさに鏡の向こうのもう1人の彼だった。
「じゃあ、またね」
ひらひらと手を振り、彼は去っていく。
a grin without a cat(猫の無い笑い)を残して。
私の周りに、いつまでもいつまでも、気持ちの悪い笑いを残して。
- a grin without a cat ( No.5 )
- 日時: 2016/09/18 21:01
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: VhCiudjX)
チェシャ猫の笑いのように、気持ちの悪い空模様だった。ニュースでは梅雨明けを告げていたのに、なぜか曇り空で、雨。もちろん傘なんて持ってきていない。少しいらいらしてスマホで天気予報を確認すると、「夕方から雨」と読み取れたので、私は思わずスマホを投げそうになってしまった。
「これじゃあ帰れない……」
かれこれ10分は下駄箱で立ち往生している。周りの生徒たちは私と違ってきちんと天気予報を見ていたようで、次々と傘をさしながら楽しそうに飛び出していく。その姿はとても無邪気で、少し羨ましかった。
雨は一向に止む気配が無く、それどころかだんだんと強まってきていた。時刻は午後5時半。部活に入っていない私の門限は6時だ。それまでに帰らなければ酷く叩かれるので、それだけは避けたい。ここから有栖川家までは約20分ほどかかる。そろそろ出なくてはならなかった。
「……風邪、引いちゃうな」
自分の身体が思っているよりも虚弱なことを知っているので、雨の中、なかなか走り出せない。走って無事に家に帰れても、風邪をひいてしまうだろう。そうしたら、また打たれる。それも、アルのいないところで。
「どうしようか」
呟きが雨に溶け、水たまりになる。考えても考えてもBad Endしか思いつかなくて、ため息をついた。傘立てを見て、ここから傘をとっていこうか、なんて考えみる。だけど、それも一種のBad Endだ。泥棒への道のりなんだから。
「エルフー!」
そのとき、後ろから大声で誰かに呼ばれた。私のことをエルフと呼ぶのはこの学校で1人だけ。ほら、アイツだ。
アルはなぜか制服を着ていた。今日はバスケ部の部活があるはず。それなのに、なぜか彼は息を切らしながらこちらへ来て、私の前になにかを差し出した。
「ん」
「……なに?」
「なにって、傘だよ」
その言葉に、驚いて彼を見つめる。それは確かに傘で、それも折りたたみ傘だった。ざあああ、と耳障りな音が、この空間を支配する。
「……なんで?」
「いや、お前傘持ってってないだろうな、と思って、渡しに来た」
「……そう。助かったわ。ありがとう」
そのままばっ、と傘を奪い取り、足早に下駄箱を出ようとする。しかし、
「待って」
傘を持っていない方の腕を掴まれ、私は思わず傘を落としてしまった。アルはバランスを失ってふらつく私を支えるように、こちらを振り向かせる。
「……なに?」
「そうじゃなくって……」
いきなりのことに動揺しつつもそれが表情と声に出ないことに安心感を覚えながら、私は彼を見つめる。彼の燃えるような髪が風に揺れ、なにかをためらうかのように唇がぱくぱくと動いた。
「はっきり言ってよ」
いつもより強い口調で囁く。アルは私をまっすぐに見れないようで、どことなく視線が合わない。しかしその言葉で覚悟を決めたのか、そっぽを向きながらも呟きはじめた。
「……傘は俺も1つしか持ってないんだ」
「なら、なんで私に」
「一緒に、帰ろうと思って」
しん、と雨までもが止んでしまったような心地がした。早鐘を打つ心臓を抑えながらもアルを見ると、彼は耳まで顔を真っ赤にしていた。
アルはやっぱり可愛いな。
「……いいわ。一緒に帰りましょう」
「ほんとに!?」
私が頷くと、彼の顔がぱああ、と輝き始めた。まだ頬は紅潮していたが、それは多分、ここに急いで来たためだろう。逸る心を抑えつつも、傘を拾ってさす。
「そういえば部活は?」
「ん、サボってきた」
「ダメじゃない」
「いーのいーの。俺、エースだから」
「エースだからこそ、でしょ」
雨の中、私たちは歩いていく。
彼にとって、私は姉。もうとっくの昔に私が実の姉じゃないことくらいわかっているだろうけど、それでも小さい頃から一緒に暮らしてきた家族だ。
けれど。いつからだろう。アルを愛おしいと思うようになったのは。はじめは私よりも低かった身長がだんだんと抜かされていって、私はやっと、アルは男なのだと気づいた。
この気持ちを気づかせてはいけない。有栖川家を壊してはいけない。
だから私はキスをしたの。ガラスの靴に。
折りたたみ傘は2人で入るには小さくって、私の肩に雫が落ちた。アルはすかさずそれに気づいて、傘を私の方に寄せる。
「……ありがとう」
「ん」
唇を尖らせて、アルがまたそっぽを向く。そんな仕草も可愛い、なんて思ってしまう。
でも今は、どうかこのままで。冷たく動かないこころを手に入れさせて。
後ろの方で鳴った、ばしゃん、と音に気づかず。