コメディ・ライト小説(新)

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透明な愛を吐く【短編集】
日時: 2018/09/02 13:33
名前: あんず ◆zaJDvpDzf6
参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel2a/index.cgi?mode=view&no=4705

 この透明な指先で、君への透明な愛を綴ろう


***

こんにちは、またははじめまして。
あんずと申します。

明るい話から暗い話まで、何でもありの短編集です。続きやおちはあったりなかったりします。
更新速度は遅めですが、楽しんで頂ければ幸いです。

*お客様*

 *Garnet 様
 *一青色 様
 *いろはうた 様

2016年4月9日 執筆開始


*目次(予定含)*

▼透明な愛を吐く >>008

▼青い記憶に別れを >>004

▼君の消えた世界で >> ???

▼悪役と手のひら >>006

▼春を待つ、 >>007

▼降りそそぐ、さようなら >>009

▼向日葵の揺れる >>012

▼水飴空 >>015

▼星の底 >>016

▼憧憬 >>017

***

*その他*
現在、ダークファンタジー板にて「シオンの彼方」を執筆中。

『白銀の小鳥』のリメイクを始めました。
リメイク終わり次第旧コメライ板の『白銀の小鳥』は削除する予定です。

▼2017.11 旧コメライ板よりスレッドを移動しました。

▼2018.3.18 #1推敲版を再投稿しました。

▼2018.3.28 #3を一時削除中にしました。


✱受験の為、今年中の更新を停止いたします。

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Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.14 )
日時: 2018/06/23 14:42
名前: あんず


 > いろはちゃん
 
 いろはちゃんお久しぶり! こちらこそ、返信がとても遅くなってしまい申し訳ないです。ごめんね…!

 ガラス細工みたいって言ってもらえてとっても嬉しい。私は色々と使うモチーフが固定化してしまってて良くないと思っているけど、それでもガラスみたいな作品を目指してるから良かったです。
 透明な愛を吐く、は一度書き直したものだけど、私もこっちのほうが気に入ってます。でもちょっとくどかったかな? と思う…。空気感を一貫させるのが大変だったから気付いてもらえて感無量です!ありがとう。
 
 更新頑張ります。いろはちゃんも体調にはお気をつけて!
 
 コメントありがとう!

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.15 )
日時: 2018/07/31 22:47
名前: あんず

#8 『水飴空』
 
 
 雨上がりの空をのぞき込んだ。地面に溜まった青。水たまりに映る空は鏡のように私を写していた。見飽きた顔がこちらを見つめ返している。お気に入りの長靴の底を見せ合うように、彼女と足を重ねていく。水面の私を踏まないように、鏡合わせに歩けるように、顔は真っ直ぐ前を向く。真っ青。夏だ。夏の色と、滝のような雨の名残が、今この空間を日常から切り離している。歩く先に少しずつ波紋を描きながら水を踏む、踏む。雲の眩しい鮮やかな空を進んでいる。上も下も空。私が踏みしめる、曖昧に硬いコンクリート。

 並行世界みたいだねえ。もごもごと呟きながら目を閉じる。道はまっすぐ。何度も通った驚きのない場所だ。少しくらい見えなくても大丈夫だろう。ね、わたし。足底を合わせた向こう側に問いかける。そうだね、と声が返る。そうだよ。私達にとって通い慣れた暑い暑い舗装道路だ。ゆっくり行こう。踏みしめながら、車には気を付けて。そっちは晴れてるかい。いや、そっちも雨上がりかな。だから私も、わたしも、鏡合わせに歩けるんだ。買ったばかりの長靴の底で踏みしめる。向こう側の空。
 
 例えば、それはパラレルワールド。例えばそれは、もう一人の私。違うわたしが息をして、別の雨に打たれて、おんなじ水たまりを覗き込む。そんな妄想、かもしれない。誰かに話しても笑われるだろうな。それもいいな。変な子だと思いながら、皆も少しだけ雨上がりを気にするかもしれない。鏡の向こう、きっと私を思い出して。それでも水に映ったあなたのことは、私とわたしの秘密のまま。ね、次の夏、皆はそのことを忘れているんだ。
 
 そっちは暑いかい。こっちは驚くほど暑いよ。まだ七月も終わってない。蝉も鳴くのをやめてしまう。蚊も飛ぶ羽を休めてしまう。今度の夏は、ひどく音がしない。熱と、光と、体から抜けていく水分だけが夏の証だ。蝉が鳴いたってうるさいだけだし、蚊が飛んだって煩わしい。それなのに消えると何故だか寂しい。そう、思っているくらいが丁度いいのかもしれない。恋しく思ったまま夏が過ぎていく。また一年が終わってく。私もぼんやり、暑さを滲ませている。
 
 雨は急に降った。湿度ばかりが高かった梅雨の代わりのように、バケツをひっくり返したように降り注いだ。花火大会も無くなった。今年一番のはずだった浴衣は、少し切なく部屋の隅に蹲っている。ごめんね、着てあげられなくて。神様も疲れてしまったかな。それでも見捨てないでほしいのだけれど。暑すぎる夏は、鳴かない蝉は、花火の上がらない夏は、夏では無いみたいだ。もう少し、過ごしにくくてもいいかな。蝉の声に耳を塞いで、蚊取り線香に火をつけながら、花火を見よう。ね、それも素敵でしょう。足先に声を落とす。
 
 そうだね、声が鳴る。そうだよ。息を吸う。
 
 水たまりが途切れる。目を開く。振り返ったそこに、まだ向こう側は映っている。地面に落とし込んだ様な空の色。お気に入りの長靴。少しだけ揺れる私の歩いたあとに、小さな波紋が見える。それじゃあばいばい。また。雨が降ったら出会おうね。次は、もっと夏らしい夏に文句を言おう。蚊取り線香を焚いても蚊に刺されただとか。蝉の声はうるさいだとか。花火と浴衣の帯の色だとか。そんな妄想、想像、現実、どれでもいい。だからきみに、話に来よう。楽しいことがあった次の日に雨が降るといい。ね、そうでしょわたし。
 
 いつのまにか虹が出ている。歩いてきた道の奥、最初の水たまりはすでに乾き始めている。ラムネでも買って帰ろうかな。暑すぎる夏の、せめてもの思い出づくりだ。瓶のやつがいい。少し吹きこぼしながら開けて、ビー玉越しに夏を見よう。ね、なんだか風流でしょう。 
 そうだよと呟きながら、長靴の水を高く高く弾いた。暑い。まだ、きっとこのまま、夏だ。終わりは遠い。だから憂鬱なのに胸が高鳴る。雨が降ればわたしに会える。鏡越しよりそれは素敵だ、多分。そうだといい。
 
 風鈴が、鳴る。麦茶を入れたグラスのような音。風が出てきたらしい。こればかりは夏らしいなと、暑すぎる太陽に思わず笑いかけた。
 

✽✽✽


猛暑に魘されて書きました。暑いと蝉も蚊も活動量が低下するそうです。

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.16 )
日時: 2018/07/30 19:01
名前: あんず

#9 『星の底』
 
 
 笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う。また、夏が来る。たったそれだけのことで、心臓が早鐘を打つ。笹の葉よりももっと上、そこに黒よりも深い夜色の空が広がっている。
 
「何か書く?」
 
 後ろから聞こえた声に首を振った。紙をつまむ指を放して、弾く。その瞬間、誰かの願い事を載せた紙切れが勢い良く宙を舞う。ぷつり。あ、と声を上げる間もなく、そのまま風が攫っていく。幸せになりたい、そう刻まれていた誰かの文字が遠く遠くへ飛んでいってしまう。瞬きの間に。
 
「あーあ。何してんの、嫉妬?」
「違うよ」
 
 柔らかそうな長い薄茶の髪が、ひょいと視界の端に現れる。細い指先がじっと短冊の消えた先を指差した。それから笑う。誰かの願い事、もう空まで届かないよ。そう言って、あまりにも嬉しそうに笑う。耳に響く優しい声。誰かの願い事が息を止めた。きっと、そのことが嬉しくて仕方がないのだ。
 輝くように笑いながら、その真白な手が短冊を吊るした。薄いピンク、彼女が好きな色。そこに書かれているだろう、可愛らしい丸文字を覗き込む。やめてよ、と頬を膨らますような声がした。それと同時に、黒インキで書かれた文字が目に入る。そこに書いてある言葉に、思わず笑った。口元が緩んで息が漏れた。それから、そばにあった短冊とペンを手に取る。
 
「やっぱり書く」

 何それ、とからかうような声を無視して、細いペン軸を握りしめる。願い事は本当は、いくつもいくつもあった。けれどここに書く言葉は一つ、もう決まった。
 目を閉じて、軽く深呼吸をした。開く。紙を走っていく黒インキ。少しだけ鼻につく、油性ペンの匂い。真後ろの海岸から聞こえてくる、磯の匂い。誰かが捨て去った、数本の酒瓶から漂うアルコールの匂い。
 きゅっと掠れた音を立てて、ペン先を離した。きれいに真ん中に並ぶ文字に満足して、短冊を夜空へと掲げてみる。薄いピンクの向こう側に、遥かな濃藍が透けていく。私の手の中の紙切れを覗き込んで、彼女はなんとも言えない、苦笑にも似た表情をした。その顔を見て私は笑う。得意げに。手元の短冊が、風にさらわれそうに震えている。
 
「それでいいの、願いごと?」
「うん。これがいいの」
 
 何か言いたげな顔をして、はくはくと口を動かしてまた閉じる。どこか滑稽な彼女を尻目に、私は背を伸ばして笹の葉へ触れた。私が届く、一番高いところへ短冊をくくりつける。風になびく、二人分の短冊。こうすれば夜空からもよく見えるでしょう。そう言うと、ようやく彼女は口元を緩めた。
 
「よくばりめ」
 
 それにつられて笑いながら、額を小突く。別にいいのだ。よくばりでも、傲慢でも。日頃の行いからしても、天の河が私の願い事を聞いてくれるとは思えない。だからせめて、一等よく見える場所へ飾っておこう。思いがけず、天上の彼らに届いてしまうくらいに。ずっと遠くに。
 
「行こうか」

 呟きとともに、そっと重ねられた手を握り返す。うん、一言返事をして、風に吹かれる緑に背を向けた。人気のない海の家のような廃屋。遠い昔には人がいただろう寂しさが、その場に澱んでいる。角に立てかけられた、とっくに古びたこの笹は、幾人の短冊を吊り下げただろう。どれほどの人が、この緑に願ったろう。
 さくさくと軽い砂を踏む。繋いだ手を揺らしながら、呼吸の音ばかりが小さく響く。目の前に広がる海は、真っ暗に私達を待っていた。
 
 ✱
 
 一緒に死のうと、誓いあったことがある。もう昔々、私達が、あの鬱屈とした青い場所にいた夏。大人になった気でいたのに、制服を身にまとった窮屈な時間。陰湿になっていく青春。きっとあの頃、みんな苦しかった。進路に悩み、友人に悩み、何もかもに悩み、空気は澱んでいた。

「二人で、かえろうね」
 
 彼女の細い指が、私の手を握りしめていた。その白さと、食い込んだ爪の丸みばかりを覚えている。かえろう。帰る、返る、孵る、還る。彼女の声はゆっくりと滲みて、私の脳みそに絡みついた。死にたい、よりも、もっとずっと穏やかな約束。この息の詰まる夏から、逃れるための言葉。遠くへ、優しい場所へ。見つめる目に一つ頷いて小指を絡めた。懐かしい旋律とともに、約束が紡がれていく。見えない糸が私達を繋いでくれる。
 その約束は、危うい年齢の誰もがするかもしれないありふれたものだった。死にたい。そればかり呟いて、手を繋いでいたかった。そして私達の場合、少しだけ、他の人よりも本気だった。それだけだった。だから約束はまだ息をしている。何故だか、そう確信していた。いつの日か、いつか、かえるのだ。
 
 その「いつか」は、唐突に来た。中身のない、空っぽの自分の腕を抱きしめた瞬間。自分を満たすものが潰えた感覚。ああやっと。縋るものはもう、あの言葉しかなかった。古びた約束が脳内を埋め尽くす。
 痛む体を引きずって、震える手で握りしめた金で切符を買った。手のひらに移った金属の匂いが鼻を刺す。訝しげにこちらを見る警備員から目を逸らしながら、人気のない改札を通る。機械から戻ってきた少し温かい紙切れを、ぶかぶかのスウェットに大切にしまった。この小さな切符が、私をずっと先まで連れて行ってくれる。そう思えばポケットが少しだけ、温まる気がした。
 薄暗いホームのベンチに座ってから、ようやく携帯の電源をつけた。ぼうっとした人工的な光で腫れた腕が闇に浮かぶ。あんまり良い眺めじゃない。長袖でも持ってくるんだった。半袖を無意味に伸ばしながら、なんとなく携帯を持て余す。小さく震え続ける指で、ボタンを一つずつ押していく。時代遅れのカチカチという音が心地よかった。
 
──かえりたい。
 
 たった一言送った。果たしてまだ使えるのか、それすらも分からないメールアドレス。SNSのアプリばかりのこのご時世、お飾りの電話帳の片隅でくすんでいた文字列。もう何遍も見返して、いつしか覚えてしまった。
 返信は、きっかり五分後に来た。心のどこかで期待をしていて、それでも来ないかもしれないと怯えていた。それなのにあっさりと、私を待っていたようにメールは届いた。体が大きく震える。届いた返信を覗くのにまた、長い長い時間をかける。息を吸って、吐いて、それでも決意が固まらないから目を閉じる。そのまま、ボタンに指を滑らせた。カチリ、と伝わる小さな音に薄く目を開ける。
 
──かえろう。

 彼女の文字が、そこに静かに並んでいた。戻ってきた言葉に視界がぼやける。安堵にも似た、どうしようもない寂しさで気持ちが悪い。それでもほっとした。画面の向こう、どこかにいる彼女の時間もまた止まっていたことに。私達は同じ時間、ぐずぐずと這いつくばって生きていたのだ。確かにあの約束は息をしている。
 何かに祈りたかった。ひたすらに許しを戀いたかった。もしも返事が来なかったらどうしていただろう。一人きりではきっとかえれない。夏の日からは逃げられない。分かっている。だからこそ今、だれかに祈りたかった。
 示し合わせたように来た終電を踏み締めながら乗り込んだ。ぼんやり光る画面を、滲む視界で何度も読む。並ぶ文字が消えないように、何度も何度も。ふと、窓の外へ視線を投げる。誰もいない車内が規則的に揺れる。生温いエアコンの風が足元を撫でた。彼女へ近づいていく。現実が遠く褪せていく。
 夏が来る。もうすぐそこまで、迫っている。
 
 ✱

 足元に揺らめく水が肌を包んだ。風は生温い吐息のように吹いている。生きているみたいだ。想像よりもずっと温かい海を、手を繋いで歩いていく。転ばないように一歩ずつ。水面は闇の中でもお喋りに煌めいている。月明かりがこんなにも夜を照らすことを、初めて知った。
 
「宇宙に願って叶うならさ、海だって、叶えてくれそうだよね」
 
 鼻歌まじりに聞こえてくる機嫌の良い呟き。波の音がざあざあと響くなか、その声はよく通った。目線は海に。なんとなく追ったその先の水面に、思わず口をつぐむ。宇宙だ。鏡面のように光を跳ね返す濃藍に、天の河がそのまま映り込んでいた。急に足元がなくなったような不安と、星に向かって沈んでいくような錯覚。上と下、手を伸ばした先でさえ、どこまでも宇宙が透けている。二人、星の中を泳いでいる。
 
「……叶いそうだね」
 
 そうでしょ。今度は彼女が得意げに笑う。ふやけた柔らかい指先に力が篭もる。海がひたひたと、腰の高さまでも濡らしていく。砂浜はすでに遠い。足元が今にも滑りそうになる。何もない。思わず震えて、それでも漠然とした安堵が胸に広がっていた。だから大丈夫だと、根拠もなくそう思う。
 
「ね、どうせなら海にも願い事しようよ」

 突然、彼女が顔を上げた。良いことを思いついたとでも言うように手を叩く。
 
「さっき笹に吊るしたのに?」
「星にも海にも伝えたほうが叶いそうでしょ」
 
 よくばりめ。さっきの仕返しに言い返した。弾けるような笑い声が二つ、浪の上を滑っていく。つられるように空を見上げた。滅多にお目にかかれない、教科書の写真と似た天の河。満点の星空というのは、こういう空を指すんだろう。綺麗だなんだと言うよりも、吸い込まれそうで怖くなる。宇宙は思っているより美しくなんかないよ、そう呟いて頬が緩んだ。この気持ちもまた、安堵だった。
 幸せになりたい、誰かが書いたあの願いも、海へと落ちていっただろうか。幸せになりたい。途方もなく大きな、漠然とした祈り。願った誰かが幸せだといい。自分のために思う。私の願いも彼女の願いも、同じように海に溶けて、きっと叶うといい。私だって、幸せになりたかった。
 
 いつしか自然に足が止まった。ブイからブイへ、張られたロープの少し先。もう胸元近くまで水が揺らぐ。それをじっと見つめながら、握った手を痛いほどに繋ぎ直す。ここから先は、戻るための場所ではない。かえるための入り口。一つ踏み出せば足場がないことを、私も彼女も知っていた。そのために来たのだ。
 かえろう。どちらが先ともなく、おんなじくらいの高さの肩を抱きしめる。あの古い夏から少しも変われなかった、細い肩だ。温もりはまだ残っている。互いに縋りつくものはもう、きっとそれしかない。ゆっくりと視線を合わせる。思わず微笑んだ。彼女も。
 とぷん、と拍子抜けするほど小さく柔らかな音を立てて、視界が染まった。
 
 夏が絡みつく。待ち構えていたように、それは私達を縫い止めようとする。逃さない、と言われた気がした。行かないでと、乞われた気がした。それでもその手を振り払って、宇宙へ、飛び込む。
 
 生温い水は、まるで胎内のようだった。覚えているわけがないのに。それでも私は、たった一人の胎内から生まれた。生温い羊水に浮かんで夢を見た。そうやって遠い昔、私も彼女も水に溺れて生まれたのだ。あの温かい場所へかえりたい。孵りたい。そう願ってやまないのは、何も死にたいからじゃない。あの世には行きたくない。この世にも生きたくない。だからかえる。きっと、ただそれだけのこと。
 ごぽり、泡が昇っていく。鼻から、口から、濁った酸素の代わりに透明な水が満ちていく。苦しくて涙が出た気がしたけれど、もう何もかもぼうっとして、それも気のせいだったかもしれない。全部が塩辛くて、甘くて、涙のようだった。わたしは今、涙に溺れている。かたく抱き締めあった手を一つ離して、彼女の腹に右手を乗せた。薄い腹はきっと、すぐに水に押しつぶされてしまうだろう。それでもまだ温かかった。母のようだなと、似ても似つかない、この目の前の女の腹を懐かしく思う。
 
「──、」
 
 彼女の唇がゆっくり動く。もう逃げるほどの空気の塊もなくて、その動きは薄暗い中、月明かりによく映えた。にっこりと笑みを形作る。私の唇も不器用に笑う。もう一度、願い事を呟いた。短冊は今もきっと、あの寂しい緑に揺れている。水はもう、ずっと生温い。
 ぐるぐる、ぐるぐる、頭の中を水が洗い流していく。溶けてしまいそうだ。抱き締めた腕、おんなじ体温。もう一度強く手を握った。おやすみ。囁くように開けた口の中で、水がふよふよ揺れている。海月になったみたいだ。本当になれたらいい。きっとどこまでもかえれる。私達は海の月。夏だってきっと、ここまでは来れまい。そう思うと途端に瞼が重くなった。その中を、誰かをあやすように呟きながら漂う。かえろう。
 今度こそ上も下もない。ただ溶け合うように落ちている。逆さまの星の中をかえっていく。触れた肌は柔らかい。
 
 ひどく、こうふくな気分だった。
 
 
✱✱✱
 

 雑談板の小説練習スレッド「添へて、」さんにて投稿させて頂いた短編です。夏っぽく海のお話です。素敵なお題ありがとうございました。

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.17 )
日時: 2018/08/05 18:15
名前: あんず

#10 『憧憬』
 
 
 夏は死の匂いがします。鮮烈なほど目に染みる青空を覗き込むとき、頭に響く蝉の声に耳を塞ぐとき、火で炙ったようなアスファルトを踏みしめたとき。そこに奴らが潜んでいるのです。こっちを向いて、私に手を振るのです。それに振り返そうとは思いませんが、視界の端に留まるくらいにはそばにいたいのです。いつの日か手を取ったらきっと連れて行ってくれるように。
 目の端に死は滲んでいます。黒い染み、みたいなそれが、じわじわと夏の空を、蝉を、風を暑さをアスファルトを、私、を殺してしまうのです。私はそれを待っています。そんな妄想をしながら今日も道端の小石に躓きました。死にたい、と思わず呟いたのはこの夏何度目だったでしょう。良くないなとは思いながら、もうこれは私には直すことのできない癖のようなものなのです。違うのでしょうか。でも今の私にはどうすることもできません。膝に突き刺さる砂利のような小石が私を少しずつ削って、血液を巡り、私の体には砂が詰まっていくのです。乾くより重く、崩れそうになりながら、夏、私は息をしています。
 
 今朝もホームに突っ立ちながら、遅れた電車を待っていました。待てども待てども、遅延の文字は消えないのですが、私はこの時間がなんとなく好きです。誰もが等しく遅れている。来ない電車を待ちわびながら、不意に手に入れた空き時間に苛立っている。いつも時間が欲しいと叫んでいるのに、こういうときはどうしてか気に食わないのです。私達は人間ですから、というより、この国に生きていますから、予定が叶わないのは罪なのです。
 人身事故を告げる駅員の声も、どこか投げやりにホームに響きました。再三謝る声も遠く、私の後ろでも前でも、しきりに時計を見つめるサラリーマンで溢れていました。私の制服がじわりと汗で濡れていきます。暑いと人は短気になるらしく、舌打ちが灼熱のホームに響き渡り、それがまた誰かに移っていくのです。こんな時に飛び込むなよ、迷惑だな。そう、吐き捨てるような声がします。それに同調するように、同僚らしき人たちが文句を募り、続いていきました。黙っていた人々もきっと、そう思ったに違いありません。私もそうだからです。思ってから、やっぱり少しばかり後悔するのです。
 
 日が違えば、飛び降りた彼、彼女は、私だったかもしれません。隣に立っていたサラリーマンだったかもしれません。朝、ぼんやりと立って一日のことを思うとき。ふと走ってくる電車を見て、あそこに飛び込めば全て気にしなくていいのだなと、そう思う気持ちが私にあります。速度が落ちるより早く、あの鉄の塊にぶつかれば一日はなくなります。明日もなくなります。そうやって全部、ブラックホールみたいに吸い込んで、死が手を伸ばしてくれるのです。
 
 それを羨むようになったのはいつからだったでしょう。私は、自分が壊れる想像をしては安心する人間に育ちました。私より壊れている友を見て安堵する人間となりました。薬の入った注射器を手に、にこにこと笑っていた彼女を、救わなかったのは私です。救うという言葉を傲慢に思うのも私です。彼女がそうありたいならばそうあればいい、ただ、私を巻き込まないでほしい。だから私は救わないのだと、偉そうにしていたのも私です。ぜんぶ私です。見捨てた友が、姿を見せなくなり、みんなの噂の種になり、それも潰え、忘れ去られてものうのうと制服を着ているのも。それを間違っていると思わないのも。
 そうして彼女の手を取らなかったのは私ですが、けれど彼女に伸ばす手がないのも私なのです。私の手は、私自身を抱きしめるためにあります。空いた片手は、いつか死と手を繋ぐためにとっておかないといけません。だから彼女に手向けの花も差し出せません。この手は、彼女を悼むためには使えないのです。それを分かってほしいとは思いませんが、薄情者だと、罵っても構いませんが、私はこうして日々を逃げていきます。
 
 飛び降りた誰かに朝は来ません。その代わり夜も来ないのです。痛かったでしょうか。苦しかったでしょうか。それをぼんやり思うのは冒涜にも似た同情なので、口に出すことはしません。私なんかに分かって欲しい感情など、振り切れた彼らにはないでしょうから。私はただ、それに近しいものをもごもごと想像して、この、黒い染みのような夏を引き摺っていきます。電車を止めた誰か。それを憎々しげに恨む、電車を待つ人々の中で、私だけがあなたを考えているわけではないでしょう。ただきっと、舌打ちを打つ人々よりはうんと少ないでしょうから。この夏だけでも、あなたを覚えています。私は弱く、脆く、臆病者なので、あなたに花を手向けることはありません。この手は、私のための花を手折るのです。ただ、舌打ちをつかれたあなたの、彼岸でのこうふくだけは祈らせてください。そちらがこうふくならば、私もきっと死の手を取れます。私のために、幸せでいてください。この、黒くて暑い、死人のための夏を抜け出したあなたに。
 
 私には砂が詰まっています。思い描いた未来から、いつの間にか水は抜けて、崩れゆく夢がこびりついています。死にたいと呟きながら、ほとんどの人と同じように私は生きています。来年もきっと、夏を迎えます。その次もきっと、夏に突っ立っています。奴らは私に手を振ります。視界の端で優しく笑っています。そこには彼女もいたはずです。私が、花を持たなかった友。頭を快楽に溺れさせて、幸せだった彼女が。だからあちらは幸せの国なのでしょう。私もそちらに、いつしかかえります。ふらりと、舌打ちをつかれながら。空を、蝉の音を、私、を、殺してしまう夏の染みが、私の脳みそを染めていきます。まだ、けれどそれは、いつの日か必ず。
 
 遅れていた電車が、眩い夏の暑さに光りながら、ホームに滑り込んできます。それは誰かの死に、立ち止まっていた銀色でした。

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.18 )
日時: 2018/09/06 22:16
名前: あんず

*挨拶とお知らせ
 
 こんにちは、あんずです。
 
 夏の小説大会、金賞を頂いていました! 更新も不定期な拙作ですが、それでも面白いと思ってもらえたなら幸いです。ありがとうございます。読んでくださっている読者様に心からの感謝を。
 
 コメライ板に似つかわしくない話ばかりな気がする短編集ですが、読んで頂けていて驚くとともに嬉しかったです。今度はもっと明るい話を書けるよう精進します。
 
 
 それから、私情なのですが、今年は受験のため年中の更新予定はありません。小説のことももちろん温めつつ、しばらくは勉強に打ち込みたいと思います。そのためにも金賞がとても励みになりました。改めて創作をしていて良かったと思えました。本当に本当にありがとうございます。
 
 これからもどうぞよろしくお願い致します。
 


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