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*46*
名前と言われても。帰り道、黙ってただ機械のように歩いていた。
彼女に見合う名はどこに落ちているのか。そもそも、彼女のことを知らなければ安易に名前など付けることはできない。そう考えた俺は、気がついた。目的はこれか。取ってつけたような提案だと感じたが、御影なりの思慮と企みがあってのことのように、強く、思えてくる。
どこまでも底の見えない男だ。彼と話していて、一度でも感情が読めたことがあるか? いや、ない。生まれてから少し時を重ね、読もうと思えば読めるようになった他人の思考を、彼はちらりとでも読ませてはくれない。それとも、それは違うのだろうか。俺か。俺が、金堂のように頭の中身をそのまま垂れ流している男と過ごしてきたからだろうか。力不足か?
歩む思考の道はどんどん逸れる。そんなに彼女のことを考えるのが嫌かと、自分自身に腹が立つ。
「なあ」
静かな怒りが彼女に向いた。
「君……名前を決めるまでは、君と呼ぼう。君は自分の力が怖いのだ、違うか?」
彼女は困ったような、泣きそうな顔をして、すぐに目を落とした。
「答えてほしい」
「……そうかも」
「それはどうしてだ、考えたことはあるか?」
「…………」
金堂はあからさまに慌てた素振りを見せた。
「おい、露木……」
弱々しくも仲裁に入るが。
「答えろよ。原因は何だ? 自分の事すら分からないのか?」
どうしても、攻撃的な口調をやめられなかった。彼女の感情がどうにも煩わしくて。とても、どこか。
「……」
彼女が小さな声で何か呟いた。それを俺が尋ねる前に、彼女はもう一度、今度は叫ぶように言った。
「うるさいわね!」
潤んだ瞳は怒りの色を宿している。
すこし、たじろいだ。感覚が。彼女の目から、口元から、立ち止まった姿から、陰から、何もかもから膨大な量の感覚が溢れだしている。許容量はとうに越え、見たくもない物が見え、刺さるように響いた。
絶叫だ。耳を劈くような。死ぬ間際の。断末魔が轟いて。
うるさいとはこっちの台詞だ。思わず耳を塞いで蹲っていた体を立たせて息を長く吐いた。
「……君か?」
彼女を見る。震えた肩を両手で擦りながら、焦点の合わない目でどこか遠くを眺めている。
「答えろよ……」
その者たちの声は耳の奥でごうんごうんとまだ反響を続けている。
「君の能力は何だ」
一つではないのだ、そうか。彼らは這い上がってこようとしている。白い手を次々に伸ばして。彼女の重い口を開いて、この世界に、再び。
彼女は、この辛い「経験」を自分の言葉で自分の口から出すことをせずに、俺が求めた回答を、提示した。他人行儀に。感情を織り交ぜずに。触れたくないものに触れることをせずに。
*
閑静な住宅街であったはずの道が音を立ててひび割れ、色を出して汚れ、声を出して育っていく。スラム街だ。目の前に、あの街がある。
ふいに肩を叩かれて振り返ると、紙袋があった。
男だ。黒いスーツを着て、地に着けていた金属バッドを振り上げて、無表情に。
その時、周りの景色が歪んだ。
ここはどこだ、渦巻きの中に放り込まれたような感覚の中、必死に確かめようともがく。腕も足も動かない。ただ、目だけがその状況をしっかりと捉えて離さなかった。
そこは変わりもなく、見慣れてしまった貧民街に変わりはないが、どこか、別の世界だった。
紙袋の男が再び、視界に現れた。しかし、さっきとは違って。
視界を染めるのは赤い色だった。目が勝手に、周りを見回した。どこも、どこも、どこも。目に入る全ての人間、紙袋の男だけでなく、本当にさっきまで微笑みながら息をしていた人々が。裂け、汚れ、鮮血を溢れさせながら、臓物を零して、ついさっきと変わらぬ笑顔の頭がそのまま、転がっている。
目を覆いたくなるような光景だったのに。
アスファルトの穢れを洗い清めるかのように、深い色の血が道路をみるみる覆い隠していく様子を、生臭いにおいとうめき声、器官から溢れる呼吸の音と共に、凝視していた。
また、景色が歪む。
血は雨に打たれ、色を無くしていく。再び現れた道路は、潔白だった。
手も足も顔も動いた。目に映るのは、何事も無かったかのような、ただ盲目な住宅街のみである。
いつの間にか降り出した春雨が身を打って、地の上で小さく波紋を重ねている。金堂がくるりと背を向けて道の端へよろよろと歩き、膝をついて嘔吐を始めた。吐きだそうとする喉の音だけがする。何も食べていないのだから。
ただ闇雲に水を見せるだけの能力では無いのか。腹の底からせり上がってくる吐き気を飲み込んで、まだ少しぼやける世界を覚まそうと、瞬きを繰り返した。
「……分かったかしら、これで!」
泣き叫ぶ。
「悪意があったわけではないのに。勝手に、身を守ろうとして、関係のない人を……。毎夜毎夜夢に見るのよ……殺してしまった人達の苦しそうな声、顔。手を伸ばして、私を責め立てて……こんな力、欲しいなんて言った覚えは無いのに……」
彼女は顔を覆って、小さな声で叫んだ。それは心からの、魂からの。
「生まれてなんてこなければよかった」
悲痛の叫びだ。
道の端で吐きだそうと吐き出そうと、それを止めなかった金堂の背中に手を当てて声をかけた。彼はすっかり生気を感じさせない顔色をしていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろうが……」
そう言うと、また、えづく。当然だ。俺だってそうしたい。さも平気なように振る舞おうとするこの感情など投げ捨ててしまいたい。
そうすることが出来ない理由があるのだ。彼女を振り返り、見た。
「さっさと戻って休もうか」
興味と、同情と、怒りだ。
*
拠点に戻り、息つく間もなく金堂は冷たい床に転がって眠ってしまった。かなり参っているらしい。
俺は女と向かい合って腰を降ろし、微塵も自分の感情を見せないようにと気を張り、切りだした。
「君の力は、幻覚のようなものだ。そうだろ?」
彼女は腫れた赤い目を伏せたまま頷いた。
「君がさっき見せたのが全ての答えだな? 反射的に、本能が身を守ろうとしたわけだ。だがそれは、君が制御できないくらいに残酷で……」
否定はされない。
「君はすっかり、自分の力が怖くなった。押し寄せる悲しみの海ってわけだ、俺が溺れたのは」
俺は苦く、笑った。
「甘えるな」