複雑・ファジー小説

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AnotherBarcode アナザーバーコード
日時: 2020/12/07 18:30
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)
参照: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=12746

 生きていれば。生きてさえいれば、いつか幸せになれると思っていた。
 私だって、生きてても良いんだって。誰かと一緒に笑う事も出来るんだって。
 そんな夢を、見ていた。
 それが幻想だとわかっていても。私達は望まずにはいられなかった。
 普通に朝を迎えて、普通に誰かと過ごして、そして普通に1日を終えて、普通の明日を待つ。そんな幻想に酷く焦がれたところで、永久に叶うことはないのに。


………………………………


これは、継ぎ接ぎバーコードとは別の、もう1つの話。

こんにちは、ヨモツカミです。以前からオリキャラ募集して、話だけ練ってたのですが、ようやくスレ立てすることができました。
本編では明かさなかった事とかオリキャラ募集で投稿頂いたキャラなどが主に活躍します。つぎば本編も読んでいるともっと楽しめるんじゃないでしょうか。本編読んでなくてもなんとなくわかるような説明も入れるつもりですが。


【目次】>>15
よくわかんない投稿の仕方してるので、1レス目から見るとかじゃなくて、目次見たほうがわかりやすいと思います。

【キャラクター関連】
登場人物詳細その1>>16
桜色の髪の少女>>1 ロスト>>21
ロティス>>2 レイシャ>>24
アイリス&シオン>>6


【軽い説明】
群青バーコード
青色の、通常のバーコード。モノによっては人の役に立つかもと考えられている。バーコード駆除の為の兵“カイヤナイト”は群青バーコードで構成されている。
翡翠バーコード
緑色の、失敗作を意味するバーコード。暴走しやすかったり、力が使えなかったり、ヒトとして機能しなかったりする。大体はすぐに処分される。
紅蓮バーコード
血のような赤色の、殺人衝動をもつ、特に危険なバーコード。うまく使えば兵器として使えるため、重宝されたりもしたが、基本的に危険視されており積極的に駆除される。
漆黒バーコード
全てを吸い込む様な黒色。殆ど謎に包まれている。本当のバケモノだと恐れられている。
ハイアリンク
バーコード駆除専門の軍隊。基本的に人間で構成されているが、その中にバーコードで構成された特殊部隊“カイヤナイト”がある。

【お客様】
メデューサさん


2018年2月6日スレ立て

Re: AnotherBarcode -アナザーバーコード- ( No.1 )
日時: 2020/12/07 17:42
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)
参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=article&id=2186

【本編】No.00 空虚と黒の目的

 まるで、運命を嘆き叫んでいるかのように。書き殴られた文字は苦痛を、悲愴を、あるいは憎悪を。訴え掛けて来ているようだと、少女は思った。
 桜色の長い髪を高い位置で束ねた少女は、古びた家屋で見つけた手帳をなんとなく眺めていた。
 色あせた壁紙と薄汚れた絨毯に囲まれた埃臭い空気の室内。その部屋の中央に置かれる、表面の木がささくれだった、古そうな木の机の上。同化するように机と同じ暗い茶色の表紙をした手帳が、置かれていた。
 開いてみると、黄ばんだ紙に日付とその日思ったことや、感じた事が荒れた文字で綴られている。字体や筆圧が途中から変わってるようにも見えるため、数人のヒトが書いたと推測できる。どれも書き手の感情をそのまま表したように、それともただ焦って書いていたのか、文字を書くのが得意でなかっただけなのか──真相はわからないが、砕けて汚い字で、読解には時間がかかった。
 人間が書いたものではないのだろう、とわかってしまうのは、内容のせいだ。

 ──生きてさえいれば、いつか幸せになれると思っていた。
 ──そんな夢を、見ていた。
 ──永久に叶うことはないのに。
 
 1番最後のページを開いたまま、少女は小さく息を吐く。1文1文が少女の胸を抉るには、十分過ぎるほどの悲しみを秘めている。これを書いた名も知らぬ彼らは、どんな思いで生きてきたのだろう。存在するだけで疎まれ、蔑まれる日々を、どうやって生きてきたか。彼らは幸せだったのだろうか。想像して、胸を痛めようとしたが、そんな感情も次の瞬間には鉄の表面を滑る水のように、滴り落ちてゆく。下唇を噛み締めていた少女の表情も、いつも通りの朗らかな微笑みに変わっていた。
 もしこの手記の書き手達と対面したとしても、少女は今のように柔らかい笑みを浮かべ、へぇ大変だったね、と他人事のように呟いて、その命を奪っただろう。
 先程まで息をしていたはずの、彼女の足元に転がる2人分の肉片にしたのと同じように。迷いも同情も持てないまま。軽く手をかざすだけで殺せてしまう彼女は、きっと作業でもするみたいに、殺すのだ。
 もしかするとその2人こそが、この手記の書き手だったかもしれない、と少女は未だに血液を溢れさせる死骸の顔を覗き混んだ。男性か女性かもよく分からないが、その点は少女にとってはどうでも良かった。生気の消え失せた濁った瞳にはもう、何も映っていなかったし、血に汚れた顔はあまり見ていて気分の良いものではない。彼女の作り出す死骸は皆、目やら口やら耳から血を垂れ流すので、少女には、なんだかそれが泣いている風に見えた。
 死骸は泣いたりなんてしないのに。

「用は済んだのかい」

 部屋の入り口で腕を組んで待機していた女が、耳の下で2つに結った太陽を思わせるオレンジ色の長い髪を、指先で弄りながら少女に声をかける。
 その女の瞳は全ての光を飲みこんでしまったかのように黒々としていて、見る者の心をざわつかせる。何処までも、何処までも続く空洞みたいな彼女の黒い瞳を、少女は未だに少し恐ろしく感じてしまう。
 彼女の顔を見ないように微笑みながら、少女は先程手にしていた手帳を手渡した。視線も合わせずに会話をすることはいつものことなので、手帳を受け取った彼女がそれを気にする様子もなく、黙って中身を適当に捲ってみる。

「これは?」
「日記……なのかな。誰が書いたのか知らないけど、読んでたら虚しくなっちゃった」

 相変わらず目を合わせることが出来ない少女は、それを誤魔化すように、自分が殺害した2体の死骸を見据えて、紅色の瞳を細め、小さく口角を上げる。
 対して興味も無さそうに手帳の中身に目を通していた女は、殆ど呟くように少女に話しかけた。

「あなたにも虚しいという感情はあるのだな」

 不思議そうに女の方を振り返った少女は、首を傾げてみせる。少女の仕草を見て、女は続けた。

「あなたはいつも、感情を殺しているように見える」
「……そうかな」

 酷い暴言をぶつけられたとき。殺されそうになったとき。殺すとき。彼女は怒るでも悲しむでもなく、ただ楽しくもなさそうに目元を細めて、口角を上げる。笑顔や微笑に近いだけのそれは、全ての感情を覆い隠すための仕草なのだろうと、女は解釈していた。
 感情を殺している。少女は彼女の言葉を口の中で転がしてみた。確かに恨むことも、怒ること、悲しむことも、嘆くことも、いつの間にか止めていた気がする。もう全てを諦めてしまったみたいに。
 そう。きっと諦めているのだ。少女は力ない笑みを浮かべて、息を吐き切るように声にする。

「私の中にはもう、死骸しか残ってないのかもね?」

 殺された感情が、そこに横たわる2体のバーコードのように。ヒトの命を腐敗させる〈能力〉を持つ彼女には、朽ちた感情の残渣しか残されていないのかもしれない。
 ──当にそうなら良かったのにね。
 声もなく呟いて、少女は笑った。笑ったつもり、だった。
 そんな少女の表情をまじまじと見つめて、女は肩を落とす。また何かを隠したのだろう、と気付いてしまったから。このヒトはいつも、何か言いたいことがあったとしても、自分には話してくれないのだ。伝えたくないというよりは、伝えることを諦めている。女は、そんな少女に無理に干渉しようとは思わなかった。他人のような距離感が、互いにとっても丁度よかったのだ。

「どうか、安らかに」

 2つぶんの、ヒトならざる者の死骸に声をかけると、少女はそれらに背を向けて、部屋の外へ向かう。
 名前も持たない少女はヒトならざる者を。バーコードたちを屠るために、その足を進める。果たせる確証もない約束のために。たった1人の少年のために。

Re: AnotherBarcode -アナザーバーコード- ( No.2 )
日時: 2020/12/07 18:15
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)
参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=article&id=2188

【番外編】No.01 雨


 彼が今日も嗤っている。暗雲に蓋をされた天を仰ぎ、体を仰け反らせ、狂ったように、けたたましく。
 狂ったよう? 違う。彼は狂っているのだ。そうでなければ、誰かの死体を抱き締めながら嗤うなんて、そもそも誰かを殺すなんて、出来るはずがない。彼は、狂ってしまったのだ。どうしようもなく、取り返しのつかないほどに。

 荒廃した町並みには、崩れた瓦礫と曇天に覆われた灰色の景色が広がっている。色の無い風景の中、不自然な程鮮やかに大地を染める色を、青年は忌々しげに睨み付けた。
 紅蓮バーコードと呼ばれるバケモノがいる。心臓の上に刻まれた、どす黒い血の色をしたバーコードが、殺人衝動を引き起こさせているらしい。元々は優しい人間であったはずの彼でさえも、バケモノに造り替えられてしまっては、その衝動には抗えないようで、今こうして目の前で、死体を手に嗤っている。お気に入りの人形で遊ぶ子供のように、大切そうに死人の身体を抱き締めているのだ。

 青年——ミドは、彼の真似をして天を仰いだ。何処までもどんよりと重たい鉛色の空が視界に広がる。その欠片を閉じ込めたようなミドの瞳には、疲憊が浮かんでいた。
 親友が、ヒト殺しのバケモノになってから、どれくらい経つだろう。紅蓮バーコードになってしまった時点で、親友が殺処分されるのは時間の問題だった。命を奪うだけの危険なバケモノを生かしておく理由など、ありはしない。ミドの心臓の上には群青バーコードがある。それは、実験の成功を意味する色で、ヒトの命を弄ぶ狂った研究員達には、大層喜ばれた。

『君のお友達は使えないどころか、ヒトの命を奪うだけの野蛮なバケモノになってしまったけど、君には利用価値があるよ。おめでとう』

 ヒトの命をなんだと思っているのか。野蛮なバケモノはどっちであろうか。あの研究施設でのやり取りを思い出すだけで、喉の奥がチリチリと熱くなってくる。
 親友が殺されてしまう前にどうにかして逃亡を図ったはいいが、親友はもう、かつての優しい青年ではなくなっていた。微かに残された理性で抑えているのか、何故かミドの命を狙ったことは一度もなかったが、無差別に他人を襲うようになったのだ。バーコードになった時点で得た〈能力〉を使って、誰彼構わずその身体を穿ち、引き裂き、殺した。彼の色素の薄い肌にこびり付いた鉄の匂いが消える日は来ないのだと知って、ミドは絶望した。
 ぽつり、と。頬に当たる冷たさに気が付く。零れそうなほど重たい雲が、遂に落ちてきたらしい。灰色が、涙を流すみたいに、ぽつり、ぽつり、ぽつりと、町並みを濡らしてゆく。親友の白い髪や服や肌の鮮血を、全て洗い流してくれるだろうか。

「ロティス……」

 帰ろうよ、と。親友の名前を呼んだ。自分たちに帰る場所など無いくせに。雨風を凌ぎ、就寝するためにいつも使っている半壊した住居はあるが、それを帰る場所とは、呼ばない気がする。
 ロティスの手からズルリと誰かの死体が落ちて、その場に転がった。衝撃で飛び散った血飛沫が、またロティスを染める。見たくない。ロティスが汚れるのを、これ以上見たくはなかった。
 彼はゆったりとした足取りでミドの方へ近付いてくる。既に雨水の染み込んだ少しだけ長い髪の先から、パタパタと雫が落ちる。血を含んで仄かにピンク色に染まっていた。
 親友は、紅蓮バーコードになってから、極端に口数が減ってしまった。ミドと言葉を交わすことを避けていたのかもしれない。ミドとしても、あまりロティスとの会話を試みたいとは考えなかった。嬉々としてヒトを殺す彼のことを、内心恐ろしく思っていたのだろう。今のところは、ミドには手を出してこないが、いつその切っ先がミドの腹を抉るのか。想像もしたくなかった。

 雨足は次第に強くなっていく。降り出す前から聞こえていた雷の音が、大地を揺らす。既に水中にいるみたいに、全身が雨水を吸い込んで、冷たさや不快感さえも感じられなくなってきていた。
 ミドはチラリとロティスの方を見た。浴びたはずの鮮血も大分流れ落ちたようで、元の白い髪と空色の瞳と、灰色の服を纏った病弱そうな肌の男に戻っていた。こびり付いた血の匂いだけは、洗い流せそうもないが。
 濡れて身体に服が張り付いた事で、ロティスはなんだか妙に頼りなさげに見える。ふと、この弱々しい男に、ヒトを殺せるのだろうかという思考がミドの脳裏をよぎる。そうだ、ロティスは気立てが良く、温厚で大人しい青年であったはずだ。だから誰かを殺せる筈など無い。なのに。
 何処か虚空を見据えていた空色の瞳と、視線が合った。心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えて、咄嗟に目を逸らす。ミドがよく知る蒼穹を思わせるあの瞳はもう、どこにも無かった。濁った殺気の燻る空色が、頭に焼き付いて離れない。心臓の音が喧しくて、一瞬だけ、呼吸も忘れていたように思う。

 親友の目を見て、確かに“殺されるかもしれない”なんて考えてしまった。

 ミドは奥歯を噛み締めた。ロティスが自分を殺すはずがない。彼はこれから先、誰を殺す事があっても、ミドを殺したりなんてしない。しないはずだ。それにいつか、誰も殺さないロティスが帰ってくるかもしれない。ロティスだって、誰も殺したくない筈だ。時々ミドの頭をよぎる“これ以上彼が誰かを殺し続けるくらいなら、自分の手でロティスを楽にさせてあげよう”という考えが、再び思考の端に現れる。
 ロティスに、ヒトを殺してほしくはない。ただ普通の人間として生きてほしい。そう願うことさえもきっと、許されないのだろう。自分達はもう、人間ではないのだから。

 ふと、叩きつけるような大粒の雨が遮る視界の先に、人影を見た。こちらにはまだ気が付いていないらしい。人影、と呼ぶにはかなり歪な形をしていた。やけに大きな深緑の皮膚に覆われた手足に、同じ色をした長い尻尾まで付いている。明らかに人間ではない——そもそもこの街で出会う者が、人間であるはずなどないのだが、兎に角獣化の〈能力〉を扱うバーコードであることに間違いなかった。
 立ち止まるミドの横を、ロティスが通り抜けて前に出る。獲物を見つけた狩人の思考には、ただ殺す事以外の余計なものは何もない。

「ロティスッ、駄目だ……!」

 ミドは慌ててロティスの腕を掴んで、建物の影に引っ張った。ロティスの首がゆっくりとこちらに向けられて、殺意に染まってドロドロとした空色が、じっとりとミドを睨みつける。一瞬怯みかけたが、それでもミドは、ロティスに誰かを殺してほしくなかった。

「お願いだからもう……誰も殺すな」

 恐ろしい彼の瞳を真っ直ぐに睨みつけて、ミドは言う。親友はそんな願いなど意に解さず、ミドの腕を振り払おうと激しく暴れる。それでも放そうとしないミドを、ロティスは冷たく見つめる。

「邪魔、だ……」

 声と同時に、ロティスの影が蠢いた。地面に張り付いている筈の影の中から、真っ黒の槍のようなものが飛び出す。切っ先がミドの喉元に軽く食込んで静止する。思わず情けない声が漏れた。影は氷のように冷え切っていて、触れた皮膚から体温を奪われていく気がした。
 どうすれば、どうすれば。死の恐怖に、ミドの足も指も震えていた。痛いほどに心臓が胸を打つ。親友が自分に対して殺意を向けて来たことを、信じたくなかった。だからって、ロティスが誰かを殺すのを見るのはもう嫌だった。

 その時のミドは、自分がまともな思考をしていないことを自覚していた。それでも、それを行動に移そうと決意した。

「じゃあ……あのバーコードは、僕が殺してくる」

 ロティスの瞳が揺れた。面食らったように、口を開いたままの彼をおいて、ミドは走り出した。


***


 赤と、朱と、紅とが、轟々と思考を支配するのは、もうどうしようもないことだった。それでもたった1人だけ、自分の中に残った最後の人間らしさが“殺したくない”と叫ぶ存在がいたから、殺さないように、殺したいのに、殺さないように、殺したくないから、殺さないように、殺したくても、殺さないように、殺さないように殺さないように殺さないように、今日まで、どうにか踏み止まっていた。もう、名前すらもよく思い出せない、大切だったはずの、殺したくない殺したい、誰か。
 震える灰色の瞳が、ロティスを射抜く。邪魔をするなら、殺してしまおうかと思っていたはずなのに、目の前の青年が誰であるかもわからないのに、その雨雲のような色が、どうしてかロティスの殺意を鈍らせた。
 しばらく黙って睨み合っていたが、先に口を開いたのは彼の方だった。

「僕が殺してくる」

 え、と。掠れた音が喉の奥から溢れたが、彼がそれを聞き届けることはなかった。引き攣った笑みを浮かべ、彼は走り出す。蜥蜴のような男の元へと。遠退いていく赤毛の後ろ姿を、ロティスはぼんやりと見つめることしかできなかった。

 雨音に紛れて接近する青年に、男は気付けなかったようで、避ける事も受け止めることもできず、側頭部を殴打され、よろめく。よく見ると、青年の拳が鉛色に変化しており、硬化の〈能力〉を使ったのだと理解した。
 怯んだ蜥蜴男にもう一発、と赤毛の青年が拳を振り上げる。
 が、その一撃が届くより先に、閃光のような速さで蜥蜴男の右手が、彼の肩を抉った。視界の悪い豪雨の中でも、場違いなほど鮮やかな血飛沫が宙に舞うのが見えた。
 衝撃に耐えられずに、彼の身体が地面に転がる。直ぐに立ち上がって、蜥蜴男に殴りかかろうと繰り出した右手は、呆気なく受け止められてしまう。
 男は、掴んだ腕を引いて、地面に叩き付けると、仰向けになった彼の肋骨の辺りに、足を振り下ろした。

「——ッあ''、アァ……!」

 ベキベキ、と。骨の砕ける音と断末魔に、耳を塞ぎたくなった。なんとか逃れようと彼が藻掻くが、震える四肢に上手く力が入らないらしく、痛みに耐えようと食い縛った口元から血液が溢れだす。
 蜥蜴のような男は、踏み付けた足はそのままに、ゆっくりと腰を落として、赤毛の彼の顔を覗き混んだ。爬虫類を思わせる琥珀色の眼には、研ぎ澄まされた殺意が静かに燻っていた。
 青年の喉元を、鱗に覆われた大きな掌が覆って、とどめを刺そうとする。

 それを視界に捉えた瞬間、ロティスは駆け出していた。
 赤色に支配された殺意とは違う。何かがロティスを突き動かしていた。
 殺したくなかった、今日まで必死に殺したくても殺さぬように衝動を抑えつけてきた。大切な存在だった筈だから。
 ——その手を放せ。そいつは、俺の……親友だ。
 此方の殺気に勘付いた男は、咄嗟に立ち上がり距離を取ろうとしたが、ロティスがその脾腹にナイフを突き立てるほうが速かった。
 男の一撃を食らわされる前に、素早くナイフを引き抜いてロティスは後ろに飛び退く。迸る鮮血の香りは、やはり心地良かった。
 自分は親友のために駆け出したのか、紅蓮バーコードとしての殺人衝動に突き動かされただけだったのか。残念ながら、きっと、後者なのだろう。ナイフにこびり付いた血を見ていると、何も考えられなくなってしまう。ただ、殺したい殺したい殺したい。ロティスの脳裏にあるのはそれだけだった。
 対峙する男は刺された患部を押さえつけて、荒い呼吸を繰り返す。しかし、その瞳に浮かぶ色は殺気のみで、死に対する恐怖のようなものは感じられなかった。
 怯える生き物を貫く方が楽しいに決まっている。ロティスはつまらなさそうに自らの影を蠢かせる。男が身構えたが、遅い。次の瞬間には影から伸びた無数の黒い槍が蜥蜴男の身体を貫いた。

「がっ……」

 男が地面に崩れ落ちて、動かなくなる。身体から滲み出る鮮血は、雨に薄められてピンク色に変化していた。

「なんだよ。案外大したこと——」

 突如、右脚を襲った強い痛みの正体にも気付けないまま、ロティスはバランスを崩して地面に倒れた。ああ、蜥蜴男に抉られたのか、と気付いた頃には腹部に耐え難い痛みが走り、せり上がってきた血液を口から吐き出した。

「は……ク、ソ」

 痛みに目眩がする。それでも、どうにかして再び影を伸ばす。黒い影でできた槍の切っ先が、男の肩を穿いた。瞬間、なんとなく、爬虫類のような瞳の中に、悲愴を見た気がした。

「……シャド……」

 男は、掠れた声で誰かの名前を呼んだ。苦しそうに見えたのは、けして痛みによるものだけでは無かったように思う。
 蜥蜴男は、ロティスにとどめは刺さなかった。刺せなかったのかもしれない。大量の血を滴らせながら、覚束無い足取りで去って行った。

 取り残されたロティスは、地に伏したまま動けず、呼吸を繰り返すたびに鋭く痛む腹部に視線をやって、ゾッとした。生きているうちに、自分の内蔵を直接目にする日が来るとは思わなかった。
 身体が冷えてゆく。雨の冷たさによるものではない。きっと自分はこのまま死ぬのだと悟った。打ち付ける雨音は、逃れ難い死神の舞踏に聞こえる。
 顔を横に向ける。青年の赤い髪が見えた。名前も思い出せなかった筈の、親友。
 ロティスは、もう殆ど動かない腕を必死に伸ばす。

「ミ、ド……」

 ああ、何故今まで忘れていたのだろう。大切な友の名を。
 ミドの瞼が僅かに動いた。そうして、ゆったりと開いた目は、酷く濁っていた。
 横たわるミドも、もう身体を起こすことも出来ないらしい。そのくせ、なんとか口角を上げて、笑ってみせた。

「生きたか……った、ね」

 無理に声を出したせいか、ミドの口元からまた血液が溢れてくる。それも直ぐに、打ち付ける雨水に流されて薄まってしまう。
 ミドも、ゆっくりと腕を伸ばした。そして、ロティスの掌に触れる。豪雨に冷やされた筈の指先は、仄かに暖かく感じた。頬を伝う雨も温かい気がしたのは、どうしてだったのか。その答えすらも流されて、全てが終わる。自分たち自身も、雨になってしまったような気がした。


***
ジンと出会う少し前。トゥールが殺してしまった、誰かの話。

シリアスブレイク過ぎて書くか迷った余談ですが、ミドとロティスの名前の由来はアオミドロとミクロキスティス。微生物です。微生物ネームは初めてであり、ジンの名前の由来がミジンコ、なんてことはありません。

Re: AnotherBarcode -アナザーバーコード- ( No.3 )
日時: 2020/12/07 15:37
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)

 ──一緒に生きましょう。生きて、ここから出て、遠くに行こう。2人でなら、何処までだって行けるわ。ねえシオン、そうでしょう?
 ──私達、絶対に生きるんだから……。

「はあっ……はあっ……」

 部屋が暗い。蛍光灯は割れてしまったのだろうか。暗い。暗いのに、そこにあるものを見間違うことができない程度には光がある。部屋の扉が開きっぱなしになっているから、廊下の明かりが入り込んでいるのだ。
 腰をぬかして荒く呼吸を繰り返す。部屋の隅っこに座りこんだままの少女の視線の先は、一色の色彩に塗り潰されていた。
 親友の真っ赤な髪が、別の赤色に汚れている。髪だけではない。全身が、べったりと。死の匂いを全身に纏いながら、親友は笑う。傷だらけの四肢を彩るのは彼女の血か、それとも。
 考えるのが怖かった。でも、怖いからといって思考から逃げることはできない。逃げてもきっと、付き纏ってくる。床にへたり込んで立ち上がれずにいるくせに、彼女の脳は妙に冷静に働いていた。

「あは……」

 笑う親友の足元。黒かったはずの床。
 研究員の胴体、血液、薬指、靴、毛髪、血液、左足首、鼻、親指、ボールペン、右腕、左手首、歯、眼鏡、血液、左脚、腸、毛髪、頭部、小指、目玉、血液、名札、血液、血液、血液血液血液血液血液……血液。が。おままごとをしたときに、散らかしっぱなしにした玩具みたいに。バラバラに。ぐちゃぐちゃに。床を埋め尽くしている。
 吐き気を催すような光景と臭い。

「ふふ、綺麗ね……こんな眺め、初めて……彼岸花畑よりも、ルビーの宝石よりも、上質な赤……ねえ、あなたもそう思うでしょお、シオン」

 親友が上擦った声で、座りこんだままの彼女の名を呼ぶ。
 シオンは顔を上げて、親友の顔を見た。歳の割に大人びて見える整った顔立ち。薄いピンク色の瞳は細められており、口角は緩く上がっている。妖艶な笑顔で、一層美しく見えた。……頬にへばりついた異質な色彩がなければ。

「…………」

 きれい?
 どこが。
 彼女は何を言っている。
 違う。彼女は。
 誰?

「あい、りす」

 名前を呼ぶ。シオンの声は錆びついていた。
 シオンの声は辛うじて届いたらしい。自らの名前を聞き届けると、夢から醒めたように目を見開いて、親友は辺りを見回した。
 恐る恐る、自分の掌を見た。
 それから体に視線を落として、やがて目を見開いたまま、ゆっくりと。サナギから羽化したばかりの蝶が、翅を開くまでの動きみたいに、ゆっくりと、此方を見る。怯えた小動物のような顔がそこにあった。
 彼女の口から溢れるのは、混濁したうわ言。

「どうしたの、シオン。どうしてそんな目でみるのシオンねえ、シオン、なんで。ねえ……ねえ、違うの、違うのよシオン、私じゃない、私はやってない、これは違うの。こんなこと、こんなこと、こんなのこんなのこんなの……!」
「アイリス……」

 彼女は震えながらも、違う、シオン、私じゃない、と繰り返している。壊れたスピーカーのようだった。
 どうすることもできないまま、シオンはそれを見つめていたが、ふと、遠くから喧騒と足音がやってくるのが聞こえた。

「……──逃げるぞ、アイリス!」

 生存本能が、とにかく逃げろと警鐘を鳴らすから、シオンは立ち上がって、アイリスの手を取った。触れた手が不自然にベタついてゾッとしたが、気にしている暇はない。
 親友は困惑していたが、それでもしっかり足を踏み出した。彼女らは逃げなければならなかった。

 2人で生きると誓ったのだから。


【番外編】No.02 シオンの花束
(提供:メデューサ様より。シオン・アイリス)


 バーコードにされた2人の少女が、研究所から脱出した。
 追跡者の命を何度も奪って、ただ生命に縋りついた。殺さなければ自分たちが殺される。そんな状況下に置いて、もう、彼女らはただの少女ではいられなかったのだ。命が始まってから14、5年しか経っていない2人には酷なことだった。

 肩の上で切りそろえられた薄水色の髪の少女は、フラフラと近くの木にもたれ掛かって、座り込む。2人がいたのは山奥の研究施設だったため、その周りは当然鬱蒼とした木々が生い茂っていた。施設を飛び出したときは頭の上にあった太陽が完全に沈み、辺りは暗くなっていた。結構長い間走り回った筈だが、森を抜けてないということは、まだ追手がいてもおかしくない。頭でわかっていても、彼女らにこれ以上逃げ回る体力は残っていなかった。
 薄水色の髪の少女──シオンは、未だにべたつく右手を見つめて、深く息を吐いた。酸化してどす黒く変色していても、その鉄臭さで正体を理解してしまう。血だ。
 シオンがバーコードにされてから手に入れた能力は〈ミョルニル〉という、電撃を操る能力だったため、返り血を浴びる事は無い。だから、“あのとき”付着したものだろう。親友の手を引いたとき。

「……アイリス、その、大丈夫か?」

 できることなら、彼女から目を逸らしたかったが、そういうわけにも行かないため、シオンは共に逃亡した親友のアイリスに声をかける。
 ずっと座りこんで俯いたままだった彼女は、名前を呼ばれるとビクリと肩を震わせた。
 見事な紅色の長髪には、所々返り血がこびり付いている。右耳の少し上辺りに結ばれた紫色のリボンには、血の汚れが見当たらない。アイリスが以前「お母様から頂いたものよ」と嬉しそうに見せてくれたものだったため、シオンは少しだけ安堵する。彼女の思い出までもが汚れてしまわなくて良かった、と。アイリスの体は切り傷だらけで、返り血なのか自らの出血なのかわからないくらい全身が血塗れになっているのを見ると、何も良いことなんて無いのだが。

 顔を上げたアイリスの薄ピンクの中には、怯えの色が伺えた。不安げに視線を彷徨わせて、シオンと目を合わせることを躊躇している。きっと、自分自身に怯えているのだろう、とシオンは思った。シオンだって、アイリスのことが怖かったから。

 研究施設から逃亡することになった切っ掛けは、アイリスが突然、人が変わったように狂い始めたことだった。

『あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ』

 聞いたこともない、醜悪な高笑い。振り乱す紅色の髪と、研究員の千切れた肉片やら迸る鮮血が入り交じる、おぞましい光景。アイリスが手をかざすだけで、目に見えない斬撃が発生した。シオンは信じたくなくて、頭を振って否定し続けたが、誰がどう見たって、無邪気に笑う少女を中心に、周りのものが切断されていくのを見て、犯人が彼女以外にいるだなんて考えられない。なにも否定できなかった。アイリスが笑ってヒトを殺した事実が、無慈悲にもそこに横たわっている。……それだけだった。
 斬撃を発動する能力〈アイソレイト〉で、一心不乱に、心ゆくままに、切る。切り刻む。アイリスは自分の身体さえ傷つけているのに、気にも止めず。バーコードになると治癒力や身体能力が上がるため、既に傷は塞がり始めており、アイリスの着ている服だけが、自分の出血と誰かの返り血を染み込ませながらぼろぼろになっていた。

 バーコードにも種類がある、というのは研究施設で軽く説明を聞いたため知っていた。
 シオンは自分の服の襟元を軽く引っ張って、心臓の辺りを確認する。控えめな胸元に刻まれた深い青のバーコード。群青バーコードと言うらしい。正常で、特に問題のない成功品の色だという。〈能力〉が有能であれば、将来的にバーコード殲滅特殊部隊に入隊させられることもある、と聞いたことがあった。

「アイリス……自分のバーコードの色、わかるか?」

 シオンの質問に、アイリスは泣き出しそうな顔で震える。震えながらも、ボロボロの服の上から、心臓のあたりをきゅっと握りしめた。かくん、と確かに頷く。それから、軽く襟元をつまんで下に引く。シオンと対を成すような色。彼女の髪と同じ色のバーコードが。紅蓮バーコードがそこにあった。
 互いにわかっていた。ヒトが変わったように殺戮衝動に駆られて、なりふり構わず殺してしまう残虐性。その特徴は紅蓮バーコードそのものだったから。彼女は、もう普通の人間ではない。生ける殺戮兵器だ。
 そうなってしまった彼女に、シオンはなんと言葉をかければいいかわからなくて、遣る瀬無い気持ちで項垂れる。
 紅蓮バーコードの存在は危険だから、普通なら生まれた瞬間に処分される。危険性が少ない〈能力〉を持った紅蓮バーコードなら、生かされて有効利用されることもある、なんて話も聞くが、やはり殆どの場合殺処分だ。如何なる〈能力〉を持っていたとしても、殺人衝動の凶暴性が厄介なのだ。

 不意にアイリスが立ち上がった。足取りは不自然なくらい安定している。シオンがどうした、と訊ねながら顔を上げた瞬間、空気の裂ける音を聞いた。

「は?」

 左耳がブワッと熱くなる。痛み。アイリスが右手をかざしていて、それでやっと、シオンの脳内に恐怖が雪崩込んでくる。
 咄嗟に右手で地面を押して、立ち上がろうとした。刹那、右腕を裂く痛みで、バランスを崩して地面に転がった。
 不味い。傷の深さを確認するとか、痛みに呻くとか、アイリスに怒鳴りつけるとかよりも先に、何よりも先に、空いている方の左手で地面を押して転がる。先程までいたところに亀裂が入って土煙が舞う。すぐに体制を立て直して、地面を蹴る。少しだけ遅れた右脚に鋭い痛みが走る。
 殺される。殺される!

「……ッアイリス!」

 彼女に伸ばした掌が裂ける。痛みと恐怖で涙が滲んだ。
 親友なのに。アイリスが、〈能力〉で自分を傷つけている。そこには表情さえなかった。ただ、切り付ける。アイリスの視界には、切り刻みたい肉がある。それだけだった。

「痛いよアイリスッ、やめて、痛い……!」

 怖い。恐い。痛い。死にたくない。
 シオンは震える声でアイリスを呼んだ。殺されてしまう。こわい。嫌だ。アイリスには殺されたくない、その一心で。

「シオ、ん」

 次の斬撃が裂いたのは、アイリスの右の太腿だった。傷が深かったのか、勢い良く血が迸る。

「痛、うう、ううううううう、嫌、嫌だ! ああああああああああ!」

 アイリスがけたたましく声を上げ、次の斬撃は、彼女の左二の腕を切り裂く。

「痛い、痛いよ、嫌、嫌ぁ……ああ……」

 ようやくアイリスが止まる。彼女は自分の身体を抱き締めるようにしてその場に崩れ落ちると、蹲ってしまった。
 その様子を、シオンは肩で息を繰り返しながら呆然と眺めた。
 ──今、確かに殺されかけたんだ。
 自覚すると、身体の底から恐怖が溢れかえって、泣きだしてしまいそうになる。

「どうしよう、私、今シオンのことッ……」
「アイリス……」

 泣き出した親友を抱き締めて、慰めたかった。そのくせ足は動かない。近寄るのが怖いと思っている自分がいる。
 嗚咽を零しながら何度もごめんなさいを言う親友を、シオンは黙って見つめることしかできなかった。

 ──それでも、私達2人で生きられるの?
 誰も答えてはくれない。

「ねえ……シオン、私、私、ごめんなさい……」

 蹲って、可哀想なくらいに震えるアイリス。シオンだって震えていた。親友に殺されそうになった。その事実が恐ろしくて仕方がない。
 でもきっと、2人して折れている場合ではない。シオンは掌を強く握り締めて、力強く声にした。

「大丈夫。生きるぞ、アイリス」

 ──アタシ達、生き抜いてみせるんだ。


***


 シオンはその日、夢を見た。何処かの川辺で、シオンとアイリス、2人で手を繋いで、笑っていた。ただそれだけのことが途方も無く幸せだと感じた。叶わない事を知ってしまったから。この手の温もりも。親友の笑顔も。幻だ。咄嗟に夢であると気が付いてしまえるほどに、シオンは現実を理解していた。
 理解していた。していたのに。目が覚めてから起こったことを、脳が上手く処理できなかった。

 まず、アイリスが何処にもいなかった。

Re: シオンの花束2 ( No.4 )
日時: 2020/12/07 15:38
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)

「なんで……アイリス」

 胸がざわつく。そもそも、いつの間に眠ってしまったのだろう。そうか、逃げ疲れて、泣き疲れて、そのまま。
 シオンは慌てて辺りを見回したが、人影は何処にもない。耳を澄ませても、木々の葉が擦れる音がするだけで、人の気配もまるでない。不安に押しつぶされてしまいそうになる。
 何かないか。シオンは必死で目を凝らして、ようやく手ががりを見つける。土に混ざった、血の跡を。それが、等間隔に地面に付着していたのだ。

「……はやく」

 ──はやく、見つけなきゃ。
 シオンは血の跡を辿って駆け出した。
 道中で、切り刻まれたウサギの死骸を見つけて、ゾッとして足が竦んだが、やはりアイリスはコチラに向かったのだと確信することができた。
 進んでゆくと、山を抜けて、民家が見えてきた。もう目印の血痕は見当たらなかったが、道なりに進んだ結果ここに辿り着いたため、おそらくアイリスはこの先にいる。
 だが、やけに静かだった。
 嫌な予感がする。最初に見えた小さな赤い屋根の家のドアが半開きになっているのを目にしたとき、シオンの中の不安が形を持って、胃の中でドロドロと渦巻いていく感じがした。
 臭いがした。最早馴染み深いものになってしまった、鉄錆の臭いが。村の至るところから。
 シオンに、家を覗く勇気はなくて、見ないふりをしながら進んで行って、そして。

 その先に、親友はいた。

「あはははははははははははははははははははは! ははははははははははははははははははははは!」

 耳を劈くような高笑い。なによりも醜悪で、なによりも美しい、生命を司る赤に塗れて。

「アイリス……やめてくれよ」

 ……壊れていく。生きながらに、内側が崩壊していく。理性が失われてゆく。殺すだけ。全部、全部、全部。殺すだけの、機械のように。親友が、少しずつおかしくなっていくのを、シオンは傍観するしかなかった。
 その光景を、シオンは直視することができなかった。ヒトが死んでいる。それはわかった。何人分の死体があればこの眺めは完成するのだろう。切り刻まれたバラバラの人間の体が、沢山転がっている。
 アイリスを止めなければ。覚束ない足取りで近寄っていって、何かを踏み付けた。足の裏で生暖かい何かがゴリ、と音を立てて、ベタつく液体が染み出す。肌が粟立つ。気持ち悪い。
 親友が笑顔のままシオンを見た。素敵ねえ、綺麗ねえと、恍惚とした表情のまま可愛らしく笑う。彼女は片手になにか白くて細長いものを持っている。今も尚、血液を滴らせるそれは、人間の体の一部で。
 ……なんでこうなっちゃったんだろう。
 シオンは競り上がる胃液を抑えながら、親友にゆっくりと近寄っていった。


***


 アイリスを止めようとして、シオンはまた体にいくつかの切り傷を作った。親友から与えられる痛みが、現実を突きつけてくる。シオンはその度に、体にできた切り傷以上に胸を痛ませていた。
 死体も血の跡も見ないように、村の隅っこで2人、蹲っていた。村の何処にいたって、血の臭いはしたけれど。現物を目にしなければ、多少は落ち着いていられた。

「……私、あの時あなたの手を取らなければよかったわ」

 ようやく落ち着いて、俯いていたアイリスが、不意に口を開いた。シオンは顔は上げずに、黙って耳を傾ける。

「私の弱さがそうさせたの。……生きたかった。でも、私は、周りを傷付けてしまうだけだから。傷付けて、傷付けて、傷付いて」

 泣きだしてしまいそうに、声は掠れていた。けれど、アイリスは笑っていた。自虐的な笑みで、虚空を見つめている。歪んだ笑顔が、一層痛々しかった。

「何で。縋っちゃったんだろう」
「…………」

 押し殺すような声の中に滲んだ後悔を、シオンは黙って聞き流した。
 返す言葉が、わからなかったから。
 シオンはアイリスと同じように、自分を抱き締めるような形で座りこんだまま、唇を噛み締めた。
 ねえ、シオン。囁くようなか細い声で、親友に名前を呼ばれた。シオンは視線だけアイリスの方に向ける。親友はシオンの方を見ていたけれど、その視線は何処に向けられているのか、よくわからない。虚ろで、何処か疲れたような目をしていた。
 そうして、疲れきった声のまま、言葉が紡がれる。
 恐れていた台詞が。

「──私のこと、殺してよ」
「ッふざけんな!!」

 シオンは弾かれたように顔を上げて、立ち上がった。脚も声も、全身が震えているのがわかる。歯を食いしばって、拳を更に強く握り締めた。そうしないと、涙を堪えきれなそうだったから。
 アイリスは少しだけ驚いたような顔をしていた。力の無い目でシオンをぼんやりと眺めながら、彼女は何を思っただろう。
 アイリスはこの先も、ずっと、誰かを殺し続けることになるだろう。笑いながら、紅蓮に呑まれて、楽しげに。次に殺すのは誰になるか。いつか、シオンさえも切り刻んでしまうかもしれない。それだけは怖かった。シオンだってそれは怖かったけれど。

 ──それでも、アイリスに生きてほしい。

 だから、“殺して”という親友の願いに、激しい怒りと恐怖と悲しみが綯交ぜになって、シオンの胸の中に、自分でもよくわからない感情が渦巻いていた。ただ、どうしようもなく、苦しい。

「大丈夫、だから……。絶対に、大丈夫だから、アタシがどうにかしてみせるから! もう、二度とそんなこと言わないで……お願いだ」

 両目に涙を溜めたまま、親友の目を見て、シオンは懇願する。

「うん……ごめんね」

 それに対して、視線を虚空に彷徨わせたまま、アイリスは謝罪をした。
 ──どうにかって、どうするんだよ。
 シオンは迷子になった子供のような気分だった。


***

 
 それから3回、昇る太陽を見ただろうか。
 アイリスの殺戮は続いた。人形か廃人のように座りこんでいたかと思うと、急に立ち上がって、フラフラと何かを求めて歩きだし、命あるものを見つけては〈アイソレイト〉で切り刻んで、あの醜悪な高笑いを響かせる。彼女の通ったあとには、バラバラの肉片しか残らない。
 そうして殺しては、急に我に帰って、アイリスは自分のした事に絶望して泣き叫んで、自分を傷付けて、胃液を吐き出して、また、人形か廃人のように動かなくなる。

 “私のこと、殺してよ”

 脳内で反響する。その台詞。
 見ていられなかった。シオンは、もういっそアイリスを殺してやったほうが楽になるのではないかと、考えもした。考えて、考えて、段々恐くなってきて、結局何も行動できないままでいた。
 親友を失いたくないから。死んでほしくないから。生きてほしいから。全部、シオンのための我儘だ。本気でアイリスのことを考えて行動するなら、もう答えは出ていたのに。シオンはそこから逃げ出していた。

「アイリス……」

 散々殺しまわって、木にもたれ掛かってじっとしていたアイリスに声をかけた。
 そのとき、シオンは初めて、虚空に彷徨わせていると思っていたアイリスの視線の先を知った。それから、絶望した。
 最近ずっと、何処を見ているかわからなかった彼女は、シオンの肌に無数に付けられた傷口を見ていたのだ。血を、無意識のうちに目で追っている。それに気が付くと、シオンの中で何かが音を立てて崩折れていく。
 ──もう、駄目なんだ。アイリスは帰ってこない。
 シオンの両目から、ボロボロと涙が溢れる。

「やだよ……アタシたち、生きるって。言ったじゃん……」
「…………」
「なんか、言ってくれよアイリス」
「…………」
「ねぇ……」
「…………」

 シオンは、ふらつく足取りでアイリスに近づいて行って、彼女の隣に立った。今まで自分が傷付けられることが怖くて、距離を置いていたのに。人形のように座りこんで動かない、アイリス。シオンがゆっくりと屈むと、視線がアイリスと同じ高さにくる。のに、目は合わない。彼女が見ているのはシオンの体に無数に付けられた傷であり、シオンが見ていたのは、アイリスの首元だったから。
 シオンは、アイリスの首を両手で覆った。久々に触れた彼女の体温は暖かくて。アイリスはいつも暖かったな、なんて、思う。

「シオン?」

 アイリスの視線がようやくシオンの顔に向けられる。シオンは両手の指先に思い切り力を込めた。掌に脈動が伝わってくる。視線が怖くて、息ができないのはアイリスの筈なのに、シオンの息も止まってしまったように錯覚する。
 アイリスは少しだけ驚いたような目をしていたけれど、抵抗するわけでも、〈アイソレイト〉を使うわけでもなく。

 ただ、寂しそうに微笑んだ。
 それを見たら、もう駄目だった。

「……っ、でき、ない……!」

 震える指先から、力は抜けていく。明確な殺意は、急速に萎んでゆく。遂にシオンは手を離してしまった。
 涙を溢れさせながら、何度も首を振る。できるはずがなかった。親友の命を奪うなんて。
 アイリスは、尚も微笑んだまま、シオンの体に残る傷口を見ていた。


***


 どれだけ切実に願っても、祈りは届かない。だって、神様なんていないから。
 次の日もやっぱりアイリスはフラフラと何処かを目指して歩き始めた。新しい獲物を求めて。シオンは力無くその後を追いかける。その矛先が自分に向かないことに、微かな安堵を覚えながら。

 アイリスの行く先には民家が見えた。嫌な予感がしたが、どうやらそこは廃村らしく、ヒトの気配は無い。アイリスは誰も殺さずに済む。親友がヒトを殺す姿を見ずに済むかもとシオンは胸を撫で下ろした。
 それでもアイリスはキョロキョロと辺りを見回す。その表情には微かに笑みが浮かべられていて、薄ピンクの瞳はギラギラと不気味な光を湛えている。大丈夫、此処には誰もいないから。
 そうやって、自分に言い聞かせた途端、ギイ、と何かの物音を聞いた。ひとりでに民家のドアが開かれた。違う。中から少女が出てきたのだ。
 なんで。そう思うよりも先に、アイリスは口角を不自然なほど吊り上げて、嗤う。
 後は、あっという間だった。

 接近していったアイリスが手を翳すだけで、少女の薄い胸に亀裂が入って、切断された腕が地面に落ちて、喉が捌かれて、両足にも切り込みが入る。一気に辺りに濃い鉄錆の臭いが広まった。少女が驚きに声を上げる暇さえなかった。勢い良く真っ赤な血飛沫を上げながら、膝を付いて、ズルリと背後に倒れる。まだ生きているのか、残った手足が陸に打ち上げられた魚のように跳ねたが、それさえもアイリスの〈アイソレイト〉が切断する。やがて血溜まりはゆっくりと広がっていって、そこに沈む少女は動かなくなった。

「ふふっ」

 彼女が息絶えたのを見届けると、アイリスは後は興味もなさそうに踵を返して、またフラフラと歩き出す。作業でもするみたいに、ヒトの命を奪った。
 命なんかどうでもいい。ただ、肉を割くことができればそれでいい。そういうことなのだろうか。
 シオンは転がった遺体を見ないようにして、再びアイリスを追いかける。いつの間にか、目の前でヒトの体がバラバラに捌かれる様子に慣れている自分がいた。アイリスは冷酷で非道な殺人兵器だが、それを傍観するシオンも同罪だ。
 シオンは肩を落とす。あいつ、今日は何人殺すのかな。何だか他人事みたいにそんなことを考えた。アレは、アイリスの見た目をした兵器で、アイリスじゃない。そうやって思い込んで逃避して。シオンは疲れきった目でアイリスの背中を眺めた。

 廃村だから人間はいない。そう考えたシオンの思考自体は正しかった。人間でない者が潜んでいる可能性なんてシオン達は知らなかった。
 アイリスの行く先に、異形の腕の男と、傷だらけの少年の姿があった。


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