複雑・ファジー小説
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- アスカレッド
- 日時: 2021/06/11 01:43
- 名前: トーシ (ID: WglqJpzk)
ヒーローって、何だ。
*
《COLOR》と呼ばれる異能力が存在する社会。
瀬川飛鳥は、10年前に自分を助けてくれた『ヒーロー』に憧れながら生きてきた。
高校2年生のある日、飛鳥は席替えで水島青太と隣同士になる。青太は《COLOR》を持たない人間——の、筈だった。
*
閲覧ありがとうございます! トーシです。
今回、初めて小説を書かせていただきます。異能力現代バトルものです。
どうぞよろしくお願いします。
*
目次
(☆挿絵付き ★扉絵付き)
プロローグ カラーボーイ
>>1
第1話 アオタブルー
★>>2 >>3 >>4 ☆>>6
>>8 >>9 >>11 >>12 ☆>>13
(一気読み >>2-13)
第2話 ミクロブラック
★>>16 >>17 ☆>>18
>>19 >>20 >>21 >>22
>>23 >>24 >>25 >>26
>>27 >>28
(一気読み >>16-28)
第3話 ハイジグレー
>>31 >>32 >>33 >>34
>>35 >>36 >>37 >>38
>>39 >>40 >>41 >>42
>>43 >>44 >>46
第4話 シトリホワイト
第5話 ********
エピローグ アスカレッド
*
その他
クロスオーバー・イラスト(×守護神アクセス)
>>10
PV(『闇の系譜』の作者さんの銀竹さんが作ってくださいました!)
>>34
閲覧数1000突破記念イラスト
>>15
閲覧数3000突破記念イラスト
>>30
*
お客様
荏原様
日向様(イラストをいただきました!>>14)
立花様
スペシャルサンクス
藤稲穂様
水様
四季様
しろながす様
*
記録
4/13 連載開始
*
Twitter @little_by_litte
ハッシュタグ #アスカレッド
- 3−3 ( No.33 )
- 日時: 2018/10/14 01:15
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: ZFUj677N)
3−3
「岬」の表札がかかった家に着くと、ハイジは飛鳥の傘を無言で奪って傘立てに立てた。ハイジ自身のビニール傘は傘立てには入れられず、靴箱に立てかけられた。
そこは広い家だった。飛鳥の家よりも廊下の幅が大きく、スロープが造られた玄関も広々としている。階段の見当たらない紅野の家は、1階以上が存在しない平屋だ。
ハイジは慣れた動きで靴を脱いで廊下を進み、左手にある横開きの扉をノックした。すぐに、奥から声が返ってきた。
「こんにちは、紅野さん」
「やあ、ハイジ」
薄暗い部屋の中で、車椅子に座る紅野が振り向く。
デスクワークの最中だったらしく、机の上には書類が広げられていた。光源は卓上ランプとブラインドカーテンの向こうから射す弱い日差しのみ。ハイジが入り口で立ち止まったまま中に入ろうとしないので、飛鳥は紅野の部屋の全貌を見ることはできなかったが、床に物は置かれておらず整然とした様子だった。無駄な物が少ないのはおそらく、車椅子での動線を確保するためだろう。
「わざわざすまないね」
「紅野さんのため、なので」
「ここでは何だし、リビングに行こう」
紅野が動き出すのと同時に、ハイジも飛鳥をリビングへ促した。
紅野と一瞬目が合う。彼の笑顔は作り物のようではなく、純粋な柔らかい笑顔だった。妹とは似ていない、と飛鳥は頭の隅で思った。
リビングで紅野に勧められて、飛鳥はレザーのソファに座る。紅野とテーブル越しに対面するような形だった。何となく落ち着かず恐る恐る通学鞄を床に降ろすと、キッチンからハイジの声が飛んできた。
「紅野さん、紅茶きれてます」
「そうなのか。冷蔵庫にウーロン茶があった筈だから、そっちでいいよ」
「分かりました」
ハイジの動作には迷いがない。まるで自分の家かのようにスムーズに動く。何がどこにあるのか全て把握しているのだろう。もしかして、ここに住んでいるのだろうか——いや、まさか。
「ハイジのことが気になるのかい」
「……彼は、鏡高の生徒だったんですね」
「沖原灰慈、鏡高校の1年生だ」
だから頭がいいんだ、と紅野は笑った。
「兄弟ではないんですね」
「それは初めて言われたな。俺と灰慈は似ていないと思うんだけど」
「灰慈くんが、この家に随分慣れているように見えたので」
「ああ、灰慈はここによく来るんだ」
やがて灰慈が2人分のウーロン茶を持ってテーブルにやってきた。彼がグラスを置くと、こん、と木を叩く柔らかい音がした。
傘を立てかける時にも、靴を脱ぐ時にも、扉を開ける時にも、そして今まさにグラスを置く時にも感じたことだが、灰慈の所作には、見た目に反して荒さが無かった。どの動きも柔らかい。歩くときもほとんど足音を立てない。育ちがいい、と形容すればよいのだろうか。それとも、躾の行き届いたとでも言えばいいのか。
「ありがとう」
「いえ」
「今日は、学校は?」
「3限目から行きました。本当は1限目から行こうと思ってたけど、朝起きられなくて」
「それでも学校に行ったんだろう、えらいじゃないか」
「……それで、数学の小テストが、あったんですけど」
「どうだった?」
「100点、でした」
「すごいね、ちゃんと勉強したんだな」
灰慈の頬が緩んだ。隈のせいで変色した目尻を下げて、嬉しそうに笑んだ。そんな彼の口から零れたのは称賛を受け入れる「ありがとうございます」でも、それ以上の称賛を求める言葉でもなく、「次も頑張ります」と——その一言だけだった。
紅野から2人きりになりたいと告げられた灰慈は、頷いてリビングから出る。本当に、従順な少年だ。
「……ここまで来てくれて、ありがとう。瀬川飛鳥くん」
「……いえ」
「俺のことは、知っているよね」
「それは、勿論です」
「だろうね。だって、10年も前のことを今でも覚えていてくれたんだから」
10年前、誘拐されそうになった自分を助けてくれたヒーロー。紅い目、紅い髪。記憶の中で決して色褪せることがなかった色彩。紅いヒーロー。
それが『岬紅野』という名前を持って今、そこにいる。知らない家のリビングの、窓から射す無彩色の光の中で笑っている。
「あの」
「何?」
「海黒さんって、今どこにいるんですか。玄関に海黒さんの靴はありませんでした。ここにはいないんですよね」
「……ああ、それが俺にも分からないんだ」
「分からない?」
「俺も20分前に帰ってきたばかりで、その時にはもういなかったんだ。でも、遠くには行っていないと思うよ」
そう言いながら彼は、灰慈が運んできたウーロン茶を少し飲んだ。
なんて悠長なのだろうか。体調を崩して怪我をして、つい最近まで危険な目に遭っていた妹が知らない内にどこかに行ってしまったら、普通はもっと心配するのではないか。少なくとも自分なら、迷わず外へ探しに行く。
だが紅野は、あの子は俺に迷惑をかけたがらない、と呟いた。迷惑をかけたがらないから、余計なことはしない。迷惑をかけたがらないから、自分の言うことをよく聞くのだと、暗にそう言っているようだった。そして、レンズの奥の目を細める彼を見て、飛鳥も妙に納得してしまった。だから言い返すことも訊き返すこともしなかった。否、できなかったのだろうか。
「しばらくしたら、帰ってくるんじゃないかな。海黒に会いに来てくれたんだろう? なのに、すまないね」
「……どうして、僕を呼び出したんですか」
「この前の傘の催促の為だよ——ああ、焦らなくてもいい。傘は学校で灰慈か海黒に渡してくれればいいから。今日君に来てもらった理由と言うのは、青太について、訊きたくてさ」
「水島、ですか」
また、水島青太のことだ。
「そう。瀬川くんは、青太と仲がいいんだろ」
「それ、は……」
「ああごめん。君は、あんまり青太のことが好きじゃないんだったか」
沈黙する飛鳥を、紅野は口角を上げて見つめ続ける。
「誰にだって好き嫌いはある。別に君が青太のことを好きじゃないとしても、何の問題もないし、そのことを気に病んでいるとしたら、それは君がそれだけ優しい人間だってことだ」
「……そんなことないです」
「そうかな。まあ、彼は優しくていい子だろう」
「そうですね……優しいです。水島は」
青太は優しい。だからこそそんな青太が「犯罪者」だと言った岬紅野が、青太のことを「青太」と親し気に呼び、それを青太自身も拒絶しないのが、とても怖い。
ウーロン茶を口に含む。乾いた口内を濡らしていく液体は、少しだけ苦かった。
「青太は今、どうしてる? 中学生の時は学校に行きたがらなかったけど、今はちゃんと高校に行ってるかい?」
「毎日、ちゃんと来てますよ。僕も、今年から同じクラスになったばかりなので、水島の学校生活について、よく知っているわけじゃないですが」
「いや、いいんだよ」
飛鳥が顔を上げると、紅玉のような目が不思議な光を宿しているのに気付いた。紅野は、どこか遠くの、海の向こうの水平線を見つめるような目をしていた。
「そうか……ちゃんと、学校に行っているのか。それなら、いいんだ」
「……紅野、さん」
グラスからテーブルに落ちる、濁った色の光。それを見つめた後紅野を見れば、その鮮やかなルビーに目が眩みそうになった。どんなに磨き上げられた宝石でも敵うことはない瞳だ。
そしてやはり、自分がそれに触れることはできないのだと思った。自分が彼の真っ黒な瞳孔に「真に」捉えられることも、ないのだろうと思う。
「この前お会いした時、10年前のことを『覚えていない』と嘘を吐いたのは、なぜですか」
「……俺もね、動揺したんだ」
机の上で手を組みながら、紅野は目を伏せた。
「まさか、10年前に、たった一度きりだけ会った男の子と再会するなんて夢にも思わなかった。そして相手が、俺と同じようにそのことを覚えていてくれたことも——だからあの時は、都合がよすぎると思ったんだ。そんなこと、ある筈ないと思った。そんな確証も持てないような状態で、君の大切な記憶を踏み荒らすことはできなかったんだ」
「だから、嘘を吐いたんですね」
「冷たい言葉だったと、自分でも思う。すまなかった」
「謝らないでください。あの……あなたに忘れられていなくて、僕も」
続く言葉は、突然ドアの向こうから聞こえてきた足音に塞き止められる。
ドアを開いたのは、ワンピースを着た海黒だった。彼女は紅野を見て、次に飛鳥を見て、黄昏色の目を見開いた。どうしてここにいるんだ、と、音にせずともそんな海黒の声が聞こえてくるようだった。
「おかえり、海黒」
「……ただいま、お兄ちゃん」
「何か買ってきたのか」
「紅茶がきれてたから、新しいの買ってこようと思って」
「そうなのか。ありがとう」
「ううん、いいの」
海黒はもう一度飛鳥を見たが、声をかけることはなかった。
ふと海黒が開けたままにしていたドアを見れば、そこには灰慈が立っていた。海黒の足音を聞いて、2人きりになりたいという紅野の頼みを破った彼女を咎めに来たのだろうか。しかし灰慈は、1歩たりともリビングに入ろうとしなかった。紅野が海黒に対して何も言わないから、彼も海黒に干渉することができないのだろう。キッチンの戸棚に紅茶の缶を収めていく海黒を、ずっと見ている。
全て仕舞い終わって、やっと灰慈の存在に気付いた海黒は、彼からあからさまに目を逸らした。紅野はやはり、黙ったままだった。
沈黙の中で、灰慈はゆっくりと俯いて、そして静かに扉を閉めた。
NEXT>>34
- 3−4 ( No.34 )
- 日時: 2018/10/22 02:05
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: BS73Fuwt)
- 参照: https://www.youtube.com/watch?v=1Ff6cy_HhDY&t=0s&list=LLGAusmZdyD-FMA24mxeQZNg&index=2
3−4
君は真面目だろう、と紅野が言った。何と答えていいのか分からず吃って(どもって)いると、彼はグラスの水滴を指先で掬いながら、ふっと笑った。
「君は校則を遵守するタイプだって、少なくとも皆には、そう思われているんじゃないか」
事実かどうかは別として、と付け加えて。
飛鳥は思わず自分の首を撫でて、襟足に触れた。何度かの脱色で傷んでしまった髪が肌にちくちくと刺さる。
「けれど瀬川君は、自分が守っている校則は誰が作ったものなのか、って考えたことはあるかい」
「……それは、さっき仰っていたことと、関係あるんですか」
「ああ、そうさ」
——この世から秩序を排除する。
水島を何に巻き込もうとしていたのか、あなたは一体何に関わっているのか。単刀直入にそう訊ねた飛鳥に、紅野は一言で答えた。
秩序の排除。それが、青太が滅茶苦茶だと言っていた彼らの思想らしかった。
一瞬にして顔を強ばらせた飛鳥を前に、紅野は平然としていた。彼は視線を逸らさない。一方の飛鳥の瞳は、まるで迷子のように揺らいだ。その違いは、飛鳥が自分の方が間違っているのではないかと錯覚しそうになる程に明らかだった。
「校則然りルール然り……知らない誰かが作った規定に囚われるなんて、馬鹿らしいだろ」
「だから、無秩序へ作り変えるんですか」
「そうさ」
「極論ですね」
「だろうな」
自分の思想が極端であることをあっさりと認めた紅野を見て、飛鳥は、今度は琥珀色の目を大きく見開いた。
紅野の表情はやはり変わらない。指先の濡れた手を組んで、薄ら笑ったままだった。
「君に、『すぐに』理解してもらえるとは思ってないさ」
次がある、と暗に示すような言い回し。理解できるわけがない、と首を横に振ろうとしたが、身体は動かない。秒針が空気を刻み、冷蔵庫のモーター音が重く床を這っている。
カタン、と机上に1台のスマホが置かれた。そろそろ塾の時間だろう、と紅野が飛鳥の前にそれを差し出す。液晶画面を見れば時刻は18時を少し過ぎた辺りだった。
なぜ紅野が自分のスケジュールを把握しているのか。たとえここで問い詰めたとしても笑顔ではぐらかされるだけだ。
彼は海黒を呼び出して、彼女に飛鳥を駅まで送るように言いつけた。飛鳥が玄関に行った時には、靴箱に立て掛けられていたビニール傘は、地面に小さな水溜まりだけを残して無くなっていた。
雨は強かった。大きな雨粒が絶えず落ちてきて、傘をうるさく叩き続けるような雨だ。コンクリート上で跳ね返った水は、透明から白に煙って(けぶって)足元を湿らせる。
間を空けて飛鳥の前を歩く海黒は、何も話さなかった。歩きづらそうではなかったから、足は完治したのだろう。胸を撫でおろすのと同時に、しばらく海黒が学校を休んでいたことを全く知らなかったくせに、彼女の無事に安心する自分が偽善的で気持ち悪いものに思えた。
「どうして、うちにいたんですか」
駅のタクシー乗り場に着いたところで、海黒が突然振り返った。紅野に呼び出されたのだと正直に答えると、海黒は警戒心がないのかと半ば呆れた様に言った。
「僕を傷つけるようなことはしないと思ったんだ」
紅野からの提案にのったのはリスクよりメリットの方が大きかったからだ。海黒の無事を確認し、紅野から情報を聞き出せるなら——そう考えて紅野と会ったのに、自分が得たものは少なかった。
紅野は「秩序の排除」を共通思想とする組織の中にいる。そしてその組織には名前がないから、外界の者がそれの実態を掴むことはできないらしい。いつから組織が暗躍しているのか、具体的に何をしているのか、そんなことは話されなかった。
「……海黒さんは、さ」
「……何ですか」
「正しいと、思ってるのかい」
ぎゅっと、海黒は傘の柄を握って言葉の続きを待っていた。
「紅野さんの、考えを——秩序を、排除するっていうことを」
疑問形ではない。海黒を否定したいわけでもない。彼女の本音を引き出す為に選び出した声は、抑揚に欠けた冷たい声で、自分で自分が怖くなる。
「分かりません」
ばたばたと雨が降る。肌寒い。きっとこの雨は、夜になって空が完全に黒くなってしまっても止むことはないだろう。濡れるコンクリートの匂いすらしなくなって、辺りは息苦しくなるような水の匂いに充たされていた。
「私にとって正しいのは、お兄ちゃんだけです」
雨音に辛うじて掻き消されない程度の声で、海黒は続ける。
「『それ』が正しいかどうかなんて、どうでもいいんです。お兄ちゃんがそうしろと言うなら、私は『それ』を正しいと言います。それだけです」
「どうして」
「……兄だから、ではだめですか」
「……だめじゃないよ」
海黒は間違ってはいなかった。正しくはないのかもしれないが、間違ってもいない。
ややあって、海黒は上着のポケットからスマホを取り出した。紅い花柄のカバーが取り付けられた、海黒のプライベート用の端末だ。
「連絡先、交換しませんか。以前教えた携帯はもう使わないので」
飛鳥は頷いて、海黒に自分の電話番号を見せた。直後にワンコールだけかかってきた電話番号は、確かに初めに教えられたものとは違っていた。
「……本当に、警戒心がないんですね。これがもし、私がお兄ちゃんに言われてやってることだとしたら、どうするんですか」
「もしそうだったら、君からの着信は全部無視するだけさ」
「そうですか」
おそらくこれは、紅野の指示ではなく、彼女の意思でやったことだ。ラインでもメールでもなく電話番号だけ交換したのは、2人のやりとりの履歴が残らないようにする為。電話口越しの声のやりとりは、録音しない限り残らない。
「お兄ちゃんは、青太さんとのコネクションが欲しいんだと思います。だから、仲介役になれる飛鳥先輩に接触したんです」
「まあ、そうだろうね。でも僕だって、簡単に従属するつもりはないよ」
「強気ですね」
「……水島がいるから」
海黒は意外そうに飛鳥をじっと見て、それから「そう」と目を逸らした。
彼女が視線を滑らせた方に飛鳥も目を向けてみれば、タクシー乗り場の丸い屋根の端から水が流れ落ちていた。
煙っているのは地面だけではなかった。夕陽は雨雲に遮られ視界は薄暗く、雨に滲んで建物や車の輪郭はぼやけている。霧がかかっているようにも見えた。近くにある筈の信号機の光が、遥か遠くで輝いているように思えた。
「飛鳥先輩」
「なに?」
「私、やっぱり、お兄ちゃんが大事なので。お兄ちゃんの為に、また飛鳥先輩を傷つけることもあるかもしれません」
「分かってるよ。海黒さんが、そうしないといけないことだって」
飛鳥は紅野の隣に仕えていた少年のことを思い出していた。沖原灰慈、彼は特に紅野から可愛がられているようだった。それは、実の妹である海黒を脅かす程に。
だが飛鳥は、海黒と灰慈は明確に線引きされていると感じていた。海黒はリビングに入っても咎められなかったが、灰慈は紅野が許さなければリビングに入ることはできなかった。海黒もまた紅野にとっての特別なのだろう。
だから、不安がる必要はない——なんて、言えるわけがない。それは彼女が抱える苦しみを否定するのと同義だ。
兄弟だから無償で愛されるとは限らないのかもしれない。姉の白鳥に幾つもの隠し事をしたままなのも、きっとその為だ。嫌われたくないからだ。
手に力を籠めると、封筒がかさりと鳴った。タクシー代にと紅野から渡された3枚の紙幣。乾いた感触は手に馴染まない。
「海黒さんは」
空車の文字を光らせたタクシーが近付いてくる。腕時計を確認すれば、紅野の家を出てから30分経っていた。塾の講義には間に合うだろう。もうすぐお別れだ。ここに海黒を一人にして、行かなきゃいけない。
「海黒さんは、頑張ってるよ」
海黒は首を横に振った。薄い肩が震えていた。手の甲で、何度も目元を拭っていた。
彼女は声を上げようとしなかった。だが堪えきれず漏れてしまう嗚咽と、手首を伝い落ちていく雫を見て、飛鳥は、海黒が泣いているのを知った。
NEXT>>35
- 3−5 ( No.35 )
- 日時: 2018/10/28 01:42
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: k5lEWJEs)
3−5
背後から足音が聞こえる。後ろをちらりと見れば、リュックサックにぶら下がったマスコットキーホルダーを揺らしながら、飛鳥とほとんど同じ速さで青太が歩いていた。
「……なんでついてくるんだよ」
「だってオレも電車で帰るし」
学校の最寄駅への道は今まさに歩いているこの道だけなので、飛鳥は何も言えなくなる。
久々の晴れ間を見せた空は薄い水色が広がっている。だが相変わらず蒸し暑く、飛鳥は襟元を掴んでぱたぱたと仰いだ。
「もしかして、オレが瀬川と一緒に帰りたがってるって思ったのか?」
「うるさい」
拗ねた声で返せば青太が笑う声が聞こえて、飛鳥は歩調を速くする。タンタンと革靴の足音に重なって、柔らかいスニーカーの足音も速くなる。
「やっぱりついてきてるじゃないか」
「いいじゃん、一緒に帰ろうぜ」
「やだよ、そんなの。水島、寄り道とかしそうだし」
「しないって」
「本当に?」
「……滅多には」
「たまにするんだろ」
「たまにするくらいならいいだろ」
ぱたぱたと足音がより速くなる。自分の真横に青太の横顔が見えかけて、飛鳥も更にスピードを上げた。
「せーがーわ」
「うるさい」
「瀬川っ」
「一緒に帰るなんて言ってないからな」
ぱっと、前を見れば青太が自分の前に立ちふさがっていて、飛鳥は仕方なく足を止めた。
また何か用があるのだろうか。昨日青太に何も相談せず紅野の家に行ったことについて咎められるのだろうか。
確かに、紅野の家に単身赴いてしまったことは軽率で危険な行為だったと自覚している。それに関して自分に弁解の余地はない。だから飛鳥は言い訳は考えず、何の用だと青太に尋ねた。
しかし青太は不思議そうな顔をして、特に何も、と答えた。
「何も無いのに僕に話しかけてきたのかい?」
「何か用が無いと話しかけちゃだめなのか?」
だめ、ではない。
けれど青太とは特別な用事がなければ話してこなかったから、今更、そんな普通の友達のような関わり方をするのは慣れない。
青太と日常会話をしたことはほとんどないし、そもそも属している友人グループが違う。『こんなこと』さえなければ、飛鳥と青太の接点は隣の席であることくらいだ。
だから、こんなにも長い時間一緒にいて、お互いのコンプレックスを晒し合って、彼の本当の色が他の誰よりも綺麗な『青色』だということも知っているのに、青太の好きな食べ物も好きな本も誕生日も血液型も、飛鳥は何も知らなかった。
飛鳥が黙っていると、青太は慌てて「嫌だったらもうしない」と一歩後ろに退がってしまった。それがなぜだか苛立たしく思えて、「嫌なんて言ってない」と強い語調で言い返してしまう。
それから2人はうやむやなまま、通学路を並んで歩き始めた。
「瀬川は学校で勉強するのかと思ってた」
「今日は姉さんが帰ってくるから、早く帰るんだ」
「そっか」
1分も経たずに、沈黙。青太は別の話題を探しているようで、目線を上の方でふらつかせていた。飛鳥も会話の糸口を考えてみるが、如何せん日常会話につながるような話題はどれも唐突に思えてしまって、なかなか言葉にできない。
そうしているうちに青太が「あー」と呻いて、やがておずおずと口を開いた。
「白鳥さんは瀬川がやってること、知ってるのかな」
予測していなかった姉の話題に、じわりと汗が噴き出す。声が震えないように、飛鳥はしっかりと息を吸って声を出す。
「知らないと思う」
「話してないのか?」
「話せるわけないだろ」
飛鳥がそう言い捨てれば、青太は言葉を詰まらせて、その後にそうだよなあと零した。
「白鳥さんに、相談できたらいいなって思ったんだけど」
「姉さんは捜査官じゃないから、相談しても意味無いよ。それに」
続く言葉で、舌が回らなくなりそうになる。
「……姉さんに、心配はかけたくない」
とってつけたような、いい弟を演じるかのような台詞に、内側からフォークの切っ先で何度も突かれているみたいに、胸の辺りがずきずきと痛む。
青太は「ああ」と頷いたが、肝心の自分自身がそれは違うと声を上げていた。心配をかけたくないのではなく、ただ自分のやっていることが露見して、姉に失望されたくないだけなのだ、と。
「白鳥さんは頼れないってことは、やっぱり、オレ達でどうにかするしかないか」
「どうにか、できるものなのか」
「どうだろう。でも、岬紅野の方から介入してこない限りはオレ達は普通にしていればいいし、もし介入されたとしても、あしらうことに専念すれば、回避できないわけじゃない」
「水島」
「ん?」
「水島は、紅野さんのこと、どう思ってるんだ」
え、と青太の表情が凍りついた。眉は不安げに下がり、薄く開かれた唇からは、乱れた呼吸が漏れ出している。
きっと彼はもっと楽しくて他愛ない話がしたかったのだろう。けど飛鳥は、どうしてもそこに踏み出せなかった。自分と青太が楽しく話している姿が、全く思い浮かばなかったのだ。
やがて青太は、苦しそうな声で呟いた。
「正直、分からない」
彼の、澄んだ水色の空を見ていた目が、汚れたアスファルトの上に落とされる。
「オレは、紅野さんのことを忘れたくてあの人と縁を切った。だから、あの人と会っていない1年間で、紅野さんのことは乗り越えられたって思ってた。でもこの前紅野さんと再会して、名前を呼ばれただけで、身体が動かなくなった」
それは、青太が硬直してしまった飛鳥の腕を引いて、紅野の前から去ろうとしたときのことだった。それまで紅野に対して強く出ていた青太だったが、たった一つの言葉の鎖に完全に拘束されてしまった。
「好きとか嫌いとか、そういうのじゃないんだ。でも、どう足掻いても、オレにとって紅野さんの存在は大きいんだと思う。よくも悪くも、な」
そして彼は、飛鳥の目を真っ直ぐ見て無理やりに笑った。その笑顔は彼なりの終止符なのだろう。
飛鳥は曖昧な返事をして、青太から目線を外す。
だが、すぐに肩を叩かれた。再び青太を見れば、彼は目線で前の方を示した。
「そこの自販機で飲み物買っていい?」
「寄り道しない、って」
「そんなことは言ってない」
青太はへらっと笑って、すぐ前方にある自販機に駆け寄った。自分は特に買いたいものもなく、青太の横に立ち止まる。
ふと青太は飛鳥を見て、それからふっと口角を上げた。
「なんだかんだ言って、待っててくれるんだな」
「早くしろ」
「はいはい」
青太は楽しそうに、陳列されたペットボトルを眺めていた。色とりどりのパッケージがきらきらと輝く青太の黒い目に映りこんで、ビー玉のようでもあった。
手持無沙汰になった飛鳥は、通学鞄からスマホを取り出す。待機画面にポップアップで、白鳥からの「7時頃に帰るね」というメッセージが表示されていた。すぐに、分かったと返信。既読はつかない。
「瀬川!」
すると突然青太に名前を呼ばれ、飛鳥はびくりと肩を震わせてしまう。リアクションが大げさになってしまったのが恥ずかしくて眉を顰めながら青太を見やれば、彼はなぜか両手にペットボトルを持っていた。
「当たった!」
「何が?」
「カルピス!」
青太は満面の笑みで、カルピスのペットボトルを飛鳥に差し出した。
「1本買ったらもう1本出てきたんだよ、だからほら」
彼の笑顔があまりにも眩しくて、飛鳥はまばたきをした。カルピスの白に、鮮やかな青いパッケージはよく映える。それがとても甘そうで、飛鳥は喉の渇きを覚えた。
ありがとう、とペットボトルを受け取ると、手の平から心地よい冷たさが伝わってくる。隣の青太が早速蓋を開けて飲んでいたから、飛鳥も少しだけ口内に流し込んだ。
淡い甘みが舌の上に広がって、少しの酸味が最後に駆け抜けていく。冷たくて清涼感のある風味に、蒸し暑さによる倦怠感が僅かに和らいだ気がした。
目の前を、同じ高校の女子生徒達が仲良さげにお喋りしながら通り過ぎていく。
彼女たちから見れば、自分たちも普通の友達に見えるのだろうか。そんな思考は、次の瞬間には、ペットボトルに付いた水滴が指をくすぐって滑り落ちていく感触に掻き消されてしまった。
NEXT>>36
- 3−6 ( No.36 )
- 日時: 2018/12/25 00:59
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: arA4JUne)
3−6
「ごめんね飛鳥。かなり遅れちゃった」
「ううん、大丈夫だよ姉さん」
白鳥が帰ってきたのは22時半——約束から3時間以上過ぎた頃だった。
「出動があったんだよね」
曰く、16時半頃に隣の市で発生した暴動の事後処理に想定よりもかなり時間がかかってしまったらしい。
その暴動というのは、紅野が所属している『組織』の内部抗争のことだろうかと飛鳥は思ったが、白鳥が詳細を語ることは無かった。
そしてそれは飛鳥にとっても些末なことだった。少なくともその時は、『組織』や内部抗争よりも飛鳥の意識を奪うには十分なことが別にあったのだ。
飛鳥の目は、白鳥が帰ってきてからずっと、彼女の肩にかかる髪にずっと向けられていた。
「姉さん、髪が……」
「ああ、これ? へましちゃって、戦闘中に切られちゃった」
白鳥の髪の一房が、肩の辺りで不自然に切れていた。彼女は恥ずかしそうに笑ったが、それが一層乱れた毛先を痛ましく見せる。
「本当は、戦闘員なら、髪は短くした方がいいんだろうね」
「切っちゃうの?」
「……このままにしておきたいかな。せっかくここまで来たんだし」
「ずっと伸ばしてるもんね、髪の毛」
白鳥は頷きながら、無事だった方の髪の毛を愛おしそうに撫でた。どうしたって長髪では戦闘に支障をきたしてしまう。それでも彼女は髪の毛を短くしようとはしなかった。白鳥は決して愚かではないから、彼女なりに考えがあるのだろうと思って、飛鳥も特別それについて触れることはなかった。
「姉さん。何か飲む?」
「ううん。大丈夫」
それよりも、と白鳥はソファに座って空いた隣をぽんぽんと叩いた。
「飛鳥」
「……うん」
ついに、だ。ついに『大切は話』をするのだ。
大好きな姉の隣だと言うのに空気は重く、飛鳥はその重さで動けなくなってしまう。
「私が話したいことは、分かってる?」
「うん」
おそらく自分が戦闘員になりたいと言ったこと。それから2週間ほど前の夜、白鳥が初めて青太と出会ったとき、飛鳥があの廃工場にいたことについてだろう。
白鳥は静かに息を吸って、口を開いた。
「飛鳥は本当に、戦闘員になりたいって思ってるの?」
「うん。本当に、思ってる」
そう、と白鳥は呟いた。
「……飛鳥はずっと、戦闘員になりたいって言ってたもんね。中学に入る前から、ずっと」
飛鳥が戦闘員に憧れを抱いたのは小学6年生の時だった。民間人を救う戦闘員。人員が少なく単独での戦闘を強いられることも多いが、たった1人で誰かの為に戦う彼らは本当にかっこよかった。紅い少年が残していった『ヒーロー』、その言葉を体現化したような存在を見て、自分も将来はそうなりたいと強く願った。まだ《COLOR》が発現する以前のことだ。
中学生になって《COLOR》が発現したら——たとえつまらない《COLOR》だったとしても、血の滲むような努力で補完できると思っていた。戦闘員になる為なら、どんなに苦しい思いをしたって構わない。
幼かった頃は自分が無色(colorless)だなんて思っていなくて。
自分に《COLOR》がないことを知ったのは、中学2年生の時だ。それを境に戦闘員になりたいと言葉にすることは少なくなった。だが諦める気にはなれず、夢の残骸を引き摺ったまま今この瞬間に来てしまった。
もう高校2年生だ。いい加減、現実を見てもいい年齢だ。だから白鳥も飛鳥と話をすることを決断したのだろう。
飛鳥、と白鳥が言った。飛鳥は息を詰めて唇をきつく結んだ。
「飛鳥は、戦闘員にはなれない」
握り締めた手が、震えた。
「『無色(colorless)』は、戦闘員にはなれないの」
何を言われても動揺しない、と自分に言い聞かせていた。白鳥が言うことは正論なのだから、聞き入れなければいけない。しかしいざ言葉にされると、それは氷の破片のようで、胸の中に落ちていきながら体内のあちらこちらを切り裂いていった。
「……どうやっても、無理なのかな」
「『無色(colorless)』でも警察官にはなれる。けど、戦闘員にはなれない」
「姉さんが、僕が戦闘員にはなれないって言うのは、そういう『規定』があるからだろ」
自分は一体、何を言っているのだろう。
「戦闘員の免許取得の第一条件は《COLOR》を所持していること。だから無色(colorless)じゃあ戦闘員にはなれない。その理屈は、通ってると思う。でも。でもさ、そんなのあくまで『規定』だし『ルール』じゃないか。
規定もルールも法もいつか変わるかもしれない。どうしてそれだけで、僕が戦闘員にはなれないって断定できるの」
規定もルールも何も響かない。それらは不変ではない。どうしてそんなものに、自分が縛られないといけないのだろう。
飛鳥の思考は加速する。最早、正常な動作はしていなかったが。
「姉さんは、どう思ってるの」
「え……?」
「『規定』じゃなくて、僕は、姉さん自身の考えが聞きたいんだ」
白鳥は動揺して吃って(どもって)しまった。だが彼女は次に、先程と同じ言葉を、今度はより鋭さを持った声で言った。
やはり、飛鳥は戦闘員にはなれない、と。簡潔な言葉だった。
「戦闘員の仕事は、ターゲットを倒すことじゃない。ましてや戦闘に勝利することでもない。民間人を守って、その上でターゲットを捕獲すること。それも、できるだけ無傷のままでね。その為には人一倍の努力は勿論、『才能』が必要になる。例えば、強力な《COLOR》を持っている、とか」
日常生活においては《COLOR》を所持している人間と無色(colorless)の人間にはそれほど差は生まれない。しかし戦闘となれば話は別だ。戦闘において無色(colorless)は、圧倒的に無力だ。それは0と1の差に過ぎないのかもしれないが、あるか無いかの、決定的な差なのだ。
——でもね、水島青太さんと、飛鳥先輩では、生きているステージが違うんですよ。
いつか海黒に言われた台詞が蘇ってきて、再びナイフの形になって飛鳥の胸を突き刺す。ああ本当に、その通りだ。
「……分かった? 飛鳥」
うん、分かったよ姉さん。僕、もう一度考え直してみるね。
——とは、言えなかった。
「……無理だよ」
俯いてしまった飛鳥を、白鳥は目を見開いて見つめる。
「無理だよ、今更。なんで、今更そんなこと言うんだよ。僕はそれしか見てこなかったのに、なんで、今更、諦められる訳ないだろ」
「飛鳥ッ」
「無理だって分かってるよ! それでも諦められなかったんだ。無理だって分かってて諦められなくって、駄目だって分かっててここまで来たんだ。今更、別のものなんて見られるわけない」
「飛鳥、戦闘員にはなれないって言ったけど、無色(colorless)でも警察官にはなれる。だから」
「だから? 警察官になれって?」
「考え方を変えろって言ってるの。別に人を助けるのは戦闘員じゃなくたってできる」
「諦めろってことじゃないか」
「ええ、そうよ。諦めて」
「嫌だ」
「飛鳥」
「やだよ」
「飛鳥!」
その場から逃げようとした飛鳥の腕を白鳥はすかさず掴んだ。戦闘員らしく洗練された身体を持つ彼女は、自分よりずっと大柄な飛鳥を引き倒して、そのままソファの上に押さえつけてしまう。能力のある姉と何もない自分。力の差を見せつけられ飛鳥は抵抗する気力すら失ってしまって、覆いかぶさる姉を茫洋と見上げるほかなかった。
部屋の照明が逆光になって、白鳥の表情はほとんど見て取れなかった。だが琥珀色の両眼が、自分を真っ直ぐに睨みつけている。
「……飛鳥は、無色(colorless)なの」
冷たい、氷のような声が降ってくる。降り注ぐ。
「無色(colorless)はね、パワーバランスの一番下なの。《COLOR》に比べたらずっと非力なの。それで戦闘員になっても、飛鳥、すぐに死ぬよ」
白鳥の切れてしまった髪の毛が目に入った。弱いところなんてないと思っていた姉ですら、傷つくことがあるのに、自分が無事でいられる筈がないだろう。
「心配なの、飛鳥のこと。飛鳥には何も響かないかもしれないけど、本当に、飛鳥には危険なことしてほしくないし、傷ついてほしくない。……あの夜、廃工場にいたのよね」
「……うん」
「理由は聞かない。でもこれ以上危険なことしないで。それから、あんな嘘、もう吐かないで」
そう言って白鳥は自分から離れていった。いつも優しい笑みを浮かべている口角は強ばって、柔らかな琥珀色をした眼はひどく悲しそうに歪んでいた。
そんな白鳥の顔を見ていられなくて、飛鳥は両腕で目を覆い隠してしまう。
「……飛鳥」
「うん、大丈夫だよ」
「ねえ、飛鳥」
「ごめん……僕、今、姉さんの顔見たくない」
「ん……分かった」
目の前にあるのは暗い闇。白鳥がすぐ傍にいるのに、彼女の温度を感じられない。寒くて、まるで独りでいるみたいだった。
「私、出かけてくるから、鍵かけといて」
「帰ってこないんだ」
「どうせ明日朝早くから出なきゃいけないし、このまま署に戻った方がいいわ。早朝から動き出しても起こしちゃうでしょ」
飛鳥は黙ったままだった。白鳥が荷物をまとめる音がして、ほどなくしてリビングの扉が開く音が聞こえた。
「おやすみ」
飛鳥がおやすみを返すより早く、扉は閉ざされてしまう。だからおやすみと言えなかった。いや、元より言う気がなかったのかもしれない。
誰もいない、何もない。秒針の音と冷蔵庫のモーター音だけが飛鳥を包んでいる。この音をどこかで聞いたことがある。そうだ岬紅野の家だ。ここは、岬紅野の家と変わりはしないのだ。
それに気づくと、今度はどこかへ逃げ出したくなってしまった。今外に出たら白鳥と鉢合わせてしまうだろうか。そんなことを考えながら腕を外すと、時計の針は先程から既に半周していた。なんだ、もう姉さんはいないだろう。
ぼやける視界のまま外に出る。夜の帳が下りた世界は、半袖で歩き回るには肌寒かった。しかし飛鳥は家に戻る気にはなれず、スニーカーで歩き出した。
街灯の光が等間隔で道路を照らしているが、その白い光は夜を明るくしてくれず、むしろ寂しく見える。
目的地はない。当てもなく歩いて、歩いて、ふと遠くの街灯の下に人影を認めた。そのシルエットに見覚えがあるような気がして、飛鳥はすぐに駆け寄った。
「……は?」
「……あ」
右耳にピアスを煌めかせる少年。そこにいたのは、沖原灰慈だった。
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- 3−7 ( No.37 )
- 日時: 2018/12/25 01:00
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: arA4JUne)
3−7
「なんでこんなところに」
困惑する飛鳥を他所に灰慈は踵を返そうとする。待って、と飛鳥は慌てて灰慈のパーカーを掴んで彼を引き止めた。
灰慈は迷惑そうに飛鳥の手を振り払ったが、そこで素直に立ち止まった。
「なんで君がこんなところにいるんだ。しかも、こんな時間に」
「……お母さんに会いに来た」
「……お母さん?」
「でも『コレ』着けたままじゃ会えないから、戻ってきた」
灰慈はそう言いながら、指先で右耳のピアスを弄る。そんなの外せばいい、と言えば灰慈は驚いたような顔で飛鳥を見た。しかしすぐに、どこか寂しそうにして視線を落としてしまう。
初めて灰慈の姿を見た時、彼の耳にはもっと多くのピアスが着けられていたような気がする。けれど今は右耳の小さなピアス1つしかない。きっとただの外し忘れだろう。
それだけのことで「会えない」と口走る灰慈を飛鳥は不自然に思った。
「……離せよ。もう帰る」
「帰るって、ひとりで?」
「ああ」
「もう11時はとっくに過ぎてるんだ、危ないよ」
「アンタだってこんな時間にひとりで外にいるだろ」
「僕はいいんだよ。家、近いから」
灰慈は不服そうにして飛鳥を睨みつける。街灯の光を受ける灰慈の顔はやはり幼かった。それもそうだ、だって彼は3か月前まで中学生だったのだから。そう考えると、尚更彼をこのまま放っておくわけにはいかなかった。
うちにおいで、と飛鳥が言えば、灰慈は飛鳥への反抗で顰めていた顔を今度は怪訝さで顰めるのだった。
「なんで、アンタの家なんかに」
「最近、この辺りの治安は悪いんだ。『あの人』の傍にいる君が、気付いてないわけないよね」
岬紅野を示す言葉を放った瞬間、暗い目が分かり易く見開かれる。
「これからうろつくよりはずっといい」
灰慈は目を伏せて黙り込んでしまった。すぐに反論してこなかったのは、彼がいつも岬紅野の隣にいて、戦況を感じ取っているからだろうか。
長い間があって灰慈は静かに頷いた。しっかりとした首肯ではなく、こくり、と首を小さく動かしただけだった。
生み出す言葉は強いし棘がある、眼光も鋭い。その容姿さえも周りを拒絶するように作り上げられているのに、灰慈は出会ったばかりの飛鳥に大人しく従うのだということを知ると、飛鳥は漠然とした恐怖を感じた。
あんなに紅野を信仰しているようだったのに、それ以外の人物にも簡単に靡いてしまうのだ。意思が薄弱なのか、否そもそも彼に意思は存在するのだろうか。
飛鳥が歩き出すと、灰慈は口を閉じたまま飛鳥の後ろをついてきた。2歩分の距離は開くこともなければ近づくこともない。飛鳥は後ろを振り向かなかった。自分のとは違う足音はずっとついてきていたので、振り向く必要が無かった。
自宅に着くと、飛鳥は灰慈を連れて勝手口の方に回った。それから自分は鍵を使って玄関から入り、勝手口で待たせていた灰慈を家の中に入れる。灰慈はこんな時にも「失礼します」と小さな声で言った。
2階の自室に上がり、飛鳥はベッドの下から冬用の掛布団を引っ張り出して床に敷く。
「敷布団じゃなくてごめん。これしかないんだ。だから今日はここで寝て」
灰慈は黙って首を縦に振る。それから、カーペットに靴底が接地しないようスニーカーを裏返して、敷布団の頭の方にそれを置いた。
「タオルケットと掛布団があるんだけど、どっちを使う?」
「……タオルケット」
「分かった」
飛鳥は灰慈にタオルケットを差し出す。灰慈は両手で受け取ると、タオルケットを自分の上に広げた。しかし上体を起こしたままで寝転ぼうとはしなかった。ずっとタオルケットを握ったまま、自分の手元を見つめている。
「……寝ないのかい?」
「ああ……うん」
肯定か否定かも分からない曖昧な返事。飛鳥がベッドの上に身体を倒すと、灰慈もやっと横になった。
掛布団を肩まで引き上げる。外に出ていたせいだろうか、今日は少し寒い気がした。
飛鳥の部屋の窓から街灯の光は入らない。真っ暗だ。何も見えない。灰慈の控えめな呼吸音だけが灰慈の存在を教えてくれる。
「……灰慈くんは」
「その呼び方やめろ」
「慣れ慣れしかったかな」
「アイツと同じ呼び方するな」
「アイツって……海黒さんのこと?」
無言。肯定だろうと捉えた飛鳥は、彼を何と呼ぶべきか頭の中で考える。「沖原くん」や「沖原」は、今更という気もするし彼にとっては抑圧的かもしれない。だとしたら「灰慈」か。しかし瞬間紅野が脳裏を過ぎって、飛鳥は紅色の残映を払拭するように頭を横に振った。
「……君は」
結局出てきたのは、当たり障りのない二人称だった。
「どうして、こんな時間にあそこにいたの」
「さっき言っただろ」
「そうじゃないよ。どうして、君がこんな時間に外出できていたのかなって思ってさ。普通は、他の家族に止められるじゃないか」
「母子家庭だから。お父さんいないし」
「……なんかごめん」
「別に」
父親がいないことを打ち明けた灰慈の声に悲壮感はなく、彼にとって父親がいないということは、大したことではないのだろうなと何となく思った。
上手く眠れないのだろうか、灰慈の方から衣擦れの音が聞こえる。
「……紅野さんには、止められなかったのかい」
「……なんで紅野さんが出てくるんだ」
「だってあの人は君のことを気にかけてるみたいだったから」
「あの人は、家族じゃない」
重く、暗闇に沈んでいく言葉。
「そうか……そうだよね」
この同調が正しかったのかどうかは分からない。再び訪れた静寂が正解を提示してくれることもなかった。
これ以上話しても無闇に灰慈を傷つけるだけかもしれない、と飛鳥は唇を結んで、灰慈に背を向けるようにして寝返りをうつ。
けれど沈黙に綻びを作ったのは、独り言を呟くような灰慈の声だった。
「アンタは無色(colorless)なんだろ」
驚いて灰慈の方を向く。灰慈がどの方向を見ているのかは分からなかったが、確かにそれは自分に向けられていた。
責め立てるでも馬鹿にするでもなく、単純な事実確認。そう思わせるほど、灰慈の声音は無機質で抑揚が無かった。
「君にも、僕が無色(colorless)ってことが分かるんだね」
「いや、オレには分かんねえ」
「え?」
「紅野さんやアイツほど、オレの《COLOR》は強くない」
「ああ……そっか」
「紅野さんが何度もアンタの話するから、知ってるだけだ」
アンタが無色(colorless)だろうがどうでもいい、と灰慈は吐き捨てた。ついこの間まで、少なくとも飛鳥の方は灰慈を認知していなかった程なのだから、急に興味を持てということの方が難しい。
飛鳥が腹の底に抱える悩みなど、他人からしてみれば取るに足らないことらしかった。
「もし」
「……もし?」
「アンタにも——《COLOR》があるかもしれないって言ったら、どうする」
——取るに足らないことなのに、飛鳥の周りの『他人』は、それを何度でも刺激しては飛鳥を乱す。
「なんだよ、それ」
「……いや、何でもねえ。忘れろ」
「笑えない冗談はやめてくれ」
灰慈は返事をしなかった。冗談なのか本気なのか、彼の声音からは判断できなかった。否、どちらかといえば真剣だったような気がする。
ねえ、と灰慈に話しかける。応答はない。眠ってしまったのだろうか、と一番小さな明かりをつけると、仄かな橙の光で瞼を閉じた灰慈の横顔が明らかになった。彼の横顔は鼻先や頬のラインがまだ丸みを帯びていてあどけないものだったが、目の下の隈や絆創膏が、彼が普通ではないことを教えてくれる。右耳のピアスは着けられたままだ。
灰慈は敷いた掛布団の端を握って、身体に巻き付けるようにして眠っていた。タオルケットだけでは寒かったのだろう。初めから遠慮せず、掛布団の方を選べばよかったのに。
飛鳥は灰慈の手から布団を引き抜いて、自分の分の掛布団を彼にかけてやった。
それから別の毛布を取りに、自室のドアを静かに開けた。
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