複雑・ファジー小説
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- 憂鬱なニーナ
- 日時: 2015/12/19 22:27
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
改名したので、お伝えしておきます。
朝倉疾風(アサクラ ハヤテ) → 夜枷透子(ヨカセ トウコ)
大幅に。思いきって。
五年間の朝倉とサヨウナラ。
ついったぁ @_aiue_ohayo
──日常に蔓延る、小さな狂気を。
登場人物
春名依空……蜷川、若狭とは幼なじみ
蜷川月子……通称「ニーナ」
蜷川時恵……ニーナの叔母
若狭壮真……金髪ピアス 総菜屋の息子
茶谷咲和……依空に一目惚れしたいじめられっ子
天羽カヲル……中学時代、咲和と同じクラスだった
秋月冴香……いじめの主犯
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.27 )
- 日時: 2015/12/22 18:41
- 名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)
『ノスタルジックメモリー03』
ぼくと友達になりたいと宣言してから、伊槻さんはぼくに話しかける頻度が多くなった。ニーナがいるところだとぼくが怒られるということがわかって、空気を読んでくれた。掃除の時間やニーナが眠っているあいだ、「ねーぇ、ねーぇ、春名」と変に間延びした口調で。
会話の中身は空っぽのゴミ箱のようで、こんなことで話しかけるなと思うことばかりだった。
というか、意味がわからない。
ぼくに話しかけるメリットのほうがない気がする。面白くもないだろうに、どうして関わってくるんだろう。友達になりたいとなんて、おかしい。一方的にぐいぐいと押されている感覚に戸惑う。すでに彼女のなかでぼくは友達認定されているらしい。
やったー、ぼくにも友達ができたーと手を上げて喜ぶわけにはいかない。
伊槻さんの面倒くさいところは、ぼくと向き合おうとするところだ。
「春名はひとりっ子?」
「そうだけど……」
「あー、そうっぽいね。私は弟と妹がいるんだぁ。双子だよ、双子」
「ああ、そう……」
美術の授業で隣の席の子の顔を描いていた。二人組になって、机を動かして向かい合って座る。ぼくの隣は伊槻さんだ。パーツがすっきりしているから、描きやすいと思う。気になってぼくの幼なじみたちを探した。窓際の席でニーナはぼんやりと遠くを見ていて、隣の男子が困ったように、ノロノロと鉛筆を動かしている。見かけとギャップのある若狭は、真剣に食い入るように女の子を見つめていた。頬を赤らめている女の子の心情を察すると、天然タラシな若狭の頭を叩きたくなる。照れて手が止まってしまっているじゃないか。
ニーナと席が離れているのをいいことに、伊槻さんが隙を見ては話しかけてくる。
「お父さんとお母さんはいるの?」
「いるけど……お父さんは単身赴任中だし、お母さんも仕事で滅多に家にいない」
「ああ、ちゃんとどちらもいるんだね」
「……いるよ。どっちも」
そっちの意味で聞いてきたのか。もしこれでどちらかがいなくても、伊槻さんはかすり傷程度も同情なんてしないだろうな。されても困るけど。
「へぇ、ひとり親家庭っぽいのにねぇ」
「どうして」
「春名、暗いもん」
性格の明暗さを分けるのは家庭環境だけじゃないと思うんだけどなぁ。ぼくの暗さが滲み出る絵になりそうだ。
家族のことを言われても困る。ぼくは家族とか、よくわからないから。お母さんはあまり子どもに干渉しない人だ。ぼくが何か言っても「ああそう」か「それはダメだよ」としか言わない。一応、話は聞いてくれるので、ぼくのことを疎ましくは思っていないと思う。ただ他人事のように聞いているだけで。
「蜷川は母子家庭なんでしょう」
「知ってたの?」
「噂で聞いたよー。あれでしょう、暴力とか振るわれているんでしょう?」
話が聞こえたのか、ギョッとした顔で前の席の子がこちらを見る。ぼくと目が合って、あわてて前を向いた。抑えているけど、伊槻さんの声はよく通る。ニーナに聞かれてはいないか横目で確かめる。停止していた時間が流れるように、ニーナがゆっくり手を動かしていた。こちらの声は聞こえていないようだ。
伊槻さんの目を描くのが難しい。くっきりとした目を、陰影をつけて描くという高度な技は、鉛筆を少し横に持たなければならない。慎重に濃淡を表現している自分が、真面目に絵を描くことに取り組んでいることに気づいた。なかなか上手いんじゃないか、ぼく。
「実の親から暴力を受けるのって、どういう気持ちなんだろうねぇ。私にはわからないけど、すっごくつらいのかなぁ。憎むって気持ちが生まれるのかなぁ」
「知らないよ。そんなこと知って、どうするの」
「わかりたいんだよ。あの子の気持ちを」
鉛筆を動かしていた手が止まった。
「子どもってどんなことをされても親が好きなんだよ。私だって、お母さんすごく鬱陶しいときあるけど、それでもいつか許しちゃってるんだもん。きっと縁は切れないんだよ。家族の縁っていうやつは、ずっと死ぬまで絡みついているの」
切れない縁。
切ろうと思っても、絡みついてくる縁の糸。
ニーナの母親はどうしようもない人間だ。
感情の起伏が激しく、情緒が不安定で、大人なのに子どもっぽい。大人と子どもの境界線がどこからどこまでなのかわからないけど、親としてはいろいろ欠けている人だった。陽子さんという名前のニーナの母親は、昼間はめったに家にいない。水商売をしているらしく、朝に帰ってから簡単に家事をして、そこから眠り、夕方に起きて仕事に向かうという生活を送っていた。父親とはニーナが保育園に通っているころに離婚している。でも、何度か知らない男の人が家に出入りしているのを見かけたことがある。
子どものニーナは母親に異議を唱えることも、自分の思いを訴えることもしない。
自分に与えられる暴力や罵倒が、愛情であると考えている。
子どもには親しかいない。何をされても文句を言わずに親を慕い続けている。周りの大人がニーナを保護しようとしても、ニーナ自身が母親と自分を離れ離れにさせないように噛みついていくのだから、しょうがない。介入することが難しい。
「それって、他人が切ることはできないのかな」
「むりだよ。春名にはできない」
きっぱりと無力さを突きつけられてしまった。べつに、わかっていることだからへこまないけど。
「少なくとも、蜷川のことを受け入れてしまっている春名には、無理だね」
「受け入れている……?」
「蜷川がふつうの家庭の子だったら、春名なんて相手にしないもん」
ボキッと、鉛筆の芯が折れた。無意識に圧力をかけすぎていた。
伊槻さんがそれに気づき、笑って鉛筆削りを差し出す。
「貸してあげる」
「……伊槻さんって、いったいなんなの?」
短時間でぼくの心の内側を見透かしすぎだろう。
鉛筆削りで、リンゴの皮を剥くように芯を尖らせる。削りカスはあとで捨てに行こう。
「ぼくの心が見えるの?」
「透明で空っぽだから、春名の考えていることなんてすぐにわかるよ」
「それって……なんだか怖いよ」
「ちっとも怖くないよ。弱虫だねぇ、春名。今まで人間と分かり合おうとしなかったから、慣れてないんだねぇ」
不慣れの問題でもないと思う。伊槻さんという得体の知れないものへの戸惑いが、ぼくを動揺させている。
「それに、私の友達だし」
隙間風が吹くほど穴だらけの心に、ぴったりと埋まるように伊槻さんは話しかけてくる。入り込む隙を見て、近づいてくる。それを拒否しようとしないのは、ぼくが許しかけているからだ。伊槻さんの友達になってやらなくもない、と。
チャイムが鳴って、お互いの絵を見せあった。
伊槻さんはぼくの絵を見て高い声で笑い「上手すぎだよ、春名」と称賛してくれた。対して伊槻さんの画用紙の中のぼくは、どこか眠たげで輪郭がぼやけていた。でもなかなか特徴をつかめている。
あとでニーナの絵を見たけど、そこには隣の男の子の顔ではなく、母親の顔が描かれてあった。にっこりと優しい笑みを浮かべるその絵を見ていると、なんだか胸が苦しくなって、ニーナのことがかわいそうになった。
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.28 )
- 日時: 2015/12/25 12:19
- 名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)
七月十三日。水曜日。
茶谷が秋月たち女子に脅しで立ち向かってから、ピタリといじめがなくなった。入れ違いに、今度は秋月が学校に来なくなった。噂によると家に引きこもっているらしい。
どうして茶谷が来ているのに秋月が休まなきゃいけないんだ。そういう理不尽な理屈を並べ立てて、クラスメイトは茶谷を無視しだした。元から関わりたくないという顔をしていたけど、今は秋月を不登校に追い詰めた元凶として茶谷を異端視している。意図して茶谷の存在が無いように思わせているけど、実際は悪意の塊だ。茶谷への嫌悪感が漂っていて、何とも居心地が悪い。
対して当の本人はまったく気にしていない様子だった。
相変わらず前髪は鬱陶しかったが、うつむくことはない。以前より生き生きして見える。そして、何より僕をじっと見つめていた。視線を四六時中感じていて、それが教室への居心地の悪さを倍増させている。
見ている、と思って視線を向けると、必ず目が合う。そのとき彼女の口元が若干笑みを浮かべる。寒気を感じずにはいられないけど、努めて平常を装い、僕はそれなりに普通の日々を送っていた。
ニーナは茶谷がいることが気に入らないらしく「腕を切ったことを謝らせてやる」と意気込んでいたけど、それは丁重に断っておいた。あんなやつに謝罪を要求したって無駄に終わる。
静かに、流れるように、時間は過ぎる。
一学期終了までの残り少ない学校生活は呆気なく過ぎて、とうとう夏休みに突入してしまった。けっきょく秋月は学校には来なかった。
夏休みは僕にとって至福の時間だった。
部屋にスウェット姿で引きこもり、ゲームをして漫画を読んで、ドラマを見て、寝る。その繰り返し。ニーナも暇なようで、しょっちゅう僕の家を尋ねに来る。連絡も入れないし、インターホンを押すこともなくなったため、正直、心臓に悪い。男の部屋に堂々と入ってきて「まだ寝てんのか、起きろ、クズ」と僕の安眠を妨害する。
夏休み三日目。
この日、僕は夜更かしをしてしまったため、昼過ぎまで深い眠りについていた。タイマー設定にしているクーラーが作動して、部屋全体が適度に涼しい。天国だ。薄いシーツに包まって心地良さを堪能していたが、誰かが階段を上ってくる音に目を覚ます。
またニーナか。
一昨日も眠気覚ましと言わんばかりに腹を思いきり蹴られた。いろいろなものが口から溢れそうになって、しばらく起き上れなかった。僕が咳き込んでいるのに、ニーナは心配するどころか弱々しいと吐き捨て、女王様キャラ全開だった。もう女王様キャラがなんなのかもわからなくなってきている。
足音が部屋の前で止まった。……話し声が聞こえる。
ニーナと、誰かいる?
もしかして若狭か?
でも若狭は昼間も仕事があるから、僕の家を尋ねてはこないだろう。じゃあ誰がニーナと一緒にいるんだ。
軽くパニック状態になっていると、扉がゆっくりと開かれる。変な緊張感が襲ってきて、冷や汗が噴き出る。
そして、
「グッモーニング、春名くん」
顔を覗かせたのは仏頂面のニーナと、満面の笑顔の天羽さんだった。
僕の部屋に、天羽さんとニーナがいる。
ニーナ以外の女子が家に来たのなんて久しぶりすぎて、妙に息がつまる。部屋全体を見渡して「ふうん」と何か言いたげに頷く天羽さん。まだ洗顔も何もしていない僕を見て、口角をもっと上げる。
「春名くん、すっごい寝癖だね。そんな恰好で平然としていられるなんて、ちょっと美的センスを疑うよ」
「お前たちが勝手に尋ねてきたんだろうが。僕の家をどうやって知った」
「月子ちゃんに教えてもらったんだ」
「はっ、えっ、嘘」
動揺してニーナを見る。あれほど周囲に対して壁を作っていた彼女が、自分から僕の家を教えたというのか。人間の成長を身近で感じていると、僕の心が読めたのか、テレパシーを受信したのか、彼女から頬に熱い平手打ちをくらう。いひゃい。
「まぁ、本当は別件で外に出ていたんだけど、月子ちゃんとばったり会ってね。春名くんの家に向かう途中だと言われて、面白そうだと思ったから断られるのを覚悟で、ご一緒してもいいか聞いたんだよ」
「そ、そうですか……」
「月子ちゃんも、なんだか自分に聞きたいことがあったかのように思えたことだし。春名くんの部屋を見てみたかったし。だから、来た!」
ヒリヒリした頬を撫でて、痛みに耐えていると、驚きもしない天羽さんが説明を付け足し続ける。
もうなんなんだ、この人。図々しくないか。
でもニーナが招き入れたんだから、追い返すわけにもいかない。……招き入れるも何もここは僕の家なんだけどな。いろいろとツッコミをいれたいところはあるけど、多彩な個々にいちいち目をつけていたらきりがない。
「月子ちゃんって呼ぶな。きもい」
天羽さんの説明に異議を唱える。
にっこりと笑顔を取り繕ったまま、天羽さんは僕に
「秋月冴香が不登校になっていたらしいね」
ときりだした。
乾いた手で胸の縁をなぞられたような感覚がした。
手で触ってみてもわかる髪のはねを直しながら、「そうだよ」と返事をする。
「咲和ちゃんの影響力って本当にすごいよ。科が違うのに、こっちにまで噂が広がっているんだから。有名人だよね。冴香ちゃんはビビッて、終業式にも来ていなかったみたいだし」
「秋月とお前は仲が良かったんだろう?」
「まぁ、あっちはそう思っていたみたいだね」
「だから過去形で言ったんじゃないか」
中学時代の色鮮やかな思い出は灰色に書き換えられ、天羽さんにとって苦い記憶となっている。秋月という人物も、天羽さんにとってはただの薄っぺらな存在らしい。友情という虚像で固められた彼女たちの中学時代は、思っているよりも複雑な感情が絡み合っているらしい。女って怖い。
「それで、お前はどうして僕に会いに来たんだ」
「自分が春名くんに用事というより……月子ちゃんのほうが自分に用事があるように思えたんだけど。違ったのかな」
ニーナが?
天羽さんが呼び方を改めないことが気に食わないのか、先ほどから噛みつきそうなほど僕の隣で威嚇している。視線で人を殺せそうなほどだ。
「月子ちゃんって呼ぶなって言っているだろう」
「怒ると可愛い顔が台無しだよ。でも、本当に可愛い顔しているよね」
「……名前も、顔も、嫌い」
嫌悪感を表に出しているけれど、本当は母親とそっくりの顔も、対になっている名前も気に入っているのだ。ただ他人には呼ばれたくないだけで。
「じゃあ、自分もニーナちゃんって呼んだらいいのかな」
「私のことを呼ばないで。今、私がお前と話しているのは聞きたいことがあるせいなんだから。それ以外は、お前と関わる必要がない。だからお前が私を呼ぶことはない」
「一方的だね。でも、自分も知り合い程度の関わりがいいよ。楽だし、友情なんて育むつもりもないけどね。まぁ、それはお互いさまだろうけど」
笑顔を崩さず天羽さんが僕らの関係性に見えない線を引く。
お互いにそこから出ようともしていないから、その線引きは明確だった。僕はこの二人が揃うと蚊帳の外になっているので、口を慎む。成り行きを見守る。
「茶谷咲和という女を消したい」
ニーナの言葉に天羽さんは軽く頷く。こちらもカレシの一件があるため、茶谷への淀んだ感情を持っている。不幸になればいいとさえ言った。明らかに他人を恨んでいる目だった。恋愛事が絡むと一気にややこしくなるな。友情を築かないのなら、愛情も湧かなくすればいいのに。でも、そう簡単に人の心ってコントロールできるものなのかな。
友情なんて面倒くさいと言うわりに、天羽さんは自分から憎悪という、最も心を披露させる感情を抱いているけれど。
「あいつはイソラをずっと見ている。私にとってそれはとても迷惑なこと。イソラは、あまいから。……あいつを助けるかもしれないから」
「助ける、ねぇ」
天羽さんが僕をちらりと見る。茶谷の家を訪問しにいったこと、そこで起こったこと、見たことをニーナに伝えていないんだな、と確認するために。アイコンタクトでそれに答える。言っただろう。ニーナに知られるとまずいんだって。
読み取ってくれたらしく、天羽さんはますます笑顔になる。何がそんなに面白いんだろう。言っておくけどお前だってニーナの狂気の矛先になりえるんだからな。
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.29 )
- 日時: 2015/12/25 17:50
- 名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)
僕はここでは口を挟まないほうがいいかもしれない。
寝癖を直すことと、二人の会話を聞き洩らさないように集中する。
「あの女はどうすればイソラを諦めてくれるの。お前からイソラに移ったように、他のやつを好きになる可能性だってあるでしょう」
「そうだね。……これは単に想像だけど、徹底的に心を砕けば諦めてくれると思う」
「そんなこと、どうやって」
「きみと春名くんが、咲和ちゃんの前でいちゃつけばいいんだよ」
きみと、でニーナを。
春名くん、でぼくを指さした。
当然だろう、と天羽さんが言う。
「自分のときも、カレシとの家から出てきたところを目撃されていたんだ。それが原因で咲和ちゃんは、ああいう奇行を起こしたと思っているんだけどね」
「待って。僕はニーナと付き合っていない」
こればかりは大きく訂正させてもらう。天羽さんが深くため息をついて、眉間にしわを寄せた。
「事実はどうであれ、咲和ちゃんがそう思っているんなら、二人の関係は恋人だよ」
「いや……でも、いちゃつくとか無理だ」
「春名くんって奥手だね。これぐらいで赤くなっちゃってさぁ」
「赤くなっていない。青ざめているんだ」
僕の声を無視して、天羽さんがニーナの方へ向き直る。
ニーナもそんなに真剣な顔をして考えなくていいから。
「でも、夏休みに突入しているから、しばらくは顔を見なくてすむだろう。その間に忘れられているといいねぇ」
そう言って天羽さんが立ち上がる。
「帰るのか?」
「たいして面白そうなものもないし、エロ本も見当たらないし」
「早く帰れ」
「そうさせてもらうよ。ああ、あとね」
忘れ物を思い出したかのように、天羽さんが振り返る。
先ほどまでの人の良さそうな印象を与える笑顔は消えうせていた。
僕に向かって偽善者だと吐き捨てたときの顔で。軽蔑している顔で僕を見下す。
「春名くんが偽善者である限り、咲和ちゃんはきみを諦めきれないよ」
♪
天羽さんが帰ったあと、僕はやっと洗顔と着替えを済ませた。
外は暑いから暗くなるまでうちにいるというニーナが、空腹を訴えてくる。冷蔵庫を開けて適当に作る。母親が栄養士だと冷蔵庫の中はすっきり整理整頓されているのに、探すとけっこういろいろな食材が出てくる。
野菜をたっぷり入れたラーメンを無言ですする。
麺を口に入れる際に、長い髪を耳にかける彼女の仕草が美しかった。素直に認めよう。見惚れる。昔は野菜が苦手だとわがままだったけど、今では食べられるようになった。時恵さんが持って帰った惣菜以外では、栄養など気にせず空腹が満たされればいいという考えを持っているニーナは、放っておくとどんどん痩せていく。この子の栄養管理まで僕はしているんだなと思うと、なんだか飼育しているみたいだった。
食べ終わり、食器を洗って片づけたあと、部屋に戻る。
戻ってもすることがないので、テレビをつけた。ニーナが僕の足の間に座り、興味もないくせに画面を見る。ニュース番組だったけど、気になる出来事もない。芸能人の離婚や他県の殺人事件なんて、僕たちには関係のない話だ。
ニーナの頭を撫でてみる。触れたとき、彼女の体が竦んだのがわかった。驚かさないように、細い髪を手のひらでとかしてみる。
他人に触れられることに慣れていないニーナは、僕が触る位置を変えるたびに、体を竦ませる。肩の力が入ってしまっている。ゆっくりと手を滑らせて、肩もみを始める。少し力を入れただけで折れてしまいそうな首が、気持ちよさにゆらゆら揺れる。暇つぶしで肩もみを始めたけど、意外と手が疲れるな。
「眠っていないよね?」
「うるさい。続けて」
「……ものすごくウトウトしているけど」
「小さい頃……お母さんに髪の毛を洗ってもらったことがあるの」
ギクリとして手が止まりかける。続行しなければ不審がられると思い、動揺を隠すために手の力を少し強めた。
ニーナは構わず話しだす。
自分のことを虐待した、あの人の話を。
「お風呂に一緒に入ったときに、一度だけ……くすぐったかったけど、笑っていると大きく開いた口に泡が入って、すごく不味かった。お風呂から出たあと、お母さんに肩もみをしたんだけど……何歳の頃だっけかなぁ」
遠い遠い記憶。
嫌な記憶で埋め尽くされた、微かな親子の思い出を僕に話してくれている。たぶん片手で足りるほどの年月しか生きていない頃の話だろう。母親について語ってくれるのは、ずいぶんと久々だ。中学校以来……だったか。
僕としては、母親に重ねられているようで少々複雑だけど。これは嫉妬ってやつなのか。
「お母さん、今、どうしているかなぁ」
「恋しい?」
「寂しい」
「僕がいるのに?」
嫉妬だなんて、おこがましい。
母親の代わりでもいいと、空いた穴の埋め合わせでもいいと、覚悟を決めたのは僕の方だろう。
ニーナが困ったように振り返る。
今、僕はどんな顔をしているんだろう。彼女に見せられる顔をしているだろうか。ニーナはじっと僕を見つめている。何か言いたそうに、けれどそれを押し込めるように、唇を噛む。こいつ、普段どうでもいい罵倒は躊躇いもなく出てくるのに、こういう肝心なところでどうして言葉が竦むのだろう。
じっと待っていても返事はなさそうだ。
「僕がいるのに?」
もう一度尋ねる。
これで返事がなかったら、この質問の答えを諦めよう。
そう思っていたのに。
「イソラがいてもだよ」
彼女が笑う。
儚げに、消え入りそうに、寂しそうに。
僕がいることの理由を曖昧にさせて。
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.30 )
- 日時: 2015/12/26 23:48
- 名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)
気づけば、家の外が真っ暗だった。
時刻は八時を過ぎている。
肩もみをしたあと、指相撲やトランプなどをしたり、テレビをじっと見たりして、それなりに暇な時間を共有した。そろそろ涼しくなっているのではないか、とニーナが外を見る。
「そろそろ帰る」
「送ろうか」
「ひとりで帰れる」
「バカ。お前は暗いところを嫌うだろう」
暗闇を生理的に好まないニーナを送るため、僕も腰を上げた。
玄関で靴を履いているときに、予想外のことが起きた。
僕の母親が、ちょうど帰宅したのだ。
じつに顔を正面から眺めるのは、一年ぶりになる。背の高い女性で、長い髪をひとつに結んでいる。自分で思うのもあれだけど、僕とよく似ていた。特に目鼻立ちが、親子であるということを証明してくれている。
母さんは僕とニーナを見て、少しも驚いていないくせに「あらら」と発した。とりあえずリアクションをとってみたといった感じか。
そして、他人行儀の笑顔を作るわけでもなく、淡々と「来ていたのね」とニーナに言って、去って行く。ほんのりとお菓子の甘い残り香が鼻腔をくすぐった。彼女が無断で僕の家に入ってくるのを知っているからか、咎めはしない。そもそも、最初から叱ることもなかった。
干渉をすることもなく、放置する。
ニーナに対してもあの人の気は一ミリも動かなかった。
「イソラと似ているけれど、中身は冷たいね」
「僕の心はあったかいって?」
「ちっげぇよ。お前の心は、空っぽなの。温度なんてない」
言って、ニーナが外へ出る。それに続く。
とても涼しいとは言えなかった。生暖かい風が僕らを包んで、気持ち悪い。並んで、手をつないで歩く。
「僕だって悪口を言われて傷つく心ぐらいはあるんだよ」
「そんなこと思ってもないくせに」
「本当だよ。ニーナの悪口は大歓迎だけど」
「変態で気持ち悪い。死ね」
本当はわかっている。
ニーナが暴言を吐くのは、それでしか人と関われないから。そういう関わり方しか知らないのだから、それは当然だ。周囲はそんなニーナを理解できず、わかろうともせず、離れていく。
受け入れたのは僕だけだ。
──いや、受け入れた……わけではない。
ただ、流しただけだ。聞き手となり、理解者のふりをして、ニーナのすべてをわかったつもりでいるだけで。
ただの卑怯者……。
偽善者だ。
天羽さんの言うとおり。
「ニーナが死んでから僕も死ぬよ」
後ろ向きなプロポーズをしてみる。
覚悟も決意もないのに、口先だけの軽い言葉がつらつらと出てくる。
ニーナは、たぶんそれを見抜いている。
でも、彼女の周りには僕しかいなかったから、今も一緒にいる。
「なにそれ」
そのとき、視界の端に、ゆらりと蠢く人影が見えた。
「後追い自殺みたい」
その声はニーナのものではなかった。
人影がこちらに駆け寄ってくる。その手に、きらりと光る何かが見えて、「ニーナ!」反射的に繋いでいたニーナの手を引っ張る。左によろけたニーナは、突然のことにバランスを崩してその場に崩れる。立たそうとして左手をぐいっと引き上げ、彼女の体を支えた。
そいつは、フード付きのパーカーを着ていて小柄だった。
右手に包丁を持っているのは、気のせいだと思いたかったが、どうやら幻覚ではないらしい。
茶谷か、と一瞬思ったけど、声が違うことに気づく。
「ニーナ、下がってろ」
そうは言ってもこっちは丸腰だ。
そいつがお構いなしにニーナに向かって包丁を振り上げる。
格闘ゲームを思い出して、それと同じように足でパーカーの手を蹴り上げた。「ぐあっ」と鈍く声はあげたけど、包丁は落とさない。態勢を整えてから、僕ではなくニーナを目がけて襲い掛かる。
焦って手を伸ばした。
だけど、ああああ、間に合わないなぁ。
「いっくん」
その呼び方、何年ぶりだろう。
今ここでそう呼ぶなんて、ずるいなぁ。
「ニーナ」
僕の目の前で、ニーナが刺される。
ズタズタに引き裂かれて、赤い血が、たくさん出て──
まったく。
僕の目の前で、いったい何人の女の子が死ぬんだろうな。
腹から血を流したニーナを抱きしめて、叫ぶ、叫んでいるのかな、これ。叫べているのか、これ。なんか、声が空気になって口からゴボゴボ出ているんだけど。ああ、この感覚は覚えがある。脳味噌が熱くなって、視界が濁って、手足がしびれるやつ。僕がこうなった直属の記憶に値するトラウマが、奈落の底に突き落とす。這いあがれないように、呼吸を止めようとする。ニーナ、ニーナ、ニーナ、ニーナ──。
くっそ、あのパーカーはどこ行ったんだよ。救急車呼べよ。刺して逃げるぐらいなら救急車呼んでから逃げろっつーの。死ね!やっべぇよ、ニーナの腹から血が出ているし、なんかこいつ目を開けないし。ああ、僕が呼べていないからか。
呼吸が、
ふふーははー、
下手なものだから。
ついでに言うと、生きるのも面倒だから、このまま二人とも死んでくれてかまわないよ。死なせてくれ、神様。
ニーナとの約束、今度は守らないと。
ニーナが死んだら僕も死ぬってさぁ。
ああ、なんだか目の前が真っ暗だ。
もう早く意識を手放して楽になりたい。楽に、なりたい。
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.31 )
- 日時: 2015/12/28 12:12
- 名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)
『ノスタルジックメモリー04』
小学五年生にあがるクラス替えで、ぼくはまたニーナと同じになった。ついでと言っちゃあれだけど、若狭と伊槻さんもいる。もちろんその他にも見知った顔はいるけど、覚えていない。担任はまた鈴浦先生になった。
五年生になると伊槻さんは以前よりもっと話しかけてくるようになった。
ニーナがいようがいまいが、おかまいなしで。むしろ、ニーナとも仲良くなりたい様子だった。
夏の始まり。
それと同時に、体育でプールの授業が始まる。皮膚が食い込むようなピチピチのスクール水着を着て、水のなかでもがく時間がぼくはとても苦手だった。お風呂ならともかく、深くて大きい学校のプールは、溺れても誰も助けに来てくれなさそうで恐ろしい。カナヅチではない。溺れないように必死で泳ぐから。
ぼくは風邪や吐き気を言い訳にして、プールの授業をいつも見学していた。
水着に着替えるのが面倒くさいというのも理由だった。あとは濡れた髪とか、湿った更衣室のかび臭さとか塩素系の匂いとか…………たまらなく苦手だ。
見学者は体操服に着替えて、プール脇の長椅子に座る。プールから少し離れたところにあるため、どれほどプール内で騒いでも水がかからない。
その日は、ぼくの他にも見学者がいた。
伊槻さんとニーナが体操服姿で更衣室から出てくる。ぼくを見て伊槻さんは笑顔に、ニーナはたまらなく嫌そうな顔をした。
「へっへー。もしかして春名もあの日かぁ?」
「……何の日?」
「なんだよ、知らないのかぁ。からかいがいのないやつめっ」
よくわからないけど笑うところだったらしい。
鬱陶しそうに伊槻さんを押しのけて、ニーナがぼくの隣に腰掛ける。その隣に、伊槻さんが座った。……ますます顔色が悪くなったな、ニーナ。
クラスメイトが徐々に更衣室から出てきて、鈴浦先生の元に並びだす。早く水に触れたくてウズウズしているのがわかる。準備体操を始めた。
「春名はどうして見学してるわけ?」
「風邪だから」
「嘘つき。私は知っているよ。春名、面倒くさがりだからプールも嫌いなんでしょう」
「……伊槻さんはどうして休んでいるの?」
「エッチだね、春名」
ニーナがものすごい形相でぼくを睨んでくる。
いやいや、意味がわからないよ。
自分を挟んで会話をするなってことかな。
「なんでそうなるのかわからないけど、なんかごめんね」
「謝らないでよー。悪いと思っていないくせに」
「……ごめん」
謝るんじゃないわよ、と伊槻さんが笑う。
ぼくと話していてこんなに笑う人を、初めて見た。珍しくてじっと見てしまう。ぼくをいじることに飽きたのか、伊槻さんが隣の少女の顔を覗きこむ。
「蜷川、そろそろ私とも喋ってよ。うざいでもきもいでもいいからさ」
「…………」
「シカトー?ねえねぇ、鼓膜が破れているのかなぁ。殴られすぎて」
「はぁ?」
「痣、見えてるよ」
つんっと。
白くて細い伊槻さんの指が、ニーナのうなじをつつく。長い髪で隠れている痣に、いつの間にか気づいていたらしい。驚愕の表情でニーナが伊槻さんを見た。こちらもまた珍しい。
何かを言おうとするニーナが、口を開く。手のひらでそれを押さえ、伊槻さんがぐいっと顔を寄せる。
「きみがお母さんを大好きなのはわかるけど、それが虐待を肯定する理由にはならないよ」
「んんんんんっ!?んんんんっ!」
「児童相談所の人、来ているんでしょう?とっとと保護してもらいなよ。そうでなきゃ、きみもお母さんも潰れちゃう」
伊槻さんの声が低い。笑顔だけど目は笑っていない。ニーナが目の前のクラスメイトを化け物のような目で見ていた。
周囲を拒絶するやり方をニーナは知っている。ぼくという存在が自分を受け入れてくれることもわかっている。だけど、土足で踏み込んできた挙句、ここまで真剣に言う人間への対処法を知らない。ニーナに対して誰も誠実ではなかったから。児童相談所の大人たちもニーナと母親の間で行われている虐待が、彼女にとって愛情であるということを理解しない。とてもじゃないけど、ぼくも誠実に向き合っているとは言い難い。
初めてじゃないのか。
こんなに彼女を心配して、気にかけているのって。
「ごめんね。こんな嫌なことを言って」
硬直してしまっているニーナを、伊槻さんは抱きしめた。
「でも、このままじゃダメだってことなんだよ」
子どもなのに、言っていることが大人のようだった。
「でも、それは伊槻さんが決めることじゃないよね」
「そうだよ。私が決めることじゃない。決めるのは蜷川だ。だけど……この子はすでに壊れていて、自分の意思では間違った方向へ行っちゃうから」
「かわいそうだからって?」
だからこういうふうにかかわってくるの?
伊槻さんはニーナの背中を優しく撫でながら笑う。
「かわいそうだからだよ。私が、きみたちを助けてあげる」
きみたちって……。それ、ぼくも入っているのか。どうしてぼくが助けられなきゃいけないんだ。伊槻さんの胸の中で、氷がとけたようにニーナが動き出す。伊槻さんを押して、逃げるようにベンチから降りてぼくの右隣に座る。毛を逆立てる猫のような動きだった。得体の知れないものに出会ったような顔で、伊槻さんを凝視している。
「伊槻さん、ニーナはそういうこと思っていないようだから。このまま見守ってあげたらいいんじゃないかな」
「……本当に、きみってやつは」
呆れ顔の伊槻さんはそれ以上、僕らに何も言わず、プールの様子を眺めた。
こんなに真正面からぶつかってくる人間を、ニーナも僕も知らない。鬱陶しいとも思うし、得体の知れないやつの侵入に不快にだってなる。だけど伊槻さんから言わせてみれば「それが友達」なのだろう。
本当にややこしいよ、友達ってやつは。