複雑・ファジー小説
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- 憂鬱なニーナ
- 日時: 2015/12/19 22:27
- 名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)
改名したので、お伝えしておきます。
朝倉疾風(アサクラ ハヤテ) → 夜枷透子(ヨカセ トウコ)
大幅に。思いきって。
五年間の朝倉とサヨウナラ。
ついったぁ @_aiue_ohayo
──日常に蔓延る、小さな狂気を。
登場人物
春名依空……蜷川、若狭とは幼なじみ
蜷川月子……通称「ニーナ」
蜷川時恵……ニーナの叔母
若狭壮真……金髪ピアス 総菜屋の息子
茶谷咲和……依空に一目惚れしたいじめられっ子
天羽カヲル……中学時代、咲和と同じクラスだった
秋月冴香……いじめの主犯
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.2 )
- 日時: 2015/11/13 19:39
- 名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)
「消えてもいいのかよ。僕が消えたら泣くくせに」
「泣かないよ。私は好きかどうかもわからない物体に涙を流すほど、お人好しではないから」
「矛盾だらけじゃないか。そもそも物体って…………お前は僕をどう思っているんだ」
「幼なじみ」
「…………うん。まあ、そうですね」
これ以上はきっとニーナも困ってしまうだろう。
僕とニーナは家が近所で、幼なじみで、腐れ縁だ。
けれどそれ以上に、僕としてはニーナを近くに置いておくことで、僕の日常を守っているつもりなんだけどな。
目を閉じて二人きりの時間に沁みていく。溶け込んでいく。ニーナと一緒にドロドロになって。ひとつになっていくみたいだ。
ああ、退屈だ。
ニーナが黙るととても退屈だ。
平凡で普通の光景。ニーナが僕にもたらしてくれる幸福。
それが、見せかけだったとしても僕は保身のためにそれを受け入れる。
嘘の幸せも、僕にとっては当たり前の日常なのだから。
六月十四日。月曜日。
雨天が続いていていい加減うんざりする。僕は雨があまり好きではない。地面を打ち付けるあの水音も嫌いだし、鼻につく曇り空の匂いも苦手だ。いっそう元気に泣き始める蛙なんて気持ちが悪いし、その死骸がアスファルトにめり込んでいるのを見ると憂鬱になる。洗濯物は部屋干しになるし、折り畳み傘はその雨から守られる範囲から出てしまっているカバンに対して防御力ゼロだし、湿気で教室は暑い。いいことなど何もない。
特に体育のある月曜日は本当に面倒くさい。
男子は外でソフトボールをするはずだったけれど、雨なので、体育館で女子と合同でバレーボールをすることになった。合同といっても、ネットを挟んで隣り合わせで、だけど。
僕は決して運動音痴というわけではない。
たかが体育ごときに汗を流す意味がわからないのだ。
自分のチームの出番を待つあいだ、ぼんやりとゲームを眺める。向こうでは女子がきゃあきゃあ言いながらボールを弾いている。
ニーナは、体育だというのに制服姿で、体育館の隅で体育座りをしている。
彼女はチームプレイというものができない。そもそも人間嫌いでもあるうえに、少しでも話しかけようものなら拒絶反応を示す彼女は、周りから距離を置かれている。体育教師も、ニーナの人間嫌いを目の当たりにしたことがあるため、あえて声もかけない。それが懸命な判断だ。教師として正解なのかどうかはさておき。
高い笛が鳴って、僕のチームの番になった。
こちらのチームのやつらがやる気満々で相手のチームを煽る。相手も負けずに言い返していく。よく噛まないな、こいつら。
ゲーム開始の笛が鳴った瞬間、その熱気はいよいよ高まって暑苦しくなる。
ふと、ニーナと目が合った。
早く終わらせろ。
ニーナの視線がそう訴えていた。
昼休みになると僕はニーナとひとつの机を挟んで、向かい合って座る。
いつも手作り弁当の僕に対して、ニーナは菓子パンだ。僕だったら毎日菓子パンなんて飽きてしまうだろうと、親に文句のひとつでも言いたいところだ。けれど、ニーナは文句どころか、当たり前のようにそれを食している。ちなみに今日は昨日と同じジャムパンだ。
「時恵さんってそんなに忙しいの?」
時恵さんというのはニーナの保護者で、叔母にあたる人だ。
僕の友達の母さんが営んでいる惣菜屋で働いている。そこから余った惣菜を買って帰っていると思うんだけど。
「お惣菜は朝と夕方用なの。お昼はパンがあれば私は大丈夫だから」
「お腹すかない?」
「べつに。食べられるなら、それだけマシだし」
家にいるときと違って、落ち着いた会話が成立している。僕以外の人間がいる場所だといつもの暴力性は影を潜めている。淡々とした、大人しい雰囲気。いろいろな性格の自分を使い分けているというよりかは、自然とそうなってしまっているようだった。
再び沈黙。僕らには静かな時間が多い。
さきほどの体育で見事チームを勝利に導いた僕のサーブを褒めてほしかった。まぁ、冗談だ。
もそもそと食べるニーナと、しゃきしゃき食べる僕。
足は速いくせに食べる速度は遅い。それは奥歯が何本か欠けているからだとわかっているから、何も言わないけど。
僕の弁当箱が空になったと同時に、教室の後ろで何かがロッカーに当たった音がした。
振り返る。
ひとりの女子生徒が床にうずくまっていた。
その近くを三人の女子が取り囲んでいる。彼女たちの表情は不快そうだったけれど口元が若干緩んでいる。笑いを堪えているようだ。
おいおい。これって。
六月になってグループが固定的なものになってきていた。だいたい誰がどんなやつで、自分をどう見てくれているのか分かる時期だろう。それと同時に、こいつとは気が合わない、喋りづらい、ノリが悪いなどと相手の悪いところが見えてくる時期でもある。
僕、そしてニーナはそういうグループ作りから脱却しているから、特に気にも留めていないんだけど。こうも悪意の塊がはじけているのを目撃してしまうと、とても憂鬱になる。嫌なもの見せるなよ、といった感じだ。
女子たちが「わざとぶつかるなって」と笑いながら言い、教室から出ていく。
残された子は顔を伏せたまま立ち上がり、よろよろとした動きで自分の席に座った。ずいぶん前髪が長い子だな。サラサラと金細工のような細い髪が肩から零れる。弁当を食べるわけでもなく、じっと俯いている。机の下で握られている拳が震えていた。
周りのやつらは「何今の」「女子ってこえー」「いじめ?」と、勝手に話し始める。
こういう空気って高校になってもあるものなのか。
当事者たちの問題には興味があるくせに無関心を装う。次は自分かもしれないと怯えながらも傍観者という立ち位置にいて、安全を確保する。賢いと言えば賢いし、正しいとか間違っているとかそういうことを言っているわけではない。
ただ、個人的にこの空気が好きではない。
何も見なかったことにして弁当箱を片付ける。
ニーナも菓子パンをすべて口の中に押し込んでいた。
ゆっくりと飲み込んでから、ニーナは心の内の不安を吐き出す。
「あの子を助けちゃだめだからね」
それが忠告だと僕は分かっている。
そして過去に僕が犯した罪への制裁だということも。
ニーナを見つめて、僕は彼女の心配が杞憂に終わることを告げた。
「安心して。もう誰も助けないから」
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.3 )
- 日時: 2015/11/14 19:53
- 名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)
学校が終わるとまっすぐにニーナの家に帰った。
降っていた雨はやんでいるけど、ほんのりと梅雨の匂いがする。
高校二年生になっても、僕らはきちんと手を繋いで帰る。僕が逃げないようにそうしているらしい。七年経っても僕への信用度はまったく変わっていない。どこにも行かないって言っているのに。
こうしてお互いの家に帰ることは僕らにとって当たり前になっていた。
僕の両親もニーナが来ていると「あら、いらっしゃい」といった感じで受け入れている。そもそも父さんは単身赴任中で二年ほど家にいないし、母さんも仕事があるから僕の家にはほとんど誰もいないのだが。
一人息子の部屋に女の子がいても動じないのは、それがニーナだからというわけではない。僕にあまり興味がないのだ。それには特に悲しいとか寂しいとか思ったことはない。僕にとっては至極当然のことだ。幼少期には少しだけ他の親とは違うなと違和感を覚えていたかもしれないけど、この人はこうなのだと割り切れば簡単だった。
うちの家族の、余計な詮索をせずに放置する姿勢が落ちつくのか、ニーナも僕の家に来ることに躊躇しない。
対して僕はというと。
ニーナの叔母にあたる時恵という女性が、どうにも好きになれないのであった。
「やあ、依空くん。元気だったかな」
一戸建ての家の玄関先。
花に水やりをしていた時恵さんが、僕に声をかけた。
耳や首が丸見えになっているほど髪の毛は短い。線の細い、凹凸の少ない身体は華奢で、弱々しい少年のようにも見える。小さい顔だが目はとても大きくて、凝視されると少し怯んでしまう。ニーナとはあまり似ていない。記憶している年齢は三十代だけど、全然そうは見えない。
「きみがここに来るのを私は一昨日の夕方から待っていたんだ。ようやくきみに会えて私はとても嬉しいよ。一昨日ぶりだ、きみを歓迎しよう」
「それはどうも。……珍しいですね。いつもは帰りが少し遅いのに」
「お惣菜が早く売れたので、上がっていいと言われたんだよ。ルンルン気分で帰ってみれば、手入れを怠っていたせいで花が枯れかけてしまっていてね。これはいけないと思い、急いで水を与えているところだ。ああ、そういえばこのあいだインターネットで通販というものをやってみたんだ。初めての体験だったけど、あれは便利なものだなぁ。思いついた人に拍手をあげたいね。そうだそうだ。とっておきの箒を買ってみたんだ。少し見てくれないか」
と言うと納屋から取り出した自慢げに箒を見せびらかす。うーん。普通の箒とどう違うのかが分からない。
僕の微妙な反応に気づき、時恵さんが肩を落とす。
「やれやれ。この箒の良さが分からないなんて……依空くん、きみにはほんの少しがっかりしたよ。いや、最初からきみには期待はしていなかった。微塵もね。きみみたいな小僧にうちの大事なニーナちゃんを渡せないな。修行をして出直してくるというのはどうだろう」
「さっきは歓迎するって言っていましたよね」
「私は忘れっぽい性格なんだ。それと同時に心が寛大でもある。なのできみが私のご自慢の箒を褒めなかったことも、ましてやリアクションがノーリアクションだったことも見逃してやることにするよ。さあ、私の家にようこそ。ゆっくりくつろいでいってくれ」
人当たりの良さそうな笑顔を浮かべて、招かれる。ニーナは一言も「ただいま」を言わなかったし、時恵さんもニーナとは目を合わさなかった。
部屋着に着替えたニーナが眠りにつくまで、三十分もかからなかった。
ニーナの自室に入った瞬間、糸が切れるように暴力性は影を潜めて、静かに着替えを澄ませ、そのままベッドに倒れ込む。そのあいだは口を開かない。まるで僕がここにいるということを忘れてしまっているかのようだ。もしかしたら、本当に記憶の消し炭になっているのかもしれないけど。
ニーナが眠ってしまってからは、僕の時間は自由に使うことができる。
このまま帰ってしまってもいいし、ずっとここにいてもいい。ニーナはきっと朝まで起きないだろうから。
静かに部屋から出る。微かなテレビの音が聞こえてきた。
そちらの方へ行くと、居間でテレビを見ながら時恵さんがカップラーメンをすすっているのが見えた。こちらも着替えたのか、スウェット姿になっている。本当に後ろ姿が少年みたいだな。
「そんなところに突っ立っていないで、入っておいでよ」
僕に気づいていたのか。
足音はたてたつもりはなかったけど。
言われたとおりにお邪魔して、時恵さんの隣に座る。なぜか正座で。
カップラーメンの匂いが部屋に充満していて、ここだけ別世界のように思えた。
「晩ご飯は食べていかないのかな」
「僕、カップラーメンって苦手なんですよ。インスタントも。味も濃いし体に悪そうだし」
「毎日ママンの手料理を食べているというわけだ。とても恵まれていることじゃないか。しかも依空くんのママンは働いているのだろう?働いている女性が子どものために毎日ご飯を作るだなんて、とてもとても愛されている証拠じゃないか」
「あの人がうちでインスタントばかり食べていたら、ちょっとイメージ崩れると思うんですけどね」
母さんの仕事は栄養士だ。
時恵さんは「そうだった、そうだった」と苦笑する。
「私は家ではあまり料理をしないんだ。仕事で惣菜と向き合っているから、家で料理なんてしたくないからね。だからイソラ母のように、仕事をしつつ食事を作る女性をとても尊敬する。真似したいとは思わないけども、拍手を送りたいとは思っているよ。きみも反抗期真っ盛りかもしれないが、親には感謝すべきだ」
「まぁ、食事面については助かっていますね」
「そうやって好きでも嫌いでもない親のことを認めたり、素直に受け止めたりできるなんて、きみも大人になったもんだね。えらい、えらい」
さらりと手を人に触れられた感触がして、そこに視線を落とす。本人の許可もとらずに時恵さんがおさわりしていた。本来なら僕の手首、といわずに体の隅々までもがニーナのものだから他人が触るなと言いたいところだ。でも少しでも血を分けている者なら我慢はできる。ベタベタ触られることも大歓迎だ。ただひとつ文句を言わせてもらうと時恵さんの手は冷たい。血が通っているとは思えない。ひんやりしていて、僕の体温を奪っていく。
「むっふふふ。私はいま依空くんの手をおさわりしているのだね。いやいや年頃の男の子の手をこの年になって触れるなんて思いもよらなかったよ。どうだい。ニーナちゃんなんてやめて、私と付き合わないか?」
「それは無理ですよ。僕はニーナ一筋なので」
さらりと嘘を混ぜて告白をしてみる。
あらま、と手で口をおさえる時恵さん。いや絶対にそのリアクションも嘘だろう。
「そうでないと困る」
口元にあった手は下ろされていた。
でも僕の手はしっかりと握られている。微妙に手の平を揉まないでいただきたい。
この人の周りだけスイッチが急に切り替わる。
今まで僕たちに流れていた空気ががらりと変わって、それに飲み込まれていく。その感覚は違和感でしかなくて、居心地が悪い。でも逃げることはできないから、時恵さんの言葉をじっと沁みこませるしかない。
「あの子をあんなふうにした責任は、きちんととってもらわないと」
その言葉だけで、僕を縛り付けることができる。
それを時恵さんは知っている。
僕が逃げないことを。
逃げられないと絶望したことを。
もう逃げないと覚悟したことを。
「そのつもりです」
ニーナから殴られるのは慣れているし、平凡な日常が壊されていくことにも怒りを覚えなくなった。怒るだけ疲れるということがわかったから。
「きみはあの子と一緒にいて疲れないのかい?」
明日のご飯はなに?とでも言うような軽い口調。
僕は頷いて肯定の意を表す。
小さくため息をついて時恵さんが僕の複雑な心情に対しての戸惑いを口にする。
「叔母の私が言うのもなんだけれどね。あれはそうとう間違えているよ。そもそも陽子姉さんの育て方が間違っていたんだから、無理もないんだけれどね。一般的な常識も道徳も通じない。愛され方も愛し方もわからない。そんなあの子と一緒にいる意味ははてさて、きみにあるのかな」
「一度ニーナから逃げました。それを後悔したから戻ってきたんです」
「なるほーど。きみは自滅を選んだってわけか」
「滅びるのならニーナと一緒がいい。それが本望ですから」
「そうだね。……確かにそうだ。そうだった。きみはそういうやつだった。きみがいない世界であの子は生きていけないだろうし、同時にあの子のいない世界できみが存在する意味もないだろう」
この人のことを僕は好きにはなれない。
だけど。
僕の大嫌いな人間を真っ向から否定してくれる人は、この人しかいなかった。
「依空くんは正しいよ。間違っているけど正しい。そもそも正しさなんて間違いがあってこそ成り立っているようなものなんだから。だから私はきみが好きだよ。きみは自分自身が嫌いでたまらないんだろうけどね」
時恵さんの言葉は水みたいだ。
冷たい水が僕の闇に浸透していって、馴染んでいく。
僕はこの人の前でだけ子どものように笑うことができるのだと思う。
「うん。かわいー笑顔だ」
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.4 )
- 日時: 2015/11/14 22:00
- 名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)
♪
ニーナ宅から家に帰る途中で、若狭壮真(ワカサ ソウマ)と会った。
六月の晩ご飯の時間帯はまだ日が出ていて辺りは明るい。すぐに十メートル先のコンビニから出てきたのが若狭だとわかった。向こうもこちらに気づいた様子で、足を止める。
若狭は明らかにデート帰りといった格好でした、はい。このヤロー羨ましいぜとからかってやろうかと思ったけど、僕も似たようなものかなと考え直す。若狭がひらひらと手を振ってきたので僕も時恵さんの冷たさが残る手を振り返した。
「久しぶり」
「どーもどーも」
若狭とは小学校の頃からなんとなく一緒にいた。
そのときから若狭の頭は色とりどりで、赤だの金だの茶だのいろいろ変化していった。四年生のときにピアスを開けて、若狭の「不良」というイメージだけが独り歩きしてしまっていた。……まあ、完全にクラスから浮いていたわけだ。それまでなんとなく友達だったクラスメイトが、ひとり、またひとりと彼から離れていった。
僕は若狭が髪を染めても、ピアスを開けても、一緒にいた。
あまり喋らないけど実はすごく優しい若狭との時間は、穏やかで平凡で、僕の求める「普通」そのものだった。外見は多少怖くても、性格は本当に大人びていて落ち着いている。
高校には進学せずに、女手ひとつで自分を育ててくれた母親に恩返しがしたいと、実家の総菜屋を手伝っているところなんて……なんというか、本当に、いいやつなのだ。
「二か月ぶりかぁ。なんか髪の毛伸びた?襟足、肩についちゃってるじゃん」
「普段は結んでいるんだけど……今日はカッコつけてみました」
「やっぱりデートかよ。若狭はカッコつけなくても格好いいんだから、そのままでいいんだよ」
「──お前ってなんでそんなに俺のこと褒めるわけ。俺のこと好きなわけ?」
「これっぽっちも!」
若狭と喋るとき、僕は自分でもおかしくなるぐらいテンションが高くなる。
きっとニーナといるときは絶対に感じられない「平凡」を満喫できるからだろう。そのときの僕はニーナの思い描く世界の中心人物じゃなくて、日常にすっかり溶け込んでいる通行人Aだ。心が軽いことこの上無い。
「蜷川は一緒じゃないんだな」
さすが若狭。何も言わなくても僕とニーナがセットだということは重々承知しているな。
こいつは僕がニーナに殴られているのをずっと見てきているから、他の人とは違ってその光景を見慣れているんだろう。
そして、ニーナはきっと思ってはいないだろうけど、若狭は若狭なりにニーナを友達だと断言している。
「時恵さんとはいつも店で会えるんだけど、蜷川は店に来ないからなぁ。……来るわけないけど。あいつって元気にしてるの?」
こうして蜷川の調子を伺うのも良心からだろう。お人好しがすぎるぞ、若狭。
「ニーナはすこぶる元気満点だよ。……というか、ニーナがひとりで総菜屋に行く光景とか想像もできないな」
「まずひとりで買い物とかできないだろ」
「できないだろうなぁ」
ニーナといると彼女の価値観で世界が見える。ひとつの島に二人きりという感覚に近いかもしれない。それはみんなから置き去りにされたんじゃなくて、僕らがみんなを必要としていないから。もっと言ってしまえば、ニーナが僕だけを必要としているから。
だからこうして、第三者と話しているときニーナのことを客観視できている自分に拍子抜けする。
「蜷川って今も相変わらずなの?」
「僕の体の傷は七年経った今でも耐えることはないよ」
「お前って本当に女の尻に敷かれるタイプだよな」
「恐妻家だからね、うちは」
冗談で言ってみる。かなりうけているのか、若狭がそっぽを向いて肩を震わせている。面白いのなら思いきり笑えばいいのに。
震えがおさまったところで若狭から提案があった。
「今から帰るところだけど、俺のうち来る?」
「明日の店の用意、しなくていいのか?」
「明日って火曜日だよな。うち火曜日が定休日だから、今日は仕込みしなくていいんだ」
「ならお邪魔しようかな。ゲームとかあるだろう」
「お前って本当にゲーム好きだよな」
「ニーナがいるとできないから……あ?なぁ、なんか聞こえないか」
耳を澄ませる。
先ほどから妙な音がするとは思っていたんだけど。
その音はだんだんこちらに近づいてきた。
若狭にも聞こえているらしく、怪訝そうに首を傾げる。
そしてそれは僕たちの前に姿を現す。
「うわあああああん、わおおっ、えぐっ、うおおおおおおおおっ」
ものすごく耳障りのある、ドブみたいな泣き声だった。ドブ、というのは一例である。
悲しみや怒りや戸惑いや嘆きなどが混ざって、汚く濁って、そのドブのような音がつんざく。
僕は顔をしかめたけど、若狭は特に表情を変えないまま、その音の発信元を目で追った。
周りの目を気にせず、己の中の淀みをぶちまける彼女を、僕はどこかで見たことがある。
でも思い出せない。鼻水と涙と汗とでベタベタになっている顔は歪んでいることを差し引きすれば、「そこそこ可愛い」の部類に入る。
ただ、分けられている前髪は長く、女子の首が上下に揺さぶられるたびに表情が隠れる。……誰だったかな。
「なんか変わってる子だな」
話しかけるのは躊躇われる。遠巻きに眺めているほうが安全だ。
若狭も簡単にその女子への感想を述べる。
変わっている、というか。
起伏が激しいだけじゃないのか。ものすごく泣いているけど、子どもみたいにああやって号泣できるなんて少し羨ましい。
ごしごしと目をこすって、腫れぼったい垂れ目が僕たちに向けられる。
そこに僕たちがいるということを初めて認識する。
驚いたように目が見開かれ、息を深く吸い込み、すべての動きを停止させる。
「春名くんだ」
僕の名前を呼んだ。
え、僕?
僕のことを知っているの?
「春名くんでしょう」
辺りをきょろきょろ見渡す。僕と若狭以外、通行人は誰もいない。さっきまで犬の散歩をしていたおじさんがいたんだけど、この不可思議な女子が出現して慌ててどこかへ行ってしまった。
体をくねくねと奇妙に捩じらせながら、髪を整え始める。
「へ、変なところを見られちゃったなぁ。いや、さぁ、感情の蓋があいちゃって、そこからぶわぁって変なのが出てきちゃって。だから、ああなっていただけで、咲和は変な子でも変わった子でもなくて、だから」
どうしよう。とてつもなくギャップがやばい。
さっきは起伏が激しいだけと思っていたけど、本当に変なやつかもしれない。いや、変なやつだ。変人だ。
慌てて自らの失態をカバーしようとしているけど、先ほど見てしまった奇行がインプットされているから、今さらだろう。なんでそんな恥ずかしがりやなキャラを作るんだ。もしかして、それが素なのか。
とは言え僕はどうしてもこの子が思い出せない。
さわ……さわちゃん。
ただの興味からなのか、若狭がまじまじとその子を見つめる。そんなに見たら失礼だろうと言いたかったけど、こんなやつに失礼も何もないだろうと思い、口をつぐんだ。
「お前って依空の知り合いなの?」
「そ、そうだよ!咲和はずっと春名くんを見てきたし、知っていたの」
「ふうん。お前のほうは……覚えがないみたいだな」
そうだとも若狭。僕はニーナ以外の人間を覚える必要がないから、正直、印象の薄いやつはほとんどモブキャラ扱いしている。でもこんな子の印象が薄いというのもおかしい話だ。薄いどころか生まれてきた星を間違えたんじゃないかと心配になる。
同じクラスにいたか、こんなキャラがめちゃくちゃなやつ。
同じ、クラス……。
……………………。
ああ、ああ。
「ああ!」
思い出した。
クラスでいじめられていた、あの子だ。
「やっと思い出してくれたね、春名くん」
教室で俯いた顔を決してあげない彼女が、僕の前で笑っていた。
茶谷咲和(チャタニ サワ)は、僕のクラスメイトだ。
高校二年に上がるときのクラス分けで同じクラスになった。
春の初めから明らかに孤立していて、陰口を叩かれていて、いじめられている。
声も小さいしいつも俯いているから、おとなしい地味なやつだと思っていた。小学校も中学校も違うからどんなやつかなんてわからないし、興味もないけど、どうやら本人は僕のことを知っていたらしい。
話したこともなく、目を合わせたことすらなかったのに。
そんな相手から「春名くん」と頬を染めながら名前を呼ばれたところで、戸惑いと困惑しか生まれない。
もっと言ってしまえば、気持ちが悪い。
自分が知らないのに、相手が自分のことを知っているというのは、フェアじゃない気がする。いや、相手と平等の位置に立とうとは毛頭思ってもいないから、べつにいいんだけど。あそこまで熱狂的に迫られると、さすがにどうして僕のことを知っているのか気になる。気になるけど、関わるのはごめんだった。
けっきょく昨日は興奮する彼女を落ち着かせて、暗くならないうちにきみも帰れと言い、若狭の家にも寄らずに帰宅した。
ああいうやつは、ニーナだけで充分だ。僕はこれ以上背負えない。背負いたくもないし、背負おうとも思わない。僕の退屈で平凡な時間はすべてニーナにあげているのだ。
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.5 )
- 日時: 2015/11/15 12:31
- 名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)
翌日。火曜日。
教室での茶谷はいつもどおりの茶谷だった。
今さらだけど本当にいじめにあっているらしい。授業中も教科書を広げておらず、休み時間に後ろのゴミ箱から見つけだしたり、ノートに落書きされていたり、消しカスを背中に投げられていたり。今まで茶谷のことを観察したことがなかったから、知らなかった。
それとなく様子を伺っていたけど、彼女は相変わらず俯いたままだ。周囲の冷やかしに挙動不審になりながらも、いつものように拳を震わせてじっと耐えているだけだった。
ひょっとして「昨日ぶりだね!春名くん!」と話しかけてくるのではないかと心配していたんだけど。
ニーナと同じで学校の一歩外に出ると性格が変わるとか?
そんなことを想像してみたりもしたけど、僕には関係のないことだ。昨日、垣間見えた薄気味悪い僕への態度も夢だったということにしておこう。茶谷が僕を知っていようが惚れていようが、僕の視線の先は常にニーナに注がれているのだから。
昼休みになる。
いつものようにニーナと向かい合わせで弁当を食べる。今日もニーナはパンだった。ちなみに種類はメロンパン。口にパンばかり含んでいると唾液が吸い取られて乾かないか。僕だったら牛乳がほしいんだけど。
そういえばニーナは牛乳が嫌いだった気がする。
給食のとき牛乳が飲めないから僕の机の隅に置いていた。でも僕も牛乳瓶二本分を飲むとお腹が痛くなるから、身長の高い若狭にあげていた。文句も言わずに飲み干す若狭は、ニーナから「それ、イソラにあげたのに」と喚き散らされても相手にしていなかった。
ニーナと若狭の仲は、ほとんど僕を通じての関係だったから、仲が良いというわけではなかったように思う。ただ、若狭のほうはニーナのことを妹のように思っているらしい。本人から一度聞いたことがある。僕を介してとは言え、なぜあの子に関わるのか。若狭は「死んだ妹に似ているんだよな」と答えていた。
「ニーナ、若狭壮真って覚えているだろう」
それとなく聞いてみる。
微妙に眉をしかめた。彼女の記憶が波打って、若狭壮真という人間を呼び起こす。回想と合致したのか、小さく頷いた。
「うん。あの金髪男でしょう」
「そうそう。若狭がニーナに会いたいがってたんだけど。今度、昔みたいに三人で遊ぶ?」
「ばっかじゃないの。私、あいつ嫌いなの。何考えているかわからないし、私が悪口言っても全然へこたれないし。イソラもあいつといると楽しそうだから」
それは嫉妬ってやつではないのか。
直球でぶつけられる思いがくすぐったくて、口元が緩む。いかん、いかん。我に返り、慌ててご飯をかきこむ。若狭に対する暴言は僕を独り占めしたいと思う気持ちの裏返しだったのか……。屈折した伝え方だけど、それしか知らないのだからしょうがない。
「うーん。ニーナといるほうが楽しいよ」
「嘘ばっかり。イソラはすぐに平気な顔で嘘をつくから信用できない。私を簡単に騙せると思わないで」
じろりと睨まれる。そんなに睨んでも子犬が牙を出して唸っているようにしか見えない。
「僕はニーナを騙してなんかいない。いつも誠実に向き合っているつもりだけど」
「嘘くさい。真顔で言うところが本当に嘘くさい」
「そこまで疑われるのは心外だな。そもそも若狭とは楽しいっていうよりラクチンって感じだから。気をつかわなくてもいいというか」
「私といると緊張するってこと?」
そりゃあ、いつ殴られるかわからないんだから、心構えぐらいするさ。それにニーナの暴力を受けとめることが僕の役目だから。
「ニーナといると癒されて心がポカポカしてくるよ」
実際は殴られたところが熱くなっているだけだけど。
ニーナは自分の胸に触れて、しばらく動かなくなる。少しして視線を上げて僕を睨みつけた。
「私は全然ポカポカしてこない。イソラの嘘つき」
「それを自分で確かめるのは難しいかな」
目には見えない部分だからね。
そう付け足してもニーナは理解していない様子だった。けど、それでいい。心が壊れているのだから、精神に異常をきたしているのだから、理解できるはずがない。
「……血、とか」
虚ろな眼球がぎょろりと、捉える。
「血とかで、あたたかいのかなぁ……。…………ん?」
ニーナの表情が固まった。目を丸くさせて、僕の後ろを注視している。「……?」何がいるんだ。ゆっくりと振り向く。
さっきまで自分の席でコンビニ弁当を食べていた茶谷が、僕の目の前に、にこやかに微笑んでいる。
「お話の途中でごめんね、春名くん。咲和も混ぜてもらっていいかな?」
おいおい、おいおい。
体が、固まる。
同時にクラス中の視線が、僕たちに向けられる。顔の筋肉が引きつる感覚がした。
茶谷が頬を赤らめながら、僕だけを見てくる。
沈黙をどう勘違いしたのかしらないけど、「えっと、えっとね」と焦りだした。
「あの、咲和のことを少しでも知ってほしくて。咲和は春名くんを知っているけど、春名くんは咲和を知らないっぽいから!」
空気を読まないやつだな、お前は。
横目でニーナを伺う。急に現れた、きっと彼女にとっては見ず知らずのクラスメイトの存在に、戸惑いよりも怒りをあらわにしている様子だった。食べかけのメロンパンが片手で圧迫され潰されている。茶谷を睨む視線は人を殺せるのかと思うほど鋭かった。
周りの他のやつらも茶谷がまさか、僕とニーナのところに行くなんて考えもしなかっただろう。遠巻きに見ていた連中は僕たちを好奇の目で見て、何かを囁き合っている。いじめていた女子たちも驚いた様子でこちらを見ている。その視線にさらされているなか、ニーナが暴れたり奇声をあげたりしないだろうかと不安になった。
「ごめん。今はニーナと食べているから」
彼女が何かを言い出す前に僕が話をする。
茶谷は大きく頷き、蕩け落ちそうな笑顔を浮かべて、ずいっと顔を近づけてきた。
「だから三人で食べようって言っているの」
「だれ、こいつ」
嫌悪感をあらわにしたニーナが茶谷を指さす。静かな怒りを包み隠さず、露骨に表情に出している。本当なら問答無用で僕を殴っているところなんだろうけど、僕たちがいるのは教室だ。そのことをニーナもわかっているからか、暴力の前にきちんと質問を挟んできた。えらい、えらいぞニーナ。七年という歳月を経て、成長した姿をこうしてクラスメイトに披露することができて、僕は誇らしい。……まぁ、冗談はさておき。
空気の読めない、そして何かとても大きな勘違いをしていらっしゃる茶谷を、ニーナにどう説明しようか迷う。戸惑っている。でもこれ以上、質問の返答を遅らせるとニーナの拳が振ってきそうだ。
だから、僕は保身のために、てきとうにこの場を切り抜ける選択をした。
「さあ。誰なんだろうね」
傷ついたという顔をされた。
茶谷の薄い唇が若干震えている。
無視を続けていると諦めたのか自分の席に戻る。さすがに今の彼女を直接からかうやつはいない。遠巻きに茶谷の行動を笑ったり、ドン引きしたりしているやつならいるけど。
僕に話しかけるのは百歩譲って良しとしよう。ただ、ニーナがいるのはいただけなかった。
「なんなんだ、あれは」
「あれ、という言い方はよくないな」
「どうして話しかけてきたの。どうしてイソラのこと知っていたの。なんで?私にわかるように説明してよ」
「うーん……きっと人違いだったんだよ」
「ふざけるな」
その目は、マジだった。
本気だった。
ニーナは、怒っている。
「大嫌いだ、お前なんか」
- Re: 憂鬱なニーナ ( No.6 )
- 日時: 2015/11/17 20:47
- 名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)
フルシカトだった。
僕の存在をことごとく無視して、いないものだとして、いっそ清々しいと思うほど徹底的に。目すら合わせてもらえていない。
七年間の記憶からも消そうとしているのだろうか。そんな努力は無駄に終わるのに。
とはいえ今のニーナに何を言っても聞き入れてもらえないのはわかっている。
諦めることも必要だ。
僕はその日、一人で家に帰った。
久々の、平凡な日だ。
部屋に入ってスウェットに着替えてテレビをつける。ドラマの再放送をぼんやりと眺める。家はとても静かだ。ニーナがいないからテレビの音しか聞こえない。どうしてこんな広い家を建てたんだろう。今となっては母さんと僕しか住んでいないようなものなんだから、アパート暮らしでもいいと思うんだけど。二人では広すぎる一軒家。父さんは単身赴任のため県外で一人暮らしを謳歌中。二人暮らしになってから、母さんとこの家のなかですれ違ったことがない。顔を合わせた記憶も……かすれている。
だから僕がこの家でやることなんて、ゲームか漫画を読むことくらいで。
でもその退屈な毎日が僕には必要だ。
ニーナといると心を浪費するから、たまには休憩としよう。
「うーん……いや、でもねぇ」
でもニーナがいないと、僕は本当にこの世界で存在する意味はあるのだろうか。
僕は彼女にしか必要とされていないのに。
この退屈のなかで、僕は世界に生きている意味が、ないのかもしれない。
考えるととても怖いことだ。恐ろしいことだ。ぞっとするほど不気味な話だ。
ニーナに依存されているように見えて。実際には、僕という人間はニーナがいないと成り立たない。これは……時恵さんにも言われていたことだ。その意味を深く理解したことはなかった。いや、避けていたと言ってもいい。僕にとって、僕という人間を証明することは、とても難しい。
「でも、あいつは僕を見つけてくれたんだよなー……」
茶谷のことを思い出す。思い出すと言ってもそもそもの思い出が無いから、頭に浮かぶのは昨日の茶谷と今日の教室での姿だけだ。この二日間の彼女の印象はくるくる変わっている。違和感ばかりで、歪んでいると言ってもいい。ニーナとはまた違った歪みだ。
だけど僕のことを──春名依空という僕の名前を、あの子は知っていた。
どうしてだ。
面識なんてなかっただろう。
同じクラスになってもまったく関わりもなかっただろう。
でも、きっと、その理由はひとつだ。
僕が気づいていないから。
茶谷が僕という存在に気づいていても、僕は周囲に目を向けられるほどの身分じゃない。ニーナ以外に気を向ける余裕なんてなかったのだから。
茶谷咲和という人間が僕に対して好意を持っていることに気づかなかった。
そういう視線を送っていることも。あの長い前髪の奥の瞳が、熱く僕を捉えていたことも。
うーん。
ただ鈍いだけじゃないところが僕の悪いところ。
「──ということなので、ニーナと絶交中なんですよ」
『それはまた……またまたきみというやつはやってしまったね。やらかしてしまったね。ついにやりあがりましたね』
スマホの向こうで時恵さんが大きくため息をつく。
火曜日は総菜屋の定休日だ。だから夕ご飯の前の時間帯でも時恵さんはいるだろうと、電話をかけた。言い訳もついでに言っておこうと思って。
『あれほどニーナは僕に任せておけと宣言していたのに、愛想を尽かされているじゃないか。きみというやつは本当に乙女心……ニーナ心がわかっていないのかな。もうずっと前からの付き合いどころか、これからも永遠に続くお付き合いになるというのに』
「しょうがないでしょう。不意打ちで声をかけられたんですから」
『本当にどうしようもなくしょうがないねぇ、依空くん。今まで直接的な関わりのなかった女の子が異性に声をかけることに、不意打ちもクソもないんじゃないかな。きっとその子はきみの知らないところで、きみの気づかないところで、そのタイミングを伺っていたんだろう。誰にも悟られないように、黒目だけを動かしてきみの後ろ姿を追っていたに違いない。たとえ声をかけたタイミングが微妙で空気の読めない行為になってしまったとしても、その子にとっては精一杯だったんじゃないかな』
何も言えない。
言い返すことができない。
内容は説教のようだったけど、時恵さんの口調は落ち着いていて流れるようで滑らかだった。
『ただ、その子にとって一番の落ち度は、相手が春名依空だったということだ。依空くんも気づいているとおり、きみにとっての絶対はニーナで、その逆もまた同じだ。そこに他者の介入なんて不可能だ。きみたち二人がそれを許さないだろうし、歓迎もしないだろうからね。さらに言ってしまえば、周囲の人間が二人の関係の深さを察する。察して、関わりたくないと思う。そんな泥沼の中に足を踏み入れたくはないかな』
僕とニーナをずっと見続けてきた時恵さんだからこそ、客観的に他人の歪みを言葉で表すことができる。複雑に絡み合っているくせに、糸をほどけば簡単な僕らのややこしい関係を。
『その女の子の異常なところは、きみたちに関わろうとしているところだ』
昼休みに話しかけられたときに一番に思った。
ニーナのことをこいつは知らないのか、と。
『正確にいえば、ニーナのいるところで依空くんに関わろうとしているところというわけかな。きみたち、学校でもいつも一緒なんだろう?金魚のフンのように。寄生虫のように。だとすれば、依空くんを見続けているのであれば、ニーナという邪魔者がいるということぐらい、その子はわかっているはずじゃないか』
「確かに……そうだけど」
『わざわざニーナのいる前で依空くんに気持ちをぶつけた挙句、三人で一緒にお弁当を食べましょうだなんて。面白い子じゃないか。ニーナが怒るわけだ』
「笑えませんよ、時恵さん」
茶谷のあの笑顔を思い出す。僕の言葉に一瞬でかき消されてしまった笑顔を。
人の心を傷つけるために、最も簡単な方法が言葉だと思う。
保身のために僕が発した言葉は、静かに茶谷に突き刺さって、思い出すたびに心を抉るだろう。それで僕のことを嫌なやつだと軽蔑してほしい。はらわたが煮えくり返るほど僕のことを恨んでほしい。僕への好感度なんて持つだけ無駄なものだ。
「僕は自分のことが嫌いです。保身のために人を傷つけることを何とも思えない自分が。こんな僕なんて、地球の一番汚いところでひとりぼっちで死んじゃえばいいんです」
『こらこら。ニーナと自滅の道を歩き出しているのに今さら何を言っているのかな。きみという人間は勝手に死ぬことも許されないんだよ。自殺なんてしやがってみろ。私がきみを地獄まで追いかけて二度殺してやる。だから二度死ね☆』
「そんなに死にたくない!」
天井に向かって叫ぶ。ベッドがギシリと揺れた。
スマホの向こうから時恵さんの笑い声が聞こえてくる。
この人は本当に、
僕を生かすことが上手だな。

