複雑・ファジー小説
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- 彼が愛した吸血鬼
- 日時: 2023/03/11 07:48
- 名前: ネイビー (ID: VYLquixn)
◎春だからかいくらでも寝れてしまうネイビー。
◎暇さえあれば何か食ってる。
◎楽しく書いていこう。春らしいの書きたい(大ウソ)
- Re: 彼が愛した吸血鬼 ( No.27 )
- 日時: 2024/01/21 07:15
- 名前: ネイビー (ID: QEDC6Aof)
葉山さんは異質なものを見るように僕を見た。僕と夕紀の関係性は単なる『友人』では括れないところにあり、当の僕たちも言語化できないものがある。名前をつけた途端、そこに固定されてしまう気がするから、避けたいところでもある。ただ、周りはそうはいかない。異質なものを排除したがる風潮にあるから。どこに行っても。だからわかりやすく『幼馴染』で説明しているんだけどな。
そんなにおかしいか?僕たちが。
自分のことは棚に上げるんですね、とは口が裂けても殺人鬼相手にとても言えない。
「洗脳されてるんだよ。古舘が都合良いように、雨村の脳みそ書き換えてんじゃん」
葉山さんからの反撃があった。
「それはオカルトすぎない?」
「雨村は古舘が神様か何かに見えてるんだろうけど、目を覚ました方がいいよ」
「なんで夕紀を敵視するんだよ」
「嫌いだから」
ハッキリと答え、深くため息をつかれた。
もういい。
小さくそう溢し、葉山さんは僕らに再び背を向ける。昨日も、彼女は何かに見切りをつけて去って行ったな。これじゃあ何も変わらないじゃないか。
待ってよと声を上げる前に、夕紀に腕を掴まれた。
教室から葉山さんが出ていく。
「あれは本物のヤバいやつだろ」
夕紀はそう言うけれど、やっぱり能天気そうな態度は変わらない。
「要するにシズのことが好きで、嫌いな俺がお前の近くにいるんが嫌だってだけだろ」
「……本当にそれだけだとは思えない」
「なーにーがぁ?」
ほんの少し苛立ちが混ざった口調。
「あの事件を知ってるんなら」
「知ってるんなら?」
「……見つかるかもしれない」
僕があの時めちゃくちゃにしたものが。
夕紀が複雑そうな表情で僕のを見据える。この視線から逃れたい気持ちもある。今までならそうしてきた。夕紀に護られる位置で、子どもみたいに泣いていれば来てくれるから。
だけど、本当にそれでいいの?と、もう一人の僕が問いかけてくる。
警察に葉山さんを突き出すのは簡単だ。それに本来はそうするべきなんだから。だけど葉山さんが当時のことを何か知っているのなら、突き止めたい。
「ちょっと追いかけてくる」
「……またぶっ壊れてえの?」
「それは嫌なんだけど……ちょっと、気になることが多すぎて」
「そこがお前の地雷だっつってんだろ」
いつになく真面目な顔だ。僕の腕を掴む力が強くなる。
「僕、本当に覚えてないんだよ。小学校の頃に葉山さんと同じクラスだったこととか、あの事件のこととか」
「だから思い出す必要無えだろうが」
「それって普通?!」
自分でも驚くほど大きい声が出た。
夕紀も困惑したようで、小さく息が漏れる。
「確かにあの頃の僕はおかしかったよ。家のことでボロボロで、夕紀がいなかったらどうにかなってたかもしれない。でも、覚えていないのも怖いんだよ」
「それが思い出したくないことでも?」
「全部夕紀にだけ背負わせてる気がする」
ああ、それが僕の答えなんだ。自分で言ってようやく気づいた。
どぶのような過去を唯一共有していたコイツに、僕の辛さごと背負ってもらっているのが、たまらなく嫌なだけだ。
驚いたように目を見開き、夕紀の手の力が緩んだ。
「そんなふうに思ってたのか?」
今度はひどく脆そうに。
「俺がお前を重荷に思うって……本気でそんなことを?」
「そうじゃない。自分のことぐらい自分で背負うってことで」
「バグってまた夜泣きがひどくなるだけだぞ」
「その時にまた支えてくれたらいい」
夕紀の手が、僕の腕から完全に離れた。視線で「もう行くよ」と訴えたけれど、目を合わせてくれない。
少し動揺しているようにも見えたけれど、言及しなかった。
僕は教室から出て、葉山さんが出て行って方を追いかけた。
なんとなく直感で彼女はこちらに行っただろうという気がしたのだ。
校舎にはまだちらほら残っている人がいて、走りながら移動する僕に怪訝そうな目を向ける。なりふり構っていられないので、こっちへ行っただろうという直感だけを頼りに、階段を登った。
……階段を登った?
僕ら1年の教室は中庭を通ればすぐに校門に辿り着く。帰るとしたらそちら側なのに、何故僕は葉山さんがこっちにいると思っているんだろう。
走りながらそんなことを考えたけれど、答えを見つける前に屋上へと続く非常口の前に立っていた。
この非常口は施錠されているはずだ。
望み薄くドアノブに手をかける。簡単に開いてしまった。
一歩中に入って、
小夜に、首を噛まれている葉山さんと、目があった。
は?
- Re: 彼が愛した吸血鬼 ( No.28 )
- 日時: 2024/01/31 09:05
- 名前: ネイビー (ID: QEDC6Aof)
葉山さんは後ろから小夜に抱きつかれる形で、血を吸われていた。血色の悪い唇は小さく開閉して、細い蜘蛛の糸のような涎がつたい落ちていた。俯いていた視線が少し上がって、僕を見たような気がする。恐怖を抱く光景も、一周まわると美しいなと場違いにも思った。
すぐに葉山さんの肉体はグシャリと萎む。小夜の髪がうねり、黒い影のようなものが出てきて、小夜自身ごと葉山さんを包み込んだ。
その黒い影の中から、耳の鼓膜にまで鳥肌の立ちそうな音がする。何か硬いものをすり潰したり、咀嚼したりする音。中を想像すると酸っぱいものが迫り上がってくるので、ただ目の前の非現実的なことへ意識を向けた。
やがて、音は止んだ。
影はズズズと引き返していき、そこには小夜だけが立っていた。
手には、葉山さんが着ていたであろう制服が握られていた。
「小夜……なんでここに……」
「何故ここに?きみの口から真っ先にその質問が出てくるとは思わなかったな。初めに話さなかったか。私は色々なものに紛れ込むことができるし、色々なものに変化できると」
「今、昼だぞ……。死ぬんじゃないのか?」
「曇りで太陽は隠れている。肌が焦げるほどでは無い」
確かに空は分厚い雲で覆われている。天気予報はいちいち確認しないし、空に構う気は起こらなかった。
「……葉山さんはどこに行ったの……」
今し方目にしたのだが、理解するには心が拒みすぎている。
小夜は制服を持つ手を上げ、僕に見せつける。
「喰った。きみも見ていただろう」
それはそうなんだけど、と。ひくつく喉元で粘り気のある唾を飲む。
訊きたいことが沢山あるのに舌がもつれて役に立たない。
「分からない……そういう顔だね。きっと様々な憶測をたてることすら、今のきみには難しいのだろう。この娘を喰らったのは、単なる気まぐれ……と言いたいところだけれど、そうじゃない。私だって、契約主の日常が脅かされるのは歓迎しないからね。不純物を排除した、ということだ」
僕の反応は予想通りなのだろう、小夜は淡々と言う。
不純物を排除した。
葉山さんの存在は僕にとって気にかかるもので、それは夕紀に直接の関わりがなかったとしても間接的に影響があるということ。その日常を、吸血鬼は吸血鬼のやり方で守った。
どうやら不測の事態でも脳みそは動くらしい。受け入れ難いけれど。
「もしかしてさ」
信じたくはない。
「夕紀が、頼んだ?」
小夜は少し困ったように「提案は私だ」と言い、ゆっくりこちらに近づいてくる。
対して僕は後退りし、そのまま派手に尻餅をついた。恐怖なのかなんなのか、もう自分でも自分がわからない。美しいと一瞬でも思った自分が悍ましい。
屈みながら小夜は震える僕の頬に手を添えた。ひんやりとした、滑らかな感触。
「同情したんだ。特にきみに」
同情。この世界で一番無意味な感情だ。
僕はそれをよく知っているのに。
「人間を喰らうと、その人間が強く抱く念のようなものを知ることができる。そしてそれは、第三者に共有することが可能だ。テレパシーみたいなものだね。きみはこの娘に何か訊きたいことがあったようだけれど、もしかしたら、その答えがあるかもしれない」
「なに、言ってるんだよ、化け物」
口から滑り落ちたのは、僕の精一杯の抵抗だった。
確かに知りたいと言った。
覚悟もしたはずだ。
今更怖いだなんて。知ることが怖いだなんて。夕紀が聴いたら笑うだろうな。……いや、夕紀は笑わないか。ただそのままの僕を受け入れるだけで。
小夜は片方の手を僕の頬から離し、そのまま手首を噛んだ。唇の端につく血を見て、少しだけ昔を思い出す。いつも、あの人の腕は傷だらけだった。
小夜の唇が僕のと重なる。
舌で無理やりこじ開けられて、流れ込んできたのは鉄の味。
そして、目の前に広がるは----
「チェリーのお母さんってすっごい若いよね」
そこは小学校の教室だった。
黒板に挟まれた四角い箱の中、椅子と机が等間隔で置かれ、そこに座っているのは制服に身を包んだ幼い子どもたちだった。
日付と日直の書かれている黒板には、右上に授業参観とある。対して背面の黒板には生徒たちが書いたであろう習字の作品が綺麗に飾られていた。
廊下にはちらほら複数の保護者が見える。
「再婚だから」
短く答えた少女に目線を向ける。
長い髪をふたつに結んだ、賢そうな少女。それが葉山さんだとすぐに分かった。面影がある。
葉山さんの周りには女子たちが囲んでいて、好奇心で輝く視線を向けていた。
「いくつなの?新しいお母さん」
「………ハタチじゃないかな」
「ハタチ!?やばー!!」
「20歳ってことはさ、大学生なの?」
「いや、よくわかんない」
「チェリーのお父さんお金持ちで、お母さん美人で若いっていいなぁ」
「ねー!羨ましいよねー!」
葉山さんが迷惑そうにしていることに、友人たちは気づかない。大きな声ではしゃぎまくり、それらは教室内にいた他の生徒にも聞こえているのだろう。彼らも廊下を見て「もういないや」「もう帰ったんかな」「複雑な家庭ってやつやんな」等と話し始める。
授業参観に若い母親が来た。父親の再婚相手。本人と10歳しか違わない。周りは羨ましがっているけれど、それは葉山さんにとっては羨望とは真反対の、好奇と異質の対象物に自分がされていると感じていたのか。
闇。
葉山さんの心に生まれた闇が、僕に連動しているように伝わってくる。
「あいつの親、来てなかったよね」
そのうち、一人が葉山さんの時とは違い、声をひそめて話し出した。
「あいつの親は来たらやばいでしょ」
「警察呼んでいいぐらいって、うちのママ言ってたわ」
「てかあいつどこ行ったの?」
「わからん。古舘くんとどっか行った」
「古舘くんのお母さんも来てなかったよね」
「1年の時に見たことあるけど、めっちゃ綺麗だった!ちょっと派手だけどさ」
「私も見てみたかったなー」
彼女たちの会話をもっと聞こうとすると、ぐにゃりと視界が歪みだした。
場面が変わるのだ、と何故か確信することができた。
その通りで次に僕がいたのは教室ではなく、体育館の近くにある外トイレだった。
- Re: 彼が愛した吸血鬼 ( No.29 )
- 日時: 2024/02/06 23:10
- 名前: ネイビー (ID: QEDC6Aof)
体育館の隣の外トイレは、暗くて寂しくて、普段はあまり使われていない。どうしても体育中に尿意を催したら使う生徒はいるけれど、不気味がって友達に「ついてきて」と懇願している。ここに掃除当番になると、湿った匂いが嫌でハズレだと嘆く生徒もいる。会談が流行っていた頃は、トイレの花子さんがいると面白がって上級生がノックして「花子さん」を呼びに行く。
その外トイレに、男子生徒が二人いた。
一人は規定の制服を着ており、少し襟足を茶色に染めた少年。もう一人は私服だったが、肩まで伸びた髪はボサボサで前髪も鬱陶しそうに視界を遮っている。
僕は、その二人が夕紀と僕自身であると確信していた。
頭を掻く私服の僕は、トイレで吐いたのか、涙で濡れた顔もそのままに呆然と壁に持たれて立っていた。対して夕紀は、僕の吐瀉物を拭ったであろう大量のトイレットペーパーをトイレに何回かに分けて流し、時折、僕の顔を覗き込んで「いけるかー?」と話しかけている。
その言葉に小さく頷いたあと、僕はずるずるしゃがみ込んだ。
「気持ち悪いんだったら、保健室行くけど」
うーとかあーとか唸る僕は、今の僕から見ても獣みたいだ。
会話が聞こえるほどこんなに近くにいるのに、二人は僕の存在に気づいていない。いや、見えていないようだ。
……なんだか客観的に見ても、この時の僕は色々と問題がありすぎて、木叢団地の住民ということを除いても、かなり異質だ。ふつうにこんなやつが同じクラスにいたら怖いだろう。この時、夕紀以外の人間は自分から一線も二線も引いていて距離を感じていたけれど、当たり前だ。髪も伸び切っていて、服もボロボロで地雷を踏まれてトイレで吐きまくるような子ども、誰も近寄ろうとはしないだろう。
当時の頃をよくは思い出せないけれど、家にいても命が危ないしご飯が出ないから給食を求めて登校していたのは覚えている。
「シズのランドセル持ってこよーか?帰りたくないなら、俺んち来ればいいじゃん」
「……まだ学校終わってないし」
「ゲロ臭いまま教室に戻るなよ。俺の体操服貸してやるから、着替えてこい」
「僕んち洗濯できないよ?」
「家に帰ったら俺に返せばいいから」
あーなんだか思い出してきた。
僕の家では妙なルールがいくつもあって、それを破ると脳みその中を全部ごちゃ混ぜにさせたような両親が殺しにかかってくるから、夕紀の家で洗濯をさせてもらってたんだっけ。夕紀の母親はあまり家にいないタイプの人だったけれど、当時の僕からすれば、親のいない家が心底羨ましかった。
二人のやりとりはその後も続く。それを眺める僕は、どうして今こんな、非日常なことが起こり得ているのかと考えることはしなかった。できなかった、というのが正しい。ただそこにある情景を眺めることしかできない。
「服汚れたの?」
気がつけば。
眺める僕の後ろから声がした。
二人とほぼ同時に振り返る。
当時の葉山さんがいた。
「雨村くん、体調悪そうだったから。気になってきたの」
本心からの言葉なのだろうか。
夕紀が庇うように、幼い僕の前に立つ。いつものヘラっとした表情で。けれど、警戒している目で。
「ちょっとこのままいる。もう授業、始まってるけど。戻らなくていいのー?」
「……古舘くんの方こそ、戻らなくていいの?」
「見りゃわかるじゃん。俺はシズといるから」
葉山さんが少し首を傾げる。納得していなさそうに。その態度に苛立ったのか、夕紀は大きくため息をついた。
「戻っていいって。あんまり他の奴らに見られたくないだろ」
「心配しているだけだよ。保健室に行くなら、私も付き添う」
「……ちょっと前からなんなん?シズのこと好きなん?」
夕紀の口ぶりから察するに、こういうお節介を葉山さんは焼いていたのだろう。
……なぜか僕は覚えていないんだけれど。この場面も僕の記憶には全くない。
「私と同じだから」
葉山さんはハッキリと言う。
「家に居場所がないのは、私と同じだから」
そこでまた、ぐにゃりと視界が歪む。
ブラックホールみたいな空間に誘われながら、そこで僕の中に、洪水のようにいろんな感情が混ざってくる。
雨村くんと同じ。
私も、居場所がない。
新しいお母さんは、優しいけど、気持ち悪い。
お父さん、お母さんは、どこにいったの。
周りの子達みんな嫌い。
雨村くん、雨村くんも、おうちは嫌い?
お父さんとお母さん、大変なんでしょう。
古舘くんじゃなくて、私を見て。私を、知って。
雨村、雨村、雨村、雨村………。
これは、葉山さんの気持ちだ。
僕に届かなかった、あるいは僕が何らかの形で失った、彼女の思い。
拒むことができないまま、強制的に流れ込んでくるそれらは、僕にとって正直重たいものだった。
彼女は家庭への不満から、僕に似たような境遇であると心を寄せていたのか。
……なんだ、それ。
はっきり言うけれど、全然だからな。きみと僕とじゃ不幸の重さが違う。不幸の重さ。そんなことを思うのは傲慢なのか。不幸なんて人それぞれで、その身に降りかかる重さは平等なんかじゃない。分かってはいるけれど……きみは恵まれている方だろう、葉山さん。
浮遊感で吐きそうだ。胃が押し寄せられる感覚。幾度となく経験した。なんせ人のことをサンドバッグか何かみたいに殴る奴がいたものだから。はーっはっはっは。……いけない。精神が崩壊しそうだ。もうしているのかもしれないが。
やけを起こしそうになったけれど、今までの浮遊感が急になくなる。
次に僕がいたのは、自分の家だった。
- Re: 彼が愛した吸血鬼 ( No.30 )
- 日時: 2024/02/25 21:47
- 名前: ネイビー (ID: QEDC6Aof)
僕の家は、今も住んでいる木叢団地のA201なんだけれど、内装だけを見ると本当に今住んでいる家と同じかどうか疑わしいぐらいだ。家中の壁にびっしりとセロハンで貼り付けているのは、父親が描いた不気味な絵。彼はこの絵に語りかけ、この絵と共に共存していた。絵は全て鉛筆で描かれている。幼い女の子が描いたような、バランスの悪い漫画風のイラストがほとんどだけれど、時々何かの波長が乱れたのか、目玉がいっぱいの動物や人の手足を持つ昆虫なども描かれていて、ご丁寧に濃淡まで意識している。
それらの絵は壁中を埋め尽くすだけでは飽き足らず、押し入れの奥やベランダにも進出している。まさに狂気の沙汰だ。
久々に当時の家の様子を目にして、さすがに動揺はするのだが、どこか他人事のようにも感じる。
不気味な絵に囲まれた部屋の一室で、幼い僕と、上に覆い被さる女が見えた。どちらもよれたシャツとズボン姿。露出している肌の表面を汗が伝い落ちる。女は何か言っているけれど、呂律が回ってなくて聞き取れない。ベタベタと手垢まみれの湿った手で、僕の両頬を撫で回しながらタコのようになっている。……この人は、度々こうなる。電池が切れるというか、違う次元に回路を繋げているような頭のイカれ具合。この人がこうなると、しばらく僕は玩具同然になる。何もしない。抵抗せず、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。
錆びれたインターホンが鳴った。何度も。
「雨村、いるでしょう」
出てこないことを不審に思ったのか、扉の向こうから呼びかけられる。
その声の主は葉山さんだった。
「今日休みだったから、先生に頼まれて宿題持ってきたんだけど。開けてくれる?」
……宿題を持ってきたというのは、たぶん嘘だ。
木叢団地の治安がよろしくないことは、担任だけでなくここらの大人なら知っているだろうし、そんな危険なところに女生徒をたった1人で送り込むなんてことは、絶対にしない。ましてや、僕の家に宿題を届けるなんてことは絶対にない。
葉山さんの来訪に、女はずるりと力を抜き、僕のすぐ隣で荒い呼吸をし出した。女が退いて僕の身は自由になる。のらりと起き上がり、玄関の方へ足を引きずるように移動する。扉を少し開けて、相手が葉山さんだと分かるとすぐに閉めようとするが、相手にそれを阻止される。片足を扉の間に素早く差し込まれ、葉山さんが僕を引き摺り出す。
「ねぇ、雨村。痛いことされてた?「ちょ、まって「私が助けてあげるからね。雨村のこと私が一番わかってるから「いいいい、いいっ、そんなのいいから「ねえ今すぐ逃げ出そう?ここから逃げようよっ!早く!」
ぐいぐいと腕を引っ張られる。葉山さんってこんなに行動的だったのか。もっと言葉を選ばずに言うのなら、こんな……僕の家に来ちゃうぐらい、頭ぶっ飛んでたのか。今の僕にはこの時の記憶も、葉山さんが接触してきた記憶も、本当に覚えていない。ここまで僕に関与していたのか、この人。なんで僕は覚えていないんだろう。
「いやだって言ってんだろうが!!!」
その怒声が僕のものだと、僕自身がわからなかった。
葉山さんを突き飛ばし、肩で呼吸しながら、必死で拒む。
そこから、僕自身の鼓膜に粗い砂が入ったような不協和音が流れ込んだ。幼い僕が何か、とてつもなく酷い言葉を葉山さんに使っている気がする。でも、それは今の僕には聴こえてこない。
逆に流れ込むのは、異常なほど僕に執着する葉山さんの気持ち。
喋ってくれた!雨村が!雨村が私に喋ってくれた!
すごい!私のこと見てる!
雨村が!
私のこと見てる!!!見て、喋ってくれてる!!!
体に触れてくれた!!!
雨村!!!
それ以上は辞めろ。吐きそうだ。
いい加減にしろ。これは、現実なんかじゃない。僕の中に無い記憶だ。
固く目を閉じる。もうこれ以上何も見たくなかったから。鼓膜を傷つけるみたいな不協和音が、だんだん薄れていく。
「シズ」
名前を呼ばれた。
その瞬間、不協和音は完全に止む。
目を開けようか迷う。呼んだ相手のことをこんなに怖いと感じるのは初めてだ。
「ごめん、シズ」
夕紀が僕を抱きしめていた。
高校の屋上。先ほどと変わらない景色。ただ夕紀がそこにいる。当たり前のように。
- Re: 彼が愛した吸血鬼 ( No.31 )
- 日時: 2024/03/04 20:13
- 名前: ネイビー (ID: QEDC6Aof)
09
先ほどとなんの変化もない曇り空は、僕の鬱々とした心情を表しているようだった。ひんやりしたアスファルトの感触。覆い被さるように抱きしめている夕紀の温かさが、今はとても別のものに感じられる。視線をずらすが、小夜の姿はどこにもなかった。
夕紀は僕の後頭部に重ねた手のひらを動かし、ゆっくり髪の毛を指先に絡めながら、もう片方の手でリズムを取るように背中を叩いた。
「……葉山さんを、どうしたの」
口の中にじんわりと、鉄の味が広がる。飲み込むには悍ましい味。
「小夜が、葉山さんを喰ったって………。さっきまでここにいた」
「……それは嘘だろう」
「嘘なんかじゃない!!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。感情的になるなと、努めて冷静に、残っている理性で呼吸を整える。
夕紀がゆっくり僕から離れた。
「小夜はさっきここにいた。ここにいて葉山さんを喰らった後、僕にそのの血を飲ませた。そしたら昔の僕と葉山さんが視えたんだ。小学校の頃の僕たちが、ハッキリと視えた……っ、全然、僕の記憶にない事ばかりだった!」
自分の身に起きた事を覚えていないのは、恐ろしい。僕の傍にいた夕紀は知っていたはずだ。知っていて、黙っていたのか。……僕のために?それは、本当に僕のために??
「夕紀、なぁ夕紀、僕はどうしたらいい?僕の記憶は何が正しいんか、わかんねぇんだよ……!」
今まで僕が夕紀に疑心の目を向けたことはなかった。信用と信頼。友人以上の強い絆が僕らにはあった。少なくとも僕には夕紀しかいないから。
でももし、僕の記憶に齟齬が生じていて、それを夕紀が全て分かっていたのなら。
…………あの事件のことを夕紀は絶対に何か隠している。
「わかんねぇから辛いんか?……全部知ったらブッ壊れるよって言ってんじゃん」
そう言う夕紀は、自分の額と僕の額を擦り合わせ、手を重ねた。
「…………葉山は一方的にお前を好きだったみたいな」
「家に居場所がないから、僕を同じ境遇だと思って近づいてきたんだね」
「そうなー。変に仲間意識は持ってたかも」
「どうして僕は、僕の記憶から葉山さんを消していたの」
葉山さんの血を介して視た過去では、葉山さんは僕の家まで足を運んでいた。あそこまで関わりがあったのなら、忘れている方が不自然だ。
「こっからは俺の想像になるんだけど」
そう夕紀は前置きして額を離し、僕の隣に座り直す。
「お前は、自分の脳みそで処理できない事を、遥か彼方に追いやってんだよ。都合がいいというか、保身の為に?」
「……葉山さんは僕の家にも来ていた。僕は、すごく動揺していて、葉山さんを傷つけた」
「お前は悪くないよ。本当に」
「でも僕はそれを忘れていた。高校で再会しても、僕は葉山さんを思い出せなかった」
「それぐらい嫌だったってことだろ。お前はお前自身を守るために、そうなった。それだけ」
「……その方が夕紀にとっても都合いいんだ」
夕紀はしばらく黙った後、少し困ったように笑った。
「なーに、お前。俺のことが怖くなった?」
そりゃあ怖いだろう。得体の知れない吸血鬼を飼い慣らして、自分は全部知っているような顔をして、僕に肝心なことを教えてくれない。
「葉山さんを小夜に喰らわせたのは、どうして?」
以前の彼女の言葉を思い返すのなら、彼女自身は人間を無闇に喰らうのは避けたいと言っていた。だから、自分から望んで血を提供する人間に憑いていると。
「邪魔だろう。どう考えても」
夕紀の口調は変わらない。
あっさりとしたものだった。
「俺はお前がなぁんも知らないまま過ごしていけるのなら、それがいい。もう2度とお前が泣いているところは見たくない」
「だから葉山さんを殺したのか」
「殺したって言い方はやめろよ。……殺意はあったけど」
そういえば小夜は、と僕は周りに目を向ける。僕の挙動から悟ったのか「今は実体化してない」と夕紀が答えた。
とんとん、と自分の影に指先で触れ、
「ここにいる」
と短く付け足す。
僕から見れば、それはただの夕紀の影にしか過ぎない。そこに化け物が潜んでいるなんて、普通の人間は鼻で笑って終わるだろう。でも僕は様々な非日常をこの短期間で目の当たりにしすぎて、「影の中にいる」という事柄をすんなりと飲み込めてしまった。ああ、そう。そこにいるんだな、ぐらいの。
「これからどうすればいいんだよ」
僕の自問自答に、夕紀は「いつも通りだ」となんてことのないようにまた答える。
「葉山は消えた。これでもう幼児連続殺人事件も起きないし、またいつもの日常が返ってくるだけだろ」
「……夕紀はえらくいつも通りだな」
「当然じゃん」
彼は吸血鬼を使役していても、いつも通りの日常を送っている。襟元の絆創膏が顔を覗かせるたび、それが呪いのように感じる。
「俺の当たり前は、誰にも壊させないから」
風が強く吹く。雲の流れるスピードが速い。
小夜ともう一度話をしなければ、と思った。
僕はまだ、知らなければならないことがあるだろうから。

