二次創作小説(新・総合)

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天門町奇譚
日時: 2020/07/19 13:49
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

   序 異界侵食

 まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
 商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
 午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
 芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
 何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
 外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
 なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
 この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
 この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
 最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
 雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
 息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
 息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
 下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
 父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
 父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
 八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
 その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
 だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
 二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
 連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
 別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
 三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
 何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
 直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
 中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。

 しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
 ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
 いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
 直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
 そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
 それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
 しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
 先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
 直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
 数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
 直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
 現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
 その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
 またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
 この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
 発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
 千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
 今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
 自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
 駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
 しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
 芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
 それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
 それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
 芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
 屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
 すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
 いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
 もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
 ごぽっ。
 背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
 ごぽっ、がぱっ。
 何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
 ごぽり、
 芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
 マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
 前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
 ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
 悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
 成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
 それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
 三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
 だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.44 )
日時: 2020/07/22 23:50
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 そんな彼が頻繁に出張している主人に引っ付いて人間の世界に出入りしたのは単なる気まぐれだった。何しろ己の主人は人間という存在を、嘲笑して籠絡し破滅させる一方、慈しみ叱咤して守護していた。
「まあ、娯楽だよ」
 主人はそう嘯いている。
 主人や彼は生物の感情を糧することもあるが、彼にとっても人間の感情は美味しく、特に人間の姿で演奏した時に、聴衆から受け取る感情は気に入っていた。
 それ故、彼は高名な演奏家の演奏を聞き、その演奏家の曲について来る感情を美味と感じ、己の演奏に取り入れた。それが更なる良質な感情を引き出すものと知るから。
 今、彼が目にする光景を元に即興で作り上げている曲は、おおいなる〈K〉を制御可能な穏やかな神として顕現するに違いない。
 そして、これから先、その神と共にあり続ける少女の孤独を姉と共に癒していこう。そう思った。
 そのエドガーの癖のある銀髪がぞわりと逆立つ。
「姉さん!」
 エドガーの声とアナベルが右手で千秋を突き飛ばすのはほぼ同時、突き飛ばされた千秋の手から光の玉が宙に舞った。
 外からの旋風が石室の壁を吹き飛ばして室内を横断、そのまま反対側の石壁を撃ち抜いて、瓦礫を外側へ吹き飛ばす。
 千秋を突き飛ばしたアナベルの右手が旋風に巻き込まれて、肩の付け根から吹き飛ばされた。
 千秋は背後に倒れ込むアナベルへ駆け寄ろうとするが、その眼前に降り立った人影に足をすくませる。
 それは縞瑪瑙に細い切れ込みを入れた笑い仮面を被り、ぼろぼろの黄土色をしたコートを羽織った怪人であった。数日前、御門本家を襲った旧支配者ハスターの不死の代行者〈黄衣の王〉であった。
「ハスター、大いなる〈K〉の復活を阻止する心算か?」
 エドガーは突如現れた乱入者を問い詰めるが、当の本人はそれに応えず水死体の様なぶよぶよの指が千秋の抱き起したアナベルに向けられる。
「アナベル、千秋さん、伏せて!」
 フルートを咥えたエドガーの叫びと同時に千秋がぐったりとして動かないアナベルを己の肢体の下に組み敷いた。
 エドガーの両眼が赤光を放ち、背を僅かに仰け反らす。それが前へ戻されると同時に千秋を耳鳴りが襲った。
 黄衣の王は千秋に手を伸ばしたままの姿勢で、横っ飛びに石室の壁に激突する。
 襲った衝撃波の影響か、身に纏ったコートの一部が剥がれ落ちて宙で塵となり見えなくなった。
 黄衣の王のコートの剥がれ落ちた右肩から深い刃物で立たれたような傷が左腰に向けて走っており、奇妙な事にその傷は太い紐の様なもので縫い合わされていて、その青黒い皮膚から奇妙な人形にも見えた。
「今は引け、黄衣の王。我が主と事を構える心算か」
 黄衣の王の濁った両眼が千秋達を捉え、不意にある地点へ視点が移動した。
 その視線の先にあるのは、千秋の手元からこぼれて転がった淡い紫色の光を放つ球体だった。
 黄衣の王の左手がぎくしゃくと上げられ、掌が球体を向く。
「や、やめて」
 千秋が小さく呟いて膝を浮かせる。
 ひょっとしたら黄衣の王はその球体から何かを感じ取ったのかもしれない。己に手傷を負わせた少年と同等のものを。
「駄目ぇ!」
 千秋が駆けるのと、黄衣の王からドリルの様な旋風が放たれるのは同時。千秋の手が球体を救い上げるより早く、全てを腐食する魔風が石室の床ごと球体を包み消し去ってしまった。
「……あ」
 千秋は足を止めその球体の有った地点を見下ろした。ただ、虚ろな目で見下ろした。
「貴様! 消し去ってやるよ!」
 激高したエドガーがその凶器に息を吹き込もうとした時、石筆の壁に開いた大穴から一本の触手の様なものが彼の腰に巻き付いた。
 その先は巨大な蝙蝠の羽をもつ生物、ハスターの使い魔バイアクへーの臀部へ繋がっており、うねくっていた。
 バイアクヘーの羽搏きと共に、エドガーの身体は大穴から石室の外へ引きずり出されて消え失せた。ジェット戦闘機すら超える速度を誇るバイアクヘーに掛かっては、エドガーは今頃、成層圏を超えて宇宙に達しているのかもしれない。
 ぼんやりと魂の欠片が消え失せた床を見つめる千秋へ、黄衣の王は文字通り滑る様に音も無く近寄ると腐臭を放つような青白い手を伸ばした。
 魔風を放つでもなくその肩を掴もうとするのは、如何やら千秋を捕える心算のようだ。
 アナベルは片腕を失い、エドガーはバイアクヘーに連れ攫われた。千秋を守る者は居らず、彼女は新たなる悪鬼の手中に落ちるのか。
 伸ばされた異界の神の使いの指が少女に触れる直前、縞瑪瑙の仮面を被った右のこめかみに黒点が生じると、轟音と共に反対側のこめかみから青黒い中身を撒き散らした。
「満を持して真打登場」
 それにもかかわらずぎくしゃくと声と銃声の聞こえた方向へ顔を向ける黄衣の王へ、硝煙を銃口からたなびかせるコルトM1911A1を片手で構えた男がひん曲がった煙草、スモーキンジョーを咥えて称賛の声を上げる。
「炸 薬 エクスブローラー・ブリットを頭に食らっても耐えられるとは、さすが不死の指導者。BARを下に置いて来るんでは無かったな」
 フェランは自分に向かって歩いて来る黄衣の王の眉間に向けて銃口を固定した。
「でも以前は弾丸を食らっても平然と歩いて来たが、今は僅かに動きが鈍った。あの少年の与えたダメージは軽視出来るものでは無いようだ」
 黄衣の王が左手をフェランに向けようとするより早く、撃ち出された45ACPの弾丸がその喉に突き刺さり爆発する。
 喉下に大穴を開けられた黄衣の王の頭が首を傾げる様に傾く。
「残り三十三発。滅ぼすことは出来ないが、五体ばらばらにすれば動けないだろう。それに耐えられるか不死者?」
「どう、やって、ここ、へ?」
 石室の床に横たわって見上げるアナベルの問いに、フェランは不敵な笑みを浮かべた。
「勿論、ワイヤーで壁面をよじ登ってさ、御嬢さん。幸い壁面の凹凸が多かったから登るのはそう苦労しなかったよ。むしろ困ったのは入り口が見当たらなかったことだが、其れも解決したんでね」
 アナベルは苦しそうな息を吐いて目を閉じた。黄衣の王の全てを腐食する魔風は、己の右腕を吹き飛ばすとともに本体にもダメージを与えている。暫くは動けそうになかった。
「おそらく、黄衣の、王は、いえ、ハスターは、千秋さんを奪って、己を旧神の枷の無い状態で顕現、させる、心算、そうなれば、世界は……」
「ああ、解っている。だが、大いなる〈K〉の復活も阻止させてもらう」
「そう、でしょうね」
 フェランの言葉にアナベルは辛うじて苦笑した。
 主であるナイ神父とは呼び掛けても返答が途絶え、エドガーも今、バイアクヘーに連れ去られ行方知れずとなっている。千秋を黄衣の王から守るのは、この旧支配者の勢力と戦い続ける男に託すしかなかった。
「此処でお前の邪魔をしては、ハスターの庇護の下に居る教授の身が危ういかも知れないが、まあ、あの爺さんなら自分で何とかするだろう」
 フェランの右人差しがトリガーを僅かに後退させた。
 黄衣の王の仮面の下顎が下方にずれて、口腔が露わになる。〈ハスターの叫び〉、冬峰を追い詰めかけた超音波砲がフェランに向けられる。
 アナベルが力を振り絞り、千秋に余波が届かぬように障壁を作ろうと残された左手を突き出す。
 生と死の交差する一瞬、それを打ち破ったのは彼等三人では無かった。
「どうして!」
 それは慟哭だった。両膝を付いた少女が両手で顔を覆い誰かに叫んだ。
 同時に石室内の空間が歪むような感覚をフェランに与える。
「どうして、冬峰、私」
 言葉は途切れ途切れで意味を成さない。少女の叫びは誰に向けたものか。その度に石室内の空気が重くなり得体の知れない緊張感が増した。
「千秋さん、駄目、制御が効かない」
 アナベルの声は弱く、千秋の耳には入らなかったのかも知れない。
 千秋が涙に濡れた顔を上げ宙を見上げる。
「どうしてこんな世界があるの、冬峰!」
 
 その瞬間、尖塔の上空に開いた孔の向こうで、何かが構築された。
 少女に埋め込まれたその存在の器官の一部が脈動するごとに、己の身体が構成されていく。
 ましてやその細胞ひとつひとつにこれまでにない力が漲っている。それはその存在がこの異世界の星に追いやられてから味わった事の無い歓喜であった。

 ルルイエ沖で強襲揚陸艇に襲い掛かっていた巨大な半魚人の番い相手に死闘を繰り広げていた春奈は、番いの内一方を体内から焼き尽くした後、不意に悪寒を覚えて宙を仰いだ。
 おかしなことに、番いのもう一方も彼女に報復する訳でもなく、何かを感じたようで春奈と同じく宙を仰いでいる。
 その身から伝わる雰囲気は歓喜と、それを遥かに上回った畏怖であった。怯えているのだ。
「まさか、千秋さん?」
 春奈には宙に開いた巨大な穴が、春奈同様、御門家のものによって開けられたものだと看破したのだ。

 地球よりはるか遠く離れた暗黒星雲、その闇の中に一人の紳士が横たわっていた。それを赤い三つ目で見下ろす様に、不定家にに形を変える巨大な黒い塊が上空で蠢いていた。他に同様に不定形に形を変える細長い道具に様なものを持った存在が居たが、片方は脈動するもののそれ以外の反応は無く、もう片方は色々な光を放ち会話しているようにも取れる。
 横たわった黒い三つ揃いに同色のコートを着こなし、褐色の肌をした紳士が眼を開く。
「現状は解った」
 彼の言葉と共に異形の存在の明滅が止まる。やはり会話していたらしい。
「ハスターの介入か。クトゥルーの復活が腹立たしいのか、それとも己の完全な顕現を望んでいるのか。こうなると召喚は失敗したと判断するしかないな。切り取った彼女の影の一部からは異常は伝わってこないが、私自身の故障で読み取れないだけかもしれん」
 ナイ神父は横たわったまま自身の本体、不定形に蠢く巨大な翼を備えたものに目をやった。
「我が本体も少なからずダメージを負っている。端末の私の修復までどれぐらいかかるのか。本体がハスターを押し留めるようにファラオに連絡を取ったが、彼奴がルルイエに到着するまでに千秋君がハスターの手中に落ちなければよいが」
 またも道具を持った塊が色を明滅させる。
「君の端末も宇宙から地球に向かって放り出され、大気圏で燃え尽きてしまったからな。君のミスでは無い。相手はハスターの代行者。相手をするのはそれなりの準備が必要だろう。問題は千秋君が攫われるだけならまだましだ。彼女が奴の新しい不死の代行者として生ける死者と化すことは避けねばならん」
 ナイ神父は憂慮するように瞼を閉じた。何とか転移する機能だけでも修復したかった。
 不意に今まで動かなかったもう一つの道具を持った不定形の塊が脈動し触手の様なものを伸ばしてもう一つの同類と繋がる。
 それと同時にネイ神父の両眼が見開かれて、彼にしては珍しい驚愕の表情を露わにした。
「何てことだ。これは暴走か」
 二つのつながった存在も明滅を繰り返す。
「ああ、そうだ。彼女があの世界に絶望した。このままではクトゥルーを制御するどころか、あの際限ない飢えと破壊衝動を増幅させかねない」
 千秋から切り取った影の一部からは、千秋が今味わっている絶望とその心を壊そうとする哀しみ、そして世界に対する憎悪がナイ神父に直接伝わった。
 ナイアルラトホテップ、無貌の神である彼は人間のそういった感情を味わう事を好んでいる。何人もの人間を絶望の淵に追いやり、その絶望の叫びに聞き惚れ、消えゆく命の炎を美味しく味わった。
 この御門千秋の心を満たす悲しみと絶望は、ここ最近無い程の強さであった。きっと美味に違いないだろう。
 違いない筈なのだが、それを味わう気が起きないのは何故なのか。ナイ神父は自問した。

 尖塔の石室では千秋を中心に瘴気の様なものが放出され、その圧迫感はフェランと黄衣の王がお互いに攻撃される危険性すら放棄して千秋に向き直る程の凄まじいものであった。
 石室内の空気が鳴動してフェランに耳鳴りを襲った。そしてこの石室内を満たしていく気配は、かって彼が教授と共にこの浮上都市で遭遇した、出来る事なら二度と目にしたくない存在の放つものを彷彿とさせ、彼に表情に焦燥と憐憫を浮かばせる。
「……千秋君」
 フェランの静かな呼び掛けと共に、その右手が上がった。
 四十五口径の銃口が涙を流して宙を見上げる少女に向けられる。
 千秋も向けられた鉄の凶器に気が付き、呆然と幾度となく自分を守って来た自称ジャーナリストの男を見返した。何時も飄々とした笑みを浮かべていた男が、いまは歯を噛みしめ何かに耐える様に目を細めた。
「守り切れなくて、済まない」
 続けざまの銃声が彼の声をかき消す。
 紅無いろなしの狩衣に穿った黒点は五つ、それを一発の銃声に聞こえるような速度で撃ち込んだ。
 数瞬後、千秋の肢体は体内に撃ち込まれた炸裂弾の爆発により四散して、石室に無残な肉叢を晒す事になる。千秋以外の誰もがそう思った。
 何かが破裂するような音と共に千秋の身体が僅かに震える。彼女は何の痛痒も感じていないかのように目を閉じた。
 それっきり何も起こらない。
「爆発を、封じ込めた?」
 フェランの呆然とした声を聞き乍ら、アナベルは己が守ろうとした少女を見上げる。
「千秋さん?」
 千秋の眼が徐々に開かれる。何時もは銀縁のメガネのレンズの向こうにある目尻が僅かに上がった何時も濡れているような大きな瞳を持つ両眼は、何故か瞼が開かれていく過程でフェランの背に冷たいものを通らせる。
 完全に瞼が開かれフェランや黄衣の王を睥睨する。その瞳の色は金色と光を放った。
 黄衣の王は何かに威圧されたように僅かに後退る。
 千秋の、その小さな体躯から放出される鬼気は、フェランが以前相対した大いなる〈K〉の不死の指導者すら凌駕していた。
 千秋は静かに息を吸い込むと、天にも届けとばかりに大声を張り上げて宙を仰ぐ。
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
 尖塔の上空、天に穿われた穴から何かが孔の縁に手を掛け、ずるりと這い出した。それは黒緑色の粘液を滴らせながら孔から下方の世界へ堕天する。
 ぎちぎちとそれの背が割れて中から巨大な蝙蝠の羽根が出現する。それは開かれると、舞い降りるそれの巨大な体躯を包めるほど広く大きな羽根だった。。
 それは尖塔を背に海辺に控える深きもの共やその眷属を見下ろす様に、その存在の居城ともいうべきこの呪われた海上都市に降り立った。その衝撃に何本かの石柱が倒壊する。
 巨大だった。四百メートルはあるだろう。その全身は半透明の黒緑の粘液で覆われており、ぶよぶよと蠢く弾力のある体組織からは内側で蠢く巨大な戦中の様なものまで見える。恐らく内臓だろう。蛸の様な頭部の前方には二つの眼が備わっているが、それは昆虫の複眼の様に無数の眼球が集まって出来ていた。頭部の下方にある不気味に開閉を繰り返して内側に鋭い牙が並んだ口に周辺には、長くうねる触手が生えて口を覆い隠している。触手自体もそれが居っこの生物の様に蠢き、触手の先端にはヤツメウナギの様な口まであった。
 鉤爪を備えた四肢はぐにゃぐにゃしているものの太くしっかりと大地を踏みしめている。
 その存在が後ろ足で立ち上がり、太い木管楽器の様な吼え声を上げた。
 その咆哮は島の石柱を震わして、浮上都市周辺に波を作り海を荒らす。
 出現したその存在を目にした強襲揚陸艇の乗組員や上陸部隊のソロモン機関の兵士達は、あるものはその鬼気に当てられたのか、その場で昏倒してそのまま意識を失い心臓の鼓動を止める者もいれば、手にした武器の銃口を己のこめかみや口に咥えて引き金を引く者もいた。
 揚陸船の船長は何とか己の意識を保っていたが、その吼え声を耳にした途端、何かを諦める様に小さく首を振り銃口をこめかみに当てた。

 それが顕現した同時刻、日本の信州の小都市では、家の留守番を頼まれていた姉妹が二人揃って高熱を出して倒れ、付き添う女性の護衛も湧きあがる不安と怖れに叫びたいのを堪えていた。
 同じく日本の帝都では、二十畳ほどの広い部屋で書類に目を通していた細面の男が、何かに気が付いたように顔を上げ「やはり現れたか」と呟いた。
「拙いな、千秋君の怒りと嘆きが、クトゥルーの破壊衝動と同調しているぞ」 
 漆黒の空間ではナイ神父が眉を顰めて呟いた。

 そしてルルイエの石室ではフェランがM1911A1のグリップ根元についたマガジンキャッチを押して空になった弾倉を落とし、コートのポケットから新しい弾倉を取り出してグリップの底に叩き込んだ。
 スライドを引き再び千秋に銃口を向ける。
 無駄であることは解っていた。
 壊された石室の壁からは、遂に出現した大いなる〈K〉であるクトゥルーが咆哮している光景がフェランの目に入った。驚くべき事に、彼が以前、この島で教授と目撃した容姿と異なっており、胴に付随した翼は細長くあんなに巨大なものでは無かった。体躯も一回り以上膨れ上がっている。

Re: 天門町奇譚 ( No.45 )
日時: 2020/07/23 00:02
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 もしかすると遥か昔に旧神と呼ばれる存在に破れてこの異世界の星に辿り着いた時、おおいなる〈K〉はこのような姿だったかもしれない。それがこの南太平洋の島に幽閉され気の遠くなる年月を経るうちに、この邪神の力は衰え容姿が退化した。
 そう考えると、今迄に教授や先に逝ってしまった仲間達が行ってきた全ての行動は無駄ではなかったか、この存在を核爆弾程度でこの世界から消し去ろうとするのは無知なるものの無駄なあがきに過ぎなかったのかもしれない。フェランはどうしようもない敗北感を堪えるかのように奥歯を噛み締める。
「千秋君、世界はどうなるんだい」
 フェランの問いかけに千秋はゆっくりと顔を向けた。
「どう答えればいいの? 私が犠牲になるから世界は元のままだと答えて欲しいの?」
「……」
 皮肉とも取れる千秋の返答にフェランは沈黙した。
 世界は彼女に優しくなかったのかもしれない。彼女はこの世界に希望など抱けなかったのかもしれない。彼女と行動をともにした数日を省みても、彼女が生きることに希望を抱けるような救いはフェランの知る限り皆無であった。
 そんなフェランを哀れむかのように千秋は笑みを零した。
「フェランさん。私はね、この世界に愛着なんかないの。正直、憎しみさえ覚えるわ」
 フェランはその言葉を呆然と聴いた。
「この憎しみはひょっとしたら私のものでなく、おおいなる〈K〉のものかもしれない。もしそうなら、おおいなる〈K〉はこの世の全てを憎悪しているわ。この力なら人類を滅ぼすことは容易いでしょうね」
 淡々と話す千秋を嗜める様にフェランは静かに首を振る。
「千秋君、その衝動に抗うんだ。君は優しい子だ。そんな力に身を任せてはいけない」
「でも、あのままだと私に未来は無かった。そうでしょう」
「……」
 フェランは返す言葉を失くし宙を仰いだ、この世界に絶望した少女を止める手立てが思い浮かばなかった。
 千秋の視線がフェランの背後へ向けられる。
 そこから錐揉みするように唸りを上げて魔風が二人を襲う。
 千秋はそれを遮る様に手のひらを向けると、風が壁に当たるように膨れ上がった後に消えうせた。
「新たな不死の代行者の誕生か」
 フェランの呟きをかき消すように、黄衣の王が暴風を身にまとう。その風の勢いで石室の壁が軋み、この部屋自体がその圧力で内側から弾け飛んでもおかしくは無いだろう。
 既に千秋を捕えることを諦めたのか、それとも犬猿の仲であるクトゥルーと同一の存在と認めたのか、黄衣の王は千秋に向かって両腕を突き出して襲い掛かった。
 さすがの千秋もその突進が彼女の張った障壁を突破するのを目にして緊張に身を固めた瞬間、台風の目と化した黄衣の王へ横から何者かが突っ込んだ。
 三日月の様に弧を描く銀光へ黄衣の王は左腕を突き出した。彼の身に纏う風に触れたものはその風により腐食させられた上、ミキサーに掛けられたかのように粉々に砕かれる筈であった。
 その左手が己から切り離され宙に舞った時、黄衣の王は相手の正体とその斬撃の威力を思い出し、距離をとる様に風に乗り後退する。
 しかし、遅い。
 突然の乱入者は構えた一刀を右脇に構えると、素早く距離を詰めて剣先を突き出した。
 刀身に触れた魔風が消滅する。
 黄衣の王は何を思ったのか、己の被る縞瑪瑙の笑い仮面をむしり取ると宙高く放り上げた。その仮面の下には水死人の如くぶよぶよに膨らんだ頬と青黒く変色した肌をした男の顔が、彼に迫る少年を濁った白目に映し出している。
 何処からか現れた触手が宙にある仮面に巻き付き引き上げるのと、黄衣の王であった黄色いコートを羽織った生ける死者の胸板を刀が貫くのは同時であった。
 男の背中から優美な曲線を描いた白刃が突き出て、彼は雷に打たれたように痙攣する。
 少年が足を止めても男は突きを食らった勢いを保ったまま壁に背中を打ち付けて張り付いた。その口から、目から、胸の傷口から茶色の液体を垂れ流しつつ体躯が萎んでいき、遂にべしゃりと音を立てて床に崩れ落ち残骸が堆積する。
「冬峰!」
 弾かれたように千秋が駆け出す。
 ハスターの不死の代行者〈黄衣の王〉を撃退する偉業を成し遂げた少年が、崩れ落ちるのを堪える様に床に刀を突き立てて片膝を着くのを目にしたからだ。
 少年の身に纏った黒いカッターシャツやスラックスには所々破れて、血の流れるこめかみ以外にも出血しているのか錆びた鉄の臭いが近付いた千秋の鼻孔を刺激した。
 だがそれ以上に従弟に近付こうとする彼女の足を止めさせたのは、名を呼ばれて千秋へ視線を向けた冬峰の眼だった。
 その黒瞳は濁って何も移さず、名を呼ばれたことより何か声がしたので視線を向けたような、そこには何の感情も浮かんでいなかった。
 千秋を知らない人だと語っている眼だった。
「……冬峰」
 呟く様に再びその名を呼んだ千秋へ冬峰は変わらぬ視線を注いでいたが、不意に何かに気付いたかのように目に光が戻る。
「ああ、写真の、そうだ」
 何かを思い出そうとするように目を閉じる冬峰を千秋は息をするのを忘れて見つめていた。
 彼女には見えてしまったのだ。おおいなる〈K〉の器官を身に移した彼女は、これまで見えていなかった冬峰の異常に気が付いてしまった。
 彼の胸、心臓の上に穴が開いているのは見えなくとも解かっていた。その穴は彼女が幼い頃に彼に開けてしまったものだ。しかし、その穴から血管のようにヒビが全身に走り広がっているさまは、彼女にそれがもたらすものを容易に想像させる。
「そんな……」
 絶望したように呟く彼女に気付かないのか、冬峰は閉じた目を開いて千秋を見返した。
「ああ、まだ思い出せる。まだ大丈夫だ」
 冬峰の呟きの意味を解かっているのか、ますます憂いの色を顔に浮かべる千秋に冬峰は何とか立ち上がって左手を差し出す。
「遅くなってごめん。……帰ろう」
 千秋はその差し出された手に目を落としてから、その手の主である満身創痍の少年を見つめた。彼はここまで来たのだ。日本で彼女が攫われてから、この遠く離れた南太平洋に浮かぶ異形の潜む島まで。
 この手を取れば帰れるだろうか、あの母や御門家に対して怒りを無理やり飲み込んで、ただ流されるように生きていた日々に。
 外ではこの島の主が咆哮する。
 千秋は冬峰の左掌を両手で包み込むように手に取った。目を閉じてその体温を覚えようとするかのように胸前に抱く。
 冬峰はただ黙ってその様子を眺めている。
 千秋は微笑むと冬峰の手を放して一歩、背後へ下がる。
「千秋?」
 千秋は目を開いて冬峰の視線を受け止めた。その微笑が冬峰には何故か泣いている様に見えるのだ。
「有り難う、冬峰。日本で言ってくれたよね、必ず取り戻すって。約束を守ってくれて嬉しかった」
「……」
 冬峰は千秋の言葉を黙って聞いていた。彼にはその言葉が再開を喜ぶ言葉では無く、彼女からの別れの言葉であるように聞こえて杖代わりにした刀の柄を握る手に力が籠る。
「でも、もう無理。私は冬峰とは帰れない」
 向き合った少年少女の間に沈黙が流れた。少女は悲しげの微笑んだまま。少年は表情を変えず静かに少女を見返していた。
「……何故?」
 ようやく口を開いた冬峰の問いに千秋は答えず、千秋は石室の破壊孔から覗く大いなる〈K〉、クトゥルーと呼ばれる世界に恐怖と絶望を撒き散らす邪神の背中へ目をやった。
「あの怪物はね、私が呼びだしたものなんだよ、冬峰」
 自分に向き直った千秋の告白にも冬峰は動じた様子は無かった。
 冬峰は千秋の白い繊手が狩衣の合わせ目に掛かり左右に開くのを眼にして、目を咄嗟に閉じ左へ顔を背けた。
「冬峰、見てくれるかな」
 その静かな声に含まれる感情は何か、それが冬峰に視線を戻させる。
 冬峰の眼に僅かな動揺が走った。
 彼は千秋の豊かな双丘の合わせ目より僅か上に、見慣れない物体が皮膚に融着するようにへばり付いているのを目にしたのだ。
「それは、何?」
 緑黒い半透明色の子供の握り拳ような形をしたゼリーが彼女の白い肌に溶け込み、忌まわしい事に周囲の肌も同様に緑黒い肌に変化させていた。
「これはね、大いなる〈K〉、あの怪物の模造品であった人間の、死の間際に残した心臓の欠片なの」
 脈打つその器官を見下ろして千秋を笑みを浮かべる。
「フェランさんなら解るよね。その模造品を殺したのは貴方なんだから」
 黄の王に吹き飛ばされたフェランはようやく片膝を着いて起き上がり、千秋の胸元へ目をや った。
「……まさか、〈大異変〉を起こした青年の」
 フェランはアメリカ西海岸で遭遇した大いなる〈K〉のコアを埋め込まれた青年を思い出した。
「そう、それをあの黒衣の神父が回収していたの。それが将来こんな事に使われるとは彼も予想しなかったそうよ」
「あの野郎」
 フェランは気取った黒衣の悪魔を罵ったが、それで事態が好転するとは思っていなかった。
「何者からか御門家に伝わる力について情報を得たナイ神父は、〈K〉に情報を流してその力の主を探させた。二度の核攻撃と西海岸での失敗でおおいなる〈K〉の肉体はこの欠片以外は消失して、一からその存在の入れ物を作るしかなかったの」
「そして、奴は君を手に入れた。だが、何故だ。何故、君は奴等に協力したんだ」
 フェランは問い詰めた。この少女の変心が彼には信じられなかった。
 三度、四五口径の銃口が千秋に向けられようとして、不意に動きを止める。
「おいおい、君は見境なしか?」
「おっさんは黙ってくれないか」
 左手に鞘を持ち替えた冬峰が鯉口斬りながら飛ばしてきた殺気に総毛立ち乍ら、フェランはゆっくりと銃口を地面に向けた。
 千秋は冬峰を見つめて再び悲しげな笑みを浮かべる。
「ただ、私の力だけではあの存在を形作ることは出来なかった。だからこの心臓の欠片を触媒として私の力に大いなる〈K〉の残留思念を加えて増幅させ、あの孔の向こうにある本質を呼びだしたの」
 あの向こうにある、失われた貴方の一部を取り戻したの。
「私は力が欲しかった。私はおおいなる〈K〉の力を制御コントロールして私の全てを否定し操ろうとする全てのものに負けない能力ちからが欲しかった」
 貴方に自由になって欲しかった。本来、優しい貴方が手にするはずだった幸せを取り戻して欲しかった。
 彼女はそう告げなかった。彼が生まれると同時に失った魂の一部は、黄衣の王に手により完全に消え失せたからか。
「……俺は千秋を守れなかった、のか?」
 千秋は静かに首を左右に振った。涙の雫が宙を舞う。
「違う、の。冬峰は私を守り続けてくれた。でも冬峰一人の力じゃどうしようもないの。冬峰が守り続けてくれても、きっと私は虜囚の身のままなんだ。何も変わらないの」
 貴方はきっと守り続けてくれる。きっとそれが終わりの無い戦いだとしても、優しい貴方は戦い続けて、ガラクタの様に壊れていなくなる。
 冬峰は俯いて鞘を握る手に力を込めた。
 彼女の言葉に冬峰は反論出来ず唇を噛み締める。現に自分は彼女を攫われて、こんな島で彼女は異形の神を呼び出す事を選択した。
 千秋を救えるものなど一つも無かった。御門家、ソロモン機関、〈K〉そのどれもが彼女の身を道具扱いにして己の利益になるように手駒として弄んだ。
 千秋はきっと、己の無力を何時も噛みしめて生きていたのだろう。誰かに助けを乞う事も、母である冴夏の名を呼んで泣きじゃくる事も出来ず、ただただ己の身を抱きしめるしかなかった。冬峰には容易く想像出来た。
 自分も常に死が付きまとう戦場で、己と仲間を守るためにただ独り戦うしかなかった。その孤独を自分は知っていたのに、彼女の孤独を、痛みを、嘆きを、ただ眺める事しか出来なかったのか。
 自責しても今更どうしようもない。それでも冬峰は己を憎まずにはいられなかった。
「でも、それも多分失敗。今、私はね、世の中が憎くて仕方がないの。この世界を壊したくて、どうしようもないの。これは私の意思、それとも呼び出されたおおいなる〈K〉の意思のどちらか解らないの」
 悲しい微笑みと裏腹に、千秋の口から紡ぎ出されたの言葉は戦慄すべき内容で、フェランはそれを世界への処刑宣告だと思った。
「だから、そんな私を処分する為にあの人は来る」
 千秋の言葉が自責の念で俯いた冬峰の顔を上げさせた。彼には彼女の言う「あの人」が誰か心当たりがあり、それは間違いない。
「……千秋」
「でも、今の私を殺すことは彼女でも難しいわ」
「……止めてくれ」
「今や私はおおいなる〈K〉そのもの。この心臓の欠片が私と共にある限り、私は不死身なの」
「頼む、春奈さんとは戦わないでくれ」
 冬峰は疲労とは別の汗を流しながら千秋に懇願する。それだけは有ってはならない事だった。
 千秋はそんな冬峰を見下ろして溜息を吐く。
「私が戦いを避けたとしても、彼女の役割、御門家の当主としての責を彼女が放棄出来ると思う?」
「……」
 そうだ、と冬峰は言いたかった。優しいあの御門家当主が千秋を誅するとは考えたくない。しかし、しかし、そうせざるを得ない状況に追い込まれた場合、責任感の強い彼女はその役目を放棄出来るだろうか。
「でも、私は彼女と戦うから。彼女とは私なりの決着を付けたいから」
 冬峰は何も言えなかった。彼女の言葉に彼女自身の強い意志を読み取ったのだ。
「これはね、冬峰。同じ時代に似たような能力を持った者同士の生存競争なんだ。だから、冬峰の入る余地は無いよ」
 千秋は冬峰に背を向けて壁に開いた破壊孔へ歩き出した。
 数メートル手前で不意に足を止める。
「でも、冬峰なら」
 冬峰は千秋へ視線を向けた。彼女は前を向いたまま暫く沈黙する。その沈黙に耐えきれず冬峰が口を開こうとした時、千秋が言葉を続けた。
「冬峰なら、私を滅ぼせるかもしれないわね」
 噛みしめられた冬峰の歯が鳴る。握り締められた鞘が嫌な音を立てたが冬峰にはそれを気にする余裕などなかった。
 千秋は破壊孔の縁から外の世界を睥睨する。
 そこから見えるおおいなる〈K〉の巨大な翼と背中。そして沖に停泊するソロモン機関の強襲揚陸艦が目に入った。
 強襲揚陸艦の周囲には、巨大な深きもの共が周辺の海域を血に染めて漂っていた。何れも巨大な刃物で切り裂かれたように五体ばらばらで原形を留めていない。
 千秋はおおいなる〈K〉と連動した己の感覚から、配下である深きもの共の首魁、〈父なるダゴン〉は既に滅ぼされ、〈母なるヒュドラ〉さえ深手を負って深海に退避していることを知った。
 全く、出鱈目な人だ。千秋は苦笑するしかなかった。戦闘能力に関しては桁外れで容赦がないのに、普段の彼女といえば、こちらがイラつく程、おっとりゆったりしている。
 きっと、彼女と私が並んでどちらが御門家の当主かと問えば、必ず人は春奈と答えるだろう。見た目麗しい、御門家の姫様、春奈にはそんな形容が相応しかった。
 何かが島の上空をこちらに向かって滑空してきた。その姿が徐々に大きくなり白いコートと黒髪を靡かせた女性であることが解ると、千秋は呆れる様に苦笑を深める。
 空を飛んでくるなんて本当に出鱈目。
 何時も自分の前に立ちはがかる存在だった。冬峰の誕生したあの場所で出会ってから、能力者として上であり、母である冴夏の最も気に掛ける人物であり、そして……。
 食卓で冬峰と親しげに話す姿を思い起こす。
 その全てに於いて彼女は自分の障害であった。
 息を吸い込み、その存在を見据える。
「御門 春奈!」
 感情の全てを声にして解き放った。
 それに応える様におおいなる〈K〉、クトゥルーが咆哮すると口元を覆う長く伸びた無数の触手を接近する春奈に向ける。
「千秋さん?」
 触手の先端から何かが春奈目掛けて撃ち出され、春奈は僅かに軌道を変えてそれを躱した。
 それは石柱に当たると容易く貫通しながら水飛沫を上げる。
「ウオータージェット?」
 春奈は背後を振り返って、クトゥルーの攻撃をそう表現した。
 現代の科学技術で水圧により鉱板を切断したり、石材を滑らかにする技術があるが、触手の先端にある口から放たれてそれは、まさしくそれに等しい威力を備えていた。
「異世界の邪神にしては、控えめな攻撃よね」
 邪神へ向き直った春奈の言葉に応える様に、再びレーザー光線の様なウオータージェットの砲門が開いた。ただし、今度は全ての触手から一斉に放たれる。
 戦艦の対空砲火の様に無数に放たれる水の槍を、春奈は空を錐揉みするように軌道を変え乍ら躱そうとするが、自由自在に動く触手の砲台は追尾性が高く避け切れない一撃もある。
「草薙!」
 春奈は手刀を振るい己に向かう水流を切り飛ばすが、動きを止めた彼女目掛けて無数の直線が集中した。
「千秋さん、正気に戻って!」
 急ぎその場から離脱した春奈を再び対空砲火が追尾する。
「ああ、もう面倒臭い」
 このままでは千秋に近付く事すら出来ないと判断したのか、春奈は黄衣の王の様に、己の身を暴風で覆った。風に乗り宙を飛ぶことの応用で、そう難しい事では無かった。
 そのままクトゥルー、いや千秋に向かって突き進む。
 迎え撃つウオータージェットは千秋を覆う竜巻のような渦に阻まれ、表面で四散して内部の春奈になんら痛打を浴びせる事が出来なかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.46 )
日時: 2020/07/23 00:39
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「何とか大人しくさせないと。ごめんね千秋さん、草薙!」
 春奈の手刀の軌跡をなぞる様に風が巻き起こり、それはクトゥルー目掛けて宙を切り裂き襲い掛かる。
 轟音と共にクトゥルーに激突した旋風は、その肩先の組織を吹き飛ばすダメージを与えて邪神を咆哮させた。石室で千秋が肩を押さえて表情を歪める。
「この程度で!」
 千秋の叫びと共に胸に融着した心臓の欠片が脈動した。
 クトゥルーの傷ついた肩先に緑色の泡が噴き出ると、それは欠損した部位を塞いでたちまち元通りの形に復元してしまう。
「再生能力が桁外れね。かといって威力のある攻撃では、千秋さんにも何割かのダメージが届くかもしれないし」
 春奈は白いコートの裾を翻しながらクトゥルーをいかに攻略するか考えた。クトゥルーが千秋の呼び出したものならば、術者と何らかの形で繋がっており互いに影響を与え合っているのではないか。もしそうならクトゥルーは千秋がいる限り不死身であり、千秋はクトゥルーが消滅すると命を落とすのではないか。春奈はそんな懸念を抱いていた。
 ウオータージェットの一閃が通用しないのに業を煮やしたのか、触手からの攻撃が一斉に止み、巨大な邪神の口が大きく開いた。
 そこへ集まる光の粒。瞬くそれは渦を巻きながら大きくなり、クトゥルーの頭部に等しい大きさまで広がる。
 もしソロモン機関の兵士で、天門町での千秋の警護に当たったものが居れば、その最中に出くわした眼前の異形の神を小さくしたものが同様の術を行使していたことに気が付いただろう。
 光の渦は回転力を増し、それが臨界点に達したかのように前方へ膨れ上がる。
 その先には、その光の渦に見とれていたのか、空中で静止する春奈の姿があった。
 回転する水の渦が太い柱の様に伸び乍ら春奈を包み込み、そのままルルイエの地表を石柱をなぎ倒しながら掘削して海に達した。
 ナイアガラの大瀑布のような水柱が経ち、その威力の凄まじさを物語った。
 それを真正面から受けた春奈は跡形も無く粉砕されているか、それともそのまま深い海の底まで吹き飛ばされているか、千秋と邪神は彼女の居た空中の一点へ視線を巡らして、目を見開いた。
「危なかった。見とれて防御が間に合わないところでした」
 何事も無く宙に浮かぶ春奈の前には、黒く四角い壁が盾の様に塞がっていた。
 ありとあらゆるものから術者を遮断する絶対防壁〈天岩戸〉。
 千秋が愕然と宙を見上げるその隙に、三条の草薙がクトゥルーの胴体に風穴を開ける。
 しかし邪神はひるむ様子も無くその傷を緑色の泡で塞いで修復すると、再び触手の対空砲火を再開した。
 再び展開した天岩戸のに身を隠しながら、春奈は己の攻撃が後手に回っているのを自覚していた。草薙ではあの巨体に致命傷を与えられず、接近して内部から火之迦具土で燃やし尽そうとしても時間が掛るだろう。
武御雷たけみかづちで吹き飛ばしてやろうかしら」
「やめた方が良いぞ。あの背後の搭にはお主の弟分がおるのじゃ。諸共焼きとばすのなら止めはせんが」
 春奈は自分の内側から響いた忠告に憮然とする。なら最適な方法を教えて欲しかった。
「核ミサイルがこの島に飛来するまであと僅かしかないの。多分、それを食らってもあの化物は死なないでしょう。でも、千秋さんや冬峰さんは只の人間です。生き残れませんよ」
「……」
 春奈の言葉に内からの声は沈黙した。意見が無いのではなく憮然とした雰囲気が己の内側から伝わって来る。
「……お主、気づかない振りをやめたらどうだ。千秋は、あの怪物に操られているのではない。千秋があの怪物の力を使ってお主を敵として葬ろうとしているのだぞ」
「……そんなことは有りません。千秋さんはあの邪神の影響を受けて自分自身の制御が利かなくなっているだけです」
 傍から見れば独り言を繰り返す春奈の周囲に海水が巻き上がり取り囲もうとする。
「何?」
 春奈は天岩戸で自分を包み込み、いきなり出現した海水の幕から己の身を守ろうとした。
「いかん、飛べ!」
「え?」
 春奈は天岩戸を開いて草薙で海水を吹き飛ばしながらその幕から脱出した。
 眼下でその幕がどんどん厚さを増していき、最後には立方体キューブとなって宙に浮かんだ。
「いま、あの立方体の中は海溝の底に等しい水圧となっておる。あの中に閉じ込められると、天岩戸から出た途端、お主の身体は潰れておるぞ」
「全く、次から次へと……」
 愚痴ろうとした春奈が言葉を詰まらせる。春奈を取り囲む様に海水で作られた立方体がルルイエの周囲から飛来してきたのだ。
「これって……」
「同じものであろうな。恐らくお主にぶつけて押し潰す心算じゃろ」
 貴方も押し潰されるんですけど、と胸の内で呟いて春奈は飛行する速度を上げる。
 彼女を追い駆けて立方体も速度を上げる。
 何も知らない者が見れば、純白のコートと艶のある黒髪を靡かせて天空を浮遊する美女と水で作られた巨大な立方体が光を反射して美女について来る幻想的な光景だが、その内容は死と隣り合わせの鬼ごっこだ。
「しつこい」
 春奈が振り返って草薙で迎撃するが表面に切れ込みを入れる程度で、立方体に健在、そう判断した途端、ぶわあ、と立方体が破裂して周囲に海水を撒き散らす。
 その勢いは凄まじく、躱そうとした春奈の足先に飛沫が掛かっただけで彼女はバランスを崩してルルイエの地表に向けて落下して行く。
 それを追う立方体の列。
 地表に激突する寸前、春奈は地面に草薙を放ちその跳ね返る突風で己の身体を浮かせる。そのまま急速に駆け上がった。
 その足下を海水の立方体が地表に激突する。
「間一髪」
 石柱より僅かに高い高度を飛ぶ春奈へ、立方体が竜のように連なって襲い掛かった。
 これだと先頭の立方体を破壊しても、次の立方体の餌食になるだろう。だというのに、春奈は笑みを浮かべて迫りくる脅威を見上げる。
「幸い尖塔は背後。正面上空はキューブ君と黒雲だけ」
 春奈は左手を腰に当てて右手を頭上に掲げ、人差し指と中指を拳から伸ばして天沼矛印あめのぬほこいんを作った。
「此の火を天之香具山の磐村の清火と幸い給え」
 祓言はらえごとを唱えながら、振り下ろした右手の指先を向かって来る立方体に向ける。
「此の水を天之忍石あめのおしはの長井の清水と幸い給え」
 右手の指先に青白い火花が散り、それが徐々に数を増して蛇のように右手に巻き付く。
「召雷召力 雷火雷音 身削霊注 火足陽霊 水極陰体」
 祓言の詠唱により世界が書き換えられる。世界を構成するエーテルがその現象を有りだと認めた。突き出された右手を残して天岩戸が春奈の前面に展開される。
 呪文は春奈を警護していた朱羅木の狙撃「火水鳴かみなり」と同じものだ。その威力は呼び出された旧支配者のロイガーを貫通した。しかし、それでは下方に居る春奈は、飛び散る深海の水圧の掛かった海水を真面に受けて、今度こそ潰されるのではないだろうか。
 周囲のプラズマ放電に千秋の黒髪とコートが波打つ。
武御雷たけみかづち
 落雷の音と共に閃光が打ち出される。
 それは地上から空に放たれた光の柱で、向かって来るキューブを一瞬の内にすべて飲み込み、その向こうにある黒雲に風穴を開け蒸発させる。
 その光の放つ輝きは揚陸艦やルルイエの海岸でおおいなる〈K〉とその眷属の恐怖に耐えていたソロモン機関の兵士達に、邪神とは異なる聖なる奇跡の出現と受け取られて信心深い者はその光に祈りを捧げる様に跪く。
 その光景は尖塔の千秋も目撃して、その閃光の眩しさに手を翳しながらその威力に息を呑む。
 あれは宇宙空間まで届く熱光線だ。あの一撃を食らってもこのおおいなる〈K〉は耐えられるだろうが戦闘の続行は難しくなるだろう。
 あれが御門家の当主なのだ。皇の勅命で全てのモノを薙ぎ払う殺戮兵器だ。そして、私が成れなかったものだ。
 この邪神の力を得ても勝つことが難しい存在だ。
「あなたが、そんなだから!」
 それは羨望から来る怒りか、千秋の叫びに応える様にクトゥルーがその巨大な翼を展開する。
 開いた両翼の内側の空間が揺らいでいるように見えた。
「春奈、きっとあ奴は切り札を出してくるぞ」
「え?」
「早く止めい。何なら武御雷を二発ほどぶち込めば塵も残さず蒸発するじゃろ」
「そんなことしたら、あの後ろの千秋さんや冬峰さんも巻き込んでしまうと言ったのは貴方でしょう。それに武御雷を続けて撃てる程、私の容量は大きくありません」
 実際、先の武御雷の一撃で彼女の疲労は大幅に増し、今では飛行するのもやっとな状態だ。
「情けない。ならあの首を刎ねるんじゃな。あれも神なら通じるだろうて」
「……」
 春奈は沈黙した。あの怪物が邪神としてこの世界で神として定義できる存在ならば、あの神剣が通用するだろう。しかし、春奈には剣を振り下ろすことに躊躇いがあった。
 クトゥルーの広げられた両翼の前の石柱が押し潰されるように崩れ落ちる。それと同時に春奈も周囲の空気が重くなった感覚を覚えた。
「あ奴、ここいらの地力を操れるようじゃな」
「地力?」
「重力じゃよ。あの翼から強力な重力波が出ておる。なうな言葉で言えばラックホールと呼ばれとったか?」
 なうって、と春奈はツッコミたかったが彼女は別の危機に感づいた。
「じゃあ、この島が私達ごと吸い込まれて、圧縮されて、分解されるんですか」
「この島ではない。この星じゃな」
 この呪われた島、ルルイエが浮上出来るのもこの能力を使っているからだろう。そして、あの巨大な邪神が星間飛行が可能な理由もこの力を有しているからか。
「あの怪物自体も半覚醒状態。巫女の憎悪を吸い込んで引き摺られておる。巫女自身もあの邪神の能力の制御に馴れておらんのだな」
 傾斜を持った岩盤や石柱が引き剥がされてクトゥルーの両翼に吸い込まれていく。その背後にある尖塔は千秋がいる為か影響を受けず直立しているが、このままでは世界はおおいなる〈K〉と千秋達の居る尖塔を残して消滅するのだろう。
 沖にいる深きもの共達もこの異常に気が付いたのか、慌てて波間に身を隠して深海に逃れようとする。長きに渡り、この強大な力を持つ神を信仰してきた彼等だったが、この様な終わり方は不本意だろう。それともこれも神の思し召しと満足して消えて行くのかもしれない。
「核どころの話では無いってことね。やるしかないか」
 覚悟を決めたように春奈がクトゥルーを睨み付ける。
「我は皇御孫命の命持ちて〈神の威〉を狩るもの。荒ぶる神達をば末打ち断ちて祓い清め給わん」
 天門町に現れた異形の者の首を刎ねた技を使う為、春奈が再び祓言の詠唱を始めた。
 頭上で両掌を合わせ、細長く青白い刀身に人や異形の者の首が無数に浮き出る剣を顕現させる。
 相手であるクトゥルーの巨大な翼の前の出現した黒い渦は、尖塔の建つ広場の石柱や床材を吸い込み終わり、崩壊は春奈の足元まで迫っていた。
 春奈は宙を蹴って砲弾の如く異世界の邪神へ向かって飛行する。
「神殺し」
 春奈の唇が顕現した剣の名を紡ごうと動く。
 神殺し〈十拳の剣〉。此の剣はその刃で神の首を刎ねる剣では無い。この剣の正体は呪いである。
 日本神話では伊邪那美神が火之迦具土神を生んで焼け死んだことに腹を立てた伊邪那岐神が、怒りに任せ火之迦具土神の首を刎ねた際に使われたのが十拳の剣である。
 いわばこの剣は神の首を刎ねることが出来る。それ故、術者がその剣の名を呼ぶことによりそれが言霊となり、振り下ろされる神の首は必ず刎ねられる。
 術者がその剣の名を呼んだ以上、その神の首は例外なく刎ねられ、これを防ぐには火之迦具土神が十拳の剣で首を落とされたことを無かったことにするか、それを向けられた相手が神として信仰されていない事だ。
 今、春奈が剣を振り下ろそうとしている相手は、古の地球に飛来した異世界の怪物で、星の智慧派や〈K〉、クトゥルー教団により崇拝、信仰されている。つまり神として機能しているのだ。
 だからこの剣は、その名さえ呼べば、その呪いで異世界の邪神の首を刎ねるだろう。
「十拳の」
 春奈は思った。この剣がクトゥルーの首を刎ねるのなら、千秋はどうなるのか。
 魔術師や呪禁導師の使役する使い魔が滅びると、その術者にも影響があるとは聞いた事がある。世界の理を書き換えて存在させたエネルギーがそのまま術者の帰って来るのだ。また使い魔との連動が高ければ高い程、術者へ跳ね返るダメージは多くなる。
 ならこの強大な怪物の首を刎ねると千秋の負う負荷はいかなるものか。
 春奈は千秋の首が落ちる幻影に怯え、神殺しの剣の名を呼べない。
「いかん、避けよ」
 頭の中に響いた警告と、春奈が我に返るのは同時だった。
 思考に囚われ無防備に邪神へ接近した春奈へ、触手の一本が唸りを立てて襲い掛かる。
 咄嗟に草薙で障壁を作るが、疲労の為か風は弱く触手を撥ね返す事は不可能だった。どうにか肉体への直接のダメージは避けられたが、風の障壁ごと背後に吹き飛ぶ。
 その背後には重力波により引き付けられた石柱の欠片が浮かんでいた。
 春奈は背中からその欠片に激突して意識が遠くなった。
「か……、は……」
 風でブレーキを掛けていなければ即死だっただろう。己のこめかみに血が流れ落ちるのを拭おうとしたが、肩甲骨辺りに激痛を覚え動かすことがままならない。
 ぼんやりと定まらない意識で己の身が邪神に引き付けられていることが解る。このまま行けば邪神の両翼にあるブラックホールに吸い込まれて分解されるだろう。
「……千秋さん、だ……め……」
 何とか草薙でこの場を離脱出来ないか試してみるが、体を強く打った為か激痛で意識が集中出来ない。
 迫り来る死に対して跳ね除ける手段の無い己の無力さに歯噛みしつつ、風を呼び起こそうとした春奈の身体が不意に地表へゆっくりと降下して行った。
「え……」
 邪神の広げられた両翼の前に存在した黒い渦が徐々に弱まり、翼が腐り落ちるように地面に落下する。
「いったい、何が、千秋さん?」
 春奈は邪神の背後にある尖塔を仰ぎ見る。その崩れ落ちた石壁から覗く光景を目にして彼女は力を失ったように両膝をついた。

               7

 千秋は己の胸から突き出たものを見下ろした。
 それは胸の谷間より僅か上で脈動していた緑黒い半透明の器官、おおいなる〈K〉を呼び出す触媒であった心臓の欠片を貫いて割り、優美な曲線をの先にある鋭い切っ先を覗かせていた。
 息を深く吸い込もうとしたが、逆に込み上げてくるものに耐え切れず咳き込んだ。
 己の口から飛び散ったものは緑色で、それを目にした千秋は自分がもう人間ではなくなっているのだと悟った。不死身の化け物になっていたのだと、そう思った。
 そして、そんな自分に深手を負わせる相手にも心当たりがあった。
 それがひどく悲しかった。そうさせてしまったことが、悲しかった。
 胸を貫かれているので、苦しくならないよう何とか首だけを動かして背後を見ようと、肩越しに振り返る。
 やはり、そうだ。
 背後には顔を俯かせて、柄を握った両腕を突き出した一人の少年がいた。その柄から伸びる白刃はきっと、私の背を貫いているのだと、千秋は人事のように感じた。
 少年は癖のある髪の下の顔を俯かせてピクリとも動かない。動くことで何かが壊れることを恐れているのか、微動だにせず突きを放った姿勢を維持している。
 千秋は目を閉じて顔を正面に戻した。
 ああ、終わったんだ。そう思った。
「……ごめんなさい」
 そう口にすると涙が流れた。
 ああ、泣いてしまった。泣いてる顔を見るときっと彼は傷付くだろう。だから前を向いて話そう。千秋はそう決心して視線を上に向ける。
 崩れた石室の壁から覗く青空、そして静かに崩れていく邪神だったもの。
 本当に、終わったんだ。
「……ごめんなさい、冬峰」
 千秋は何とかもう一度声を出せた。
 その背後で冬峰は静かに左右に首を振った。
「……私、冬峰に、最後まで守られて……ばかりで、ごめん」
「いいよ。千秋なら……それで、よかったんだ」
 冬峰は顔を伏せたまま答えた。
 白刃を通して彼女の存在が冬峰の胸に開いた穴に流れ込んでくる。それは千秋の命が己に吸い込まれているようで、その感覚が冬峰を絶望させる。それに比べればおおいなる〈K〉の不快な命の感触など気にはならなかった。
「ずっと、守りたかった」
 冬峰は身を震わせた。どうしようもない何かに憤りながら、これから失う何かに慟哭した。だが涙は流れず、それは己の内に溜まっていく。
「千秋が、あの場所で声を掛けてくれなかったら、俺はただの獣の様な生き方をしていたに違いない。千秋がいたから、俺は本家で過ごして感情こころを取り戻せたし、マスターの店で料理も覚えた。いつか、千秋と、共に」 
 冬峰の言葉が途切れた。彼女に追い付きたかった。あの時の千秋のように強くなりたかった。彼女を守りたかった。でも出来なかった。
「守りきれなくて、ごめん」
 あの時と、あの裏庭で一人居た時の自分と全然変わっていない。弱いままだった。御門冬峰は所詮誰かを守る力など持ち合わせてはいなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.47 )
日時: 2020/07/23 00:33
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 今度は千秋が静かに首を振る番だった。
「いい、よ、冬峰しか私を、守れなかったから」
 少年はその微笑を見ることが出来ず、顔を伏せたままだ。
「フユ君は頼り、になったの。私、は、それでいいの」
 二人で買い物をして帰った。ただ、それだけなのに特別な一日のようだった。
 この数日、何度も命の危機にさらされたのに、いま、思い出せるのは二人でバスを待っていたときの風景だ。
 千秋は、どんどん己が希薄になり消えて行くのを感じながら、その風景を懐かしく思い微笑む。
 その風景もかすんで消えていく。
 最後に思い描いたのは、天門町の自宅の裏庭。何時も時春が手入れをしてくれていた場所。
 千秋が独りになりたいときは、そこに置かれたベンチに座って物思いに耽っていた。
 でも今は、一人の傷付いた少年が腰掛けていた。
 独りで泣いている様に私には見えたんだ。
 ああ、思い出した。私は此処で彼と約束したんだ。
 だから、あの庭で泣いていないで外に出ようよ。
 ただ残念なのは
「……約束、守れ、なくて、ごめ、ん、なさ、い」
 それが冬峰の聞いた千秋の最後の言葉だった。

 冬峰は刀を抜いて倒れ掛かる千秋の背中を支えた。
 そっと床に横たえる。
 その様子にフェランは何かを言いかけたが言葉にならず、ただ眼を逸らして俯いた。
 アナベルは左手で己の両眼を覆っていた。
 誰も何も言えなかった。ただ横たわる千秋の死に顔が微笑んでいるようで、それが今、ようやく彼女の苦難が終わりを告げた様で辛く感じられた。
 その傍らで膝をついた少年は、光を失った眼でその穏やかに眠るような表情を見下ろして、ゆっくりと彼女の命を奪った凶器を己の首筋に近づけた。
 僅かにその刃が首に食い込む。
 その光景は尖塔を見上げていた春奈の眼にも入った。最後の力を振り絞って跳躍する。
「冬峰さん!」
 冬峰の両手に力が籠る直前、彼と千秋の足下が、いや、尖塔全体が崩れ始めた。
 少年と亡骸となった少女は床の崩落に巻き込まれ落下する。
 フェランやアナベルもなす術も無く落下する。
 下方から白いコートを纏った女性が、上空から黒いコートを纏った何者かがその崩落する石の搭に飛び込んで行った。

               8

 洋上をオレンジ色のゴムボートが生存者を発見、救出しようと右往左往していた。しかし浮かび上がるのはかっては生きていた者達であり、今は何も言わず虚ろに見開かれた眼をした抜殻だ。揚陸艇が健在であればもう少し作業は捗るのだが、この作戦の初期にて深きもの共に引っくり返されて今は海の底だ。
 ルルイエに上陸した多くの兵士がそこに潜んで来たイモリ人間に惨殺されており、其れから逃げ果せた者達も出現した邪神を一目見るなり正気を失うか、自ら命を絶っており生存率は一割以下だった。
 その忌むべき邪神の島も今は海の底だ。
 島の中央、怪物の後を追う様に尖塔が崩れ去ると大きな地響きを上げながら島が揺れ動いた。
 島は海岸に面したところから奇妙な傾斜を持った岩が剥がれだし、海面に突き出た面積を小さくしていく。
 島に建てられた石柱群も次々に倒れて石榑と変わっていく。
 まるで島が死んでしまったかのように崩れ沈んでいく。
 大きな渦を作りながら多くの犠牲者と共に島が沈んでいくのを、強襲揚陸艦の艦長代理呆然として眺めていた。
 そして今、艦橋から眼下の海面を眺めているが、この任務が終了したかどうかは解らなかった。
 艦長は自ら命を絶ってしまったが、彼は後尾デッキで二度目の上陸作戦の準備にあたっていた為、怪物、その出現を阻止することが目的だった相手を見ることが無かったのである。
 時折叫び声や譫言を口にする生存者の証言によると、巨大な怪物が現われ、そして消えた。
 核ミサイルは飛来せず、全てが自分の関与することなく終わってしまったようで、それを幸運だと喜ぶべきか、それとも蚊帳の外に置かれたことを嘆くべきか彼には解らなかった。
 その遙か上空、かってルルイエがあった南緯四七度九分、西経一二六度四三分を見下ろす人影があった。
 黒の三つ揃いを着こなして、風に黒髪とコートを靡かせて上空に浮かぶ姿は、その容姿と相俟って高貴な貴族のようだった。
 ナイ神父である。
 彼は何も言わず島の浮かんで来た場所を見つめていたが、両腕に抱えた彼の従者、アナベルが身動ぎしたので彼女へ視線を映した。
「……かなりダメージを負ってるが修復は可能かね?」
 スーツ姿の麗人は苦しそうに己の失った右手に目をやって辛うじて口を開いた。
「帰還すれば何とか。……申し訳ありませんマスター。千秋さんを……」
 ナイ神父は労わる様に首を振った。
「済まないが、間に合わなかった。彼女はルルイエの残骸と共に海の底だ」
 彼にしては珍しく、後悔するように目を伏せる。
「いや、私の判断も拙かった。黄衣の王、いや、ハスターのクトゥルーへの憎悪の大きさと復活する事への欲求を甘く見積もり過ぎた」
「彼女が居れば、最盛期の失われた自分を復活出来るからね」
 背後からいきなり響いた声にもナイ神父は驚く様子も無く海面に目を落としたままだった。
「君の本当の目的は、彼女を使って我らが盟王の失われた知性を取り戻す事かい」
 その問いには答えずナイ神父は皮肉めいた唇を浮かべた。
「おやおや、これはこれは。ソロモン機関のエージェントである君がこんなところに何の様かね」
 その人物は燃えるような赤い髪と、同じく赤色の光沢のあるインバネスコートを身に纏って宙に浮いている。
「君の御主人も隙あらば彼女を横取りしようと狙っていた。違うかね、フレア君」
 その人物は遠く信州の駅前で、異形の怪物と戦い行方不明となっていたソロモン機関の能力者フレアだった。その彼が何故こんな処でナイ神父の前に現れたのか。
「残念ながら、ソロモン機関が本当に欲しがっているのは、あの純白の御姫様さ。あの能力は間違いなく王の護衛に加える価値がある」
 フレアは片手を振って心外なと顔を顰めて否定した。それから口元に皮肉めいた笑みを浮かべてネイ神父の背中へあざけるように声を掛ける。
「まあ、君は予行練習の心算で、あのクトゥルーを操ろうとした出来損ないの身の程知らずと契約したのだろう。次は、僕か君か、どちらが御門家の姫君を手に入れるだろうね」
 不意にフレアは身震いして僅かに後方へ下がった。
 ナイ神父がアナベルを抱えたまま振り返る。
 その額には燃えるような蒼白い光を放つもうひとつの眼が開いていた。
「……出来損ないと言ったか、クトゥグアの不死の代行者」
 ナイ神父の声は静かだが聖堂の鐘の響きのように、フレアの耳に木霊する。
「彼女の願いは我々からすれば小さい細やかなものだった。彼女は其れを獲る為に己の全てを擲って私と契約したのだ。その行為は気高いものだ。君の言う出来損ないには出来ないことだよ」
「はは、やる気か。ンガイの森のように焼き尽くされたいのか?」
「お望みとあらば。ただし今日の私は機嫌が悪い。手加減出来ない事を肝に銘じてくれ」
 フレアはインバネスの懐から、自らが赤い光を放つ憤怒の顔の石仮面を取り出して己の顔に被らせる。
「ふん、なるほど今日は手強そうだ。此処は一旦引かせてもらうよ」
 フレアの身体から炎が広がりその身を包んだ。そのまま天に昇っていく。
「次に会う時は、その澄ました顔だけ残して焼き尽くす事としよう」
 炎が小さくなり消えていく。ナイ神父はそれを見送ってから肩の力を抜いて苦笑した。
「やれやれ、まだあの少年に与えられたダメージから回復していない事を忘れていたよ」
 黒檀のドアが空中に出現して内側から開いた。
 ナイ神父はドアを潜る前にもう一度、海上に漂うゴムボートのひとつへ目をやった。
 そのゴムボートには三人の男女が居り、彼等は今回の彼の企てを打ち破った者達だ。
「クトゥルー、いや、彼女は必ず復活させよう。その時は我が契約者を傷付けた報い。受けてもらうぞ、少年」
 ナイ神父とその従者は、短い間だったが共に過ごした少女の死を悼むとともに、今は疲弊した身を休めるべくそのドアをくぐった。

 そしてアンドリュー・フェランはゴムボートの縁にもたれ掛かり宙を気だるげに見上げていた。海に落ちる寸前、冬峰と共に春奈に救われた。
 おおいなる〈K〉、彼や教授がその復活阻止の為、長い年月を戦い抜いてきたが、ついに其の邪神の滅びる様を眼にすることが出来た。
 彼と共に戦ってきた仲間達を始め、幾人もの犠牲を眼にしてきた。その戦いの日々も今日で一応の区切りがついた。
 長年の宿敵であるおおいなる〈K〉が滅ぶ光景を目にして、彼の心が満たされるかと思ったが、実際はそうではなかった。むしろ逆だ。
 今回、彼が〈K〉の魔の手から守ろうとした少女は、結局、敵の手に落ちて邪神を呼び出してしまった。その後始末をしたのは彼女を守ろうとした少年だ。
 フェラン自身は何も出来ず、ただそれを見ていただけだった。
 あの教授なら、世界を救うためには仕方がなかった、少数の犠牲でそれ以上の人間を、世界を救えた、冷徹にそう語るだろう。己を守るためにそれを受け入れるのは容易いが、フェランは己がそれを口にすることはないだろうと思った。
 この後も自分は旧支配者と戦い続けるだろう。これまでの犠牲を無駄にしない為に、もっと多くの犠牲を作り上げ乍ら戦い続けるだろう。横たわった少年とそれを見守る美女を眺めながらフェランはそう思った。

 御門春奈は眠り続ける少年の頭を膝枕に乗せ、その寝顔を見下ろした。
 崩れる尖塔の瓦礫から彼を救い出してゴムボートに辿り着いた。それから彼は眠り続けている。
 この島での死闘で疲労が極限に達して眠っているのならまだ良い。だが彼女もまた、千秋と同じく冬峰の身体の異常、いや魂の異常を見ることが出来た。
 胸の中央よりやや左よりに開いた孔は、数日前、彼がルルイエに旅立立ったころよりもはるかに大きく開き、そこから走る亀裂は体中を覆い隠していた。
 千秋を〈K〉に奪われた翌日にフェランに肩を貸されて帰って来た彼が、その胸の穴を僅かに大きくしていた時、春奈は彼を引き留めようとした。
 しかし、彼の千秋に対する思いを無下に出来ず、結局彼を死地に向かわせてしまった。
 その結末がこれだ。彼は大事な者に自ら手を下し、自分自身はぼろ屑のようになって眠り続けている。目を覚ますかどうかは春奈も解らなかった。このまま眠る様に命の火が途絶えてもおかしくは無かった。
「……御免なさい」
 春奈は眠り続ける少年の頬に手を触れて消えそうな声で謝るしかなかった。
 自分がおおいなる〈K〉、あの邪神の首を刎ね終わりにすればよかったのだ。例え、千秋がその瞬間に命を失っても、春奈がその罪を背負い生きていけば、御門家当主の責として胸に治めればよかったのだ。
 春奈は〈十拳剣〉を発動させる事を躊躇ったのは、千秋の首が落ちる幻影に怯えただけではなかった。
 千秋の命を奪えば、冬峰はいなくなるかも知れない。行方を晦まして二度と私達の前には現れないのではないか。そんな思いに囚われたのだ。
 仮に春奈が千秋の命を奪っても、彼は春奈を責めないだろう。ただ昔の彼に戻ったかのように口数が少なくなり、いつの間にか姿を消す。そんな怖れを抱いて、神の首を刎ねる言霊を途切れさせた。
 御門家当主であることの重圧も、あの本家の居間で妹達と彼が居てくれるだけで耐えることが出来る。御門家当主である事に疲れ、妹達の相手を煩わしいとしか思えなくなっていた自分を冬峰は不器用であるが支えてくれて、私は徐々に心が癒されていた。冬峰の存在は既に本当の弟のように大事なものとなっていたのだ。
 そんな自分の弱さが冬峰を此処まで傷付けてしまった。
 冬峰の額に、頬に、春奈から零れ落ちた雫が慈雨のように降り注ぐ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 本当は許してくれなくてもいい。春奈は只、冬峰に目を覚まして欲しかった。

               9

 また同じ夢を見ている。
 どんな夢を見ていようが、目の覚める前はこの夢に戻って来る。
 独りでこのベンチに腰掛けている。この花が咲く手入れの行き届いた裏庭で、色彩豊かな静寂の中で、ただ独り、この小さな世界に閉じ込められている。
 ここは今迄自分が生きていた世界とは違う。誰かを傷付ける必要も無ければ、誰かを傷付ける必要も無い。多分、自分が望んできた世界なんだろう。
 それなのに、自分が虚ろだ。
 きっと、自分は誰かを傷付ける事しか知らない生き物なんだろう。
 それ以外の事は出来ない人間なんだ。いや、人間じゃなく誰かは廃棄物って言ってた。
 ああ、父親と親類だったっけ。この国に強引に連れて来られた従姉にその意味を聞いたら、ものすごく悲しそうな顔をした。
 後で意味を調べたら間違ってはいないと思ったんだ。だって、そうだろう。戦場じゃ僕のような子供が、どんどん死んでいるんだ。
 だから、誰も僕を見ず、誰も語り掛けず、父すら忘れたくて仕方がない。
 間違っていない。俺は廃棄物なんだ。
 だからどんどん胸の穴が大きくなって壊れていく。自分が無くなって壊れていく。
 そして彼女が裏庭に現れる。癖毛のショートカットをした紅い縁の眼鏡をかけて黒瞳の大きな彼女が裏庭に入って来る。
 一度はこの裏庭を出て行こうとするが、ベンチの隣に腰掛けて話しかけてくる。
 面倒臭く煩わしかったが彼女の強引さに圧倒されて会話を始めた。
 そして彼女はベンチから腰を上げ、俺の前に立つのを感じて顔を上げた。
 彼女は眼鏡の奥から睨み付ける様に見下ろしている。
「名前は? あなたの名前」
「御門 冬峰」
 教えても差し支えは無いと判断して素直に答えた。
 冬峰、冬峰ね。彼女は俺の名を僅かに唇を動かして反芻した。
 眼前に差し出される彼女の右掌。
 何の心算なんだ。俺は彼女を見返した。
「わたしは」
 少女の口が開く。力強い意志を込めた視線が、今まで誰からも向けられた事の無い己を奮い立たせる様な視線が少年に向けられている。
「私は御門 千秋。この家の一人娘なんだ」
 なら、この裏庭に来てもおかしくは無い。やっぱり俺は邪魔だったか、と俺は彼女の差し出された手は、とっとと立てと受け取ってベンチから腰を上げようとした。
「まだ、座っていてもいいよ。きっとこの裏庭を出ても、あなたは何も出来ないと思うんだ。私も一緒だから」
 その言葉とは裏腹に彼女は笑顔を浮かべた。
「だから、私が出してあげる。私が強くなって、この閉じられた裏庭から貴女を出してあげる」
 俺は何も言えなかった。
 ただ右手を差し出した彼女を見上げるしかなかった。
 誰かに力強く微笑み掛けられることも、救いの手を差し伸べられる事も無かったから。
 その強い彼女があまりにも眩しくて、その手を取ることを躊躇ってしまったんだ。
 弱い自分が恥ずかしくてその手を取れなかった。
 その約束を、彼女が覚えていてくれたかどうかは解らない。
 彼女が高校生の身で家を出てアルバイトをを探していると聞いたとき、彼女はあの裏庭を出る準備をしていると思った。
 だから、彼女と同じくアルバイトを始めると共に、彼女を守る力が欲しくて剣技を磨いた。外の無慈悲で残酷な世界でも千秋を守れるようになりたい。そう願って。
 君は強いから、強くて誰にも弱音を吐きたくなくて無理をしているから、そんな千秋を支えたくて。
 あの買い物帰りのバス停、二人でバスを持っている時、ふと思った。
 こんなふうに二人で並んで裏庭を出れたらいいと。
 千秋の手を取って、二人で並んで一歩を踏み出したいと願ったんだ。

 ただ、そう願っていたんだ。
 強くなって、千秋の手を取ってこの裏庭から出たかったんだ。ただそれだけなのに。
 
 眼の前で手を差し伸べる千秋は見慣れた高校生の姿となって手を差し出している。あの時と同じくいつまでも手を取らない俺に、困ったような笑みを向けていた。
 だって、千秋はもう……
 風は吹いて裏庭に咲いた花から花弁が散り、それが俺と千秋を包み込む。
 いや、それは違った。
 困った様に、何故か悲しそうにも取れる笑みを浮かべる彼女の指先が、花弁となって消えていく。彼女が花弁を散らしながら消えていくのを俺はただ見上げるしかなかった。
 ああ、これは記憶だ。俺は彼女を忘れつつあるんだ。
 花弁は裏庭の上空に開いた黒い太陽の様なものに吸い込まれていく。
 まだ、彼女の笑みを浮かべる半顔と差し伸べられた指先が残っており、俺は腰を浮かせて世の手を取ろうと手を伸ばす。
 伸ばした指先が届く前に大きく散った花弁と共に彼女の姿が消えて、俺は両手と両膝を地面に付けた。
 俺は顔を伏せた。
 まだ花弁は上空を漂っている、何も知らなければ美しい光景なんだろう。
 俺は目が覚めると二度と思い出す事の出来ない少女を思い、裏庭でただ独り生まれて初めて涙を流した。
 誰もいなくなった裏庭で涙を流し続けた。

                    天門町奇譚  完

Re: 天門町奇譚 ( No.48 )
日時: 2020/07/23 01:01
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

あとがき

物語を最後まで読んで下さった皆様に感謝致します。
この小説は「クトゥルー神話」のオーガスト・ダーレス作「永劫の探求」の二次創作となり、作者にとっても初めての長編となります。
一部「アーカム計画」やその他の物語を取り入れております。
「永劫の探求」の二次創作ですが、アンドリュー・フェランと一部のキャラクターのみの登場となっており、主役がオリジナルキャラクターですが、こんな物語が作れるのも「クトゥルー神話」の懐の深さと思います。

三年間、コツコツと書き続けていた物語を書き終え、作者も気が抜けています。
ライト・ノベルと呼ばれる分野でなく、ジュブナイルノベルに近づけたらとこの物語を書きました。
その前に小説としてのレベルを上げないといけませんが。

次回は中断していた運び屋の物語をコツコツと書いていきます。

それではまた次の物語で。


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