二次創作小説(新・総合)

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天門町奇譚
日時: 2020/07/19 13:49
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

   序 異界侵食

 まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
 商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
 午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
 芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
 何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
 外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
 なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
 この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
 この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
 最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
 雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
 息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
 息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
 下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
 父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
 父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
 八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
 その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
 だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
 二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
 連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
 別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
 三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
 何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
 直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
 中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。

 しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
 ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
 いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
 直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
 そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
 それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
 しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
 先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
 直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
 数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
 直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
 現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
 その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
 またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
 この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
 発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
 千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
 今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
 自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
 駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
 しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
 芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
 それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
 それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
 芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
 屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
 すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
 いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
 もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
 ごぽっ。
 背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
 ごぽっ、がぱっ。
 何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
 ごぽり、
 芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
 マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
 前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
 ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
 悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
 成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
 それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
 三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
 だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.34 )
日時: 2020/07/22 20:29
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 フェランは味噌汁を啜った後、小皿に乗せた梅干をひょいっと口腔内に放り込んだ。
 バタンと仰向けに畳の上に倒れ込む。
「すすすすすす」
 口を尖らせて畳の上で手足をじたばたさせてもだえ苦しむおっさんを、冬峰は溜息を吐いて見下ろした。
「何やってんだ、おっさん」
「ハオ、お早う」
 昨晩の死闘など無かったかのように寝転んだまま挨拶してくるフェランを呆れたような眼で見下ろしつつ、冬峰は座テーブルの前に腰を下ろす。
「お早う、春奈さん、紅葉」
「お早う御座います」
「オハヨー」
 春奈は挨拶を返した後、心配そうに眉を寄せて冬峰を見やった。
「冬峰さん。もう起きていいのですか? 昨晩は帰って来るなりお二人共、三和土で崩れ落ちる様に眠ってしまわれたのですが」
 冬峰の記憶は門をくぐるところで途切れており、それが彼の行動限界であったのだろう。むしろ庭先で倒れ込まなかっただけでも僥倖といえよう。
 その冬峰を春奈達は三人掛かりで彼の部屋まで運んだのだが、彼の衣服が昨晩同様なのは、脱がせようとした年長さんを下の二人が止めた結果である。
 ちなみにフェランは、朝の三和土の冷たさで目を覚ました。
「うん、俺は大丈夫だから心配しないで」
「でも……」
 春奈が心配しているのは冬峰が、負傷しているのをフェランから聞き出したからなのだが、それ以上に千秋を奪われたことにより冬峰が自責の念に囚われていないか、それが心配だった。
「千秋さんの件は、もう私達に任せて…」
「その件は後で話すよ。紅葉と夏憐ちゃんもいるし」
「……はい」
 冬峰は味噌汁の碗を手に取り一口啜る。おやっと何かに気が付いたように眉が動いた。
「うん、コレ俺の作る味噌汁の味だね。夏憐ちゃんが作ったのか?」
 冬峰の隣に腰掛けた黒髪の少女が控えめに頷く。
「まだ料理を初めてそんなに日が経っていないけど、筋が良いのかな」
「……」
 恥ずかしそうにして俯く夏憐にの正面で、春奈は腰に手を当てて平均程度の胸を張った。
「そうです、私の妹は凄いんです」
 えっへん。
「……何でハル姉が偉そうなの?」
 座テーブルの上で頬杖を突いて姉を見上げる紅葉の瞳には、姉を敬う様な光は一切浮かんでいなかった。
「というか、ハル姉も年頃なんだから料理すれば」
「う……」
 とたんに肩をすくめる駄目姉貴。
 春奈は學校の調理実習以外で料理したことが無い。今迄、食事の用意は自分以外の誰かが用意してくれたので、別に覚える必要が無かった。わざわざ危険を冒してまで、美味しく無い料理を作って食べる必要はないというのが春奈の持論であり、言い訳であった。
 いきなり畳の上で死体になっていたフェランがが身を起こし、期待に満ちた目を春奈に向ける。
「え、何だ? このお姉さんが朝食を作ってくれるのか? いや、有難いな」
「作りませんよ。早起きは苦手なんです」
 春奈は顔の前で手を左右に振ってフェランの希望を粉砕した。その手を握り拳に変えて、立ち上がる。
「いいんです。朝昼晩飯とデザートは優しい旦那様が用意してくれるんです」
「うわっ、開き直っちゃったよ。この駄目姉貴」
 紅葉が宙を仰いで嘆く。日頃苦労しているに違いない。
 夏憐は尊敬すべき長女の言葉に首を傾げて何事か考え込み口を開いた。
「でも春奈お姉ちゃん。そんな人、誰かいるの」
「……」
 春奈機能停止。
「何なら僕が毎朝、愛情を込めたサンドイッチを作ってあげよう。それでOK?」
「私、朝食は和食が良いんです」
 あっさりと切り捨てられてがくりと項垂れるフェラン。
 その頃、庭先で本家の警護に当たっている青桐は、座テーブルの下に仕掛けた盗聴器から今のやり取りを盗み聞きして、冬峰に弟子入りして和朝食マスターになることをひそかに決意していた。

 冬峰の朝食が済んだ後、春奈は紅葉と夏憐を玄関先から見送ってから居間の座テーブルで何事か考えている冬峰の向かいに腰を下ろした。
 フェランは座布団を枕代わりにしていびきをかいて眠っている。昨晩はあまり眠れなかったかもしれない。
「それで、冬峰さんはこれからどうするのですか」
「うん、どうすればいいのかな」
 人をくった返答だが、この答えが今、彼が答えられる精一杯の返答だった。
 守るべき千秋は敵に奪われ、今どこにいるかは解らない。あのナイと名乗る怪人の言葉を信じるなら、ルルイエと呼ばれる場所に行けば何か手掛かりが掴めるのだろう。
 しかし、この一件に一度任務に失敗した自分が関わることを冴夏や高天原は許してくれるのだろうか。
 何としてでも千秋を取戻したいのだが、自分自身が何の能力も無い只の学生で、どれ程その存在が疎ましくとも御門家の権力を借りなければどうにもならない事を冬峰は重々承知していた。
 小さく息を吐く。ただそれだけで決心した。
「春奈さん」
「はい」
「その、〈ルルイエ〉が何処か探して欲しいんだ、その場所が〈K〉にとって重要な場所らしい。黒幕らしい奴が其処に来いと言ってた。そこに行くことを、行って千秋を救うことを冴夏伯母さんに頼んでほしいんだ」
 視線を落として申し訳なさそうに頼む冬峰を、春奈は一抹の寂しさを含んだ微笑みを浮かべて見つめた。
 彼が、そう申し出るのは半ば予想がついていた。
 この天門町で起こる怪異に千秋が巻き込まれてから、彼女を守り通してきた冬峰が一度の失敗で彼女を諦めるとは思えなかった。
 正直、春奈はこれ以上、天門町で起こった怪異について冬峰に関わって欲しくない。
 冬峰が何とか出来る程度の相手では無く、当主である自分や青桐、朱羅木達、御門家の能力者でないと太刀打ち出来ないであろう怪物、怪人であった。
 現に朱羅木は鬼籍に入り、冬峰自身も手傷を負って千秋を奪われている。御門家の当主としてはこれ以上の犠牲は看過出来ない。冬峰をこの件から外すべきだろう。
 そして春奈にはもう一つ、冬峰がこの件に関わることを良しとしない理由があった。それは御門家の兵隊としての冬峰でなく、御門本家の家族の一員としての冬峰の存在であった。
 冬峰を戦場から救い出して御門本家で面倒を見る様になって数年が経過した。引き取った頃は彼は喜怒哀楽に乏しく、また彼を知る者も彼が感情を持つことは不可能であり、また戦場へ放逐されるだろうと陰口を叩く者もいた。春奈や紅葉、夏憐から話しかけても、はいといいえ、ああ程度の短い受け答えしか返さず対応に困ったものだ。
 それがある時期から徐々に彼が自ら他人に対して働きかける様になってきた。ぎこちないながらも春奈達と会話するようになり、テレビドラマなどの会話を食い入るように見つめて、何故この登場人物がこんな事をするのだろう、と春奈に問い掛けたることもあった。
 料理や掃除なども自ら行い、今では彼がほとんど受け持っている。妹達も彼に懐いており、春奈自身も頼りにすることが多い。
 以前は両親を早く亡くした為、まだ幼い齢の離れた妹達に対して厳しく母親の役目で接することもあったが、今は冬峰が間に立って妹達の不満を受け止めてくれる事が多い。春奈自身、無理に母親役を演じる事は少なくなり、自然体で妹達と接する事が出来た。それがとても嬉しい。
 だから、今、冬峰が危険に身を晒し、いなくなることが事がとても怖い。妹達だけでなく、春奈にとっても冬峰はかけがえのない家族なのだ。
 当主として命令すればいい。この件から手を引けと。家族として頼むべきだ。危ないからよせと。
 しかし、この数日、冬峰が千秋に向ける視線には自分達に向けるものとは違っていることに気が付いた。そして、彼の今日に至るまでのの行動に理由がある事に思い当たった。
 これまで外界に無関心であった冬峰が変わっていったのは、伯母の冴夏に冬峰を会わせた事ではなかったか。
 彼が進められた私学でなく近場の公立高等学校へ進学したのは、独り暮らしを始めた千秋が通学していたからではないか。
 彼がアルバイトを始めたのはそこに千秋がいたからではないか。
 そう考えると、冬峰にこれ以上戦うなと言えなくなる。千秋を取り戻すことを諦めろと、他の者に任せろと、そう言えなくなるのだった。
「解りました」
 春奈は微笑みを浮かべて冬峰に告げた。
「私から冴夏伯母さんに頼んでみます。高天原にも協力を仰ぎましょう。だから冬峰さんは千秋さんを救うことに全力を注いでください」
「ごめん、春奈さん」
 何に対してか、どこか愁いを帯びた表情で頭を下げる冬峰に、春奈は笑顔で自分の胸を叩いてみせた。
「心配しないで、ここは頼れるお姉さんに、ドーンと任せて下さい」
 二度と帰って来ないかもしれない。その予感に涙をこらえつつ春奈は普段通りの自分を演じようと決心した。
「でもルルイエですか。何処かの地名でしょうか? 聞いた事の無い名前ですけど」
「うーん、でも俺はエセ神父から聞いた以外に、どこかでその名前を知っているような気がするんだ」
「駅前広場の新しく出来たメイド喫茶ですか」
「そこで千秋が売り子していたら、俺はあの黒づくめの頭を疑うぞ」
「何処にあるか、それはとうに判っているんだ」
 不意に寝転んだフェランが口を挿んだ。眼を開き天井を見つめていることから、冬峰と春奈の会話を盗み聞きしていたようだ。
「何処にあるんだ」
 冬峰の問い掛けにフェランは視線を冬峰に向けて意地の悪い笑みを浮かべる。
「君は読んでいたはずだ、ラブクラフトの小説を。僕は言ったぞ、ルルイエは浮上する者だって」
「冬峰さんは知っているんですか?」
 冬峰は顎に手を当てて考え込んでいたが、何かを思い出したらしく居間を出て行き、数分後に戻って来た時は手に古い小冊子を携えていた。
「祖父さんの蔵書だ。H・P・L(ハワード・フリップス・ラブクラフト)の作品〈クトゥルーの呼び声〉」それにルルイエの名前が出てくる」
「南緯四七度九分、西緯一二六度四三分。ルルイエはそこに浮上してくる」
 冬峰は、哀れな船乗りのヨハンセンがルルイエに上陸する記述のあるページを開けて春奈に手渡した。
「想像上の島ではないってことか、なら今直ぐでもそこへ」
「それは無理だな。ルルイエは条件が合わないと浮上してこない」
「条件って?」
 フェランはため息を吐いて煙草を咥えた。室内禁煙らしく春奈の抗議めいた視線も気にせず、オイルライターで火を付ける。フェランの顔をよぎる苦渋の色は、そんな事があってはならない。そう物語っていた。
「その島の主、〈おおいなるK〉の目覚める時だ」
 春奈と冬峰は同時に宙を仰いだ。
「昨日、駅前に現れた怪物みたいなものか」
 フェランは静かに首を振った。
「あれとは大きさも、それを取り巻く雰囲気も桁はずれに違う。〈おおいなるK〉が現われるだけでそれを目にした者は狂死か廃人化するのがほとんどだからな」
 僕も時々夢の中で思い出して跳ね起きることがあるよ、とフェランは力無く笑う。
「だが、〈おおいなるK〉、ラブクラフトや我々はクトゥルーと呼んでいるが、今はルルイエに存在し無い筈なんだ」
「どういうこと」
 春奈の質問にフェランは掌を宙に向けて、ぱっと開く。
「そんな存在を強国が見逃すはずがない。一九四七年のラバン・シュルズベリィとアメリカ合衆国主導による核実験、一九六五年のアーカム計画によるルルイエへの核攻撃。この二度の核爆弾の猛威にクトゥルーは耐えられず四散したはずだった」
「はずだった、か。歯切れの悪い言葉だな。その後何かあったのか」
 フェランは煙草を揉み消すと、ああ、と呟いて遠くを見つめた。
「大異変だ。一九八五年、アメリカ、ロサンゼルス。君に話した通り、クトゥルーと人間の間に生まれた青年がクトゥルーと同等の存在に変化する際に生じた天変地異によって、アメリカ西海岸は消滅、南半球のほとんどの島は水没して、クトゥルーの眷属や下僕の住処となった」
「それは、俄かには信じ難いですね。巨大地震と大津波が原因と教えられていましたが」
「だろうな。だが真実だ。僕もその場に居合わせたからね」
 春奈と冬峰はフェランを見返した。二人共、良く生きていたな、と同時に感心したのだが、口を吐いたのは別の疑問だった。
「あんた、一体何歳いくつだ?」
「フェランさんは何歳なんですか?」
「それは今話題にする事では無いだろう。問題はクトゥルーと人間の間には異種交配が可能な事だ」
 冬峰の表情は曇る。昨晩のフェランの質問を思い出したのだ。
「僕は昨晩言ったぞ、彼女がクトゥルーの子を身籠っていたいた場合、僕は彼女を殺さねばならないと。今度はアメリカ合衆国でなく、本来の棲み処であるルルイエだ。発揮する力は前回の大異変を上回るかも知れない。今度こそ人類は滅ぶかもな」
「そうはさせない。千秋は必ず救う」
「ああ、そう出来ればな。だが今は彼女がどこに居るかも解らない。ソロモン機関も、世界各国の諜報機関も血眼になって探しているが、その尻尾さえ見つけられない。現れた時には既に手遅れだ」
 冬峰は沈黙した。今、千秋が何処にいるか知る術も無く、春奈に連絡が来ていない以上、御門家や高天原ですら、彼女の行方を掴んでいないだろう。春奈も俯いて肩を震わせている。心配なのだろうと冬峰は察した。
「心配です」
「俺も、な」
 千秋は頬に両手を当てて、顔を赤くしている。
「冬峰さんもそう思いますよね、その〈大いなるK〉の目的が千秋さんの身体だったなんて」
「……」
「……」
 冬峰もフェランもどう返していいか解らず沈黙する。
「だって、千秋さんの、あの胸をこねくり回されちゃうんですよ」
「こねくり」
「回すって」
 春奈はきゃーきゃーと想像に歯止めが効かなくなったのか、ぺしぺしと座テーブルを叩いて宙を仰いだ。
「ああ、もう羨ましい。あのガードの高い千秋さんの胸を触れるんですよ。もう先を越されました」
 冬峰は、誰かが庭先で倒れる音を耳にしたが、敢えて気にしないことにした。
「いや、君。問題は人類が滅ぶかもしれない可能性で」
「そんなもの、どうだっていいんです! あの胸の価値は、絶対世界遺産です」
 うわ、言い切ったよ、この人。冬峰とフェランは春奈の剣幕に圧倒され仰け反っている。冬峰は青桐に頼んで陣地にエロ当主を閉じ込めて貰おうか、そう考え始めた。
「冬峰さん!」
「は、はい」
 つい背筋が伸びる。ついでに正座。
「冬峰さんも、揉みたいですよね」
「え、俺?」
「揉みたくないんですか、私は揉みたいですよ。冬峰さんも正直になって下さい」
 春奈の眼は座っており、冗談では無く、彼女が本気でそう思っている事が解った。
「さあ、さあ、さあ!」
 ずい、ずい、ずずい!
 迫って来る御門家一の美人であり町内のアイドルでもある当主に居候が押し倒されそうになったのだが、ギリギリのところで救い主が現われた。
 フェランの携帯電話から着信音が響き、それを手に取って耳に当てたのと、青桐が玄関から居間に駆け込んでくるのは同時であり、そして口にしたその内容は異なるが、その言葉の意味は同じだった。それを耳にした冬峰と春奈の表情が引き締まる。
「ルルイエが浮上した」
「千秋さんが見つかりました」

                3

 薄闇に覆われた石造りの回廊を、黒衣の紳士と純白ののブラウスに紺のスカート姿の少女が黒いポンチョで身を隠した数人の人影に囲まれて歩いていた。
 ポンチョ姿の人影の持つ懐中電灯の弱い光が回廊内を照らすが、少女の目に映るのは同じような石畳ばかりでかれこれ1時間ばかりこの変わり映の無い回廊を彷徨っていた。
「あと、どれくらい歩けばいいのでしょうか?」
 少女が隣の黒衣の紳士にやや険のある声音で問い掛けるが、問われた方は顎に拳を当てて考え込むような姿勢で立ち止まった。
「これは、前と順路が変わっているのかな? 私を石室内へ入れないつもりだろうか、嫌われたものだな」
「迷ったのですか?」
「うむ、迷わされたというべきかな」
 ナイ神父は千秋の疑問に重々しく頷き答える。
「……どうして、仲間じゃないんですか」
 千秋の視線は冷ややかで、此奴は頼りになるのだろうかという疑念を抱いているのが誰の目にも明らかだった。
「うむ、まあ、私達はそれ程仲が良いというわけでは無くてね。特にこの利かん坊の主は敵が多くて困っているんだ。特にハスター、君のところにも、その代行者が攻めて来たのだが、そいつとこの場所の主は犬猿の仲なのだよ。まあ、今回は君を手に入れる為に共闘しているがね」
「で、貴方とこの場の主の場合は、何をしたんですか?」
「人聞きが悪い言い方は止めたまえ。私は何もしていないが、私と同じ端末のひとつにこの星に昔から存在している精霊や神様の守護者が居てね、彼との間に一悶着あったらしい。全く迷惑な事だ」
「きっと、相手も同じことを思ってますよ」
「手厳しいね、君」
 苦笑してからナイ神父は周囲を見回してから葉巻に火を付けた。
「しかし、このままでは何時まで経っても中枢に辿り着けない。多分、君だけなら辿り着けるが、それでは私が面白くない」
「面白くないのですか?」
「散々、働かせてのけ者にされるのは心外だな」
 千秋は呆れたように黒衣の相棒を見返したが、すぐに何か諦めたように首を振った。
「どうして、私の周りには変な奴ばかり集まって来るのだろ」
「いい言葉がある。類は友を呼ぶ、だ」
「何ですって」

Re: 天門町奇譚 ( No.35 )
日時: 2020/07/22 20:45
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 背後のポンチョを被った男が何かを呟き、ナイ神父は真顔になった。
「やはり、君を先行させるべきかな」
 ナイ神父が一歩退いて千秋の背後に回る。
「進みたまえ。此処の主が導いてくれる」
 半信半疑で千秋は回廊を歩き始めた。三メートル先も見えない闇の中、ただ、歩を前に前に進ませる。
 一〇分も歩かないうちに急に開けた室内に入り込んだ。
 その部屋は回廊と同じ石造りのようであったが、表面には見た事も無い幾何学模様で埋め尽くされており、石と石の間からは緑色の光を放つゼリーの様な流動物が滲みだしている。
 千秋は頭上を見上げた。天井は遙か上空にあり、彼女の眼にはその詳細は読み取れず解らなかった。
「ここが海底都市〈ルルイエ〉の中枢で、此処の主クトゥルーの顕現する場所だ」
 背後からの声に振り向くとナイ神父が木箱を片手に佇んでいた。
「二度の核攻撃にもこの場所は耐え抜いて、主のみが消え去った。しかしその精神体は滅びておらず、この地に留まっている」
 ポンチョ姿の者達は入り口で踏み留まり平伏している。千秋にも解った。この部屋には希薄だが何かが存在しており、それが千秋を注視していることを。
 一秒毎に恐怖が増していき、己の中の境界線を越えようとしているのを千秋は感じ取った。このままでは自我が崩壊する。目の前が暗くなっていき意識が遠くなる。
 肩に誰かが手を置いた。それだけで千秋は己を取戻し背後を振り返る。
「私が付いている。大丈夫だ」
「……はい!」
 力強い千秋の返事にナイ神父は微笑を浮かべてから木箱を開けた。
 そこには薄い緑色をした半透明の脈打つ何かが納められていた、人の拳大程のそれが放つ雰囲気は、千秋に天門町駅前で遭遇した巨大な異形を思い出させた。
「これはクトゥルーと人間の間に生まれた子供の心臓の欠片だ。これを触媒にして失われたこの部屋の主の肉体を取り戻す」
 それから千秋の瞳を見つめて何かに気付いたように問い掛けた。
「千秋君。君は銀の鍵を使ったのだね」
 千秋はひとつ頷いた。
「私は、自分が何か知りました。そして、幼い冬峰に何が起こってのか、そして彼との忘れていた約束も。彼がこれまで味わった苦痛は私の失敗から始まった事です。だから、私は約束だけでなく、彼を救う義務があります」
「……知らない振りをして生きていく方法もある。今なら、まだ引き返せる」
 その眼差しは言葉と異なり、千秋の苦悩を楽しむような愉悦の色を浮かべていた。
 千秋はゆっくりと首を振った。
「そうか」
 ナイ神父は暫く目を閉じて、次に開いたときは何時もの感情の読み取れない眼差しだった。
「如何やら私は君を見縊っていたようだ。約束しよう、御門千秋。この召喚の儀に何が有ろうと君を守護させてもらう」
 恭しく一礼した後、黒衣の男は顔を上げ声を上げた。
「それではラストステージだ。舞台を上げろクトゥルー、主演女優は丁重に扱え」

 南緯四七度九分、西緯一二六度四三分、ソロモン機関の所有する早期警戒機G550 CAEWの操縦士はその上空を通過中、これまでに見た事も無い島が存在することに気が付いた。
 いや島は出現しつつあった。
 機体のアドバンスドAESA4次元レーダーと画像解析装置は海上に浮かび上がった搭の様な部位より、これから浮かび上がる海中の巨大な墓標群の様な禍々しいシルエットを克明に画面に映し出し、操縦士に得体の知れぬ恐怖を与えていた。
「おい、何だあれは」
 副操縦士の叫びに操縦士はその視線の先にあるモノを認めて、これが現実であるかどうかを疑った。
 奇妙な歪みをもって建てられた搭や石柱群が姿を現すと共に、それに呼応するように異形の生物が姿を現した。
 それは全長三十メートルの巨体を誇る半魚人、巨大化した深き者共であった。それが島を守るかのように島を取り囲み、誇大な鉤爪と鰭に着いた両手を宙に伸ばし吠えたてている。
 操縦室に通信音が鳴り響く。この機体で収集したデーターはイスラエルのソロモン機関本部へ送信されており、この異世界へと変貌した海域の光景を余すことなく伝えているはずだ。
 通話を終えた副操縦士は、指令がこの海域に留まりデーターを可能な限り収集する事であることを操縦士に伝えた。
 G550は島の上空を旋回して引き続き島の詳細をデーターに取り始めた。
 島の至る所にそびえ立つ奇妙な模様が刻み込まれた搭は、G550の副操縦士に廃墟のビル群を髣髴とさせて、何れ世界中がこのような光景に変わっていくのではないかと暗い予感を抱かせた。
「人がいるぞ。島の中央、搭の上」
 サーモグラフを覗き込んでいた観測者が声を上げた、機体は機首を返して島の中央部へ飛行する。
「いたぞ。二人だ」
 操縦士と同時に副操縦士もその人影を確認した。
 一人は女性、純白のブラウスにスカート姿の少女であった。
 一人は長髪を風に棚引かせ、黒の三つ揃いを着こなした長身の男性であった。
 副操縦士の不安にさせるのは、肉眼では人影は二つなのだが、下方カメラのサーモモニターには黒衣の男は映っておらず、少女が頭上を見上げる姿のみ確認される。
「おい、本部に連絡だ。向こうも確認しているだろうが、救助のヘリを要請してくれ」
「了解」
「上空から飛行物体アンノウン三機接近。追い付かれます」
「何!」
 観測手からの声に副操縦士が3次元レーダーの画面を覗き込んだ瞬間、機体が上下に揺れ、機首が下方へ向きを変えた。
「墜落するぞ」
 機体を立て直そうとする操縦士の視界に、G550を追い抜いて、また戻って来た飛行物体が一瞬だけ確認できた。それは蝙蝠の翼を持った巨大な何かであり、この世の空を飛ぶ鳥類や哺乳類の何れとも似通っていなかった。
 操縦士の全身を衝撃が襲う。操縦士は意識が暗黒に囚われる中、二度と目覚める事が無い事を自覚していた。

               4

 冬峰は千秋の母親、御門 冴夏に千秋の捜索を依頼する為、彼女の屋敷へ足を運んだ。
 呼び鈴を鳴らし、応対に出た時春に長脇差を渡した。
 時春は鯉口を切り、刀身を僅かに鞘から引き出してじっとその光を見つめた。
「何か、おかしいか?」
 その視線に何かを感じ取ったか、冬峰が声を掛けた。
 時春は沈痛な面持ちで刀身を鞘に納めて冬峰に向き直った。
「冬峰様、貴方が最後に切ったものは途轍もない相手です。この脇差、見た目は解らないでしょうが、本質が死んでおります」
「本質が、死ぬ?」
「はい」
 時春は首肯して言葉を続けた。
「冬峰様、刀を刀足らしめているのは、それが人を殺める為の兵器を作り上げうとする作り手の意思です。それを追及することにより優れた刀剣が刀鍛冶の手により打たれ続けてきました。そしてそれを己の一部として人殺しの技を磨き続けた剣士の意思が加わり、その刀の本質が作られていきます。この脇差は無名ですが、幕末に室内での暗殺を主な任務としていた佐幕派の剣士の遺品なのです」
「物騒な品を持たせるな。持っていると人でも切りたくなるのか?」
「はい、その通りです。しかし冬峰様は呪いの利かない体質なので、問題ありませんでした。しかし、それすら貴方が最後に切りつけた相手は凌駕して呑み込んでしまったようです。冬峰様が、その相手に生き延びれたのは、冬峰様の特異な能力故であります」
「……」
「なので、この長脇差は単なる刃物となっております。これではそこらへんの鈍らの方が役に立つでしょう」
 冬峰は宙を仰いで力無く、はは、と声を漏らした。
「代わりの刀は用意出来るのか?」
 冬峰の言葉に時春は表情を曇らせた。
「そうですな、名刀の類に付属する呪いや魔除け等、今度の相手には通用しないでしょう。となれば冬峰様の手に馴染む様な一度も使われた事の無い、本当に切る為に打たれた無銘の一振りがあればいいのですが、とにかく直ぐに手配致しましょう」
「抜き易い様に二尺二寸程度の刀が良いな。御願いするよ。多分、今日中に発たないといけないだろうね」
「承知しました」
 冬峰は時春に長脇差を預けたまま背を向けて玄関を上がった。玄関から一番近い部屋の扉をノックする。
「入りなさい」
 重い木のドアを引いて、室内に足を踏み入れる。
「座りなさい」
 冴夏は既にソファに腰掛けており、対面へ座るよう手で指示した。
「……」
 ソファに腰掛け、冬峰は柄にも無く、以前このソファに腰掛けた時からこの戦いが始まったのだなとの感慨を抱いた。それから数年たっているような錯覚を覚えたのは疲れているのかもしれない。
 冬峰は静かに息を吸い、吸う時間の倍を掛けてゆっくりと息を吐いた。
 左脇に痛みが走り冬峰は声を漏らしそうになる。
 左脇腹の切り傷は懸かり付けの医者に縫ってもらった。折れた肋骨はさらしを巻いて固定した。痛み止めは服用していない。痛み止めで身体の感覚が鈍り、刀を振るう事に支障をきたさない為だ。
「冬峰、もう既に春奈からかもしれないけど、千秋の行方が分かったの」
「それより、責めないのですか」
 冴夏の言葉を遮るようにして冬峰が口を挿んだ。冬峰は千秋の母親である冴夏の眼を見返して言葉を続ける。
「俺は伯母さんの娘の警護に失敗して、彼女を奴等に奪われました。それに関しては何の言い訳をする気もありません。ただ、彼女を奪還する作戦には俺を加えて下さい」
 冴夏は普段冬峰が見せない真剣な表情を暫く見返した後、ふう、とため息を吐いた。
「冬峰、残念だけど貴方程度では如何こう出来るレベルでないの。今回、私達は静観するように、ソロモン機関から要請されているわ」
「……ソロモン機関が彼女を助けるのですか」
「元々、彼等に引き渡す予定だったのよ。あなたが護衛に就いていたけど、本来は彼等が油断していたから千秋が奪われたの。私達がその尻拭いをする必要はないわ」
 冬峰は顔を伏せ、両手を握りしめた。考えが甘かったとしか言いようがない。既に御門家は千秋を見限っており、その救出に人員を裂こうとはしていなかった。
「例外としてソロモン機関からの救援要請があった場合は、〈高天原〉は戦力差し向ける予定よ。ただし救出では無く、殲滅用の人員を、ね」
 冴夏の言葉に冬峰はゆっくりと顔を上げた。表情は無く、その眼はガラス球の様に冴夏を映す。
「〈高天原〉は春奈を差し向ける心算よ。御門家当主のお披露目デモンストレーションを行って、御門家とそれを従える皇家の力を誇示する為にね」
「それは、大いなる〈K〉の眷属を対象とした作戦ですね」
「いいえ」 
 冬峰は念を押すかのように低い声で冴夏に尋ねた。その問いに対して冴夏は冬峰の生気を失った顔を見つめたまま否定した。
「ソロモン機関で手に負えない事態は、そうある事ではないわ。そう、何らかの理由によりおおいなる〈K〉が復活したとか。そうなった場合、千秋が関与している可能性が高いわね。春奈の投入はそんな理由よ」
「春奈さんに千秋を殺させるのか?」
 冬峰は俯き声を地に這わせた。
「それも当主の務めよ」
 冴夏の氷の様な一言に、冬峰は苛立ったように己の癖のある髪を掻いた。深い溜息を吐いて視線を落とす。
「冴夏伯母さんは、それでいいのですか?」
 冴夏は冬峰の問い掛けに答えず、ソファから立ち上がると窓の外へ視線を向けた。
「私が〈高天原〉の決定に否と答えられると思って? 私にそんな権限あるわけないでしょう」
 冬峰からはその表情は見えず、己の娘を救えない当主代行の背中へ冬峰は確信をもって言葉を続けた。
「それに、〈高天原〉が何と命令しようとも、春奈さんは千秋を殺せない。あの人は優しい人だから」
 御門家の当主代行とその妹達、彼女達と共に暮らした冬峰には解るのだ。御門春奈は自分の妹達と等しく冬峰と千秋に対しても真摯に接してくれている事が。だからこそ、機械の様に感情の希薄だった自分が、人と共に生きていけるようになれたのだ。
「そうね、でも千秋はどうかしら」
「……」
 冴夏の問いに冬峰は沈黙する。千秋は御門家全体に嫌悪感を抱いており、特に当主である春奈に対しては敵対心を剥き出しにした態度をとった事もあった。
「千秋は春奈に対して手心を加える事が無いのはよく解るわ。あの子は当主である春奈に母親である私を奪われたと思っているかもしれない。それは家庭を顧みなかった、常に春奈と距離を置いた私の責任だわ」
 僅かに語尾が震えているのを冬峰は聞き逃さなかった。
「それに春奈も妹達の身に危険が及ぶと脅されると、不承不承ながらも千秋と戦わざるを得ない」
「紅葉や夏憐も御門本家の人間ですよ。そんな事をすれば春奈さん自身が黙っていないでしょう」
「それをするのが、〈高天原〉のひとりでもある御門宗冬(みかど むねふゆ)、私と春奈達の母親である四季や、あなたの母親である白雪の祖父よ」
「御門宗冬」
 冬峰はその名を呟いた。
「俺や御門分家の子供達を地獄に送り込んだのも、そいつか?」
「そうよ」
 冬峰の噛みしめられた奥歯が嫌な音を立てる。
「御門宗冬は、元々は皇家の末席の家系の出でね。皇家では彼は冷遇されていて、皇家の政を司る〈高天原〉に名を連ねる事は許されていなかったの。一方、私達御門家は審神者、巫女の役割を与えられた古く由緒ある家計。皇からの覚えも良く、神事に欠かす事の出来ない人材として一目置かれていたそうよ」
 冴夏は窓の外へ目をやったまま、御門家の影の支配者について語り始めた。
「私の祖母の代の頃、皇家の血も薄くなり始め、皇の当主も神託を効く能力を失いつつあったの。そんな時、私の祖母が皇の命により神事を行っていると、祖母に何かが降りたの。それは全盛期の皇家に力に匹敵する何かだったの。御門家も神を我が身に下ろして神託を行う審神者と巫女が居たとはいえ、その様な存在を身に宿すの初めてだったらしいわ」
 冬峰には心当たりがあった。
 欧州で春奈と再会した時、人の身では不可能な力で戦闘ヘリと渡り合い打ち破った。
 その力の源が冴夏の祖母に宿ったのであろう。
「所見の為、祖母はその力を制御出来ず、その場に居合わせた者の殆どが命を落としたらしいわ。幸い皇に害は及ばなかったものの〈高天原〉は政の維持が難しくなったの。当然、御門家はその責を問われ、その役目を剥奪される寸前まで追い込まれた」
 あれが暴走したのか、と冬峰はその光景を想像した。吹き荒れる防風とそれに切り裂かれる人々。
「よく生き残った人がいたな。宗冬もその場に居合わせたのか」
「そうらしいわ。そしてその力に魅了された。この力を己と皇の力にする為に、彼は御門家に現在の地位を保証する見返りとして、強引に祖母を己の妻とした。また〈高天原〉の有する異能力者の内、特に戦闘力の強いものを御門家に引き入れて御門家を〈高天原〉直属の戦闘集団としたの」
「朱羅木や青桐、銀鈴はその子孫か」
「祖母は、いつでも神下しが出来る様に、薬を与えて意思を奪い操り人形とした。それ以降、御門家は宗冬の支配化にあるわ」
「そいつが今回の件にどう係わっているんだ。千秋をどうしようとしている」
「春奈は御門家の長い歴史の中でも稀有な存在で、あの子は生まれながらに力を宿していたの。いいえ、春奈そのものが、力が人間の赤子の肉体を借りて顕現した存在なの。それを知った時、時春は狂喜したわ。望みのものを手に入れたと。同時に彼に対する足かせとなった。春奈ならともかく、時折表に出る春奈の本質の前には、宗冬といえど機嫌を損ねることは出来ず、大きなことが出来ないのが実情なの。春奈以降生まれた千秋は門を開くことが出来ても我が身に力を宿すことの出来ない半端もの。己の手駒にすらならない、と今迄頬ておいてくれたけど、あの子を利用しようと暗躍している、皇を通じて別組織と密会していたのを朱羅木が報告してきたわ。朱羅木が亡くなった今、宗冬の企みは不明のままだけど」
 冬峰はソファから立ち上がって踵を返しドアの取っ手に手を掛けた。
「何処に行くの、冬峰」
「御門 宗冬。奴を始末します」
 躊躇の無い冬峰の言い様に冴夏は苦笑を浮かべる。
「無駄よ。宗冬の周囲には皇直属の護衛が付いている。貴方だけではどうにもならないわ」
「その通りだ」
 低い男の声と共に、冬峰の右手に、飛来した手錠によく似た円形の何かが嵌り込み締め上げた。間髪入れず、首にも同様に嵌り込んで鎖の音を室内に鳴り響かせた。
「動くと、その首と手首が落ちるぞ」
 右手首を僅かに傷付けたのか、声の宣言通り手錠の内側を伝って血が絨毯を点々と汚した。
 冬峰は出来るだけ動かさない様にして声のした方向へ視線を向ける。
 其処には全身黒づくめの人影が左右の手に握った鎖を冬峰に延ばしていた。
「いつから、此処に?」
「君がこの部屋に入った時からだな。もう一人、いるぞ」
 人影の宣言通り、冬峰の足元に飛来した木の葉の形をした刃物が突き刺さる。それは苦無と呼ばれ古くからある武器のひとつだ。
「姿が見えないでしょうが名乗りましょう。赤星あかぼしといいます」
 冬峰と冴夏は苦無の飛来した方向へ視線を向けたが、其処には人影など無く壁があるだけだった。
「そして私は黒雅くろまさ
 鎖を構えた黒ずくめが名乗った。

Re: 天門町奇譚 ( No.36 )
日時: 2020/07/22 20:53
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「ここは大人しく傍観して貰おうか。いくら御門家当主のお気に入りとはいえ、〈高天原〉の意向に従わぬのは皇に晒らう事に等しいぞ」
 冬峰は「皇の都合など知るか」と胸中で毒づいたが、それで事態が好転する訳がない。
「御門 冴夏。お前の娘は皇の御威光を世界に知らしめる為の犠牲だ。これは勅命だ」
「……」
 冬峰は沈黙する冴夏に痛ましげな視線を送った後、その場にしゃがみ込む様に腰を落とした。鎖に繋がれた右手が弧を描く。
「聞き分けに無い奴だ」
 軽蔑するように呟いた後、黒雅は両手の鎖を握った手首を撓らせた。鎖のこすれ合う金属音が部屋に鳴り響く。
「何!」
 冬峰の右手首と首は地に落ちなかった。
 冬峰の首と右手首を捉えた鉄輪から伸びた鎖は捻り合わされドアノブに絡まっており、黒雅が鎖を引こうとも、ドアノブを虚しく鳴らすだけで、ドアノブから冬峰の首と手首に繋がった鎖は力無く垂れて黒雅の必殺の意思を裏切っていた。
「赤星!」
 黒雅の声と同時に冴夏の頭上に翻った豪奢なカーテンの影から一本の苦無が、冬峰の首筋目掛けて飛来する。
 首と右手首が鎖でドアノブに繋がった冬峰は避けれる避けれる体勢に無く、数瞬の後、冬峰に致死の一刺しが見舞われる事は誰の目にも明らかだった。
 澄んだ音を立てて、苦無が冬峰の頭上に舞う。
 腰の後ろから左手で抜き取ったナイフで苦無を弾いた冬峰は、そのままナイフを振りかぶり、苦無が吐き出されたカーテンの影を目掛けてナイフを解き放った。
 ナイフは苦無の飛来した軌跡を正確に逆になぞり、カーテンの影に飛び込む。
 不思議な事にナイフはカーテンに突き刺さらず、かといって床に落ちた形跡も無く何処へと飛来したまま姿を消してしまった。
 その同刻、冴夏の屋敷より僅かに離れた安アパートの一室で、窓の前に開いた傘で生じた影の前に佇んでいたスーツに幅広の帽子を目深に被った女性が、その影に向かって何かを投げ付けた姿勢のまま影の中を覗き込む様に固まっていたが、急に我が身を逸らせて一歩飛び退いた。
 黒い沼から人食い魚が飛び出すかのように、影の内側から出現したナイフが彼女の帽子を掠の鍔を掠めて天井へ突き刺さった。
「つっ」
 そのままバランスを崩して背後に仰向けに倒れた彼女は、天井に突き刺さったナイフを視界に納め息を呑んだ。慌てて上半身を起こして傘から生じた影へ手を触れるが、それは硬い床で彼女が本来意図したものとはことなっていた。
 彼女の能力は、ある一定の距離内にある自然光で出来た影と影を繋ぎ、それをトンネルの様に己や物体を通り抜けすることが出来る。この能力で彼女は密閉された室内にも入ることが可能で、また人物をそこに送り込むことが出来たのだ。
 黒雅が誰にも気づかれる事も無く冴夏の屋敷に入り込めたのも、彼女、赤星の能力によるものだ。
 この能力は彼女の意図したものだけが影の中を行き来できるのであり、それ以外は単なる壁や床に当たり虚しく跳ね返されてしまう。
 しかし、彼女を襲ったナイフは彼女の意思とは関係なく影のトンネルを通り抜けたばかりか、通り抜けた後の空間を閉じてただの影としてしまった。
 赤星にその原理が解るわけは無く、ただそれを行った少年に対して戦慄を覚えてその影を見つめ続けた。
「どうする、まだ続ける?」
 客間で冬峰は黒雅に問い掛ける。
 黒雅は冬峰を睨み付け、背広の袖口から新たな輪っかが織り出した。
「調子に乗るなよ、小僧」
「調子に乗っているのはそちら。その武器、狭い室内じゃあ扱い難いでしょう」
 冬峰の指摘に黒雅は嘲笑で応じた。
 確かにこの武器は、鎖に繋がれた鉄製の輪っかを旋回させて、相手の首や両手足に嵌めて切断する。この武器から身を守るには、武器や手足で防ぐのではなく躱さなければならない。
 またこの武器の欠点は、鎖で旋回させて目標を捉える為、狭い室内や目標の間に障害物の存在する場所では十分な旋回する空間が与えられず使用が難しくなる。
 しかし冬峰も首と右手首が鎖でドアノブに繋がり、死の武器を躱せる状態でないのが見てとれ、黒雅の一方が不利なわけでないた。
 黒雅の両手に握られた鎖の旋回する速度が徐々に早くなり、冬峰の姿勢が首に嵌った輪っかに負担を掛けない程度まで前屈する。
 室内の緊張が高まり決壊した時が、死闘の再開であろう。黒雅の両肩が引かれ、冬峰の爪先が爪先に力を込めた。
「お止めなさい、二人共!」
 冬峰と黒雅は声の主に視線を向けた。
「冬峰、今日は引きなさい。〈高天原〉、いいえ、皇の指示に従うのです」
「しかし、それでは千秋が」
「御門家は〈高天原〉に従います」
 冬峰は俯いた。その両肩が僅かに震えているのは仕方がないだろう。
「黒雅、宗冬殿に言伝を。御門家は〈高天原〉の指示に従うと」
「承知しました」
 黒雅は恭しく一礼した後、僅かに間をおいて言葉を続けた。
「千秋殿も貴重な才能を秘めておられる。〈高天原〉もきっと御門家の当主殿に救出するよう指示を出すでしょう」
 再び一礼した後、黒雅は踵を返してドアに繋がれた冬峰の前で立ち止まる。
「貴様は頭を冷やせ。宗冬殿の傍には、俺等足元にも及ばない能力者が控えておるのだ。貴様に宗冬殿を討てるわけが無かろうが。もし、討ち果たせたとしても、反逆者を始末するのは御門家当主の仕事だ」
 黒雅の言葉に冬峰は呆然と黒雅を見返した。黒雅はドアノブの鎖に手を掛け、解き始めながら諭す様に冬峰を見返した。
「あの当主にそれはさせてはならん。貴様の役目は御門家の当主を守る事だ。それを忘れるな」
「……」
 冬峰は沈黙した。黒雅の言葉は正しい。あの春奈に自分を殺させる等、彼女に千秋を討ち取らせる事同様にあってはならない事だ。
 黒雅は沈んだ表情の冬峰を見下ろしてため息を吐いた。
「柄にはない説教をした。失礼する」
 冬峰は足早にドアを潜る黒雅の背を見送った後、冴夏に裏庭に寄ってから帰る旨を伝えた。一旦頭を冷やしてから、これから己はどうすればいいのか、それを決めたかったのだ。
 裏庭のベンチに腰掛ける。冬峰がこの裏庭に足を運ぶと、ベンチに腰掛けて変わり映えの無い風景をただ眺め続けるのを好んでいた。
 それは彼に生きる為の目的を与えてくれた少女との邂逅した場所であり、彼女と交わした約束を思い返す為だ。
 だが、冬峰は頭を垂れて地面の一点を見つめたまま、膝を掴んだ両掌に力を込めて苦渋の表情を浮かべている。
 思い出せないのだ。何よりも大切なもののはずなのに、夢の中で彼女から何度も聞いたはずなのに、その約束が、言葉が思い出せない。
 昨日までは覚えていたはずなのに、今日は夢の中ですら思い出せなかった。
 それが昨日いなくなった彼女と自分の運命で二度と彼女と会えなくなる。そんな嫌な予感を打ち砕く様に己の左掌に右拳を打ち付けた。
 どうすれば千秋を救い出せるのか。このままだと千秋を春奈が傷付けてしまう。
 いつも笑顔を絶やさず、妹達と冬峰を見守ってくれている春奈の姿が浮かぶ。そんな人にそんなことはして欲しくは無い。
 時間がない。一体どうすれば。
「冬峰」
 名を呼ばれ顔を上げる。
 本宅から裏庭へ通じる小道を、冴夏を先頭に黒雅と時春の順に渡って来るのを目にした冬峰の表情に緊張が走る。
 冴夏の青ざめた表情と黒雅の感情を押し殺した無表情、時春の沈痛を見てとり、冬峰はそれをもたらしたもの、自分の最も恐れる事態となった事が容易に想像出来た。
「冬峰」
 再び冴夏が名を呼んだ。どこかひび割れそうな固い声だった。
「千秋に対する方針が決まったのですね」
 冬峰の問いに冴夏は「ええ」と返した後、口を結んで宙を見上げた。
「私の乗って来たヘリに直接指令が届いた。御門家当主を連れて帝都で皇の勅命を受けろと、御門千秋を誅せよとの下知を受けよと御門宗冬直々の命令だった」
「……」
 黒雅が割って入ったのは、母親である冴夏にそれを語らせることは残酷だと気を使ったものか、それを告げる黒雅も目を閉じて表情を消している。
 冬峰は冴夏へ目をやる、御門家当主代行の地位にある千秋の母親を睨み付けた。
「それは、本当ですか」
「ええ、私も確認したわ」
「ふざけるな」
 冬峰はベンチから立ち上がる。
「冴夏伯母さんは自分の娘が、自分の娘同様に可愛がっていた人に殺されてもいいのか。俺は千秋が春奈さんに殺されることも、春奈さんにそんな辛い事をさせるのも嫌だ。あまりにも救いが無いじゃないか」
 冬峰は一気に言い放った。彼にとって大事な者達が互いを傷つけ合う光景を見たくも無かった。
「ええ、そうね」
 冴夏の声は小さく沈んでいた。何時もは気丈に顔を上げ、冷徹に御門家を切り盛りしていた彼女も自分の血を分けた娘の運命に動揺を隠しきれないようだった。
「私は、あの子、千秋に普通の人生を送って欲しかったの。だから、私はあの子と距離をとった。御門家の当主代行である私の傍に居れば、あの子も御門家の業に巻き込まれてしまう。それが怖かったの」
 冴夏はポツリポツリと独白を始める。それは娘の失うかもしれない恐れを抱いた母親の告白に違いなかった。
「だからあの子は何時も独りだった。独りで耐え続けて疲れて、御門家を憎むようになった。御門家に私を取られたと思ったの知れない」
「でしょうね」
 冬峰は突き放したように答えた。
 冬峰の脳裏に、千秋が御門家本家に身を寄せた時、彼女が春奈に怒りをぶつけた時の涙を流した表情が浮かんだ。千秋から見れば春奈はあまりにも恵まれ過ぎていたのだ。
 温かい家族と共に暮らしており、御門家の当主という地位と力を手にしている。そして己の母親すら彼女と共にある。
 千秋が母親の元を離れ独り暮らしをするのは、そんな境遇から目を逸らす為の逃避かも知れない。
「でも、あの子は御門家のひとりで、その能力から結局争いごとに巻き込まれた」
 それから後は冬峰の知る通り、〈K〉や旧支配者をはじめとする異世界の怪物が彼女の日常を打ち壊した。そして彼女は〈K〉の手に落ちて姿を消した。
「朱羅木と私は同期でな。朱羅木に頼まれて千秋殿の件を調べていた。今回は高天原でも関与している者は少なく、皇と御門宗冬殿で事を進めている様だ。ひょっとすると皇も宗冬殿の案を鵜呑みにするだけで、謀は宗冬殿とその腹心で進めているのかもしれん。問題は、何故、千秋殿が必要か、だ」
 黒雅が天門町を訪れたのは、宗冬の指示で御門家を監視する事だったが、朱羅木と情報を交換する目的もあった。それは永遠に敵わなくなってしまったが。
「高天原内部でも宗冬殿の独断専行を問題視しているのだが、宗冬殿は先々代の皇の頃から〈高天原〉に属している最古参の幹部。誰も逆らうことが出来んのだ」
「宗冬の目的が何なのか、それは引き続き黒雅と私で調査します。冬峰、貴方は協力者と共に黒雅のヘリで横須賀へ向かいなさい。その協力者の伝手でルルイエまでの移動手段は確保緯できるかもしれないと」
「協力者って?」
「貴方の知っている人です。ヘリは貴方達に奪われた事にするから、帝都からの春奈の迎えは1日、いえ、半日は掛かるでしょう。貴方達は先行してルルイエに向かい、あの子を……」
 冴夏は顔を伏せた。何故、皇は千秋の命を奪う事を是としたのか。そんな事態が起こることを知っていたのではないか。そして、それが起こってしまったのではないか。
「あの子を……救って」
 冴夏は濡れた瞳を上げて声を絞り出した。冬峰に命令では無く、母親として懇願sh来ているのだ。
「春奈が、御門家の当主が千秋の前に姿を見せるまでに。千秋が、その能力ちからで取り返しの付かない事を起こす前に、あの子を見守り続けていた貴方の手で、あの子を救って」
「元からその心算です。俺はその為に生きているのだから。でも、ひとつ聞きたいんだ。千秋の持つ力とは何なんだ」
 冴夏は眼を見開いて冬峰を見た。意外な事を聞いたとでも言う様な驚いた眼をしている。
「知らなかったの? 私は貴方が知っているから、千秋を守り続けていると思っていたのに」
「いや、全然」
 あっけらかんとして首を振る冬峰の姿に、冴夏は毒気を抜かれたように呆然として冬峰を見つめた後、寂しそうなそれでいて嬉しそうな表情で苦笑を浮かべる。
「そう、貴方は純粋に千秋を守りたいのね」
 既に千秋に対しては母親として出来る事は無いのかもしれない。そんな寂しさを冴夏は抱いた。
「千秋も御門家に血を引くもの。異界の門を開き、手力てぢからを己、もしくは別の誰かに宿らせることが出来るわ。春奈はこの能力で古の御門家当主を己の身に宿らせた。千秋はそれに失敗して無能の烙印を押されたのよ」
「……」
 冬峰は三人に一礼してから踵を返した。もう聞くことは無い。後は一秒でも早くルルイエに向かい千秋を救追いだすことだ。
「冬峰様、これを。丸腰では千秋様を救い出すこともままならないでしょう」
 時春は恭しく紫の風呂敷にくるまれた棒状のものを冬峰に両手で差し出した。冬峰はそのずしりと重いものを受け取り風呂敷を縛る紐をほどく。
 それは黒い鞘と柄の刀であった。鯉口を切り、鞘から刀身を抜き出す。
「二尺一寸八分、中反りで刃肉のたっぷりとした蛤刃です。中子の彫り物が途切れており、切先が大切先でしたが、おそらくは長物の古刀を邪魔にならないよう短くして磨ぎ直したものと思われます」
 一六五センチとそれほど背の高くない冬峰にも扱い易い長さだ。それでいて重い。波紋は大房丁子おおぶさちょうじ。大房丁子は折れやすいと聞くが、この刃厚ではその心配は杞憂であろう。
 冬峰は満足したように頷くと刀身を鞘に納めた。
「時春、有り難う。大した業物だね。気に入ったよ」
 時春は恭しく一礼した。
「じゃあ、行ってきます」
 冬峰は再び踵を返して、黒雅のヘリの停めてある郊外の雑木林へ向かって行った。
 其処で待つ協力書と共にルルイエに向かい、千秋を救出する。
 雑木林へ下る坂の途中で冬峰は市街地の外れ、己が春奈達と過ごした本家の屋敷を振り返った。ルルイエへ行く前に春奈に出かける旨を連絡すべきかどうかしばらく考えたが、結局時間が惜しくそのまま歩を進めた。
 このまま彼女との別れとなるかもしれない。冬峰にはある予感があった。次に向かうルルイエこそが最後の決戦場だと。
 ルルイエが深き者共や不死の指導者、黄衣の王並みの異形の怪物が跳梁跋扈する地獄であってもおかしくは無い。むしろ〈K〉の奉る存在が眠りに付いていた島だ。そうでない方がおかしい。
 更に冬峰と決着をつけると宣言したナイ神父、あの黒づくめの怪紳士も現れるだろう。前回の邂逅では何とか撃退に成功したが、それはナイ神父の気まぐれによるものだと冬峰は解っていた。ルルイエでの決戦は彼の本性をさらけ出して攻撃してくるだろう。どうすればあの魔人を倒せるのか。
 そして千秋。彼女の能力は異界の門を開くことだと。それが彼女に何をもたらしたのか。彼女を無事連れ出せるのか。
 ふと冬峰は自嘲気味に苦笑した。あれこれ悩んでも自分に出来る事は刃を振るい、立ち塞がるモノを切り伏せて千秋の前に立つ事。それ以外に何もないだろうと。
 公園には小型の二人乗りヘリコプターが、その小さな機体を近所の子供らしい集団に囲まれて鎮座していた。子供達はヘリコプターが珍しいのか、機体に手を触れたり操縦席コックピットを覗き込んだり好き勝手している。
 その中心、ヘリコプターの機体にもたれ掛かった男も、それを嗜める風も無くむしろ面白がっているように口元を緩ませていた。
「……」
 冬峰はヘリの数メートル手前で足を止めた。
 彼は協力者と聞いた時点で、もしかして、という予感を抱いたのだが、その協力者がどうやって御門家に取り入るのか想像出来なかったので、まあ、それはだろうと思っていた。
 鬱陶しい。ふと、そんな言葉が浮かんだのだが、冬峰はヘリコプターの操縦免許は持っておらず、操縦桿など握ったことは無い。協力者が居なくてはルルイエに辿り着く事は出来ないのだ。
 冬峰は無言のまま、子供と談笑する男の前に立った。その韜晦した顔を見上げる。
「……」
「や、来たね。オジサンはずいぶん待ったよ」
「……」
「さあさあ、乗った乗った。お菓子は3百円まで。バナナはお菓子に含まれないぞ」
 何処で覚えたのか、意味不明な事を口走る外人さんを、冬峰は表情一つ変えず見上げている。
「いやいや、御門家当主に売り込んだ甲斐があったなあ。やっぱりいい男というのは綺麗な女性に頼りにされるんだよ」
 叩き斬りたい。
 叩き斬りたい。
 叩き斬りたい。
 先程から表情一つ変えず、ぴくりとも動かない冬峰を心配したのか、アンドリュー・フェランは腰を曲げて少年の顔を覗き込んだ。
「どうした。頼れる大人がいて嬉しさのあまり言葉を失ったのかい。それは無理も無いな」
 いつの間にか周囲にいた子供は公園の隅に集まって二人の様子を固唾を呑んで見守っていた。
「……なあ、春奈さんが俺をルルイエまで運んでくれと、あんたに頼んだのか」
「そうだよ」
 当然じゃないか、とでもいうかのように鷹揚に頷いたフェランに冬峰は溜息をついて応じた。
「何もかも解っているんだよな、あの人は」

Re: 天門町奇譚 ( No.37 )
日時: 2020/07/22 21:02
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 春奈も何やかんや駄々を捏ねて、宗冬からのルルイエ行きの出発を遅らそうとするに違いない。こんなところで逡巡している暇など無いのだ。
「行こう。千秋を取り戻さないと」
「OK」
 小脇に抱えたヘルメットを被ってフェランは操縦桿を握った。結構様になる。
「……」
「何だね。何か聞きたいことでもあるのかな」
 フェランの問い掛けに冬峰は視線を正面に戻して、共に戦ってきた男へ常に感じていた疑問をぶつけた。
「あんたはどうして〈K〉と戦っているんだ。奴等に対する知識や対処法は良く知っているようだけど、それは最初から分かっていたわけではないだろ」
「ああ、そんな事か」
 フェランは苦笑した。確かに〈K〉や彼等の崇め奉る存在と比べると、フェランの持つ知識や力はあくまでも常人の範疇内であり、彼等に対する抑止力たるには乏しすぎる。常識的に考えると無謀であると言えよう。
 春奈達の様な超常の能力も備えておらず、冬峰の様な一芸に秀でているわけでもない。我ながら無茶をしているよ。フェランの苦笑はそんな自嘲めいたものだった。
「確かに僕は最初から知識を備えていたわけでもなく、〈K〉と対立する組織に身を置いてい他のでもない。本当に何も知らない若造だったよ」
 冬峰の視線が興味を引いたようにフェランの横顔へ向けられた。何時もの様に誤魔化されると思っていたのだ。
「そもそも名門大学で言語学を専攻したんだが僕の周りにそれを必要とする職が無くてね、卒業後も職探しと下宿の家賃と食費を獲る為のアルバイトに明け暮れていたんだ。ただちょっとしたトラブルでそのアルバイトも首になって来週に迫った下宿代の支払いをどうしようか悩んいたんだよ」
 冬峰は、フェランの独白を聞きながら、きっとそのトラブルは女性絡みだろうなと思ったのだが、それは大した問題ではないと判断して黙っておいた。
「そんな時にサタデイ・レビューだったかな。興味を引く求人広告があってね。それに飛びついたんだ」
「求人広告?」
 まさか、私達と一緒に秘密結社と戦いませんか、とか間の抜けた無い様じゃないだろうな、冬峰は予想外の展開に面喰ったように声を上げた。
「腕力が有り想像力に乏しい青年を求める。これらに加えて多少とも秘書の仕事を果たせる者は、マサチューセッツ州アーカムのカーウィン・ストリート九三番地に来られたし。金銭的利益になるやもしれない」
 今でも内容はよく覚えているよ、とフェランは遠くを見るような眼で語った。彼にとってはそれが己の人生を一変させるものとは当時は予想だにしなかったに違いない。
 冬峰はその広告の文面を自分でも声を出して繰り返した後、フェランにとっては失礼になるかもしれなかったが、つい素直に感想が口を吐いた。
「その文章、無茶苦茶怪しくないか」
「ああ、そうだな。仲間に話しても皆そう言ったよ」
 フェランは憮然として応えた。
 後に彼の雇い主は「駄目で元々だった。本当に来るとは思わなかった」と口を滑らしたのだが、それについてはフェランは黙っておくことにした。
「それでその住所に面接に向かったんだが驚いたよ。事前にその相手がラバン・シュリュズベリイ博士といって神秘思想、オカルト学、哲学に通じた人物という事は調べておいたんだが、僕の博士に抱いていたイメージとは全然別の人物だったんだ」
「別?」
「ああ、僕は小柄な神経質な人物を思い浮かべていたんだが、僕がドアをノックをする前に出てきた人物は、身長が六フィート近くあって、髪は真っ白だったけどがっしりとした顔と身体つきの丸いレンズのサングラスを掛けた人物が出てくるとは思わなかったよ。正直、握手した時の掌の厚さは、この人にボディガードなんかいらないだろうと思ったほどだ。実際、いらなかったんだな、これが」
「騙されてるじゃないか」
「いや、教授は本当にボディガードが欲しかったんだ。まあ、後で話すが、僕が来た頃はまだ人間が相手だったからね。取り敢えず、僕の仕事は教授の指示に従って、教授の招いた客の証言を別室で記録する事だった」
 此処でフェランは苦笑を浮かべた。
「その翌日だったよ。教授に頼まれて購入した新聞の記事で、話を訊いた船員の死亡記事を目にしたのは。もっと驚くべきことはその日の晩に起こった事だ」
 冬峰は黙ってフェランの話を訊いていた。この捉えどころのない飄々とした男は、自分とは異なり、最初は生活の糧を得るのが精一杯の、ごく普通の青年に過ぎなかった。それが何故、〈K〉と係わることになったのか。
「教授が金色の蜂蜜酒を僕に呑ませてね。直ぐに眠くなってベッドに倒れ込んだんだ。その晩、夢の中で博士が現われて僕に速記帳と鉛筆を渡して付いて来いと言った。それから窓枠に足を掛けて笛を吹いて呪文を唱えた。その笛は今、僕も同じものを持っていてね。旧支配者ハスターに仕える星間飛行すら可能にするバイアクヘーを呼び出す笛と呪文だった。僕と教授はあっという間に別の場所へ運ばれた。そこは南米でね。僕たちはそこで邪教の集会が明日である事と、その崇め奉られる存在を垣間見たんだ」
「それが、大いなる〈K〉?」
「いや、クトゥルーはあんなちっぽけな者でないんだ。恐らく僕達が駅前で遭遇した存在が、最も近いだろうな」
 駅前に出現した異形の怪物はソロモン機関の兵士達を蹂躙し、彼等の反撃など歯牙にもかけなかった。あれをちっぽけというなら、大いなる〈K〉はどのような存在か、冬峰は想像すら出来なかった。
「そいつの信奉者達の集会は明日だという情報を聞き出したので、博士と僕は一旦引き揚げた。夜が明けてから混乱したよ。昨晩の出来事が夢なのか実際に体験したことか判断出来なかったからね。で、その日の晩は酷い嵐でね、戸締りの確認をしていたんだが、博士の部屋の窓が開いていたので見に行くと博士の姿は無く、黄金の蜂蜜酒とグラスがあった。僕はグラスの底に残っていた蜂蜜酒を飲み干してから自分の部屋で眠ろうとしたけど、岩場か洞窟の中を歩く幻聴が聞こえてきたので寝付けなかった。それでもうとうとしていたら、いきなり爆発音だ。びっくりして跳び上がったよ」
「ご愁傷様」
「ああ、本当に。だが酷いのは三回目に蜂蜜酒を飲まされた時だ。この時はルルイエまで行ったんだからな」
「……酷い雇い主だな」
「全く。あの時は、其処がルルイエだとは知らなかった。僕と博士は黒い泥のようなもので覆われた巨石建造物の間を抜けて、一際大きな建造物の前に立った。その建造物の入り口は洞窟で僅かに開いていたが人が通れるほどでなかった。僕と教授がその周囲に爆発物を仕掛けている間に徐々に開いていったのだが、教授がそれに気づいたのは、建造物の中から何かが這い上がって来る音を耳にした時だった。教授が爆破装置に飛びつくのと、その忌まわしい巨石建造物の主、クトゥルー、または〈K〉の奴等が大いなる〈K〉と呼ぶ存在が姿を現すのは同時だった。原形質状の内側の透けた半透明の巨大な塊に巨大な目が生じて僕と博士を捉えた時、良く発狂しなかったもんだと感心したよ。次の瞬間、爆破によって建造物がそいつに倒れ掛かり始末で来たかと思ったが、奴は飛び散った組織がひとりでに集まって何のダメージも無かったように迫って来たんだ。僕と教授は辛うじてバイアクヘーに飛び乗ってルルイエを脱出したわけさ。それからいろいろあって、僕は彼等と戦い続けている」
「不死身なのか、そいつは」
「どうだろうな、奴は二度、核攻撃を受けている。一度目はアメリカ海軍の力を借りてルルイエに核爆弾を投下した。だが、その後、僕等の仲間が〈K〉の手により殺害されたことから、おおいなる〈K〉は滅びていないと判断した」
 フェランの横顔に奔った浮かんだ陰りは、犠牲となった仲間を思い出したのかもしれない。
「二度目の核攻撃は、前も言ったようにFBIやCIA等のアメリカ合衆国が主体となった〈アーカム計画〉と呼ばれる対邪神計画によって行われた。この攻撃はすさまじく大いなる〈K〉の肉体も四散してしまったんだ。しかしその直前に、ナイ神父が率いる星の智慧派は拉致した女性をクトゥルーの花嫁として交配させることに成功していた。生まれた子供は人間として生活していたが、ナイ神父によっておおいなる〈K〉から受け継いだものを覚醒させれれて大異変を引き起こした」
「だから、あんたは千秋が大いなる〈K〉の分身の母体として選ばれたと思っていた」
「ああ、だがあの御嬢さん、ミス春奈は千秋の能力を使えば大いなる〈K〉そのものを復活させることが出来るかもしれないと言っていた」
 大いなる〈K〉の分身はアメリカ西海岸を消し去り、太平洋の島々を沈めて行った。大いなる〈K〉そのものが復活すると人類はどうなるのか。フェランは容易く想像出来た。
「そうなると人類は滅びるかもな」
「だから、千秋が大いなる〈K〉を呼び出す前に、千秋を助け出す。その後は世界がどうなろうと俺は興味がない」
「まあ、それが出来れば僕の仕事も楽なんだが」
 全く揺るがない少年の言葉にフェランは苦笑を浮かべる。ひょっとすると、この少年が世界の命運を握っているかもしれないのだ。
「よし、じゃあ僕からとっておきのお守りを君に授けよう」
「五芒星の旧神の印か? 大いなる〈K〉には効き目がないんだろ」
「いやいや、君はそんなものが無くとも平気だろう。もっと別のものさ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、フェランはコートの胸ポケットから一枚の写真を指先に挟んで取り出した。
「これは本来、君か千秋君の持つべきものだ。大事にしたまえ」
 冬峰は受け取った写真に目を落とした。
 バス停で買い物帰りなのか、ビニール袋を両手に持ち正面を向いた少年と、少年の横顔を見つめる少女。
 なぜか、その数日前の光景がずっと昔の様な寂寥感を覚えるのか。
「あはは、頼りになるのフユ君?」
 誰だか忘れてしまったが脳裏にその問い掛けが木霊して、冬峰は写真を手にしたまま宙を仰いだ。
 その僅かに動いた唇は何を呟いたのか。今の境遇を恨んだ怨忌の言葉か。それとも数日前の平和を懐かしむ悲哀の言葉か。
「きっと、帰れるさ。君も彼女も」
「……ああ、そうだな」
 冬峰はカッターシャツの胸ポケットに写真を納めると目を閉じて座席に凭れ掛かったきり一言も発せず、フェランもそれが当然だという様に横須賀に辿り着くまでヘリの操縦に専念して沈黙を守り続けた。

                5

 其処は薄暗い四十畳程の和室であった。
 その部屋は吹き抜けとなっており、上の階でこの階を見下ろしている者達と会話することは可能だ。
 ただし、吹き抜けの部分には分厚い磨り硝子が嵌め込まれて、上の階の者達の容姿はボンヤリとしか見えないようにされている。
 下の階の中央に座した春奈は、草薙でその硝子をぶち抜きたい衝動に駆られたが、そんな事をすれば別室で控えている冴夏伯母さんにどのような迷惑が及ぶのか容易に想像出来たので取り敢えずは止めておいた。
 それに千秋の背後に控えている黒服の二人組は腰に刀を差しており、春奈がそんなそぶりを見せると問答無用で首を飛ばしにかかるに違いない。
「それにしても……」
 春奈がこの部屋に呼ばれてから三十分以上経過しているが、それから何の音沙汰も無く、只々待たされている。
 日本の首都である帝都〈東京〉、更にその中央である帝宮ていきゅうに呼び出され、皇からの勅命を受ける様に指示が出たのが二日前。
 それから「大学の課題が出来てない」だの「生理が酷くて頭が重い」だの「眠くて布団から出たくない」だの、ありとあらゆる駄々を捏ねて出頭を拒んで時間稼ぎしていたのだが、帝都から天門町へC1輸送機が迎えに来たので、渋々それに乗り込み出頭する事となった。
 ただ、伯母である冴夏は時間稼ぎをすることは了承していたので、それについては問題無かったのだが、彼女の出す出頭拒否の建前を聞く度に「もう少し頭を絞りなさい」と眉間に人差し指を当てて苦言を漏らしていたのだが。
「いい畳だから、此処で寝転んじゃおうかしら」
 座布団を二つ折りにし始める春奈。
 それを見てどうするべきか迷う黒服二人組。
「春奈。貴方の昼寝好きは昔から知っていますが、せめて場所は選んでください」
 黒服二人組を憐れんだのか天井から女性の声が部屋に響き渡った。
「あ、東の君様。御久し振りです」
 表情を明るくして春奈は顔を上げた。分厚いガラスの向こうにぼんやりと人影が浮かぶ。
「はい、御久し振り。大学入学以来ね。ダイエットは成功した?」
「……今聞く事ですか、それ」
 東の君と呼んだ女性の質問に、春奈は拗ねたように口を尖らした。
 東の君、春奈はそう呼んでいるが、正確には〈東三条のあずまさんじょうのきみ〉と呼ばれている。
 彼女は皇家とその縁故の一族や組織の雑事を処理する役目を受け持っており、春奈と顔を合わす機会も多い。
 彼女自身は組織や権力を有していないが、彼女の役職は皇家の中にあっては重要な位置であり、彼女を頼りにしている者は少なくない。また彼女がこの部屋に来ている事から、彼女も皇家の意思決定最高機関〈高天原〉のメンバーであることが窺える。
「じき、皇の下知を頂けるので、それまで大人しくするように」
「はあい」
 本来は、東三条の君より御門家当主の春奈の方が皇における序列は上なのだが、昔から頼れる先輩とそれを慕う後輩の関係を続けて今に至る。
 仕方なく春奈は座布団の上に正座をして大人しく待つことにした。
 それから三十分後、春奈が天井の木目模様との睨めっこに飽きた頃に、すりガラスの向こうに新たな人影が湧いた。
 ひとつは磨り硝子の中央、もう一つは左側、東三条の君の影と思しきものの隣に腰かけた。
「御門春奈、皇の勅命である」
 春奈は一礼しながらも、響いた声の主に対して胸の内がざわつくのを感じた。
 御門 宗冬。御門家を長きに渡り支配する、齢百歳を超えた老人だ。
 そして、天門町で起こる怪異の首謀者の一人とされる人物でもある。
 遂に彼自身が姿を現したことで、春奈はこの一連の出来事が最終局面を迎えた事を悟った。
「御門家の当主の名に於いて、邪教の者に拐され、我らが秘儀により世に災いを齎す怖れのある御門 千秋を成敗せよ」
 春奈の肩が震えて美貌が血の気を失う。
 冴夏の読み通り、千秋は皇家の為の人身御供とされてしまう。千秋にはそれを看過することは出来なかった。
「皇、真に不躾乍らお願いがあります」
「春奈、御前であるぞ。控えよ」
 宗冬の制止を無視して春奈は皇であろう人影を見上げて言葉を続ける。
「千秋さん、彼女が御門家の数少ない能力を持った巫女というのは秘中の秘でありました。何者かがそれを邪教の者に伝え、彼女が攫われる事となりました。彼女はあくまでも被害者であり、それを誅せよというのは残酷過ぎます。彼女に情けを。助け出せればよいではありませんか」
 春奈の嘆願にも中央の影から返答は無く、宗冬の咳ばらいが室内に響いた。
「春奈よ。何者かが我らが巫女の存在を邪教の者に漏らしたというが、それは当主代行の冴夏と千秋自身が望んだことではないか?」
 春奈は宗冬の言葉に顔を上げた。表情を失い能面のような美しさとなった。
「今、何と?」
 春奈の声に険が含まれたが、磨り硝子の向こう側にいる影はそれを気にした風も無く、重厚な声音を室内に響かせる。
「今回の件は、巫女としての能力を持ちながら御門家の日陰者として過ごす娘を憐れんだ、当主代行が、娘の手力を邪教の者に漏らして娘共々結託して、御門家の当主を追い落とし己が後釜に座ろうとした。そうではないのか」
「……」
 春奈は言葉を失って、ただ宗冬らしき人物の影を見返した。
 馬鹿馬鹿しい。千秋さんが、いつ、当主になりたいと言ったのか? 彼女は御門家から離れたがっていた。彼女を貶めるな。
「宗冬様、当主代行の冴夏は公私に渡り、若輩の身である私を支え続けてくれた恩人です。それに千秋さんは御門家から距離を置いて生きる事を良しとしてきました。そんな二人が、今更、御門家の当主の地位を欲するなど考えられません」
 春奈が異を唱えると、宗冬の影はもっともだという様に二つ三つ相槌を打った。
「春奈よ、うぬはまだ若い。長年仕えて来た当主代行の裏切りなど、直ぐに信じろというても信じられんだろう。しかし、それを裏付ける証拠があるのだ」
 証拠? と春奈は形の良い眉を寄せた。
 宗冬の手が振られ、磨り硝子はスクリーンの役目も兼ねてるのか、所々ノイズが入り見辛いが奇妙な文字が刻み込まれた石柱と搭の建てられた島が写った。
「これは長年、邪教の者と敵対している組織の偵察機が墜落間際に、南太平洋に突如出現した島を撮影したものだ。この島の中央」
 島の中央にある一際高い大扉のある搭の頂上にピントが合わさり、其処に立つ一組の男女の姿が浮かび上がる。
 春奈の両拳が膝の上で握り締められた。

Re: 天門町奇譚 ( No.38 )
日時: 2020/07/22 21:07
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 画像は荒く詳細までは解らないが、写された女性は春奈の良く知る少女であり、純白のブラウスと紺色のスカートがスタイルの整った彼女の特徴を引き立てていた。癖毛の下にある普段は眼鏡の奥に隠された切れ長の瞳の大きな両眼がカメラを見上げているが、もし撮影者が平時であればその向けられた視線を眼福と受け取るに違いない。
 男性は漆黒の三つ揃いにコートを羽織った浅黒い肌の長身の紳士であり、その豊かな長髪が搭の周囲に巻き起こる風になびいている。
 紳士はコートの右側に広げて少女を半身を覆い隠しており、その姿はまるで良家の子女を強風から守る執事のようだ。しかし、此処が瘴気漂う島でなければ、だが。
「千秋と共にいる男だが、この者は〈星の智慧派〉と呼ばれる暗黒教団の指導者であり、その教団は世界を破滅に追いやる神を信仰しているの噂だ。そんな輩と行動を共にすることが千秋の我らに対する裏切りを証明しているではないか」
 どこか勝ち誇った様な宗冬の物言いに、春奈は負けじと声を張り上げた。
「待って下さい。それは彼女が攫われて自分の身を守るために仕方なく同行しているに違いありません」
「千秋は巫女だ。仮にも御門家の血を引いた巫女なら、自ら己の身を守る為、何らかの力を振るうのではないか。それを出来ぬという事が、千秋が彼奴等と手を組んだことの証明ではないか」
「彼女は巫女としての祭祀の経験はありません。黄泉平坂を超えて手力を落とすなど、石笛や審神者の補助無しでは無理です」
 春奈の言葉を聞いた宗冬の影はあからさまに嘲弄するように身を震わせた。
「ならば、その才能の無さが我らを裏切る証拠であろう。この邪教の者に我らの祭祀を用意させて手力を己のものとする。そうでなければ生まれ落ちた時に既に手力を宿していた当主に、到底敵わんからな」
 如何やら、この老人ようかいは是が非でも私と千秋を争わせたいらしい、と春奈は胸中で宗冬の企みについて冴夏の推測を思い出した。
 彼女は、御門家の当主の能力のデモンストレーションを邪神退治の場で行うのではないか。徐々に邪神に征服されていく世界に対して、皇と御門家、日本の力を示すことにより列強国のひとつに名を連ねるのが目的ではないかと話した。
 果たしてそれだけだろうか。と春奈は疑問を浮かべた。
 御門家内でも巫女や審神者の能力を持つものは稀にしか出てこない。紅葉と夏憐、二人の妹達は巫女や審神者としての能力を持ち合わせておらず、巫女は春奈の知る限り千秋ただ一人だ。
 そんな貴重な能力を持つ千秋を、宗冬は使い捨てにする心算か。本来なら春奈に何かあった時に千秋が必要ではないのか。
 何かを見落としている。そんな気がしてならない。
「春奈よ。此度の御門千秋の離反の責として、儂は御門冴夏の当主代行の任を解きたいと考えておる。そして老いぼれ乍ら儂が後任として、当主と共に御門家を立て直そうではないか」
「……え」
 己の耳に飛び込んで来た宗冬の言葉に千秋は目を見張った。
「待って下さい。彼女の当主代行は亡くなった母の遺言で、その任を解くのは当主である私に一任されています」
「お主は若く、性根が甘い。だから当主代行の暴走を止められんのだ。お主は黙って見ているがいい。皇からの下知ならば冴夏も異議を申し立てん」
 暗に御門家の完全掌握をほのめかす老人の企てに、春奈は沈黙するしかなかった。これまでも宗冬は御門家をほぼ掌握していたが、表向きは春奈の母であった前当主の四季しきの意向と当主代行の冴夏が宗冬に異を唱えると、宗冬も其れの従わざるを得ず、それが御門家の宗冬の私兵化を防いでいた。
 しかし、四季が亡くなり、宗冬の高天原での地位が向上するにしたがって、高天ヶ原による御門家への干渉が多くなり冴夏もそれに従わざるを得ない状況が続いている。
「いいえ、それは私の役目です。冴夏伯母さんには私が聴き取りを行い、当主の名に於いて彼女を解任するか否か、判断致します」
「……高天原と皇に逆らうか、春奈」
「これは、御門家の問題です」
 春奈は目を閉じた。
 背後に控えた黒服に二人は揃って違和感を抱いた。室内の空調のもたらす風の方向が変化したように感じたからだ。僅かに強くなった室内の風の流れが二人の前髪を揺らしていく。
「我に異を唱えるか。この者の甘さ、期待するなよ下郎」
 春奈が目を開く。いや、口調は一変し、尊大な響きが部屋に木霊する。まるで別人だ。
 室内を巡る風は勢いを増し、立ち上がった黒服の背広の裾をはためかせていた。
「う」
 既に二人の黒服は腰の刀に手を掛けて抜刀する姿勢をとっているが、その姿勢を維持したまま固着している。
 刀が抜けないのだ。身体中に巻き付く風が四肢を縛り付け、その場から動くことが出来ないのだ。
「うぬらは黙って見とれ。己が肉叢ししむらを晒しとうなければ、な」
 磨り硝子の向こうにある宗冬の影が一歩後退った。
「春奈、乱心したか。皇の御前ぞ」
「そんな者、知らん」
 狼狽した宗冬の抗議を一蹴して、春奈は不敵な笑みを浮かべる。
「真の御門家当主、ね。春奈、貴方はとんでもないものを抱えているのね」
 東三条の君が呟いた。椅子に腰かけて落ち着いた口調だが、彼女は必死に耐えていたのだ。立ち上がれば逃げ出すに違いない。椅子の肘掛けを握りしめて逃げ出そうとする己の本能を必死に留めた。
「どうする、宗冬殿。御門家の当主代行なら彼女を御せねばならんが、貴殿には荷が重いか」
 東三条の君のからかう様な言葉に、宗冬は怒気を孕んだ視線を向けるが彼女は平然と見返した。
「近衛兵、何をしておる。 皇を守らんか!」
 宗冬の怒声に打たれたかのように黒服が身を震わせると、体勢を低くして春奈の背後へ豹のように駆け出した。
「御免」
 二人同時に抜刀して春奈の背中に斬りかかる。
「哀れじゃの」
 風のはためく音と共に二人の黒服は宙を舞った。
 コマ切れとなった二人は風に乗って室内に飛び散り、宗冬達と春奈を隔てる磨り硝子に赤い現代美術の様な文様を描き込んだ。
「ふん」
 つまらなさそうに鼻を鳴らして見上げる春奈の視線と、慄いた宗冬の視線がぶつかる前に、磨りガラス以外の何かが遮った。
 それはこれまで沈黙をも持っており、本来ならこの謁見の主役ともいうべき人物の影であった。
「……皇」
 呆然とつぶやく宗冬の言葉と共に、宗冬の影に重なった人物が揺らいだ。
「朕に刃を向けるか、畜生」
 男とも女とも、少年とも老人とも、またそれのどれでも無い響きを持った声を室内に響かせる。
「ほう……」
 感心したように春奈が笑みを浮かべる。
 春奈の中に居るもの、真の御門家の当主と呼ばれたものは、磨り硝子の向こうから伝わる気配に興味を抱いた。
 彼女の感覚に伝わるのは間違いなく人間であるが、僅かにそれに混ざって別種の気配が感じられるのだ。
 それは何かに憑かれた人間の気配にも似ており、その意思に皇と呼ばれたものが操られているのか、それとも力のみを利用しているのか判断付かなかった。
「よし」
 取り敢えずちょっかいを出して探ってみようと、春奈は右手の指を軽く握り込んだ。
 五指が弾き出されたとき、五発の小規模な空気弾が皇に襲い掛かる。
「お待ち下さい!」
 指を弾き出す寸前に、鋭い女性の声が春奈と皇の行動を押し留めた。
 見上げると東三条の君らしい人物が皇の前に平伏している。春奈からはその人物の着用合うる衣装の裾が床に広がり波打っているのが見てとれた。
「皇。御門家は長きに渡り皇を支え続けた名家、此処で失うのは惜しゅう御座います。そして御門家の巫女として力を持った千秋をこのまま亡くすのは早計かと。此処は彼女を取り戻した上で判断しても遅くは無いかと。今は、一刻も早く、巫女を邪神の島へ送ることが先決かと」
 東三条の言葉に皇の影は背後の宗冬へ向き直った。
「……私に依存は有りません」
 皇の鬼気の様な気配が和らぐと皇は再び腰を落ち着けた。
 宗冬は無意味な咳払いをひとつすると、再び高圧的な口調で春奈に言い渡した。
「お主はすぐさま南方の島、ルルイエへ赴き御門千秋を邪教から取り戻すこと。ただし邪教の者に進んで己の身を引き渡している場合、その身を誅するものとする」
 かなり不服そうな響きをした宗冬の命令に、春奈はその場に膝を付いて首を垂れて下知を受けた。これ以上争っても益は無いと判断したのだろう。
「しくじるなよ、春奈」
 その言葉と同時に謁見は終わったものと判断したのか、中央の影、皇は立ち上がり踵を返した。宗冬もそれに続く。
「……、気を付けてね。春奈」
「はい」
 顔を上げた春奈の表情は普段御門家で見かけるものであり、その身に纏う気配も柔らかな物へと変わっていた。
「東の君様、納めて頂いて有り難う御座います」
「ああでも言わないと、あの場は収まらなかったわね。しかし、あの爺、あの場で痛い目に合わされた方が世の為、人の為になると思うけど、皇が味方に付いているからね。今は耐えるしかないわ」
「そうですね」
 春奈は部屋を見回した。
 部屋に飛び散った肉片と血飛沫の痕を痛ましげに見つめる。
「この人達にも悪い事をしました」
「……あれは天災のようなもの。私達に止める手は無いわ。その犠牲を無駄にしないよう、千秋さんを必ず連れ戻しましょう」
「……はい」
 春奈はそう返事したものの、表情は曇ったままだ。
 東三条の君は思った。春奈はまだ甘い。本当に千秋が御門家を裏切っていた場合、春奈に千秋を討つことは出来ないのではないか、と。


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