二次創作小説(新・総合)
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- 天門町奇譚
- 日時: 2020/07/19 13:49
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
序 異界侵食
まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。
しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
ごぽっ。
背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
ごぽっ、がぱっ。
何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
ごぽり、
芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。
- Re: 天門町奇譚 ( No.19 )
- 日時: 2020/07/21 00:32
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
竜巻の中から現れた触手の数は少なく見積もっても五十を超え、その先端にはあらゆるものを吸い込み粉砕する空気の渦が形作られていた。それらが一斉にこの場所に降り注いだ場合、家屋も春奈達も全て吸い込まれ更地と化すに違いない。
「これはまずい。」
ぼんやりと冬峰が呟くがナイフを使い果たし素手となった自分に出来ることは無く、精々上空に浮かぶ化け物からの攻撃を素手で受け止める事であろう。惜しむらくは急襲された為、自室に長脇差と投げナイフを仕込んだブレザーを置いてきたことだろう。それがあれば何とか戦い様があったかもしれないが、今、取りに戻っても間に合わないことは明白であろう。
ロイガーの触手が弧を描くと同時に、冬峰は何かを察知したのか、背後に大きく跳躍した。冬峰の元に居た位置の屋根が内側から弾け、屋根瓦が宙を舞う。
屋根を打ち抜いたのは風だった。黄衣の王と同じく透明のその力は螺旋を描きドリルの様に大気を吸い込みながら宙に浮かぶ怪物に向かって突き進む。
轟音を上げてロイガーを覆う竜巻と、風のドリルが激突する。風の障壁はそれを打ち破ろうと進む螺旋に吸い込まれ乱れて消える。残された宙に浮かぶ触手と目玉で作られた化け物は、防壁を打ち破った風に弾かれた様に捩れ、身体の四分の一、右上半分を飛び散らせる。
深手を負ったのかロイガーは身体を回転させながらゆっくりと半透明になりふっと消え失せた。
「何て事だ。仮にも神様だぞ。」
フェランは消え失せたロイガーのいた辺りを見つめて呆然と呟いた。長年、彼は異形の神々やその配下と戦ってきたが、このように力押しで退散させたのは初めてだった。
不死の指導者を殺した少年とどのような力か、異形の神に致命傷を与える一撃を放つ何か。それが旧支配者や大いなる〈K〉達の求めるものかもしれない。
フェランは天井に開いた穴から屋根の上に立つ冬峰を見上げる。少年は大きな脅威を撃退して気が抜けたのか、息を吐いてしゃがみ込む。
フランの背後から黄衣の王が天井の穴を通り抜けて冬峰に迫る。まずは丸腰の邪魔者から葬り去ろうとする魂胆か。それとも不死の指導者を始末した者への怖れか、黄衣の王は掌を冬峰に向けて死の風を送り込んだ。
「うわっと」
辛うじて躱すもバランスを崩して軒下へ飛び降りる。
その後を追いながら続けざまに放たれる竜巻に、冬峰は何とか躱すものの、とうとう荒れた庭園へ躓いて身を滑らせた。
その躱しようのない体勢の少年へ、無慈悲に迫るすべての物を腐食させる突風。
「冬峰!」
千秋の叫びを遮るかのように冬峰の足元から石壁が盛り上がり、黄衣の王から放たれた突風はその表面を叩くに留まった。
「サンキュ、青桐」
「どういたしまして。朱羅木!」
「受けろよ、火水鳴り」
青桐の声に応える様に朱羅木の七四式小銃から光弾が放たれる。
その光弾に立ち向かう様に黄衣の王は大きく吠えて両掌を突き出す。
落雷の様な轟音と熱に石壁の表面が溶けて結晶化する。石壁が無ければ冬峰はその余波を受けて消し炭と化していたであろう。
黄衣の王の眼前で光弾が散り散りにはじけ飛ぶ。この旧支配者の代行者もロイガーと同等の力を持つのか。
「あれに耐えるか」
フェランの苦虫を潰したような呻きに青桐は不敵な笑みを浮かべた。
「まだまだ」
無傷とはいかなかったのか全身から白煙を上げる黄衣の王は、頭上からの羽搏きと鳴声に顔を上げた。
Never More。またと鳴け。
三本足に掴まれたそれは、石壁を上って跳躍した冬峰の左手に納まるように落とされた。
受け取ると共に空中で白刃が抜き放たれる。
長脇差を八双に構えて落下する冬峰に何かを感じ取ったのか、黄衣の王は先程朱羅木の一撃を防ぎ切った風の障壁を宙に向けて展開した。ただの刀の一閃に対する備えとしては大袈裟すぎるといえよう。黄衣の王自身も内心、大袈裟な備えだと呆れていることを知れば冬峰は満足するだろうか。
フェランの脳裏に昨晩、冬峰とクトゥルーの代行者との死闘で見た水の障壁を打ち破った一撃が蘇った。
「まさか」
袈裟懸けに振り下ろされる一閃が轟音たてて渦巻く風の障壁とぶつかり、前置きも無く障壁が掻き消えた。あまりにもあっけない消失にフェランは黄衣の王自らが術を解いたものと勘違いしてしまった。
むろん、黄の王にそんな意図は無く、そのまま振り下ろされる刀身から逃れようと背後に跳躍したが、その刃は右肩から左脇に通り抜け地面を僅かに割った。膿の様な青白い液体を傷口から撒き散らしつつ黄の王は冬峰から距離をとって着地する。
既に致命傷を負ったのか、両断されなかったものの絶え間なく腐臭を放つ体液を地面に垂らしつつ力が抜けたように両膝を着く。
「終わりだな」
朱羅木の呟きに応えるかの様に、冬峰は長脇差を上段に構えて黄の王に向けて疾走する。黄の王に待つのは唐竹割りの運命か。黄の王は顔を上げて己を滅ぼそうとする少年へ向き直ると、ガコンと音を立てて黄衣の王の被る石仮面の口が大きく開いた。
「ー」
その口からほとばしったのは聞き取れない叫び。それは母屋の窓ガラスを割り、荒れた庭の木々に茂った葉を残らず舞い散らせた。
「くっ」
フェランは己の全身に走った針で着いたような痛みに耐えて庭先へ視線を向ける。その先には黄衣の王の叫びを至近距離から受け、片膝を着いた少年がいた。
既に頭髪は逆立ち、その痛みに耐えるかのように長脇差の切っ先を地面に突き刺し歯を食いしばる。
不意に冬峰の手や顔から赤い斑点が生じてじわりと流れ出す。それは毛穴からの出血であり、冬峰は血の涙を流しながら全身を襲う脱力感と戦っている。
「いかん」
黄衣の王の主である闇の皇太子ハスター、旧支配者と呼ばれる種族であるそのものは、数多くの異能力を有しているが、そのひとつに〈ハスターの叫び〉と呼ばれる力がある。
ハスターの発する振動波を浴びた者は全身をぐずぐずに崩れさせたむごたらしい死に方をするが、黄衣の王と呼ばれる不死の代行者も同じ能力を受け継ぐらしい。冬峰は既に刀身に縋りつくように体を支えるのが精一杯なのか、伏せた顔からは普段の茫洋とした余裕は窺えなかった。
掌から噴き出る血液で握りが滑るのか、冬峰はバランスを崩したかのように前のめる。
勝利を確信したのか、本来表情の無い黄衣の王の仮面に愉悦の色が浮かぶ。
それに驚愕の色に取って代わったのは次の瞬間だ。
ぐらり、冬峰の身体が大きく傾ぎ、ふっと直立した。血が目に入るのか、左手の甲で目頭を拭うとすでに出血は止まっているのか半眼で黄衣の王を睨み付ける。
しかし黄の王の叫びは依然続いており、冬峰の周囲の地面はささくれ、背後の木々は弾ける様な音を立てて中身を晒す。彼も同様に肉体が崩壊するべきであった。
冬峰が土を蹴って砲弾の様に黄衣の王との距離を縮める。頭上に振り上げられた長脇差は、今度こそ、その刃を黄衣の王の頭蓋に食い込ませて唐竹割りにする筈であった。
冬峰の視界に何処からともなく飛来した赤い紙飛行機が、音も無く飛来して黄衣の王のケープにぶつかった。
前触れも無く炎に包まれる黄衣の王に驚愕しつつも、冬峰は炎を避けて後方へ跳躍する。
黄の王の開いた口からも炎が噴き出し、その肉体を焼き崩しながらも頭上へ右手をあげた。
その刹那駆け巡る突風に冬峰は目を閉じ、再び開いた時には微かな肉の焼けるような不快な匂いを残して黄衣の王は消え失せていた。上空の遥か彼方に巨大な羽をもつ生き物の影が見てとれたが、それもすぐ消え失せる。
「冬峰!」
「フユお兄ちゃん!」
千秋と可憐の叫びに振り替えると、青桐と春奈達四人が黒ずくめの男達に自動小銃を突き付けられて一塊に集められていた。
更に頭上に爆音が響くと共に、突如降下して姿を現した大型ヘリからロープが垂れさがり、同じく黒ずくめの男達が戦闘を終えたばかりの御門家へ滑り降り始めた。皆、一様にヘルメットに暗視ゴーグルで顔を覆い、防弾ベストに予備弾倉やら手榴弾を身に付けた特殊部隊のような姿をしている。
冬峰と千秋、そしてフェランはそれが今朝、校門から見かけた男達の姿に似ていることに気が付いただろう。
「なんのつもりだ、これは」
冬峰は自動小銃の銃口に晒され乍ら、同じく黒づくめの男達に囲まれた胡散臭い自称ジャーナリストに低い声で問い掛けた。
「いや、私こそそれは訊きたい」
両手を肩の高さまで上げてフェランは憮然とした面持ちで弁解した。
冬峰も地面に長脇差を地面に放り出して両掌を頭の後ろで組んだ。春奈達を押さえられている以上、ここは大人しく従っておくのが良策と判断したからだ。
しかし、と冬峰は自分を取り囲んだ者達の装備を観察し乍ら、その意図するところを読み取る。
自動小銃はAK103、現在も世界各国で使用されているAK47を現在の戦場に合わせて木製部分や金属部品を耐久性を損なわない程度に強化プラスチゆックの置き換えたもので軽量化を図ったものだ。AK47と同じく7.62mm×39弾を使用するAK103は、北半球の西側諸国で普及した5.56mmNATO弾より近距離での威力が高い為、対人用、そして世界中で問題となりつつある対深き者共用の火器としてもある程度の効果はあり採用する国家も多い。
一部の者はバーレットの五〇口径ライフルを手にしており、対人用として大袈裟な火器を有している。
フェランは辺り男見回してから声を張り上げた。
「おおい、責任者はいるか。この件は日本の有力組織と係わって来るから穏便に事を進めるって聞いてたんだがな」
「もう、そんな悠長な事を論じている場合ではないのですよ。ミスター・フェラン」
フェランの問い掛けが終わるより早く、本家を包囲する黒ずくめの男達が、モーゼを通す海原の様に左右に分かれ、奥から赤い人影が歩み寄って来た。
その男は無個性の極みである黒ずくめの男達の中では異形とも言えた。
赤色のの光沢のあるインバネスコートに赤い蝶ネクタイ、赤のパンツに赤のブーツ。端正な目鼻立ちの顔に逆立った頭髪も赤色と首に巻かれたチョーカーも赤。全てが赤かった。
「発火能力者(ファイア スタータ)がお出ましとは。ソロモン機関は何を掴んだんだい」
フェランは口笛をひとつ吹いてから皮肉気に頬を歪めた。
ソロモン機関、世界の対邪神組織の中でも最も権力を有する組織の主要メンバー自らが、この東洋の島国にある辺鄙な片田舎に赴いている。それだけで今、天門町で発生している事件が世界に対する脅威とみなされていることをフェランは読み取った。
「今、撃退した黄衣の王はハスターの代行者。しかしこの町にはクトゥルーの代行者も現れ、かつ滅びたと報告を受けています。本来両者は同じ旧支配者に属していますが、その主同様に不仲で相容れる事はありません。それが同じ町で争う事も無く活動している。これは驚くべきことです」
旧支配者と呼ばれる邪神、正確には異世界の生物であるクトゥルーとハスターは何故か相争う事が多く、フェラン自身もクトゥルー復活を阻止する為、恩師である教授と共にハスターの僕の力を借りて活動していた頃があった。
「つまり、その恩讐を超えても手を結ぶ価値が、この地とこの一族にあると」
「その通りです」
フランの問い掛けに赤い男は首肯した。フェランは冬峰と春奈達を振り返りううむと唸る。
旧支配者の眷属であるロイガーを撃退した能力と、クトゥルーの代行者を葬りハスターの代行者〈黄衣の王〉を窮地に追いやった。そんな一族の秘めている能力とは何なのか。
「で、ソロモン機関としてはそんな対象を野放しにしておけないから確保しておきたいと」
「はい。我々は既に日本の帝都にある帝直属の組織〈高天原〉と接触して、(K〉の標的であった少女を保護する許可を頂いています。その価値については彼女から聞き出すとしましょうか」
「何」
「ええ」
フェランと春奈が驚愕の声を上げる。そこまで彼等に詰まれているとなるとフェランはおろか、春奈の属する御門家も権力をもってしてもその決定を覆すのは不可能な事であった。
千秋は自分の意思は関係なく、自分の自由が無い事を感じ取っていた。何故、私がこのような突拍子も無い事に巻き込まれ、己の身を訳の解らない集団に委ねなければならないのか。そのことを母である冴夏は知っているのか。
千秋の脳裏に母である冴夏の冷然たる美貌が浮かび上がった。母は知っているはずだ。そして御門家を守る為、私の身を差し出したに違いない。千秋はそう確信した。
「本来なら当主も我々の手で保護したかったのですが、〈高天原〉の連中は当主引き渡すぐらいなら一戦も辞さないと言い出しまして、今回の標的のみの保護となったのですよ」
赤い男の言葉に千秋は身を震わせ、のろのろと顔を上げた。
当主は差し出せない。私程度なら差し出せる。頭首よりも劣る私なら差し出せる。
「保護じゃなく接収が目的じゃないか」
怒りと絶望で視界が黒くなりその場に崩れ落ちそうな脱力感を覚えた千秋の耳に、茫洋とした、しかし憤りを含んだ少年の声が響き彼女を暗黒から救い出した。声の方へ視線を向ける。
そこには赤い男に普段の眠たそうな目つきとは裏腹に、冷たく見据える従弟の姿があった。
その従弟は背後から銃口を突き付けられているというのに鞘に納められた長脇差を左腰に構え、いつでも抜き出せるように右手の力を抜いている。
「もし違うなら、銃を突き付けて脅すのではなく手土産を持って名乗ってから、三日程通って来るべきだよ。ほおずき魔人」
「ほおずき?」
赤い男が首を傾げた。如何やらほおずきを知らないらしい。
「それに俺は彼女を守るように命令されていてね。千秋があんた等について行きたくないって言えば、俺は彼女をあんた等に渡……」
冬峰は不意に言葉を区切った。その表情にはこの少年には珍しく目を見開いて驚いていたのだ。
「……その首飾りの紋章。それは何だ」
冬峰は赤い男のチョーカーを指差した。そこには炎の中に浮かぶ螺旋十字の頂上に六芒星が浮かんだ紋章が刻み込まれている。
「ああ、これですか。これは我らソロモン機関の紋章ですよ。どこかで見覚えでも」
赤い男は最後まで言葉を続けることは出来ずに背後に跳躍した。続けて先程まで赤い男の立っていた場所に、跳躍しながら居合腰で長脇差を抜刀した冬峰が着地する。
「いきなり斬りつけるとは野蛮ですね」
赤い男の非難と共に武装した男達が冬峰にAK103の銃口を向けた。躊躇も無く引き金を絞る。
四方から冬峰を囲むように放たれた銃弾は、半瞬ほど前に冬峰の着地していた空間を貫いたが、当の本人は赤い男の手前4メートルほどの距離まで疾走していた。
「凄まじい速度だな。しかし、私の術の方が」
いつの間にか赤い紙でおられていた紙飛行機が、赤いコートの合わせ目から冬峰に向けて飛行する。
「まだ早い」
冬峰の眼前で紙飛行機がいきなり火を噴いて火球へと変化、そのまま紅蓮の炎が冬峰を包み込み、散り散りに千切れて消えた。
「弾いた?」
驚愕する赤い男の懐へ飛び込んだ冬峰の突進速度を生かした体当たりに、赤い男は荒れた地面を二転三転しながら吹き飛ばされる。
「う……」
頭を振って起き上がろうとする赤い男の傍らに、長脇差を上段に構えた冬峰が追い付く。
「君は、我々と何か敵対したことがあるのか、私は君とは初対面のはずだが」
「あんたとはそうだ。だが、その紋章を持つ奴等には少なからず借りがある。此処で返させて貰うぞ」
冬峰の口調に抑揚は無く、それだけに冷然とした響きがある。
「それは君の守るべき人達と引き換えてでも、果たすべきことかな」
悪戯っぽい赤い男の言葉に冬峰は千秋達を振り返る。
千秋達に変化はなかった。ただその周囲を赤い紙吹雪が渦を巻いており、それが冬峰に刃を振り下ろすことを躊躇させた。
「君が振り下ろすより早く、彼女達は炎に包まれる。それでもやるかい」
長い、長い息を吐き、冬峰はゆっくりと長脇差を下ろす。噛み締めた奥歯から歯ぎしりが響いてきそうな、そんな苦痛に満ちた表情を浮かべる。
鈍い音と共に冬峰が地面に片膝をつく。ようやく追いついたソロモン機関の兵士がAK103の銃床を冬峰の後頭部に叩き込んだからだ。
複数の銃口が無防備な冬峰に対して不動の直線を引き、数瞬語には彼の身体に無数の銃弾が叩き込まれるであろう。
「待ちなさい」
AK103の引き金が引かれる直前、凛とした声が響いて男達の指の動きを止めさせた。
「彼を害すれば、この御門家に弓を引くものとして千秋さんの引渡しを拒否します。それでも良いのですか」
赤い男が掌を振ると共に兵士達は冬峰から銃口を外した。赤い男が億劫そうに立ち上がる。
「冬峰さんも自重して下さい」
フランが冬峰に肩を貸し立ち上がらせる。小声でいきなりで驚いたよと呟いた。
「貴女がこの御門家の当主ですか。申し遅れましたが私はソロモン機関の極東支部に属するフレアと申します」
慇懃無礼に一礼する赤い男、フレアへ春奈も一礼する。
「私は御門家当主の御門春奈と申します。といってもまだ見習いなので物事の決定権は補佐である伯母が担っております」
- Re: 天門町奇譚 ( No.20 )
- 日時: 2020/07/21 00:37
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
春奈の表情が僅かに曇った。それもそうだろう。その決定権を持つ伯母、御門冴夏は引き渡しを求められている御門千秋の母親なのだから。
当主代行である伯母が肉親としての情を優先して千秋の引渡しを拒否することを春奈は願っているが、それは万に一つも無い選択だろう。
千秋の引渡しはこの国の御門である皇家の直属機関〈高天原〉より指示されている。春奈達御門家もこの組織に属しており、高天原から下される指令の実行部隊という位置づけだ。
その御門家が千秋の引渡しを拒否すると、高天原内部からの帝に対する反逆とされ、存在さえ抹消されかねない。それだけは避けなくてはならない。
春奈は腰のポーチに入れた携帯電話からの着信音に身を震わせた。このタイミングで電話を掛けてくる人物の心当りは一人しかいない。
「はい、御門春奈です」
ため息を吐いてから携帯電話を耳に当てた春奈の胸中を意に介さず、携帯電話の向こう側にいる人物は冷然たる口調で己の用件を伝えたのだった。
- Re: 天門町奇譚 ( No.21 )
- 日時: 2020/07/21 22:49
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
四章 黒衣の魔紳士
1
彼は目を開いた。
目に映ったのは夜空。しかし瞬く星は見えず、月明かりさえ別の明るさに遮られている。ぱちぱちと何かがはぜる音がしてよりいっそう明るくなってくる。
「う……。」
低く呻いて彼は身を起こした。背中に鈍痛が沸くのを我慢して周囲を見回す。周囲の建造物は軒並み破壊されており火の粉を散らしている。彼は数分前迄の記憶を遡り、街の惨状の原因を思い出した。
確か三機の戦闘ヘリが街に侵入して、家々に向かって機銃を撃ちまくったのだ。当然、中にいる者達は物言わぬ肉隗に成り果てたのだろう。更に戦闘ヘリは街の中央に向かって、その両脇に詰まれたロケットを次々と発射した。自分はそれに巻き込まれたのだ。
立ち上がり、彼はゆっくりと体を動かして何処にも異常の無いことを確認した。爆風で数メートル吹き飛ばされた割には骨も折れておらず、打撲も背中に鈍痛が湧くぐらいで運が良かったといえよう。しかし彼同様吹き飛ばされた者達は四肢を欠いて息絶えているものや、倒れた建造物の下敷きになっている者、炎に焼かれ炭化している者。動く者は一人もいなかった。
彼は一先ず炎に囲まれる前にこの場所を離れようと、身を低くして走り出した。駆け足でなく、地面と足の裏を微かに触れさせて滑るように駆ける「早駆け」で足音をたてないように移動する。
どうやらこの国に派遣された者達は自分以外誰も残っていない。そう彼は思った。事を終えた後、先程自分が吹き飛ばされた場所に集合、後にこの国を脱出する手筈であったが、約一日経過しても誰も現れなかった。
もう、慣れた。唯一人生き残るのはもう慣れた。
自分達がこの国に派遣されたのは、この内戦を終らせる為だった。アメリカ西海岸、ロサンゼルスで発生した「大異変」以降、世界は混迷を極めていた。太平洋の島々のいくつかは水没し、海に面した国々では得体の知れない生物が目撃され始め、幾つかの街がその生物達の襲撃を受け壊滅したらしい
逃げ出した人々は比較的安全である欧州へ集まるが、受け入れる国もそれほど多くなく、結果違法入国が後を絶たない。結局、先住民と避難民の軋轢が内紛へと繋がり、泥沼の戦争へと雪崩れ込む。この国も西アジアと欧州の境に位置するため、避難民が増加していく一方、
自分達の生活にも余裕の無い先住民と政府が避難民を敵視する状況となり、結果、圧力に耐えかねた避難民が決起する形となり、内戦へと繋がった。
彼とその仲間はこの国の「軍事指導者」と避難民の「地下組織指導者」を暗殺するべく潜入したのだが、目的達成後、当然の事ながら双方のグループから命を狙われることとなった。この国を脱出する際、あまりにも人数が多いと目立つ恐れがあるため、一旦ばらばらに行動し国外で合流しようと計画を立てていたのだが、どうやら無駄になったようだ。
彼は十字路まで差し掛かると、ポケットからミラーを取り出し曲がった先に人影が無いかどうか確認する。左に曲がると民間人の親子らしい二人連れに出くわし、右に曲がると小銃を背負った兵士が三人おり、油断無く周囲を見回していた。
さて、どちらへ向かおうかと首を捻っていると空中から低いヘリコプターの羽根が回転する音が響いてくる。この街の建物は高くても5階建てのアパートであり、ヘリのように上空を自由に闊歩出来る兵器は地上に蠢く得物の生殺与奪の権利を保有しているといえよう。猛禽の目とも言えるレーザーレーダーとそれに連動した自動回避システム、時速二百キロを超えるスピードで襲い来る鋼鉄の悪魔を相手に生き残るのは容易い事ではないだろう。
彼は手近なアパートらしき建物のドアに手を掛けた。幸い鍵は掛かっておらず半分ほど開いたドアから身体を滑り込ませる。屋内は静まり返っており、玄関脇の階段に埃が積もっていることから暫く前から無人であることが伺えた。
ドアを僅かに開け隙間から外を伺うとヘリコプターは真直ぐこちらへ向かってきた。政府軍か地下組織か、あるいはその両方に自分達潜入者の顔写真が出回っているかもしれない。
ただ、地下組織がヘリコプターなんて手間の掛かるものを保有しているとは考えにくく、政府側の追跡だと判断すべきであろう。
首都近辺ではなく、国境沿いの静かな町に戦闘ヘリが現れるのはどういうことなのか、ましてや避難民ではなくこの国の民間人を巻き込んで攻撃を仕掛けてくるのはどういうことなのか。
そこまで考えどうするべきか思案したとき、戦闘ヘリの機首下部に取り付けられた棒の先端がチキチキと回転し、真直ぐ彼の方を向いた。
温度感知識別センサーでも積んでいるのか、ドアから跳び晴れた彼の元いた位置に銃弾が飛び込む。ドアと壁が纏めて千切れ飛び、廊下に次々と大穴が開く。三〇ミリ砲弾の弾痕は彼を追い駆けるように移動し、彼は階段を上り二階、三階へと移動した。階段を上り切りベットと簡素なテーブルのみの寝室らしき部屋へ逃げ込んだが、銃弾は容赦なく彼を追い詰める。壁の破片と引き裂かれた布地と羽毛が宙を舞う中、彼は三階の窓から飛び降りた。着地しざま前方に転がり落下の衝撃を緩和する。
ヘリは空中停止の状態でアパートを銃撃していたが、彼が起き上がると同時に駆け出したのを追って機体を走らせる。
彼は先程の十字路へ差し掛かりどの方向へ逃げるべきか迷ったが、兵士達の居た左側へ曲がることにした。理由は彼等は民間人を盾にしても平気で撃ってくる事と、兵士達とヘリの挟み撃ちに遭うかもしれないが彼らの武器を奪って何とかヘリに対抗する心算だった。
そう決心し兵士達に向かって疾走する彼だったが、兵士達は彼に銃口を向けるのではなく、一人はへりに向かって自動小銃の銃口を向け、残り二人は彼と同じように背を向けてヘリから逃げ出している。
兵士が小銃を発砲すると共に、彼の背後で三〇ミリ砲弾が地面をえぐる音を立てて近付いて来る。彼は自分でも驚く程のタイミングで横っ飛びに地面を蹴った。すぐ脇を弾丸が通り抜ける感触に怖気を震いながら地面を転がる。
小銃をヘリに向けていた兵士は、弾丸が通り抜けるのと同時に大きく仰け反り小銃を取り落とす。いや正確に言うと、弾丸が右手を直撃し手首ごと小銃を落としたというべきか。その後は弾丸による解体が始まった。三〇ミリ砲弾を受けた肉体は衝撃で宙を跳び、更に空中で首がもげ、腹部の貫通銃創から内臓が噴出し胴体が二つに分かれる。
単なる肉隗と化した兵士を尻目に、彼は直ぐに立ち上がり疾走を再開した。兵士から武器を奪い取るつもりだったが、兵士もろとも壊されてしまった為、彼はまた丸腰のまま逃げなくてはならなかった。細い路地へ入り暫く走ってから別の路地へ入る。そうジグザグに進みヘリからの狙いが定まらない様に逃げ続ける。そんな彼の努力をあざ笑うかのように、彼の進む方向へ機関砲の銃撃が浴びせられ更なる逃亡を促してきた。そんな捕食者と獲物の一方的ないたちごっこが暫く続いていたが、彼は彼を追う戦闘ヘリとは別のローター音を聴き付け頭上を見上げると、
上空に黒点が二つ浮かび、それは瞬く間に大きくなり二機の戦闘ヘリとなって彼の前方に空中停止した。
彼は遂に足を止め頭上を見上げた。しかし、その表情に怯えや怒りは浮かんでおらず、ただ無表情に三機の戦闘ヘリを見返すだけだった。彼にとっては単に一機のヘリが三機に増えただけ増えただけなのかもしれない。そんな彼の態度に苛立ったのかヘリは申し合せたかのように、不意に高度を上げると機体を前方へ傾けた。
彼がとっさに伏せるのと、三機のヘリの両脇から細長い破壊が地表へ撃ち込まれるのはほぼ同時。そのロケットの爆風に彼は地上を二転三転しながら吹き飛ばされた。ヘリは更に機体を旋廻させ街中に火矢を降らせ始める。
彼がまた少しの間気を失い、また目覚めた時、彼は地面に仰向けになったまま全身を激痛に苛まれていた。視線を巡らすと相も変わらず頭上を旋廻する三機の戦闘ヘリと夜空を照らす赤い赤い炎が彼の目の映った。彼は立ち上がろうとするがバランスを崩して片膝を着く。
一機のヘリが機体下部のターレットを回し、彼に三〇ミリ機関砲の標準を合わせる。あと副操縦士の親指がトリガーボタンを押し込めば、彼は苦しむ間も無く肉隗と化すであろう。銃口を睨んだまま動かない彼は諦めたのか、それとも次の一手をどうすべきか思考しているのか。
もし神がいるのなら、彼のそんな態度に興味を持ったのかもしれない。次に起こった事は、そんなありえない出来事であった。
風が吹いた。突然の旋風につい目を閉じてしまった彼が目を開いた時、彼に銃口を向けていた戦闘ヘリの胴体が、ずるりと上下にずれた。それはどんな名刀が振るわれたのか、戦闘ヘリの装甲の断面まで見えるほど鮮やかな切口であった。
ヘリはそのまま地上に落下し、回転するローターが地上をやかましく引っかき続ける。幸い燃料には引火しなかったが、既に街の大半が炎に包まれている以上爆発するのも時間の問題かもしれない。
突然彼のいる路地と大通りの間を塞いでいた炎が、建物ごと旧約聖書のモーゼの大海の如く左右に分かれた。まるで其処を通る主人を出迎える如く作られた道の両側で炎の手が喝采するように瞬く。その道をこちらへ向かってくる人影は、今この状況には余りにも場違いな格好をしていた。
「久しぶりに降りたのじゃが、奇怪な鳥が飛んでいるのう。」
それは巫女服を着た十五、六歳ほどの少女だった。背は比較的高く一六〇センチ程あろうか。長くひっつめ髪に纏められた髪が、炎と同じ様に背中ではためいている。その特徴的な服装、巫女服は普通袴は赤色なのだが、彼女の着ている巫女服の袴は白地であり清涼な雰囲気を醸し出していた。
ヘリは暫く様子を窺うかのように上空に留まっていたが、残った二機の内の一機が滑るように彼女に近付き三〇ミリ機関砲を旋廻させ、彼女をその照準におさめようとした。彼女は向けられた銃口を恐れ気も無く見返していたが、その銃口が火を吹くと同時に右掌を手刀の形に構え、目の前の空間を横一文字に薙いだ。彼にはその手刀の軌跡に沿って空気が切断され、目の前の光景が一瞬揺らいだような気がした。更にその軌跡の延長にあった戦闘ヘリの機関砲やロケットポットが切断され地に落ちる。一緒に操縦士と副操縦士も落下してその上にヘリの機体が落ちて来るのは、まるで出来の悪い漫画を見ているようだ。
残る一機がいきなり急上昇して彼女との距離を取り始めた。機銃を牽制するように撃ちまくりながら、機体の左右にあるロケットポットを巫女服の女性に向ける。彼女は倒れている彼の傍に機関砲弾を避けながら近寄ると、彼を庇うようにヘリと彼の間に割り込んだ。
ヘリコプターの操縦士と副操縦士は、いきなり現れた邪魔者が本来の獲物である少年の傍で動きを止めたのを見て舌なめずりをした。彼女の動きは宙を舞うように飛び跳ね、30ミリをギリギリのところでかわし続けている。しかし少年を庇うのなら彼女はその場を動いてはならず、この次に繰り出される戦闘ヘリの攻撃を防ぐことは出来ないであろう。
標的が炎と爆風によって飛び散ることを夢想しながら、副操縦士は操縦桿のトリガーボタンを押した。機体両側のロケットポットから片側四発ずつ、計八発の細長い死神が尾を引きながら巫女服の少女へ向けて疾走する。
対して彼女は右掌をそのロケットに向けて立てるだけで逃げようともしなかった。彼女はロケットをその小さい掌で受け止めようとしているのか、彼はその彼は立ち上がり、その無謀な行いから彼女を押し倒して少しでもロケットの衝撃から守ろうとその腰に背後から組み付いた。
「天岩戸」
轟音はするが衝撃と爆風はいつまでも襲って来ず、彼が目を開けると、彼は彼女の胸に顔を埋めたまま抱え込まれていた。どうやら振り向いた彼女の正面から組み付いたらしい。
「女性を押し倒すのは、あと五年経たないと力不足じゃぞ。」
そうぬけぬけと言ってから安心させるように微笑んだ彼女は、ヘリに向かって立てた掌を握りこんだ。
戦闘ヘリの操縦士と副操縦士は、ロケットが標的である彼女に到達する寸前、宙に現れた黒い壁によって全て遮られるのを目撃した。
その外見とは裏腹に、自分では太刀打ちできない化け物だと本能的に判断し、機体を回頭させ急ぎ逃げようとするが、彼女の握りこまれた右手から人差し指が弾き出されると、ローターが纏めて吹き飛びキリモミしながら落下していった。
「他愛ない。呼ばれて来てみれば、この程度。役目は果たしたぞ。」
地に落ちたへりに見向きもせず、巫女服の彼女は暫く目を閉じ、すぐに開いた。
中身が変わった様に、少年は感じられた。今まで少女の纏っていた、何か近寄り難い高貴さが消え、柔らかな雰囲気に変化した。
彼女は、まだ腰の辺りにしがみ付いて硬直している彼を見下ろして悪戯っぽく笑う。
「そんなに情熱的にしがみ付かれると、お姉さんの方が押し倒したくなっちゃうぞ。」
彼は慌てて彼女の腰から離れると、視線を上下させ、改めてこの戦場に似つかわしくない格好をした女性を観察した。結わえられた長い黒髪と瓜実顔に左右対称の切れ長の目とすらりとした鼻梁は、ともすれば整いすぎて近寄りがたい印象を与えるものだが、その女性の醸し出す柔らかな雰囲気が彼の警戒心を解いていった。
「危機半髪ってところかな。大丈夫? 骨とか折ってない。}
中腰になって彼の正面から覗き込む彼女の視線から、彼は僅かに視線をずらして目を合わせないようにする。彼は仲間以外と話すことは滅多になく、見ず知らずの人間とコンタクトするのは苦手の部類に入る。
彼女の問い掛けに問題ないと返答し、彼は彼女に疑問をぶつけた。あんたは誰だ、と。
「あん。」
それを聞いた彼女は大げさに仰け反ってから、両掌で顔を覆ってさめざめと泣き真似をした。
「酷い。小さい頃何度か顔を合わせたことが有るのに。そんなに私は影薄いですか。」
彼は彼女の顔を見つめて今迄出会った人達を思い出そうとしたが、小さい頃はあまり周囲の人達に関心は無かった為、どうも顔が浮かんでこなかった。しかし最近迄、行動を共にしていた妹分の幼い顔と目の前にいる女性の顔の特徴が重なり、彼は我知らず呆然と呟いた。
「雪乃の……お姉さん?」
「御名答。御門春奈です。久しぶりね、冬峰君。」
そう言って、巫女服を着た御門家当主は満面の笑みを浮かべた。
2
千秋は裏庭のベンチに腰掛け、ただに星空を見上げていた。
不思議な事に、今自分自身の境遇に対してもう少し憤りを感じるかと思っていたが、以外にも自分の中は平静さを保っていた。いや、全てを諦めて考えるのを止めていた。
固いブーツの足音が耳に響く。
それは我が家を警備する御門家の者以外にこの屋敷を〈K〉の組織から守るために配置されたソロモン機関の兵士の履く編み上げブーツの足音であり、千秋はその兵士達が自分の監視が目的である事を悟っていた。
「ふう」
何度目の溜息であろうか。昔、溜息を吐くと幸せが逃げていくと誰かに聞いたことがあったのだが、元からそんなモノが無かったのだから、気にせずいくらでも吐けるものである。
ほんの一時間前、御門家頭首代行であり実の母親でもある御門冴夏に呼び出された春奈と千秋、そしてソロモン機関代行者であるフレアの三人は、一昨日の晩に千秋と冬峰が通された応接間でソロモン機関の要求に対する御門家の決定を冴夏から告げられた。
御門家はソロモン機関の要求通り、御門千秋を引き渡す。
母親である冴夏から告げられた時も、千秋の胸中は波打つことは無かった。既に予想していたからだ。御門家を預かる母が己の娘の為に皇家の決定事項を反故することは千秋には考えられなかった。
それからは何もかも面倒臭くなり、春奈が冴夏に何か意見していたようだが既にどうでもよく、そのまま応接間を出て裏庭へ足を運んでベンチに腰掛ける。
ただ休みたかった。何もかも忘れてこのままベンチに腰掛けたまま何も考えずに過ごせればいい。ただ、それだけを願う。
柔らかい土を踏みしめる足音に気付き、意識を外界へ意識を向ける。
そこには何時もの様に面倒臭そうに猫背で歩いて来る従弟の姿があった。小脇には鼠色の紙袋が抱えられており乾いた音を立てる。
「……」
冬峰は何も語らず、千秋から一人分の隙間を開けてベンチに腰掛けた。
冬峰が肩に掛けた図面を入れる円筒状のハードケースの中身が固い音を立てたので、おそらく長脇差を入れてるからだと千秋は推測した。
しかし、彼女がソロモン機関に引き渡される以上、ソロモン機関が彼女を警護する事となり、彼の役目は終わりを迎えるはずだった。それなのに、なぜ武器を携行しているのだろう。
冬峰もベンチの背もたれにもたれ掛かり、ただぼんやりと星空を眺めていた。何か物思いにふけっている様で、その実、何も考えていない。そんな従弟を横目で伺いながらこの少年について何も知らなかった事に気が付いた。
- Re: 天門町奇譚 ( No.22 )
- 日時: 2020/07/21 23:04
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
一つ下の従弟で同じ高校に通い、アルバイト先も一緒である。アルバイト中に会話することは殆ど無く、挨拶と客の注文を伝える事だけの日も多い。お互い人と係わることを面倒臭がる性質なのも会話の少ない要因のひとつであろう。
それがこの異常な事件に巻き込まれて彼が警護に就いてから、今迄見えていなかった一面を見る事となった。
それは御門家に仕える特殊な技術に秀でた者達に負けず劣らず、いや、それ以上に冬峰が異常な何かを身に付けている事。そして、それにもかかわらず飄々とした仕草を崩さない事。そのアンバランスさが千秋にはどこか歪な危うさを持っているように感じられるのだ。
「マスターがさっさと帰って来いってさ」
「え、え」
不意に口を開いた冬峰に、自分が様子を窺っていたことに気付かれたのかと千秋は慌てて目を逸らした為に、冬峰の言葉を聞き逃した。
「御免、ぼっとしてた。何?」
「……マスターに暫く店に出れない事を伝えたんだ。いつから顔を出せるか解らない。そう正直に伝えた。」
「そう……」
あの金勘定と接客の下手なマスターは私がいなくとも店をやっていけるのだろうか。私がアルバイトを始めた頃の様に、店には出るものの開店中の札も出さずジャズを流しながら眠ってはいないだろうか。千秋はいつも不機嫌そうなマスターを思い浮かべ、既に懐かしいとさえ思えるようになった心境の変化に寂しさを感じる。
「じゃあ、新しいバイトを雇うのが面倒臭いから待ってるって。店が潰れない内にさっさと帰って来いって。全く、何てマスターだ」
冬峰は苦笑しながら、千秋の膝上に抱えていた紙袋を置いた。それは微かに温かかった。
「マスターとっておきの蒸し鶏と温野菜のホットサンド。あとほうじ茶ラテ。帰ってきたら作ってもらうから味を覚えておくようにとの伝言付き」
千秋は震える手で紙袋を開く。そこには蒸した南瓜とアスパラ、エンリギ、パブリカと蒸し鶏を合わせてクリームソースで和えて、茶色のパン生地で挟まれたサンドイッチと蓋のついたデリバリー用の紙コップが入っていた。
「……」
確か〈ラ・ベルダ〉はデリバリーは受け付けて無い筈。あの冬峰に負けず劣らず面倒臭がりなマスターが用意したのだろうか。それとも隣の面倒臭がり二号があらかじめ用意したのだろうか。
ホットサンドを口にする。蒸した野菜の甘さとホワイトクリームが上手む調和している。全粒粉のパンの甘さは普段口にする小麦粉のものとは異なり具材の良さを引き立てるのに一役買っていた。
「美味しい」
「ふうん」
「……」
隣の冬峰は興味もなさそうな返答をする。美味しくて当然だと思っているのであろうか。
千秋はほうじ茶ラテを口にしてから俯いた。ホットサンドに口を付けようとすると唇を割って嗚咽が漏れそうだった。流れる涙は既に紙袋の縁を濡らし色を変えさせている。
温かかった。ホットサンドも、マスターも、隣に腰掛ける従弟も。今迄の日常の残滓が温かくて、先程まで凍っていた自分の心を温めているのが哀しかった。
それを失ってしまう事が悲しくてどうしようもなかった。
隣の従姉の嗚咽を冬峰は宙に目を向けたまま聴き続けた。少女の閉ざされようとする未来への憤りも、己の役目が終わろうとする安堵もその眼には浮かばせず、ただ宙を眺めている。
暫くして千秋の嗚咽が収まりしゃくりあげる程度になってから冬峰は口を開いた。
「千秋と会ったのがこの裏庭だった。覚えているか?」
千秋は鼻を啜り上げ乍ら記憶を探った。おぼろげ乍ら覚えている。
包帯を額に巻き、腕を吊った冬峰が独り、裏庭に立っている。その後ろ姿は全ての物を拒絶しているような雰囲気を纏っている。今の茫洋とした雰囲気を持った少年とは同一人物とは思えなかった。
ただ、彼と何を話したのか。それは思い出せなかった。
千秋は静かに首を振った。冬峰は苦笑して、そうか、と呟くと再び夜空を見上げる。
「帝都まで千秋に同伴出来る様に、冴夏伯母さんに頼んだ」
何の気負いも無く世間話をするように呟いた冬峰の横顔を千秋は見つめた。
「……冬峰」
「刺身のつま程度の護衛だけど、まあ我慢して付き合ってくれると助かる」
千秋は顔を伏せ首を振った。さっき止まろうとしていた涙がまた流れようとしている。止めることが出来ず、ただただ流れる。
「僕は此処で千秋に救われた。でも僕が千秋に返せるのはこの程度なんだ」
冬峰の声は淡々としていつもと変わりがない。そして、その表情も茫洋としたものだ。だが千秋にはそれが無理矢理湧き上がる何かを抑え込んで耐えている。そう感じられた。
冬峰の右手が千秋の左手に重ねられ握り締める。何かを伝える様に。何かを誓う様に。
「待っててくれ。必ず、千秋を取り戻す」
少年はこの夜に誓ったのだろう。
「……待ってる」
千秋は泣いた。この不器用で茫洋とした希望の存在が嬉しくて、そして温かくて気が済むまで泣き続けた。
3
翌朝、千秋は一年振りに自宅の己の部屋で目を覚ました。たった一年しか経っていないのに自分の部屋という気がしない。
ベッドから身を起こす。シーツと毛布も昨夜、時春の用意した泊り客用のものだ。
ベッドの傍らの本棚には一冊も書物は置かれておらず空虚な空間を広げている。またベッドの頭側にある衣装箪笥も空っぽだ。
それもそうだろう。この部屋の主は1年前にこの部屋を出て、二度と戻る気は無かったのだ。
千秋は癖のある髪を掻き上げて忌々しそうに室内を見回す。この部屋に愛着など無い。今の住まいである古ぼけたアパートの部屋の方がまだ愛着もあり過ごしやすく感じる。
ドアのノック音。そういえば一年前までは午前六時半きっかりに時春が起こしに来てくれた事を思い出した。
「どうぞ」
「失礼します」
黒の三つ揃い姿の老人は、左手に大ぶりの網籠を下げて恭しく一礼した。
「お召し物をお持ちしました」
「有り難う」
網籠には襟に青いリボンの映える純白のワンピースと靴下、下着が用意されていた。
「……」
一目で高級品と解ってしまった。
「時春、昨日私が来ていたTシャツとジーンズはもう洗濯しちゃった?」
「はい、先程部下が洗濯機に放り込んでおりましたが、何か」
「えっと、私はもう少しラフな服装が好きなんだけど。何かない」
「ラフ、ですか」
時春は腕組みをして、うーむと考え込んだ。暫くすると名案が浮かんだとでもいうのか、口元に笑みを浮かべて一礼する。
「千秋様の中学時代の体操服が御座います」
「ラフ過ぎるでしょ!」
千秋はそれを着た自分の姿を思い浮かべて頭痛をおぼえた。すくなくとも、ある特定の部位に関しては二回り程成長しており、人前に出れる格好ではなくなってしまう。
「そうですな。申し訳ありませんが用意したものをお召しになって頂けませんか」
「解ったわよ」
ため息を吐いて千秋はワンピースを手に取った。これではまるで良家のお嬢様ではないか。
「待って」
退室しようとする時春を、千秋はある疑念が浮かんだので呼び止めた。
「時春、もしかして中学時代のスクール水着も」
「勿論、保管しておりますが。それが、何か?」
「捨てなさい、今日中に!」
着替えて朝食を終えた千秋は母親である冴夏の部屋を訪ねた。間をおいて二度ノックをするとと重厚な分厚いドアの向こうから「入りなさい」と許可が下りる。
「おはよう、母さん。ちょっと聞きたいことがあるの」
冴夏は手元の書類に目を落としたまま、娘の言葉にも関心がなさそうに「何かしら」と先を促した。
「……」
千秋はぐっと苛立ちを堪えソファアに腰掛ける。
「お母さん、私はこれから先、どうなるの。日本には帰って来られるの?」
今、千秋の立場を考えれば、母親に対して詰問するような口調になるのも仕方ないだろう。
冴夏は書類から顔を上げ千秋を見つめた。その眼は娘に対して向ける視線では無く、教師が出来の悪い生徒に向ける視線の様な気がして千秋は身震いした。
「訊かないと解らないの。昨日の説明では不足したかしら」
「解りませんね。私はまだ高校生ですから」
千秋の返答に冴夏は溜息を持って答えた。
「本家の春奈を差し出すわけにはいかないでしょう。それに貴方がソロモン機関と共にいれば、私達は戦力を分散させずに本家の警護に専念出来る。それにソロモン機関が私達の能力に探りを入れたとしても貴女なら、どう調べようとそれが解る事は無いというのが〈高天原〉の見解よ」
千秋は太腿の上に置いた手をぐっと握り締める。甘かった。母に肉親の情を期待するのは間違っていた。嘘でもいいから帰れるように努力すると言って欲しかった。
「私には守るに値する価値も無い? 母親の言葉とは思えないんですけど」
「都合のいい時だけ母親を頼らないで。あなたはこの家から出て行こうとしてたのよ」
千秋はソファーから身を起こしてドアに向かった。もうこの母親だった人とは話すことは無い。
「千秋」
冴夏が千秋の背に声を掛ける。千秋は振り返らず、ドアノブに手を掛けたまま立ち止まる。
「冬峰から帝都まであなたに同行したいとお願いされたけど、冬峰はこのまま本家の警護につかせます。昨日、本家を襲ったものと同等の敵が襲って来る可能性は無視出来ません。あなたには朱羅木と青桐の他、数名の護衛をつけるようにするわ」
「お母さん!」
振り返って千秋はドアにもたれ掛かった。脱力感に苛まれて床に崩れ落ちそうになるのを辛うじて堪える。何故、何もかも私から取り上げるのだと叫びたい。
「お母さん、御願い。せめて帝都まででいいから、友達と一緒にいさせてよ」
俯いたまま力無く懇願する我が娘を憐れんだのか、冴夏は視線を逸らして言葉を続けた。
「私の決定じゃないわ。それも〈高天原〉の指示。それに冬峰と親しくするのは止めなさい」
「何故」
「あの子は御門家の備品よ、人間じゃないわ。武器であり道具よ」
千秋は額に手を当てて立ち眩みを堪えた。彼もなのだ。冬峰も私と同じで御門家にとって人間ではないのだ。
「酷い。人を何だと思っているの。御門家が何よ! 〈高天原〉が何よ! 私と冬峰はあなたたちの為に喜んで犠牲になれって言うの」
「そうよ」
間髪入れず冴夏は返答した。その瞳は揺ぎ無く千秋を移している。
「私達御門家は、皇家の為に門を開き、手力を下ろし託宣を行う役目があるの。一個人の幸せを追い求めている暇など無いの」
その時、応接間の中央に置かれた豪奢な木製のテーブルの上で、携帯電話が振動し始めた。着信したらしく表見のディスプレイが「春奈」と表示する。
「春奈、何かあったの?」
冴夏は受話器を耳に当て暫く黙っていたが、急に眉を顰め携帯電話の向こうにいる主に不信感に満ちた問い掛けをした。
「よろしいので? 本家の警護が疎かになってしまいますが」
暫く冴夏は眉間に指を当て沈黙していたが「解りました」と返答すると携帯電話を閉じた。ひとつ、ため息を吐いてから千秋に背を向ける。
「千秋。冬峰の同行が許されたわ。これでいいでしょう」
「え」
「解ったら出て行って。私は忙しいの」
「う、うん」
千秋は応接間を出て後ろ手にドアを閉じた。おそらく春奈が冬峰の動向をお願いしたのだろう。しかし、冬峰はどうやって春奈に同行を許して貰ったのだろう。そして、千秋の胸中にはまだ不安があった。
「何故、お母さん達は冬峰を危険視するの?」
昼前、自室のベッドに腰掛けてぼんやりとする千秋の前に、時春は何時もの様な柔和な笑みを浮かべず、ただ能面の様な無表情で迎えが来たことを告げた。
「そう」
千秋は静かにそれだけ答えると荷物も持たず玄関まで歩を進める。
「お体に気を付けて。私の立場ではこのような事しか申し上げられません」
千秋は苦笑して左右に首を振った。この館で唯一の心許せる存在だった気がするこの初老の執事に文句などあろうはずがない。
「うん。時春も体に気を付けて。長生きしてね」
「はい」
一礼した時春は、千秋が門をくぐり姿が見えなくなるまで頭を垂れたままだった。
そして門の外には昨夜と同じくヘルメットとゴーグルにボディいアーマーを着用して、AK103やバレット五十口径ライフルなどの火器で武装した黒ずくめの兵士達。それが小雨の降る暗い朝に幽鬼の様に佇んでいる。
千秋はその風景が自分の未来を暗示させているような気がして背筋を震わせた。
その黒い風景から赤い人影が浮き出して千秋の前へ歩み寄って来た。確か名はフレアだったかなと、千秋は昨夜の記憶を探った。千秋はその男の持つ雰囲気が、似たような色彩を持つ世界で最も大きい花であるラフレシアと同じく腐臭を放っている様で不快だった。
「ようこそ、御嬢さん。此処からは我々が貴女を帝都まで護衛します。帝都からはソロモン機関の輸送機で本部まで同行して頂きますので安心して下さい」
何を安心しろって? と睨み返す千秋の視線にも動じる様子も無く、フレアは笑みを浮かべて傍らの装甲車を指し示した。
「ごつい……」
「駅前まではこの車両で移動、そこから三手にわかれて帝都を目指します。貴女がどのルートを辿るのか現時点では明かせません。〈K〉の誰かに情報が漏れるのを防ぐためです」
「本人にその気が無くとも、精神を乗っ取られることもあるからな」
不意に背中から掛けられた言葉にフレアと千秋は振り返った。
そこにはグレーの皴の目立つスーツに同色のコート姿の自称ジャーナリストが、ひん曲がったスモーキンジョーを咥えて皮肉な笑みを浮かべていた。右手の「宇都珈琲」と赤い文字で縁取られたラベルの缶コーヒーが異彩を放っている。
「ミスター・フェラン。貴男の役目は終わっているはずですが」
フレアは冷淡ともいえる冷めた口調と視線で、明らかにあなたは邪魔だという態度でフェランを迎えた。如何やらこの赤いソロモン機関の怪人と、飄々とした自称ジャーナリストは反りが合わないらしい。
「まあ、邪険にしなさんな。乗り掛かった舟でね。無事に何事も無く任務が終了するのを見届けたいのさ」
フレアの態度を気にした風も無く、アンドリュー・フェランは咥え煙草のまま無造作にウルフ装輪装甲車に近づいた。気の毒そうにわざとしかめっ面を作って首を振る。
「これ、乗り心地がものすごく悪いんだ。君も大変だな」
「え」
固まる千秋を尻目に後部ドアを開けて勝手に乗り込む。
「さ、君も気にせず乗りなさい」
「それじゃあ、お邪魔します」
これもいつの間にか千秋の傍らに現れた癖毛で何時も眠そうな少年が、ハードケースを肩に掛けて車内に乗り込む。
「……」
フレアは二人を焼き尽くしたい衝動に駆られながらも、持ち前の忍耐力を総動員して笑みを浮かべる。
「君は何しに来たんだね。フェランはともかく、君の同行を許可した覚えは無いんだが」
冬峰はごそごそとジャケットの内ポケットを探って中からクシャクシャに折れ曲がった封筒をフレアに押し付けた。フレアは眉を寄せて封筒の中の手紙を抜き取り眼前に広げる。
「御門家の当主が、僕を同行させないと千秋引渡しは認めないって。そういうことで、ここはひとつ」
「……」
次の瞬間フレアの手の中で手紙が火を噴いた。そのまま灰となってあたりの散らばるのを黒ずくめの男達が息を顰めて見守った。
「さっさと乗り込め。すぐに出るぞ」
当たり散らすかのように周囲の男達へ指示を下すフレアの背中を、フェランはにやにやと笑みを浮かべて見送った。
イスラエル製ウルフ装輪装甲車の七人乗りの車内は、後部座席に千秋を両隣りにフェランと冬峰が腰掛け、中座席にはAK103を携えた二人の兵士が腰掛けた。助手席の兵士は車内での取り回しを重視したのか、折り畳みストックを備えたAK103を胸前に構えている。
「おはよう」
生欠伸を隠そうともせず冬峰は背中のハードケースを膝上に移して挨拶をした。
「おはよう。その」
千秋も挨拶を返すが何かを言い掛けて思い直したように口を閉じる。
「冴夏伯母さんに止められなかったか、だろう?」
千秋は頷いた。今朝の冴夏との会話から冬峰は帝都まで同行出来ないはずだ。
「でも当主の春奈さんが許可したなら話は別なんだ。春奈さんの警護は朱羅木と青桐さんが引き続き担当するよ。朱羅木は俺が本家を離れるのを止めるわけはないし、青桐さんは……」
冬峰の言葉が途切れた。冬峰の脳裏には冬峰が本家を出る時に、見送りに出た春奈と青桐のやり取りを思い出していたのだ。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい。千秋ちゃんをよろしくね」
春奈は微笑んで冬峰に近寄った。ぎゅっと背中に手を回し冬峰を抱擁する。
「守ってあげてね。あの子は冬峰さんしか味方はいないかもしれないから」
「……それはどうかな」
えっ、と見上げる春奈に冬峰は苦笑する。
「春奈さんや紅葉、夏憐ちゃん、青桐さんも千秋の味方でしょう。違うかな」
冬峰の問い掛けに春奈の表情が明るくなる。
「はい、そうですね。そうですよ」
冬峰は春奈の傍らに立つ青桐へ視線を移した。黒スーツ姿の男装の麗人はサングラスを外して冬峰を見返す。
「青桐さん、春奈さんをお願いします。済みません、俺の我儘で春奈さんの護衛を抜けて」
- Re: 天門町奇譚 ( No.23 )
- 日時: 2020/07/21 23:19
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
頭を下げて謝罪する冬峰に、青桐は首を左右にってそれを止めた。
「私こそ冬峰様に礼を言わなければなりません。私と朱羅木は昨晩の襲撃に役に立たず、春奈様と冬峰様に助けられる為体を見せてしまいました。それなのに引き続き冬峰様の推薦で春奈様の護衛を任され、汚名返上のチャンスを頂いている。何とお礼すれば良いのか」
青桐には解っていた。本来、当主としての実力を持った春奈に護衛は必要ないのだ。何しろ御門家最強の存在は彼女なのだから。そして昨晩の敵の実力から、それに狙われる千秋に同行する冬峰こそ、命を落とす危険性の高いことを。
「青桐さんには紅葉も夏憐ちゃんも懐いているからね。勿論、春奈さんも、ね」
「そうですよー」
ぎゅっと背後から春奈の抱きしめ攻撃が青桐に掛けられた。
「頼りにしてますよ。青桐お姉さん」
「青桐、お姉さん……」
呆然と青桐は呟くと、いきなり体を痙攣させて首を垂れた。
「……」
「……」
顔を見合わせる冬峰と春奈。
「青桐さんどうした」
「青桐さん、しっかりして」
「……私、天に召されていいです」
白目を剥いて譫言を呟く青桐を見下ろして、冬峰は内心、これで良かったのだろうかと、今更ながら首を傾げるのであった。
「……まあ、大丈夫だろう」
「何、その沈黙?」
冬峰は千秋の右隣に腰掛けたフェランに視線を移した。ちなみに冬峰が千秋の右隣に腰掛けたのは、右側に腰掛けると車内で長脇差を抜刀する際、右手がドアに当たり刀身が鞘から抜けきらないからだ。
「あんたは何故、関わり続ける?」
フェランは短くなったスモーキンジョーを、手にした宇都コーヒーの空き缶に放り込んで顔をしかめた。
「苦過ぎるな。このコーヒーは一缶飲むと舌の感覚が無くなるんだ」
「私、その珈琲を飲んでる人、初めて見たよ」
「そうだな。あんた凄いな。普通は一口飲むとむせるから、そのまま放置されてるんだ」
「変な戦闘服を着たむっつりした店員に押し付けられてな。一本五拾円にだから1ダース買ってくれって。今更ながら後悔しているよ」
「それで、何で関わり続けるんだ? まさかコーヒーを配りに来たんじゃないだろ」
冬峰は車外から聞こえる護衛のごほごほとむせる音を無視して再び問い掛ける。
「性分でね。途中で放り出すことが出来ないんだ」
フェランは苦笑を浮かべて宙を仰いだ。何かを呟いたが冬峰には聞き取れなかった。
ウルフ装輪装甲車のⅤ8六千CCディーゼルエンジンが低く唸り、車体がゆっくりと動き始める。その前後を挿んだRAM2000偵察装甲車もM2重機関銃で周囲を睥睨しながらゆっくりと走り出した。
「さて、長い旅の始まりだ。何事も無く帝都に辿り着ければいいが、まあ、無理だろうな」
「悲観的だね」
「経験上、世の中に過度の期待をすることを禁じているからな。君はどうなんだい。何事も無いと思っているのかな」
「……」
来るだろう。冬峰はそう確信している。
フェランの言葉を信じるなら、千秋の価値は〈K〉の不死の代行者自らが乗り込んで来る程重要らしい。そして別組織の不死の指導者も乗り出している。
正直、あの不死の指導者レベルの相手を相手にしてもう一度撃退出来るかどうか問われれば、冬峰は「判らない」としか言いようがない。一度目は相手が油断しており滅ぼすことが出来た。二度目は3人掛かりで何とか撃退した。それに昨晩、黄衣の王に召喚されたらしい異形の物だが、あのレベルが相手だとどうしようもない。
「なあ、自称ジャーナリスト」
「なんだね、むっつり坊主」
「……」
「……」
千秋は自分を挿んで意味ありげに沈黙するのは止めて欲しいと身を小さくした。
「昨晩の巨大モップ。あれは何だ」
「巨大モップか。まあ、あながちハズレではないな。人類を根こそぎ掃除する点については大当たりだ」
面白い事を聞いたとフェランは目を細めた。そうか、彼等にしたら俺達は埃以下の存在だろう。俺が今、こうして抗っていることも、彼等にとってはどうでもいい事かもしれん。
「あれが俺達の戦う相手、旧支配者と呼ばれる異世界の生物、いや、神様だ」
「パルプ・フィクションの神様だろう。ラブクラフトの小説が事実だっていうのか」
「私も聞かされた時は、相手の正気を疑ったがね。ラブクラフトは何らかの理由により彼等の存在を察知して、小説という媒体を使って彼ら人類に警鐘を鳴らした。それが早逝する原因となったがね」
フェランは背もたれに身を沈め宙を見つめた。その眼には生きることに疲れた老人に似たような倦怠が浮かび冬峰の眉を顰めさせる。
「マサチューセッツ州アーカム。その地で彼等旧支配者の存在を知ってから、私はずっと彼等と戦ってきたんだ。仲間は教授以外、いなくなってしまったけどね」
「……」
「……」
フェランは黙り込んだ冬峰と千秋様子を見て、これはいけないと思ったのか、急に何時もの悪戯っぽい笑みを口元に浮かべ首を振った。
「でも教授。あの爺は絶対長生きするな。実際、長生きしてるし。日本の諺で憎まれっ子世に憚るってのを聞いた事があるんだが、あれは教授の事に間違いないな」
フェランが腕組みをしてうんうんと頷く。その様子に千秋は呆れたような視線を向けた。
「それは、あなたの事も含まれてますよ」
「ええ?」
冬峰と千秋は心外だと宙を仰ぐフェランを呆れたように眺めた。千秋はこの飄々とした自称ルポライターを当初は胡散臭い男だと敬遠していたが、今では冬峰を除く御門家ゆかりの物より信頼出来るのではないかと思い始めている。
彼は何故、昨夜本家に現れた「モップの化物」や弾丸で撃たれても平然としている怪人と幾度も戦って来たのだろうか。きっと失くした仲間同様、自分自身も何度も死にそうな目にあったに違いない。ただ、戦う理由を尋ねても、この男は素直に話してくれない。そんな気がするのだ。
そして従弟の冬峰も考えてみれば胡散臭いったらこの上ない。フェラン同様危ない目に合ってるというのに、何の気負いも無く平然としている。普通、こんな非常識な事に巻き込まれれば喚くだけの存在となってもおかしくないのに、むしろアルバイトのときより活き活きしているようにも見えなくも無い。
その彼を私は救ったことがある。彼はそう告げたのだが、千秋にはその記憶は無い。
ただ、昔、孤独に見えた彼が自分の同類に感じられて話し掛けたことがあったようなきがする。それはいつだったのか。
千秋が遠い記憶を手繰り寄せようと目を閉じた時、急に甲高いブレーキ音が響いて千秋の身体は前方へ投げ出されそうになり、両側から伸びた手がその体を支えて止めた。
「何があった?」
フェランは座席から腰を上げ車外へ出ようと後部ドアの取っ手に手を掛けるが、正面の座席に腰掛けた兵士の構えたAK103の銃口がこめかみに突き付けられた。
両手を肩の高さまで上げて抵抗の意思の無い事を示したが、兵士は銃口を振って席に着くよう促してくる。冬峰と千秋にも銃口が突き付けられ動かないよう威嚇してくる。
「はいはい、大人しくしてますよ」
すごすごと座席に戻ろうとしたフェランだったが、ウルフのフロントガラスから目にした光景に表情を険しいものとした。冬峰も顔を上げ聞き耳を立てる様に目を閉じる。
「この足音、まさか、な。これは拙いぞ」
フェランの言葉が終わらぬうちに、フェラン達の乗ったウルフの前に停車したRAM2000偵察装甲車がいきなり宙に浮き、ウルフの後方へ放り出されたのだ。
地面に激突するRAM2000の断末魔と重なるようにして響くM2重機関銃の50口径弾が咆哮する。その火線に晒されるものを目にした千秋は両手で口を覆い目を見開いた。
天門町駅手前まで四〇〇メートル程の片側二車線道路の中央に、アスファルトを突き破って地面から現れた大蛇の様なものが、のたくりながら装甲車を薙ぎ払い、もしくは宙に吹き飛ばして蹂躙しているのだ。
その悪夢の中でしか見ることのないであろう光景に、道路の左側に面したこの町唯一の総合病院である「御門病院」の病棟の窓からは入院患者の上げる驚愕の声がひっきりなしに響いていた。
「何よ、これ」
装甲車から脱出したものの、その太い丸太のような胴に押し潰される兵士を目撃して千秋は目を閉じて顔を伏せる。
銃機関銃では埒が明かないと悟ったのか、数台のRAM2000からBGM71 TOW対戦車ミサイルが放たれ、白い尾を引きながら大蛇へ突っ込んでいく。
その胴や周囲の地面に着弾したミサイルは、爆音と衝撃を周囲に撒き散らしつつ赤黒い炎で大蛇を蹂躙する。この攻撃にはこの大蛇も痛手を被ったのか身を捩り乍ら自らが表れた穴に引き戻り姿を消した。
兵士達は暫くその太く長い胴の消えた地表の穴を見つめ警戒していたが、一分ほど経過して脅威は去ったと判断したのか銃口を下ろして互いの顔を見合わせた。取り敢えず生き延びた。フェイスガードで表情は窺えないが、彼等はそう思っているに違いない。
それが束の間の希望だったと知るのは、一斉に地面を突き破って出てきた先程の大蛇の様なものに囲まれた時だった。
跳ね上げられ錐揉み落ちる装甲車や兵士達。
フェラン達のウルフは撥ね飛ばされなかったものの、林立する大蛇の様な触手に前後を塞がれ身動きが取れない状態であった。
「君も聞こえるようだな。巨大な原形質の何かがたてる足音を」
苦笑を浮かべて冬峰を振り返るフェランの口元が僅かに引き攣っているのは、その足音を立てる何かが自分達にとって脅威以外の何物でもない事知っているからか。
ウルフの後部ドアが開かれ、赤毛の男、フレアが顔を覗かせた。
「降りて下さい。駅前まで走って逃げますよ」
その背中へ向かって伸びてきた触手がいきなり炎に包まれ、のたうちながら地面に吸い込まれていく。どうやら痛覚は備えている様だ。
「初っ端からこれだと、これから先何があるか解らないな」
呆れたようなフェランの言葉にフレアは眉を不快そうに痙攣させたものの、反論もせずさっさと降りるよう顎をしゃくった。
「千秋」
冬峰の差し出した手を取って座席から立ち上がった千秋は、車外の惨状を目にして足をすくませた。
ある兵士は胴に触手が巻き付いた状態でそのまま押し潰され、また別の兵士は触手が尻から頭まで貫通して串刺し状態で宙に浮いている。宙をうねる触手に発砲するものの、何ら痛痒を与えた様子も無く次々に捻り潰され、吹き飛ばされ、蹂躙される一方だ。
「私が道を作りますから、貴方達は脇目を振らずに走り抜けて下さい。いざという時は兵士たちが盾となります」
千秋はウルフに同乗した黒衣の兵士達の様子を窺ったが、彼等にとっては当たり前の事なのかそのフェイスガードの奥にある表情を読み取ることは出来なかった。
「伏せなさい」
フレアのインバネスコートの合わせ目から無数の赤い紙片が宙を舞い、空中で紙飛行機に折り曲げられて触手の林に向かって突き進む。その光景だけ見れば子供向けの幻想夢だが、それの生み出される源はこの世の理から外れた者達が闊歩する世界だ。
爆炎が膨れ上がり、オレンジ色の光景の中大蛇が暫く奇怪なダンスを踊った後、不意の動きを止めて項垂れる。その傍らには巻き込まれた兵士や装甲車吾黒く変色した屍を路上に晒しているが、それを気にした風も無くフレアは背後の千秋達を促した。
「今、奴が怯んでいるうちに通り抜けて下さい。振り返ってはいけませんよ」
「行くぞ」
フェランを先頭に千秋、冬峰、同乗していた兵士の内二人が続く。
「食べてろ」
フレアは冬峰が傍らを通り抜け様に放って寄こした何かを左手で受け取る。
「……」
ラップに包まれたそれはバケットにベーコンと溶かしたチーズ、レタスを挟み込んだサンドイッチだった。おそらく昼食用に作っておいたのだろう。
苦笑してインバネスのポケットにそれを突っ込み、遠ざかっていく背中を見送る。
「すまないな。君のこれからは、今以上に僕等を憎むことになるんだから」
フレアの耳に地下から這い上がって来る何かの足音が響く。それは徐々に大きくなっていき、遂に臨界へ達する。
「退避しろ。それが不可能なら決してこれから出てくる物の姿を見るな」
背後の兵士達へ指示を飛ばすが、フレアにはそれがもう遅い事が解っていた。
アスファルトを割って地表に現れたそれは、その存在の放つ気配のみで周囲を混乱に陥れる。
全長二十メートルの巨体を晒したそれは、緑色の半透明の鱗に覆われたの体表に不気味に蠢く内臓器官を覗かせ乍ら、蛸に似た頭部の下半分に這えた無数の触手を伸縮させて周囲を睥睨した。
もし冬峰が振り返ったなら、現れたそれが深夜の校舎にて死闘を繰り広げた〈不死の指導者〉に呼び出された異形の物達に類似している事に気が付いただろう。
それは巨大な鍵爪の生えた後ろ足で身を起して、ひとつだけ吠えた。
大気を震わす振動と共に周囲の病院をはじめとする建造物の窓ガラスが割れる。
いきなり現れた異形の物の足元でソロモン機関の兵士達は、その巨体にたじろぎ退却しようと踵を返すが、再び現れた触手により、突き刺され、弾き飛ばされ、巻き潰されていった。
異形の物は顔下半分に這えた触手で兵士達を蹂躙していたが、不意に思い出したように数本を別方向へ向かわせた。
冬峰の背後で苦鳴と濡れた雑巾を絞るような音が響き、彼は足を止めて振り返る。
彼の眼前に突き出されたのは、触手に巻きつかれて捻られ、血と肉を滴らせた文字通りぼろ雑巾となった二人の兵士であった。手と足をあらぬ方に曲げて開いた口から舌をだらんとはみ出させた姿は、気の弱い者なら卒倒する気味悪さだった。
異形の物にも嗜虐心があるのか、冬峰に見せつける様に上下に振られ手足を震わす。
さらにその背後から触手が迫る。冬峰の無反応を、怯えて身動き出来ないと判断して巻き取るつもりなのか。
宙に血煙が花を咲かせた。
二人の哀れな兵士の胴体諸共に、抜き出した長脇差で触手をぶった切って冬峰は異形の物を見上げた。何の感情も無く只々見上げるだけの行為。
巨獣と目が合い、他の触手が一瞬だけ戸惑ったように動きを止める。
「まさか、怯えた?」
フレアは異形の物の目に不可解な雰囲気を見たような気がして疑問を浮かべたが、それよりこの一瞬を好機として己の術を展開させた。
フレアの赤いインバネスから次々と、これもまた赤い葉書サイズの紙が宙を舞って異形の物に纏わり付く。
それは異形の物の周囲を旋回しながら、その赤い竜巻が異形の物の姿を覆い隠すまで数を増していった。
「焼き尽くしてあげましょう」
ガス爆発の様な音と衝撃と共に渦巻く業火の柱となった異形の物の姿を、フレアはインバネスを叩く熱風を気にした風も無く不敵な笑みを浮かべた。
「わざわざ、こんな辺境まで出張って来なければ滅びることも無かったろうに。同情するよ」
燃え盛る炎柱と化した異形の物に背を向けて背後の部下に部隊の再編と護衛任務の継続を命じようとしたが、彼等が低く呻いて後退ったのに違和感を覚えた。
「何を……」
燃えて崩れているであろう異形の物を振り返ったフレアは目を見開いて言葉を飲み込んだ。
異形の物を包む炎は徐々にだが勢いを失くし、代わりに蒸気が霧となって辺りを漂い始める。
「あの炎を打ち消している。奴は水を自在に操るのか」
遂に火の勢いが己の爪先程度になった時、異形の物はその前足で踏み躙って完全に跡形も無くしてしまった。
何処からか怒号が上がり対戦車ミサイルやM2重機関銃、対戦車ライフルが異形の物に放たれるが、それは相手を仕留める為の攻撃より、予想される結果を少しでも遠ざける為の悪あがきであることを、引き金を引き続ける兵士達は理解していた。
兵士達を睥睨する異形の物の眼前に、何かが輝き渦を作っていた。それは地面から次々に浮き上がり渦を大きくしていく。
兵士の一人が指に触れたそれの名を口にした。
「水?」
塊となって渦を作るそれは、いきなりらせん状に形を変えて無駄な抵抗を繰り返す兵士達目掛けて突き進む。
「下がれ」
フレアが先程の赤い紙を数枚中に放ち、渦の前方に壁を作る。
激突する渦巻と業火。
その炎はほんの刹那、渦巻の進行を留めたが千地に千切れて跡形も無く消え失せてしまう。
両腕を眼前で交差させたフレア諸共、ソロモン機関の兵士や車両を飲み込んだ大渦は明日タルトを抉り、病院をはじめとする周囲の建造物を直径五十メートルに渡り倒壊させたのだった。
天門町駅前のイタリア広場を横断していた千秋は背後からの轟音に足を止め振り返ろうとしたが、冬峰が視界を遮るように両肩を掴み「急ごう。今は此処を離れるのが先決だ」と前方へ押しやった。
千秋の視界に「ラ・ベルタ」の黒い木製のドアが入った。何時も流れるジャズやシャンソン。珈琲の香り。あり得ない事だが怠け者のマスターが珍しく早朝に起きていて、自分と冬峰の為に珈琲を淹れて待っている。そんな風景を千秋は想像する。