二次創作小説(新・総合)

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天門町奇譚
日時: 2020/07/19 13:49
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

   序 異界侵食

 まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
 商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
 午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
 芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
 何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
 外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
 なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
 この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
 この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
 最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
 雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
 息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
 息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
 下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
 父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
 父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
 八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
 その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
 だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
 二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
 連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
 別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
 三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
 何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
 直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
 中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。

 しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
 ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
 いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
 直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
 そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
 それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
 しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
 先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
 直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
 数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
 直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
 現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
 その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
 またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
 この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
 発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
 千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
 今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
 自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
 駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
 しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
 芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
 それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
 それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
 芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
 屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
 すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
 いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
 もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
 ごぽっ。
 背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
 ごぽっ、がぱっ。
 何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
 ごぽり、
 芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
 マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
 前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
 ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
 悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
 成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
 それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
 三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
 だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.24 )
日時: 2020/07/22 00:30
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 空気を震わす轟音が立て続けに鳴り響き、それから逃れる様にフェラン達は駅構内に走り込んだ。改札口両脇のソロモン機関兵士が三人にAK103の銃口を向けるが、三人が誰か気付くと銃口を宙に向けて、手で改札口からホームへ続く階段を上がるように指示する。
「後続の二人は」
「死んだ」
 兵士達の問い掛けに冬峰も簡潔に答える。またそれ以外の答えを冬峰は思い付かなかった。
 階段を駆け上がりホームに出た冬峰は、停車している車両を目にして眉を顰めてフェランを振り返る。これに乗るのかと視線でフェランに問い質す。
 フェランも苦笑を唇の端に浮かべてその無骨な車体を仰ぎ見る。
 それは正しく鉄の箱だった。
 装甲板付きの客室と十四・五ミリ機銃のついた貨物室。貨物として載せられて火を噴いている百十ミリ戦車砲。急ごしらえなのか発砲する度に台車が嫌な音を立てている。
「装甲列車とは、また仰々しいものを用意したな。これで上田まで出て、新幹線で帝都まで移動するのか」
 呆れたように声を上げるフェランの背を兵士の持つライフルの銃口がつついた。
「早く乗れ。怪物がこっちに来る前に離脱する。奴は幾ら打ち込んでも傷が塞がるんだ」
 またもや轟音。異形の物に突き刺さった榴弾はぶちょんと間の抜けた音と共に異形の物の体内に入り込んで破裂するが、緑色の体組織を僅かに押しのけるのみで、その傷はすぐに別の組織が流れ込み塞いでしまうのだ。
「弾の無駄だ。街ごと爆撃しても奴には効果は無い。こちらの世界の武器では角でも持ち出さない限り奴等に痛打を浴びせることは出来ないんだ」
 その核の威力を以てしても旧支配者に痛打を浴びせることは難しい事をフェランは知っている。
 1両しかない客室には二人掛けの座席が左右に三列並んでおり、その真横の窓は銃眼(ガンボート)らしき小さい穴の開けられた装甲板で塞がれて野外の風景を見辛くしている。
 左側の三列はソロモン機関の兵士が既に腰掛けており、銃眼からAK103の銃口を突き出して異形の物を牽制していた。
「何か、圧迫感があるよね」
 列車が動き出したので千秋と冬峰は右側三列の真ん中に腰掛けて、フェランはその背後の席にもたれ掛かった。千秋にとって武骨な固いシートは座り心地が悪く、これで長時間移動することは願い下げしたかった。
「早く出せ。追い付かれるぞ」
 銃眼から外を窺っていた兵士が運転室のある前方の車両に怒鳴った。千秋達には見えないものの、あの巨大な怪物は駅まで近付いているようだ。
「日本のテレビで巨大な爬虫類と戦う銀ピカの巨人を見たんだが、あれはいったい何だろな」
 今の状況などどうでもいいのか、それともすでに諦めているのかフェランは後ろの座席から独り言のように呟いた。
「まさか、それに助けを求めろとか言わないよな?」
「出来る事なら、そうしたいねぇ」
 コートのポケットから黄金色の液体が揺れるガラスの小瓶を取り出す。いちかばちか、これを使うしかあるまい。問題はハスターの眷属までこの一件に関わっている以上、助けが来ないかもしれない。最悪の場合、千秋諸共、ハスターの虜囚になるかもしれない。
 ディーゼルエンジンの低い唸りと共に装甲列車の窓から覗く街並みが後方へ流れ始めた。
 加速した装甲列車はその重量感あふれる外観とは裏腹に、轟音を鳴り響かせながら線路を走り駅のホームから離れて行く。
 異形の物の口元から伸びた触手が最後部の貨物車に届くより早く、百十ミリ戦車砲が鳴り響き触手を押し戻す。
 どんどん小さくなっていく異形の物に銃眼から外を警戒していた兵士達が歓声を上げる。
「何とか逃げきれそうな気がする」
「奴はそんなに甘くないよ。来るぞ」
 冬峰の希望を打ち消す様にフェランの声が険しさを帯びた。
 異形の物が前足を前に突き出して低い唸り声を上げる。再び前足の間に水蒸気が集まり渦を巻いて徐々に大きくなっていく。
 ソロモン機関の兵士達を一掃したあの大渦に、この装甲列車は耐えれるのかどうか。この列車が耐えられたとしても、搭乗者は車内に叩きつけられて無事では済まないだろう。
「拙いな」
 異形の者から離れるしか助かる術を持たない冬峰達は、その一撃が放たれる瞬間をただ待つ事しか出来なかった。千秋が祈るように両掌を組み合わせ顔を伏せる。
 一条の光線が宙を裂き、異形の物の右前脚を貫いた。黒煙を上げると同時に渦がちぎれて消え失せる。
 異形の者が邪魔された行為を糾弾するように吠えて、光線が発射された方角へ首を巡らせた刹那、第二射が異形の物の右目に突き刺さった。
 撃ち抜かれた右目から火花が奔り、異形の物を一歩退かせた。
「あれは〈火水鳴り)の狙撃。朱羅木か」
 冬峰は異形の者を撃ち抜いた者が誰なのか、瞬時に解ったようで苦笑交じりに呟いた。きっと朱羅木は千秋を助ける為、仕方なく狙撃したのだろう。窮地に陥ったのが冬峰一人だけならば、これ幸いと逆に冬峰を撃ち抜いたに違いない。冬峰はそう確信している。
 駅前から五百メートル程離れた団地の屋上で、「あの役立たずが」と朱羅木は毒ついて顔を顰めた。
 昨晩の本家での死闘の際、右肩を負傷してしまい愛銃の九七式を構えるだけで激痛が奔るのだ。朱羅木は、もし体調が万全ならあの忌々しい冬峰クソガキも第三射目で始末してやったのにと、心の底から残念がった。
「ヘッドショットもそれ程効果は無いようだね。でも千秋さんは逃げおおせたから良かったとするか」
 伏せた朱羅木の傍らで青桐は、双眼鏡を片手に千秋の乗った装甲列車が異形の物から逃げおおせた事を確認していた。
「あの化物を撃退するのは、この街全体を陣地にするぐらいの用意が無いと無理だな。それでも滅ぼせるかどうか。おや?」
 青桐が挙げた声に朱羅木も異形の者へ視線を移す。
「……消えたのか」
「地面に吸い込まれるようにね。どこに行ったんだろう」
 青桐は双眼鏡を目から放すと、もう用は無いなとでもいう様に踵を返した。
「さて引き上げようか。もう私達に出来る事は無いしな」
「昨晩もだが、奴等はかなり手強いぞ。ソロモン機関は千秋様を守り切れるのか」
 朱羅木の言葉に青桐は気難しい相棒を振り返ってにんまりと人の悪い笑みを浮かべた。
「心配かい?」
「同情はしている」
 朱羅木は己の声音に苛立ちが含まれているのを自覚せざる得なかった。千秋が生まれると共に時春から分家の警護を命じられ、千秋の成長を見守って来た。幼い頃から役立たずと叱責され続け、常に本家の春奈と比較される。そんな彼女が分家を出て独り暮らしを始めた時は、これで彼女の鬱屈した思いも少しは晴れるだろうと胸を撫で下ろした。
 それに引き替え、千秋の今の境遇を作った赤子は冬峰と名を与えられ、本家で現当主のお気に入りとなって、のうのうと暮らしている。
 高天原が何を考えているのか、ソロモン機関への千秋の引渡しは帝都の皇や御門本家の利益となるに違いない。しかし、それでもその取引として人身御供となる千秋が朱羅木にはとても哀れに思われるのだ。
 次第に小さくなっていく装甲列車に朱羅木は願わずにはいられなかった。せめてこれから先、帝都までの旅路が平穏で終わってくれと。
「朱羅木さんが助けてくれたの?」
 千秋は姿を消した異形の者が何処へ行ったのか、装甲列車の銃眼から外を伺いつつ冬峰に訊ねる。
「そうだね。千秋の味方は結構いるんだよ」
 冬峰の返答に背を向けたまま千秋は別の疑問を口にした。
「ねえ、これから先、またさっきの様な怪獣みたいなのが出てくるのかな」
「それは、解らないな」
 答えるフェランもこれから先、無事に何事も無く帝都に辿り着くことを願っているが、あくまでもそれが根拠のない希望だということを知っている。
 この少女を狙う異形の神々の眷属は、フェラン自身がこれまで戦ってきた経験や書物での知識から、このような装甲車の車内にも容易に入り込む異能力を備える物達がいるらしい。
 特にティンダロスの魔犬と呼ばれる怪物は、ありとあらゆる角度のついた場所から現れる能力を有しており、その追跡を防ぐことは不可能らしい。
 ジェット機やヘリコプターの航空機も、星間飛行を可能とするハスターの下僕であるバイアクヘーの前には太刀打ち出来ず、あっさりと捕捉され彼等の本拠地に連れ去られるであろう。
 この逃避行で無事に帝都へ辿り着けるのか。着けたとしても犠牲はどれ程のものとなるのか。その犠牲が人類全体にとってほんの僅かだとしても、かっての仲間達を世界の救済のために失ったフェランは必然のものと受け入れることが出来ないのだった。
「君ら二人共、お守りの石は忘れずに身に付けているだろうな」
「これ?」
 千秋が純白のワンピースの上に羽織ったベージュ色のジャケットの内ポケットから、フェランに初めて出会った晩に渡された直径一〇センチ程の石を取り出した。表面に五芒星の模様が刻まれている。
「そうだ。それを持っていると深き者共や、トウチョトチョ人といった奴等の下僕は近付いて来れないから失くさず持っているように。で、君は?」
「紅葉って本家の子に、お守り代わりに持たせた」
「……」
 フェランは黙って冬峰の顔を見返した。茫洋と己の顔を見返す少年に対して説教のひとつでもしてやろうかと思ったが、ふとこの少年の戦いぶりを思い出して憮然とした。
 彼がこれまで相手にしたのは、クトゥルーの不死の代行者や黄衣の王といった五芒星の石など役に立たない相手であり、その死闘を生き残った彼にとってはフェランの助けなど必要ないのかも知れなかった。
「まあ、いいか」
 ひとつ呟いて固い列車のシートにもたれ掛かる。先は長い。この少年については解らない事が多いが、千秋君を守ろうという姿勢に嘘偽り無いだろう。今は次の〈K〉達や邪心の襲来に備えて少しでも身体を休めておこう。そう思い直してフェランは目を閉じた。
 天門町から帝都へ向かうには、しなの鉄道をこの装甲列車で軽井沢駅まで移動。そこから北陸新幹線に乗り換える。軽井沢駅まではこの装甲列車はノンストップで走る為、部外者は乗り
込めない。また軽井沢駅以降の北陸新幹線も千秋の乗る車両は号車ひとつを丸ごと押さえており、部外者の侵入を防いでいる。注意すべきは駅構内での移動時であり、それには装甲列車の乗員がそのまま警護に当たり、新幹線の車内まで同行する。
 しかしソロモン機関の兵士達は、フレアや彼等の上司から旧支配者の眷属相手に絶対という保証が無い事を教え込まれており油断などしてはいないのだが、大半は現在南の海洋から上陸してくる深き者共しか相手にしたことが無く、天門町駅前に出現した異形の怪物など遭遇したのは初めてだろう。
 それゆえ、「それ」を目にしたとき装甲列車の操縦をしていた兵士は「それ」が何なのか解らなかった。
 彼が気にしていたのは天門町から隣り町へ抜ける際に千川を横断する高さ十五メートルの陸橋を渡らなければならない事であり、その陸橋が古く、この装甲列車の車重に耐えられるかどうか心許なかったことだ。
 だから走行速度を落として、列車の前方上空を漂っていたシャボン玉の様な透明の球体に目にしても、それが異常事態だと認識出来なかった。
 そのシャボン玉らしきものは次から次に現れて、最初のひとつに結合して半透明の虹色に輝く巨大な葡萄と化した時も、それが何なのか危険な物なのか判断出来ず、車内への警告も出さなかった。
 その巨大な葡萄から球体のひとつが離れて漂い、装甲列車の屋根へ当たって弾けても、運転手は目で追うだけだった。
 その眼が驚愕に見開かれたのは、その球体が接触したと思われる場所が赤茶色に変色して崩れ始めたからだ。穴が開き次第に大きくなっていく。
 彼が異常と感じてブレーキハンドルを捻ったのは運転席の屋根が塵と化して消失して、正面の強化ガラスが変色して捻れ崩れている時だ。
「逃げ……」
 振り返り背後の兵士達に警告しようと身体を捻ると、何かが鈍い音を立てて自分の掌について来た。手の中のそれは崩れかけたハンドルの取っ手であり、手を開くとそれは割れて指の間から零れ落ちる。それと共に己の掌の表面に湿疹が出来たように泡立ち、それが鳳仙花の種が弾かれるように割れて中の肉と骨が覗いたとき彼は悲鳴を上げようとした。
 しかし背後を振り返ったのは肉が剥がれて崩れ落ちた人体骨格のオブジェであり、それも運転席と共に崩れ落ちる。
 武骨で見る者に圧迫感さえ感じさせる装甲列車は、その印象とは異なり静かに運転席から赤茶色に腐食して塵となり崩れていく。その浸食する速度は意外と早く、運転席後ろの座席に腰掛けた兵士達はその異常に気付かないまま錆と接触して、運転手同様に身体を崩壊させ塵となて消え失せた。
 その崩壊はフェラン達の搭乗した客室の車両まで及び始めていた。
 急なブレーキにフェランはつんのめって危うく向かい合わせの座席に顔をぶつけそうになり、手を前について辛うじて堪えた。
 千秋はお守りの石を手に持ったまま半ば眠りの園へ旅立っていたが、急停止の反動に驚いてお守りの石を手放してしまった。千秋は対面に腰掛けた冬峰が倒れかけた身体を受け止め事なきを得たが、お守りの石は座席の下を転がり見えなくなってしまう。
「ふ、冬峰……あ、ありがとう」
 千秋は受け止められ密着した身体を慌てて引き剥がしてから、上気した顔を見られたくないのか俯かせて礼を口にした。
「何か、あったのか?」
 当の冬峰はそんなことは気にした風も無く運転車両に続くドアへ目をやり、傍らに立てかけた長脇差へ左手を伸ばした。鞘に付けられたベルトを袈裟掛けにして左脇に長脇差を固定する。
 運転席のある先頭車両へ通じるドアも鋼鉄製でその扉の向こうを覗けるガラスは備えておらず、向こうがどうなっているのか解らない。
 不意に先頭車両に通じるドアが開き、五、六人の兵士が倒れる様にフェラン達のいる客室に雪崩れ込んで来た。
「お、おい」
 フェランは先頭車両と客室の境目に倒れ込んだ兵士達へ近寄ろうと足を踏み出したが、彼等の背後の光景に表情を凍りつかせて歩みを止める。
 それは先頭車両がほぼ崩れており、車外の風景が覗いていることに驚いたわけでもなく、装甲列車の先頭車両同様にそれを支える陸橋が塵となり崩れていくことに逃避行の失敗を悟ったわけでもない。何時も飄々として普段から余裕を持った笑みを浮かべている彼が血の気を失った表情で固まっているのはその崩壊しつつある先頭列車の上空に浮遊するあるものを己の視界に納めたからだ。
 それは虹色に輝く球体の集まりで、その不規則に輝くそれは何処か禍々しさを感じさせた。その宙に浮く巨大な葡萄の様な何かを、フェランは身体を震わせて凝視している。
「まさかヨグ・ソトース。時空を超え何故ここへ」
「ヨグ・ソトース?」
 冬峰がその名を繰り返すが、フェランはその虹色の球体、ヨグ・ソトースが今ここに現れた事に驚愕を隠せなかった。彼はこれまでそのヨグ・ソトースを実際に目にしたことは無く、彼の指導者であった教授から聞き及んでいた特徴と、その所有していた書物に記された外観に符合したからだ。それが今迄自分が闘ってきた連中の信奉する大いなる〈K〉すら凌駕する恐るべし存在であることも聞き及んでいた。
 そんな存在が目前に脅威として立ちはだかっている。一体、この一件は、千秋達はそれほどまでに重要な存在なのか。
 フェランは短い悲鳴に我に返り、倒れ伏している兵士達へ視線を戻した。
 数名は体勢を立て直し客室へ逃れられたが、下敷きになっていた兵士が立ち上がる寸前に腐食していく床に追いつかれ再び体勢を崩した。軍用ブーツの靴底から茶色く変色して肉が剥がれ崩壊していく。悲鳴はそれを目にした千秋のあげたものであり、その響きが消えると共に、その哀れな兵士も仰け反るようにして宙へ跡形も無く散っていった。
「おっさん、早く逃げろ」
 千秋の手を取って最後尾の火器車両へ走り出した冬峰を追ってフェランも駆け出した。客室の左右に外へ出るドアは無く、その左右の窓は鉄板により補強されて開かない。最後尾の戦車砲の下に車外へ出る搭乗口があり、そこから避難するしかない。
 ぐらり、と足元が傾く。
停止した装甲列車を支える陸橋も崩壊しつつあり、急がないと装甲列車の車内に閉じ込められたまま十五メートル下の千川へ死のダイブだ。フェランとしてもそんな事態は避けたい。
 何事かと百十ミリ戦車砲の銃座から砲手ガンナーが顔を出した。逃げる兵士の一人が何やら早口で捲くし立てるが、信じられなかったのか半信半疑といった表情で客室へ向き直り、数瞬後、青ざめた表情で銃座を下り車外へ通じる搭乗口を解放した。客席の半ばまで消失しており、最後尾の火器車両へ崩壊が及ぶのは時間の問題だった。
「橋を渡り切るのは無理そうだな」
 冬峰は千秋の手を取ったまま装甲列車の車外へ出て、ほぼ中央から崩れつつあるりっきょうへ降り立った。思いのほか風がきつくバランスを取るように前屈みになる。
「千秋は金づちじゃないよな?」
「う、うん」

Re: 天門町奇譚 ( No.25 )
日時: 2020/07/22 00:43
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 千秋はレールの隙間から覗く青い千曲川の水面を見下ろして、恐る恐る頷いた。
 既に無事車外へ脱出したソロモン機関の兵士達が、意を決したように橋から川面に飛び込み水しぶきを上げている。このまま橋の上に残っていれば確実に腐食に巻き込まれて命を落とす、それは千秋にもよく解っていた。
「さあ、御嬢さん。私に掴まりたまえ」
 横からフェランが千秋の傍らに立ち、紳士が女性をエスコートするように肩肘を突き出したが、次の瞬間、鈍い音と共に海老ぞった状態で悲鳴を上げ乍ら落下していった。
「じゃあ行くか」
 冬峰は何事も無かったように前方へ突き出した右足を下ろして、千秋に買い物にでも誘うかのように声を掛けた。その担に鈍いだけかもしれないが余裕めいた態度に千秋も苦笑して頷く。
「冬峰」
「ん?」
「手を放さないで」
「解った」
 冬峰と千秋、二人同時に宙へ飛び出して逆しまに落下していった。
 冬峰に抱きかかえられた千秋は、長い様な短い様な漠然とした感覚を味わった後、頭頂から水につかるのが解った。以外と深く、一旦全身が沈み込んだ後に浮上して川面から頭を上げる。
「ぷはっつ」
 冬峰が口を開けて息を吸う音がする。お互い無事のようだ。
「もう、バンジージャンプは怖くないぞ」
「二度としないからね」
 千秋は冬峰の冗談とも本気とも判断できない軽口に口を尖らせて反論する。愛用の眼鏡が川底へ沈んだようで視界がぼやけて不鮮明になる。
 同じく橋上から飛び降りた兵士達も無事だったようで川岸に向かって泳ぎ始める。五月とはいえ信州の山々から流れる川の水は冷たく、飛び込んでから体温を容赦なく奪っていく。
「早く上がろう、風邪を引いちまう」
 平泳ぎで川岸へ向かう冬峰を追って千秋も泳ぎ始めた。川の流れは意外と早く、油断すると川下へ流されそうになる。
「フェランさんは? 重そうな荷物を持っていたけど溺れてないのかなあ」
「おっさんなら、あっち」
 振り返り冬峰の指し示した方向を向くと、屈強な兵士二人に挟まれて、立ち泳ぎで運ばれるフェランの姿があった。溺れかけたのかぐったりと項垂れてたコート姿は、まるで用水路に落ちた案山子のようだ。
「……見ていて飽きないおっさんだな」
「ほんと」
 冬峰と千秋は苦笑してお互いの顔を見合わせた。千秋は胡散臭いながらも何処か人懐っこさを感じさせる自称ジャーナリストを少しは信じてもいいかと思い始めている。
 冬峰と千秋の傍らにソロモン機関の兵士の一人が泳ぎ近寄って来た。マスクとヘルメットは泳ぐのに邪魔だったらしく、背負ったAK103のスリングに結わえて固定されている。
 その兵士はまだ二十代の若者で、二人に無事で良かったとでも微笑みかけると川岸の少し開けた広場を指差すとついて来いとでもいう様に二人に背を向けて泳ぎ始めた。
「行くか」
 力強いクロールで岸に向かう男の背中が不意に水中へ潜った。潜水でもしているのだろうかと背中の消えた水面を眺めていると、水面に水中から浮き上がった色彩が花のように広がりつつあった。
 彼岸花のような鮮やかな赤。
「冬峰!」
「解っている。傍を離れるな」
 冬峰は立ち泳ぎしながら背中の長脇差を回して左腰に持って行った。その柄に右手を掛けたまま辺りを見回す。
 ソロモン機関の兵士達もその光景を目にしたのか、AK103を構えて緊張した面持ちで死線を巡らした。
 川のほぼ中央にいた兵士の背後に水中から素早く巨大な魚影らしきものが浮き上がり、波飛沫を上げて空中で身をくねらせる。二メートルを超える緑色の巨体と大きく開かれた赤い口腔が振り返った兵士の見た最後の光景だった。
 それは兵士の頭に齧り付いたまま水中へ引きずり込むように潜水する。余りもの早業にそれが何なのか目にした兵士はほんの僅かだった。
 飛沫が治まるより早く、冬峰や兵士を取り囲むように同じような魚影が浮かび上がり、円を描くように旋回する。
 兵士達は申し合わせたかのように冬峰と千秋を中心に、守るかのように背を向けて取り囲んだ。少しづつ岸に向かって泳いでいるが、その速度に合わせて魚影も岸に近づいていく。
「くっ」
 しびれを切らしたのか、兵士の一人が魚影に向かってAK103の引き金を引くが、水中の魚影はそれを合図と取ったのか、一斉に冬峰と兵士に向かって突進してきた。浮上するその禍々しい緑色の巨体を目にした冬峰は、それが雑木林や深夜の校舎で出くわした馴染の相手であることに気が付いた。
「深き者共ディープ・ワン!」
 フェランの叫びは、この状態で最も遭遇したくない相手だからか。その半魚人めいた風貌のとおり、陸上以上に素早い動きで兵士達に肉薄する。
 冬峰はその様子に餌に群がる庭園の鯉を連想したが、危険度はその比ではない。
 水中の彼等の速度は水棲生物のそれであり、兵士達の火器から放たれる弾丸はむなしく水面を叩くか、水中の彼等に当たるも川の水の抵抗と深き者共の全身を覆う固い緑色の鱗のせいで、致命傷を与えられないでいた。
 水中から鋭い鉤爪と水かきのついた腕が突き出され、冬峰の前方で制圧射撃を続ける兵士の傍らを魚雷の様な速度で通り抜け様に勢い良く振られる。
 空中に血の花が咲き、頭部を失った哀れな兵士は水中に沈み込んだ。その亡骸を数匹の深き者共が食らいつき引き千切り咀嚼する。それはピラニアの群れに喰い付かれるより、ハイエナに囲まれ蹂躙される光景に似ている。
「うっ」
 千秋が口元を手で多い吐き気を堪える。その分、川岸に逃れようとする冬峰達の動きが鈍る。
「千秋」
 振り返った冬峰の視界の片隅に、こちらへ徐々に大きくなって近付いて来る魚影が入り込む。
 鞘奔る長脇差。だが遅い。
 ぼっと冬峰の脇腹から血が水中に広がる。薄く脇腹の肉を削ぐだけで済んだのは、水の抵抗で抜刀の遅れた冬峰が、咄嗟に身を引いたからだ。それでなければ彼は鋭い鉤爪に腹を抉られて絶命していたであろう。
「くっ」
 珍しく冬峰の顔に苦痛が浮かぶ。
「千秋、先に逃げろ。おっさんから渡された石がある限り、千秋に此奴等は手出し出来ない」
「駄目なの」
 千秋は蒼褪めて人形のように白くなりつつある顔に絶望の色を浮かべ、目に涙を溜めて首を振った。
「さっき、列車の中で落として、もう無いの」
「……」
 もうどうしようもないと諦めたのか、涙を流す千秋の手を冬峰は掴んで引き寄せる。驚いて目を見開く千秋に一言一言言い聞かせるように口を開いた。
「千秋、諦めちゃ駄目だ。千秋は俺が空っぽだった時に引き上げてくれたじゃないか。この程度で千秋は負けはしない。絶対に」
「何を、言っているの? 私は強くないよ」
 彼等の背後で水中で連射した為か、噛み込んだ薬莢を排出孔エジェクションボードから抜こうとした兵士が背後から首筋をかみ砕かれて絶命する。別の兵士は腹から背中まで鋭い爪で貫かれて足をバタつかせながらもがき苦しんでいる。
 一方的な殺戮劇の中、少年は守るべき少女を背中に庇い、水中から襲い掛かろうとする深き者共を迎え撃とうとしている。千秋はその背中に、何故、と問い掛ける。
 何故、そこまで守り抜こうとするのか。
 再び冬峰に向かって、水中から深き者共の姿が浮かび上がる。今度は三匹が並んで浮上してくると、冬峰達の二メートル程手前で二手に分かれた。二匹が冬峰に襲い掛かり、残り一匹は背後へ回り込む。
「千秋、気を付けろ」
 振り返る余裕も無く、冬峰は一旦振り上げた長脇差を正面から襲い掛かって来た一匹の頭部へ振り下ろす。
 鈍い音と共に振り下ろした姿勢のまま後方へ押しやられる。水中で足が地についていない為、足腰の踏ん張りがきかず力を込めた斬撃が放てない。また深き者共の体表を覆う鱗はフェランが深夜の高校で述べたように固く、この中途半端な体勢では深き者共に致命傷すら与えられないのが現状だ。
 体勢を立て直そうとした冬峰の右横から、もう一匹の深き者共が勢いを殺さずにその巨躯を冬峰に叩き付ける。
 冬峰は己のあばら骨が、みしり、と音を立ててたわみ、限界を超えた事を感じた。
 高々と宙に浮いた後、水面に叩きつけられて水中に没する。
 揺らぐ視界の中、回り込んだ一匹が千秋の腰を抱えて水面を滑るように泳ぎ去る光景を眼にする。
 千秋が何かを叫び沈み込む冬峰に向かって手を伸ばしている。どんどん小さくなっていくその姿に向かって手を伸ばす。無駄と知っていても伸ばして掴もうとする。
 叫んだ口腔に川の水が入り込み、咳き込みながら意識を覚醒させた。
 冬峰は岸に向かってゆっくりと泳ぎ始めた。あばら骨が何本か折れたのか、己の両腕が旋回する度、肺に息を吸い込む度に激痛が奔って思考をもっていく。
 幸いと言っていいのか、冬峰は川岸に向かって弾き飛ばされたので己が泳ぐより早く、幾分か距離が稼げた。
 指先に力が入らなくなり、右手の長脇差を手放しそうになった時、不意に川底が見えた。そのまま立ち上がり川底を蹴る様に歩き出す。
 背後から何かが波を切って迫って来るのが、背中に当たる波で解った。数は一つ。
 肩までが水面に出る。川底の砂は柔らかく、腕の振りも水の抵抗で鈍るだろう。まだ早い。
 冬峰は歩く速度が鈍いのがもどかしかった。川底を踏みしめられる靴底に抵抗が増す。
 肘の上までが水面に出る。まだ満足のゆく斬撃を放つことは出来ない。
 背後から何かが激しい水音を上げて追いすがって来る。後僅かで追いつかれる。
 肘まで水面に出る。
 冬峰は振り返った。眼前には両腕を振り上げて、今にも冬峰を引き裂こうとする深き者共の巨体が立ちはだかっていた。
 長脇差を刃を上にして手首と柄の角度は直角に握る。
 深き者共が一歩踏み込む。
 冬峰は水面を突き上げる様に刃をあげて、刃先が深き者共に触れると同時に切り上げへと変化させた。水面が切られるように割れ、腕の振り揚る速度が増す。
 水中から現れた白光は深き者共の左胸下から右肩へ走って通り抜ける。
「水鷗流〈波切の太刀・改〉」
 冬峰の言葉が終わると同時に深き者共の斬撃を受けた箇所から血が噴き出し、俯せに倒れ込んで水飛沫を上げる。
 銃弾すら防ぎきる鱗に覆われた深き者共の身体を両断した事で力を使い果たしたのか、冬峰はふらつきながらも川辺まで歩を進めてから、前のめりに倒れ伏した。
「こんな、ところで」
 もう身体を動かす余力は無く、しかしかすれ行く己の視界には岸を這い上がって近付いて来る一匹の深き者共が映っていた。小脇にはぐっしょりと濡れたコートを羽織った男が抱えられている。フェランだ。
「千秋、を、助け……」
 此処で俺は終わらなければならないのか、失血と激痛、体力の消耗に抗う術も無く、冬峰の言葉は途切れ、全身から力が抜けた。
 深き者共は意識を失った冬峰を見下ろしていたが、小脇に抱えた自称ジャーナリストから下ろしてくれ、と声が掛けられゆっくりと膝を着く。
「とんでもない少年だな」
「そうだ、ね。僕等の鱗は5.56ミリ口径の銃弾にも、耐えられるのに。日本刀ってすごいんだ」
「剣術の達人は銃弾すら切り落とすらしい」
「本当、かい」
 驚くべきことにフェランは深き者共と親しげに会話していた。フェランの軽口に深き者共が答える様は一人と一匹の関係が旧知の者である事を示していた。
「しかし、君がいてくれて助かったよ、ホーヴァス。〈旧神の印〉で深き者共は近づけないが、取り囲まれて溺れ死ぬところだった」
「僕は……人間の血が、濃いからね。短時間なら〈旧神の印〉に触れることも、出来る。僕が彼等に、襲われそうになった時、〈旧神の印〉を取り出して、逃げることにしてるんだ」
 その深き者共は有ろうことか、深き者共が苦手とする〈旧神の印〉に耐えられることをほのめかした。この深き者は一体。
「それに、ダゴンやヒュドラの指令にも抗うことが出来る。こうして紛れ込んで調査する事もね」
 フェランは複雑な面持ちでその深き者共を見上げた。
「その、済まなかった。君から君自身の呪われた血筋を告白されたとき、皆の疑いを晴らすことが出来なくて」
「……もう過ぎた事だよ。そ、れより早くここ、を、離れよう。他の深き者共に、見つかると大変なことになる」
 ホーヴァスと呼ばれた冬峰を肩に担ぎあげた。
「この先に僕の着替えを隠したガレージがある。そこで着替えて、これからどうするか決めよう」
「ああ、千秋君を取り戻さないと」
 フェランは先に立って歩き出したホーヴァスの背中を追った。まずガレージで水に浸かったM1ガーランド小銃の手入れをして異常がないか確かめないと。旧交を温めるのはその作業中にも出来るのだから。
 かってフェランととホーヴァス、エイベル、クレイボーン、ネイランドの五人は、頑固で偏屈な教授の下、大いなる〈K〉復活を妨害する為に様々な活動を行った。インスマスで呪われた血族の末裔を屋敷ごと焼却したり、南米奥地の大いなる〈K〉の眷属を信仰する宗教家を銃撃したり、米軍と協力してある島へ核攻撃を行った。
 しかし大いなる〈K〉の勢力もやられたままでは引き下がってはくれない。
 マサチューセッツ州グロチェスターでエイベルが水泳中に行方不明となった記事が新聞で報じられ、フェラン達もそれを目にした。
 フェランはその前日、神学校を卒業したエイベル・キーンが新しく聖職を授けられたお祝いにその地を訪れ、一晩中、これまでの苦労やそれとはまったく関係の無い馬鹿話に花を咲かせ、語り明かしたのだ。
 エイベルが対邪神活動に身を置くことになったのも、フェランのインスマスでの仕事を半ば強引に手伝った事が切っ掛けであり、以降はコンビを組んで活動することが多くなった。
 童顔の為、年齢より低く見られる彼は、その容姿を生かして情報収集を得意としており、ネイランドからは天性の後家さん殺しと有難くもない称号を頂き抗議している。
 その彼が行方不明となった。死体は上がって来ず、生存は絶望的だった。
 その弔いの為、グロチェスターの古い酒場に集まった教授とフェラン達三人の前でホーヴァス・ブレインは己の呪われた血筋を告白し、全員に衝撃を与える。
 己は養子でブレイン姓を名乗っているが、本名はホーヴァス・ウェイトであり、君達と敵対しているマーシュ家に縁のある者だと。
 太平洋のある黒い島を核攻撃した後、教授はもう自分達には取れる手段が無い事をほのめかしていた。しかしそれ以降も大いなる〈K〉とそれを崇拝し教義を実践しようとする者達は後を絶たず、彼等五人はそれらと戦い死地をくぐり抜けた。
 そんな仲間の一人が自分達と敵対する種族の血を受け継いでいる。クレイボーンは今、自分達と共にいることも邪神勢力に筒抜けではないのか、と疑念を口にしてから済まないと詫びた。
 そしてホーヴァス・ブレインは力なく笑みを浮かべて彼等に背を向け、独り酒場を出て行った。
 フェランは仲間を失った衝撃から立ち直っておらず引き留める言葉を持たなかった。教授は静かに首を振って沈黙を通した。
 それきりホーヴァスは姿を現さず、フェラン達は引き続き邪神崇拝者との戦いを続けてクレイボーン・ボイドの死を看取る事となる。
 クレイボーン・ボイドは後ろに撫で付けられた銀髪にきちりと整えられた口髭、細い銀武士の眼鏡をかけた一見すると気難しい大学教授のような風貌の為、実際の年齢高く見られることを気にしていた。彼はフェラン達の活動計画立案や物資の手配、調達に長けており、世間の瑣事に疎い教授や細かい物事に拘らないフェランやネイランドにとって必要不可欠な仲間であった。
 そんな彼の最後は自宅の書斎にて、執筆用の机の引き出しの角から出現した青黒い異形の獣に襲われ、その錐のような鋭い舌に腹から背まで貫かれ身を震わせた。
 最後の力を振り絞り愛銃のブラウニング・HPの9ミリパラベラムを全弾、異形の怪物に打ち込んだが効果は無く、居合わせたネイランドが背後に押しのけた時には既に手遅れであることが見てとれた。
 光を失った灰色の眼で虚空を見つけていたのクレイボーンは深く息を吐いた後、卓上のクレオール人の文化を研究した未完成の原稿を見上げて憮然とした表情を浮かべる。
「しかし、未完成の原稿を残すのは中途半端な人生を送ったようで、非常に腹ただしい」
 暫く沈黙して、咳き込んだ後で本当に消えそうな声で呟いた。
「ネイランド。何故、君の面白くない小説が売れるのに、何故私の論文は誰も読まないのだ」
 これから失われようとする仲間の言葉にネイランドが抗議しようと顔を上げた時、彼はその言葉が彼の最後の言葉だったことに気付き慟哭した。
 その後、おおいなる〈K〉はフェラン達の行った核攻撃に耐えきったことが判明して、アメリカ主導による作戦名「アーカム計画」が発動。再度、アメリカ軍による大いなる〈K〉への核攻撃が行われる。
 その結果、大いなる〈K〉の肉体に修復不可能に近いダメージを与えることに成功したが、その存在そのもののコアは残り、何者かの手によりひそかに運び出された。
 そして一九八五年、〈大異変〉発生。アメリカ西海岸と太平洋の島々が水没。赤道から南極までの南半球は大いなる〈K〉の下僕達の手に落ちた。

Re: 天門町奇譚 ( No.26 )
日時: 2020/07/22 00:53
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 その大異変の中心地ロサンゼルスにてフェランとネイランドは大いなる〈K〉のコアを植え付けられ、身体を変化させつつある青年と黒衣の紳士に遭遇した。
 バイアクヘーから飛び降りた二人は、緑色の粘液を垂らしながら四肢が膨れ上がらせ絶叫する青年を目にして息を呑んだ。
 その体から発する禍々しい鬼気は、フェラン達がかって南太平洋の呪われた島で目にした存在から放たれたものと同一であるように感じられた。
「人間が、〈K〉になるだと」
 ネイランドはその逞しい体躯に相応しく八キログラムを超えるブローニング・BAR軽機関銃をを素早く構え、人外の存在になりつつある青年に銃口を向ける。
 フェランもM1ガーランドを青年に向けるが、深き者共や大いなる〈K〉の信仰者相手では頼りになるこの火器が、今は非常に力不足に感じられて仕方がなかった。
「おや、この様な場所へやって来る物好きがいるとは。何の用かね」
 物騒な得物を手にしたフェラン達に臆することなく、居合わせた黒衣の紳士が尋ねた。
 黒の三つ揃いで身を固めた紳士は、細面の浅黒い端正な顔立ちに腰までかかる艶やかな黒髪をなびかせた装いで、この様な暗闇で覆われた地下堂より、会員制の煌びやかなバーでバックバンドの演奏する音楽を聴きながら酒と婦人との会話を楽しむ優美な雰囲気を纏っている。
「誰だか知らんがさっさと消えてくれないか。あんたに関わっている暇は無いんだ」
 膨れ上がりつつある青年の腹部から生じた触手がフェランとネイランドに襲い掛かり、二人は左右に分かれてそれを躱すと、続けざまに青年の身体に銃弾を送り込んだ。
 緑色の半透明な体組織になりつつある青年の身体は、その内臓も人間の携帯から変化しつつあるようで、その薄く見える肺などがくびれ巨大化して、全く別の巨大な芋虫のような形状となって蠢き始めた。
 その器官を銃弾が吹き飛ばすが、直ぐに泡状の液体が吹き出しその器官の欠損した部位を塞ぎ修復していく。
「もう人間じゃねーな。フェラン、手加減すると殺されるぞ」
「最初からしてない。お前こそ油断するな」
 フェランとネイランドは互いに銃弾を撃ち尽くして、ネイランドはコートのポケットからBAR用の二十連弾倉を、フェランも同じくコートのポケットから八発の弾丸を纏めた専用のクリップを取り出して互いの銃に装填した。
 しかし、どうすればいい、とフェランは自分自身に問い掛けた。明らかに手持ちの火器では力不足であることは解っている。切り札といえば不死の指導者用にガス燃焼式の焼夷手榴弾を持っているが、この事態に出くわすことを想定しておらずひとり一個ずつしか持ち合わせていなかった。しかし、時間が経てば経つ程、眼前の青年だったものは別種の存在となり殺しにくくなるだろう。
「ネイランド、3カウントで焼夷手榴弾を投げてくれ。それであの青年を焼き尽くす」
 漆黒の闇の中、ネイランドが頷くのを確認してからフェランは焼夷手榴弾のピンを久枝に加える。
「悪く思うなよ。一、二、三」
 ピンが抜かれて同時に投げられた焼夷手榴弾は、放物線を描いて青年の足元へ落ちるかと思われたが、青年に届く寸前、何もない宙に出現した周囲の闇よりも濃い黒い穴に吸い込まれた。
「?」
「やれやれ、無粋な真似は止めてくれませんか。これから楽しいショーが始まるんです」
 焼夷手榴弾の消失に目を見張る二人の耳に朗々と悠然たる低い声音が届いた。
 声のする方向には右掌を青年へ突き出した黒衣の紳士が笑みを浮かべて二人に微笑みかける。
「今のはあんたの仕業か? 何者だ」
 ネイランドはBARを紳士に向けるが、その紳士はその物騒な凶器に怯んだ様子も無く笑みを浮かべたままだ。
「あ、そ、そいつ、い、嫌だ。変わり、た、助……」
 瞬く間に巨大な球体と化した身体に沈み込もうとするまだ人間の面影の残る青年の右顔面から途切れ途切れの哀願が空間に木霊する。それは異形の者に変わろうとする青年の悲鳴に他ならなかった。
「これは、中々しぶといですな」
 苦笑して感嘆する紳士を尻目に、フェランはじっと残った青年の顔を見上げていたが、意を決したように銃口を持ち上げて懇願する青年の部分に不動の直線を引いた。
「ネイランド、あの顔をぶち抜くんだ。ひょっとしたら滅ぶかもしれない」
「人間の部分のみ死んで、完全に怪物になったらどうする!」
「その時はその時だ」
 一か八かフェランはM1ガーランド、ネイランドはブラウニング・BARの三〇ー六〇スプリングフィールド弾を弾切れになるまで撃ち込んだ。
 僅かに残された青年の頭部が弾け、赤黒い組織が弾けて飛び散る。
「やったのか?」
 それは緑色のゼラチン質のような肉体が崩れ始めるのを目にしたネイランド・コラムの呟きだが、同時にその彼の唇から血泡が吐き出された。
 それは彼等が銃撃を始めると同時に、黒衣の紳士の足元から放たれた黒い光がネイランドの腹部を薙いでいった為であり、彼の腰から上が、ずるり、と前方にずれ力を失くしたように崩れる。
「ネイランド!」
 フェランが左脇から愛用の四十五口径を抜いて、親指で安全装置サム・セフティを解除。親友の命を奪った存在へ連射した。
 その弾丸は七発とも黒衣の紳士の胴体へ命中するが、当の撃ち込まれた本人は高級そうなダブルのスーツに穿たれた弾痕をつまらなそうに見下ろしてから、何処からともなくシガリロを取出し口に咥える。どのような芸当か、独りでにその先端に火が灯り芳香が漂う。
「やれやれ、今回の舞台は準備に手間が掛かったんですけどね。俳優キャストが舞台脇の控室で降板するのは観客に対する言い訳に一番困るんですよ」
 黒衣の紳士は両手を肩の高さまで上げ、さも困った様に首を振り苦笑した。豊かな黒髪が左右に揺れる。
「せめて名乗らせてからでも遅くは無いと、そんな余裕さえないのですか」
 黒い手袋をはめた右手が背広の前をなぞると、黒スーツや白いカッターシャツの弾痕は跡形も無く消え失せた。
「何者だ」
 フェランは素早く弾倉を交換して、眼前の怪紳士の額を狙いながら問い掛ける。しかし、フェランは内心、この紳士の存在に対して妙な圧迫感を感じていた。それは、昔、教授に連れられて南の島で目にした異形の怪物すら凌駕する恐怖感をフェランに与えていたのだ。
「ああ、そういう私も名乗っていませんでした。私はナイとお呼び下さい。今はインチキ宗教団体の司祭を務めています」
 その笑みを浮かべる細面で彫りの深い顔立ちは、もしこの場に妙齢の婦人がいれば卒倒しかねない程の魅力に満ちていた。しかしここは、異形の者となろうとした青年の残骸が横たわり、世界を守って来た男の亡骸が転がる地獄なのだ。
「お前がナイか。星の智慧派の神父があんたのような奴とは驚いた。さぞかしご婦人方からの寄付が多いんだろうな」
「迷える御婦人の相談に乗ることも私の仕事のひとつですから」
 ナイは胸に手を当てて恭しく一礼する。
 その時、遠くからの地響きがフェランの耳に届くと共に足元に微かな揺れを感じた。
「おや、そろそろこの場所も限界のようだ。ミスター・フェラン、君も早く此処を離れないとこの島諸共、海中に沈み込んで出られなくなりますよ」
「何故、俺の名を」
 フェランの問い掛けにナイは口角を吊り上げた。
「それは当然でしょう。あなたは私の上司、いや雇い主と言った方が良いのか。彼と彼の眷属を復活させようとする企みを悉く妨害してくれたグループの一員なんです。この男を見掛け次第殺せというお触れが回って何年経ったと思っているんです」
 嘆かわしいなと芝居のかかった所作で首を振る怪紳士は、今回も計画を妨害されたにも係わらず、何が面白いのか余裕めいた笑みを浮かべてフェランを語りかける。
「それなのにあなた方は懲りずに我々と戦い続ける。仲間を失い、己も傷つき、異形の血を受け継いでいるがまだ人間の意識も残っていた哀れな男を躊躇なく殺す。私にとって、そんなあなた方の生き方が哀れで滑稽で尊い。素晴らしい娯楽ですよ」
「……娯楽だと」
 フェランの眼の奥に憤怒の炎が宿った。
 エイベル・キーンは行方不明。
 ホーヴァス・ブレインは自ら姿を晦ます。
 クレイボーン・ボイドは自宅で怪物に殺害される。
 ネイランド・コラムはアメリカ西海岸で…
 連続する銃声。しかしフェランの放った四十五口径弾はナイの身体に弾痕を残す事も無く全て通り抜けていく。
「もっともっと抗い続けるがいい。我々の時間は無限です。この程度の遊びなら私の上司も許してくれるでしょう。ミスター・フェランがこれからも我々と戦い続けてくれるのか、楽しみにしていますよ」
 フェランは徐々に薄くなっていく黒衣の紳士をなす術も無く見る事しか出来なかった。完全にその気配が途絶えてから虚脱したように銃口を下ろし膝を付く。その傍らには事切れたネイランドの亡骸が横たわる。
「くそ……」
 毒づいてからコルトM1911A1を左脇のホルスターに納めた。
 世界の危機を救った達成感などなかった。ただ仲間を失った喪失感と疲労が残っているだけだ。
 フェランはネイランドの目を閉じさせてから、懐から小さな薬瓶を取出し、黄金色の中身を口に含んだ。
「いあ、いあ、いあ、はすたあ、くふあやく、ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい、あい、はすたあ!」
 最後にネイランドの亡骸に目をやって別れの挨拶とした。
 次の瞬間、フェランは巨大な生物の背中に乗って、繁栄を極めた巨大都市の街の明かりが次々と消えて水没していく様を、はるか上空から無力感にさいなまれつつ見下ろす。
 そして数年後、東洋の僻地にて失った友と再会した。
「こ、の倉庫に、僕の、着、替えとか、荷物、とか隠して、あるから」
 前を行く深き者共の姿をしたホーヴァスが足を止めたので、フェランは過去の追想から我に返り顔を上げた。
 周囲は畑と田圃のみで、持ち主が使わなくなって数年たつのか、そのこじんまりとした倉庫のシャッターは、薄茶色に土埃が付いてまともに動くのかどうか疑わしい。
「お邪魔、します」
 誰もいないのにわざわざ声を掛けてから開けるのが如何にもホーヴァスらしく、別れた頃と全然変わっていないなとフェランは苦笑した。ひょっとすると、ホーヴァスはとうに彼等〈K〉の仲間と成り果てて、自分を罠に案内しているのではないか。そんな危惧を抱いていたのだが、どうやら杞憂のようだ。
「開、いたよ。中に、入って」
 フェランが身を低くしてシャッターをくぐると、ホーヴァスは深き者共の巨体を屈めて左右を見回してから中に入った。何となくユーモラスな仕草だった。
 三和土に置かれた蛍光灯形の懐中電灯を付けると、倉庫内が薄ボンヤリと見てとれた。
 倉庫内は六畳態度の広さで、三和土と四畳の畳敷きの部分に分かれている。畳の部分がささくれているが贅沢は言っていられない。
 畳の上に気を失ったままの冬峰を寝かせる。
「僕、は着替えるから」
 ホーヴァスは三和土で仁王立ちになると目を閉じて小刻みに震え始めた。
 徐々に鱗の色が薄くなり凹凸が亡くなり始める。体格も湾曲していた背中が徐々に真っ直ぐになり体躯がしぼみ始める。
 鰭が皮膚と同化すると共に爪が抜け落ち、人間の爪が生えてくる。突き出した鼻面が引っ込み鋭い牙が抜け落ちて人間の骨格へと変貌する。
 二分程度経過すると、そこにいるのは小太りのフェランより頭一つ分背の低い、人懐っこい丸い目をした青年が立っていた。
「ふうー」
 大きく息を吐いてのろのろと衣服を身に付ける。緑の迷彩柄のシャツとパンツにカーキ色のアーミージャケットを羽織った姿に着替えてから、再び大きな息を吐いて畳の上に寝転がった。
「……おい、大丈夫か?」
「うん、普通、深き者共は人間の形態で暮らすより、水中で半魚人形態で暮らす方が楽なんだけど、僕等のようなあちら側の血が薄い物達は切り替えがうまくいかなくて、地上で人間として暮らす方が楽なんだ」
 顔だけフェランの方に向け自嘲気味に笑みを浮かべる。
「どっちつかずの僕のような者は〈K〉からのテレパシーも通じ難くて、深き者共の社会コロニーでも冷遇されてるらしいんだ。僕がいたのはスペイン西部のそんな血の薄い人達のグループで、地元の漁師さんの手伝いをしながら何とか食いつないでいるよ」
 深き者共の社会も其れなりに大変らしい。
 ホーヴァスによるとスペインやイタリア、ギリシャ等の海に面した国々にはアジアや南米からの移民に交じって深き者共の生活が馴染まない、血の薄い混血達が集まりひっそりと暮らしているそうだ。彼等は容姿はインスマス面の者もいればホーヴァスの様に少し小太りに見える程度で普通の人間と変わらない者もいる。
 今、欧州では増えすぎた移民によってもともと住んでいた住民の職が少なくなっているとの苦情や、移民への補助金が各国の財政を圧迫しているとの指摘が有り移民に対する風当たりが強い。
 そんな環境の中、ホーヴァス達はぐれ深き者共は地元の漁業や海上の警備、救護活動等を生業として出来るだけ先住の人々の経済を圧迫しない分野で活動して、各国の同じくはぐれ深き者共と連絡を取り合い支え合っている。イタリアでは地元の犯罪組織と手を結び、海上密輸などで資金を稼ぐグループもいる。
 自分達の最も恐れることは、純粋な人間でない事が知れ渡り、政府の手によりかってインスマスで行われた掃討作戦が実行されることだ。
「僕等は、人間社会の中で人間として生きていきたいんだ」
 その自衛手段として、数人は主流の深き者共達に混ざり欧州侵攻作戦が計画されていないか情報収集を行っている。ホーヴァスがこの東洋の島国に居るのもその情報収集の一環らしい。
「中国の組織から〈K〉の不死の指導者が直々に日本に乗り込むって情報を手に入れたんだ。そこで日本語を話せて陸上生活に長けた僕がこの国に派遣されたんだ」
「不死ねぇ……」
 フェランの苦笑にホーヴァス弱々しい笑みを浮かべた。
「不死の指導者は大いなる〈K〉の代理人だ。僕等の手には負えないけど奴の目的が何なのか、それが知りたいんだ」
「いや、不死の指導者は不死じゃなくなったんだ。滅びたよ」
「えっ?」
 フェランの言葉にホーヴァスは丸い目を更に大きく丸くしてフェランを振り返った。
「どうやって? 火炎放射器で丸焼けにしたって、地雷で吹き飛ばしたって次の日には平然と現れたじゃないか。教授だってあれには魔術すら通じないって言ってたぞ」
「まあ、そうなんだが」
 フェランは言葉を濁して傍らの少年に目を落とした。
「この少年が不死の指導者を滅ぼしたんだ。それどころか、黄衣の王やロイガー、〈K〉の落とし子、ヨグ・ソトホースと遭遇して生き残っている」
「……」
 ホーヴァスは言葉を失くして気を失ったままの冬峰を見つめた。不死の指導者を滅ぼしただけで十分驚くに足りるのだが、他の存在と遭遇して生き永らえているとなると想像すらできない。
「その能力とさっき攫われた女の子、千秋というんだが、その子とどう関わりがあるのかそれが解らない。それが〈K〉の求める能力なのかそれも解らないんだ」
「それさえわかれば、ひょっとして〈K〉にも対抗出来る?」
 ホーヴァスの質問にフェランは苦虫を潰した様に顔を顰める。
「いや、出来れば俺はこの子達を戦いの場から遠ざけたい。甘いかも知れないが地獄を除くのは俺達大人だけで十分だ。そうだろう?」
 ホーヴァスは苦笑して肩をすくめた。教授と違いフェランは人間的な甘さを払拭出来ない。それは今迄共に戦ってきた頃から知っているし、クレイボーンから作戦が甘いと常々指摘されていたことだ。だがホーヴァスやエイベルはそんな人間的な弱さを好ましく捉えていた。
「そうだね。フェラン、僕等は人間らしく戦って行こう」
 フェランは冬峰のジャケットとカターシャツのボタンを外して、彼の負傷の度合いを調べようとTシャツをたくし上げた。
「!」
 フェランとホーヴァスは同時に目を見張って声を漏らす。
 少年の細身の割に筋肉質な体には、脇腹の深き者共が与えた傷以外にも多数の傷跡が残っていた。
 右肩の二つの窪んだ円形の傷跡とへそのすぐ右にある傷跡は間違いなく銃創であり、左脇から鳩尾に掛けてと胸板を右下がりに奔る白い盛り上がりはナイフか何かの裂傷だろう。深き者共の与えた傷の傍に小さな線が複数見受けられたがおそらく刺突された傷だ。大きい傷はこれくらいだが小さい傷は全身に隈なくあるようだ。
「これは……何だろうな? 銃創があるのは何故なんだ?」
 フェランは声を絞り出すようにしてホーヴァスに問い掛けた。本当は答えなど解っているが出来れば別の誰かにその結論を否定して欲しかった。
「……アフリカや中東でもこんな傷を負った子供が大勢いたよ。この子は被害者かそれとも加害者か、もしくはそのどちらにも当て嵌まるか。ただ、日本でこんな傷を負った子供を目にするとは思わなかったよ」
「……」
 最初に会った時から変わった奴とは思っていた。〈K〉の連中相手に臆したことも無く戦い続け、不死の指導者を葬り去るのは誰も予想だにしなかっただろう。
 それも彼が特殊な一族に属している故の能力だと思っていたが、それだけではないらしい。

Re: 天門町奇譚 ( No.27 )
日時: 2020/07/22 01:00
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「……この子は、僕たち以上の地獄を除いたのかもしれないね」
 ホーヴァスの言葉に短く相槌を打って、フェランはホーヴァスが倉庫に用意しておいた水で冬峰の傷の周りを洗い流した。傷口を縫う必要があるが今は道具がない。フェランは冬峰の持っていたナイフで、冬峰のシャツの前を切り裂いてその布地で傷口を上から縛って圧迫した。
「これからどうする?」
「まだ深き者共が俺達を探しているかもしれん。一時間程ここで休んでから一旦町に戻って、次の手を考えるさ」
 フェランはホーヴァスの質問に答えつつ、どうやって千秋を取り戻すかを考え始めた。ソロモン機関に協力を求めるか、それとも千秋君の実家に助けを求めるか、奴等の目的は何なのか。
 とにかく急げねばなるまい。攫われた千秋君がどうなるのか、人外に作り替えられる恐れもあり時間的な余裕は無いと判断して間違いないだろう。

                4

「二人が行方不明!」
 春奈は自室で駅前に突如出現した怪獣と、それに与えられた被害の資料に目を通して頭を委託している処へ、青桐と朱羅木がもたらした報告の内容に椅子を倒して立ち上がった。
「陸橋もろとも装甲列車が消失。付添いの兵隊も全滅って何があったの!」
 妹達に聞こえる事も忘れて、勢いよくドアを開けて一歩踏み出した春奈の左足が何かを踏ん付けた。
「うぐっ」
「あ」
 廊下に平伏した朱羅木の首筋を踏み付けたまま、春奈は硬直する。
「御免なさい。でも私、ダイエット中ですから重くないと思います」
 朱羅木の隣で平伏したまま、青桐は長い長いため息を吐いた。
 春奈は帰宅している紅葉や夏憐の耳に入らないよう場所を応接室に移して、報告を聞くことにした。しかし先日の黄の王とロイガーの強襲により天井からは空が覗いており、損傷した襖などは取り払われて中庭を見渡せるようになっている。明日には畳と襖の交換、屋根の補修が馴染の業者の手によって行われる予定なのだが、気分的に寒々しいのは仕方がないのであろう。
 春奈は自分で居れた緑茶に口を付けた。冬峰の入れてくれた緑茶に比べて全然甘くない。
「……」
 座卓を挟んだ向かい側に腰掛けた青桐が僅かに身動ぎした。如何やら春奈の様子を怒りを堪えているように受け取ったのかもしれない。
「で、冴夏伯母さんの指示は? 仮にも自分の娘が敵の手に落ちたのだから心中穏やかでないと思うのだけど」
 春奈の言葉に青桐と朱羅木は顔を俯かせた。ソロモン機関への千秋引渡しについて、この若い見習い当主が内心反対していることを二人共重々承知しており、何も出来ない事への償いに春奈は冬峰を同行させる様に当主代行の冴夏に談判したのだ。それが裏目に出た。
 朱羅木と青桐が千川に駆けつけると、そこには基底部のみ残して崩れ去った鉄橋と水面に浮かぶソロモン機関の兵士達の残骸のみであり、冬峰と千秋、同行した胡散臭いジャーナリストの姿は見当たらなかった。
 すぐさま冴夏へ報告を行ったが、千秋の母親である彼女は顔色一つ変えず、ソロモン機関への警護が不十分であったことへの抗議を〈高天原〉を通じておこない事を告げ、朱羅木と青桐には分家の若衆へも声を掛けて三人の捜索をするよう命令した。
「〈K〉が何を企み、我々の能力を欲しているのか解らないが、よからぬことに利用されるのは断固阻止しなければなりません。彼等の手に落ちているなら、最悪、千秋を処理する事も考慮するべきですね」
 そう述べた冴夏の表情に肉親の苦渋や葛藤の色は見られず、何時もの様に冷然と指示を下す当主代行のままだった。
「そうですか……」
 春奈は青桐から冴夏の様子を聞き沈痛な面持ちで目を閉じた。
 冬峰を千秋の護衛に着けたのは間違いだったのか? 冬峰だけでなく青桐や朱羅木、その他の腕の立つ物達を同行させるべきだったのか? 千秋と冬峰は〈K〉の手の落ちたのであろうか。
「冬峰さんが無事なら、千秋さんに何かあれば連絡してくるはず。恐らく二人共〈K〉の手に落ちたか、何らかの理由で連絡が取れないかもしれません。冴夏伯母さんの指示通り周辺への聞き込みと二人の足取りを追いましょう」
「承知しました」
「あと、〈K〉の召喚したであろう怪物について、何処へ行ったのかは報告は有りましたか」
「それは何も、目撃者の話ではマンホールの穴から突然現れ、消える時もあっという間だったとか」
 再び現れた時、どのように迎え撃つべきか。千秋は意を決したように二人を見つめた。
「また出現した時は私が相手をします。これ以上こちらへの被害が増せば、この町へ住む方々の私共に対する不信へと繋がるでしょう。それだけは避けなければなりません」
「当主自ら相手なさらずとも。彼奴等の相手は私共で十分かと」
 朱羅木の抗議に春奈は静かに首を振って答えた。
「私が御門家の当主に相応しい実力と器量があると〈高天原〉に認めて貰えれば、今回の様な外の機関の理不尽な要求にも意見出来るんじゃないかと、そう思うんです。自分の一族を守れない当主なんて存在する意味ないじゃないですか」
「……」
「……」
 青桐と朱羅木はそれ以上何も言えず黙り込んだ。恐らくこの若い当主は千秋と冬峰を失った自責の念に駆られているのだろう。しかし、当主自ら乗り出すのも雇われた我々が無能だということになりかねない。だが、昨晩此処に現れたもの達は、容易くこの庭に張られた結界を打ち破り、異形の怪物を出現させた。駅前に現れたものもその類であろう。当主である春奈に対しては当主の力を借りずとも相手できると豪語したが、実際のところ、苦戦は必須というの意が青桐の考察だ。
 青桐は若い当主を引き留めようと口を開いたが、不意に肌寒さを覚えて身を震わせた。急に気温が下がった様な感覚に囚われ窓に目をやる。
「……雪だと?」
 隣の朱羅木も窓から見える光景に眉を寄せる。若い当主だけは天井の大穴から空を眺めていたが。
 薄闇に覆われ始めた五月の夕方に白い粒が空から降りてくる。
「山から残雪が吹き下ろされてきたか?」
「障子が無いとやっぱり寒いですね。青桐、今日は炬燵を出しましょう。晩御飯は鍋物が食べたいです」
「春奈様。まず天井にビニールシートを被せるのが先では」
「何故、この時期に雪が降るのか。それを疑問に思うのが先では?」
 朱羅木は頭痛を堪えるようにこめかみに指を当てて二人につっこんだ。
「異常気象だから、じゃ駄目?」
「駄目です」
 外では既に大量の雪が宙を舞っており、天井と窓から吹き込む風に春奈は羽織ったカーディガンの前を合わせて震える。吐く息も白い。
「寒い! 早く冬峰さんを探さないと、今日のお鍋と明日の雪かきが滞ってしまいます」
「駄目人間だよ、この当主」
「今日は寒くて怪物は出てきませんよ」
 何の根拠も無く自説を口にする当主の動きが、ふと止まった。宙の一点を睨み付けて苦笑する。
「いや、来るか」
 当主の口調に朱羅木は背筋に冷たい氷柱が刺さった様な感覚を味わった。それは普段の春奈の様な温かいゆっくりとした口調ではなく、硬質な人間らしさを感じさせない口調で、春奈とは違う人物が彼女の中に入って喋っているようであった。
「青桐、朱羅木、何か異質なモノが此処を目指しています。二人はこの屋敷内で待機して妹達を守って下さい。私は外でやって来るものを迎え撃ちます」
「春奈様!」
「この地の八百万とは異なる鬼気を持つものが私を狙っています。恐らく昨夜の戦いで私に狙いを定めたのでしょう」
 青桐は三和土に下り外に出ようとする春奈の前に回り込み、その肩の手をやり押し留める。
「春奈様、お待ち下さい。これからここに来るものが昨晩同様、我らの理から外れたものならば、当主である貴女を危険に晒すことは出来ません。まず私と朱羅木で相手致します」
「しかし」
「私の陣地も強化しておりますし、朱羅木も今度は油断する事は無いでしょう。私共は春奈様の警護を任されております。まずは私共の顔を立てて頂けませんか」
 春奈は黙って青桐を見た。春奈にとって青桐は護衛では無く数少ない年上の友人で、今までそのように接してきた。しかし青桐にとっては春奈とはいくら親しくなろうが仕える主人なのである。そんな大切な主人を危険に晒すことを青桐は出来なかった。
 春奈は静かに息を吐いて青桐を見つめる。
「解りました。二人に任せます。しかし二人掛かりで倒せないならすぐに私を呼んでください」
「承知しました。では」
 朱羅木と青桐は中庭に出て頭上を見上げる。外は吹雪により白い世界と化して、視界は雪のカーテンに遮られ五メートル先も見えない。
「朱羅木、屋敷の門を守って。私は陣地で侵入者を迎撃するわ」
 青桐は木箱を足元に置いて蓋を開けた。そこには昨晩同様、精密な春奈の住む本家の屋敷の正確なミニチュアが収まっている。
 その隅に置かれた赤いビー玉が素早く転がり、門の手前の青いビー玉の横でピタリと止まった。
 昨晩、青桐はフェランに青いビー玉は朱羅木、赤いビー玉は敵であることを説明した。となると敵は朱羅木に肉薄していることになる。
「朱羅木、気を付けろ! 敵はもう来ている」
 その言葉の終わらないうちに朱羅木の頭上から雪を纏い付かせた巨大な手が現われ、朱羅木の襟首を掴んだ。それと同時に朱羅木は頭上をふり仰ぎ、愛用の九七式小銃の銃口を頭上に向ける。
 銃声。
 それきり青桐の前から巨大な腕も朱羅木の姿も消え失せて、後には悲鳴の様に吹きすさんだ吹雪の風音とただ独り中庭に立つ己が残された。
「何が、あったの?」
 赤と青、二つのビー玉は箱庭の隅に戻っており、それは朱羅木も敵も箱庭の探知範囲から遠く逃れていることを示していた。
 今回製作した箱庭は侵入した外敵を閉じ込める篭目模様の上に作られており、迎撃用として所々に竹串を逆さに差し込み、相手が近付くと自動的に刺さる仕掛けを備えている。当然門の傍にも備えてはいた。しかし今回の敵は箱庭の結界に囚われる事も無く、朱羅木を連れ去った。
 今回の敵は猛スピードで飛行する何かで、視認する事も難しい存在となると、迎撃用の八咫烏やたがらすで何とかするしかない。
 青桐はスーツの懐から黒い羽根を抜き取り箱庭に突き刺した。
「相手が足を止めてくれるかどうか。結界は強化しているから一度捉えると脱出は不可能なんだが」
 赤いビー玉が震え青いビー玉を引き摺る様にして転がり始めるのを目にして青桐は宙を仰いだ。篭目門に赤いビー玉が触れる。
 次の瞬間、箱庭は爆発したように周囲に飛び散った。
「何!」
 背後に飛びずさり破片を躱した青桐は、吹雪の中、高空から自分目掛けて何かが飛んでくるのを目にして脇に身体を逸らしてやり過ごす。
 その飛んで来たものは地面に激突してバウンドした後、中庭を転がり庭石に乗り上げてようやく動きを止めた。
 青桐は吹雪で視界が効かないので、その物体が何なのか見極めようと警戒しながら近寄る。それが人間であり黒スーツを身を着けた者だと判り、足を止める。
「……朱羅木」
 部下の傍に膝を付き、寒さの為青白くなった顔を見下ろす。落下の衝撃か手足はあらぬ方向に曲がっているが、それまでに事切れていたのかもしれない。
 青桐は歯噛みした。既に自分の武器は破壊され、長年の相棒も命を落とした。それはいい。御門家の警護に着いた以上、任務で命を失う事は既に覚悟している。口惜しいのは、敵に一矢報いることなく敗れ去り、我が主人を守れない事だ。
 あの、人と争う事の似合わない、いつも人を安心させるような笑みを浮かべる女当主を守れない事だ。それが酷く悲しい。
 朱羅木の亡骸からゆっくりと顔を上げる。
 いつの間にか吹雪の向こう、十五メートル程の高みに青緑色に燃える炎のような星が二つ並び自分を見下ろしていることに気が付いた。
 青桐の周囲を吹雪く風はどんどん勢いを増していき、青桐の体温を奪っていく。
 感覚の無くなった四肢を動かそうと試みるが既に凍りついたのかピクリと痙攣すらせず、ただ、こちらに伸びてくる白い雪の結晶を纏わせた巨大な手がのばされるのを呆然と見つめる。
 それが止まった。
 戸惑ったようにその二つに並ぶ星が揺れ、屋敷の方へ向きを変えるのにつられ、自分も力を振り絞りその方向へ目を向ける。
 そこにいた。
 屋敷の屋根に開いた大穴の傍らに、純白のコートとロングスカート姿の春奈が招かれざる来訪者を見据えている。しかし何時も絶やさない温かい眼差しと優しげな微笑みは鳴りを潜め、代わりに何の感情も読み取れない冷え冷えとした硝子の様な黒瞳が招かれざる来訪者に向けられていた。
 おかしな事に吹きすさぶ吹雪にも拘らず、彼女の長い黒髪や純白のコートの裾ははためかず、ただ静謐にその身を覆っていた。
「貴方が何者か、それはどうでもいい事ですが、貴方が手に掛けた者とこれから手に掛けようとする者は私の家人です。これ以上の狼藉を起こすのなら当主の責にて祓うことになりますが、よろしいですか」
 そう言い終えた春奈の頭上に白い靄を纏い付かせた巨影が現われ、その大きな掌を眼下の豊かな黒髪にのばした。
 いや、伸ばしかけてその姿が無い事に気が付いた。
「成程、貴方も風を操り飛ぶことが出来るのですね」
 その声は燃える星の頭上より響き、そいつはその方向へ向き直った途端に衝撃を感じて中庭に弾き飛ばされる。
「わっ」
 青桐は辛うじて屋敷の陰に逃れ、それの落下の衝撃から身を守った。
 青桐は来訪者が振り向いた瞬間、その身を弾き飛ばしたのが燃える星と星の間に叩き込まれた春奈の蹴りであることを辛うじて見てとった。
 その巨影に纏わりついた白い靄が吹き飛ばされて、白い光沢のある外皮を持つ細身の巨人の姿が吹雪の中に現れる。
「あれは?」
 青桐はその正体を見極めようとしたが、再び白い靄を纏った巨人は落下の衝撃を物ともせず平然と立ち上がり、一声吠えた。
 春奈はその咆哮に怯えた風も無く、宙に浮かびその巨人を見下ろす。
「如何やら私も攫うつもりでしたか。それは容易い事ではありませんよ。せめて玉泉洞の茶菓子を土産にして頂かないと」
 青桐は、普段の春奈かのじょならきっとお茶菓子に釣られるんだろうなと、部下にあるまじき感想を抱いた。
 ふわりと巨人が宙に浮かぶ。
 吹雪く白いカーテンが春奈の視界から巨人を覆い隠した。吹雪で視界を惑わせ、風の音で聴覚を狂わせる。その間に奇襲をかけるのがこの白い巨人の好む狩りであった。
 しかし今、相対している獲物はそんな絶体絶命の状況にも係わらず平然と、眼下の巨人へ余裕めいた冷笑を向ける。
 巨人はその彼女の周囲に風が渦巻いており、吹雪から彼女を守っていることに気が付いた。
「さて、こうも視界が遮られては戦い難いですね。此処は切り開いてしまいましょう」
 そう呟いて彼女は右手を手刀の形にして頭上にかざした。
草薙剣くさなぎのつるぎ
 袈裟懸けに振り下ろす。
 その手刀の通り抜けた空間に風が奔り、その呼び名の由来である焼津の草花の様に吹雪がザックリと切れて、その向こうの風景を露わにした。
 更に巨人を覆っていた白い靄も切れて、巨人の全貌が明らかになる。
 それは巨大な骸骨ような頭部、肩、胸部、下碗、脛から下に鎧の様な白い外皮が被さり、その間を黒い骨の様な機関が繋いでいる。頭部の骨格は後方へ長く伸び、体全体も細い。まるで空気抵抗を少なくする為に作られた巨大な人形のようだ。
 それが一声吠え、背後に飛び退いた。巨人の左手首から先が刃物にでも切られたかの様に滑らかな切断面を晒して無くなっているのは、吹雪により春奈が行動不能となっていると判断して捕えようと左手を伸ばしたところを、春奈の手刀の起こした風により切断されたのだ。
「逃がさない」
 横なぎに振られる手刀。
 巨人が咄嗟に上空へ飛ぶと、中庭の土壌が巨大な銃器に掘り起こされたかのように真一文字に抉れる。
「あら、庭師に怒られるかも」
 春奈はぺろりと舌を出してから空気のはためく音を残して飛び上がり、巨人を追撃する。
 黒髪とコートを靡かせて巨人を追う姿は、普段の彼女と違う凛とした美貌も相まって、悪鬼を払う神々しさを備えた女神のようで青桐は見惚れて息を漏らした。
 巨人は追い付かれると判断したのか、春奈へ向き直りその巨大な鋭い爪を絶妙なタイミングで彼女の頭上に振るい叩き落とそうとする。
 ふわりと白いコートが閃いて、春奈の身体は螺旋を描いてその掌を掻い潜り、キリンの首の骨ほどもある指先を右手で掴む。
「捕まえた。火之迦具土ほのかぐつち
 巨人は己の右指先を掴んだ春奈の掌が熱を帯びたので咄嗟に引き外そうと身を引いたが、時すでに遅し、熱は彼女の手から巨人の下腕に伝わり内側から炎を吹きだした。
 春奈から距離をとって着地した白い巨人は、そのまま地響きを上げて両膝を着く。
 巨人の左手は焼け崩れ、肩から先を失っている。対して春奈は無傷。
 一見、頼りなげな両家の御嬢さん風の彼女だが、その戦闘力が眼前の巨人を凌駕していることを誰が予想したであろうか。
「これまでのようですね。何処の誰かは存じませんが、私の僕の命を奪った以上、それなりの落とし前はつけさせてもらいます。まあ、大人しくしてくれるなら滅ぼしはしませんけど」          

Re: 天門町奇譚 ( No.28 )
日時: 2020/07/22 01:08
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 宙に浮かび巨人を見下ろす春奈は勝者の余裕めいた笑みすら浮かべている。
 白い巨人はその燃える目で春奈を見上げてふわりと巨体を宙に舞わせた。しかし、ここから猿様子も無く春奈と相対するように同じ高さまで浮かび上がる。
「如何やらこの場で滅びる覚悟があるようですね。それとも逆転の一手を持っているのかしら」
 小首を傾げる春奈に向けて、白い巨人はその咢を大きく開いた。その黒い穴のまえの空間が少しづつ輝き始め広がっていく。何かが反射して瞬いているのだが、春奈はそれが凍りついた大気だと気が付いた。
「絶対零度。これは草薙で切り落として防ごうとしても、逆に凍りつかされるかも。火之迦具土でも防げるかどうか」
 全てを凍りつかせる息吹を前に、流石の春奈も口元を引き締める。
 死をもたらす輝きは巨人の口腔内で膨れ上がっていき、空気の凍りつく音さえ聞こえてきそうだ。
 春奈はその輝きに対して右掌を突き出しただけだった。掌ひとつでそれを止める自信があるのか、春奈の表情に怯えや恐怖は一切見られず、凛として白い巨人を見返している。
 遂に巨人の咢から輝きが溢れ、次の瞬間、薄いガラスの割れる様な音と共に春奈に向けて吹き付けられた。
 その美しく目を奪われそうな輝きに幻惑されたのか、春奈は避ける素振りさえ見せず正面から受け止めた。
天岩戸あまのいわと
 春奈の声に応えるかのように、春奈の眼前に黒曜石のように輝く障壁が出現した。
 その表面に激突した絶対零度の息吹は、それを突破することが出来ず氷の花の様に開き散らされていく。
 その余波を浴びたのか春奈の足元にそびえる葉桜の広がった枝や葉が凍りつき割れて落ちる。
 下から見上げる青桐からは、飛び散る凍りついた空気で春奈の姿は見えない。ただ己の当主が無事であることを祈るしかなかった。
 ついに数秒間続いた光の奔流が途絶えた時、春奈と春奈を守るように出現した黒い壁は攻撃を受ける前からの姿勢を崩すことなくそこに留まっていた。
「無駄な事。神代にあってこの世の全てから太陽を覆い隠した岩戸を貫けるものなどあるわけないでしょう」
 春奈が手を下ろすと天岩戸と呼ばれた障壁が消え失せ、代わり燃える炎のような眼光を動揺するように瞬かせる白い巨人が残された。
 動揺を隠すかのように春奈の周囲に吹雪が巻き起こるが、彼女に対しては何の効果も無い事は、それを行っている巨人が一番よく解っているだろう。
「さて、この地に足を踏み入れ我が使用人を害した罪。その猪首を頂いて帳消しとしましょうか」
 春奈は半眼となって両手を広げて肩の高さまで上げた。
「我は皇御孫命の命持ちて〈神の威〉を狩るもの。荒ぶる神達をば末打ち断ちて祓い清め給わん」
 音を立てて彼女の胸前で両掌が組み合わされる。
 白い巨人には彼女の両掌が組み合わされる直前に、何らかの力が生じて両手に挿み込まれるのを見てとった。
 春奈の組み合わされた両手が頭上にあげられ、白い巨人はその白くたおやかな掌に抱かれた一振りの剣を幻視する。
 それは細く長い刀身を持った剣であった。青白い光沢を持った刀身に刃は付いておらず、代わり人物の顔をかたどった様な模様が浮かんでいる。奇怪な事にその模様は細かく蠢いており、時折、震えては大きさを変えていった。
 その模様からは常に霧の様な者が吐き出され白い巨人に絡みついて来る。
「神殺し〈十拳剣とつかのつるぎ〉」
 その模様が吠えた。春奈の名乗りに合わせる様に一斉に吠えた。
 いや吠えたのではない。一斉に苦鳴を上げたのだ。模様の様に見えるのは様々な形をした何者かの首で、それが己を見つめて怨忌の声を上げているのを白い巨人は見てとった。苦しいと、この苦しみ、己以外の者に味合わせてやりたいと。
 白い巨人が、本来持ち合わせてない恐怖をその剣に感じ取った時、風を巻いて春奈が突進する。
 その砲弾の様な速度での一撃のもたらす結果に、白い巨人は戦慄した。
 春奈の両手が振り下ろされ地に着地した時、その場には春奈ひとりが佇んでいた。
 白い巨人は己の巻き起こした吹雪諸共、間一髪で一撃を躱し何処かに飛び去ったのだ。
 虚空を見上げていた顔を伏せ、軽く息を吐き構えを解く。
 青桐は春奈に駆け寄って、己が主に異常のない事を見てとってから控えめに「逃しましたか?」と小声で尋ねた。青桐の眼にも白い巨人が消え去ってから、春奈がその位置で両の手を振り下ろした事が見てとれたのだ。
 対して春奈は逃した事にさほど痛痒を感じていないのかあっさりと首を振った。
「いいえ、これでいいんです」
「はあ、春奈様が良いのならいいのですけど」
 釈然としない口調で青桐はそれ以上の問答を打ち切った。主の機嫌を損なうことを恐れたのだ。
 春奈は地面に付したもう一人の護衛、朱羅木の傍らに歩み寄り目を閉じた。
「青桐。朱羅木は勇敢でしたね」
「はい」
「頭首として、これ以上、犠牲は出せません。分家の者達に千秋さんと冬峰さんの行方を注意して探す様に下知してください」
「承知しました」
 恭しく首を垂れた青桐に背を向けて、春奈は己の玄関の戸を潜った。拳を軽く握り締める。
 両親を失ってから、ずっと胸の内で見知った顔を失う事を恐れていた。
 これ以上は許さない。
 あの白い巨人がこの町に災厄をもたらした彼等に対しての宣戦布告だ。春奈はそう胸の内でこの戦いに身を投じることを決心していた。

 雪煙を身に纏い、白い巨人は日本の天門町から遠く離れたカナダの森林地帯に着地した。
 後を振り返る事も無く全力でこの地まで駆けて来たのだ。
 古の戦いにてこの星に追い落とされて以来、この様な敗走を味わう事などなかった。
 己を窮地に追い込んだ少女の姿を思い起こす。
 己と同様に風を操り宙を浮かぶだけでなく、攻撃の手段として用いている。それだけでなく炎や空間遮断の術を自在に操っているのは驚嘆すべきことだろう。
 そして最後に見せた美しくも禍々しい剣。実体のない幻の様な剣であったが、それを目にした途端、本来知るはずもない恐怖を味わった。
 あの剣は一体? 
 そう疑問を浮かべた己の視界が急に下方へ流れ横倒しとなった。
 転倒したのかと、手を動かそうとするが身体はピクリと動かずに元の姿勢を保っている様だ。
 視線を巡らす。
 視界に見慣れた己の身体が、首を失った状態で両膝をついて伏せている。
 それに驚愕する間も無く、氷山が崩れる様に両腕、胸部が徐々に崩れは消え失せて行った。
 そして原型を留めぬほどに胴体が崩れるのを見届けた後、その首も燃え上がる炎のような両眼を閉じて胴体の後を追うように崩れ消え去って行く。
 数十秒後、その地に異形の巨人がいた形跡などなく、ただ無人の森林が広がるだけであった。

               5

 フェランとホーヴァスは夜中まで倉庫内で体を休めてから町の中心部に向かって徒歩で移動してた。夜中まで待ったのは冬峰が目を覚ますまで待つことにしていたが、結局、彼は目を覚まさずホーヴァスが彼を背負う事となった。見た目はともかく人間形態でもフェランよりホーヴァスの方が体力もあり、力が強いのがその理由だ。
「しかし、本当に死んでるように眠るよな」
 フェランは三メートル程ホーヴァスより先行して路地を偵察しながらホーヴァスに語りかける。
「呼吸は長くて深い。脈も少ない。出血多量かとおもえば顔色はそう悪くはない。でも目を覚まさない。一体なんだろな」
「そうだね。多分、消耗した体力を補おうとしているんだよ」
「それなら、別の意味で安心なんだがな」
 フェランの口調に安堵感が混ざるのは、この少年がいったい何なのかを掴みきれてないだろう。不死の指導者を滅ぼしたり黄の王を撃退したり人間離れした活躍を見せているが、この様に体力の消耗で眠り続けていると。、この少年も人の子なんだと安心するのである。
「取り敢えず此奴を家族の下に送り届けてから、千秋君を攫われたことの報告と奪回の協力を要請する。今回は教授の様にハスターの加護は得られないし、迅速な行動する必要がある。彼女に何があるのかはわからないが、彼女を利用するのに作り替えられたり、脳髄だけで生きられるように処理されては救い出す意味はないからな」
 確か、かの有名な作家も脳髄だけにされた上、銀の箱に詰められて無理矢理生かされているらしい。そうなると最早、機械と変わりない。
「同感。なら僕も協力を仰ごうかな。掴んだ情報もあるしね」
「情報?」
 フェランは振り返ってホーヴァスを見た。彼の口調に隠された苦渋と焦燥感を読み取ったのだ。
 ホーヴァスは唇の端を噛みしめてひとつ頷いた。
「うん、僕等の仇敵、〈K〉についての情報だよ。この日本での活動がどう関わっているのかは解らないけど」
 倉庫内では二人共、これまでの疲労を回復する為に冬峰の看病の傍ら、それぞれ時間をずらして仮眠を取っていた為、それ程情報を交換する時間は無かったのである。
 旧友が情報を追ってこの地に辿り着いた以上、今自分が関わっている件と、ホーヴァスの突き止めた情報は関係している可能性は高い。しかし、ホーヴァスは、欧州侵攻について調査していると述べていた。
「まさか」
「うん、世界規模の侵攻作戦が発動されるかもしれない。その起点を掴んだんだ」
 二人は木々に囲まれ、地面をブロックで敷き詰められた公園に足を踏み入れた。右側に神門資料館、左側に人工的に雑木林が作られて奥に市営の美術館と図書館が建てられている。
 駅の住宅地と反対側に作られたこの公園は、若者の集うイタリア広場と異なり静寂を求める高齢者や図書館で借りて来た本を読む者達が腰を下ろしている。
 しかし真夜中である今は、誰もいない白い公園を薄暗い街燈が照らしているだけだ。
 フェランは左右を見渡し人影の無いことを確認してから公園の通路を渡り始めた。見晴らしの良いこの場所は偵察している〈K〉の連中に見つかると囲まれる可能性が高い。
「だとすると、ソロモン機関や各国の情報機関に急いで連絡を取るべきだな」
「出来ますか、ね」
 公園を半ばまで渡った三人の背後から、深く静かな声音が掛けられた。呟いた口調だが公園内によく響く。
 二人は迅速な勢いで振り向く。フェランの振り向いてからM1ガーランドを肩付けしてひっそりと街燈の傍らに立つ人影に狙いを付ける速度は、まさに熟練の兵士のそれだった。
 十メートル先の人影は先程まで無かったものであり、まるで其処から湧いたように出現したようだった。深き者共の知覚を備えたホーヴァスと、黄金の蜂蜜酒の常用により通常の数倍も優れた聴覚をもつフェランを出し抜く事が出来るのは、その相手も常人ではない事を物語っていた。
 その人影は豊かな黒髪と、浅黒い肌に切れ長の目をした端正な細面の顔に微かな笑みをうかべて恭しく一礼する。その黒の三つ揃いを着こなした姿は一流の主人に仕える執事の様に優雅であった。
 しかしフェランは街燈の光に浮かび上がったその姿を目にした途端、目を見開いて怨忌の声を上げ、M1ガーランドの引き金を引いた。
「貴様! ナイ神父」
 轟音と共に秒速八百八十五メートルで撃ち出された三〇ー六〇弾は、ナイ神父の額に向かって突き進んだが僅か十センチ手前でピタリと静止する。
「な……」
 フェランが絶句するのも当然であろう。銃弾はナイ神父の足元から突如生えて来た黒い触手のようなものに絡み取られていたのである。
「やれやれ、そこのお方、ミスター・ホーヴァスとは初対面ですから、自己紹介くらいさせてくれませんか」
 嘆かわしいと左右に首を振り嘆息する黒衣の紳士をフェランは親の仇でも見る様に睨み付けていたが、ホーヴァスは紙の様に蒼白と化した顔色で一歩退いた。
「駄目だよ、フェラン。ナイ神父の名は僕も聞いた事がある。僕らのグループではナイ神父は、決して出会ってはならない相手なんだ」
「おや、人聞きの悪い。こうして私自ら出向いているのは、貴方達のこれまでの健闘を敬意を抱いているからですよ」
 きゅっと黒衣の紳士の両唇が吊り上がる。慇懃無礼な態度ともの言いながら、フェランは底の知れない不安を目前の怪紳士に感じていた。
「これまでの活躍、ご苦労様でした。そして、さようなら」
 ナイ神父の言葉が終わらぬうちに、うわっとホーヴァスから驚愕した声が漏れた。
 ホーヴァスの右足が長く伸びたナイ神父の影に触れていたのだが、まるでその影が底なし沼となったかのように、右足からずぶずぶと地面に沈み込んでいった。
「ホーヴァス!」
 ホーヴァスは背負っていた冬峰をナイ神父の影の外に放り出すと、宙を仰いで雄叫びを上げた。体色が緑色に変化して光沢を帯びる。
 頭髪が短くなり体格が二回りほど大きくなる。姿勢が前屈となり左右の手に水かきのついた鉤爪が生えて、ホーヴァスの容姿が半魚人の深き者共へと変化した。
 ホーヴァスはその大きな掌を底なし沼と化したナイ神父の影から出して公園の地面へ鉤爪を突き立てて、一気に影から抜け出ようと力を込めた。
「!」
 しかし鉤爪は地面を引っ掻き乍ら徐々に穴の縁へと近づいて来る。深き者共の力を以てしても、この影の沼への沈下は止められず、ホーヴァスは胸の下まで沈み込んでしまった。
「フェ……ラ……ン。ル、ルイ、エ。また、ルルイ、エが、浮上……する」
 ホーヴァスは己の掴んだ情報をフェランに伝えようと、深き者共の姿のまま声を発した。この状態では声帯が変化しており人の言葉を発するのに適さないが、かといって人間形態に戻るとあっという間に影に飲み込まれてしまうだろう。
「ふ、復……活を、止め、ないと。フェラ……ン。世界を、救って……」
 言葉が終わると同時にホーヴァスの全身が影の中に沈み込んだ。そして、骨を砕くような咀嚼音が公園に響き渡る。
「ホーヴァス……」
 呆然とホーヴァスの沈み込んだ影に目を落としてフェランは立ちすくんでいた。表情は無くただ虚ろに失くした仲間の名を呼んだ。
「さて、残るはあなたと教授だけですな。ミスターフェラン」
 フェランはのろのろと黒衣の紳士に顔を向けた。信じられないというかのように呆然とした表情から、徐々に眼が危険な色を浮かべてくる。それは憤怒だ。
 また仲間を目の前で失ってしまった。助けられず、只々見る事しか出来なかった。己の力が足りず何も出来なかった。
 フェランはM1ガーランドの銃口を再びナイ神父に向ける。この武器が通用しないのは解っている。しかし、それでもホーヴァスの死に一矢報いたかった。
「素晴らしいね。その怒り。人間の最も強い感情だ。君を生かしておいて正解だったよ」
「ふざけるな」
 低い呟きと共に、それを打ち消す銃声が公園の深い闇に木霊する。
 七発を撃ち尽くし、M1ガーランドの機関部からクリップが排出され宙を舞う。
 フェランはコートから七発の三〇ー六〇弾の装填されたクリップを取り出して、M1ガーランドの機関部に装填する。その弾丸三〇ー六〇スプリングフィールドの強烈な反動を抑え込んだ無理な連射で右肩に鈍痛が沸いているが、そんなことはどうでもよかった。
 ナイ神父は先程から姿勢を崩さず、悠然とフェランを眺めている。唯一違う点は彼の前に、弾丸が宙に浮いていることだ。
「暇つぶしに自動的に発動する防御機構を作ってみたのだが、それなりの役に立つようだ。まあ、この程度の攻撃なら私は何発受けても平気なんだがね」
 足元から弾丸の数だけ湧いた触手は、それぞれが音速を超える弾丸を絡め捕りフェランの攻撃を無効としていた。
「まあ、君もせっかくの弾丸が無駄に消費されるのは面白くないだろう」
 ナイ神父の右人差指にはめられた指輪の黒い宝石が鈍く輝く。
「これで防御機構は作動しない。さあ、撃ちなさい」
 誘うように笑みを浮かべた顔を前に突き出す。
 間髪入れず、その端正な顔に黒点が次々に穿たれる。
「いや、一発で十分じゃないかな」
 八発の弾丸を受けたダメージは一切無いのか、ナイ神父は弾痕の消え去った額にかかる黒髪を掻き上げて嫣然と笑った。
「くっ……」
 対するフェランは再びM1ガーランドに弾丸を装填するが、歯を食いしばった表情から、彼のどうしようもない苛立ちが見て取れる。
 彼に目の前の脅威を排除する力はなく、己の身を守る術もない。無力な人間としての限界を感じながらも彼は抗い戦い続けるしかなかった。
「君の出来ることはこれだけかね。なら、終わりにさせてもらうが。先ずは……」
 指輪が煌めき、ホーヴァスの沈み込んだナイ神父の傍らから触手が這い出し、その傍らに臥した冬峰の手足に絡みつく。
「この少年から頂こうか」
冬峰はゆっくりと引き摺られて影へと近付いていく。
「くっ」
 フェランは冬峰の手足に絡みついた触手を断ち切ろうと触手に向けて銃撃したが、その弾丸は影から飛び出た別の触手に絡み取られ地に落ちる。
 そうしている間にも冬峰の右手が影の中に入り二度と抜け出ることのない深淵へ落ちようとしていた。
「やめろ、この少年は関係がない。見逃してやれ」
 フェランの懇願に黒衣の紳士は優しいほほ笑みで答える。
「関係が無ければ、あなたはもっと苦しみますね。好都合です」
 表情とは裏腹な無慈悲な言葉を口にして、ナイ神父は顎をしゃくった。


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