二次創作小説(新・総合)
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- 天門町奇譚
- 日時: 2020/07/19 13:49
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
序 異界侵食
まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。
しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
ごぽっ。
背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
ごぽっ、がぱっ。
何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
ごぽり、
芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。
- Re: 天門町奇譚 ( No.39 )
- 日時: 2020/07/22 21:20
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
第六章 独り
1
「くはっ」
兵士は大きく息を吐いて、背後の奇妙な象形文字の刻み込まれた黒光りする石柱に凭れ掛かった。
石柱と同じ素材であろう起伏に富んだ地面はそこを歩く者の三半規管を狂わせ、おまけに油断をすれば足を滑らして横転するに違いない光沢を放っている上、緑色のかかった黒色の泥の様な異臭を放つ物質が所々に地面に落ちており、石柱の間を通り抜ける際に幾人かがそれを踏み付けてバランスを崩し、地面の傾斜に沿って暗い谷底へと落ちて行った。
兵士は辛うじて石柱にしがみ付いて同僚と同じ運命を辿ることを回避した。しかし己の身を守るAK103自動小銃は同僚たちと同じ場所へ落ちてしまったが。
時折聞こえる銃声も次には悲鳴へと変わり、再び静寂がこの奇妙な石柱の立つ島を支配する。
「くそっ、オルケン、マーカス、誰かいないのか」
ヘルメットの側面から伸びるラジオマイクを口元に伸ばして、周囲に声が漏れぬようにして共に上陸した仲間に呼び掛けるが、聞こえるのはノイズ音ばかりで応答は無い。
思えばこの島の領海に近付いた時から地獄に足を踏み入れたのだろう。
彼等の所属するソロモン機関は偵察機からの南緯四七度九分、西経一二六度四三分に奇怪な島が出現との一報を受け、急遽、邪神復活対抗部隊を編成、その海域へ派遣した。
大異変以降、南半球の海域は異形の怪物が跳梁跋扈する危険地帯と変貌しており、人類は北半球へと退避するしかなかった。
ソロモン機関は、その魔の海域へ太平洋の島々を奪還する作戦の一環として、上陸作戦の中核となるべく開発された新型強襲揚陸艦を派遣した。
全長二百メートル、全幅二十八メートル、喫水六・九メートル、満載排水量二万二千トンと一国の軍隊が所有していても不思議ではないこの船は、甲板が空母のごとく、飛行甲板の役目を果たしており、S65C3大型輸送ヘリを通常八機搭載出来る。
また、船体後部は長さ五十メートルのウェルドックとなっており、通常はウェルドック手前に中型揚陸艇が四隻、奥に旧式だが小型で軽いPT76浮航軽戦車が一六台格納されている。
その反面、武装に関しては二十ミリ単装機関砲が二門、十二・七ミリ機関銃が四門、RAM近接ミサイル発射機が一機と船の規模としては少々物足りない。
それに乗り込んで出港した彼等は、それぞれが深き者共を中心とした海からの侵略者相手に視線をくぐり抜けた強者だったが、太平洋に突如出現した黒い石柱が無数に立つ島に到着して、その島から吹きつけてくる鬼気を感じた途端、己の深い部分にその島で眠るモノへの怖れが湧きあがって来るのを感じた。
島の全貌を探る為に、島の上空を一周したS65C3からの報告は、その島の攻略が容易なものでない事を兵士達に知らしめた。
島の沿岸部から島の中央部の一際大きな尖塔を囲むように林立する黒い石柱は、高さはまちまちで太さも一定ではない。島の沿岸部から島の中心へ三百メートル程は石柱の間隔が狭く城壁の様な役割を果たしている。また石柱は直立しているわけでなく、斜めに傾いでいるものも確認できた。これは島の地面が様々な方向へ傾いていることが原因のようだ。
島の中央へ進むほど石柱は太くなるが数は減ってきており、島の中心部は直径二百メートル程の広場とその中央に立つ巨石から作られたと思われる奇妙な角度で構成された鉄扉を備えた尖塔が周囲を睥睨していた。
恐らく今回の彼等の任務である攫われた少女はこの尖塔に幽閉されているのだろう。奪還が不可能な場合は、彼女諸共、この尖塔を破壊するよう指示が出ている。
問題は沿岸部の石柱群は石柱間の幅が狭く、小型なPT76の全長七・六三メートル、全幅三・一四メートルの車体すら通り抜け出来ない事だった。また上空から観察すると地面の凹凸が酷く戦車や軽装甲車では傾斜を乗り越えられないとの報告が上がった。
ヘリで兵士達を降下させる案が出されたが、外周部は石柱群の間から吹きあがる風の方向が不規則で、揺らいだヘリ同士の接触の可能性がある事、島中央部は目標の前で広い為、降下ポイントとしては最適だが、石柱群から通り抜けた風が巨大な尖塔に当たって吹き上がり上昇気流を生み出している事から、上空の通り抜けは出来るが兵士の降下時に静止するには適していないとの連絡が偵察ヘリから届いた。
結局、作戦は中型揚陸艇で沿岸部に接岸。そこから歩兵が石柱群を通り抜けて党中央部を目指す作戦が採用された。幸いにも今回は不測の事態に備えて、搭載ヘリの構成S65C3大型輸送ヘリ六機とAH64攻撃ヘリ二機としたことだ。沿岸部で不測の事態が発生した場合、歩兵の火力不足をこの二機のAH64ヘリで補うこととする。
そして四隻の揚陸艇とソロモン機関の兵士百二十人によるルルイエへの上陸作戦が決行された。
しかし四隻の揚陸艇がウェルドックから出航、ルルイエと強襲揚陸艦との中間地点に達した頃、その周囲に海中からの浮上する影が接近して、揚陸艇の船体の縁に居る兵士達が海面を覗き込む。
数人の兵士はシャチやサメの類かと警戒してAK103やバレット対戦車ライフルを構えたのだが、実際それより性質の悪いものだった。
突如水飛沫と共に現れた全長三十メートルを超える巨大な半魚人、いや深き者共の集団に強襲揚陸艦と四隻の揚陸艇は囲まれて行く手を阻まれ、揚陸艦に至っては甲板によじ登られてしまった。
艦載ヘリがヒレの付いた鉤爪で各部を壊され飛行不能となる中、何とかAH64と数機のS65C3が発進したが、それもジェット戦闘機以上の速度と運動性を披露する巨大な蝙蝠の様な化物との空中戦に敗れ、一機、また一機と叩き落とされていった。
強襲揚陸艦は、機関砲と機関銃、エレベーターから甲板に上がって来たのPT76の四二口径百二十ミリ砲等の重火器で甲板と艦を取り囲んだ巨大深き者共相手に奮戦していたが、観測手が海中レーダーに映る急速浮上する二つの巨大な影を認めた直後、轟音と共にウェルドックを破壊された。
神よ、と艦長は呆然と口にしたが、それを咎める者は艦橋におらず、皆、船外の光景に目が釘づけとなる。
浮上したものは海上に浮き出た上半身の巨大さから、およそ百メートルを超える巨体を持つ深き者共であった。
強襲揚陸艦の艦長は三年前からソロモン機関に雇われており、雇用契約時、海上で遭遇する怪異について数時間の講義を受けていた。その中で危険な怪異のひとつとして挙げられたものの特徴と出現した巨大なものの特徴が一致して、艦長は総毛立った表情を浮かべる。
「ダゴンとヒュドラだ。反転、退避」
大いなる〈K〉の従者であり、古代ペリシテ人に崇拝されていた魚神の名を口にした。
すぐさま退避行動に移る揚陸艦であったが、二匹の巨大な深き者共、ダゴンとヒュドラは深追いせず、島を守るかのようにその場にとどまり続けるようだった。
そして最も災難だったのは揚陸艇で島に向けて出発した兵士達だった。
彼等の乗る四隻の揚陸艇は巨大な深き者共に船底に手を突っ込まれて力任せに一隻残らず引っくり返され、乗員は装備諸共に海に投げ出されてしまう。
その投げ出されたソロモン機関の兵士に、与えられたエサに群がる鯉の様に通常サイズの深き者共が鋭い牙や鉤爪で襲い掛かる。
海中で悲鳴を上げる間もなく捕食、解体される兵士達の流す血で海面はどんどん赤く染まっていく。
幾度となく異形の者相手の危険な任務に駆り出されてきた兵士達であったが、この島に到っては生きて帰ることが想像出来ない地獄に違いなかった。
何人かは辛うじて島に辿り着き、沿岸部の石柱群に足を踏み入れた。
だが、其処にも彼等の命を奪う異形の者共が潜んでいたのである。
「クソッ」
同僚との交信を諦めて右太腿のホルスターからグロック22を抜き放って周囲を警戒する。固い鱗を持つ深き者共には通用しない代物だが、己の身を守れる装備など、これとナイフ以外は残されていなかった。
何かの気配を感じて頭上を見上げる。
其処には黒光りする石柱の表面に張り付いているイモリの様な影があった。
しかし世界の何処を探しても人間大のイモリなど存在しないだろう。ましてやそのイモリの長く伸びた頭部にヘルメットの様なプロテクターが被せられ、やや左右に張り出した両眼には暗視装置の様なもので覆われてピントを合わすかのように伸縮を繰り返していた。その細く長い胴体にはプレート入りのタクティカルベストを着込んでいる。
「くっ」
グロックの銃口を向けるが、その時には既に巨大イモリは隣の石柱に飛び移り、素早く裏側に回って兵士の視界から消えてしまった。
此奴だ。此奴に仲間は次々と狩られてしまったんだ。
兵士は頭上を見回すが、先程の巨大イモリの姿は確認出来ず、周囲を静寂が支配している。
その奇妙な出で立ちをした巨大イモリは、沿岸部の石柱群に逃げ込んだソロモン機関の上陸部隊の兵士達を翻弄し、駆逐していった。
ある兵士は頭上から石柱を伝い音も無く降りて来た奴に首を噛み千切られ、またある兵士は石柱の間を素早く移動する奴を追い切れず鋭い爪で喉を切り裂かれたり、怪力で首をもがれたりした。
足下の石柱の裂け目から這い出して来る者もおり、兵士の何人かは防御出来ない内股を爪で抉られた者もいる。
その巨大イモリの身に付けた装備と人を狩る巧みさから、兵士の誰かが生物兵器ではと口にしたが、たとえそうであっても、奴等が脅威であることに変わりない。
兵士は頭上の変化を見逃さないよう周囲を見回していた為、足下に黒い影が走り抜けるのを見逃すと同時に、視界が反転して逆さ摺りとなった。
足首を片手で掴んだ巨大イモリが立ち上がったのだ。
そのまま勢いよく兵士の身体を傍らの石柱に叩き付ける。
骨の砕ける嫌な音に満足したのか、巨大イモリは地面に兵士を放り出した。
陸に引き揚げられた海老のように痙攣する兵士の頭に立ち上がったイモリの後ろ足が下ろされて、踏み付けられた卵の様に兵士の頭部がへしゃげ中身がはみ出す。
こうしてソロモン機関の上陸部隊百二十名は一時間もしないうちにその数を四分の一まで減らすこととなった。
2
「おっさん」
発艦してから五分ほど経過してからようやく冬峰が口を開いた。
「ホントに大丈夫か、これ」
「大丈夫、と信じて欲しいな」
武骨な空飛ぶ死神、AH64(アパッチ)の副操縦士席に腰掛けた冬峰の疑問に、前部操縦士席のフェランは些か心許ない返答を送った。
「此処、ものすごく狭くて息苦しいんだ。頭痛もする」
「Gがそれなりに掛かっているんだ、我慢してくれ」
冬峰がヘルメットを被れば多少は改善されるだろうが、これ以上窮屈なのは勘弁して欲しくて被らなかった。
冬峰はルルイエに着くまでの我慢だ。本当なら辿り着く事すら不可能だったのだ、そう自分自身に言い聞かせる。
横須賀からフェランの用意した快速艇に乗り換えて南下。そこからアメリカ海軍の用意した艦艇に乗り換えルルイエ上陸を行う予定だった。
しかしルルイエ近海まで突き進むとそれらの作戦が卓上の論理であり、異世界の化け物達の手強さを改めて知る事となったのである。
まず世界各国の護衛艦等の船舶は、身長三十メートルを超える半魚人や高速で海中を移動する不定形な生き物と交戦状態となり、引っくり返されたり艦橋を壊されたりする船が続出した。
魚雷や機関砲を用いて対抗しようとしたが、怪物たちの水中での潜航速度は原子力潜水艦す凌駕しており、近接信管を用いた爆発では相手の固い鱗、いやあそこまで大きくなると鱗というより正しく鎧だが、それに阻まれて致命傷を与える事すら出来なかった。
そうもたもたしている内に、深き者共が艦艇に侵入して乗員を殺戮する事態となり、いったん艦艇は領域外に撤退する事となった。
半日後、漸く船内に侵入した深き者共を偶然乗り合わせた少年剣士の助けもあり、何とか駆逐したアメリカ海軍だったが、予想以上の被害に作戦中止の判断を下さざるを得なかった。
航空戦力でルルイエ上を爆撃する案も出されたが、ルルイエ上空を飛来する巨大な蝙蝠の様な化物が先に到着したソロモン機関のヘリコプターを次々と落としていると聞き、同乗している自称ジャーナリストのオブザーバーに意見を求める事となった。
「無駄ですよ。まあ、星間飛行も可能だからな、アレ」
自称ジャーナリストの見物人は頭の後ろを掻いてそう呟いた。
しかし、これでは島に戦力を送り込むことが出来ない。
何も言わないが、護衛艦の厨房でおでんや肉じゃがを調理して、「サムライ・シェフ」と異名を頂いた相棒の癖毛の少年が、日を追うごとに不機嫌になっているは確かなようで、いつ彼が海に飛び込んでルルイエまで泳ぎ出さないかフェランは気が気でなかった。
そしてついに、いまだに強国であり続ける某国の大統領より、七十二時間以内に事態を収拾出来ない場合は、ルルイエに三度目の核攻撃を行う事が宣告された。
核攻撃では深き者共や〈大いなるK〉の眷属をどうにか出来ても、〈大いなるK〉そのものを滅ぼす事は出来ない。そして救うべき少女が巻き添えを喰らっては意味が無いのだ。
そしてフェランは一か八か賭けに出ることにした。
合流時に乗って来た快速艇でソロモン機関と合流してヘリコプターを借り受け、それに数の少なくなった眷属避けの五芒星形の石を張り付けてルルイエに上陸、千秋を取り戻すという、何となく行き当たりばったりの感のする作戦をソロモン機関に示し協力を要請した。
返答を簡単に要約すると「我が方のエージェントが到着するまでは時間が空いてるので、出来るのならやって見な」だった。
護衛艦の乗組員達に見送られながら快速艇で出発した冬峰とフェランは二日後、ようやくソロモン機関の揚陸艦のウェルドッグへ迎え入れられた。
揚陸艦の艦長と面会した二人は、島への上陸作戦は沿岸部の石柱を突破出来ない事、まだ三十人近くの兵士が沿岸部の石柱群に取り残されている事、そして正午には安全海域まで艦を下げて核攻撃に備える事を説明されて共に宙を仰いだ。
核攻撃まで八時間しかない。
そんな理由で、機首や風防、機体側面と四個の五芒星形の石を張り付けたジェット戦闘ヘリがルルイエに向けて飛び立ったのだ。
「でも、よくあんたを信用して貸してくれたな」
「まあ、死出の旅への駄賃のつもりかな。武装は全部取り除かれているしな。まあ、あっても使い方など解らないが」
フェランはうんざりしたようにAH64のコックピットに並んだスイッチ類を見上げた。
彼は離陸直前まで戦闘ヘリのパイロットに操縦方法と火器管制システムについて説明を受けていたのだが、デジタル機器と相性が悪いのか「離陸と着陸さえ出来たらいい」と言い出し、武装を全部取り外してしまった。
本来武装の取り付いていた両翼には、フェラン愛用のトンプソンやらM1ガーランド等の銃器類やその弾薬、爆破用のコードと爆薬が納められたコンテナが取り付けてある。
「こちらも操縦するのがやっとでな。何事も無く島の中央まで辿り着けたらよいが、まあ、無理だろうな」
「無理だろうね。あの神父がそんなに甘い訳がない」
「同感だ。……見えたぞ」
フェランの声が緊張で固くなる。
ヘリの速度が速いのか、海上に浮き出ていた点は徐々に大きくなり、冬峰の眼に奇妙な無数の石柱が立つ、靄に覆われた黒い島を映しだした。
「く……」
冬峰は僅かに目から脳に伝わって来る禍々しい気配に声を漏らした。
「あれがルルイエ、異形の神の眠る地獄だよ」
冬峰は刀の鞘を強く握り締めて身体の中に入り込んだ悪寒に耐えた。
はるか遠く天門町の駅前で遭遇した異形の者と似た気配だが、それが冬峰に恐怖を与える事は無かった。
しかし、あの島から放出される鬼気は冬峰に、本来彼の感じる事の無い漠然とした怖れを抱かせ、背中に冷たい汗を流させている。
「これは、千秋は無事なのか」
「解らん。二度、僕はこの島に上陸したが、その時でもこんなに濃密な気配は感じなかったぞ」
何かが違う、そう疑問を抱いたフェランをあざ笑うかのように、マッコウクジラの跳躍を髣髴とさせる水柱がヘリの前方に沸き起こった。
「ちっ」
ヘリの行く手を塞いだもの、それは指と指の間に鰭の付いた深き者共によく似た巨大な掌だった。
「回避間に合わん」
ヘリを衝撃が襲い、不安定に左右へ機首をふら付かせながらも島へ向かって飛び続ける。
冬峰とフェランの頭上からは軋み音が連続して起こり、ヘリの飛行が増々不安定となり、フェランのコントロールを受け付けなくなった。
「何とか岸まで」
「やっている。 対ショック姿勢!」
フェランの声と共に冬峰の視界が左右に大きく揺れた。
ヘリは海岸近くに着水するとローターやら安定翼の部品を撒き散らしつつルルイエの硬質な海岸へ滑って行った。
金属音と共にヘリの動きが止まる。
「?」
風防を開けてフェランが下を覗き込むと、ヘリは石柱と石柱の隙間に嵌り込んでおり、それ以上動かせない状態で浮いていた。
- Re: 天門町奇譚 ( No.40 )
- 日時: 2020/07/22 22:47
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
「助かった。今回は運が味方してくれるかもな」
「今ので使い果たしたとか」
余計な事を口にした冬峰に情けない視線を向けた後、フェランは石柱を伝って降りるよう伝えた。
「石をヘリから外してくれないか。もうこのヘリは使えないから付けていても意味がないだろ」
冬峰は風防と機体右側に接着された五芒星の印を引っぺがして、うち一個をフェランにン渡す。
「さて、此処から正念場。深き者共は石の力で近寄れないから、さっさと此処を抜けてしまおう」
ヘリのコンテナから武器と弾薬を下ろし終えたフェランは、ブローニング・BARをかまえて歩き出した。トレンチコートの下にはトンプソンが袈裟懸けに吊られており、コートのポケットは予備弾倉やら手榴弾で膨れ上がっている。
「待った」
冬峰が素早くトレンチコートの裾を踏み付けたので、フェランは仰け反りながら無様な声を漏らす。
「何だ君は、苦しいだろ」
冬峰はフェランの抗議を気にした風も無く宙を仰いでいたが、ジャケットのポケットから五芒星の印をフェランに放り投げる。
「お、おい」
「あんたは此処で、先に上陸した奴等を保護してくれ」
フェランは冬峰の言葉に眉を吊り上げる。
「おい、そんな悠長な事はしていられないだろ。千秋君を八時間以内に連れて帰らないと」
「解っている。だからそれまでの間に残った奴等を助け出して何とか船に帰ってくれ」
冬峰の答えにフェランは押し黙った。冬峰の真意についてはすでに彼は気が付いていた。仕方がないとでもいう様に大きく息を吐いて頭を掻いた。
「いや、僕は足手まといという事だな。もうここで僕の出来る事は無いんだろ」
「……」
「更にこの島の化け物達の眼を君に引き付けようとしているな。君は馬鹿だ。何もかも背負い込もうとするな。子供は大人に甘えていればいいんだ」
冬峰はフェランの言葉を聞いてどうしようもないよとでもいう様に悲しい笑みを浮かべた。
そのまま礼をするように顔を伏せて背を向ける。
「じゃあ、頼んだよ」
「帰ってこいよ。二人で必ず帰って来い」
フェランの言葉を背に冬峰は走り出した。
ただ独り、少年の異形の者たち相手の死闘がこの瞬間から始まったのだ。
フェランは石柱群の中に入って見えなくなった冬峰を心配するように暫くその方向を眺めていたが気を取り直すかのように二、三度首を左右に振ってから落下したアパッチより僅かに離れた場所で谷間を覗き込んだり、重なった石柱の影に回り込んだりしながら彷徨っていた。道に迷っているのではなく、先に上陸したソロモン機関の兵士の生き残りを探しているのだ。
緑黒い泥濘の所々に残された編み上げブーツの靴跡は上陸部隊が此処を通りかかった事を示しているが、既に彼等の姿は無くひょっとしたら島の中央部に到達したのではないか。そう思ってしまった。
ふと背後からの物音にフェランは振り返った。
しかし、それは上陸部隊の兵士では無く異形の者で、それはフェランも初めて見る類のものであった。
巨大なトカゲが人間の様に軍用ヘルメットと防弾着、暗視装置を身に付けている。
そいつがフェランの頭上から背後に落下してきたとき、フェランは虚を突かれて振り返るのが僅かに遅れてしまった。
深き者共やトウチョトチョ人等、旧支配者の下僕避けとして身に付けている五芒星の石が効果を発揮していないのだ。
「何、だ」
フェランはブローニング・BAR軽機関銃の銃口を突然の乱入者に向けようとするが、相手の飛びかかる速度の方がはるかに速かった。
イモリ人間は鋭い鉤爪を振り上げてフランに肉薄して今まさに振り下ろさんとする時、ふと戸惑ったように身動ぎして動きを鈍らせる。
それ勝機とするように、ようやくBARの銃口がイモリ人間の胸元へ直線を引いた。イモリ人間はボディアーマーを着用しているが、貫通力の高い三〇ー六〇弾ならば容易く内部のアーマープレートを撃ち抜いてしまう。
銃声が木霊する。
BARから放たれた弾丸は黒い石柱の表面に着弾して、跳弾として周囲に飛び散った。
「何……」
フェランは頭上を見上げる。
フェランがBARのトリガーを引く直前、イモリ人間は背後の石柱に飛び移りBARの火線を回避、そのまま石柱を駆け上がったのだ。
イモリ人間は石柱を蹴ってジグザグに上昇するのをBARの銃口で追うフェランだが、重量が重く、全長が一・二メートルと長いBARは石柱群の中では取り回し難く、イモリ人間の動きについて行けず、空しく銃弾を虚空に消費していった。
「くそ、動きが速すぎる」
弾倉内の二十発を撃ち尽くして歯噛みしたフェランは、背中のM1ガーランドを下ろしてからBARを背負った。
M1ガーランドはBAR同様三〇ー六〇スプリングフィールド弾を使用するライフルであり重量も四キロとBARより軽いが、射撃システムは半自動で引き金を引くごとに一発しか発砲出来ず、装弾数も七発と少ない。
「連射でないと当たらないよな。しかし、何故、隙が出来た?」
フェランは絶体絶命の瞬間、イモリ人間の動きが鈍ったことが気になった。あれが無ければ自分は確実に命を落としていた。
「まさか、新種の深き者共の類か? それで旧神の印が効き難い」
フェランの表情に影が差した。彼はある噂に思い至ったのだ。
一部の軍事企業が大異変後の生き残りをかけて旧支配者の傘下に入ったと。
ひょっとしたら先程のイモリ人間も軍事企業の研究によって生み出されたのかもしれない。
フェランは首を振る。今は生き残ることが先決だ。
「AKが落ちてないかな」
確か、ソロモン機関の兵士がAK103を装備していたはずだ。あれなら弾幕も張れるし、一発の威力も高い七・六二ミリで複数撃ち込めばボディアーマーも撃ち抜けるだろう。
「とにかく、生き残る為に生き残りを探すか」
そうしてフェランはM1ガーランドを肩づけしてヘリから離れた。
心配なのは先程遭遇したヤモリ人間達が、囮として先行した冬峰に襲い掛かってないかだが、子等は冬峰の腕と度胸を信じるしかなかった。
フェランは暫く石柱群の中を彷徨っていたが、見つけるのは死体ばかりで、AKの弾を予備弾倉を含めて打ち尽くしたものだった。
「そう上手くはいかないか」
腹の内側を晒した死体の傍らに転がっていたAK103の弾倉を取り外して、弾の残っていない事を確認しながらフェランはごちた。
おそらく石柱間を自由自在に移動するイモリ人間に翻弄されてAKの弾丸を討ち尽くしたのだろう。この石柱群は彼等にとって理想的な狩場なのだ。
不意に固い小石が跳ね返る音を耳にして、M1ガーランドの銃口をその方向へ向ける。
「待て、撃つな。人間だ!」
銃口の向けられた先には三人のソロモン機関の兵士が石柱から顔を出してフェランを制止した。
「君は後続部隊か。今、船はどうなっている」
「いや、僕は只の善意の一般市民です。君達の船は一旦島から離れて沖に停泊中」
その答えを聞いて三人の兵士は石柱から出てフェランに歩み寄って来た。一人が足を痛めているのかもう一人に肩を借りている。
「何故一般市民がこんなところに居るのだ? 化物が追い駆けて行った奴の仲間か?」
「追い駆けて行った?」
先頭を歩く兵士が、ああ、頷いた。
「俺達が隠れていると、誰かが石柱の林を走り抜けて行ったんだ。その後ろから奴等が何匹も追い掛けて行ったのが見え……」
その兵士はそこまでしか話すことが出来なかった。
降りてきた影が、その長い手を一振りして彼の首をもぎ取ってから、再び石柱を駆け上がってフェランの視界から消え失せたのだ。
頭部を失った兵士が首から噴水のように血を吹き出しながら仰向けに倒れ、背後にいた二人の兵士達の全身に毒々しい斑模様を描き込む。
「ひっひいっ」
肩を貸していた兵士が、悲鳴を上げて戦友を放り出して尻餅を着くのを尻目に、フェランは首なし死体に駆け寄り、右手のAK103を引き剥がして奪い取り、頭上に銃口を向けた。
此処は狩場だ。
俊敏さと跳躍力に優れて細長い体で石柱間を通り抜ける、これまでの深き者共とは異なる新種の彼等の狩場だ。
「うう……」
放り出された足を痛めた兵士がうつ伏せで痛みを堪える様に唸った。
彼を放り出した兵士は石柱に背を預けて、涙とよだれと血でぐしょぐしょになった顔で頭上や左右を見回しながら腰のホルスターに手をやり拳銃を抜いた。
ベレッタ92F、アメリカ軍に採用されて世界的なベストセラーとなった拳銃だが、対人用ならともかく、深き者共やボディアーマーを着込んでいるヤモリ人間相手では些か威力不足であろう。
唸りながら落ち着きなくベレッタの銃口を上下左右に向ける兵士だが、その行為が却って隙を生んだのか、背にした石柱の影から鉤爪の付いた腕が伸びて兵士の頭を引っ掴んだ。
「ひっ」
そのまま高々と持ち上げられると、熟したトマトをつぶす様に兵士の頭部は握りつぶされた。
血と脳漿の入り混じった飛沫が飛び散り、地に伏せた兵士とフェランの顔に張り付き斑模様を作る。
フェランは反射的にその石柱に向けてAK103の引き金を引くが、イモリ人間は石柱から躍り出ると弾丸を避ける様に身を低くしながら、地に伏せた兵士に向かって爪を振り上げて迫った。
そのヤモリ人間と兵士の中間に石のようなものが飛来して、ヤモリ人間は驚いたように横っ飛びに飛び退き、それから距離をとって着地する。
その体を七・六二ミリライフル弾の猛射が襲い掛かった。
ヤモリ人間は虚を突かれたかの様に体勢を崩して辛うじて弾の飛来した方向へ首を向けるが、出来たのはそこまでだった。
七・六二ミリライフル弾より重い銃声が鳴り響き、続けざまにヤモリ人間が身体を震わした。
AK103の弾が尽きるや、すばやくM1ガーランドに持ち替えたフェランがその弾丸を叩き込んだのだ。AK103の七・六二ミリライフル弾より強力な三〇ー六〇スプリングフィールド弾はヤモリ人間の着込んだボディアーマーのアーマープレートを貫き、その肉体に致命的な損傷を与えていた。
M1ガーランドから金属音を立てて、宙に空になった装弾子が弾き出される。
フェランはM1ガーランドの銃口をイモリ人間に向けたまま、コートのポケットから弾丸が八発装填された装弾子を弾倉に叩き込み素早くボルトを引いた。
イモリ人間は強力な弾丸を八発も受けたのにまだ立ち上がり、殺戮に対する意欲を失ってはいないようだった。その頭部へ三発の三〇ー六〇が叩き込まれ後頭部が破裂するように四散する。
「ふう」
イモリ人間が崩れ落ちると、漸くフェランは一息ついてM1ガーランドを肩から離した。
「多少は効果があって助かった」
フェランが拾い上げたのは、イモリ人間が隙を作る原因となったもの、五芒星の印だった。フェランは最初にイモリ人間が襲い掛かって来た時、彼に振り下ろす爪が鈍った事から深きもの共程ではないが、イモリ人間にも多少は旧支配者の下僕避けの効果があると踏んだのだ。
イモリ人間が残された兵士に襲い掛かった瞬間、手榴弾の様にイモリ人間の眼前に放り投げたのだ。
上手く行ったからよかったものの、本当に効果が無ければ死神はフェランに微笑んでいたに違いない。
「掴まれ、安全な場所に連れて行く」
「あ、ああ、すまない」
地に伏せた兵士に肩を貸して立ち上がる。
「他に生存者は? 撤退の指示は出されたのか?」
フェランの問い掛けに兵士は首を左右に振った。
「解らん。上陸して石柱の間に身を隠したが此奴等に襲われて部隊は散り散り、次々に仲間は狩られていった。この石柱の林を抜けれたものはいないと思う。奴等がどれぐらいこの島に居るかは解らんが、俺達を襲ったの四、五匹だったな」
なら、少なくとも四匹は冬峰を追尾したのかもしれない。
「気を付けろ。此奴は手強いぞ」
聞こえないと知っているが、フェランは囮となった少年に呼び掛けずにはいられなかった。
冬峰は林立する石柱群に足を踏み入れてからある気配が己を追尾していることを感じ取った。立ち止まり相対するかどうか数瞬考え、そのまま走り抜ける事を選択した。このまま進めば嫌でもあちら側からちょっかいを掛けてくる事は明白なので現時点で相手をすることの時間の浪費を嫌ったのだ。
石柱群の内部は視界が悪く、所々にこびり付いた緑色の堆積物の発する臭いで嗅覚も麻痺されていく。
光沢のある地面も平坦では無く絶え間なく変化し続ける傾斜の角度に、其処を行く者の三半規管が不調を起こしても仕方がないだろう。おまけに所々、倒れた石柱の組み合わさった急な傾斜や地面の裂け目が有り、石柱の傍らを通り抜けることに難儀している者を呑み込もうと待ち構えていた。
しかし、冬峰はいかなる鍛錬を積んだのか、疾走の速度を変えることなく入り組んだ石柱間の通路を通り抜けていた。非常に狭い通路は半身になって滑り込み、地に開いた傾斜のさけみは跳躍して石柱を蹴って更に高く跳んで向こう側へ渡って行く。
そんな彼を追尾する気配も速度を落とすことなく、いや、彼より速い速度で石柱の直中を突破する。
「四つ、いや五つ」
冬峰はその追尾する気配が己の頭上、石柱の中腹を猿の如く跳び移りながらおのれに追いついているのを感じた。そして自分を包囲する心算か、気配のひとつが彼を追い越すかのように速度を上げる。
「そろそろか?」
袈裟懸けに背負った刀の鞘を左腰に移動させた。
二尺一寸八分の優美な曲線を描く刀身の切れ味は、この島への航海の途中で遭遇した深き者共相手に確認済みだ。
以前の長脇差では深き者共の関節、腹といった柔らかい部位を狙うか、古流剣術の技を駆使して固い鱗を叩き斬るしかなかったが、この無銘の刀は硬い鱗ごと難なく胴を両断した。分厚い刃厚の蛤刃の刀身に刃こぼれは無く、冬峰はその刀の切れ味と丈夫さを酷く気に入り、彼の搭乗した船に侵入した深き者共の殆どを試し切りで葬り去ったのだ。
その結果、その船の乗員は深き者共と遭遇するまでは冬峰を「サムライボーイ」と称して気安く話し掛けていたのだが、遭遇した以降は彼を褒めるどころか、危険人物の様に近寄る事も無くなった。まあ、彼は煩いのが居なくなったと内心喜んでいたが。
前方の石柱から何かが急降下して、彼の眼前に着地すると同時に、落下の衝撃をばねとでもするように細長い身体を撓ませ、次の瞬間力を解放して跳びかかって来た。
鞘口に添えた左手の親指で鍔を押しだし鯉口を切る。
冬峰は足を止めず、身体を前屈させて跳んで来た何かの下へ潜り込む。
そいつの鋭い鉤爪が冬峰の頭髪を掠めて頭上を越え、背後の石柱に濡れた音を立てて激突した。
巨大なトカゲの様な上半身のみが。
残った下半身は冬峰の前方で長い尻尾をのたうって地面を飛び跳ねていた。
「トカゲ人間? でも鱗は硬かったよな」
冬峰は振り返って既に動かなくなった上半身を見下ろした。イモリの様な外観に特殊部隊が装備しているような二つ目の暗視装置を装着して胴体にはボディアーマー様な防弾着を身に付けている。両手の指先の爪は長く鋭い。
冬峰は人間大のトカゲともイモリとも見てとれる異形の者を、腰の部分から抜き打ち様に両断して退けたが、袈裟切りを選んでいれば厚いアーマープレートに阻まれ一太刀では仕留められなかったかもしれない。
冬峰は血刀を下げたまま頭上をふり仰いだ。如何やら残りの四匹に追いつかれたようだ。
冬峰を幻惑するかのように石柱を蹴って互いの位置を入れ替えながら落下してくる影は、冬峰を包囲するよう囲むとぴたりと静止した。
一匹目は冬峰の右側五メートル程手前で体勢を低くして地面に伏せ、何時でも跳びかかれる体勢を取っている。二匹目は冬峰の左側四メートル程手前で、其処に建てられた石柱の表面に逆しまにへばり付き舌を伸ばした。三匹目は冬峰の左真横三メートルの位置で、冬峰の斬撃を警戒しているのか、半ば石柱に身を隠していた。四匹目は冬峰の真後ろで三メートルの高みから犠牲者の予定となる少年を見下ろしている。
冬峰の両手が動き、刀身が徐々に上がり左足を引いた状態で中段に構えた。切先はやや内側に傾ける。右定膝刀勢と呼ばれる古流剣術の向身青眼に似た構えを取り軽く息を吐く。
駆けた。左真横のイモリ人間に向かって、構えを崩さず向き直り間合いを詰める。
最も距離が近くの敵を手早く片付ける心算だろうが、その敵は石柱の向こう側に居り攻めにくい筈だ。
残りの三匹も冬峰を追ってあるモノは疾走し、あるモノは宙を舞う。冬峰が最初の敵を責めあぐねている背後から、一斉に攻撃を仕掛ける心算なのだろう。それぞれ人工物の緑色の光を放つ両眼が音を立てて冬峰の背中に照準を定める。
迫る冬峰に対して石柱の向こうに右半身を隠したイモリ人間は、左手を石柱から覗く左手を素早く冬峰の顔面に突き出した。
冬峰の体格はそれほど大きくなく、一六七センチと実は春奈より低い。そんな彼の刀を構えた時のリーチとイモリ人間の爪先までのリーチはほぼ同じ、間合いが同じなら機先を制するか、後の先にて相手の裏をかくかが生死を決める。
- Re: 天門町奇譚 ( No.41 )
- 日時: 2020/07/22 23:06
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
伸びてくる鉤爪を冬峰は刀の切先より下の部分、ものうちの鎬で受け止めた。反発しあう勢いを生かしてをそのままに切先を右肩後ろから左肩上に旋回させて石柱から突き出たイモリ人間の左手首へ振り下ろした。
鮮やかに切り落とされた左手首に怯む事も無く、イモリ人間は右手を上げようと僅かに身体を左に捩る。
それが生死を分けた。
冬峰が斬り落とした勢いから右足を引いても左肩を突き出す体勢で首が無防備なのを狙ったのだろう。石柱から身体を捻った勢いでイモリ人間の首が突き出される。
その首へ銀光が奔った。
足腰を回した冬峰の隙の無い神速の斬りつけは、切っ先がイモリ人間の喉に掛かるギリギリの間合いだったが、勢い付いたイモリ人間はそれを躱すことが出来ず己の喉にそれを食い込ませていく。
柳生新陰流「右旋左転」。相手の斬撃を受けた勢いで刀を右旋回させて相手の左拳を打ち、相手の二の太刀に合わせて隙の無い動きで後の先を取り右拳を打つ勢法によく似ているが、冬峰の最後の一刀は相手の命を奪うものに変化していた。
冬峰の背後から鋭い爪が降って来る。
冬峰の真後ろの石柱から飛びかかって来た四匹目のイモリ人間だが、僅かに遅れたのは冬峰の足さばきが予想より速かった為であろう。
冬峰の身体が半回転して背を襲った爪が空を切る。それに続く地を蹴る音。
独楽の如く、くるりと回転しながら跳躍した冬峰は爪を振るった姿勢で着地したイモリ人間の頭上を越えて追いすがる一匹目と二匹目の中間に着地した。
その勢いを殺さずにそのまま肉薄する冬峰に一匹目はたたらを踏み、足を止めて迎撃しようと爪を構える。
新陰流より派生したタイ捨流に回転しながら跳躍して手裏剣や斬り付けを躱す技があるが、冬峰がイモリ人間の背後からの一撃を躱したのもこの技を知っていたのかもしれない。
冬峰は左脇に構えた左堤撩刀勢の姿勢で一匹目に迫るが、いきなり突き出した右足を軸に身体を反転させて背後の二匹目に向き直った。
追いすがろうと勢いを付けて突進してくる二匹目との間合いは近く、冬峰は足を踏み出しながら身体を沈めて横なぎに刀を振り払う。
両脛を大根の様に両断された二匹目が宙にある間に、背を向けた冬峰に吊られて爪を振るった一匹目の頭部を、脛斬りの勢いのまま跳ね上がった刀身が下方から跳ね上がり頭頂へ切り抜ける。
一匹目と二匹目の地に伏せる音は同時であり、冬峰は逃げる心算なのか、その二匹の間を突っ切る様に足を速めた。
しかし、冬峰の足捌きが速いとはいえ、獣の如く跳躍、疾走するイモリ人間には敵わず数メートルも進まないうちに背後に荒い息遣いが聞こえるまでに接近される。
そして眼前には石柱が行く手を阻んだ。
「ふっ」
短く息を吐き石柱に片足を付けて跳躍する。必要なのは追いすがるイモリ人間より高い位置を取る事。それを獲る為の疾走。
四匹目のイモリ人間が宙を見上げる。
刀を逆手に構え落下する少年。その切先が鈍い光を放つ。
狙い澄ましたかのように切先はイモリ人間の喉下、アーマープレートが入ったボディアーマーの襟元へ突き刺さり胸骨を割って体内を串刺しにしていった。
これ以降の敵も何が出てくるか解らず、固い鱗やアーマープレートで刀身を痛める事を出来るだけ回避したかった冬峰はイモリ人間の関節、喉下、顎下を狙い戦術を組み立て、それを実行したのだ。
冬峰が固いモノを引っ掻く音に気付きそこへ視線を向けると、両脛を切られた二匹目が冬峰に向かって両手、いや、前足というのが正しいのか、鉤爪を地に引っ掛けて近づこうとしていた。
死ぬまで獲物を追い続ける習性を持っているのか、その動きに迷いは無い。
「……」
冬峰は無造作に二匹目のイモリ人間に近付くと、振り上げられた右手の鍵爪を右肘の内側に刀を突き刺して封じてから腰の後ろから大型の折り畳みナイフを抜き取り刃を起こした。しゃがみ込みイモリ人間の背中に馬乗りとなる。
「悪いな」
言葉とは裏腹に、冬峰が何の感慨も無くイモリ人間の喉にナイフの刃を当てて一気に引き斬ると、青黒い血潮が前方を地面へ降り注がせながら尻尾をのたうち回らせた。
噴き出る血潮に間欠泉の様な強弱が生じた頃、冬峰は漸くイモリ人間の上から腰を上げる。
「あと何匹いるのかな」
まだ数匹分の気配が追いすがって来るのを感じながら、冬峰は石柱群の出口に向かって足を速めた。先程は上手くいったが、より多い頭数で取り囲まれた場合、相手するのに其れなりのリスクと時間が掛る。此処は無視して出口をめざし、相手をする無駄な体力の消耗を避けるべきと判断した。
この島への三度目の核攻撃、いやそれより春奈がこの島へ到着する方が早いかも知れない。それまでに千秋を連れ戻す。
3
「着替え終わったかね?」
薄闇の中、ナイ神父は背後を振り返った。
石室の中央やや盛り上がった石段に佇む少女は意を決したように頷いた。
紅無の狩衣に小豆色の袴姿の千秋は黒天鵞絨の布に置かれた増女の面を両手で恭しく持ち上げ、それに暫く見入った。
私と母はこの衣装を身に付け、この面を被り冬峰に〈手力〉を下ろそうとして失敗した。そして冬峰に消えない傷を刻み込み、地獄に送り込んだ。
「ねえ、ナイ神父」
「何かね」
「この衣装は御門家に伝わるものだけど、どうしてここにあるの」
訊かなくても答えはとうに判っている。これは単に確認するだけだ。
ナイ神父はつまらない事を聞かれたとでも言う様に嘆息して腰の後ろに手を当てた。
「ああ、それは何処かの野望に燃えた老人が頼まれもしていないのに寄こして来たのだ。これがあるのと無いのとでは儀式の成功率が大幅に変わると」
「ふうん」
ナイ神父はそれから思い出し笑いを堪えるかのように口元を綻ばせ、拳でそれを隠すように前に持って行った。
「しかもあの老人、石仮面も同時に返却して来て、もし儀式が成功したあかつきには、おおいなる〈K〉の代行者にしてほしいと頼み込んで来たのだよ。それほど不死が欲しいのかね?」
「さあ、私にはどうでもいいけど」
千秋は増女の面を己の顔に被せた。己の顔に浮かんだ嘲笑の笑みを誰にも見られたくなかったからだ。
愚かな老人だ、と。私の不死の代行者に選ばれると本当に思っているのなら、目出度い頭としか言いようがない。
千秋の両脇五メートルほど離れた場所に不意に人影が浮かんだ。片膝を付き首を垂れている。
一人は紺色のスーツとスカート姿の銀髪を襟首で纏めた女性、アナベル。
もう一人はアナベル同様に紺色のベスト姿の癖のある銀髪の男性、エドガー。
同じ顔をした二人の従者が千秋の左右に控えていた。
「さあ、始めようか」
ナイ神父の指が鳴らされ、アナベルとエドガーが右手の持った笛の様な楽器を口に咥える。
この笛は、異世界の狂える創造主を慰める為に作られた笛をこの世界でも吹ける様にユゴスからの使者が作り上げたモノであり、あちらの側の世界では永遠にも近い時間を笛を吹き続毛ていたエドガーとアナベルの二人もこの形状での演奏は違和感があるらしく、吹き方を習得したのは千秋がルルイエに発つ直前であった。
鈴の音がそれに合わされる。
鈴を両手を持った千秋が、それを鳴らしながら左右に開き、肩の高さまで上げてゆっくりと身体を回す。
子気味良い叩くような音は千秋がリズミカルに石室の床を踏みしめる音だ。それはどんどん音の間隔が短くなってくる。
一際大きく音が響いた後、それが途絶え鈴がひとつ鳴った。
「千引きの岩を置き引きて、黄泉比良坂の戸となさん」
千秋の澄んだ声が石室内に木霊する。エドガーとアナベルの笛の音が、それに応える様にひときわ高く鳴り響く。
千秋は再び身体を廻しながら足踏みを続ける。床を打つ感覚は短くなり、千秋のえんやーと繰り返す掛け声も間隔が短く切迫したものへと変わる。
「誓約の禊、手力となる」
石室が掛け声に応えるように震えた。
「ほう」
ナイ神父が頭上を見上げて感心したように声を漏らす。
彼にはルルイエの中心にある巨大な尖塔の中腹にこの石室はそんざいするのだが、その先頭の上空に巨大な穴が開いた事を、彼の感覚が感知したのだ。
「こうも容易く封印を突破するとは。この世にはとんでもない力があるモノだな」
感心したように呟いてから、何処から取り出したのか野球のボール大の緑色の光を放つ、黒い結晶体を取り出した。
「頃合いだ。呪文を変えたまえ」
千秋が僅かに頷き、鈴を鳴らしながらこれまで唱えていた祝詞のようなものを止めて、全く意味の解らない呪文を唱え出す。
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
その呪文と共に千秋に埋め込まれたある器官と、千秋の心臓の鼓動が同調、千秋は己の体温が急激な勢いで上昇すると共に、別の何かの意識が己の脳内に流れ込んでいくのを感じた。
それは猛烈な飢えと破壊衝動を備えた何か。その存在は意識したものを喰らい、破壊して、その恐怖を味わう事を目的とする存在であった。否、それしかない何かだった。
出来るのか私に。
彼女はその流れ込んでくる物に耐えて呪文を唱え続ける。
両脇で笛を吹くアナベルとエドガーの影が人間の形から、不定形に形を変える細長い棒を持ったものに変わる。
「千秋、奴の意識のいくつかは私達でバックアップします」
「君は扉を開ける事に専念して」
アナベルとエドガーの声が千秋の脳内の木霊して、その御蔭で僅かだが意識がはっきりとした。
ナイ神父はそれらを満足げに眺めて葉巻に火を付ける。
「さて、私もそろそろ舞台に上がるか。この物語は魔王を討伐する勇者の物語、あるいは魔物から姫君を守る勇者の話か、君次第だぞ、少年」
黒衣の紳士はそう呟くと黒い霧のように拡散して姿を消した。
先頭の上空に出現した穴の周辺の雲は渦を巻き、風が其処に吸い込まれていくようだ。
その光景は石柱群から抜け出した冬峰の眼にも入った。
「く、そっ。始まった」
冬峰はその穴の発生する一瞬だが、急に気が遠くなり足を止めた。
眼の前の広場には先程抜け出した石柱群のものより太くて高い石柱がまばらに立っている。それを抜けると一際高く奇妙な紋様と巨大な鉄扉を備えた尖塔に辿り着く。
その上空、渦巻く暗雲の中央に開いた孔からは稲妻が何度も発生して如何にも何か起こりそうな様相であった。
「千秋はあそこにいるのか?」
問題はどうやってあの内部に入るかだが、冬峰は腕を組んでうーんと唸り首を捻る。
「ひらけごま、で開くわけないよな。取り敢えずあの扉の前で、おじゃましますっていえばいいか」
其れで開かなければあの塔をよじ登るしかないんだろな。冬峰は癖のある髪を掻いてから一歩踏み出し、表情を引き締めた。
前後左右の石柱の影から黒い帯のようなものが数本湧き出し、冬峰を取り囲んだ。冬峰は知らないが、ネイランド・コラムの胴体を両断したこの恐るべき凶器が、これだけの数で一斉に冬峰に襲い掛かれば一瞬にして細かい肉片と化すことは間違いないであろう。
冬峰は背後から迫る数本を振り向きもせずに一太刀で切り落としてから背後に跳躍した。空中で追いすがる黒帯を銀光が走り抜ける。
切断され空中で消滅する黒帯が全て無くなるまで二秒と掛かってはおらず、冬峰は着地と同時に平青眼に構えて周囲を窺う。
広場に乾いた拍手が木霊する。冬峰が振り向くと石柱の影から黒の三つ揃いを身に付けた長髪の紳士が、葉巻の煙を燻らせ乍ら姿を現す。
「やれやれ、君は本当に規格外なんだね。本来、あれは切れるはずの無いものなのだが」
ナイ神父、彼の正体を知る者はこう呼ぶ。ナイアルラトホテップ、無貌の神。
「君の胸に開いた孔の調子はどうかね。油断をしていると君まで引き込まれてしまうぞ。なにしろ……」
ナイ神父は皮手袋に包まれた人差し指をひょいっと一本立てて、尖塔の真上に開いた巨大な黒い穴を指差した。
「あれと同等の孔が口を開けているんだ。君はいつ死んでもおかしくないんだよ」
冬峰はそれに応えず右手に持った刀の切先を上げてナイ神父に突き付けた。
「千秋はどこだ。案内して貰おう」
その脅しを気にした風も無く、ナイ神父は葉巻を指で挟んで煙を吐いた。
「まあ、待ちたまえ。ビッグキャストの登場までまだ間がある。その間に私の相手をしてほしいのさ。君は……」
ナイ神父の言葉が終わらぬうちに、肉迫した冬峰の横薙ぎの一閃が宙を裂く。
「おおっと」
大きく跳び下がったナイ神父は、ぱくりと切り裂かれた背広の前襟を憮然と見つめた。
「ふむ、修復出来んか」
それから額に指を当てて眉を寄せ、宙を仰ぐ。
「これは困った。アナベルに叱られるではないか。今回の準備にかまけて本業の万事屋は休業しているからな。我が事務所は素寒貧なのだぞ」
「……」
何とも情けない神様の告白にも冬峰は顔色一つ変えず右提撩刀勢に構えて身を低くする。
「やれやれ」
葉巻を一振りするとそれは影のように黒い槍と成り、手首の動きだけで冬峰に向かって投擲された。
不意を突かれたのか冬峰は避ける様子も無く飛来した槍を額に受け、槍は次の瞬間、破裂したように砕けて跡形も無く消失してしまった。
「やはり、な」
その結果にナイ神父は満足した様な笑みを浮かべる。
「君の胸に開いた孔はあちら側、表現が正しいか解らないが君達にとっての〈死後の世界〉と呼ばれるところに繋がっている。そこは原初の海のようなもの全てのものの材料はあるが、其れしかない。また我々を含めた全てのものは幾星霜を経て、此処に辿り着き、分解され保管される」
「長口上は止めてくれないか。こちらには時間が無いんだ」
「君と千秋君に関する事だ。聞いても損は無い」
千秋の事を口にされると冬峰も黙るしかなかったが、構えを解かないのは不意打ちを警戒しているのかもしれない。
「恐らく千秋君ともう一人の能力者は、本来開いているはずの無いあちら側から材料を組み立て引き出すことが出来るんだろうな。それにはその組み立てて引き出すものの設計を想像する為の媒介物が必要なのだろうが、彼女等の場合、それが自分自身に流れる血や肉体を構成する細胞のひとつひとつなのだろう。だから彼女等は歴代の能力者達の能力を呼び出し使用できる。
ここまではいいかね」
「ああ、何となくな」
「彼女達や、我らが盟王はそれが出来るが、それ以外の者はこの世界を構成するエーテル体や大地のマナを説得、または情報を御認識させてあり得ない情報を構成させなければならない。
それが詠唱や呪文、私の様に意識のするだけで構成出来るのもある。それによりこの世界の構成を一時的に書き換えて現象を発生させる」
ナイ神父は何らかのスイッチが入ったのか、教壇に立つ教授の様に右人差し指を立てて前後に振りながら、後ろ腰に手を当てて説明に熱中しているようだ。冬峰は不謹慎にも、今、此処で斬り付ければバッサリといけるのでは、と思った。
「そして私の本体や〈おおいなるK〉、闇の皇太子ハスターと呼ばれる我々は、別の宇宙にて我等が盟王に創造された存在で、ちょっとした出来事でこの宇宙に放逐されたのだ。それゆえこの宇宙では先ほど述べた呪文の様な、本来存在しない異物なのだよ」
ナイ神父は古典演劇の舞台俳優の様に、冬峰へ己の存在を示すかのように手を広げて向き直った。
「ああ、そういう事か」
冬峰はナイ神父の言わんとすることが理解出来た。ナイ神父が解を見つけた生徒に対するように頷く。
「そう、君の胸に開いた孔は、事故によってあちら側と繋がったままでとなり、本来ならこの世界を構築する全ての物を吸収、解体しているはずだが、何者かの手によりこの世界の理と反する異物や派生させられた現象を、解体、吸収する機能のみに抑えられているのではないか。それゆえ君はまだこの世界に存在しており、我等の力や存在を打ち消す事、まあ正しく言えば、吸収してあちら側に送り込むことが出来る」
冬峰は己の心臓の上に左手を当てた。この心臓の中に目に見えない孔があるのは知っていた。だが、それほど危険な物とは考えもしていなかった。だが、戦場では自分が傷付けた者は傷の治りが遅いと来たことがある。その孔の暴走を抑えている者が施した処置も完全ではなおらしい。
「だが、それにも限度がある。君が人間故にある限界だ。君は我が分身にひとつであるスフィンクスを切った後、君自身もダメージを受けたようだった。恐らく吸収する相手の容量がおおきく君自身の容量を上回った場合、君自身の存在も引きずり込まれて解体、吸収されるのではないか」
冬峰は沈黙する。直後の脱力感と思い出せない名前。
「だから、君自身の容量を超える異形を相手にすると、君は自滅するのかもしれない。これを試してみたいのでね」
ナイ神父の両唇が僅かに吊り上がる。魅力的な微笑だが、これは人を惑わす悪魔の微笑だ。
ナイ神父の足元から一本の触手が宙に伸びた。それはナイ神父の身長を超えても更に伸び続石柱の頂に達した。
触手は影のように黒く先端から根元に行くほど、どんどん太くなり成人が二抱えするぐらいまで広がった。
- Re: 天門町奇譚 ( No.42 )
- 日時: 2020/07/22 23:20
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
冬峰は何かの尻尾かと思ったが、それは間違いである事は直ぐに判明して、冬峰の眼を丸くさせた。
触手の付け根に穴が生じると内側は鋭く尖った牙が生えており、二、三度開閉を繰り返してから島中にこれまで冬峰が聞いた地球上のどの生物とも異なる咆哮を放つ。
振動する空気が治まるより早く三本指の巨大な鉤爪を備えた腕が現われ地面に手を付けて、所々に伸縮する小さな触碗の生えた巨大な胴体が怪紳士の影から現れる。
既に冬峰は現れた異形を只、見上げるだけになっており、その表情はあっけにとられているようにも見えた。
巨大な怪獣の様な足で光沢を放つ床を踏みしめ、大地に姿を現した異形は更にひとつ咆哮した。
首のある位置には長く太い触手が生えておりその根元には口が開き、この世のモノでない咆哮を常に放つ。胴は小さな触手が生えており常に伸縮を繰り返す。手の三本の指、足の前側二本、踵側に1本生えた指には鋭い鉤爪が備わっておりこの異形の者を怪獣めいたものにしている。そして地面を打ち据えるのは尻尾であり、その太くうねる様は大蛇が獲物を求めて鎌首を擡げている様にも見えた。
ナイ神父同様、ナイアルラトホテップの千を超える端末のひとつ、〈闇に吼えるもの〉。その巨獣が姿を現したのだ。
冬峰は暫く召喚された巨獣を眺めていたが、ひと言「大人気無い」と呟くのがやっとのようだ。
それもそうだろう。身長百六十七センチの冬峰は、怪物の手に捉えられるだけで握りつぶされるだろうし、そうでなくともひと踏みで伸し烏賊にされるだろう。
それに対して冬峰の攻撃が届くのはこの巨獣の踝までであり、古代のどこかの島に居た聖堂の巨人の様にアキレス腱の位置に栓でもない限り巨獣に痛打を与えるのは不可能だ。
「さあ、約束通り決着をつけようか、少年」
ぬけぬけと言い放つ黒衣の紳士に抗議めいた視線を向けた冬峰へ、巨獣が一歩踏み出した。
4
「……もうすぐ着くのかしら?」
貨物室の床に置かれたプラスチック製のパレットの上に柔らかいシートを敷いて、更に座テーブルを設置した女性は座テーブル上のクッキーを口に咥えて同乗者に問い掛けた。
同乗者は床に散らばった薄い欠片を苦虫を潰したような表情で踏み砕いた後、「もうすぐです」とだけ返答した。
「……そう」
今時珍しい魅力的な長い黒髪の女性はため息を吐いてテーブルの上に顎を乗せ、唇の力だけでクッキーを口腔内に放り込んだ。完全にだらけきっている。いや、不貞腐れているといって間違いあるまい。
同乗者は両壁に備えられたシートに腰掛けたまま視線を彼女の持ち込んだ荷物へ移した。
「……」
ボストンバッグから覗く麦わら帽子、新品と思われるセパレートの水着、サングラス。防水カメラ。
「……」
床に目を落とす。床に散らばるポテトチップの残骸。
彼女が顎を付けたテーブルの上には「南国、ルルイエのバカンス計画」と毛筆で書かれた手作りの小冊子が広げられている。
そのページには「天才の作った様な幾何学模様に彩られた石柱と、古代の神殿の様な建造物は貴女を幻想の世界へいざないます。」と記されていた。また別のページには「その島周辺にしか生息しない巨大魚や海中生物が直に貴女を出迎えます。日本の有名水族館でも見ることの出来ない海中の神秘をご覧下さい」と安っぽい観光用パンフレットのような文句が掛かれている事を彼は知っている。
同乗者である彼を含めた隊員達は、見た目にも浮かれている彼女から小冊子を笑顔で渡され、彼等に伝えられた情報と照らし合わせて首を傾げた。
特に彼女は小冊子の最後のページに載せられた写真が気に入っており、其れには尖塔の頂上に立つ黒色のコートと三つ揃いを着こなし、長髪を風に靡かせた美丈夫と、その人物に守られる様にコートの内脇佇む、白のブラウスと紺色のスカート姿の癖毛のショートカットをした少女がカメラを見上げてい写っていた。その背後に沈む夕日が世界をオレンジ色に染めている。
「前に見た写真はノイズが酷かったけど、うん、千秋さん、狡い。羨ましい」
女性はそう言って、「今度は私が、同じ場所で水着を着て従弟と写ります」と嬉しそうに話すのに、「これ、生きては変えれないかもしれない任務と聞いたんですが」と、つい最も若い隊員が口を滑らした。
結局彼女は、操縦席の無線を使ってその小冊子の作成者である当主代行者と連絡を取ろうとしたのだが、当の作成者は多忙で行方が分からず、日本に残った彼女の護衛者に内容を確認する事となったのである。
彼女は護衛者にルルイエについて確認していたのだが、無線の向こうで「うっ」とくぐもった声がすると「駄目です、もう耐えられません」と涙声で真相を吐露した。
そんな経緯で座テーブルの上で不貞腐れる美女が出来上がったのである。
ちなみに床に飛び散ったポテトチップは、不貞腐れた彼女がボストンバッグの中から自棄喰いしようとして取り出した袋が破裂した結果の惨劇の痕だった。
コックピットから通信が入り、もうじきルルイエ近海に到着するとの報告が有り、同行者である隊員は座テーブルまで近寄り彼女に降下の準備をするように大声で促した。
彼等の乗るC1輸送機は国産の中型輸送機で全長二十九メートル、全幅三十・六メートルの機体にボーイング727と同じ噴射式ターボファンエンジン二基搭載した高機動性が自慢である。
その為、機体後部の貨物室内はエンジン音がかなり煩く響き、貨物室に待機する者は耳栓を必要とする者が多い。
そのはずだが、この座テーブルに突っ伏した女性は耳栓無しでも同乗者の声が聞き取れるのか「私やる気が亡くなったな~」と駄々を捏ねて動こうとしない。よっぽどこれから赴く島に対する期待が大きかったのだろう。後で入って来た通信では文章には嘘は無い事と、彼女が駄々を捏ねた時の対処法が連絡されてきたのだが、出来れば同乗者である彼はこの女性にその対処法を試したくは無かった。
「早く着替えて下さい! もう降下ポイントですよ」
女性は臙脂色の紐ネクタイを結んだ純白のブラウスに同色のスカート、黒タイツに白色のコートを羽織った格好のままなので、先行しているソロモン機関の揚陸船にパラシュートで降下出来る服装に着替えて貰わなければならないのだ。
「私、世界なんかどうでもいいです」
完全にいじけており、其処から動く気配など無い。
仕方ない、そう呟いて操縦席へ通信を入れる。
「仕方ない、プランBを実行する」
「了解」
短い返信を聞いた後、同乗者は己の武器である鎖を天井のフックに手早く巻き付けた。
これから実行されるプランBに巻き込まれない為の用心だ。
「?」
女性は座テーブルの上で突っ伏して顔を伏せていたが、不意に頬を撫でる風に気が付いて顔を上げた。何やら背後から機械音がする。
何だろうと振り返った女性の表情が凍りついた。
C1輸送機の尾翼下にある後部扉が徐々に開き、機内の空気が其処へ吸い出されているのだ。
「く、黒雅っ、何なんですか、これは」
座テーブルに腰掛けたまま同乗者へ向き直った女性は、同乗者の指が操縦席に繋がる扉の脇にある、如何にも押したら駄目とでも主張しているような赤く丸い押し釦に触れるのをめにした。
何かが外れるような音と共に、座テーブルの置かれたパレットが彼女を乗せたまま勢いよく開いた後部扉に向かって走り出す。
「え~っ!」
ばしゅっつと惚れ惚れするような音と共に彼女は後部扉の向こう、青く澄んだ天空へ座テーブルごと放り出された。
「God Speed For You」
同乗者である黒雅の声と立てた右手の親指が彼女に見えたかどうか。
パレットが座テーブルから分離して落下するのを黒雅は見送ったのだが、今、彼の脳裏を占めるのは彼女の無事な帰還への祈りでは無く、次に彼女と会った時、自分の命は無いのではなかろうかという心配だった。
このプランを考えた当主代行が庇ってくれるとは思えず、黒雅は暗澹たる思いを抱えてため息を吐く。
こうして御門家当主〈見習い〉である御門春奈は、不本意ながら千秋や冬峰の後を追う様に異形の神の眠る島ルルイエへ降り立つのであった。
5
地響きを立てて鋭い鉤爪の生えた指が地面に落下した。それに巻き込まれないよう素早く後退した冬峰は上弓刀勢、両腕の肘を伸ばした状態で腰を落とし、肩幅よりやや広めに足を開いて前足先を魔獣に向け、後ろ足の足先は前足先からやや直角に開き剣先を上げる構えを取り、相手の攻撃を窺う様に動きを止める。
先程、冬峰はこの体勢から彼を押し潰そうと振り下ろされる魔獣の手を、押し潰される寸前に切り上げて指一本を切り落とすと、その間隙から身を滑らして逃れたのだ。
太い風切り音と共に地面を薙ぐように魔獣の尻尾が大きく振られた。
冬峰の背丈より僅かに低い程度の直径をした太く長い尻尾が、その通り過ぎる過程にある石柱や障害物を吹き飛ばし打ち砕きながら冬峰に迫る。
「ちっ」
さすがに一刀のもとに切り落とすのは難しいと判断したのか、冬峰は地を蹴り跳躍して地を均す尻尾の一撃を回避した。助走無しで跳躍した為に高さと速度が足らず、足先を僅かに掠めてしまう。
空中で前転するように体勢を崩し落下する。
咄嗟に左手を伸ばし地面に掌を付けた瞬間、冬峰は肘を撓めて衝撃を逃すと共に反動を付けて左手一本で己の身体を前方へ跳ね上げた。
振り子のように上体を跳ね上げ足から着地、そのまま二十メートルほど離れた石柱群に向かって走り出す。
〈闇に吼えるもの〉の巨体では石柱群の内部に入ることが出来ず、中に入り込んだ冬峰を捉えることは難しくなるであろう。
冬峰は石柱をよじ登るか、傾いた石柱を駆け上がる等をして何とか〈闇に吼えるもの〉の胴体部に一撃を加えたいのだ。
大気を切断するような音と共に冬峰の前方の地面が弾けて、横一文字に地表が抉られる。
冬峰は咄嗟に飛び退きその一閃から逃れたが、それを与えたモノを視認出来たわけでは無かった。
〈闇に吼えるもの〉の咆哮と共に更に空気が鳴り、右側へ跳び退いた冬峰の元居た場所が弾け飛んだ。
冬峰は石柱群に逃げ込むことを断念して〈闇に吼えるもの〉を見上げる。
〈闇に吼えるもの〉の頭部である触手が、伸縮を繰り返しながら鞭のように撓って己を襲っているのは冬峰にも解っているが、その速度は銃弾にも等しく動いたと認識すると地面がはじけ飛んでいた。そんなレベルだ。
冬峰の出来る事は躱し続けるしかなく、それが彼が攻めあぐねている原因にもなっている。
巨体による力押しと視覚し辛い武器による攻撃。常人より運動神経に優れているが、あくまで人間の範疇である冬峰にとって、単純な物理的攻撃を主とするこの魔獣は非常にやりづらい相手だった。
冬峰の表情にも焦りの色が濃く、この間にも千秋がいるであろう尖塔の頭上の穴はどんどん広がっている。
そこより何が出現するのか、それはフェランが怖れ、ナイ神父が待ち望む存在、おおいなる〈K〉なのか。それが何者であれ呼び出した千秋に安寧の日々は二度と訪れないだろう。
どうすればいい。
冬峰は足を止めて刀を頭上に振り上げるように構えた。襲い来る伸縮自在の鞭を振り下ろす最速の剣で切り落とすつもりか。
宙を薙ぐ音と共に、己の右前方にある石柱が半ばから切断されて地に落ちる。
うねくる触手が己に迫るのを、冬峰は視覚や聴覚では無く、空気の振動を触覚で感じ取り身を沈める。
攻防は一瞬であった。
胴を薙ごうと迫って来た触手が、次の瞬間冬峰の右脇を通り過ぎて地面にバウンドしたのだ。切り落とされた先端のみが。
冬峰は曲げた右肘を己の耳横に置き、左拳を顔の前から後ろに引いた構えで立っていた。
「ほう」
魔獣と少年の死闘を見物していた黒衣の紳士は感嘆したように声を上げる。彼の眼は一瞬の攻防を捉えていたのだ。
伸びる一撃必殺の鞭は撓みながら冬峰の胴に伸びたのだが、冬峰は左肘を引きながら右前に足を踏み出して身体を開き、触手を僅かに躱す。
柄尻を握った左拳を引きながら右肘を僅かに曲げ、伸びてくる触手に多い被せる様に刀身を下ろした。
冬峰の刀を振り下ろす速度では無く、不可視をもたらす己の速度で触手は刀を喰い込ませていく。
冬峰は膝を曲げ身体を沈ませながら触手を切り下ろす。
振り下ろす斬撃の最速では無く、理にかなった古の技法による最速でもって冬峰は魔獣の一撃を凌いだ。
本来は相手の斬撃を躱しながら、相手の刀の柄中、もしくは手首を打つ後の先の刀法、柳生新陰流天狗抄、八本の太刀のひとつ「花車」という。
しかし先端を切り落とされた触手は切り落とされて部分は伸びないものの、更にうねくりながら冬峰の背後に回り込んだ。
振り返りの間に合わない速度に、冬峰は左肘を左脇後方へ下げて太刀先を左脇へ回しながら身を沈める。
冬峰の背を打とうとした触手は、背を回り左肩甲骨に乗せる様に肩に担がれた刀身の待ち構える位置へ襲い掛かった。
跳ね上がる銀光。
折り畳みナイフの刃が起こされるように跳ね上がり、触手を半ばまで切り裂く。
相手の撃ち込みを左肩に担いだ刀身で防ぐ、「花車」と同じく柳生新陰流の刀法、燕飛の太刀六本のひとつ「浦浪」。
触手が引き戻され〈闇に吼えるもの〉の上体が起こされる。
冬峰はその一瞬を待っていたかのように、魔獣の足下へ疾走した。体勢を僅かに前屈させ僅かな膝の屈伸と重心移動による足運びは、爪先を僅かに上げるのみの隙の少ない摺足で見た目と異なり驚異的な速度で距離と詰めていく。
刀身は左脇に構えられた鞘に収まっており、左手が鯉口に添えられている。
軽く地を蹴る音。
跳躍した冬峰の左手親指が鍔を引き上げ鯉口を切る。
通常の斬撃は地に足を付けるからこそ威力が損なわれないのだが、それを補う為の疾走か、冬峰は己の背丈を超えた跳躍で抜刀する。
〈闇に吼えるもの〉の右踝よりやや上の部分に食い込んだ刀身は、漆黒のゴムのような感触をした肉体を半ばまで切り裂きながら通り抜けた。
己を襲った貧血の様な立ち眩みに耐えて地表を滑りながら振り返る冬峰は、巨大な魔獣がバランスを崩して片膝を付くのを目にする。今が好機と見たのか冬峰は平青眼で残る左足に向かう。
ナイ神父は死闘を繰り広げる少年に思いを馳せた。
少年からは他の人間と比較して希薄だが様々な感情がその体を彩っていた。
焦燥、憐憫、殺意、悲哀。
ナイ神父を初めとする旧支配者と呼ばれる存在は、そんな人間や動物の感情が好物であった。この島に眠る存在はその中でも恐怖が好物であり、また物理的に飽食もする大食漢でもある。
ナイ神父自身は欲望に満ちた身の程知らずの人間が、己の行いによって身を滅ばす際に魅せる絶望が好物なのだが、それと同じく彼等に何度苦境に落とされても、それに屈せず立ち向かおうとする人間の感情も素晴らしく甘美なもので気に入っていた。フェラン達がそうであった。
だがこの少年は己の身が既に不幸に塗れているはずだが、其れには目を向けず、ただ、ただ誰かを救おうとしている。その純粋さが哀れであり、滑稽でもあった。
生まれながらの欠損により偶然にも彼等に対抗出来る体質となっているが、それ以上に彼等と戦うことの出来る技術を身に付けていることに感嘆するのだ。
あの一見すると茫洋とした雰囲気を持つ少年が、誰かを守るために一心不乱に剣技を磨き続ける。身体がその動きを覚えるまで、ただそれを繰り返す。
いまナイ神父の眼前で彼と同存在の端末を相手に剣を振るう少年は、そんな日々を繰り返し生きていた存在だ。
「君は、素晴らしい存在だな」
少年が魔獣に迫る。これで王手とする心算であろう。
「だが、まだ甘い」
片膝を付いた〈闇に吼えるもの〉は短くなった頭部の触手を伸ばして、冬峰を攻撃する際に切り落とされて横転した石柱のひとつに巻き付ける。
弾みをつけてそれが己に向かって投げ出されたのを目にして、冬峰は疾走に急制動を掛けて、力一杯左横へ跳躍した。
轟音と共に石床に激突した石柱は、周囲に己と床の破片を衝撃波に乗せて撒き散らす。
空中で衝撃波を姿勢を崩した冬峰は、跳んでくる石礫を躱す体制に無く丸めた背中と頭を庇った右腕にそれらを受けて落下する。
冬峰は石の地面をもんどりうって転がると、顔を顰めて視線を上げた。その顔に巨大な影が掛かる。
舌打ちする間もなく再びその場を後方へ跳び退いた冬峰は、魔獣が投げた別の石柱が地面に激とする衝撃波と破片を手を交差させて顔面を保護した。
細かい破片の中に大きく尖ったものが混ざっていたのか、冬峰は左腕に激痛を感じて背後へ転がり倒れる。
冬峰のカッターシャツの左脇から染みが広がり面積を広げていく。
「く、そ、傷が開いたか」
冬峰は〈闇に吼えるもの〉が己の傍にある石柱もぎ取り頭上へ掲げるのを目にした。
「……これは勝負あった、かな」
ふらつきながら立ち上がった冬峰が、三度目の石柱投擲になす術も無く破片を身に受け吹き飛ばされるのを見て、ナイ神父は軽く息を吐いた。
- Re: 天門町奇譚 ( No.43 )
- 日時: 2020/07/22 23:34
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
人間にしては良くやったというべきであろう。端末を通して本体に痛打を浴びせたのは、ンガイの森で一万℃以上の炎に焼かれて以来だ。しかもそれは彼と同等の存在である旧支配者の手によってもたらされたのだ。
「君は此処で終わるだろうが、私に一矢報いたのだ。それは誇って逝くがいい」
うつ伏せに倒れた冬峰が、まだ立ち上がろうと両手に力を込めて上体を起こした。脇腹からの流血は止まることなく、冬峰のシャツを濡らしていく。
その死闘の場を上空からの影が覆う。
ルルイエの上空を飛び回る旧支配者であるハスターの眷属は、その巨大な翼を靡かせてルルイエの中心にある巨大な鉄扉のある尖塔へ向かって行った。
ナイ神父はその巨大な蝙蝠の翼をもつ生物の背に、縞瑪瑙で作られた笑い仮面を被った人影を認めて眉を顰める。
「黄衣の王、一体、何の用だ」
黄衣の王、邪悪の皇太子と異名をもった、この島の主である大いなる〈K〉に匹敵する力を有する旧支配者ハスターの不死の代行者。
バイアクヘーと黄衣の王は共にハスターに使える身、共にあっても珍しくは無い。今回の計画を実行する際に協力を要請してルルイエの上空バイアクヘーに守らせてはいるが、地球上でのハスターの意思を代行する黄の王がルルイエに上陸するなど、前代未聞であった。
「犬猿の仲の相手の復活を見物するつもりか? いや、そんな酔狂な奴ではないな」
踵を返して召喚の儀式を行っている千秋の元へ戻ろうとしたが、眼の隅で三度、冬峰が立ち上がるのを捉えて彼に向き直った。
今は、この少年との決着をつける。
ナイ神父は後日、この判断について正しかったのか、自らに繰り返し問い掛けることになるのだが、現時点では、異界の神である彼にも確かめる術は無かったのであった。
冬峰は上段に構えを取ろうとして、ぐらり、とよろめいた。辛うじて腰を落として肩幅より足を開いて転倒を免れる。息が荒い。
石柱の破片にやられたのか、こめかみを汗に交じって血が流れ落ちてシャツの襟に染みを作った。
これでは次の一撃を躱すことすら出来ないかもしれない。全身を襲う痛みと失血による立ち眩みを辛うじて堪え乍ら、冬峰は己の現状を分析する。
対する魔獣は左右の手に既に石柱を握っており、二度の投擲で冬峰を仕留める心算だろう。それを躱されても触手が石柱を切り倒せば、幾らでも恐るべき砲弾の補充は付くのだ。
冬峰は刀の切先を右後方へ向けた右提撩刀勢の構えを取った後、更に膝を曲げ左肩を突き出す様に身体を前屈させた。〈闇に吼えるもの〉を見据える視線には、まだ闘気が宿っている。
「ほう」
ナイ神父は感心したように声を漏らす。この少年はまだ戦う事を諦めてはいない。その口元が歓喜するように吊り上がる。
「では」
〈闇に吼えるもの〉の右手が僅かに引かれ、ほぼノーモーションで背後に垂れていた頭部の触手から石柱の切れ端が投擲される。
その虚を衝いた攻撃にも動じた様子は無く、冬峰は疾走した。己の右手側八メートル先にある、三度目に投擲された石柱の残骸に向かって。
石柱の残骸を盾に衝撃波をやり過ごす心算なのか、しかし、それでは二投目の石柱で瓦礫ごと粉砕されるのが目に見えていた。
まだ初投の石柱が地面に激突するより早く、魔獣の右手が石柱を槍のように投げ飛ばす。目標は冬峰の向かう石柱の残骸だ。
勝負あったとナイ神父の両眼に光が灯る。遠く宇宙の果てにある彼の本体は、既に潰される少年の姿がその眼に浮かべていたのかもしれない。その眼が驚愕の色を浮かべて見開かれた。
「何!」
冬峰は石柱の残骸に向かって跳躍すると、それを足場として方向を変えて更に高く跳び上がる。方向は飛来する二投目。
地面に接触する初撃が激突の衝撃波を周囲に撒き散らして、空中にある冬峰の身体を僅かに浮かせた。
伸ばされた足先が二投目の石柱に掛かる、
体重を前方へかける様に顔を前に突き出した冬峰は、何の神技を使ったのか石柱の上を構えを崩さず疾走した。
しかし、魔獣との距離は開いており必殺の一撃は届かない。
そんな冬峰を迎撃する三投目。
ナイ神父なら見えたのかもしれない、冬峰の口元に笑みが浮かぶのを。
二投目の石柱より勢いよく投げられた三投目は回転しながら二投目に肉迫して打ち砕こうとする。
二投目の石柱の端まで到達した冬峰が三度目の跳躍を行い、回転する三投目に肉薄する。
嫌な音と共に、冬峰の右足首が左へ曲がった。
冬峰から見て反時計回りの石柱の回転は、冬峰の右足首と引き換えに彼の跳躍に勢いを与える。しかしまだ届かない。
冬峰は呼吸を止めて身体を海老反らした。吐くと同時に身体を前転させる。
もしこの場におおいなる〈K〉の〈不死の代行者〉がいるならば、その跳躍が深夜の校舎で少年が見せた体術だと見抜いたであろう。
足場の無い空中での身体の屈伸と反作用のみの跳躍だが、冬峰は僅かに加速して〈闇に吼えるもの〉の胸元に向かって跳び上がる。
この一刀は届くと判断したのか、魔獣は両腕を伸ばして冬峰を叩き落とそうとするが、時すでに遅く、その間を通り抜け巨大な胴体の中心に刀を突き立てた。
〈闇に吼えるもの〉の巨大な体躯からすればその刀の一撃は針が刺さった程度の威力だが、その針は猛毒付きだ。
冬峰は声を上げて刀身を半ばまで押し込む。手応えと同時に意識が持って行かれそうになるのを何とか堪える。
〈闇に吼えるもの〉もその名の通り冬峰に負けじと吼えるが、冬峰の一刀を受けた位置から蜘蛛の巣状に広がっていく。
ナイ神父が身をくの字に折り片膝を付いた。
〈闇に吼えるもの〉の両腕が破片を撒き散らしながらゆっくりと掲げられ握り拳を作る。それで胴に取りついた冬峰を叩き潰す心算なのだ。
勢いよく己の身に振り下ろされる両拳は、目標に届く前にいきなり爆散した。それに戸惑う間も無く、魔獣は己の身が背中から倒れていくの感じた。己を支える両足と尻尾が両腕同様失われたからだ。
轟音を立ててルルイエの大地に仰向けに倒れ込む〈闇に吼えるもの〉へ、冬峰は更に柄へ体重を掛けて刃を鍔まで押し込んでいった。
もう、己が何に対して刃を突き立てているか、其れすらわからなくなる様な漂泊されていく意識と、暗くなっていく視界と覚束ない手足の感覚。解るのは己の内にある何かに刀を通じて何かが流れ込み、其れに引き摺られるように自分自身が無くなっていくことだ。
今では少なくなっていく心臓の鼓動のみ感じられる。
今迄踏みしめていた柔らかい地面の様な足場が消え失せて、冬峰は一瞬の落下の後、硬い地面へ刀を突き立てた姿勢のまま着地した。しかし、既に体力が尽きたのかそのまま前のめりに倒れた。
光を失った黒瞳が空へ向けられて暫くそれを映した後、また元の位置の戻り動かなくなる。
ナイ神父は石柱に背を付けた己の手足へ目をやった。ぴくりとも動かない。
「如何やら勝敗では君の勝ち。生き死にでは私の勝ちという事か」
少年は倒れ伏したまま動く気配は無く、例えまだ生きているにしてもナイ神父の予想では心臓が脈打つだけの生ける屍だろう。
だが己だって似たようなものだ、そうナイ神父は苦笑を浮かべた。己の四肢は動かすこともままならず影を作り出す事すら出来なかった。これは本体もかなりの痛手を被ったに違いない。
すぐさま本体までこの身を転移して、取り敢えず動けるようには修復しなければならないだろう。
何とか影を本体まで繋げて転移の道筋を作る。これで何とか修復可能だ。
「その前に」
ナイ神父は島の中央にある石室で、おおいなる〈K〉を召喚する儀式を行っている千秋の手助けをしているアナベルとエドガー二人の助手に念波を送り、自分は一時撤退する旨を伝えようとしたが、その送信すら壊れたのか返答が全く届かなかった。
影に己の身を胸下まで沈み込ませながらナイ神父は尖塔へ目をやった。バイアクヘーが屋根に取り付いている。
「奴め、何の用だ」
その呟きが終わらぬうちに、尖塔の頂上にある石室の壁の一部が内側から吹き飛ばされた。
ナイ神父は驚愕したように目を見開いたが、転移途中で何もすることが出来なかった。
帰ってくるまでに持ち堪えてくれ。
何が起こっているかは解らないが、ナイ神父はエドガーとアナベル、二人の助手に後を託すしかなかった。
遠く離れた宇宙に飛ぶ寸前、端末である彼の脳裏に浮かんだのは尖塔で儀式を行う、意思は強いが、どこかさびしげな笑みを浮かべる千秋だった。
ナイ神父が影に呑まれると、この広場で動く者はいなくなった。
ナイ神父は遠く離れた宇宙へ跳び、彼と同じく分身のひとつである〈闇に吼えるもの〉は死闘の末に消え失せた。残されたのは傷付き倒れた少年一人。
その少年の指先が僅かに痙攣すると共に体が波打つ。
大きく息を吸い込んだ後、続けざまに咳き込んだ少年は地面に手をついてゆっくりと上体を起こした。痛みを堪えるかのように背を丸めて起き上がる様は、手負いの獣が最後の力を振り絞って前に進もうとしている様で痛々しくあった。
仰け反る様にして身を起こした彼の眼に光は無く、力無く地面に座り込んだ姿勢で周囲を見回す。
彼の唇が僅かに動いたが、もし彼の傍に誰かが居たのなら、彼が「何処なんだ、此処は」と呟くのを聞き取ったであろう。
立ち上がろうと膝立ちになり右足を踏み出して、次の瞬間横転した。右足首に激痛が走り己の身を支えることが出来なかった。
冬峰は横倒しのまま眼球のみ動かして宙を見る。
虚空に開いた孔は増々大きくなり、黒い雲海がその周囲をとぐろを巻くように回り稲妻を放つ。
それを目に居れても少年の表情には何も浮かばず、焦点を結ばない視線は再び地に落とされた。
それが僅かに意思らしき光が戻る。その視線の先には地面に落ちている一枚の写真。
それはこの島に向かう途中で冬峰がフェランから受け取ったものだった。恐らく倒れた拍子に胸ポケットから抜け落ちたのだろう。
写っているのは己と……だ、れ、だ? 震える指先が自分と自分を見ている少女の横顔の映った写真に触れる。
「あはは、頼りになるのフユ君?」
誰かの声が聞こえる。冬峰の四肢に力がこもる。
こちらを向いた少女の唇が動く。何を言っているのかは解らない。それでも……
「僕も意外に思っている」
自分の声、誰に対して、何の為に。
裏庭のベンチ。
手を差し伸べる少女。
彼女と何を約束したのか。
「ああ、そうだ、千秋」
その名を呼ぶ。それだけで冬峰の瞳に光は戻る。
震える手が写真を手に取り再び胸ポケットに収めた。
身体は既にガラクタ、もう動かないと軋んで砕ける寸前だ。心には大きな穴が開いていて、そこから走った罅に欠片となって剥がれ落ちていく。でも、それがどうしたと、動こうとする自分がいる。
冬峰は再びうつ伏せになり、地面に手を付いて身を起こそうとした。
「ああ、実は千秋だけには頼りになるんだよ」
まだ、その手を掴んでない。
刀を地面に突き立てて、其れに縋りながら立ち上がる。
少年は島の中央に立つ尖塔を見上げ、鞘に刀を納めると、一歩一歩、刀を杖代わりにしてそれに向かって歩いて行った。
6
冬峰とナイ神父の召喚した〈闇に吼えるもの〉の決着の付く少し前、尖塔の頂上にある石室の内部では、千秋とナイ神父の二人の従者によって行われた儀式に変化が生じた。
細い笛の音に合わせ鈴を鳴らす千秋に向かって、尖塔の上空の穴から一本の光が舞い降りる。
それは尖塔の屋根を通り抜け石室の中央に突き刺さる。
「黄泉比良坂を塞ぐ千引の岩を開いた。アナベルさん、エドガーさん、音楽を続けて下さい」
千秋はそれだけ口にして鈴を鳴らしながらその光の柱の中に身を投じた。
白い繊手がその光の源、頭上の穴に向かって伸ばされる。
「おおいなる〈K〉、この世界に顕現したいのなら私に力を貸して」
彼女の胸の谷間にある器官が脈打ち、光の柱が輝きを増す。
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
千秋は目を閉じて、あるイメージを脳内に浮かべた。巨大な触手が頭上の穴まで伸びて、その向こうにある虚無の世界に入り込むことを。
千秋は目を閉じたまま何かを探る様に指を動かす。千秋の頬を浮かんだ汗が伝い流れ落ちるが、それを気にせず更に脳裏にある人物を思い浮かべた。これまで自分を守って来た不器用な少年の姿を。
孔に向かって上げられた掌が痙攣する。
「あった、冬峰」
少女は何かを手繰り寄せるかのように手を引いた。
その時、尖塔の頭上にある孔から光る何かがひとつ、舞い降りた。
ゴルフボール大のそれは、淡い紫色の光で儚げに点滅しながら、光の柱の内部を先頭に向かって降りていく。
少女はそれを眩しいものを見るかのように目を細めて見上げた。
両掌で舞い降りてきたそれを大事そうに包み込んで胸前で抱え込む。
「……千秋、それは」
演奏を中断したアナベルが千秋の側に寄ってそれを覗き込んだ。
「うん、これは大切なもの。これはね、大事な人の魂の欠片」
「魂の欠片?」
アナベルが聞き返すと千秋はその小さな光の玉を見下ろして、安心したように微笑んだ。
「私が小さい頃、さっきの儀式に失敗してその人の魂が欠けてしまった。だから私はおおいなる〈K〉を復活させる見返りとして、おおいなる〈K〉の力を使って彼の欠けた魂をあちら側から取り戻す事を貴女のマスターに許可して貰ったの」
千秋はそれを条件として伝えた時の事を思い出していた。
ナイ神父は千秋からそれを聞くと、あっさり「承知した」と口にした。
「本当に?」
「ああ、問題ないな。君の持つリスクに対しての等価代償なら安いものだ。それに彼が次に君の前に現れるのは、私との決着に勝利した時だろう。勝者への報酬ならそれ以上のものは無いだろうね」
毒気を抜かれたように自分を見上げる千秋へ、ナイ神父はやれやれとでも口にするかのように左右に首を振った。
「でも、君はいいのか」
「何、が?」
「君が魂の欠片を探し出して彼の穴を塞いでも、君は彼と一緒に居られないかもしれない。君はずっとこの島でおおいなる〈K〉と共に生きていかねばならないんだ」
「……いいよ。守ってくれた冬峰に私が出来る事はこれくらいしかないから」
「……そうかね。まあ、私が口を出す事ではないが」
あっさり引いたのは、彼の計画に千秋が必要不可欠の存在だからだ。この場で心変わりされては文字通り全てが水泡と化す。
千秋はルルイエに赴く直前に、今回の天門町から始まった一連の怪事の説明を受けた。
ナイ神父、いや今回の旧支配者たちの目的は、星の智慧派や〈K〉同様、大いなる〈K〉の復活。それは間違いない。
だが、大いなる〈K〉の持つ力は同じ旧支配者の面々にも脅威であるほど強力なものだ。大いなる〈K〉そのものでない人間との混血が大いなる〈K〉の核を移植されただけでアメリカ西海岸と南太平洋の島々が水没した。
この星の支配に大いなる〈K〉は必要な力だが、必要以上の力は有害となる。人間を滅ぼしてしまうのはナイ神父の本意でもなく、彼の守護する地球本来の神々に事が及べば、彼の大元や他の旧支配者の主たる、今は微睡みの中で森羅万象を調律している〈盟王〉も黙っていないだろう。
肉体を失った大いなる〈K〉を完全な形で顕現させ、尚且つその力を制御する。
〈K〉や不死の指導者、ダゴンやヒュドラ、深きもの共等は旧支配者たちの目的を知らず、大いなる〈K〉の復活を願いナイ神父の指示に従い天門町へ、御門家の巫女を求めて侵攻したのだ。
千秋がその計画に協力する条件として、本来、あちら側にて消滅しているかもしれないある少年の魂の猪欠片を、あちら側との通路を開ける存在に形を与える千秋の能力をおおいなる〈K〉の力で強化して手に入れる事だった。
そして、その目的は成就されて魂の欠片は千秋の両掌の上で淡い光を放っている。
千秋が両掌でそれを包み込むんで、何故か悲しげに微笑むのをアナベルはじっと見つめていた。人外の彼女の眼にも、それは美しくも儚げな情景だった。
「綺麗な光ですね。きっとそんな心をした人の魂でしょうね」
無表情のまま感想を口にしたアナベルを千秋は虚を突かれたように見返す。
「千秋?」
「……そうなの」
千秋の右目から一筋、雫が流れ落ちる。それは、この魂を本来持つ者の本質を理解してくれた嬉しさからか、そう生きる事を許されなかった事に対する悲しみか。
「そうなの。とても優しいの」
小さな光を胸前に抱えて涙を流す千秋をアナベルは不思議そうに見つめる。
エドガーは演奏を続け乍らその光景を見守った。
スーツ姿の姉であるアナベルと召喚者の少女の姿は、何か一枚の絵の様で、それが彼の演奏に色を添えた。
アナベルと同じく人外の存在である彼は、人間という存在が嫌いではない。本来の彼は無貌の神の下でアナベルと共に異界のフルート吹きとして〈盟王〉の無聊を慰める役目を務めている。