二次創作小説(新・総合)

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天門町奇譚
日時: 2020/07/19 13:49
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

   序 異界侵食

 まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
 商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
 午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
 芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
 何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
 外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
 なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
 この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
 この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
 最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
 雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
 息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
 息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
 下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
 父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
 父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
 八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
 その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
 だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
 二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
 連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
 別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
 三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
 何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
 直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
 中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。

 しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
 ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
 いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
 直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
 そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
 それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
 しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
 先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
 直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
 数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
 直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
 現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
 その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
 またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
 この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
 発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
 千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
 今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
 自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
 駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
 しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
 芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
 それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
 それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
 芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
 屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
 すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
 いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
 もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
 ごぽっ。
 背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
 ごぽっ、がぱっ。
 何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
 ごぽり、
 芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
 マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
 前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
 ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
 悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
 成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
 それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
 三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
 だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.1 )
日時: 2020/07/19 14:05
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

  一章 侵略神

               1

 そこは闇の中であった。
 鈍い光沢を放つ石材で作られた高さ二メートル、横幅一〇メートル、奥行き一〇メートルの立方体。その上面は四隅に立てられた柱に掛けられた暗幕によって、すっぽりと覆われている。
 その内側の闇の中、低く呻く苦鳴が反響する。女の声のようだ。
 不意に弱い明かりが点り、石の床に敷かれた布団の上に、若い女性が仰向けに寝かされているのが浮かび上がった。身重らしく膨れた腹を上に苦しそうに身をよじり苦鳴を漏らす。
 他にも薄闇の世界に浮かび上がった者達が居た。黒色の紋付袴姿が四人、それぞれ笛、太鼓、大鼓、小鼓を携え女より離れた場所に横一列に並び腰掛けている。奇妙なことにその者達は両目を黒布で覆っており視界を遮っていた。
 女の傍にも三人の人影があり、一人は黒色の紋付袴姿で足元に正座して何かを待つように目を瞑りじっとしている。残り二人はさらにその背後二メートル程の位置に控えていた。その内のひとりは敷物の上に腰掛けた細身の体形から女性と思われるが能面の女面の一つ増女ぞうおんなを被り、男物の烏帽子えぼし紅無いろなし狩衣かりきぬに小豆色の袴を身に着け、中性的な雰囲気を醸し出していた。もうひとりは増女と同じく紅無の狩衣に小豆色の袴姿であるが一歳程度の子供であり、その小柄な身体を敷物に沈めている。
 闇を照らす蝋燭の揺らぐ明かりにより、一言も口を開かず座したままの此の者達は、まるで幽冥境に潜む異界の者のようにその影を揺らがせている。
 不意に蝋燭の灯りとは別の白い光が暗幕の内側へ差し込み、左右に広げられた黒布の中央に二つの人影が浮かび上がった。ひとりは金地の鳥兜を被り、黒地に金糸の楓が散らされた長絹の表着の下に厚板と呼ばれる小袖を着込み、金地に金糸の雲海が刺繍された大袴を身に着けていた。その顔は笑尉わらいじょうと呼ばれる柔和な印象を与える能面で覆われているが、豪奢な衣装と肩幅が広く恰幅のよい体格は威圧的であり、その人影が暗幕内に足を踏み入れると、子供を除く者達は低く頭を垂れて平伏していく。
 もうひとりは、三歳程度の艶やかな黒髪をした少女であり、身に着けた衣も増女同じく紅無の狩衣と小豆色の袴姿だが首よりに掌大の鏡を吊っている。左手は笑尉の袴を掴んでおり、この二人が親しい関係であることが伺える。
「神楽の用意は整ったのか。先に依童が生まれていかんのだぞ。」
 笑尉の低く太い声は大きくは無いものの押し殺した恫喝のように聞こえ、女の足元に控えていた人影はびくりと身を震わせた。
「御心配には及びません。産屋と産道の間は札で塞いでおり、赤子が出でる事は御座いません。」
 黒袴の男は傍らで苦鳴を漏らす女に目を向けた。
 女の臍の上に黒地に赤い文字の書かれた札が貼り付けられていた。黒袴の言葉からこの札により女の出産が引き伸ばされているようだが、それによる陣痛がどれ程のものか、女の苦鳴が酷くなっていくのも無理も無いことだろう。
「念願の男児を授かったからには、なんとしても岩戸を開きこの者をスサノヲの器とせねばならん。わしにとっても最後の機会じゃ。失敗は許されんぞ。」
「我が命に代えましても、必ず岩戸を開いて悲願を達成致します。」
 平伏する黒羽織に背を向け、傍らに控える童女が首から掛けていた鏡、正確には銅鏡を受け取った。それを苦悶する女の股の間に置く。
「冴夏、神楽を始めい。巫女に岩戸を開かせるのだ。」
 笑翁に恭しく一礼した増女は両手に鈴を持ち、肩の高さまで上げて小さく振った。
 笛の風が鳴るような高い音色、小鼓の柔らかい打突音と大鼓の乾いた木々を打つ様な固く鋭い音。規則正しく足踏みをするような間隔で打たれる太鼓の音にあわせ、増女はくるりと身体を反転させて鈴を振る。
 しゃらん。
 えんやーっ、えんやーっ。四人の奏者の掛け声が薄闇の中に鳴り響く。
 いよーっつ。掛け声を終えると共に大鼓が打たれる。
 増女は女の周辺を鈴を鳴らしながら回り続ける。女の苦悶の声の感覚が短くなるのにあわせて、奏者達の奏でる音色も大きく激しく闇を震わす。更に増女の足運びも、最初はすり足だったが、今では足踏みに変化している。
「千引きの岩を置き引きて」
 紋付黒袴が能の地謡のような太く響く声で唱う。その声圧に押されるかの様に震えだす。
「黄泉比良坂の戸となさん。」
 奏者の掛け声が響くと共に増女の足踏みは踏み下ろしに変化して、その足裏が石に打ち付けられ鈍い音を立てる。増女の面を被っている為、演者の表情は伺えないが、石の上にて神楽を舞うのは在るとしてもこのような激しい足運びでは石を何度も蹴りつける様なものでかなりの苦痛を伴っているに違いない。
 大鼓と小鼓、太鼓の打ち鳴らされる間隔はどんどん短くなり、増女の歩調と合わさっていく。笛の音色の高さは石舞台の中央で苦悶する妊婦の悲鳴の様であり、笛の音に合わせて女は身を海老反っていった。
 その狂乱に気圧されたのか、増女と共に居た子供は大きな目を見開き石舞台の中央、苦悶する女の真上をじっと仰ぎ見た。そこは暗幕が波紋を広げるように波打っている中心であり、まるで石舞台を覆う暗幕の上に誰かが乗っかっており、笛や太鼓に合わせ増女と共に舞を待っているように見て取れた。
 いよーっつ。
 紋付黒袴の掛け声に合わせ、だんっつと石の床を蹴り増女が宙を舞う。増女の纏う紅無の仮衣が天女の羽衣の様に広がり波打つ。しかし人である宿命か、増女は地に引かれて石舞台の硬い床の上に足裏を叩き付けて落下する。ぶしっつと異音と共に白い足袋から赤い血が飛び散った。
「ああああーっつ」
 それを見て気が動転したのか、子供の叫び声が響く。しかし増女は舞を中断することもなく、妊婦の周囲を回り続ける。
 ようやく子供の叫び声が途絶え、再び黒紋付袴が掛け声掛けようと口を開いたとき、それは起こった。
 硝子が割れるような音と共に、波打つ暗幕の中央から女の股間の前に置かれた銅鏡を繋ぐかのように光の柱が降ってきて周囲を照らし出す。
「岩戸が開いた。産道を開くのだ」
 紋付黒袴が妊婦の下腹部に張られた赤い札を剥がすのと同時に、女の股間より血が噴き出し赤子が臍の緒を靡かせながら女の体内より弾き出される。奇しくも銅鏡の上に滑り込み、その胸の中央より左寄り、心臓の真上を光の柱が貫いている形となった。
 その赤子の火の付いた様な泣声と子供の叫び声に触発されたのか、赤子の胸を貫く光の柱は益々輝きと太さを増していく。暗幕も荒れる大海のごとく波うち、この石舞台をひとつの世界とするなら、未曾有の天変地異に襲われていると見て取れた。
「おお!」
 笑翁が短く驚愕するように声を漏らした。
 光の柱の中に、青白く光るシャボン玉の様な球体が現れ、ゆっくりと赤子に向かって落下していった。それは赤子と子供の声に応えるかのように明滅を繰り返し徐々におおきくなtっていく。
「ついに天の岩戸を超え、手力が舞い降りてきたわ。この赤子は間違いなくスサノオとなるぞ。そしてワシは其の肉体を手に入れる」
 笑翁の興奮した独白も耳に入らぬかのように増女は鈴を鳴らし舞い踊っていたが、子供の方は体力の限界が訪れたのか不意に頭を揺らめかせ敷物の上に突っ伏した。
「いかん!」
 笑翁と紋付黒袴の叫びが響くと同時に光の柱が赤子の身体の中に沈みこみ、手力と呼ばれた青白い炎のような光を放つ球体は宙に浮いたまま暫く輝いていたが、やがて中に吸い込まれるかのように小さくなり消え失せた。
「岩戸と黄泉比良坂よもつひらさかが繋がったままだ。引き込まれるぞ」
 ごうっつと風が鳴ると同時にその場に居合わせたもの全てが、ある一点に吸い寄せられるのを堪えた。それは赤子の左胸、光の柱が吸い込まれた位置に開いた黒々とした穴であった。
 びょうびょうと耳元の空気が音を立てる中、増女は赤子に向かって引き摺られて行く子供に駆け寄り辛うじて上に覆い被さった。それでも二人とも少しずつ穴に向かって近付いて行く。
 最も傍にいた紋付黒袴の置かれた状況は、更に絶望的であった。赤子から離れようとするが、髪の毛を引っ張られるように仰け反ってしまい、手を付いてしまった。赤子の胸に開いた穴の上に。
 奇怪なことに紋付黒袴の肘から先は赤子の胸に沈み込んでしまい、ひっと彼が悲鳴を僅かに上げた次の瞬間、彼の姿は石舞台の上から消え失せてしまった。
 更に奇怪な吸引は続いており、大鼓や吹き消された蝋燭等が赤子の胸に吸い込まれる様は、強力な掃除機に吸い込まれるミニチュア道具といった趣があり、どこと無く滑稽である。
 ずるっと音を立てて増女が子供もろとも赤子に向かって引き摺られ、面の奥で絶望の呻き声をあげたとき、赤子の胸に開いた穴を白い手が塞いだ。その手は先程まで笑翁の傍らに控えていた少女のものであった。
 どのようにして赤子まで近付いたのか、少女の身体は中に沈み込むことも無く平然とたっており、赤子の胸から生じていた奇怪な吸引も少女が掌で塞いだ途端ぴたりと止まっていた。
 床に這い蹲り引き込まれることに耐えていた笑翁は、荒い息を吐きながらよろよろと足しあがり増女と抱えられた子供を睨み付ける。
「役立たずが、力尽きたか!」
 激昂し、荒々しく笑翁の面を剥ぎ取り石舞台に叩き付けた。
 笑翁の面に隠されていたのは鷹の様な鋭い目と鷲鼻の老人であった。
「千載一遇の好機を無駄にしおって。冴夏さえかよ、千秋ちあきも御主同様、巫女としては役立たずよの」
 その言葉を聞いた増女の肩がピクリと震えた。
「恐れながら宗冬様。千秋は、まだ二歳です。巫女として役に立つかどうか判断するのは時期尚早かと」
「はっ」
 宗冬と呼ばれた老人は下らない冗談を耳にしたかのように鼻先で笑ってのける。
「春奈は母親の胎内ですでに繋がっておったぞ。その母親、四季しきも御主より早く五つで繋がったではないか。御主は岩戸を開けることは出来ても、繋がり手力を身に宿すことの出来ない半端者の癖に、余計な口を挿むでない。」
 増女の面の奥から歯軋りらしき音が響いているが、宗冬は意に介した風も無く背後の赤子とその脇に立つ少女を振り返り言葉を続ける。
「空席である御門家の当主は春奈とする。冴夏は……」
 宗冬の言葉が急に途絶えたのを訝しんだ増女は、面を上げて宗冬の視線を追った。そこには赤子と其れを生んだ我が末妹である白雪、次女四季の娘であり、先刻、この御門家の頭首となった春奈がいるはずだが。
 其れを目にした増女、御門家本家の長女冴夏は自分の全身の毛穴が開き、嫌な汗がにじみ出るのを止められなかった。恐れが己の身体を支配している。
「また面白いことを繰り返しておるのう。宗冬。」
 春奈は赤子の胸から掌を外し、老人と巫女を振り返る。先刻までの艶やかな黒髪をした日本
人形のような印象とはうって変わり、幼女とも老女とも受け取れる声音をした、皮肉げに視線を向ける三歳程度の少女とは思えない存在が其処に居た。
 冴夏は再び頭を下げ春奈だったものから視線を外した。隣で宗冬も大げさに平伏する。
「またも岩戸を開き、我と同じ手力をこの赤子に宿そうとした様だが、目論見が外れたようじゃ。さも有りなん、元々御主の血族は巫女に我を下ろしていたのじゃから、男に下ろすのは不慣れであったろう。男は代々皇すめらぎの者と決まっておるのにな」
 びくりと宗冬が震えるのを嘲笑を浮かべて見下ろした後、不意に表情を引き締め赤子へ向き直った。
「閉じることが叶わず黄泉比良坂に魂魄を持っていかれたか。いや半分はこちら側じゃが常に千引きの岩の向こう側に通じておるな。面白い」
 にいっ、と笑みを浮かべた少女は狩衣の裾を翻し、老人に背を向ける。
「この者は死なせてやった方が幸いじゃが、それでは興が削がれる。我も魂魄を奪われて生きておる者を見るのは始めてじゃからな。退屈を紛らわすのに丁度良い。よいか下郎、この者は物心付くまで育てるのじゃぞ。世話は我の依童に任せるがよい」
 言い終わるや否や、少女は膝を折り地面に横たわった。
 恐る恐る面を上げる冴夏を尻目に、宗冬は老人にあるまじき速度で駆け寄り少女を抱き起こした。ほっと一息ついた後、傍らの赤子とその母親を忌々しそうに見回した。
 母親は赤子を産み落とす事に力を使い果たしたのか、顔を蒼くしたまま息を引き取っている。しかし産み落とされた赤子は、目を見開いたまま泣くでもなく、ぼうっと宙を見つめたままだ。宗冬は赤子の眼前で手を振るも赤子は泣く等の反応もせず、ただただ宙を見つめている。
「どうなさいますか?」
「仕方あるまい。忌々しいがこいつは我等の手で育てる。しかし本家に加えることは許さん。こいつは狗だ。納屋にでも転がしておくがいい。」
 冴夏の問いかけに答えた宗冬はそういい捨てて少女を抱き上げた。
「ある程度大きくなったら外国にでも放ってしまえ。勝手に死んでくれるだろうよ。」
 石舞台から降りて母屋へ歩を進める老人と、それに抱えられた少女へ一礼し見送った後、増女は軽く息を吐いて面を外した。切れ長の目をした面長で調った女性の顔が現れる。己の腕の中にある子供を抱きしめ「千秋」と呟くが、子供は疲れ果てたのか寝息を立てて答える事はなかった。
 冴夏は石舞台の中央に横たわった妹を見下ろした。右手を伸ばし妹の足元に横たわる赤子を抱え上げる。
「白雪、あなたは幸せね。自分の子供が役立たずなんて呼ばれるのを聞かなくて。
 子供を生んだ達成感からか、何と無く微笑んでいる様に見える妹の死顔が何と無く羨ましかった。

               2

 御門冬峰(みかど ふゆみね)は教室のスピーカーから鳴り響く、終業のチャイムで目を覚ました。
 クラスメイトたちが席から立ち上がり、クラス委員の号令に合わせ教壇の教師に向かって一礼するのに、のろのろと席を立ち追随する。
 教師が教室を出て行った途端、教室は教室内は生徒の会話や足音等の雑音に支配される。こうなると、もう一眠りするのは不可能といえる。冬峰の席の横で女生徒が机をあわせ、各自弁当箱を手に集まってきた。
「昼、か」
 冬峰は癖のあるやや長めの髪を掻いた後、首を回した。バキバキと首の関節が小気味良い音を立てる。
「教室でよくそこまで眠っていられるよな」
 短く刈った髪に浅黒い肌の目立つ、悪がきめいた印象を持つ男子学生は、呆れたように苦笑した。
「お前、三時間目からずっと固まったままだったんだぜ。いつバレるか、見ているこっちがひやひやしたぜ」
 そういえば三時間目と四時間目の記憶が無いな、と冬峰はぼんやりと思った。ただひやひやしたのではなく、この男はわくわくしたに違いない。
「おい、まだ寝てるのか。早く食堂に行こうぜ」
 べしっと平手で冬峰の後頭部を叩き、男子学生は歩き出した。肩幅が広く、背も高いため妙な迫力がある。
 男子学生の名は根神ねがみ はじめ 。冬峰が四歳の頃に知り合い、途中四年間の空白があるものの、現在まで腐れ縁のような関係は続いている。
「早く行かねーと、また志保理しおりの文句を延々と聞かされるぞ。」
 だるいねホント、とつぶやいて冬峰は歩き出した。猫背と両手をズボンのポケットに突っ込んだ姿が本当に面倒くさそうだ。
 御門冬峰は身長百六十七センチ、中肉中背でやや線が細い程度の、ごく普通の高校生の外観をしている。癖のあるやや長めの髪の下にある顔立ちは、見ようのよっては端整といえないことも無いが、それよりやや小さめの両眼と、全身に漂っている寝起きのような倦怠感が、この少年に茫洋とした存在感を与えていた。
 冬峰のクラス1-Cは東校舎の四階にあり、食堂は中央校舎の二階にある。その為食堂を利用する一年生はチャイム終了と同時に教室を出て、校舎の両側にある渡り廊下を駆け抜け階段を下りていかなければ、食堂の席を確保できないのだ。当然ながら食堂のテーブルは二階の三年生、三階の二年生が占領しており、一年生は立って食べるか、食堂横の購買部でアンパンや、悪名高き緑色の餡の入ったウグイスあんぱんを購入し中庭で食べるしかないのだ。
 だが冬峰と根神は、駆け足で通り抜けて行く同学年の背中を平然と見送りながら歩いている。別に立ち食い専門ではなく、人望のある三年生徒と学校内での権力を少しばかり握っている二年生徒が席を確保してくれているので、毎度、同席させてもらっているのだ。
 二人が食堂に着くと既に席は埋まっており、購買部ではパンを求める生徒が、冬峰に深夜に見たゾンビ映画を思い出させた。しかし昼休み開始のチャイムから五分以上経過していることから、列の後方に居る学生は焼き蕎麦パンやサンドイッチといった人気商品はまず手に入らないであろう。あと二、三分もすれば購買部部長によるパン売り切れ宣言「何、パンが無いの? だったらケーキでも食べればいいじゃない」が聞けるに違いない。
 冬峰と根神は入口から少し入った食券販売機の横で食堂内を見回した。彼らの先輩達が、どの席に座っているか捜していたのだが
「ハジメー、フユー、こっちー、こっちー、遅いぞもうー」

Re: 天門町奇譚 ( No.2 )
日時: 2020/07/19 14:18
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

食堂中に響き渡る女子生徒の声と、二人に向かって振られる手ですぐに場所は分かった。
 数人の生徒が何事かと声の主に注目し、すぐに視線を逸らした。まるで熊に出会ったかのようだ。
 ショートカットの髪に、挑戦的なやや切れ長の目をした目鼻立ちの整った少女は、周囲のそんな反応も気にした様子も無く平然としている。
 彼女の腰掛けた六人掛けのテーブルの席は四席まで埋まっており、それぞれ個性的な少年少女が腰掛けていた。
 ショートカットの少女の右側には、つややかな濁りの無い金髪を長く腰まで伸ばした上背のある碧眼の少女が、左側には黒縁の眼鏡に黒髪を御下げに結わえた、良家のお嬢様風の女性が腰掛けており、ショートカットの少女と並んでテーブルに腰掛けていると、美少女そろい踏みのようであり、非常に目を引く。
 三人のテーブルを挟んだ対面の右端、金髪の少女の正面に、彼女によく似た顔立ちの男子生徒が困ったような表情を浮かべていた。どうやらショートカットの女生徒が注目を集めているのが気になっているらしい。
 金髪の少女と彼は一つ違いの姉弟で、姉の山崎小夜子やまざきさよこが2‐A、弟の努は1‐Bのクラスに在籍しており、二人は高名な写真家である米国人の父親と、服飾デザイナーである母親が離婚した際、母親に連れられて来日した。姉はもとより、弟の努も長い髪を首の後ろで纏め背中に垂らし、欧州の貴公子めいた大きなアーモンド状の目と高く整った鼻や、小さめの唇といった顔の各パーツが高レベルで配置されており、そのおっとりとした性格も相まって女生徒から人気が高い。
「今日はいつもより遅かったね。何かあったの?」
努は海老ドリアとトマトサラダセットを前にスプーンを水の入ったコップにつけながら尋ねた。
「わりぃ、冬峰が寝ぼけててな、つい遅くなっちまった」
 別に寝惚けてないぞ、と呟く冬峰を無視して、根神は言葉とは裏腹に悪びれた様子も無く努の隣、中央の席に腰を下ろした。ショートカットの女生徒の正面になる席の前には、既にきつね饂飩とご飯の学食Bセットが置かれている。
「せっかく、私が毎日席と食事を取ってやっているのに、饂飩がのびちゃうじゃないー。」
根神から昼食代を受け取りながら、があーっと喚くショートカットの女生徒を横目に、冬峰は疲れた表情で左端の席に着いた。
「何よ、その顔は。まだ寝惚けているの」
矛先が冬峰に向いた。ショートカットの女生徒へ、諦めた様な呆れた様な表情を冬峰は浮かべる。
「いや、何でいつも、そうハイテンションなのかなと思って」
「どこがハイテンションよ。あんたが低過ぎるだけでしょ」
 見事に切り返すあたりハイテンションだということに、彼女は気づいていない。
 ついていけねーと冬峰は持ってきた紙袋から、サランラップに包まれたサンドイッチを取り出す。
 冬峰は従姉の四人姉妹の家へ居候させてもらっており、彼女等の朝食を用意するついでに昼食を作っているので、朝が和食ならば昼はサンドイッチ、朝がパン食ならば昼はお弁当になる。
「御門君は遅くまでアルバイトしてるから仕方ないんじゃないかな。学費も自分で払っているし。私から見ると、とても偉いなあと思うんだけど」
 冬峰の正面に腰掛けた眼鏡の少女が、おづおづと助け舟を出した。

「駄目ダメ美咲先輩。こいつのバイトの理由は親に勘当されて学費を出してもらえないから。それにコイツ、春奈さんに迷惑掛けられないって意地張ってるだけだって。アルバイトで稼いでいるのなら小夜子が断然トップなんだし」
「うん、二人共すごく大変だなって、いつも思うよ。私は両親にアルバイトを禁止されているから、とてもうらやましいよ」
 ショートカットの女生徒の酷評に、眼鏡で御下げの少女、倉森美咲(くらもり みさき)は穏やかに返答した。彼女はこの地域の一番の金持ちである倉森運送の会長の孫で、学校内では生徒会副会長を務めている。その穏やかな口調と清楚な容姿に加え、誰に対しても分け隔てなく接することから教師、生徒ともに人望が厚い。
「別に大変とは思わないけど」
 高校生にして、人気モデルの小夜子であるが、きっかけはたまたま父親の写真集のモデルに一枚だけ写されたことであり、気付けば有名になっていたというのが実情である。未だに実感が沸かないと彼女が苦笑混じりに呟くのを、冬峰は目にしたことがある。
「いや、十分ん大変だって。校門の横でカメラ構えたおっさんやら、青白い大学生がたむろしているからな。ああゆう奴等はひとつ気を許すと三歩踏み込んでくるぜ」
 野球部の根神と美術部の小夜子は、よく帰宅の時間が一緒になる。一年生の根神は先輩部員に遅くまでシゴかれる為、また小夜子は絵を描くことに夢中になる為に下校時間ぎりぎりまで校内に居る。そんな時、一八〇センチ以上の長身でがっしりとした身体つきで目つきの悪い根神と、小夜子の親友である女生徒がいれば、プライベート無視の厚かましい大人達に向けての防護壁となる。
「同感。おっ、今日は炒めトマトと薄玉子焼きと厚切りハムのレタスサンドイッチですか。マヨネーズじゃなく手製タルタルソースを使うあたり熟練の域に達してて食欲をそそるね」
「ナニ人の昼飯を食べているんだ、志保理しおり
 冬峰は、いつの間にか自分のサンドイッチを一切れ摘まんでいるショートカットの少女へ、微かな怒気を込めて睨みつけた。まだ眠いのか寝起きの不機嫌を湛えた目付きだが口調もゆったりしており全然迫力がない。
「イッツ、ジャイアニズム ※意味、おまえの物は俺のもの.俺のものは俺のもの」
しかしこの女生徒、二年生総代であり冬峰と根神の幼馴染である阿見志保理あみしおりには、全く通用しない。冬峰の抗議を理不尽な一言で一蹴し、志保理はもう一切れ、冬峰の手元にあるサンドイッチにを奪おうと手を伸ばす。
「やらんぞ」
 冬峰は志保理の手の届かない位置までサンドイッチを下げた。志保理の指先が空しくテーブルの表面を叩く。
「ちぇっつ。」
「仕方ない。俺が饂飩を一本あげよう」
 短く舌打ちをして椅子に座り直した志保理へ、根神は箸で自分が先程まで啜っていた鉢の中身に残された饂飩を一本摘まんで、志保理の鼻先へ近づけた。
「いらない」
 にべも無く目の前に垂れ下がった饂飩を拒否して、志保理はサンドイッチを食べ始めた冬峰を恨めしそうに見た。
「まるで欠食児童だな」
 志保理に差し出した饂飩をつるりと飲み込みながら根神が言った。
「だって食堂の調理場で湯掻いただけの饂飩と、手作りサンドイッチの価値って全然違うでしょ」
「こっちもパンを焼いて材料を挿んだだけなんだけどね」
 自分で作ったサンドイッチを口に運びながら、それに対する感想を冬峰は述べた。確かに仏頂面でサンドイッチを食べる姿は、まるでサンドイッチの隠された意味を探る修験者の様で、美味しそうに食べているようには見えなかった。
「そう思うなら、私にその一切れをプリーズ」
 志保理がべしべしとテーブルを行儀悪く叩いた。
「志保理、五月蝿い」
 そんな志保理に対し、静かに注意する小夜子。冷え冷えとした口調と視線は、彼女の人形めいた美貌と相まって、向けられた相手に一種のプレッシャーを与える。以前、校門で何の断りも無く彼女を撮影しようとした男が、「何の用ですか?」と彼女に問われ二度と現れなくなった事は、彼女のファンの間では有名な話である。
「志保理ちゃん、お腹が空いているなら、私の弁当の残りだけど食べてもらえるかな。量が多くて食べきれないの」
 志保理の前に半分程中身の残った弁当箱が差し出された。色彩豊かなサラダや、薄茶色にほど良く焼かれた切肉に作った者の腕の良さが現れており、さすがお金持ちのお嬢様と言ったところか。
「え、いいの! 前から食べたいと思ってたんだ」
「うん、残すと折角作ってくれたのに残すのも悪いから無理して食べてたんだけど、志保理ちゃんが食べてくれるなら私も助かるし、嬉しいよ」
 本当に嬉しそうに微笑んで応える美咲に、冬峰は何となく大変だなと思った。彼女は、他人に対して気を使い過ぎている様な気がしたのだ。
 普段食べることの出来ない弁当を前に、喜色満面の笑みを浮かべた志保理は箸を近づけた。
「阿見さん」
 冬峰の背後から声が掛けられ、志保理の持つ箸の動きが止まる。
「おっ、千秋ちあき
「何、御門さん」
 冬峰と志保理が同時に、冬峰の背後の女生徒へ声を掛けた。
 やや長めのパサついた癖のある髪と、細いフレームの眼鏡の奥の目つきの鋭い鼻筋の通った顔立ちの少女は、苗字のとおり冬峰の従姉にあたり、2‐Bのクラス長という役職に就いている。
「阿見さん、十二時四〇分から生徒会室で学年委員の会議があることを覚えていますか。」
 何となく千秋の口調は怒っているように聞こえなくもない。
「あ」
 志保理がしまった、とでもいうように短く声を漏らす。とんだ二年生総代だ。
 美咲は食堂の調理場にかかった時計を見た。十二時四十五分。既に集合時間は過ぎており、今頃生徒会室に集まった二年生の各役員は、議長である二年生総代に対してやきもきしているだろう。
「大変、志保理ちゃん、もう五分過ぎてる」
「どうしよう小夜子」
「私に聞くな」
 冷たく小夜子に一蹴され、言葉に詰まる志保理に追い打ちをかけるかのように、千秋はため息をついた。
「阿見さん、慌てるのもいいけど、早く生徒会室に行きませんか。総代がいないと会議が始められないんです」
「ごめん、今スグ生徒会室に行くから」
「お願いしますよ」
 拝む様に手を合わせ頭を下げる志保理へ念を押し、生徒会室へ帰ろうとした千秋の耳に、ガラッと食堂の窓を開ける音が届いた。
 窓を開けた志保理は、窓から首を突き出し、
「下に人影は無し。一階の生徒会室まで最短距離。」
等と物騒な事を呟いている。
「ちょっと、志保理ちゃん」
「おい、今スカート穿いてんだろ」
 彼女が今から何を実行するのか、薄々感づいた美咲と根神が止めようと声を掛ける。
 一方、小夜子は努の「止めないの。」と聞くのに対し、「無駄。」と一言だけ言葉を返し、冬峰は面白くもなさそうに紙パックの牛乳のストローを咥え、ただ見物している。
「行きます!」
 跳んだ。躊躇も無く,下からスカートの中身が見えるのも構わず食堂の窓からジャンプした。
 美咲は悲鳴を上げ、眼鏡の奥に涙を滲ませ窓辺へ駆け寄る。他の成り行きを見守っていた生徒も、一斉に窓辺へ駆け寄る。食堂のテーブルに座っているのは、黙々とサンドイッチを食べる冬峰しかいなかった。
 志保理は着地後、落下の衝撃を前方へ転がり逃した。流石に足に負担はかかったらしく顔を歪めるも、直ぐに立ち上がり2階の食堂に向けて手を振った後、生徒会室に走っていった。
 青い顔でへなっと崩れる副会長を努が慌てて背後から支えた。
「美咲さん、大丈夫?」
 おっとりした美咲には先程の志保理の行動は刺激が強かったらしく、努の問いかけにただ引きつった笑みと首をカクカクと動かすのが精一杯の様だ。
「志保理も無茶するよ。また職員室に呼び出されないといいけど。」
 根神が心配そうに呟くも、その口元に笑みが浮かんでいるのは、幼馴染の冬峰と根神は当然として小夜子、努姉弟と美咲は同じ中学校を卒業しており、志保理の突飛な行動には免疫が出来ている為だが、(尤も美咲は彼らが中学2年生時に知り合っており、このメンバーの中では一番付き合いが短い。また、彼女の性格の為か、志保理の行動に一向に慣れる様子が無い)志保理のその行動力が彼女の魅力だと知っているためだろう。
 千秋も暫く呆然と志保理の飛び降りた窓を見ていたが、我に返ると踵を返し歩き出そうとして、ふと立ち止まった。
「冬峰。今日は会議でアルバイトに遅れるから。マスターに伝えといて」
 冬峰は軽く右手を上げて了解の合図を送る。
 千秋は親元を離れ下宿している為、生活費と学費を稼がねばならず、夜の六時から八時迄の二時間、駅前広場、何故かイタリア広場となづけられている、にある喫茶店でアルバイトをしている。
 去年の夏、殆ど家出同然で親に独立宣言し、親戚の経営するアパートに転がり込んだまではよかったが、さてこれからどうしよう、とアルバイト情報雑誌と睨めっこする千秋の下へ冬峰がひょっこり顔を出し、好い所があると紹介したことが切っ掛けでアルバイトすることとなった。当時中学3年生であった冬峰は名目は受験勉強の為、実際はその喫茶店にあるレコードを聞く為に、その喫茶店に入り浸っており、客が大勢来店すると不機嫌になるマスターの為、いいアルバイターがいないか思案していた矢先に叔母(千秋の母親)から様子を見に行くよう命令され、千秋に駄目元で聞いてみたのだ。
 現在では高校生になった冬峰もウエイター兼料理人としてアルバイトを始め、二人で時々忙しくなる店を店長に代わり切り盛りしている。
 千秋はそれまで冬峰と、そう親しい間柄ではなかった。親戚一同の彼に対する態度は嫌悪の表情を浮かべ遠巻きにして見物するか、無視するかのどちらかであり、冬峰も彼らに対して無視を決め込んでいた。そんな彼が中学二年生の時、この地にある御門本家へ呼び出され、当主である春奈から本家に住み込む様頼まれた時など、親戚から多くの不平不満が噴出した。
 千秋は生徒会室へ急ぎ足で向かいながら、何故、冬峰は人手が足りなかったとはいえ、大して親しくもなかった従姉の自分をアルバイトに紹介したのか不思議に思った。今でもいつも眠そうな茫洋とした雰囲気を持った無口な従弟は良く解らない部類の人間に属する。近いうちに理由を聞いてみよう。そう何となく千秋は思った。
 昼食後根神は校庭へ、一年生野球部員同士のキャッチボールへ向かい、その他の冬峰、努、小夜子、美咲の四人は図書室へ向かった。冬峰以外は読書を楽しむ為に、冬峰は昼寝の為だが三人はその行為を咎める事はせず、それぞれが昼休みの終了する迄の三〇分間、ゆったりとした時間を過ごしていた。
図書室に入ると明るくも無く暗くも無い計算された照明の中、独特の紙の匂いが彼らを出迎えた。この図書室の蔵書量はかなり多く、二万冊以上と噂される書物の種類は幼児向け絵本から哲学書や古文書まで多岐にわたる為、休日の開放日には読書人達でごった返すことが多い。
 冬峰以外の三人は図書室の貸出カウンターより一番遠い席に陣取って読書を始めた。
 冬峰も机へ突っ伏して寝ようとしたが、あーと何かを思い出したかのように間延びした声を上げた。何事かと目を向ける三人に、珍しく微かな笑みを浮かべて何気なく言った。
「そういや、昨日、祖父さんの蔵書でラブクラフトの小説を見つけたんだが」
暫くの静寂の後、
「なんだって!」
「本当ですか」
小夜子と美咲が前に興奮したように、テーブルを挟んだ冬峰に向かって身を乗り出した。
「誰?」
唯一、努のみが話題についていけず冬峰に尋ねた。
「ハワード・フィリップス・ラブクラフト。略してH・P・L。二十世紀前半のアメリカで宇宙的恐怖というジャンルを築き上げた作家。生前は高い評価を得られなかったが、彼が若くして死した後、彼の弟子やフアン達が彼の作り上げた世界の物語を書き加えて、ついにホ ラー小説の一ジャンルとまで広がっんだ。しかし70年代、アメリカや南半球に発生した”大異変”の後、彼の著作やそれに類する書物は世界中で発禁処分となる」
 一息で説明を終えた冬峰へ、努は珍しそうに「冬峰って長く喋れたんだ」と呟いた。どうやら興味は無いらしい。
「宇宙的恐怖といわれても、いまいち解り辛いよね。どちらかというと僕にはヒュードロの方が想像し易いし」
 その想像し難い作品を書く作家の国の血が半分混ざっている少年は、眉を寄せ、うーんと唸った。ちなみに彼が今読んでいる書物は「雨月物語」。見事にヒュードロだ。
「私も噂だけで実際に読んだ事は無いわね。ただ、大異変と彼の作品に出る描写が似ていると、オカルト雑誌には載っていたから、気には なっていたけど」
 小夜子は興味があるのか無いのか判らない醒めた口調で呟いた。まあ、この女生徒はいつもこんな風なのだが。
 「私はお祖父様が呼んだことがあるって言っていたの。ただ二十年程前に、どこから嗅ぎ付けたのか警察が押収して言ったらしいけど。御祖父様は海の上でラブクラフトの作品を読むと、とてもワクワクするって、面白そうに話していたわ」
「そっか、美咲さんとこは海運業だったよね。」
美咲がこの街一番のお金持ちの孫である事を思い出し、努は呟いた。そんな彼女が何故、こんな普通の高校に通っているのか、努は不思議に思っていた。
「冬峰君、それって本物なんでしょうね」
「本物って?」
「例えば悪戯好きの作家が、その人物を騙って自分の書いた小説を発表したものだとか、御祖父さんが騙されて買わされたとか、可能性は無いの」
 常に冷静な小夜子らしい指摘に、冬峰は苦笑しながら首を振った。
「いや、それは無いな。本に関しては祖父さんはかなり好みが五月蝿かったし、そうそう怪しい買い物をする性格では無かったよ。それに 、あの独特の物語は誰かに真似出来るとは思えないな」
 へえっと声を漏らし、小夜子が目を輝かせた。

Re: 天門町奇譚 ( No.3 )
日時: 2020/07/19 14:27
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「ラブクラフトは、どんな物語を書いていたの。荒俣○、それとも菊○秀行風?」
「いや、さっきも言ったとおり、独特。話の内容はちょっとはしょるが、有名な民俗学者が古代宗教の謎を追う内に、海に眠る異世界の存在を突き止め、其の為に命を失う話。その異世界の存在、ラブクラフトはクトゥルーと呼んでいるけど、それが南半球の海に沈んで、時々浮いてくると書かれていたが、美咲さんの祖父さんが読んだのは、多分この話だと思う」
「かなり怖いってことかな?」
 美咲はちょっと嫌そうに冬峰に尋ねた。彼女は怪談は苦手で、話を聞くとつい想像してしまい、眠れなくなるそうだ。
 冬峰は美咲の質問に困ったような表情を向けて話を続けた。
「いや、怖いって事は無いね。海の中からクトゥルーが現れる描写なんか、まるで怪獣映画だし。もうちょっと、そのクトゥルーに凄みがあればよかったんだが。まあ読物としては面白い部類に入ると思うよ」
 ヒュードロは無いから安心しなさい、と冬峰は美咲に安心させるように言った。
「じゃ、御門君が読み終わったら借りようかな」
「私は今、忙しいから美咲さんの後でいいわ」
 女子生徒二人はそれぞれ興味があるらしく、冬峰から借りる順序を決めようと相談し始めた。冬峰の祖父の蔵書は、よくこの二人に貸し出されており、小夜子と美咲にとって図書室にも無い珍しい本が読める為、冬峰は貴重な読書仲間となっている。
 昼休み終了間際、図書室で惰眠をむさぼっていた冬峰は教室へ帰る途中、渡り廊下から見える校門の様子に首を傾げた。
 いつも昼休み過ぎから小夜子目当ての追っかけや雑誌の記者、及び他に女子生徒の友人、交際相手が数人見られるのだが、今日に限っては男が二人、門柱の陰から校舎を眺めていた。
 二人はそれぞれ濃紺と茶色の背広に七.三分けという特に特徴も無い格好をしており、昼過ぎに校門にたむろする人種とは思えなかった。
 冬峰は大手出版社員かもしれないと思い暫く二人を観察していたが、茶背広がふと顔を上げた拍子に、冬峰と茶背広の視線がぶつかった。
「…………」
「…………」
 何をするわけでもなく冬峰はただ眺めているだけだったが、茶背広は濃紺にひと言ふた事何かを告げ、もう一度冬峰を見上げると足早に校門から歩き去っていった。濃紺も慌ててそれに続く。それはまるで犯行現場を見付けられた犯罪者の様であり、冬峰に連続行方不明事件を思い出させた。
「やれやれ、根神も大変だな」
 小夜子と志保理の騎士役を務める友人の苦労を思い出した冬峰は、そうごちて予鈴の鳴り響く校内を冬人は教室急ぎ歩き去った。

              3

 何事も無く冬峰は六時間目の現国まで寝て過ごし、6時間目終了のチャイムと共に大きく背伸びをして、ひとつ大きな欠伸をした。
 彼はこれから駅前の喫茶店で、夜の八時までアルバイトの予定が入っている。約3時間の短時間の労働だが、午後五時から八時までの尤も客の入りが激しい時間帯であり、それを考慮して自給九百円と平均より高いアルバイト代を、店長は冬峰と千秋に支給してくれているのであった。
 冬峰は教室を出る前に、ふと、昼間校門で見かけた背広姿の二人組みが気になった。彼らはいつも校門にたむろしている者と異なる雰囲気をもっており、服装も背広姿とこざっぱりしており、一見、大企業のサラリーマンに見えなくもない。ただし平日の真昼間に学校を覗き込むサラリーマンを普通というカテゴリーに当てはまれば、だが。
 冬峰はそこまで考え、根神に一言注意を促すべく教室へUターンした。
 
 その頃校門の前には気の早い三人の山崎小夜子の追っかけが校門脇の花壇にしゃがみ込むなどのだらしない格好で、午後七時の彼女の帰宅を見送ろうと待ち構えていた。
 彼らは三人とも学校近くのコンビニエンスストアの店員であり、彼らの受け持ち時間が終わるや否や校門前に脱兎のごとく駆け出し、他のフアンより早く小夜子の下校を見送ることを生き甲斐としていた。出来れば話しかける等、もう一歩踏み込んだ行為に及びたいのだが、下校時彼女の両脇を固める背が高く髪を短く刈った威圧感はないがどこか力強い頼もしさを感じさせる男子生徒と、ツリ目の男子中学生のような女生徒に阻まれ、見送ることしか出来なかった。
 山崎小夜子の追っかけである彼らの存在は小夜子のみならず学校側にとっても頭の痛い問題であるが、彼らが直接、生徒に迷惑を掛けているわけでもない為、学校側も黙認しているのが実情であり、彼らも学校側の都合など想像もせず日参しているのだった。
 そんな彼らは誰よりも早く校門前に集合することを自慢にしていたが、いつもと違い紺背広と茶背広の二人組がすでに校門前に陣取っているのを目にして戸惑っていた。この校門前に集まるのはほぼ決まった顔であり、入れ替わるのは業界関係者だけであるから、雑誌の編集者かと迷彩柄のパーカーに青のジーンズを着た一人が紺背広に近付いた。運が良ければ山崎小夜子に関する情報が手に入るかもと期待したのである。
「ちょっとアンタ」
 いきなりぞんざいに声を掛けてきた青年へ、紺背広は振り返りいぶかしげな表情を浮かべた。
「あんた達は小夜子嬢の仕事仲間か。それとも仕事の依頼に来たのか?」
 ぐいっと顔を近づけ問い質して来るのへ、紺背広はにこやかな笑みを向けて頭を下げた。
「これは済みません。実は人を待っておりまして、この子なんですが見覚えはありませんか?」
 紺背広が背広の胸ポケットより一枚の写真を取り出し、追っかけ青年の前に差し出した。
「実は私共の会社では魅力的な新人を発掘すべく手を尽くしておりまして、彼女に白羽の矢が当たったわけですが、彼女がデビューした暁には山崎小夜子と同学年ということで、二人揃っての企画も考えております。ですから彼女について情報があれば教えてほしいのですが」
 迷彩柄は紺背広の手にした写真をしばらく眺めた後、首をひねった。
「記憶にねえな。おい、この子見たことねえか」
 背後に居た残りの追っかけも写真を覘きこみ、その内のGジャンジーンズ姿の青年が、ああ、この子かと声を洩らした。
「知っているのか?」
「ああ、終業の鐘が鳴ってから一〇分程経ったら出てくる子だよ。名前は知らないけど、いつもせかせか早歩きで歩いてるんで、よく覚えてる。」
 紺背広は追っかけ二人の背後に立つ茶背広へうなずき、茶背広は笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。お礼に山崎小夜子の今後の情報を提供しますので、近くの喫茶店で一息つきませんか。あまりおおっぴらに公開出来ない情報もありますから。」
 茶背広は近くに止めてあった黒いワゴン車のドアを開け、どうぞ、と短く呟いた。
「さっ、遠慮なくどうぞ。」
 紺背広に背中を押され追っかけ三人はワゴン車に乗り込んだ。走り出したワゴン車は学校前から表通りへ向かうが、この三人の追っかけは、ワゴン車が校門前に帰ってきたとき、紺背広と茶背広に同乗していなかったのである。

 学校の中から生徒の姿がほぼいなくなる午後七時過ぎ、千秋は明日のホームルームにて、クラスメイトに配布する資料をまとめホッチキスで綴じる作業を終えたばかりであった。資料の内容は最近頻発している行方不明事件について述べられたものであり、先々月に行方不明の後、雑木林で凍死体となって発見された新聞委員について校長のコメントが掲載されている。また犠牲者をこれ以上出さない為、この事件が解決するまでの間、放課後の部活動全面禁止の旨が通達されている。
 このまま事件が解決しなければアルバイト禁止令まで提案されかねないなと、千秋は一人暗澹たる思いに囚われ溜息をついた。下宿生活を営む彼女にとって放課後のアルバイトは生命線であり、もしアルバイトが禁止されたのなら、彼女は実家に帰らねば生活出来なくなり、自分の家族を含めた御門家への短い反逆の意思は費えてしまう。彼女は、それだけは避けたかった。
 部活動の禁止に関しては、二年生学年総代である阿見志保理が昼休み終了間際まで部活動禁止反対と気炎を上げていたが、それほど部活動の盛んでないこの学園では賛同者は得られず押し切られる形となったか。また、彼女が亡くなった新藤恵美と友人だった事も志保理が矛を収めた原因のひとつとも言えなくもない。
 千秋は志保理の仕事、二学年の人数分の資料をクラスごとに分ける作業を手伝おうと最前列の机を見たが、彼女は丁度仕事を終えたらしく、カバンを背負いながら早足で教室を出て行くところだった。教室の前扉から百八十センチ近い長身をかがめる様に中を覗き込む男子生徒―根神一と背が高く腰までかかる金髪が目を引く美人―山崎小夜子嬢が志保理を待っていたらしく、志保理は「諸君、出迎えご苦労。」となんとなく偉そうにしながら教室の外へ出て行った。志保理は二人の前を歩きながら、いつもよりテストの結果が少し悪かった時のように明るい口調で言った。
「ゴメンねー。部活動中止になっちゃったよ」
  根神は苦笑で、小夜子はいつもの人形めいた表情を崩さず「ご苦労様」とだけ言った。二人には、毎日午後7時近くまで部活動を楽しんでいる自分達の為に、志保理が昼休み中、学年会議を頑張っていたと何となく解っていたのだった。
「その分、五人でぶらぶらと歩き回るのも、悪くないんじゃねえか。冬峰も努も一緒に帰れるって。テスト期間以外じゃ、めったに無いからな」
「たまには賑やかなのも悪くは無いと思うわ」
 二人はそれぞれ特徴のあるねぎらいの言葉をかけた。志保理は「うん、それならいいね。」と二人を振り返り笑みを浮かべ、明日からの放課後をどう過ごすか二人の友人と話し始めた。
 三人は昇降口を抜け正門へ向かった。正門の一〇メートル手前まで来ると申し合わせて様に根神が小夜子の前、志保理が背後に回り縦列行進を始めた。もちろんこれは正門に屯する追っかけや雑誌記者から小夜子を護る為のものであり、根神が人間の壁となって二人と追っかけの間に身体を滑り込ませ、その背後を志保理と小夜子が早足で駆け抜けていくのが日課であった。
「?」
 校門が近づくにつれ、三人に困惑の表情が浮かんできた。
「嘘だろ」
 根神が喜んでいるのか、悲しんでいるのか、どちらともいえない表情を浮かべた。
 いない。誰も居なかった。いつもなら最低でも一〇人は追っかけが校門前に屯しているのだが、何故か今日は一人も居なかった。
 三人は立ち止まってそれぞれ周囲を見回し誰も隠れていないことを確認すると、更に困惑した様に顔を付き合わせた。
「誰も居ないよね」
「ああ、今迄こんな事は無かったよな」
 根神が警戒の色を緩めず、尚も周囲を見回していることをいぶかしみながら、志保理は悪戯っぽく小夜子に声を掛けた。
「小夜子、何か悪い事した?」
「してないわよ」
 冷静に言い返した後、小夜子は珍しく薄いピンク色の整った唇に苦笑を浮かべながら呟いた。
「明日から、待ち望んだ静かな学園生活が送れるってことかしら」
「たった一日で人気凋落。ありえねえだろ」
 根神は内心、小夜子と帰る口実が無くなる事を残念に思いつつ、そうごちた。
「そうだよね。小夜子に何かあったら余計に人が集まるし。今日は警察でも通り掛かったかな」
 志保理は喋りながら何かを見つけたらしく、小鳥が歩くような仕種でひょいひょいとそれに近づき拾い上げた。
「なんだ?」
 根神と小夜子も近づき、それを見た。志保理が汚いものでも持つように指先で抓んでいるのは、黒い一足の革靴だった。
「ウチの生徒のかな」
 志保理は不思議そうに少年のような顔に眉を寄せて革靴をひっくり返したり中を覗き込んだりしている。
「でも、普通、自分の履く靴を忘れる人は居ないよね」
 根神はその光景を見つめながら、教室を出る間際に幼馴染―冬峰の忠告を思い出した。今日は毛色の違う奴等が居るから気を付けろ、と彼は言った。しかし校門には誰も居らず、靴が一足落ちていた。
「まあ、考えても分からん事だ。さっさと帰ろうぜ」
 根神は早くこの場所から離れようと、二人をせかした。何となくその革靴が酷く忌まわしいものに思えたからだ。
 三人は何事も無く校門を抜け、学校から少し離れたバス停に向けて歩き始めた。そこで小夜子はバスに乗り、根神と志保理は徒歩で自宅に帰る。
 バス停まで百メートル程の距離で、根神はバス停の方向から数人の男が歩いてくるのを目にして表情を引き締めた。その男達居の中に、冬人が昼休みに見かけた、他の追っかけとは違う毛色の違う紺背広と茶背広の男の特徴に符合する者を見つけたからだ。
 それ以外の男達はジーンズとTシャツ姿の者やジャージ姿等、いろいろ居たがその者達が真直ぐこちらへ歩いて来た為、根神は腰の後ろで手首を振って小夜子と志保理に自分の背後に隠れる様に合図を送った。
 男達の行列の先頭が根神の横を通り過ぎる。そして小夜子にも一瞥を与えただけで通り過ぎて行く。次の者、また次の者も同じ様に根神達がまるで居ないかのようにただ通り過ぎて行く。その後姿を見ようと根神が振り返ったとき、彼らは学校へ続く曲がり角を曲がって姿を消した。
 根神は、何となく彼らの目的が学校のあるような気がして、彼らを追うか、それとも小夜子と志保理を無事に送り届けるか判断に迷った。
「あの人達、何か目つきが変だった様な気がする」
 志保理が薄気味悪そうにつぶやいた。確かに根神も彼らには何か病的な、腐った果実に近い病んだ印象を受けた。
「御門さん、まだ学校に残っているよね。大丈夫かな。人を見たら泥棒と思えって感じであまり善くないけど……心配だな」
「戻る?」
 小夜子が訊いてきたが、根神は首を横へ振った。彼ら男達も気になるが、今は志保理や小夜子を無事に家まで送って行く事が重要と根神は判断した。
「行こう。学校に居る限り御門も大丈夫だろう。とにかく小夜子先輩と志保理は家に帰ったほうがいい。これ以上帰りが遅くなると、流石に物騒だからな」
 志保理と小夜子は何か言いたそうだったが、根神の苦笑しながら言った一言……一度に三人は守れない、を聞いて口をと閉ざした。
「まあ、何かあると決まったワケでも無いし、一人助っ人を呼んでおくよ」
 十七歳という年齢にしては、逞しい引き締まった顔に無骨な笑みを浮かべ、根神はブレザーの内ポケットから携帯電話を取り出し、ワンタッチである番号を呼び出した。
「あいつ、寝てなきゃいいけどな」
長身の野球部一年生は上級生からも一目おかれる存在であるが、その彼が信用している同級生が荒事に向いている性格とは、その幼馴染である志保理にはとても思えなかった。

 寝る暇など無い。
 その頼りにならない幼馴染は、来店した二十歳ぐらいのカップルを空いたテーブルに案内しながら、胸の内でひとり嘆息した。
 冬峰のアルバイトするカフェ「ラ・ベルラ」は午後六時から閉店の八時迄、客の入りが最高潮に達する。さほど広くない店内に十ばかりテーブルを並べただけのシンプルな喫茶店は、駅前に店を構えていることもあるが、直ぐに満員になる店としても有名で、よく入りに来た客が入口でUターンしている。ほぼ店内の三分の一を占めるカウンターの内側には、高価なオーディオセットとジャズやシャンソンのレコードを入れた棚が鎮座しており、少し古びたこげ茶色の店内と黒いテーブルに、流れるノイズ混じりのレコードの古い音楽がこの喫茶店を外とは別の空間に変貌させている。冬峰の服装も店内に合わせ、学校指定のカッターシャツと黒色のスラックスに黒色のエプロンを着用しており、学校内とは異なる落ち着いた印象だが、ただこの少年は何となく面倒臭そうな雰囲気を放っているのが不思議だった。
 とどのつまり、この店は店長の趣味が色濃く反映されている喫茶店であり、ダミアの「暗い日曜日」やジャズクインテッド60等の古い欧州方面の音楽を好む者達が、約四〇分程、コーヒーや簡単なメニューを注文して読書等を楽しみながらのんびりと過ごす場所であった。決してどこか不機嫌そうに見えるマスターとどこかのんびりとしたウエイターに文句を付けたり、早々に店を出て行ったりする場所ではない。
 しかし、最近は頻発する行方不明事件のおかげで夜間郊外まで外出する者が少なくなり、外出するにしても駅前の手頃な店でデートや用事を済ませようとする傾向にある為、この店「ラ・ベルラ」にも一般の客が出入りするようになった。もともとテーブル数が少ないので常連の「店長にとって好ましい客」が満席のため入店出来ず、一般の客やアベックがコーヒー等を注文し、一〇分程でそそくさと出て行き、その空いた席にまた一般の客が入り込むという悪循環に陥っていた。
 此処の処ウエイターと料理番である冬峰は忙しく、一般客が入ると不機嫌になる店長は、ますます原田芳生に似た不機嫌そうな顔を、更に不機嫌そうにしている。ちなみに店長は珈琲担当。
 先程店に入ってきたカップルと、別の男女二人連れが続けて席を立ち、冬人は千秋が居ないためレジカウンターで珈琲代を受け取りながら、二〇分持たなかったなとぼんやり思った。


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