二次創作小説(新・総合)

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天門町奇譚
日時: 2020/07/19 13:49
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

   序 異界侵食

 まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
 商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
 午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
 芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
 何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
 外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
 なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
 この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
 この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
 最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
 雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
 息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
 息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
 下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
 父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
 父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
 八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
 その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
 だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
 二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
 連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
 別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
 三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
 何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
 直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
 中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。

 しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
 ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
 いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
 直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
 そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
 それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
 しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
 先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
 直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
 数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
 直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
 現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
 その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
 またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
 この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
 発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
 千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
 今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
 自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
 駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
 しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
 芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
 それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
 それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
 芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
 屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
 すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
 いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
 もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
 ごぽっ。
 背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
 ごぽっ、がぱっ。
 何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
 ごぽり、
 芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
 マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
 前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
 ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
 悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
 成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
 それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
 三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
 だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.14 )
日時: 2020/07/20 23:10
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「いただきます」
「んー」
「………」
 千秋は無言でいつの間にか席に着き、用意された冬峰の朝食を口に運ぶ正体不明の外国人を睨み付けた。トーストを平らげたフェランはようやくそれに気付き、何かな、と、悪びれた様子も無く視線を上げる。ちなみに冬峰は席に着いたまま、まだうつらうつらと船を漕いで覚醒していない。
「いや、昨日は大変だったね。うん、君、眼鏡を掛けない方が美人だよ」
「それはどうも。で、どうしてフェランさんが此処に居るんですか?」
 唇の端を引き攣らせて静かに尋ねる。
 フェランは肩をすくめて、両手の掌を肩の高さまで上げて首を傾げた。いや、私も困っているんだよ、と仕方なさそうに呟く。
「いや、出来れば私もこのような厚かましい真似はしたくないのだがね。何しろ五箇月もこの地に留まっていると、手に職でもない限りそろそろ軍資金が尽きてくる。最初は優雅にホテル住まいだったが、今では車の中で寝泊りする毎日だ。食事なんてサンドイッチと缶コーヒーが関の山で、暖かい食事なんか一ヶ月ばかり口にしていないぞ」
 胸を張って答える図太いアングロサクソン系に千秋は、なら、とっとと帰って下さい。と言いそうになったが、言ったら言ったで何となくややこしい事態になりそうなので辛うじて黙り込んだ。
「それに今回は最大のスポンサーから、この件に関して関与しないことと厳命されていたのでね。個人で何とかするしかないのさ」
 さして気にする風でもなく飄々とした態度のフェランに、千秋は何も言えず狗狼の朝食が胃の腑に収まるのを見送るしかなかった。
「まあ、今日だけは許してあげます。助けられたのは事実なんだし」
「謝謝」
 両手を合わせて頭を下げるフェランに苦笑して千秋は朝食の片付けに取り掛かった。結局、冬峰は朝食を抜いたまま千秋に引っ張られるようにして登校することなるのだが、これは自業自得としか言いようが無い。
「まだ眠いよ」
 駅までの道程を早足で歩く千秋の背に、冬峰のボソボソとしたぼやきか届いた。眠いのはこちらも一緒。
「ねえ、冬峰は本家の朝食の準備もしているんでしょ。だったら、ちゃんと起きれるんじゃないの?」
「まあ、昨日、一昨日と忙しかったし。疲れが溜まってるんだよ」
「へえ、そうなの。じゃあ何時も疲れているのね」
 誰が信じますかといった風に半眼で茶化す千秋だが、実際と石仮面の対決を眼にしなければ、何時も眠たそうにしているこの少年の活躍を信じることが出来ないだろう。ただ彼女が冬峰について知っているのは、彼が御門家の中でも厄介者扱いされていることと、多少腕にがある程度と思い込んでいた。
 昨夜のことを思い出し、千秋は自分が赤面していくのを感じた。昨夜は不覚にも冬峰の顔を見て安心したのか、つい泣いてしまったのだが、それを冬峰に見られなかったか。それが気懸かりだった。
「あ」
 何かを思い出した。何か今迄忘れていた事を思い出したような気がする。
 そんな千秋に構わず冬峰はのんびりとした口調で言葉を続ける。
「あと早起き出来る理由は、春奈さん達の朝食を食べる姿が、まあ、可愛いからかな」
「起きたく無い程、可愛くなくて悪う御座いましたねえ!」
 激昂して先に歩いていく千秋の後姿を冬峰はぼんやりと見つめていたが、何で怒っているんだろと首をかしげ後を追い駆ける。
「別に休日は春奈さんが起しに来ても、昼過ぎまで眠っているけど」
 結局、校門前に着くまで千秋は一言も冬峰と言葉を交わさなかったが、校門の前に生徒達が集まり何やら騒いでいるのを目にして顔を見合わせた。
「今日、朝礼か何かあったの」
「千秋が知らなかったら、俺も知らない」
 冬峰は酷く無責任な返事をしてから人垣に近付き、その中の頭一つ分以上大きい男子生徒と女子の平均身長より少しばかり低いショートカットの女生徒、それに背が高く腰まで掛かる金髪が特徴的な美少女の一団に近付き片手を上げた。
「よっつ」
「おっす。何だ、珍しい組み合わせだな」
 振り返り、根神は冬峰と千秋の姿を認めて目を丸くした。冬峰と千秋はバイト先は一緒であるものの、御門本家と千秋の借りたアパートとは駅を挟んで正反対にあるため一緒に登校するということは今まで無かった。下校時も冬峰は一旦本家に帰ってから「ラ・ベルラ」に向かう為、一緒にバイト先へ向かうことも無い。
「御門さん、おはよーっつ。ホント、二人が一緒に登校するって珍しいね。」
 朝から元気の良い志保理の勢いに圧倒され、千秋はやや仰け反り気味に片手を上げて愛想笑いをした。どうやら彼女はこのハイテンションな二年総代が苦手らしい。
「そ、そうかな。従姉弟同士だし、アルバイトも同じだから珍しい組合せではないと思いますが。」
「あ、そうか。そうだったよね。でも何で今日は一緒に登校してるの?」
「最近誘拐事件とかで一人暮らしは物騒過ぎるからって、母が帰って来いって。ただ母も仕事の都合上留守が多いから、暫くの間春奈さんの所に下宿することになったんです。」
 千秋は半分本当のことを話した為、志保理も納得したように頷いた。うんうん、あそこ賑やかだし、御飯も美味しいしねーと返答に困ることを千秋に同意を求めるように振ってくる。いや、お前、ちょっとは遠慮しろ。と根神が窘めるのに対して、千秋はいいじゃない、幼馴染なんだし、と悪びれずに反論した。
「で、何でガッコに入らないの。」
「入れないのよ。」
 冬峰の問い掛けに小夜子は、校門に張られた黄色い立ち入り禁止と表記されたテープを指差した。
「登校すると、もう警察が入っていてね。校門も閉じられたまま。校舎内は危ないから立ち入り禁止にしているそうなの。」
 小夜子はそういって、自分達の学び舎を見上げた。つられて冬峰と千秋も校舎を見上げると、そこには東校舎の階段のあるべき壁の部分が倒壊し、屋内まで見える状態になっており、一階の各校舎の窓ガラスも殆どが割れている。
「いや、すごいねホント。」
 そう、しれっと惚ける冬峰をじろりと横目で睨んだ後、千秋は小夜子に校舎の老朽化かな、と尋ねた。
「そうかもしれない、でもそれにしては中の人達は警察には見えないの。雰囲気からすると軍隊かな。」
確かに校舎内やグランドを右往左往する者達は、警察とは何処と無く異なった印象を、生徒に与えていた。まず全員がヘルメット着用の上、ゴーグルで顔を隠している。おまけに手には短機関銃らしきものを構え物々しい。何かを調べている男達も防護スーツのようなもので全身を覆っており非常に物々しい。
「まるでテロでも遭った様な騒ぎだな。学校を狙う理由は分からんけど。」
 根神は校舎を見て、最近ニュースでよく見かけるテロ現場の映像を思い出して苦笑した。世界各地ではテロや暴動は頻発しており、連日一報はテロ関係のニュースを目にしているが、幸い日本はまだテロの対象とはされていなかった。
「どうだろうね。」
 自分の行ったことだが、冬峰は何時もより表情を硬くして校舎を見上げる。いや、その眼は校舎を見ておらず、何も無い上空を何かを思い出すようにじっと見つめていた。
「世界を震撼させた大異変の後、水没した太平洋の島々に暮らしていた人達の多くが流され、生き残った人達の殆どが難民と化した。日本は同様に壊滅したアメリカ西海岸に住んでいた比較的裕福な人達を優先的に受け入れ、生活基盤の無い南太平洋からの避難民は受け入れ拒否の態度を取ったとき、確か数件国内で外国人による学校占拠があったんじゃないかな。」
「確か慌てた日本政府が神戸の海上都市の一部を難民保護区域に指定して、難民の受け入れを認めたってことだったかな。でも二十年以上前の話でしょ?」
 首を傾げる志保理へ冬峰はどこか暗い色を湛えた瞳で、皮肉めいた笑みを浮かべながら首を振った。
「学校に対するテロは古今東西頻繁に行われているよ。理由のひとつは、子供達の居る場所で彼等に恐怖を与えたくない為、重武装化が難しいこと。もうひとつは人質が非力で反撃される危険性が少ないこと。最後のひとつが人々の注目を集めることが出来、自分達の要求を世の中に伝えることが容易い事」
 冬峰は一息に其処まで説明して周囲を見回した。根神も志保理もいつもと違い多弁な冬峰に戸惑っているようだ。その困惑した雰囲気を和らげるように千秋は珍しく冗談めいた口調で「はい、先生」と手を上げる。
「つまり、うちの学校がテロにあってもおかしくないってことでしょうか」
「うーん、どうだろうね。世間様に注目される程、うちって有名だったっけな?」
「思い当たらないわね」
 額に人差し指を当てて小夜子は暫く考えてから、観念したように答えたが、直ぐに志保理と根神が「アンタが言うか」と突っ込みを入れた。
「あら、あんた達楽しそうね。先生は朝からてんてこ舞いよ」
 冬峰達の背後から、20代後半のベージュのカッターシャツと紺のタイトスカートの上に白衣を無造作に羽織った若い女性が、ガムテープと何やら大きな文字の印刷された用紙を抱えて声を掛けてきた。器用にもしゃべりながらでも咥えた煙草が落ちない。
「るきせんせ、おはよ」
「お早う御座います。来生きすぎ先生」
「もーにん」
 白衣を着た女性、来生瑠貴るきはぺたぺたと革サンダルの足音を響かせながら校門前に集まった生徒を掻き分け、手に持った用紙を広げて校門に貼り付けた。用紙には「本日休校」と黒マジックで殴り書きされている。
 うおお、だの、やった、だの生徒達の歓声が響く中、瑠貴は両肩を二、三度軽く叩いてから冬峰達の前まで歩き、咥えた煙草を携帯用灰皿に落とした。
「全く、朝から警察の聞き込みやら保健室の掃除やら、疲れることばかりだわ」
 やれやれと花壇に腰を下ろし、白衣の内側から新たな煙草を一本取り出し火を点ける。
 この女性は羽織った白衣と保健室という言葉から分かるように、この天門高校の養護教師つまり「保健医」である。無造作に長く伸ばした髪に、眠そうな垂れ眼、よれよれの白衣に煙草と一般的な保健医とは正反対の外観及び嗜好をしているが、彼女は三年前から保健室の主であった。ただし基本的に不器用なので彼女の治療はとても痛く、あまり生徒の近寄らない今となっては、一―C組男子生徒に続く昼寝大王と化している。
「校舎内ってそんなに酷いの。本当にテロがあったとか」
 志保理の問い掛けに、瑠貴は気だるそうに顔を仰向かせ、ぷかりと白煙の輪を吐き出した。手先は不器用なのに、役に立たない事は器用そうだ。
「んー、聞いた話によると職員室や校長室は結構酷いことになってるみたいよ。扉や机も壊れてるみたいだし。うちの方はベットが二つとも入口の戸に激突しているぐらいかね。何か火薬を使ってロケットみたいに打ち出されたみたいで、入口の戸は殆ど割れかけていたから買い換えるしかないだろうね」
再び、じろりと千秋が横目で冬峰を睨んだ。おまえか、こらあ。そんな非難めいた視線に冬峰は「僕じゃないよ」と、声に出さず口だけを動かして応えた。
「あと、その扉に血痕が残っててね。どうやら複数の人間が中で暴れたみたいだって警官が話してたよ」
「みたい?」
千秋は誰にも聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。確か昨日は男達を校舎に残したまま警察に連絡して、見つからない様フェランの車で帰宅したのだが。警察が保護したのでなければ、彼等はどうやって逃げたのか。それとも……。
 千秋と冬峰は視線を交錯させて、お互いが同様の疑問を抱いていることを確認した。千秋の脳裏に昨晩見た翼竜もどきと「黄衣の王」とフェランに呼ばれていた仮面の男を思い出した。
「それに今、校舎の中にいるのは警察じゃないみたいよ。何時の間にか日本の警察じゃなくって、自衛隊みたいな銃を持ったゴツイ奴等がやってきててね。センセー方も追い出されちゃった。てな訳で本日は休校」
冬峰は校舎内にて忙しく動き回る男達を眺めていたが、その中に今朝方まで共に行動していた茶色の癖毛に古びたコートを羽織った異国の自称ジャーナリストを見つけた。何やら一番偉そうな年配の男と話している。千秋も気付いたらしく憮然とした表情でフェランを見つめる。
「敵か、味方か。どっちか判らないわね」
「忙しい、おっさんだ」
 千秋としても、あの正体不明の掴み処の無い男を警戒しなければならない事は分かっているが、何と無くあの飄々とした態度に調子を崩され、どうも対処出来なくなってしまう。千秋はそれほど他人に対して愛想の良い方では無いが、何と無くフェランに対しては警戒心が湧かないのだ。
「似てるわね」
 形の良い顎先に手を当てて千秋が洩らした一言に、冬峰は「誰と?」と首を傾げた。
「あなたとよ。」
「?」
 冬峰は自分自身を指差し、ますます解らないと眉を寄せた。千秋はやれやれと溜め息を吐いて、首を左右に振った。
「何時も飄々として人を煙に撒く所が、本当に瓜二つなんですけど」
 冬峰は目を丸くして千秋の指摘を聞いていたが、不意に「ははっ」と乾いた声で苦笑し顔を伏せる。その表情は陰になって誰にも見えない。
「そうかな、きっと正反対だろう」
「フユ、これからどうする?」
 冬峰の言葉は瑠貴と話し終えた志保理の呼掛けにかき消された。冬峰と千秋が振り返ると、志保理が夏休みを明日に迎えた小学生のように満面の笑みを浮かべ二人を覘き込んだ。
「折角学校も休みだし、一旦ウチに帰ってから駅前に集まろうよ。折角だから御門さんも一緒にどうかな?」
「わ、私も?」
 そうそうと頷く志保理と根神を呆然と見つめた後、どうしよう、と千秋は冬峰に助けを求めるように困惑した表情を向けたが、頼りにならない従弟殿は無責任に「いいんじゃない」と答えた。そして暫く遊べなくなるかも知れないからね、と付け加える。
「そうね……」
 そう呟いた後、千秋は志保理と根神にぺこりと頭を下げた。
「御免なさい。暫く都合が悪くて。でも誘ってくれて嬉しかった。有難う」
「いや、うん。気にしない気にしない。また、次があるんだし。都合が良くなったら声を掛けてね」
「ええ、絶対に」
 志保理は微笑んだ千秋を暫く見つめた後、冬峰を手招きして千秋に聞こえないようそっと耳打ちした。
「フユって、癖毛のショートの眼鏡っ子で巨乳ーっつの委員ちょが好みですか」
「戯けかおのれは」
 そう言い捨てて踵を返す冬峰の背に志保理はべーと舌を突き出してから、笑みを浮かべ手を振った。
「いいの?」
 早朝の下校となった冬峰は一緒に本家への道を行く千秋に尋ねた。このまま帰宅すれば暫くの間、千秋の自由は無くなることになる。
「そうね、ただ、何となく約束があるから頑張れそうな気がする。志保理さんって何時も元気で、今日は少し元気をもらった気がする」
「まあ、それが取柄だからな」
 冬峰は憮然として答えた。何時も振り回されている身としては、もう少し大人しくして欲しい。そんな冬峰をどこか優しい目で見つめた千秋は、安心させるように微笑んだ。
「だから私は大丈夫」
 その後、冬峰は千秋のその微笑を時々思い出すことになる。普段、鉄面皮ともとれる表情の無い彼女だけに、その笑みはしばらく冬峰の記憶に深く焼きついた。しかし、彼女と志保理の約束が果たされることが無いことを、この時の冬峰はまだ知らない。

               3

「しかし、休校なのはいいが」
「アルバイトも禁止されてるしね。丸々一日開いているってのに」
 千秋は御門本家の応接間で冬峰の入れた珈琲に口を付けてから眉を顰めた。少し苦かったらしい。この珈琲は、冬峰と千秋のアルバイト先である「ラ・ベルダ」でもメニューに加えられている。
 高校から御門本家に帰宅した二人は、郵送されてきた千秋の着替え等を、今は使われていない次女の雪乃の部屋に運び込んだ。状況が落ち着くまで此処が千秋の部屋となる。
「休校も一日ならいいけど、あの様子じゃあね」
 胸元にイギリス国旗が大きくプリントされた長袖のシャツにデニムのスカートに着替えた千秋は空になった珈琲カップを両手で弄びながら、その原因を作った少年を横目で意味ありげに見つめた。冬峰は帰宅後、黒のカッターシャツに同じく黒のスラックスといった服装に着替えている。腰の後ろにさげられたウエストポーチには折りたたみ式のナイフが二本収まっているのは、〈K〉の残党を警戒しているのだろうか。
「まあ、結果オーライってことで。やってしまったことは仕方が無いし」
 冬峰は暫く新聞に挟まれていた広告を眺めた後、「むむ、すき焼き用牛の切り落とし肉が安い。」と呟いて千秋を見た。
「何よ?」 
「いや、駅前迄出るのはお勧め出来ないが、近くの商店街ならいいのではないかと」
「ずいぶんいい加減ね。本音は?」
「今から出ると九時半のセールに間に合うんだ。お一人様三百グラム二パック限りが四パックになる。こんなお得を逃す手は無い」
 千秋は呆れたように冬峰を見た。確かに下宿生活を送っている千秋にとって格安牛四パックは確かに魅力的だが、ここ本家は確か「お金持ち」と呼ばれるに相応しい資産を持っているのではなかったのか。商店街のその他の店のチラシを物色し始めた冬峰にそう訊ねると、冬峰はうーんと腕組みをして苦笑いを浮かべた。

Re: 天門町奇譚 ( No.15 )
日時: 2020/07/20 23:25
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「まあ、住まわせて貰っているから、食費だけは自分で賄おうと思ってるんだ」
「へえ、殊勝な心がけで。母から生活費が渡されてるんでしょ、甘えればいいのに」
「甘えるのは苦手だよ。それに今日は千秋が泊まってくるんだから、何か特別に奮発したくてね」
「え」
 千秋は意外な言葉を聞いたとでも言うように目を丸くして冬峰を見返した。この従弟殿は面倒臭がりで無愛想なのでこの様な言葉が口をつくとは、千秋には予想出来なかった。
 本家に暮らし始めてから、冬峰は少しずつ年相応の反応を見せるようになっている。千秋にはそれが良いことなのか、悪いことなのか良く分からなかったが、少なからず冬峰に影響を与えている春奈の存在に対し、何か割り切れないものを感じるのであった。
 冬峰と千秋は御門本家から一番近い天門二丁目のバス停から駅前広場行のバスに乗り、約十分後商店街の中心に設けられた「天門商店街バス停」で下車する。この商店街は駅前のデパートやショッピングモールほど店数は多くないが、昔からこの地域に根を下ろしている、所謂「老舗」が軒を連ねており、立ち並ぶ日本家屋は旅篭町のような錯覚を、始めてこの場所を訪れた者に与える。
 冬峰達が足を運んだのは、入口に掛かった看板が達筆で「モーモーミート」と書かれた古めかしい日本家屋だった。引き戸を開けてのれんを潜ると、入口近くのガラスケースに並べられた多種多様の肉と鉄板を中央に誂えた六人掛けのテーブルが七つ目に入った。ガラスケースの前には買い物途中の女性客が数人並んでいるだけでテーブルには誰も腰掛けていない。
 この「モーモーミート」は購入した肉をその場で焼いて食べれる肉屋で、先に少量を購入し店内で味見をした後、必要な分量を買って帰るのがこの店の上手な利用法である。また午後三時までだと特製のミートコロッケが販売されており、ガイドブックに載るほどの人気を誇っていた。
「あらまあ、フユ君と千秋ちゃんじゃない。朝早くから今日はどうしたの。」
 ガラスケースの向こうからやや小太りの女性が顔を出し破顔した。ひよこの大きく描かれた黄色いエプロンと髪を覆う同色の三角巾がトレードマークのこの女性は「モーモーミート」を切り盛りする若主人で、結婚し一度は家を出たものの脱サラした亭主と共に戻って、年を取った両親を手伝っている。何時も笑顔を絶やさず誰とでも話しかける屈託の無さから商店街の中でも一、二を争う人気店となっている。
「今日は休校」
 本当?と千秋に尋ねる女主人に、千秋は本当です、と頷いて保障した。どうやら冬峰はあまり信用されていないらしい。
「冬峰が特売目当てで誘ってきたんです。お一人様二パック限りが四パック買えるって」
そうそうと頷く冬峰へ肉屋の女主人はへえ、と意外そうに目を丸くした。
「珍しいじゃない。あんたのところ、あまり肉食わないじゃない」
「まあね、体重を気にする年頃の娘と小学生が二人だからね」
 長女の春奈は近頃体重を気にしている。冬峰はそれ程肉は好きでは無い為、量より質を優先する。時々ハンバーグ等の肉料理を出すと春奈はじっと皿の上を眺め、「平均体重まであといくつ……」と呟き暗い表情をしているが、結局食べ過ぎてしまい風呂場前の洗面所から悲鳴とも溜息とも聞き取れる奇妙な声を上げるのであった。
「今日は特別でね。お客さんが来るからすき焼きパーティーでも開こうと思って」
「お客さんねぇ。本家は色々忙しいのかい。誰だい?」
 女主人の問い掛けに冬峰は千秋の方を向いて「この子。」と呟いた。女主人と目が合い千秋は何故か顔を赤らめる。
「千秋ちゃん、やっぱり一人暮らしは大変?」
 千秋は右掌を胸前で振って、女主人の心配を否定した。顔を赤らめ慌てて手を振る姿が学校でのどこか醒めた表情と異なり、年相応の少女に見せていた。
「違います。母が最近街で物騒な事が多いから本家に下宿しなさいって。そこなら冬峰もいるから大丈夫と進められたんです」
「あはは、頼りになるのフユ君?」
 可笑しそうに笑って冬峰にビニール袋に入れた肉を渡す女主人に、冬峰は面倒臭そうに「うーん、自信が無いなぁ。」と洩らして千秋に睨まれてしまった。誰が見ても頼りになるとは思えない少年だった。
「?」
 首を傾げ肉の入ったビニール袋の中身を覗き込む冬峰に、千秋は同じ様に袋の中を覗き込み「一パック多くないですか」と女主人に訊ねた。女主人は二人を微笑ましそうに眺めて目を細める。
「今日は特別でしょ。だから四パック分の代金でいいわよ」
「ええ! 悪いですよ。ただでさえ安いのに」
 千秋は一先ず遠慮をする。
「それはどうも」
 こちらは冬峰。遠慮も何もしていない。
 冬峰は四パック分の肉の代金を女主人に払い店を後にした。店先で肉の重さを測るかの様に、肉の入ったビニール袋を上下させる。
「もうけた」
 さほど嬉しそうな素振りも見せず呟く冬峰を、千秋は呆れたように眺め「次はどこに行くの?」と訊ねた。
「八百屋。あそこの店主は春奈さんと買い物に行くと、よくサービスしてくれるんだ。ひょっとしたら千秋と会うのは久し振りだろうから、たっぷりサービスしてくれるかも」
「そうそう都合よくいくかしら」
 一時間後、寄って行った全ての店にてサービスをうけた冬峰と千秋は、両手いっぱいの食材を抱えバス停で肩を並べていた。
「素晴しい」
「何がよ」
「今度から買い物には千秋を連れて行こう」
 可愛い子効果ってのは偉大だな、いやこの場合美人効果だろ、などと考えつつ冬峰は今夜の晩御飯の豪勢さに思いを馳せた。今夜は春奈達三姉妹に加え千秋と朱羅木、青桐達警護人と食卓を囲むことになるが、それでも食べ切れるかどうか分からなかった。まあ、余ったら明日の晩御飯が牛丼になるぐらいか。ぼんやりとそんなことを考えながら、何をするでもなくバスを待っていた。
「でも、意外ね」
「?」
 千秋は何が面白いのか、いつもはツリ目でどこか不機嫌そうに睨むように冬峰を見るのだが、珍しくその目を柔和に細めて冬峰を見つめている。
「冬峰ならアルバイトの時と同じように、どこか面倒臭そうに買い物をするかと思ったけど、ちゃんと会話してるのね」
 冬峰は千秋の言葉に苦笑を浮かべた。アルバイト先でそのように見られていたのは予想外で本人としては真面目に仕事をしているつもりだった。
「まあ、そうだな。自分独りで生きていくなら食事の用意なんて面倒臭いし、適当に買い食いしてるだろうね」
 冬峰はそう言った後、暫く口を閉ざし二人の前を通り過ぎる車をぼんやりと眺めていた。千秋も同じく通り過ぎる車を眺めていたが、左側から天門町行のバスが野太いエンジン音を響かせながら二人の前に停まった為、二人はバスに乗り込み乗車口に一番近い席に並んで座った。二人の他の乗客は皆、六十以上の老人ばかりだった。
「僕も意外に思っている」
 窓の外を眺めたまま冬峰の呟いた言葉の意味が、バスに乗り込む前に交わした会話の続きだと千秋が気付くのに暫くかかった。
 何事も無く本家に帰宅し冬峰と千秋は、豪勢な夕食の材料を冷蔵庫に収め一息ついた。千秋が携帯電話で時刻を確認すると正午まで後三十分であり、二時間以上も買い物に時間を費やしている。千秋は普段、買い物は必要なものを手早く買い集め、さっさと終らせる主義だったが、今日はひとつひとつ買わない食料でも手にとって眺めて楽しむ事を覚えてしまった。
「昼飯はどうする」
 少し疲れたのか和室の座テーブルにもたれかかる千秋に、冬峰はエプロンを身に付けながら問い掛けた。冬峰の動きはゆっくりと面倒臭そうに見えているが、意外とそつが無く手早く動く。
「んー、あまりお腹は空いていないから、どうしようかな」
「そうだな、チャイと作り置きのお菓子でも食うか」
 チャイとは判りやすく説明すればアジア版ミルクティーであり、シナモンやジンジャー等の香辛料を入れて飲まれる。冬峰の入れるチャイは牛乳でなく豆乳を使うため、豆乳を温めた場合に出る豆臭さを消すため蜂蜜を入れるようにしている。
「お待たせ」
 千秋はテーブルに置かれたチャイの入れられたマグカップを手に取り口を付ける。シナモン独特の辛さと甘くならない程度に入れられた蜂蜜が旨く組み合わさっており千秋好みの味に仕上がっている。更にカップの隣に添えられたスコーンを一齧りして、僅かに驚いた様に目を見開く。
「冬峰、これって」
「当たり。マスター直伝のスコーン。日曜日に厨房を借りて作り置きしててね」
 マスター直伝のスコーンとは二人のアルバイト先である喫茶「ラ・ベルラ」の人気メニューの一つであり、小麦粉と本葛粉を混ぜた後、米飴とりんご果汁で甘味をつけて天然ベーキングソーダで膨らました菓子だが、砂糖を使わない素朴な風味と一個百二十円といった手頃な価格が常連客に好まれている。冬峰は身体の弱い夏憐の為、少しでも身体に害の無い御菓子を食べてもらおうとマスターに頼み込んで、レシピとコツを伝授してもらっていた。
「……何よ?」
 千秋の正面に腰掛けた冬峰の口元に珍しく笑みが浮かんでるのを目にして、千秋は照れを隠す為か憮然とした口調で問い掛ける。
「うん? いや、目を閉じて口元に笑みを浮かべているから、千秋の口に合ったんじゃないかって」
 ちなみに本家の三姉妹も、美味しい物を食べると同じ様な反応を示す。
「悪かったわね」
 目を逸らし、皿に盛られた山吹色のジャムをスコーンに塗り口に運ぶ。何となく悔しいが、このジャムも自分の好みに合っており凄く美味しかった。
「その柚子ジャムは春奈さんが作ったんだ。美味しく出来てると思うよ」
「……」
 千秋はじっとスコーンの上に塗ったジャムを眺める。凄く悔しいです。
 冬峰と千秋は二人で軽い食事を済ませた後、紅葉と夏憐姉妹が学校から帰って来る迄の間、冬峰は自分の部屋で昼寝、千秋は地下室の蔵書から適当に見繕って読書をすることとなった。既に冬峰は食事の片づけが終了した時点で半分あちらの世界に旅立っていたようで、自分の部屋に向かう後姿の足下が僅かにふらついている。
「ああ、そうだ」
 自分の部屋に戻ろうと廊下の角を曲がろうとした冬峰は、何かを思い出したのか足を止めて振り返った。
「祖父さんの蔵書にラブクラフト全集ってのがあるから、目を通しておいた方がいいよ。クトゥルーについて、ある程度の情報が載っているから」
 地下室は玄関脇に置かれた木製の物置の扉を開けると物置の底が刳り貫かれ、底から地下室へ続く階段が覘いていた。何故このような地下室が作られたのか、千秋は母の冴夏に尋ねたのだが冴夏は呆れたとも取れる苦笑を浮かべて「まあ、男って色々あれだから」と呟いたのだ。その「あれ」については今ひとつ解らないので冬峰に訊く事にしよう。
 地下室の中は古い書物独特の香りが立ち込め灯りも簡易デスクの上に置かれたスタンド一つのみであり、本当にこの部屋が今は本を置くだけの部屋と化している事を物語っていた。六畳の部屋の両脇に千秋より頭一つ分高い本棚が並べられ、文庫本から図鑑まで多種多彩の書物が集められた中で、小説らしきコーナーは作家別に五十音順に整理されていた。その最後尾に雑誌から切り取られたのか、数枚の紙束をホッチキスで纏め製本された小冊子が目に入る。表面に白い和紙が貼り付けられていた。「一九五七年宝石より抜粋(異次元の人)作H・P・ラヴクラフト」そう記入された和紙は所々黄ばんでおり、その小冊子が繰り返し読まれていることを物語っていた。
 その隣には「異次元の人」同様に雑誌から抜き取り製本された小冊子がありその表面に貼られた和紙には「稀少! 持ち出し禁止」と赤鉛筆で書かれており、その小冊子がこの部屋の主、春奈や千秋達の祖父にとって大切なものであると物語っていた。
九頭竜クトゥルーの呼び声」
 千秋はその短編小説の題名を読み上げた。千秋は題名から日本神話に登場するヤマタノオロチのような童話的内容、悪く言えば御伽噺の様な内容を想像したが書かれていた内容は全然別の内容であった。
 ある考古学者を大叔父にもつ男が、大叔父の遺稿を整理する内に異世界の存在に気付く話だが大きく3部に分かれており、始めは一九二五年にアメリカ・プロビデンス在住の彫刻家の青年が作り上げた奇怪な彫刻と、その青年が見た夢について言及され、2番目には一九〇八年にニューオリンズの警官達が遭遇した魔宴について、その魔宴の参加者達が信仰する存在について記されていた。
 千秋として最も滑稽な内容だったのが3番目の内容であり、それには始めに書かれた彫刻家の作り上げた像や、2番目に記された魔宴の参加者達が信仰する神体と同じ容姿をした存在が、南太平洋上に奇怪な島と共に浮かび上がり上陸した船員達を襲う話であった。その容姿は蛸とも烏賊ともとれる頭部と触腕を垂らす下顎に、膨れ上がったゴム上の胴体に細い翼が付いた奇想天外な格好を表現されていた。
 千秋としては鵺じゃあるまいし、よくもこんな不快な格好の怪獣を思いつくものだと少々呆れ気味にその小説を読み進めていた。千秋の持論は宗教というものは、人心掌握の為、思想家が自分の都合の良い様に作成した御伽噺だと考えている。おおいなる〈K〉を信じる者も、御門家の〈門〉を信じる者も千秋にとっては同類だ。目に見えない不確かなものに振り回され一生を終える、そんな生き方は御免だ。ましてや生まれた時には既に自分が劣る者と決定付けられているなんて誰が信じるものか。
 地下室の階段を降りてくる足音に気付き千秋が顔を上げると、寝起きなのか茫洋とした冬峰と逆に笑顔を浮かべた夏憐が地下室のドアから顔を覗かせた。
「千秋お姉ちゃん、いらっしゃい」
「ええ、久しぶりね、夏憐。元気にしてた?」
 読み終わった小冊子を閉じて、千秋は仏頂面で挨拶を返した。本人は至って普通なのだが、その整った顔立ちと眼鏡の奥にあるやや釣り目気味の眼差しに加え、物静かな口調が千秋を気難しい少女という印象を周囲に与えていた。少し気の弱い夏憐にしてみれば、彼女は何か怒っている様に受け取ってしまう訳で会話が続かなくなってしまう。
「えっと……、その」
 夏憐は何か言葉にしようと頑張ったが、千秋の持つ雰囲気に圧されたのか表情を暗くして冬峰の背後に隠れてしまった。
「これこれ、子供を苛めてはいかんよ」
「わ、私は別に……」
 冗談めかして忠告する冬峰に、千秋は憮然とした表情で講義したが、夏憐を見てさすがにまずいと思ったのか、咳払いをひとつするとぎこちなく笑みを浮かべた。引きつっている口元と笑っていない目が逆に怖い印象を与えたのか、完全に夏憐は冬峰の背後に隠れてしまう。
 笑い声を堪えているらしく奇妙な表情を浮かべる冬峰に、千秋はばつが悪そうに「何よう」と小声で漏らしたが、その表情と態度があまりにも普段とのギャップが有り過ぎて、ついに冬峰は笑い声を上げてしまった。
「そんなに笑うことないんじゃない……」
 そんな冬峰と千秋を下から眺めて可憐もくすりと小さく笑みを漏らしている。
「何、面白いことでもあった?」
 地下室の喧騒に誘われたのか地下室の出入り口から顔を覗かせた。千秋の姿を認めるとトコトコと近寄り、右手の握り拳を前に突き出して笑顔を浮かべる。
「千秋ネエ、おひさー!」
 千秋は躊躇った後、こ、こうかなと右手の突き出し紅葉の突き出した右拳に当てた。
「千秋ネエが泊まるのって久しぶりだよね。前があたしが小学校に入学した年だったかな」
「そうね。その、あの時は御免なさい。」
 紅葉は両手を頭の後ろで組んで、あははと目を細めて笑った。
「別に男の子と間違えられるのも慣れてるからね。さすがにフユみたいに1年以上気がつかないのは稀だけど」
「……」
 意味ありげな視線を向けてくる二人に苦笑しつつ、冬峰はぺたぺたとスリッパの音を立てて、室の階段を上り始めた。夏憐もあわてて後に続く。
「昔話は晩飯時にするとして、そろそろ準備をするかね。今日は人数が多そうだからね。」
「千秋お姉ちゃんの他にお客さんが来るの?」
 小首を傾げる夏憐へ、冬峰は「お客様になる予定なんだけどね」と答えて夏憐が益々困惑するのを可笑しそうに眺めた。
 冬峰と紅葉、夏憐が食事の用意を始めて約一時間経過した頃、玄関の引き戸を開けて、この本家の当主が帰ってきた。
「ただいまー。みんなのお姉ちゃんが帰って来たぞー」
 ばたばたと廊下をスリッパで歩く音が徐々に大きくなり、春奈が居間に顔を出した。今年から始まった大学生活に疲れた様子もなく、無駄に明るい。
「みんなのって、NHKの子供番組じゃないんだし?」
「お帰り、春奈お姉ちゃん」
 食事の用意が大方終了した為、居間の座テーブルで寛いでいた紅葉と、座テーブルの上に小鉢やら取り分け用の皿等を並べていた夏憐が長女兼当主を振り返り迎える。春奈はとことこと手を休めて傍まで来た夏憐にしゃがみこんで抱きついた。
「うん、ただいま。御飯の準備、ご苦労様」
「……うん」
 春奈がその艶やかな黒髪を軽くなでると、夏憐は顔を赤くして俯いた。
「可愛いね、夏憐は。さて」

Re: 天門町奇譚 ( No.16 )
日時: 2020/07/20 23:35
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 ちらりともの有り気な視線を受けて、紅葉は座テーブルの前から腰を浮かし逃げようとするが、腰を浮かせたところで春奈に背後から抱きしめられる。
「わぁっ」
「捕まえた。諦めてお姉ちゃん力を補給させなさい」
 二度ほど強く抱きしまると、諦めたのかぐったりと脱力する紅葉の頬へすりすりと自分の頬を摺り合わせた後、春奈は「紅葉はいい匂いがするね。じゅる」と呟く。
「何じゃそりやー」
 ようやく過剰な姉妹愛のスキンシップから逃れた紅葉を満足げに見下ろし、春奈は次の獲物へ足を運んだ。
 その獲物は添え物のキッシュを作っているらしく、ジャガイモを磨り潰したものに水切りを終わらせた豆腐を加えている。
 一息つくのか、手を止めた冬峰の背後から捕食者が両手を広げて覆い被さる様に抱きつく。
「隙有りっ、あれ?」
 春奈の両手が空を切り、僅かに右手に移動した冬峰が呆れた様な視線で春奈を見つめていた。
「お帰り、春菜さん。料理の邪魔は困るんだけど」
「もう、冬峰さん! そこは料理にしますか、それともお風呂? でしょう。でも料理の前に私は冬峰さんを頂きますけど」
 きゃっと言って照れたのか両手で覆う春奈を、冬峰はどこか疲れたような遠い目で眺めてから長い長い溜息を吐いた。
「それに人の目があるときは、突飛な行動は慎んでください」
「人の目?」
 春奈が冬峰の視線を追ってドアの死角となる左手のコンロ側に目を向けると、千秋が顔を赤くしたまま唇をわなわなと震わせて固まっていた。胸元に抱えられたボールの中にあるすられた大根が少しずつ崩れていく。
「な、何、非常識な会話を交わしているんです。何時もこんな事してるんですか?」
 あーっつ、とだるそうに声を上げる冬峰だが、内心、どう答えたものかな、と困っていた。何しろ春奈のスキンシップは毎日繰り返されており、年頃の少年にとっては少々刺激の強い日常となっている。のではなく平然と受け流している。
「そうなんですよー。毎日冬峰さんを誘惑しているんですけど、全っつ然押し倒してくれないんですよー」
 言葉と裏腹に口調はのんびりおっとりとしているので、欲情どころか撒き散らされるα波で和むなごむ。ただ一名そのα波をものともせず気炎を上げている者もいる。
「お、押し倒すって。獣じゃ有るまいし、そんなことするわけ無いでしょう!」
 千秋が、がーと珍しく声を荒げて反論する。それから冬峰を射殺すような視線で睨みつけ一言ずつ区切るように念を押した。
「押し、倒さない、わよね」
「……はい」
 やや仰け反りながら答える冬峰。何と無く「分からない」とでも答えると、今日が自分の命日になりそうな気がした。
「いえいえ、ひょっとしたら冬峰さんはむっつり助平かもしれませんよ。箪笥と壁の隙間とかあまり使わない引き出しの中に、こう、とてつもないものが」
 御門本家の小悪魔はそう言ってから千秋の胸に目をやった。
「………」
 やや目じりの垂れた大きな黒瞳を持つ瞳を丸くして、春奈はまあ、と口に手を当てる。
「千秋ちゃんが立派に育っている。とてつもないですよ」
 それから自分の胸元を見下ろしてから人差し指を、ブラウスの襟元に引っ掛けて前に引っ張る。深くない自分の胸の谷間。
「………」
「………」
 千秋と冬峰はただただ黙って彼女の行動を見守っている。
「…とてつもない……」
 ぼそりと呟いて襟元から指を離して春奈は顔を上げた。その表情はスプリンターが一番を目指し全力を出し切ったものの、ついに及ばなかったある種の諦観と清々しさを浮かばせている。
「私はちょっと、及ばなかったみたいですね。でもいいんです。とんでもないものが好きな弟分の為、私は喜んで身を引きましょう」
 そんな御門家当主を、千秋は胸の前で腕組みをして冷え冷えとした眼鏡の奥の切れ長の瞳で見つめた。冬峰はそれだけで周囲の気温が下がっていくような感覚を覚え、ひとつ身震いをする。
「春奈さん。ちょっとですか?」
 挑戦するように不敵な笑みを浮かべ千秋は春奈に問い掛ける。
「ごめんなさい、大分負けています」
 へへーと水戸黄門の印籠に恐れ入る悪代官のように春奈は平伏した。何と無く情けない。
 ごほん、と咳払いをする音が聞こえて春奈と千秋が振り向くと、自信の無い回答を答える小学生のようにおずおずと右手を上げる冬峰の姿があった。
「ちょっといいかな。そろそろ紅葉と夏憐ちゃんがお腹を空かせていると思うんですけど」

               4

 円形の座テーブルの上に置かれた大きな鍋の中は乳白色のスープが渦巻いており、色とりどりの野菜や肉が浮き沈みしていた。
「肉だけでなく野菜も大量に手に入ったので豆乳シチューにチャレンジしました」
 黒色のエプロンを身に着けた冬峰は、鍋の中身を珍しそうに覗き込む千秋を、表情は何時もの眠そうな表情だが、何か眩しそうなものを見るように目を細めて料理の説明を始めた。
「豆乳の温めたときに出てくる独特の臭みは、若布の出汁で甘味を出すことにより気にならないように仕上げました。ちなみに今日の買い物は本日からお泊りの千秋嬢に手伝っていただきました。」
 春奈達三姉妹から拍手が起こり、千秋は何時もの様に仏頂面だが微かに頬を赤らめて一礼した。照れてくれると更に可愛げも増すのだが、そうならないのが千秋らしいといえば千秋らしい。
「それでは本日の主賓から一言」
 春奈がお玉をマイクに見立て、て口元に突き出してくるのを、じろり、と眺め千秋は口を開いた。
「今日から不本意ながら、しばらくの間、本家でお世話になります」
 それだけ言うと、さっさと腰を下ろし器を手に取った。流石に千秋も少し失礼だったかと対面の春奈とその隣に腰掛けた冬峰に目をやったが、二人とも気にした様子も無く、春奈に至ってはにこにこと微笑みすら浮かべてこちらを見つめている。
「……」
 鈍感なのか、それともこちらの事を歯牙にも掛けていないのか、千秋は春奈の余裕ともいえる態度に何と無く敗北感を覚えてしまうのだ。
「……怒らないんですか」
 器を両手に持ったまま呟いた千秋の声は春奈には聞き取り難かったらしく、「えっと、何でしょうか」と笑顔のまま顔を近づける。それが益々千秋を苛立たせた。自分でも止める事の出来ない激情が口を吐いた。
「あなたは不快に思わないんですか。私は此処になんか来たくは無かったと言ってるんですよ。貴方達と一緒にいるのは不愉快だって、分かっていますか!」
 千秋は相手を傷つける言葉を吐きながら涙を流した。みっともない、私らしくは無い、格好悪い。そんな言葉が頭の中を駆け巡り混乱する。抱えていた器を手放し、両眼から零れ落ちる涙を掌で拭う。
 そんな彼女を夏憐は同じく泣き出しそうになるのを堪えるように口を一文字に結んで見つめ、紅葉はどうしよう、と姉と従姉の顔を見回した。そして春奈は何時も浮かべている微笑を消し、真剣な表情で千秋の俯いた顔に手を伸ばす。その指先が頬に触れたとき千秋は叩かれると思ったのか目を瞑り身を硬くしたが、その手が頬から頭頂に移り優しくなでるのに驚き目を丸くした。
「私は千秋さんが好きですから。千秋さんがずっと此処に居てくれたらいいなと思ってます。紅葉や夏憐も千秋さんのことを気に入っているんですよ」
春奈は小さくふふっと笑みを漏らすと、千秋のやや癖のあるショートカットの黒髪を優しく掻き回した。
「千秋さんが御門家から離れて、今迄独りで頑張ってきた事は凄く偉いことと思います。私には出来ない事です。此処に来ることでその頑張りが無駄になるように思っているのでしょう。だったら、今この間は少し長い休暇と思って寛いで頂けませんか」
春奈の声は只優しく慈愛に満ちていた。彼女は本当に千秋の身を案じて、このような提案をしているのだろう。それは間違いない。
千秋は涙を指先で拭い続ける。何故、自分が泣いているのかが解らない。憤りなのか、悲しみなのか解らない。解らないが確信した。
「やはり、この女性ひとと私は相容れない」と。
 気まずくなった空気を払拭するかの様に、くぐもった間抜けな音が紅葉の腹からした。どうやら空腹の限界点を迎えたらしい。
「冷めない内に早く食べた方がいいと思うよ」
 上目遣いに様子を伺うようにシチュー皿を差し出す育ち盛りの三女へ冬峰は苦笑を浮かべて皿を受け取った。
「そうだな、食べよう」
「食べましょう」
 ずいっと、次は私の皿に入れろと言うかの様に差し出す長女の様子が可笑しかったのか、夏憐が口を押さえて噴き出すのを堪える。
「ほい、千秋も」
 差し出された豆乳シチューの入った器を受け取り、千秋は木のスプーンで掬い取り口に運んだ。
 暖かく美味しかった。
 豆乳独特の臭みが具として入れられたサツマイモと若布の出汁の甘味によって抑えられ、肉も焼く前に擦り込まれた生姜が全体的に甘めのシチューの中でまた別の旨みを引き出している。
「千秋お姉ちゃん、これ、美味しいよ」
 夏憐が差し出した皿にはパンが数個乗っかっており、普通のパンよりやや黒ずんでいる。食べやすいように厚さ二センチ程度に切られた内の、外側の一枚を摘み口に運ぶ。これも美味しい。
「うん、美味しい。ライ麦パン?」
 千秋を見上げて夏憐は満足そうに微笑んだ。
「フユお兄ちゃんと私で作ったの。ライ麦と小麦粉を同じ分量で焼いているんだよ」
「……」
 面倒臭がりなのか、それとも意外とマメなのかよく解らない人間だなと千秋は思いつつ冬峰を見ると、両手にシチュー皿を持って居間を出て行くところだった。
「冬峰、どこへ?」
「春奈さんが外の青桐と朱羅木におすそ分けしてあげてって。見張ってくれているのに何の御礼も無いってのも可哀想でしょ」
 千秋は席を立ち、冬峰の左手からシチュー皿をひょいと取り上げ、ウエイトレスの様に自分の手の上に乗せた。アルバイトをしているだけあって歩き出しても掌の上に載せられたれたシチュー皿の中身は跳ねる事無く収まっている。
「私が青桐さんに持っていくから、冬峰は朱羅木さんの分をお願い」
「いいのか。」
「守ってもらうんだから、これくらいはやらないと」
 冬峰は暫く真剣な面持ちで千秋を見つめていたが、諦めたかのように肩を竦めた。
「青桐は中庭にいるよ。けどあまり気負わない方がいい」
「そうね」
 本当は春奈達と顔をつき合わせて食事をするのが恥ずかしいのだ。何故、あんな事を口走ったのか、またあんな事を口走った自分に笑顔を向けて来た彼女達にどう応えれば良いのか解らなかった。
 引き戸を開けて中庭に出る。丸い月が鏡の様な冷たい光を放っており、それが闇を冷やしているかのように千秋は肌寒さを覚えた。
 中庭にはウエーブのかかった長い髪に大き目のサングラスを掛けたスーツ姿の女性が片膝を付き、何やら庭の土を穿っては傍らに置かれた縦横高さ三〇センチ程の木箱に放り込んでいる。よほど作業に熱中しているのかスラックスの膝が汚れるのもお構い無しだ。
「あの……青桐さん」
 千秋が遠慮がちに背後から声を掛けると、すでに気が付いていたのか青桐は胸ポケットから取り出した携帯用ウエットティッシュで両手を拭いて立ち上がった。振り向いた彼女は千秋より頭一つ分高い長身を曲げて一礼する。それはまるで関西の女性劇団の演者の様に優美なものだった。
「申し訳ありません、千秋様。一寸手が離せない状態でしたので」
 よく通る声で千秋に詫びを入れた後、千秋の右手に乗ったシチュー皿を見つめて微かに眉をよせた。
「御門家当主から夕食の差し入れです。」
 仏頂面で皿を差し出す千秋に合点がいったのか、少し表情を緩めて青桐は、ああ、そうですか、と呟く。サングラスで表情こそ判らないものの、少し嬉しそうな笑顔を浮かべているようにも千秋には見えた。
「全く、春奈様は気を使いすぎる。困ったものです」
 青桐は両手で恭しく受け取ると、皿に一礼してからスプーンを手に取った。
「気を使いすぎるって、以前にもこんな事が有ったのですか?」
 千秋の問い掛けに青桐はシチューを口に運ぶのも中断して頷き、再び困った様に眉を寄せる。
「そうなんです。近所に痴漢が出没するので見張っていたのですが、春奈様は自ら食事を持って中庭に御出でになられまして。しかも一緒に食事をしようと隣に敷物を敷いて腰掛けてしまったのです」
 私は、春奈様を押し倒したくなるのを堪えるのにごにょごにょ、と青桐が呟くのを眺めながら千秋は、ふと思った。
 その行動が当主と認めて貰う為の計算ずくの行動だとしたら。
 頭に浮かんだ疑問をまさかと首を振って、打ち払った。私はどんどん意地が悪くなっているらしい。嫌になる。
 千秋は項垂れるように視線を下げると、先程まで青桐が土を入れていた木箱が目に入った。苔やら小さな木の枝、小石等でこの御門本家の中庭が作られている。庭の四隅に立てられた榊も忠実に再現されており、文字通り箱庭というべきであろう。
「それは〈陣地〉です。まだこの庭の八百万の神々を移してはいないのですが」
 千秋が何を聞こうとしたのか予想したのか、青桐は口腔内に残ったシチューを嚥下して説明した。見掛けと異なりとても良い人かもしれない。
「この庭に居つく八百万の神の一部をこの箱庭内に納めることにより、この箱庭は庭そのものと変わります。その後、この箱庭に細工を施して侵入者に対する備えを作ります。例えますと、エコロジーなセキュリティーですね」
「はあ。」
 千秋は曖昧にうなずいた。何と無く箱庭の役目は判ったのだが、何故そのような事が出来るのかはさっぱり判らない。何やら呪いや東洋の神秘と呼ばれるもののひとつであろうか。また御門家に何故この様な術を使える者が必要なのか。千秋には全く判らなかった。
 その頃冬峰は正面玄関にて、警護に就いた黒の三つ揃いを着用したオールバックにサングラスといった一見、その筋の関係者と間違われそうな男に背後から声を掛けた。男の傍らには縦一メートル五十センチ程のハードケースが立て掛けられている。
「朱羅木、春奈さんから夕食の差し入れ」
千秋同様、冬峰も夕食の差し入れを行ったのだが、朱羅木と呼ばれた男は背後を一瞥したきり視線を前に戻して「必要ない」と一言だけ返した。
「ふうん」
 冬峰もあっさりと、再度食事を勧める事は無く引き下がり踵を返した。冬峰としては相手が食事を取ろうが取るまいが、声を掛けたので一応の義理を果たしたと考えているのか、もしくは面倒臭いだけなのかも知れない。
「待て」
 そんな彼に含む所でも有るのか、歩き出した冬峰の背後から朱羅木は、右手を背広の左脇に差込み低い声で制止する。
「お前はいつまで本家に厄介になるつもりだ。貴様は己が居るべき場所を心得てはいないのか?」
 朱羅木の抑揚の無い問い掛けに、冬峰は前を向いたまま掌を肩の高さまで上げて竦めて見せた。
「少なくとも太陽系第三惑星に居なければならないのは知っているけど、それ以外に何か気をつけるべきなのかな?」
「犬畜生にも劣る奴が吠えるじゃないか。本家だけでは飽き足らず分家の巫女にまで取り入ろうとするとは、若いのに中々の野心を持っているな」
 揶揄するような言葉にも冬峰は顔色ひとつ変えず、どこか眠そうな眼差しに口元だけ皮肉めいた笑みを微かに浮かべている。
「まあ、僕の飼い主は本家で今回の警護は当主代行の決定だからね。朱羅木も僕も命令には逆らえないと思うよ」
 間延びした声で、本当に迷惑なんですといった口調で話す冬峰は単に事実を話したっだけであろうが、朱羅木を挑発している様にも聞こえる。実際、朱羅木の抜き出された右手には中型の拳銃が握られていた。
 南部九四式拳銃、朱羅木の右手に握られたそれは直径八ミリの銃口を冬峰の後頭部にむけていた。拳銃は一九三五年頃に生産された旧式だが、手入れが良いのか傷も目立たず、確実に弾丸が発射されそうだ。
「貴様のような化物でも、この距離で撃ち込まれればかわす事も出来まい。それにコイツの弾丸は禊の済んだ水銀製の弾丸だ。一発で顔が吹き飛ぶぞ」
あーっ、と呻いた後、面倒臭いなと冬峰は呟いた。両手がシチュー皿で塞がっていなかったら、頭を掻いていたに違いない。
「銃声がすると拙いんじゃないの。陣地が出来上がるまで待てば?」
「本家が何とか揉み消すだろうよ。俺の立場も心配無用だ。貴様が死ねば喜んでかばってくれる奴も多いからな」
 あはは、嫌われているねえ。何故か楽しそうな声を上げる冬峰に忌々しそうに舌打ちを打って、朱羅木は右人差し指に少しずつ力を加えていった。
南部拳銃の引き金がククッと交代する。後数ミリで弾丸が発射される。少しの覚悟と邪魔者を消す歓喜を込めて最後の一引きを行う寸前、耳に入った冬峰の一言で指の動きが停止した。
「試してみるかい?」
 どうでも良い様な投げやりな声。全く自分の命も相手の命も歯牙に掛けない平坦な口調。それを聴いた途端、朱羅木の全身に脂汗が噴き出した。
 殺される。この小僧は自分が死ぬのも構わず相手を殺す。獣が食い散らかす様にばらばらに相手を切り刻んで殺害する。殺気も無く、、興味も無く、ただ武器をむけられたので殺す。そんな単純な理由で殺す。

Re: 天門町奇譚 ( No.17 )
日時: 2020/07/20 23:55
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 朱羅木に先程までの必殺の自信は全く無かった。あるのはこの目の前に居る化け物が振り返るまでに殺さなくては自分が死ぬという確信だった。
「くっ」
 朱羅木がその恐怖と緊張に耐えられず南部拳銃の引き金を引く寸前、鈍い音と共に「OH!」
と間の抜けた男の声がした。
 朱羅木の右手が旋回して声のする方向へ南部拳銃の銃口を向けると同時に、低く太い声で恫喝する。
「誰だっ」
 この時、朱羅木と同じく声の方向へ顔を向けた冬峰の表情が「うわあ」と、珍しく心底嫌そうに歪んだ。何時も寝ぼけている様な表情しか浮かべていないこの少年にしては本当に珍しいことだった。
「痛た、門柱に足ぶつけた」
 ボストンバッグを肩から袈裟懸けに下げ、片足を抱えて飛び跳ねる外国人男性に朱羅木はもう一度「誰だ!」と問い直した。
 その茶色の髪に草臥れた茶色の背広を羽織った長身の白人男性は、涙を浮かべた目を二、三回瞬きした後、ようやく自分に向けられた銃口に気が付いたのか両手をするように高々と上げる。
「ヘルプッツ! 怪しくないよ、ただのフリーのジャーナリストだよ。ねっ」
 冬峰に向かって助けを求めるように片目を瞑って愛嬌を見せるアンドリュー・フェランだが、冬峰は呆れたような冷たい視線を向けて人差し指を突きつけた。
「コイツ、〈大いなるK〉の幹部だから撃って良いよ」
「ひ、酷いぞ君は」
 がしっと冬峰の腰にタックルをかまし、ぎゅっと逞しい腕で締め付ける。
「離れろ! シチューがこぼれる」
「昨晩二人で過ごした熱いひと時を君は忘れたのか。朝食も一緒に採っただろう」
「知るか、変な言い回しをするな。誰だお前に日本語を教えた奴は!」
 へばり付くフェランを引き剥がそうと肘でグーとフェランの頬を押し放す冬峰と、引き外されまいと長い足を曲げて冬峰の足に絡めようとするフェラン。その二人のやり取りに額の青筋がどんどん増えていく朱羅木。
「何の騒ぎですか、朱羅木」
騒ぎが中庭まで届いたのか、正門に顔を出した青桐は入り込んだ部外者に形の良い眉をひそめて朱羅木へ質問した。青桐の後についてきた千秋は、冬峰にしがみ付いた顔馴染みになりつつある外国人を一目見て先程の冬峰同様とっても嫌そうな顔をする。青桐は千秋に「知り合いですか。」と訊ねたが、千秋と冬峰は同時に首を横に振った。
「これはこれは、綺麗なお姉さんじゃないか」
 冬峰をからかうのも飽きたのか、フェランは青桐の姿を視界に納めると冬峰から離れて青桐へ向かって一礼した。そのままスタスタと歩み寄り、青桐の手を取ると手の甲へ口づけをする様にしゃがみ込み顔を寄せるが流石にそれは嫌なのか、青桐は強引に右手を引き外しフェランを睨み付ける。
「何の用ですか。あなたは」
 フェランはそんな青桐のつれない態度にも挫けた様子は無く、おそらく自分自身では魅力的だと思っている微笑を浮かべて青桐の肩に手を回した。
「実は……僕はあなたを守るためにこの世界にやってきた正義の味方なのです」
「さっきはフリーのジャーナリストと名乗ってなかったか?」
 半ば呆れたように指摘する冬峰に「鋭いね、君。」とフェランは笑ってごまかそうとしたが、千秋の冷たい軽蔑するような視線に気付いて咳払いをひとつした。
「とにかく、君達はとても危険にさらされている。早く別の場所へ逃げた方がいい」
 青桐は冬峰に目をやり、声に出さず唇のみ動かして信用できるのかと問い掛け、冬峰は小さくうなづいた。正体不明で信用出来ないところも有るが、〈大いなるK〉と彼が対立しているのも確かだ。
「危険て事は、また昨晩みたいな奴らがここに押し寄せてくるとか。」
 冬峰が思い浮かべたのは、昨晩の死闘の帰りに目撃した仮面の男、フェランが(黄衣の王)と呼んでいた者の姿であった。昨晩校舎内にて始末した石仮面の男とは被った仮面の種類こそ違うものの似たような雰囲気を持っていた。(黄衣の王)も石仮面の様な不死身に近い者ならば、青桐と朱羅木の二人でも苦戦は確実だろう。
「間違いないだろうな。ひょっとしたら更に厄介な奴等が出てくる可能性も有る。」
 フェランの返事に黙り込んだ冬峰を、千秋は不安そうに見つめた。昨晩の死闘の内容を千秋は知らないのだが、冬峰とフェランの様子や半ば倒壊した校舎からただ事ではなかった事が想像出来た。
「冬峰、私は昨晩の件については君からある程度報告を受けているが、それ程厄介な相手なのかい。」
 青桐の質問に冬峰は首を振った。
「厄介もどうも、たぶんあれが奴らの実力ではなかっただろうね。僕は奴等が油断していたから何とか出来たと思っているんだ。」
 ふむ、と青桐は形の良い眉を寄せて右人差し指を眉間に当てた。暫く黙考した後、フェランへ向き直り一礼した。
「申し訳ありませんが、私達はこの場所とここに住まわれる人を守る為に存在します。相手がどんな悪鬼羅刹であろうと逃げるわけにはいかないのですよ。」
 フェランは青桐の意見に皮肉めいた笑みを浮かべ本家の家屋を見やった。
「死んだらどうしようもないんですがね。ここにいるのは大統領か殿様ですか? 昨夜、千秋くんとそこの少年が狙われたが」
「さて、ただ高貴な方とだけお教えしますよ。意味解りますか。」
 フェランと青桐の視線がぶつかり見えない火花が散るようだった。朱羅木が左脇に右手を差込み南部拳銃のグリップを掴み、千秋にシチュー皿を渡した冬峰が腰の後ろに取り付けたポーチのファスナーを開け、折り畳みナイフに手を掛ける。
 冬峰と朱羅木の対峙した時より強い緊張感が正門周辺を包み、がんがんがんっと金属音が響き渡った。
「冬峰さーん、千秋ちゃーん。シチューが食べられちゃいますよ~」
 シチューの鍋をドラムラインの如くお玉で打ち鳴らしながら響いた間延びした女性の声に、正門に居た冬峰以外の者達は力が抜けた様にバランスを崩した。特に地面に両膝をついて「高貴な……」と呟く青桐が痛々しい。
 三人の視線を浴びながら春奈は正門前まで警戒した風もなくトコトコとやって来る。左右対称の整った顔立ちと腰まで掛かる艶のある黒髪にフェランはしばし見惚れていたが、手前まで歩み寄ってきた春奈がシチュー鍋を下ろし会釈すると慌てて頭を下げた。
「お客さんですか?」
 春奈は彼女を守るようにフェランの前に立ち塞がった青桐を軽く手を挙げて制止してフェランの顔を覗きこんだ。
「厚かましい平和と安全のセールスマン、だよな」
「美しいお姫様も守るけどね。」
 フェランは冬峰の皮肉に軽口で答えて春奈にウインクするが、当の春奈は気にした風もなくシチュー鍋を傾けて中身をフェランに見せて微笑んだ。
「もし、良ければ晩御飯など如何ですか?」

                5

「御馳走様でした」
 おかわりのシチューを平らげた正体不明の外国人は、両手を合わせてからのシチュー皿に一礼した。
「やっぱり美人の作る料理は美味しい。毎日通いたいぐらいです」
「そうなんですよ。冬峰さんの作るご飯は何時も美味しくて」
「………」
「………」
 とても嫌そうな顔をする冬峰とフェランだったが、居住まいを正した春奈が、「それで、私達に何の御用でしょうか」と切り出すと、フェランも正座した状態で背筋を伸ばし真剣な面持ちで口を開いた。
「昨晩、いや一昨日の晩から、その後ろの彼と彼女はある組織に襲われました。一昨日は何とか逃げ切りましたが昨晩は学校まで彼らが押し寄せてきました」
「そうだったんですか」
 それについては蚊帳の外に置かれていた春奈は振り返って冬峰と千秋に問い掛けたが、冬峰は溜息をついて、余計なことをとでも言うように予期せぬ来訪者をぼんやりと睨み付けた。
「う~ん、私は冬峰さんが千秋ちゃんの下宿に泊まるって連絡がありましたから、てっきり……ごにょごにょかと……」
 最後は聞き取れなかったが、どうやら春奈は何か勘違いをしていたらしく顔を赤くして俯いてしまった。それを聞いた千秋も顔を赤くする。
「?」
 冬峰、紅葉、夏憐は解っていない様で顔を見合わせる。
「その心配はありませんよ。私もその場に居合わせましたし」
「あなたも泊まったんですかぁ!」
 誤解を解こうとしたフェランのフォローを耳にした途端、いきなり大声を上げた春奈に驚いて仰け反った冬峰と頭を抱える千秋。青桐は固まったまま口を挟めないでいた。
「三人とも酷いです。不潔です。え、違う?」
 春奈は顔を真っ赤にして顔の前で手を振って否定する千秋をきょとんとして見つめていたが、何かを思いついたように目を据わらせてフェランに問い掛けた。
「そういえば、どうして私達の家が解ったんですか?」
「それは、」
 フェランはポケットから一枚の写真を取り出し座テーブルの上にそっと置く。
 その写真は遠くからかなりの倍率で写したものらしく、被写体である男女は回りに障害物がないにも関らず撮影されたことに気付いていないようだった。
「冬峰さんと千秋ちゃんですか。ここは商店街前のバス停ですね。」
 今日の買い物帰りだろう。両手に大きなビニール袋を提げた冬峰と一回り小さなビニール袋を抱えた千秋が並んでバスを待っていた。ぼんやりと前を向いている半眼の少年と、その少年の横顔を見つめている少女は親密な間柄に見えなくもない。
「このカップルはどこの誰か虱潰しに訊き回ったら、親切な商店街のマダムが此処の住所を教えてくれたんだよ。」
 冬峰は天を仰ぎ、千秋は対照的に俯いてぶつぶつと何かを呟いた。「もう、外を歩けない」と紅葉は聴き取ったが、それがどのような意味かは解らなかった。
 春奈は腕組みをしてうーんと唸ったが、彼女の脳内でどんな結論が出されたのか皆が固唾を呑んで見守る中、一言呟いた。
「新婚さんみたいで羨ましいです」
 ぺしっつと、額に青桐の突っ込みチョップを入れられ春奈は「あいたっ」と額を押さえて仰け反った。
「真面目に訊いて下さい。話が進みません」
「真面目ですよう」
 額を擦りながら春奈は涙眼でフェランに向き直る。美人なだけに何と無く情けない。
「ええと、ミスターフェラン。私達一族には確かに他の方々とは異なる能力を持つ者がいます。しかしその能力は先祖代々秘中の秘とされており貴方に明かすことは出来ないのです」
 春奈はその艶やかな黒髪で彩られた頭を下げた。ぱさりと畳の上に黒髪が触れる。
「ごめんなさい。二人を助けて頂きましたが、私共はこのような返答しか返せません」
 春奈の返答にフェランは胸前で腕組みをして目を閉じた。下顎を突き出すようにして息を長く吐いた後、「まあいいか。」と呟いて笑みを浮かべる。この男がこのような笑みを浮かべると、少しくたびれた中年手前から、世間ずれしていない青年の様に若返るように千秋には見えた。ひょっとしたら、この男は本来、この様な笑みを浮かべる人生を送るべき生き方をしていたのかもしれない。
「私の目的は、〈K〉の崇拝する〈おおいなるK〉や旧支配者と呼ばれる異世界の神の復活を阻止する事なんだ。奴等が何故、千秋君を必要とするのか理由を明かせないのなら構わない。それなら彼女の護衛に私も加えてもらえないか?」
 春奈は形の良い眉を寄せて暫く考えていたが、冬峰を手招きして傍らに座らせた。
「どうします。私は信用してもいいと思うんですけど、一緒に戦った冬峰さんの意見も訊きたいんですけど。」
「まあ、良いんじゃない。盾には出来そうだし」
「そうですね。それに目の届かない所で好き勝手されるより、傍に置いておいて監視した方が私たちも安心出来ますからね」
 納得したのか冬峰とのひそひそ話を終えた春奈は、再びフェランに向き直りぺこりと頭を下げた。
「有り難う御座います。こちらの都合ばかり押し付けて申し訳ありませんが、お手伝い御願い致します」
「何気に酷いね、君達」
 牽制なのか、それとも抜けているのか、目の前で聞こえるようにひそひそ話をする二人にフェランが呆れた様に苦笑を浮かべた。こちらも目の前で利用するぞと言われているのにさほど問題にはしていないようだ。
「それでは……」
 春奈の言葉を遮るように、ぴしっ、ぺきっと乾いた木の枝が室内に響き、青桐が傍らにおいた木箱のふたを開け中を覗き込む。忠実に再現されたミニチュアの中庭、いや箱庭と呼ぶべきだろう。箱庭の四隅に立てられた榊を結ぶ細い縄の内、正門側が切れており、その間を赤いビー玉が一個転がっていた。
「どうやら侵入者ですね。しかもたった一人とは油断しているのか。」
 青桐は背広の胸ポケットから携帯電話を取り出し庭で警護している朱羅木を呼び出した。
「朱羅木、侵入者だ。確認できるか?」
「とっくに気付いているよ」
 朱羅木はいきなり空から降ってきて正門前に着地した人影に面食らいつつも、素早く背広の左脇から九四式拳銃を抜き出し人影に銃口を向けながら右耳に装着したハンズフリーの携帯電話のマイクに怒鳴った。
 縞瑪瑙にカッターナイフで切れ込みを入れただけのような笑い仮面を被り、ボロボロの黄土色のマントを被った人影は、九四式の小ぶりな銃口を恐れた風もなく中庭に歩き出した。その人影は昨晩、死闘を終えた冬峰達の前に現れた黄衣の王と呼ばれる怪人であった。
「止まれ。一歩でも動いてみろ、撃つぞ」
 つっと人影が警告を無視するように歩を進めた為、朱羅木は人影の両肘と両足首を狙って九四式拳銃の引き金を引く。
「馬鹿か」
 直径八ミリの水銀と鉛を組み合わせた弾丸は標的の内部に侵入するや、三倍以上に膨張し筋肉や骨に多大なダメージを与えるはずが、あっさりと貫通して門柱に傷を付ける。
「ちっ」
 平然と自分に向かって歩き出した黄衣の王に舌打ちをしつつ弾倉に残った二発を仮面に打ち込み、すぐさま弾倉を交換して六発をぼろぼろのマントの中央に叩き込んだ。銃声がひと続きに聴こえる様な連射に黄衣の王は僅かに上体を揺らめかせる。
「なんて奴だ」
 朱羅木は再び歩き出した黄衣の王に驚きを隠せなかった。
 黄衣の王の頭部に放たれた弾丸は、縞瑪瑙の仮面を貫通出来ず表面に弾かれ、胸部に放たれた六発も背中から抜けるだけで、相手に何の痛痒も与えることが出来ていないようだ。
 朱羅木が狗狼に語ったとおり、この九四式拳銃の弾丸は御門家の所有する神泉にさらされた水銀と鉛を混ぜた弾頭である。それ故人間のみならず、不成仏霊等の人外の存在すら滅ぼす事が可能である。しかし、この縞瑪瑙の仮面を被った怪人は四肢を撃ち抜かれるばかりか、胸に大きな風穴を開けられようが平然と歩を進めている。よほど大きな力が与えられているか、浄化出来ない別系統の妖物か朱羅木には判断出来なかった。
 不意に黄衣の王が音も無く、地面すれすれを浮遊する風船のように足も動かさずに朱羅木との間合いを詰めた。余りにも無造作に接近された為、朱羅木の反応が少しばかり遅れる。
 ぼろぼろのマントの裂け目から、青黒い肌の色の水を吸ったスポンジのように膨れ上がった掌と芋虫の様な指が現れ、突き出された九四式拳銃の銃身を掴む。
「うおっ」
 咄嗟に朱羅木が九四式拳銃を手放したのは身の危険を感じたのではなく、黄衣の王の身体から吹き出す腐った卵もしくは硫化水素の様な臭いに耐えられなくなったからかもしれない。
 黄の王の手の中に残った九四式拳銃は肉塊が腐りは果てるように形が崩れ、次第に地面に垂れて行った。まるで黄の王自身には体内に腐り果てた肉と膿が詰っているおり、そしてこの怪人に触れられたものはすべて腐食するのではないかと朱羅木に錯覚させる。
 朱羅木は塀に立てかけた長さ一メートル五十センチ、幅三十センチのハードケースに目をやった。この箱内には朱羅木にとっての切り札が納まっているが、修羅木はそれを使用することを躊躇う様に歯噛みした。
「この場所では、近すぎるか」
 一方、応接間ではちゃぶ台に置かれた箱庭を前にした青桐を中心に、狗狼、春奈、フェランがじっと箱庭の中で転がる赤と青のビー玉を眺めていた。
「押されているわね。陣地に閉じ込めるのが手っ取り早いか」
 赤いビー玉が真っ直ぐ母屋に突き進んでくるのに対して、蒼いビー玉は赤いビー球にかちあってははじき返され周囲をぐるぐると旋回し始めた。
「これ、赤いビー玉が侵入者で青いビー玉が朱羅木さんですか」
 春奈の問い掛けに青桐はうなずいて銀の針を胸ポケットから取り出し、赤いビー玉と母屋の間に突き立てて祓詞はらいことばを唱える。
「掛けまくもかしこ伊邪那岐イザナギ大神筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原あわぎはら御禊みそぎ祓え給いし時に生り坐せる祓戸の大神達諸もろもろ禍事まがごと
 銀の針で箱庭の地面に一筆書きの様に複数の円を連ねて書き、円の尻に「伏」と漢字で結ぶ。
「罪穢(けがれ)あらむをば祓え給え清め給えもうす事を聞食(きこしめ)せとかしこみ恐みも白す」
 母屋の模型に向かって転がっていた赤いビー玉は、その円に触れると引っかかったように震えて動きを止めた。続けてその線に沿ってぐるぐると回り始める。
「これで侵入者をこの箱の陣地に封じられます。後は八百万の神に任せましょう」
 その頃黄衣の王は両手を前に突き出し朱羅木に迫るが、不意にその姿が水鏡に移った虚像のように揺らぐと跡形も無く消え失せた。

Re: 天門町奇譚 ( No.18 )
日時: 2020/07/21 00:14
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「どうやら陣地に誘い込めた様だ」
 右耳のイヤホンより聴こえる青桐の声は、正門前の戦いを観察していたのか、僅かに安堵の響きを含んでいるように朱羅木には聞き取れた。
「ああいう得体の知れない手合いは閉鎖空間に閉じ込めるのが一番手っ取り早い」
 朱羅木は黄衣の王が姿を消した位置まで歩み寄り地面を見下ろす。そこには青桐が箱庭に描いた文様が寸分たがわず写されている。黄衣の王はこの模様を踏んだ途端、消え失せたのだ。
「閉じ込めるならさっさとやれ。弾が勿体ない」
「わざわざ活躍の場を用意してやったんだ。有り難く思え」
 朱羅木の減らず口に青桐の皮肉が返され、朱羅木の口端が不愉快に歪められた。確かにあのままだと母屋にまで侵入された可能性が高い。冬峰は昨夜、単独で千秋を守り通したらしいが、あの忌々しい半欠けより役立たずだと思われることが、朱羅木には非常に腹立たしかった。
 その頃朱羅木の前から消え失せた黄衣の王は、縞瑪瑙の仮面に隠された表情は伺えないが明らかに困惑していた。邪魔者が突然消え失せ、これ幸いと庭を横切ろうとすると庭に中央にあるため池を越えた辺りで正門前に引き戻されるのである。円内をぐるぐると回っている様で、迂回するように母屋に近づこうとすると、透明の壁に阻まれてそれ以上進むことが出来ない。
 黄衣の王の長く生きた経験から、この現象は人為的な空間歪曲の一種と推測出来るが、術者が優れているのか空間の結び目が判別が不可能であり、一旦その場から撤退するべく使い魔を呼ぶが応答する気配もすらない。
 そうして何度目かため池を通り過ぎようとすると、ため池の中央に置かれた縦横一メートル程度の石の上に、石造りの蛙が置かれているのに気が付いた。その石造りの蛙は黄衣の王が見つめているとどんどん黄土色の質感を持ちはじめていく。黄衣の王の目線と対等に、そして更にその頭上へ、石造りの蛙はもはや大蝦蟇と形容するに相応しい威容をもって、五メートルの高みから黄衣の王を見下ろしている。
 ぱかりと大蝦蟇の口が開かれ、その口腔内に収められた赤黒い蚯蚓のように脈動する舌が勢いよく飛び出して黄衣の王に巻き付いた。粘り気のある唾液に塗れたその器官は、ひゅっと風を切る音を立てて黄衣の王を飲み込んだ。大蝦蟇の口元から二本の足がはみ出し暫く足を上下に振っていたが、大蝦蟇の喉が二、三度しゃくり上げるとその足も吸い込まれ見えなくなった。
 大蝦蟇は満足したのか、ひとつ喉を鳴らすとその腹をを大きく膨らませ始める。その膨れる速度は異常に早く、平べったい頭部まで膨れ上がった腹の影に隠れると、次の瞬間、風船が破裂する様な音を立てて大蝦蟇の腹が弾け跳んだ。いや、腹だけではなく、大蝦蟇の手足すら吹き飛び四方に飛び散る。
 ため池の中央に鎮座していた岩すら砕け散り、後には旋風の渦の中央に立つ黄衣の王が残った。その風圧は凄まじく、黄衣王の移動と共に地面は抉れ、庭を彩る草花や花壇のレンガが庭土ごと宙へ放り出される。
それに対し庭の彼方此方から人の背丈程の巨大なカナヘビや、鎌を擦り合わせる大蟷螂。口から糸を吐く黒蜘蛛が一斉に飛び掛った。
 しかし黄衣の王は其れすら目に入らないのか、鬱陶しそうに右腕を振ると旋風の一部が膨れ黒蜘蛛を巻き込んだ。黒蜘蛛は抗う間も無く身体が捩れ、足が千切れ飛んで無残な屍を庭に撒き散らした。また、その他の蟷螂やカナヘビも飛び掛ったもののその旋風の防御を突破することも出来ず、巻き込まれて宙に消え失せる。
「敵も中々やるわね。これならどうかしら」
 居間のちゃぶ台に置かれた箱庭を覗き込んだ青桐は、背広の内ポケットから一本の黒い羽を取り出し赤いビー玉の傍に突き刺した。
「それって何だい。東洋の神秘ってものかな?」
 フェランは興味深々といった体で青桐に尋ねた。箱庭には石造りの蛙や木彫りのトカゲや蟷螂の模型も置かれていたが、誰も触れていないのにバラバラに壊れて横たわっている。
「これは偶々三本足に生まれた鴉を、祭り上げて神鳥として育て上げたものの羽根です。まあ一種の呪具マジックアイテムですね」
 居間に鴉の羽ばたきと鳴声が響き渡る。
「――」
 フェランは天井を見上げるが鴉の姿など確認出来ず眉を顰める。
 中庭では黄衣の王が己と母屋を隔てる見えない壁を、その掌から噴き出す突風でなぎ倒そうと右手を掲げていた。何度旋風や突風をぶつけても空間から異音はするものの、障壁の破れる気配は感じられない。彼の作り出す風は只の風ではない。その風圧はもとよりその風に触れると鉄すら一瞬の内に腐食する。よほど強固な障壁が掛けられているのか、それとも術者が優れているのか。
 黄衣の王はこのままでは埒が明かないと判断したのか、人差し指を立て眼前の障壁に模様を描き始めた。円の中にイソギンチャクのような模様が描かれたそれは、その中央から目に見えない瘴気を噴き出しているようで酷く禍々しい。
 紋章を描き終えて呪文を唱えようとした黄衣の王の周囲が突然陰る。
 見上げると一羽の鴉が満月を背にして滞空しており、その影が黄衣の王の周囲に落ちていた。
 鴉が鳴声を上げるとその影はどんどん色を濃くすると共に、黄衣の王が地面に両手両膝を付いて身体を支える。何かに耐えるように身体を震わせていたが、同じく影に覆われていた石灯籠が砕けると共に地面に這い蹲った。
 まるで鴉の影の部分のみ重力が増大したかのように、影の形に添って地面が陥没し始める。既に黄衣の王は四つん這いで無く、地面に腹這いとなっていた。辛うじて顔を横に向けているが、指先ひとつ動かすことも出来ず苦悶する。何とか竜巻を起こし身体を浮かせようとするのか、時折マントの裾がはためくが周囲の土を崩す程度でありこの状態を脱するまでには至らなかった。このままでは数分以内に口から身体の中身を吐き出す事になるであろう。
 ピシリッ、とガラスの割れるような音と共に縞瑪瑙の仮面の左こめかみから左目にかけてヒビが発生した。それに焦燥感を抱いたのか、その仮面の下から不可思議な言葉が漏れ始めた。
「いあ いあ ろいがあ うぐう しゅぶにぐらす」
 黄衣の王の呟く言葉に合わせ、障壁に描かれたイソギンチャクのような模様が震えて周囲に生臭い異臭が立ち込める。
 もし、この場に冬峰が居れば、黄の王が呟く言葉が学校で死闘を演じた石仮面の詠唱した呪文に類似している事に気が付いたであろう。また、それがもたらす結果にも。
「ろいがあ ふたぐん くとぅるう ふたぐん いたか いたか いあ いあ ろいがあ なふる ふたぐん ろいがあ くふあやく ぶるぐとむ ぶるぐとらぐるん ぶるぐとむ あい あい あい」
 突然、世界が震えた。
 家屋が大きく揺らぐと共に、ちゃぶ台に置かれた箱庭の赤いビー玉を捕えていた円模様と伏の文字が箱庭の一部ごと吹き飛び飛び散った。
 飛び散る箱庭の破片から春奈を押し倒してかばった冬峰は、背中に掛かった土塊等を払い落として中庭へ目をやった。
 窓ガラスは破れて廊下に撒き散らされ、そこから覗く風景は見慣れた日本庭園ではなく、木々はへし折れ草花は千切れ飛んだ荒地と化している。そしてその中央に、宙に浮かんで不適な笑みを浮かべているような錯覚をさせる縞瑪瑙の仮面を被った怪人と、その背後で渦巻きあらゆるものを吸い込み粉砕する大竜巻があった。
「陣地が破られました。どうやら大掛かりな転移魔術が使われたようです」
「ああ、見えているよ」
 天まで届く大竜巻の中、渦巻く大気の層に阻まれはっきりと見えないが、十五メートルほどの巨大な影が揺らぎ蠢いている。譬えるなら巨大な回転するイソギンチャクで、時折渦の中心で輝く緑色の光が青桐とフェランの胸中に禍々しい不快さを湧き出させた。
「まさか、あれは〝ロイガー〟か」
 フェランがどこか震える声で呟いた。何時も韜晦したような笑みを浮かべるこの男でも恐怖を感じるのか、額を拭った右腕を握り締め身体の震えを堪えた。
「〈星間宇宙の只中で風の上を歩むもの〉。イタカだけでなくロイガーまで現れるとは、ハスターもこの件に関っているって事か。こうなると教授の助けは期待出来ないな」
 家屋を襲う振動と轟音に驚いたのか、居間には部屋に引き上げていた千秋、紅葉、夏憐の三人が駆け込んできた。夏憐の手に数枚のトランプがあることから、どうやら三人で集まってトランプのゲームを楽しんでいたらしい。
「ハルねえ、何があったの。うわっ、何これ、竜巻?」
「冬峰、いったい何が……」
 千秋も庭の庭の惨状に戸惑いを隠せず、冬峰を不安に満ちた目で見つめる。
 そのとき黄衣の王の仮面が居間の方向へ向いた。狗狼にはその視線が千秋と春奈の二人を捕らえているように感じられ、千秋も悪寒を感じたように両肩を抱え身体を震わす。
「春奈さん。みんなを連れて奥へ避難して。俺は何とか、あいつらを食い止める」
 春名達を背後に庇い、冬峰は少しゆっくりとした口調で指示をする。こんな時にものんびりしている様に見えるのは彼らしいが、これから死闘を演じるであろう態度にはふさわしくないだろう。
 春奈と千秋を捕らえる心算か、音もなく滑る様に宙に浮かび窓から屋内に侵入しようと覗き込んだ黄衣の王だったが、突然鳴り響いた銃声と共に背後へよろめく。黒いマントの表面に次々と着弾して布地を撒き散らす。
 禁酒法時代のギャングの如く、ボストンバッグから抜き出したトンプソン1928サブマシンガンを腰だめに構えたフェランは、四十五口径の強い反動をものともせず引き金を引き続けた。
 トンプソンの百連円形弾倉ドラムマガジンは送弾不良が起こり易い事で有名だが、フェランが手にしたものは手入れが行き届いているのか、一度の停滞することも無く銃身に弾丸を送り込み火を吐かせ続ける。
 ようやく弾切れとなり室内に鳴り響く銃声に、両手で耳を押さえ耐えていた千秋は撃たれ続けた怪人に目を向け息を呑んだ。
 黄の王は何事も無かったように縞瑪瑙の仮面を不気味に光らせて左手をフェランに向けた。あれだけ撃たれたというのに弾痕は全て消え失せ、黄の王の足元には腐った果実のように変形した弾丸が散らばっている。銃弾という攻撃方法は同じだが、朱羅木の方が僅かに与えるダメージが長引いたのは、使用された弾丸が超自然的な力で保護された為であろう。
 黄の王の左掌より、フェランがトンプソンのドラムマガジンを取り外すより早く死の旋風が吹き出される。それは銃撃で脆くなった壁をあっさりと腐食させて吹き飛ばし、フェランを包み込もうと室内に吹き込んだ。
 フェランはその旋風を避けられないと悟ったのか、トンプソンから手を離して左脇に吊ったホルスターに納まったコルト四十五口径を抜こうと右手を持っていくが、これがあの怪人に効果があるとはフェラン自身も信じていない。先程この拳銃に納まる倍以上の弾数を叩き込んだのだから。
 フェランの指先が無骨な拳銃の銃杷グリップに触れたとき、死をもたらす風は間近に迫っていた。
 畳に何かが刺さる鈍い音と共に、ぷつりと旋風の轟音が途絶える。フェランと黄の王の中間、フェランより五十センチ程手前に鎌の様な形状を形状をしたが突き刺さっていた。この回転しながら飛んできたカランビットナイフが、フェランの眼前まで迫った突風を切り裂き消滅させたとは助けられたフェランにも信じられなかった。
「はいはい、失礼、失礼」
 その命の恩人は己が何を成し遂げたのか理解しているのかいないのか、面倒臭そうに猫背でナイフの傍まで歩み寄り、相撲取りが懸賞を受け取るように手刀で空を切ってナイフを拾い上げる。
 黄の王は冬峰を威嚇するように、両掌を冬峰に向けて開いた。掌の中に空気が流れ込み渦巻きを形成していく。
「風使いか。別段珍しくもないね」
 冬峰が言い終わらぬうちに、黄の王の両掌より突風が吹き出して冬峰を貫く。
「冬峰!」
 千秋の目にそう見えたのは一瞬であり、残像を残して間半髪でかわした冬峰は身を低くして黄の王に駆け寄った。
 冬峰が左右の手に握ったカランビットナイフで交互に切り付けてくるのを、宙に浮かんでかわしつつ、黄の王は足も動かさず滑る様に中庭まで後退する。冬峰も後を追い中庭に降り立ったが、改めて頭上の脅威を目にしてたたらを踏む。
 フェランがロイガーと呼んだそれは、その大竜巻の中から無数にある触手の中の一本を突き出し冬峰に向けて振るった。
 その先端から小さいピンポン球程度の空気の渦が放り出され、冬峰に向かって飛んできたが、冬峰は頭を軽く下げ、それをやり過ごした。その空気の渦は冬峰の背後を通り過ぎ玄関の引き戸に当たり弾ける。
 その瞬間、引き戸は洗面台に溜められた水が栓を抜かれて排水溝に引き込まれるのを連想させる様に、弾けた渦に吸い込まれ破砕音を立てて圧縮され消滅する。
「うわあ」 
 背後を振り返り、冬峰は嫌そうに声を上げた。確か檜作りの引き戸は高かったはず。いったい、誰がこれを弁償してくれるのであろうか。こいつ等に経済観念なんてあるわけないだろうし。
 またもや竜巻から触手が突き出されるが、今度は一、二本ではなく、少なく見積もっても十数本がうねうねと上下している。先程の渦が一斉に放たれた場合、庭にいる冬峰はもとより、母屋にいる春奈たちにも無事ですまないかも知れない。さあ、どうするか、と冬峰は自問したが良い手は浮かばない。
 再びトンプソンの連続した銃声が鳴り響く。姿は見えないが、どうやらフェランと黄の王は戦闘中のようで援護は期待出来そうにない。
「来る」
 触手から放たれた最初の数発を切り落とすしかない。冬峰は屋根によじ登り、両手のカランビットを逆手に握り直す。
「召雷召力 雷火雷音 身削霊注 火足陽霊 水極陰体」
 不意に軒先から呪文が響き、片膝立ちで小銃を構えた朱羅木が姿を現した。右こめかみから流れる血を拭わず小銃のスコープを覗き込む。庭の陣地が破られた際、発生した爆風に吹き飛ばされ右顔面を強打した防人は、そのお返しをするように引き金を引き絞り弾丸を放つ。
「撃ち抜け〝火水かみ鳴り〟」
朱羅木の構えた九七式小銃の銃口から白色の閃光が延びて宙を裂く。それは竜巻から現れた触手が渦を放ったのはほぼ同時であり、閃光は渦を巻き込んで消滅させて、本体の竜巻に突き刺さる。その軌跡はSF映画のレーザー光線の様だ。
 朱羅木が口にした通り落雷の様な音を立てて着弾したが、閃光は竜巻を通り抜けず表面で四方八方に飛び散り消え失せる。
「何!」
 朱羅木は驚愕して九七式小銃の次弾を装填したが、発砲するより早くカメレオンの舌がのぎるように触手が竜巻から弾き出され、朱羅木の足元を襲った。爆発するように発生した突風は朱羅木を吹き飛ばし地面に叩き付ける。
冬峰は短く舌打ちして右手のカランビットナイフを投擲した。ブーメランのように回転するそれは、ロイガーの潜む大竜巻に触れると一瞬だけ風の障壁を切り裂き中の異形を冬峰の目に曝した。
その姿は巨大な無数の触手で作られた団子状の物体であり、触手と触手の間を直径一メートル程の目玉が複数、鼠の様に動き回っている。目玉は動きを止めるたびに瞬きを繰り返し、緑色に発光した。
投擲されたカランビットナイフが動きを止めて竜巻に吸い上げられると、異形の怪物を曝した隙間は塞がれ再び竜巻の中心に隠れてしまった。
冬峰の攻撃は十五メートル頭上の怪物には届かず、ナイフを投擲すれば一瞬だけ風の壁を切り裂くものの、怪物までは届かず、またあの巨体にナイフの一撃が届いたとしても微々たるものであろう。しかし朱羅木の放つ雷は風の壁に阻まれ本体までは届かない。
「春奈さんに助けを求めるのもなぁ……」
 そう呟いて冬峰は軒下へ視線を転じた。そこには九七式小銃を杖代わりに何とか立ち上がった朱羅木が冬峰を見上げている。二度も爆風に吹き飛ばされ地面に激突したその姿は、黒背広は所々破けており左側の袖が無い。
 冬峰は小さく頷くと飛来してきた渦を、右手のナイフで造作もなく両断して消滅させる。先程風の障壁を一瞬切り裂き、いま渦の魔弾を両断したことから、この少年は常人とは異なる何らかの能力があるのではないか。
「タイミングを外すと手段が無くなる。予備のナイフを持っておけばよかったな」
 再びナイフが投擲される。旋回するカランビットナイフが切り裂いたには朱羅木の正面、頭上十五メートルにて回転する怪物の下部だった。
「上手い」
 その僅かな時間、僅かな空間を狙って修羅木は九七式の引き金を引く。その小ぶりな銃口から発射された6.5ミリ弾は銃弾に刻まれた神言が朱羅木の唱える神言と反応して術式を展開する。
 術式によって銃弾を雷だと誤認した世界は、銃弾に二十万ボルトの電圧を付加。銃弾は竜巻の冬峰が切り裂いた隙間から入り込みロイガーの身体を斜め下方から上方に向けて貫いた。
「やったのか」
 再び竜巻の中に隠れた巨体が斜めに傾ぐのを目にした朱羅木は、獲物を仕留めた喜びに口角を吊り上げたが、無数の触手が一斉に起き上がり竜巻の中から突き出されるとたちまち表情を凍らせた。


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