二次創作小説(新・総合)

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天門町奇譚
日時: 2020/07/19 13:49
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

   序 異界侵食

 まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
 商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
 午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
 芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
 何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
 外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
 なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
 この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
 この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
 最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
 雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
 息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
 息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
 下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
 父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
 父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
 八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
 その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
 だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
 二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
 連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
 別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
 三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
 何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
 直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
 中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。

 しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
 ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
 いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
 直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
 そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
 それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
 しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
 先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
 直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
 数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
 直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
 現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
 その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
 またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
 この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
 発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
 千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
 今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
 自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
 駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
 しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
 芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
 それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
 それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
 芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
 屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
 すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
 いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
 もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
 ごぽっ。
 背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
 ごぽっ、がぱっ。
 何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
 ごぽり、
 芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
 マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
 前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
 ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
 悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
 成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
 それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
 三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
 だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.9 )
日時: 2020/07/19 15:42
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 冬峰は大きく飛び退き、雑木林に退避した。雑木林の中ならば相手の動きも制限出来、勝機を得ることも出来るだろう、と考えたのだが世の中、そう甘くは無かった。半魚人は冬峰の隠れた前方の木々をツメの一振りでなぎ倒し、冬峰を追い詰めていく。
「やれやれ、あのお守り効果あるんだろうな」
 お守りとは昨晩、アンドリュー・フェランから受け取った五芒星の模様が刻まれた石のことである。あれを持っている限り、人間と大いなる〈K〉の眷属以外の僕から守ってくれると言っていた。念の為、登校時に紅葉にお守りを渡し、登下校は夏憐と一緒に行動することと言ってあるが、出来ればこの半魚人がこのお守りが苦手で、学校内で大暴れして紅葉や夏憐に危害が及ぶ恐れの無いことを、冬峰は切に願った。
「しかし、どうしたものかな。海の生物の解体は魚屋か板前の役目なんだが」
 木を背に追い詰められた冬峰は横なぎに振られたツメの攻撃を木の幹を蹴って、前方へ跳躍することによってかわした。更に半魚人の背を蹴って高々と宙を舞い、地上4メートル程上の木の枝を掴む。
 冬峰は右手で木の枝にぶら下がったまま左手を後ろ腰に取り付けられたナイフホルスターへ伸ばす。
 ナイフホルスターから取り出された銀色の折り畳みナイフの刃を、刃の側面の突起を親指で回して引き起こす。引き起こされたナイフの刃渡りは十二センチほどあり、いかにも実践的で剣呑な雰囲気を放っている。
 ナイフはバックやランドール、ソグ、エマーソン等のナイフメーカーによる製作、販売以外に、個人で製作されたものも販売される。冬峰の持つものは格闘家でもあるラスィ・ザボ製作のRADと呼ばれるタクティカルナイフのショートバージョンで、信州から遠く兵庫県のナイフ専門店まで、自ら買いに出かけ手に入れたものだった。
 半魚人が冬峰の捕まっている木の幹をへし折ろうと手を振り上げるのと同時に、冬峰は手を離しナイフを逆手に持ち替える。落下しながら半魚人の額に両手で振り下ろす。
 硬い音を立ててナイフの刃は二センチほど額に食い込んだが、半魚人が構わず両手で冬峰を挟み込もうとするのを肩を蹴って、後方へ宙返りしながらかわした。
「タフだね。ホント」
 逆上したかのように追ってくる半魚人にぼやき、冬峰は地面すれすれに身を低くした状態で疾走した。
 その疾走は異様だった。喩えるなら水の上を走るアメンボのように音も立てず、しかし高速で滑る様に半魚人の横を通り過ぎる。半魚人の目には何の予備動作も無かった為、消えたように見えただろう。
 通り抜け様に放たれた横薙ぎの一閃は半魚人の右膝裏を切り裂いた。
「!」
 木の幹に手を付き身体を支える半魚人へ、右足を軸にして半回転した冬峰の勢いを利用した一撃が奔る。下方からの斬撃に右肘の関節部が血を吹いた。
「解体は出来なくとも、足止め程度なら何とかなるか」
 半魚人はバランスを崩しながらも左手を冬峰の顔面を抉ろうと振るったが、素早く背後へ跳躍され叶わなかった。
「ボストンバッグを置いて来るんじゃなかったな。あれだったらぶった切る自信はあるんだけど、まあ、いいか。えーと、見逃してくれないかな」
 このような状況に似つかわしくない茫洋とした雰囲気を纏った少年の、これまたピントのずれた提案に、半魚人は両手両足を地面について力を蓄える様に前屈姿勢を取った。ぎちぎちと四肢のたわむ音がする。
「やっぱり駄目か。撤退、撤退」
 くるりと背を向け林の出口に向けて疾走する冬峰の後を、カエルの様な跳躍を見せて追跡する半魚人。冬峰の疾走は高校生レベルどころか、百メートル九秒台で走破出来るのではないか、そう思わせる速度であったが、それでも両者の距離は徐々に縮まった行く。
 冬峰の耳に半魚人が着地ざまに噛み合わす咢の音が響いている。少しでも速度を落とせば冬峰の頭部は半魚人の胃袋に収まるであろう。
 雑木林の出口が見えてきた辺りで不意に冬峰が体を沈めた。そのまま脇に放置していたボストンバックを抱え上げチャックを開けながら振り返る。
 半魚人はこの追い駆けっこに終わりを告げる様に高々と飛び上がった。ひと噛みで首を食い千切り巨体で押し潰すのが彼の最も得意とする獲物の仕留め方であった。
 しかし、次の瞬間我が身に起こった出来事は、半魚人にとって予想だにしなかったことであろう。まさか、銀光が跳ね上がり己の右手右足が一度に断たれるとは。
 半魚人がバランスを崩し身体が空中にあるうちに、続けて左手足が切断され、鱗のない腹に十文字の傷が走り内蔵が噴出する。喉が横に切り裂かれ、胸の中央の傷は跳ね上がり喉の傷と合流する。
 冬峰が動きを止め血風が収まった時、両手足を無くして喉から腹まで切り裂かれた半魚人が、仰向けに地面に落下して身体の中身を晒した。痙攣と共に血が噴出してくる。
 冬峰は文字通りに生け造りと化した半魚人をに背を向けて歩き出したが、ふと足を止め携帯電話で冴夏に連絡を取った。これをこのまま放置すれば一騒動起きかねない。
「冬峰、何かあったの?」
 開口一番、尋ねる叔母の言葉に、冬峰は背後を振り返った。
「えっと……新鮮な刺身は要りますか?」

                3

 昼食を終え憔悴しきった冬峰は、1―Cの自分の席に付くなり机の上に突っ伏した。
 朝から半魚人に襲われた上、御門家系列の海産物卸売り業を営む親戚が半魚人を見るなり、「喰えるか、こんなもの!」と叫んで一悶着を起こし、とりあえず死体は回収してもらったが。その為学校の午前の授業を丸々休む羽目になった。おまけに空腹を抱えて食堂に行くと、半魚人よりも怖い幼馴染の女子高生が、にこやかに微笑みながら手招きしていた。
「まあ、自業自得だな。」
 ダウン状態の冬峰を見下ろしながら、もう一人の幼馴染が苦笑する。
「五月蝿い、A定食なんか注文しやがって。昼食に六百円以上掛けるのは犯罪だぞ。」
 罰として昼食をおごらされた冬峰は、今月の残り日数を数えて暗澹たる気持ちになった。暫くアルバイトも出来ない事が非情に恨めしい。おまけに遅い登校途中で昨夜見知った顔を幾つか見掛けた。学校を包囲するように路地裏や門柱の蔭に隠れた彼等は、生徒達の下校時刻が迫ると、誘蛾灯に誘われた昆虫のごとく一斉に校門前に集まってくるに違いない。朝から色々あるが、荒事を始めるつもりなら明日にして欲しいものだ。
「……面倒だよな」
 とりあえず五、六時間目は寝て、放課後にどうするか決めようと冬峰は目を閉じた。少なくとも授業中に何かを仕掛けてくるようなことはないだろう。問題は千秋が大人しく冴夏伯母さんの指示に従ってくれるかどうかだ。彼女としては御門家と距離を置きたい為に一人暮らしを始めたのだから、御門家に原因があることで半ば無理やりに本家に下宿させられるのは面白くないだろう。千秋が何故に其処まで御門家を嫌うのかは分からないが、このまま意地を張っても仕方がないことは気がついているはずだ。自分自身に身を守る術は無く、御門家に頼るしかないのだから。

 千秋は朝から期限が悪かった。今日の放課後、教室に冬峰が迎えに来ればそのまま御門本家の庇護下に入る。せっかく御門家から離れてある程度の自由を手に入れたかと思ったのだが、とんだ災難に巻き込まれた、と彼女は苦々しく思った。〈K〉は一体何をさせる為に私に目を付けたのか。何故、本家の者でなく私が狙われたのか。単に狙いやすかっただけなのか。昨夜の誘拐犯の言っていた御門家の目的を何故、外部の者が知っているのか。そんな考えが彼女の頭の中を何度も駆け巡っていた。
「で、其処のケーキが美味しいんだって。アルバイトも禁止されて放課後空いてるんでしょ。食べに行かない」
「え?」
 彼女の対面で弁当を平らげた文野洋子が、先週開店した洋菓子屋のチラシを広げて千秋に見せ付けた。そこにはケーキセット四百五十円と大きく載っており、アルバイト柄、ケーキには拘りのある千秋でも興味をそそられる組合せが幾つかあった。
「もう、さっきから生返事ばっかり。千秋ちゃん今日変よ」
 文野は千秋より席順が一つ前であり、二学年に上がってから新たに出来た友達であった。昼食はこうして一緒に摂っているが、千秋はアルバイト、文野はテニス部ということもあり一緒に下校することは滅多に無い。
「ごめん、今日はちょっと用事があって」
 千秋もこの長い髪をポニーテールに結わえた、御門という苗字にも物怖じしない友人を気に入っていたが、今日は日が悪すぎる。冬峰が迎えに来た時彼女にどう説明すれば良いのか。冬峰に説明をふっても、「ああ」とか「うん」しか言わない気がするのだ。あそこまで他人に対して無愛想なのは人見知りするのでは無く、単に面倒臭いだけだろう。
「でもケーキセットは捨て難いよね。どうしようか」
 冬峰には悪いがチャイムと同時にダッシュ。ケーキを堪能した後、暗くならないうちに本家に顔を出す。大勢の人の目の届く日中では〈K〉も手荒な真似は出来ないだろう。と千秋は都合の良い考えを思い浮かべた。後に彼女は彼らがそんな甘い相手では無いことを思い知るのだが、今の彼女にとって脅威とは〈K〉ではなく彼女の身を守るよう命令されたボディガードであった。

「御門」
 六時間目、授業開始の出欠を取った数学教師は珍しく冬峰の姿が無い事に気が付いた。いつもなら寝起きの面倒臭そうな返事か、返事は無く机に突っ伏して爆睡中かどちらかなのだが、今日は姿も見えず五時間目の現国以外出席していないらしい。授業中に他人に迷惑を掛けるでもなく、今までは黙認していたがそろそろ担任に連絡してしかるべき処置を打ったほうが良いかもしれない。
 神経質そうに出席簿を睨みつけ何かを記入する数学教師を見て根神一はやれやれと幼馴染の空いた机を振り返った。普段なら冬峰は一、二時間目の早い時刻には睡魔に耐え切れず保健室まで足を延ばす事があったのだが、午後の授業で姿を晦ます事は無かった。
 何かが起こっている。根神はそんな気がしているのだが、いったい何が起こっているのか彼はこの事件が終るまでついに気付くことは無かったのであった。

 六時間目が終わり千秋はいそいそと帰り支度を始め早足で教室から出ようとしたが、教室の前側のドアから冬峰が顔を覗かせ手を振ってきたので憮然な面持ちとなった。
「何? 心配しなくても本家には後で顔を出すわよ。それにアンタの教室からここまで少なくとも3分は掛かるはずよ」
 不機嫌そうに細いレンズの眼鏡の奥の目を険しくして睨みつける従弟へ、冬峰は困ったなというように後頭部を掻いた。
「実は具合が悪くて保健室で寝ていたんだ」
「へえ、アンタが珍しいわね。風邪でも引いたの?」
 嘘おっしゃいと挑戦するように千秋は笑みを浮かべた。目が全然笑っていないのがかなり怖い。
「いや、急に睡魔が襲ってきたんだ。」
「……」
 冬峰の冗談か本気か分からない返答を無視するかのように、急歩の選手のごとく背筋をのばして冬峰の脇を通り抜けた。冬峰は暫くその後姿を眺めた後、しょうがないなと苦笑を浮かべて千秋を追いかける。
「何処へ行くのかな?」
千秋の横に並び問いかける冬峰へ、千秋はそちらを見ようともせず歩く速度を速めながら一言一言区切るように返答する。
「ケーキを食べに行くだけよ。心配しなくても暗くなるまでに本家には顔を出すわよ」
 やや険のある言い回しにもひるんだ様子も無く、冬峰は「それは無理だろね」と呟いた。千秋は急ブレーキを掛けた様に立ち止まり、振り返って冬峰を睨みつけるが、冬峰は何処吹く風というように茫洋とした態度を崩さずのそのそと廊下の突き当たりにある窓際まで近付いた。
「どういうことよ。言いたいことがあるなら……」
「バス停横のコンビニの駐車場」
 冬峰はそれだけ言って黙ってしまったので、千秋は仕方なく窓の外を覗き見た。千秋達2年生は3階に教室があり、この廊下の突き当たりにある窓からは辛うじてある程度の見晴らしが良く、建物の隙間からコンビニの駐車場を覗き見ることが出来る。
 千秋はコンビニから一番遠く離れた駐車スペースに昨日目にした黒いワゴン車が停まっているのを確認して息を呑んだ。
「反対側の通りには昨日見た顔が数人ぶらついていたけどな。奴等、下校途中に手を出してこないにしても、きっと本家までついて来るだろうね」
 窓の外へ目を向けたまま彫像の様に固まっている千秋の背に、冬峰は他人事のようにのんびりと言葉を掛けた。
「じゃあ警察に連絡して」
「一時的に退くだけで、また集まってくるんじゃないかな。それになぁ……。」
 冬峰はうーんと腕組みをして宙を仰いだ。今朝の半魚人を思い出したのだ。あれを警察が相手に出来るとは思えなかった。
「なによ。」
「いや、大したことじゃないよ」
 冬峰にしては珍しく、何かを言いよどんでいるようだったので千秋は眉を顰めたが、冬峰が何を言おうとして口をつぐんだかは想像できず大きく溜息を吐いて肩を竦めた。
「それで、どうするのよ」
「どうしよう。」
 千秋が眉を吊り上げ何か言おうと口を開く前に、冬峰は更に言葉を続けた。その意見は千秋にとって予想だにしなかったものだった。
すなわち、
「彼奴らが諦めるまで、学校に篭城するってのはどうかな?」

               4

 紺背広は腕時計を覗き込み時間を確認した。
午後八時三十分。既に学生の姿は通りから消え、このコンビニの駐車場から見える校舎も黒い塔と化しており、校舎内に学生の残っている様子も無い。本来なら目標の女生徒は駐車場前のバス停から下宿先の数メートル手前までバスで移動する。下宿先を見張る部下に連絡を取るとまだ帰っていないと報告があり、学校を囲む路地のひとつひとつに部下を張り込ませているが、何処からも彼女を見かけたという報告はあがっていない。
 となると消去法の結果、女生徒はこちらの待ち伏せに気づいて校舎内に篭っているか、我々の知らない方法で校舎を出て、別の下宿先に泊まっているかだ。紺背広は前者と判断して携帯電話で部下に校内へ侵入するよう連絡を取った。懸念は昨晩、目標の拉致を妨害した小僧がこの学校の生徒ということだが、部下には念のため銃を携行させているうえ、二人は〈深きものども〉である。あの程度の敵なら骨も残さず始末できるだろう。もうひとつ、アンドリュー・フェランもおそらく目標を見張っているだろうが、そちらは〈不死の指導者〉が相手をすることになっている。
 紺背広は背後の闇色のワゴン車を振り返った。その瞳の奥に怯えがあるのは、今度失敗すれば彼に命はないと〈不死の指導者〉に宣告された為だった。
 窓ガラスから車内を覗こうとも黒いスモークガラスで遮られ、車内は闇の住人が搭乗するに相応しい雰囲気が立ち込めていた。ハンドルを任された男はこの組織の古参の一人だが、何かに怯えるかのようにひっきりなしに垂れる汗をぬぐいながらバックミラーへ目をやった。後部座席に腰掛けた仮面の大男は男が知る限り三時間以上も身じろぎひとつせず虚空を見つめている。この仮面については紺背広からくれぐれも失礼の無い様にと釘を刺されているが、男が仮面について知っていることは彼が不死の指導者として恐れ敬われている事ぐらいである。
 ふと仮面が外の見えない窓ガラスへ目をやり何かを呟いた。男には聞こえなかったが、彼はこう呟いたのである。
「なかなか手強い」

 校門を乗り越え校庭へ十五人ほどの男達が侵入した。外見は背広姿やジーンズ姿のごく普通の一般市民に見えるが、会話も交わさず無表情に校庭を横切る姿は、魂を失った哀れな亡者が行進するように見えてどこか不気味だった。
「団体さんのお着き」
「何よそれ。それに屋上にテントなんか立てて何考えてるの」
「勿論、籠城を決め込んだ持久戦さ」
 屋上で校庭を見下ろしながら面倒臭そうに棒読みで呟く冬峰に、千秋はコイツは馬鹿かといった表情で睨み付けた。こんな事態に陥っているのに何言っているんだろう。
「それでどうするのよ。一晩中、あいつらが上って来ません様にって祈っているの?」
 屋上はまだ寒いんだからと愚痴る千秋を尻目に、冬峰はボストンバッグから長めの棒、いや反った形状の鞘付きの刀、日本刀を取り出した。刀は普通刃渡りは約七〇センチ、二尺以上であるのに対し、それは脇差の一尺、およそ三〇センチより長く、刀より僅かに短い約五十センチの刃渡りを持った長脇差、または小太刀と呼ばれる物だった。幕末では長くて室内の斬り合いに適さない刀より、この小太刀を好んで用いる者も多かったらしい。
「神頼みは性に合わないんだよね。あ、これ千秋持っといて」
冬峰は更にボストンバッグから中型の拳銃を取り出して千秋に押し付けた。その拳銃はプラスチックの地肌をしており、凹凸の少ないシンプルな外観をしていた。
「この拳銃はグロック19といって、プラスチックを多用したとても扱いやすい拳銃なんだ。撃つときはこのスライドを引いて弾を込め……」
冬峰は持ち手の上に付いた四角いパーツを手前に引いた。中央に開けられた穴から金色の弾丸が覘く。

Re: 天門町奇譚 ( No.10 )
日時: 2020/07/19 15:57
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「後は引き金を引くだけで弾は出る。十五発撃つと弾切れになるから、その場合はこの横の突起を押して弾倉を落とし、代わりの弾倉を入れる」
 ひと通り操作の手順を説明してから、冬峰はグロックを手にしたまま目を白黒させている千秋に、珍しく真剣な表情で念を押すように強い口調で言葉を続けた。
「くれぐれも言っておくけど、もし危なくなったら躊躇しないで相手のお腹を撃つ事。相手の命とか考える程、僕等に余裕は無いからね」
 気圧されて頷いた千秋に予備の弾倉二本を渡して、冬峰はよいしょと声を掛けて立ち上がった。
「一寸、降りて片付けて来ますんで。危なかったら携帯に電話するよ」
 長脇差の鞘を左手に冬峰は階段を下りていくが、猫背でいかにも「面倒臭いんです」と言ったような雰囲気を纏っているので、千秋は今ひとつ、この少年が頼りになるとは信じられなかった。
「大丈夫なのかな。ホント」
溜息をついても事態は好転する訳無いので、千秋は屋上から校庭を見下ろした。ただ頼りにならない風情の従弟を待つしかないのだから。

 学校の敷地内に侵入した〈K〉の信者の内校舎の生徒用昇降口前に集合した〈K〉の信者たちは一〇人、他の者達は五人ずつのグループに分かれ、それぞれ職員用昇降口や非常口からの校舎内へ侵入する手筈となっている。
「やれ」
 昇降口の入口は最近の治安状態を反映してか鍵以外に大きな南京錠が掛けられている為、彼らは力ずくで扉を開けようと(深きものども)の二人に声を掛けた。
 のっそりと男達の中から黒いコートに帽子を目深に被った二人組が前に出て、昇降口の手前二メートルの位置まで近付いた。その前屈した姿勢と大きめの衣服を着用している様は、冬峰が雑木林で遭遇した半魚人と酷似していた。
 しかし、彼等はふと昇降口の扉へ目をやったきりピタリと動きを止める。唐突に歩みを止めた彼等の背後から覗き込んだ信者達は、その原因を見つけると皆が忌々しそうに唇を歪めた。
「旧神の印か。アンドリュー・フェランがいるのか」
 それは千秋と冬峰が襲われた晩、フェランから受け取った者と同じ五芒星が刻み込まれたお守りの石だった。それが等間隔で昇降口昇降口の前の床に置かれていた。二人組みが低く呻いたきり近づかないことからフェランの言ったとおりの効果があるようだ。
「は……やく、取り……除け」
 途切れ途切れに二人組が聴き取り難い性能の悪いスピーカーを通したような声で命令すると、男達の中から馬面の男が昇降口の前に近づいて身をかがめた。他の者達は拳銃や、ナイフ、伸縮警棒を抜き周囲を見回している。どうやらフェランが居ないかどうか確かめているらしい。
「水?」
馬面は昇降口の内側から五芒星のお守りまで、水溜りが出来ているのを目にして首を捻った。雨など今日は降らなかったはずだが。と思いながらお守りを拾おうと手を伸ばす。
「がああああっ!」
 男達は馬面がいきなり立ち上がり背後にはじけ飛ばされるのを目撃した。
「何事だ」
 痙攣する馬面の髪は逆立ち、眼球が血走っていることから毛細血管も切れているかもしてない。息はしており命には別状無さそうだが、何が原因でこうなったのか判断が付かなかった。
 不意に責任者らしい黒背広の携帯電話の呼び出し音が鳴り、黒背広は苛立たしげに携帯電話を耳に当てた。一言、二言、応対していたが「何だと!」と声を荒げる。
「すべての出入り口に電気が流されているだと」
職員用出入り口はガラス張りの為、かろうじて内部の様子が確認出来たので、床に撒かれた水と垂れ下がった電線が確認できたらしい。
「仕方ない、一階の窓を割って中に入れ。ただし何が仕掛けてあるか分からんから気を付けろ。」
 窓から一階の職員室に侵入した男達は室内が思った以上に暗く、室内灯のスイッチが扉の横にしか無い為、懐中電灯の小さな光を頼りに職員室を横断するしかなかった。案の定、引き戸の上部に手榴弾とワイヤーを組み合わせた罠を発見したとき男達は安堵の吐息をついた。
 罠自体は引き戸を開くと、戸に固定されたワイヤーが枠に固定された手榴弾の安全ピンを抜き爆発させる単純な仕掛けであり、ワイヤーを切断するだけで罠の解除は終了した。
「ちっ、あといくつこんな罠があるんだよ。」
 毒づきながら引き戸を開けた目の隅に、室内同様の罠が引き戸の廊下側の下部にも仕掛けてあるのが目に入った。ピンが既に引き抜かれた状態であり、あと数瞬で爆発するであろう。
「馬鹿な!」
 爆風にまとめて四人が吹き飛ばされる。爆発は小規模であり、どうやら火薬の量を減らしているようで男達を動けなくすることが目的のようだ。
 校舎の外に居る黒服の携帯電話には、次々と校舎内の惨状が報告されてきた。保健室のベットが爆発して飛んできたとか、校長室では鎧武者の置物の中から無数の鉄球が飛んできたとか、用具室では昔のアクション映画のように、ゴムチューブで引っ張られた釘を打ちつけられた板が太腿に突き刺さったとか。その度に黒背広の顔色は青くなったり白くなったり、目まぐるしく変化した。
「くそっ、ガキ共一人すら捕らえられんとは。我々も行くぞ」
 外に居残った男達四人を引き連れて、黒背広は一階の職員室の窓から校内へと侵入した。職員室内は爆風の影響か、爆発した引き戸の傍の机が倒れ、その中に〈K〉の教団員が二人埋まっていた。また書類や本が散らかっており、明日教師たちが登校すればてんやわんやの騒ぎになるに違いない。
 廊下に出ると更に二人が倒れており、その姿は追い剥ぎにでも遭ったかのように衣服も毟れ、顔も擦傷だらけになっていた。
「役立たずが。おい、むやみに室内に入るなよ。ガラスを割って中を確認しろ。まずフェランを探せ。その次にガキ共だ」
 黒背広は拳銃、その他の男達も特殊警棒やらナイフ等を取り出し歩き出す。1階は主に保健室や校長室等の特別教室だが、どの教室も窓ガラスを割らずとも中を覗き込める状態になっており、教団員が数人倒れて呻いていた。
「これ、俺達がやったことになるのか」
 室内の荒れ具合に、まだ若い教団員がふと呟いた。が、それが黒背広のささくれ立った神経を逆撫でしたらしく、彼は振り向いて怒鳴り声を上げた。
「詰らん事を考えるな! ……お前いつから!」
 他の男達も慌てて振り向く中、ブレザーの学生服を着た少年は、どうも、と頭を下げた。
「いや、いつ気付くかなって、おっと」
 最後尾にいた先程怒鳴られた教団員が特殊警棒を振り下ろしてくるのを、冬峰は左手に長脇差の鞘を逆手に握り柄で受け止めた。間髪入れず若い教団員の股間に鞘を差し入れ捻って倒す。
「つっ」
 倒された教団員は仰向けに倒れた自分に向かって、刀の鞘が突き立てられる光景を目にした後、喉に痛みを覚え悶絶した。
「野郎!」
 冬峰に先程倒された若者の後ろにいた男がナイフを突き出すが、冬峰は右足を斜め前に踏み出して身体を傾け、左頬すれすれに刃を交わしながら長脇差を右手で抜き放った。銀光が男の右肩に走り切り裂く。更にその抜き放った勢いを殺さず左の回し蹴りをこめかみに叩き込んだ。
吹き飛ぶ二人目の男には目もくれず、冬峰は三人目に向かった。三人目の得物もナイフだが、それを振るう間も無く脇腹に峰打ちを受けて倒れる。四人目は警棒を振るおうとしたところへ、右下腕の内側を切られ警棒を取り落とした。更に首筋へ峰打ちを叩き込まれる。
「な、何だ、お前は」
 黒背広は一瞬の内に四人の男を戦闘不能にした少年に恐怖を覚え拳銃を向けた。当の本人は「えっと、高学生だけど」とピントのずれた答えを返し平然としている。黒背広にはその少年の態度が酷く気味が悪く、忍耐の限界を超えてしまった。
「ふ、ふざけるな、死ね!」
 続けざまに放たれる銃弾を、冬峰はスピードスケートの選手のように身を低くして、黒背広との距離を詰めながらかわした。拳銃は近距離用の武器だが、動いてる標的にはそうそう当たるモノではない。冬峰の動きはそう物語っていた。
 右袈裟の一閃に右手人差し指から小指までの四本を切断し、黒背広の脇を通り抜けざま、左足を軸に半回転して更に両脹脛を一太刀でやや深めに切った。
「うがあ!」
悲鳴を上げてうつ伏せに倒れる黒背広の首筋に、冬峰は刃を押し当てる。その冷たい感触に男はぎょっと硬直し息を呑んだ。
「あんたが偉そうなんだけど、ひょっとして責任者?」
冬峰の問い掛けに黒背広は刃を動かさないように頷いた。
「誰も死んでないから安心していいよ。校舎内で死なれると大騒ぎになるしね。で、相談なんだけど表の厄介な二人、何とかならないかな。」
 まるで「百円貸して」とでも言うような気楽な物言いに、黒背広は冬峰の顔を「馬鹿かお前は」とでも言うような嘲笑を含んだ視線で見返した。
「それは無理だな。あいつ等〈深きものども〉は〈父なるダゴン〉と〈母なるヒュドラ〉、それに〈不死の指導者〉の命令しか聞かん。我々の指示に従っているのも、〈不死の指導者〉よりそのように下知されてるからだ。」
 そっか、それは残念と冬峰は呟いて峰打ちで黒背広を昏倒させた。人間達は後で警察にでも電話して引き取ってもらうとして、問題は表の二人組みをどうやって撃退するかだ。このままでも誰かの置いた五芒星のお守りの効果で校内に入って来れずひとまず安全と思われるが、警察の手に負えるような相手とも思えず、彼らが人目を忍んで明日の登校時間までに帰ってくれることを期待するしか手は無いのだろうか。
 腕組みをして、う~んと考え込んでいる冬峰の背後にある校長室のドアから、茶色のコートを着た人影が足音を殺して忍び寄って来た。冬峰は気付いた様子も無く一人で何かをブツブツと呟いている。
 人影の右手がコートの左脇に差し込まれ、肩から吊るされた散弾銃の銃床ストックを握った。それと同時に冬峰の右手が若鮎の如く跳ね上がり、小太刀の刀身を背後の人影の首筋に突きつける。
「またあんたか。正義の味方だかフリーのジャーナリストだか知らないが、御苦労な事だな。それに建物の出入口は蛍光灯から電線を伸ばした上、床を濡らして近付けば感電するように罠を仕掛け、窓から室内に入れば爆発物が巧妙に仕掛けてある。漸くそれを乗り越えるとあんたが待ち構えているわけだ。ジャーナリストに必要な技術とは思えないけど?」
「昔、爆破マニアの教授の下でこき使われていてね。罠の仕掛け方については年季が入っているのさ」
 自慢するように腕組みをするフェランだが、冬峰はそれに取り合わず鞘を拾い刀を納めてから生徒用昇降口に向かって歩き出した。
 暫く歩いてから冬峰は振り返って、フェランがコートの下に吊った散弾銃を指差した。
「なあ、それ表の二人に効果あるの?」
 フェランはどこか意地悪そうな笑みを浮かべながら一言、
「秘密ーっ」
 冬峰とフェランは暫く見詰め合ったが、冬峰の左の親指が長脇差の鍔を押し上げる、すなわち鯉口を切るのを目にして慌てて口を開いた。
「まあ、待て。効果が有る事は有るが、結構時間が掛かる。あいつ等の鱗と筋肉は非常に丈夫でな、破ろうとすると軍用のライフルを持ってこないと効果が無いんだ。しかも生命力が強い。あいつ等を確実に殺そうとするなら強力な火勢で焼き尽くすか、身体をばらばらにするに限る。」
「やっぱり、良い板前と料理人が必要って事か。でもムニエルと刺身にしても、きっと美味しくないだろうな。」
 今朝、その生命力の強い生物を刺身にした少年の呟きに、フェランは「日本人の食生活は理解しかねるね。」と呟いた。どうやら冗談と思ってないらしい。
「私としては厄介な奴が来る前に、裏口からこっそりと逃げる事をお勧めするね。あの石も万能じゃないからね。」
 フェランの意見を聞いているのかいないのか、冬峰は生徒用昇降口のガラス戸の向こうにいる黒コートの二人組を暫く眺めてから、ポツリと一言だけ呟いた。
「任せた」
「ちょっと待て!」
 さっさと踵を返し校舎内に歩み去ろうとする冬峰の背に、フェランは慌てて呼び止めようとするが、不意に校庭から響いてきたエンジン音を耳にして振り返った。
 校庭から見覚えのある闇が結晶したかの様な黒いワゴン車が、スピードを落とさず猪のごとく昇降口に突っ込んで来た。黒コートの二人組が外見とは裏腹に機敏な動作で左右に分かれ黒ワゴン車をやり過ごす。
「クリスティーンじゃないぞ!」
一言叫んでその場に伏せたフェランの背に扉のガラス戸の破片が降りかかる。ワゴン車は七人乗りの車体前半分を靴箱前の靴脱ぎ場に突っ込み、エンジンを停止させた。運転席の男は
伏せたフェランを見るなりワゴン車から身を乗り出し拳銃を抜こうとするが、その右肩に刃渡り八センチ程の両刃の投げナイフが突き刺さり悲鳴を上げさせた。
 のけぞってワゴン車から地面に倒れた運転手の背に革靴を履いた右足が乗せられ、次の瞬間鈍い音を立てて彼の背骨は粉砕された。大量の血を口から吐いて運転手が絶命する。運転手を踏み潰した人影は昨晩、冬峰と千秋の前に現れた灰色の長い髪に石仮面を被った大男だった。
「くそ、奴が来たか」
 フェランは立ち上がり腰だめに構えた。しかし前回二発の散弾を撃ち込んでおり、この武器が石仮面に通用するとはフェランも信じてはいなかった。さらに屋外からひしゃげた引き戸を踏み締め、黒コートの二人組がのっそりと昇降口に現れたのを目にしてフェランの口許から何時もの皮肉めいた笑みが消えた。
 黒コートの二人組が石仮面より前に乗り出すと同時に身体が二廻りほど膨らんだ。天を仰いだ顔の凹凸が少なくなり、眼球がせり出す。コートの下から鱗に覆われた四肢が現れる。手足の付いた古代魚のような〈深きものども〉の正体をさらけ出し大きく咆哮した。
 変身が終了するのを待たず、フェランは散弾銃の引き金を引いた。銃口から廊下中に響き渡る轟音と共に、左側の深きものどもにまず一発浴びせたたらを踏ませる。シャコッツとフォアエンドを前後させて次弾を薬室に装填、続けざまに散弾を撃ち込んだ。
「ガッツ、ゲハッツ」
 くぐもった声を上げて、深きものどもは二歩ほどのけぞって後退した。
二匹に各二発ずつ、計四発を打ち尽くしたが結果は鱗の表面にヒビを入れた程度であり、深きものどもは何の痛痒も感じていないようにゆっくりとフェランに迫ってきた。
 フェランは後退りながらコートのポケットから鹿撃ち用の一発弾スラッグを取り出し散弾銃に装填する。通常散弾銃の弾はシェルショットと呼ばれる筒の中に数発の細かい弾が入っており、発射後拡散されることにより、点より面の攻撃で敵を圧倒する。一対多数の戦いで効果を発揮するが、欠点は一発あたりの口径が小さく貫通力の乏しい事だ。その点スラッグ弾はシェルショットに一発だけ口径の大きな弾が入っており、その貫通力はライフルに匹敵する。しかし、フェランの散弾銃は全長を短く切り詰めており、最大四発までしか装填出来ない。これでは例え運よく一匹倒せても、弾を装填している最中にもう一匹に殺されるのがオチである。
「やれやれ、後ろ盾が使えないのは痛いねえ」
 命の遣り取りに慣れているのか、それとも生き死にについて達観しているのか、飄々と毒づいて散弾銃を構えるフェランの襟首を背後から伸びた手が掴み引っ張った。
「ぐえっ」
「逃げるよ」
 フェランは冬峰に引き摺られながらも、右手に持った大きめのテレビのリモコンを昇降口に向けボタンを押した。深きものどもの右隣の靴箱の足下で爆発が起こり、彼らに向かって倒掛かってくる。更に左隣の靴箱も覆い被さる様に倒れてきて深きものどもと石仮面を下敷きにした。靴箱は高さ一メートル八十センチ、幅三メートル程ありしっかりとした造りをしている。それが二つ重なればかなりの重量と衝撃になるだろう。
 フェランは更に昇降口の両隣にある靴箱も倒し、それがドミノ倒しの様に昇降口の中央に向かって倒れこんでいくのを目にした冬峰は憮然とした表情をフェランに向ける。
「散らばった靴は後で拾っておくように」
 フェランはすべての靴箱を倒し終わると、リモコンをコートのポケットに突っ込み、踵を返して廊下の反対側にある階段に向けて走り出した。
「言っておくが、あの程度で奴等は死なないぞ」
「期待はしてないよ」
 平然とした冬峰の答えにフェランは苦笑を浮かべた。先程見せた投げナイフの腕といい、どう考えても普通の少年ではない。ひょっとしたら自分より危険な場数を踏んでるかもしれない。
「なあ、君はいったい何処でその技術を」
 階段の一段目に片足を乗せてフェランが先を行く少年の背中に問いかけた時、生徒用昇降口から轟音と共に靴箱が廊下を横断して壁に叩き付けられた。四散した靴箱を踏みしめ深きものどもが廊下に姿を現す。
「早く、四階まで上がれ!」
 深きものどもヘ向け散弾銃を構えながら放ったフェランの指示に従い、冬峰は階段を一段とばしで駆け上がる。フェランも後に続き二階を通り過ぎ三階の手前にある階段の折り返しに着いた時、階段の手すりとの隙間から一階の階段の半ばまで深きものどもが上っているのを目にした。彼等は四つん這いとなり、冬峰達より早いスピードで駆け上がって来る。

Re: 天門町奇譚 ( No.11 )
日時: 2020/07/19 16:08
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「?」
 姿の見えない石仮面を気にしつつ三階から四階に続く階段を上り始めたとき、頭上から足音が響き千秋が姿を現した。そのフレームの細い眼鏡の奥の瞳が不安そうに潤んでいるのは、一人取り残されていたことが心細かった為であろうか。
「何かあったの! 下から爆発音が聞こえてくるし。大丈夫なの?」
「降りてくるな。屋上で隠れていろ」
 冬峰は千秋の隣に並び左肩を掴んで押しやったが、千秋は動かず訝しげな視線を階下の外国人に向けた。フェランは笑顔を浮かべて手を振るが、千秋は更に眉を顰めて「何でこの人が居るの?」と呟き警戒を緩めてはくれなかった。
 冬峰はふうっと仕方無さそうにため息を付いてから、
「ただの銃刀法違反者で、二十歳以下の日本人女性が好みで今は珍しくなったブルマー姿を撮影して回る、自称ジャーナリストだ」
と説明した。
「それは酷い」
「嘘ね。」
 冬峰の説明を一言で切り捨て、で、とフェランに視線で説明を促した。
「前に話したことが全てなんだがね。ただ、今回は〈不死の指導者〉まで顔を出している。普通、奴の様な大物は旧支配者が直接係わる企て事にしか姿を現さなくてね、今回君達の狙われる理由というものが何なのか、それを聞かせてほしい。」
 四階に到着し、フェランは四回の踊り場に置かれた、やや大きめの弁当箱サイズの銀色の箱の前に跪いた。箱の表面には小さいスイッチが四つ横並びに取り付けてあり、箱の一方からコードが四本、階段を伝って階下に延びている。
「何よ、これ」
 千秋が覗き込んだとき、三階と四階を繋ぐ踊り場で何か重いものが落ちる音がした。冬峰、千秋、フェランの三人が揃って其方へ視線を向けると、そこには闇よりも暗いマントコートと、泣き笑いのような表情を浮かべたかのように見える石仮面を被った長身の影が三人を見上げていた。
 フェランの耳には階段を駆け上る足跡は聞こえず、石仮面は階下で待機しているものと思っていたが、どうやら階段を飛び越えて来たらしい。
 更に階下からせわしない獣が駆け上ってくる足音を耳にしてフェランは歯噛みした。どうこの二人を逃がすか。彼はポケットの中にある二つの切り札、黄金の蜂蜜酒と石笛を握り締めた。助けは来ないかもしれない。しかし次の手の効果が無ければ、この場を切り抜けるにはこれしかない。
「耳、塞いでろ」
 フェランはそれだけ言って、素早く銀色の箱のスイッチを押していった。冬峰と千秋が両手で耳を塞ぐのと同時に地面が大きく揺れる。
 四階手前の踊り場から冬峰達の手前まで跳躍しようとした石仮面がバランスを崩し片膝を着く。その足下が凄まじい勢いで蜘蛛の巣の様な罅が入り崩れて行き、四階に続く階段も下から階下に落下する。
「ちょっと、何よこれ!」
 校舎を揺るがす震動に尻餅を着いて、千秋は先程と同じ疑問を叫んだ。「パンツ、見えてるよ」と呟いた冬峰の声も聞こえていない様だ。
 ぐっつと石仮面の下肢に力が籠められ、次の瞬間爆発するような勢いで伸び上がり、僅かな足場を蹴って跳躍する。
「おっつ」
 石仮面の右手が階段の残骸に掛かり、更に力が籠められ石仮面の上半身が四階までに乗り上げようとした。冬峰はブレザーの内ポケットから両刃の投げナイフを取り出し投擲しようとするが、それより先に脇より伸びた散弾銃の銃口から轟音が響き石仮面の右肩から先を吹き飛ばし階下に落下させる。
「危ない、危ない」
 フェランはフォアエンドを前後させ次弾を装填すると、コートのポケットからもう一発取り出して装填した。冬峰はテクテクと崩れた階段の縁まで歩き下を覗き込む。
「奴はどうなったかな」
「PE4、一〇キログラムはやり過ぎだったかな」
 冬峰と同じように階下を覗き込んでフェランはボソボソと呟いた。
 一階から四階迄の階段は跡形も無く崩れ、一階の床も陥没し瓦礫が散乱している。もし階段を移動中のものがいれば落下する瓦礫に潰されるか、高所から既に落下した瓦礫に叩き付けられるか、いずれにしても致命的なダメージを受けているに違いない。
「どうするの、これから?」
「奴等の生死を確かめてくる。どうにか逃げれそうだったら携帯に連絡する」
 渡り廊下に向けて歩き出した冬峰の背へ「私も行くよ」とフェランが声を掛け後を追った。後に残された千秋は二人の背を暫く見送った後、溜息を吐いて廊下に座り込んだ。体育座りにして自分の膝を抱え込む。まだ自分の膝は震えていた。怖かったのだ、下から響く爆音と、石仮面の視線。冬峰とフェランの二人が居なければ自分はどうなっていたか、千秋は自分の考えが甘かった事を思い知った。
 そして彼女を守る冬峰についても、千秋は戸惑っていた。学校やバイト中はいつも眠たそうにして、口数が少なく喜怒哀楽にしてもあまり顔に表さない掴み所の無い茫洋とした雰囲気の従弟だった。こんな荒事とは無縁の人間だと思っていたが、今の冬峰は態度こそいつもと変わりないものの、どこと無く水を得た魚のように見えるのは気のせいだろうか。だから、怖いのだ。冬峰の眼の奥にある冷たい何かが見えそうで怖いのだ。そう、冬峰がまだ小さい時、彼は御門家の中でも忌み嫌われていた。その理由が今夜の冬峰と関係が有りそうで怖いのだ。
 冬峰とフェランは一旦中央校舎に移動してから一階に下り、渡り廊下を使い再び東校舎に戻った。東校舎の一階の惨状は目に余るものがあり、窓ガラスはすべて割れ、靴箱は倒壊し、天井には罅まで入っている。おまけに教室や廊下には男達が横たわり、何やらうんうんと唸っている。一番酷い状態なのは階段で、上に続く足掛けは既に無く一階から四階まで吹き抜けになっている。冬峰は瓦礫の堆積する一階の元階段周辺を細い懐中電灯の明かりを頼りに何かを探していたが、フェランの方が先に見付けたらしく散弾銃を構えて用心しながらそれに近付いていった。「これで一匹片付いたな」
 フェランは鉤爪と水掻きの付いた手のみ突き出た瓦礫の堆積を満足そうに眺めた。その下から青黒い生臭い匂いのする液体が染み出ているが、おそらく彼らの体液だろう。
「おっさん、こっち」
 おっさんとの意味も分からず振り向いたフェランは、冬峰が指差す方向を見て顔を顰めた。その方向には階段の手すりが腹に突き刺さり、それを抜こうともがく(深きものども)の姿があった。冬峰たちに気付くと爪を振るいその首を薙ぎ払おうとするが、二人とも届かない位置から近づこうともしない。
「ま、運が悪かったと諦めて」
 呟いてフェランは散弾銃の引金を引いた。銃口から放たれた一発弾は(深きものども)の右目を潰し、後頭部から脳を噴出させた。
「ガ、ガガ」
 それでもまだ動ける深きものどもの頭部へ三発の一発弾スラッグを叩き込み、漸く大人しくさせた。深きものどもの頭部は跡形も無く吹き飛び、胴体が痙攣するばかりだ。
「動物愛護協会から苦情が来ないかな」
 冬峰が背後でさして心配するようでもなく他人事の様に呟くのに対し、フェランは一応、数パーセントは人間なんだがと混ぜっ返した。
「奴等は人間との交配を好み、生まれた子供は最初のうち人間に見えるが、年を重ねるにつれ体格は両生類のような外見に変貌する。最後には半魚人となって深海にすむ同族と生活するようになるんだが、稀に人間の形態と半魚人の形態を切り替えられる血の薄い奴等もいる。こいつ等は[K]の組織でも重宝され、世界各地へ工作員として潜入しているんだ」
 フェランの説明を聞いているのかいないのか、冬峰は「ふーん。」と気のない返事をして辺りを見回した。懐中電灯の光が目的のものを照らしだす。
「いたいた。」
 冬峰は二階近くまで瓦礫が堆積している小山の頂上を懐中電灯で照らした。そこは階段が繋がった状態で斜めに突き刺さっており、まるで墓標の様であった。その墓標に引っ掛かるようにして倒れている石仮面が光の中に浮き上がる。
 仰向けに倒れた石仮面の下半身は無くなっている。どうやら落下した折、瓦礫の尖った部分に下半身が突き刺さりそのまま千切れたのではないだろうか。腰は無残な断面を覗かせており、人とは異なる緑色の液体を滴らしていた。
「一件落着」
「どうだろうな」
 冬峰が石仮面を見上げて満足そうに呟くが、隣に立つフェランは石仮面を睨み付け警戒したように散弾銃を向ける。一語一語区言い聞かせるように言葉を続ける。
「奴は〈不死の指導者〉。この程度で天に召されはしない」
 フェランの言葉が終ると同時に、石仮面が腕を振って反動を付けうつ伏せとなった。腕立て伏せをする様に両手を突き、瓦礫の上から冬峰達を見下ろす。その仮面に開けられた目と口の穴から、瘴気を含んだ地獄の風が吹いてきそうで冬峰は一歩後ずさった。
 石仮面の胴体の断面から毀れた緑色の液体は泡立つ程吹き出ており、スポンジの様に震え硬化していく。
「あれ、まさか生えてるのか」
 冬峰の指摘にフェランは頷いた。うわーっと冬峰が嫌そうな顔をする。
「一度、給油車と壁の間に奴を挟みこんで、手榴弾で吹き飛ばした事もあった。次の日襲ってきたときは五体満足だったよ」
「殺す方法は?」
「あればとっくに殺しているよ。奴は地球に降りてきた〈大いなるK〉から知識と力を与えられた代理人。易々と滅ぼせる相手ではない」
 石仮面の下半身は既に脹脛までが出来ており、足首の様な形のスポンジがその先に泡立っていた。立ち上がり降りてくるまで、そう時間は掛からないだろう。
「君は逃げろ。早く!」
 フェランは冬峰を背後に押しやり散弾銃を発砲した。石仮面の肩の肉をごっそりと持っていくが、たちまち傷口から緑色の泡が吹き出し傷を塞いでしまう。
「刀一本でどうこう出来る相手ではない。彼女を連れて逃げろ。それぐらいの時間は稼いでやる」
 石仮面が立ち上がりフェランに向かって跳躍する。黒いコートが魔鳥の翼のように広がり、それが石仮面を死神のように見せていた。
 フェランは石仮面が空中にいる間に一発、着地してからもう一発、一発弾を撃ち込んだが、石仮面は平然と拳を振り上げフェランに向けて右ストレートを放った。テクニックも何も無い力任せの一撃だったが、フェランは咄嗟に盾として拳を受け止めた散弾銃ごと背後に吹き飛ばされ背中から校舎の壁に激突する。倒れたフェランの右手から銃身の折れ曲がった散弾銃が放れた。
「に……げろ……」
 背中を壁にぶつけ、立ち上がれなくなったフェランが咳き込みながら冬峰を促したが、冬峰は左手に握った長脇差の柄に手を掛けゆっくりと刀身を抜き出した。左足を前に出し右足を曲げ、顔の右横まで柄を上げ刀の切っ先を石仮面に向ける体勢の低い変わった構えを取る。
 石仮面はその構えに対して警戒した様子も無く冬峰の手前一メートル半まで近付いた。ただ歩いているだけであるがその歩幅が広い為、常人の早駆けに匹敵するスピードで肉迫する。
 ボッツと空気が鳴り、石仮面から前蹴りが放たれた。神速の槍のごとく顔面めがけて突き出された足先を、冬峰は更に右膝を深く曲げ上体を前屈させてやり過ごす。頭上すれすれを通過した蹴りに冬峰の髪が逆立つ。
 冬峰は蹴りの引き戻しに合わせてその変則的な構えのまま滑るように距離を詰めた。伸ばされた冬峰の左爪先が石仮面の踏み出された足に触れるぐらいの位置で右膝を伸ばし左膝を前屈させる。冬峰の右頬に構えられた長脇差の刀身が突き上げるように石仮面の鳩尾に吸い込まれた。その一連の動作はフェランの目には瞬間移動したようにし見えず、気が付けば石仮面の背から刀の切っ先が覗き、すぐさま滑るように後方に下がり最初の構えを取っている冬峰がいた。
 最初に冬峰が取った構え「低看刀勢」から突きを放つ前の構え「右低膝刀勢」、そして突きへ繋がる一連の動作は日本剣術の古流剣術にも存在するが、冬峰の習ったものは「倭刀術」と呼ばれる、十四世紀後半に日本海で猛威を振るった海賊「倭寇わこう」に所属していた武士団が、中国「明」の武術家劉雲峰りゅううんぽうに伝えた日本刀術である。「倭寇」は日本各地の食い詰めた武士が徒党を組んだ武装集団であり、その刀術も現代剣道では滅多に見られない古流刀法が集まり実践を経て完成されたものだった。
 冬峰は「倭刀術」に彼自身が学んだ剣術を組み込み、刀法の幅を広げている。先達て〈K〉教団員からの特殊警棒の一撃を長脇差の柄で防いで倒した一連の技は、古伝園心流の「空付」の変形である。
 しかしいくら剣術の腕が立とうが石仮面には驚異的な再生機能があり、冬峰の突き通した刀傷は既に塞がっているのか一瞬吹き出た緑色の液体は石仮面の背中には見られなかった。彼に致命的な一撃を加えることは不可能だとフェランは歯噛みし、何とか立ち上がろうとしたが腰に激痛が走り足に力が入らない。
 石仮面は表情こそ変わらないものの、「切ってみろ」とでも言うかのようにゆっくりと冬峰に歩み寄り左手を振り上げる。緩やかに相手を絶望を味わうかのように頭上に上げられた拳を振り下ろすとき、これまでと同じ様に彼の敵は絶命する。
 冬峰はその振り上げられた拳を静かに見つめていた。既に死の覚悟を決めているのか、それともそれすら面倒臭いのか彼の表情から恐怖と絶望は感じ取れなかった。
 フェランはコートのポケットから掌サイズのフラスコを取り出し親指で蓋をひねった。時間が無い、これしか方法は無い。フラスコの中の黄金の蜂蜜酒を一滴口にしようと眼前まで持っていくが、その刹那、石仮面の拳が無慈悲な判決を言い渡す裁判官の木槌のごとく振り下ろされる。
 フェランの脳裏には頭を砕かれ崩れ落ちる冬峰の姿が浮かび、彼は済まない、と心の中で呟き顔を伏せた。一九三八年、彼が希望の無い戦いに身を投じて五〇年以上、彼は何度もこの言葉を繰り返していた。エイベル・キーンを失ってから何度も慟哭したが、慣れる事はない。
 しかし、肉体を潰される嫌な響きも悲鳴も聞こえず、フェランは顔を上げ殺戮者と被害者に視線を移した。そこには拳を半ば振り下ろした状態で止めた石仮面と、構えを解かず一寸も動かない冬峰がいた。
「ぐ……」
 石仮面から苦痛を堪える声が漏れ、フェランは目を見張った。彼は石仮面の苦鳴を初めて聞いたのだ。
 石仮面の右掌が鳩尾に当てられ湿った音を立てた。それから石仮面はその掌を上に向け、静かに見つめる。その掌は緑色の液体に濡れて小刻みに震え、彼に鳩尾から背中にかけて通る激痛が本物であることを見せ付けた。
「オオオーッツ」
 己の不死身は破られた。その事実に激昂したか、石仮面は再び左拳を振り上げた。冬峰はその振り下ろされる鉄槌を、刀身に左手を添え刃を上に頭上に捧げ持つようにして鎬(しのぎ)で手首を弾き軌道を反らせ回避する。石仮面の左手が音を立てて通過した。
 冬峰はすかさず左手を柄に移し、振り下ろされた石仮面の左手に沿って刀身を滑らせ、石仮面の首筋を目がけて右脇から左上へ逆袈裟に斬り付けた。その一撃を石仮面は踏み込んだ右足で地面を蹴って、三メートル程背後に跳んで辛うじてかわしたが左首筋を浅く斬られ流血する。
 半身となり刀身を左手で支え頭上に掲げる、もしくは斜め上に立てる構えは「埋頭刀勢」といい、日本の古流刀術にも同様の構えがある。新陰流、香取神道流、力信流等に見られ、いずれも敵手の槍、もしくは刀を払い流し切先を返して切りつける事を目的とする。
「チッ」
 珍しく冬峰が舌打ちをした。内心、長脇差でなく刀ならば首を刎ねていたと残念がったが、当初の予定では教室内での奇襲による教団員の無力化を予定していた為、取り回しやすい長脇差の出番となった。ちなみにその他、ボストンバッグの中に入っていたものは「花」、これは拳銃の事で千秋の持っているグロックがそれに当たる。「種」これは弾丸でグロックの弾薬となる。
 石仮面は冬峰を睨みつけ左首筋の傷を右人差し指で拭い、冬峰に突き出した。そのまま空中に指先を走らせると其処にガラスがあるかのように、緑色の血で書かれた六角形の中心に翼の生えた蛸とも烏賊とも見える影の周囲を、珊瑚のような記号で囲んだ紋章が浮かび上がる。
「ルルイエの印の召還法。来るぞ」
 石仮面の背後にいるフェランの一言に注意を払う間も無く、何処からともなく臭気が溢れ出し、その魚の腐った様な匂いに冬峰は眉を顰める。
「ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるう、るるいえ、うがふなぐる、ふたぐん」
 石仮面が呪文を唱えると同時に水の溢れ出す音がして、廊下に水が流れ始めた。それは廊下の突き当たりのトイレの入口や、昇降口脇の手洗い場より流れてきており、瞬く間に冬峰の膝下まで水位を増していく。
「がぼごぼ、ぷはっつ」
 廊下の壁に凭れ込むように倒れていたフェランは、半ば溺れているようで慌てて手を突いて状態を起こした。その視線はW/Cと表示された入口に向けられており、顔色は僅かながら青ざめている。どうやら水を飲んでしまったようだ。冬峰の口が「ご愁傷様」と動くが、石仮面と自分の間の水面に何かが浮かんでくるのを見つけ、前に出した右膝を僅かに曲げ、上体を前屈させて両手で晴眼に構える「右低膝刀勢」の姿勢をとる。

Re: 天門町奇譚 ( No.12 )
日時: 2020/07/19 16:20
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 水面に五つ浮かんだそれは直径八〇センチ程の海月の笠のように半透明のぶよぶよとした物だったが、それがぐいっと持ち上がり大量の水を滴らせながら全身を現したとき、冬峰はそれが海月の様な生易しい物ではない事を思い知った。
 それは正しく異形と形容されるべきものであった。巨大な蛸が丸ごと引っ付いた様な頭部に西洋の竜を模した胴体をしたそれは、緑色をした半透明の鱗と皮膚の下の無数の虫を束ねた様な器官を蠢動しながら立ち上がり、二メートル半程の体躯を震わせ咆哮した。
 石仮面も本来なら人間相手に、しかも「魔術師メイガス」でも「守護者ガーディアン」でもない者にこの召還術を用いて相対する事は、己の生きていた長い年月の中でさえ無い事であった。この術は、我が主クトゥルーと同じ旧支配者であるハスターの代行者、「黄衣の王」との戦いにのみ使われており、彼の切り札であるといってもいい。
 しかし、この目の前の刀使い(ブレーダー)は彼の肉体を損傷してのけた。いったいどの様な秘技秘術を使いこの胸の傷を付けたのか、石仮面は冬峰を見返し、あることに気づいた。
 この者は恐怖していない。
 冬峰は五匹の「落とし子」を前に表情ひとつ変えず刀を構えている。普通の人間なら、旧支配者の眷属から放たれる「気」を浴びるだけで精神障害を起こし、混乱、悪くすれば発狂する事もある。だがこの少年は違う。石仮面には冬峰が人の外見をした人形のような得体の知れない存在に思え、逆に恐怖を覚えた。それを隠すかのように冬峰を指差し五匹の異形に指示を下す。
 五匹の「落し子」が冬峰に迫るより早く、彼は中央にいる一匹の前に滑り寄った。どの様な運足法を用いているのか、水飛沫は僅かにしか上がらず膝下まで水に使っているのに先程の間合いを詰めるスピードと変化は無く、あっさりと異形の懐に潜り込む。
 その一匹は大きく口を開け、口の周囲に生えた蛸の触腕のようなものを伸ばし冬峰を捉えようとする。巻き込んで曳きつけようとしたのだろうが、刀の一閃が振るわれ纏めて切断された。
 冬峰はその左脇を通り抜けざま水平に長脇差を振るって胴に斬り付け、更に振り返り右胴にも一閃する。そのまま背中を向けた別の一匹に近寄り、バックハンドに振るわれた鍵爪を僅かに仰け反ってかわす。肘から先を下から掬い上げる様に切り落とし、頭上で刀身を反転させ振り下ろした。頭の中程まで割られた異形は生命力が強いのか、無事な左腕を横薙ぎに払うが、それも切り落とされ袈裟懸けに胴体を斬られ動きを止めた。
 フェランにとって、それは始めて見る光景であった。銃や爆薬、またハスターの僕であるロイガーの竜巻に引き裂かれても再生する「落し子」が唯の刀で倒されていく。ここまであっさり片付けられると、質の悪いコメディにしか思えなかった。
 冬峰は四匹目の右腕を切り落としてから反転して五匹目と相対した。繰り出される触腕と鉤爪の攻撃を左足を後ろに引き半身になってかわし、縦横に斬り付ける。冬峰は常に足を動かし、相手に攻撃する間を与えない様にして斬撃を繰り返す。
 五匹目の動きが止まると同時に、四匹目が残った左手を振り下ろす。頭上に刃を寝かせて鉤爪を防ぎ、冬峰は返す刃で四匹目の右肩から左脇まで切り下げ、跳ね上げた一撃で頭部を割った。
 冬峰は振り返り「右低膝刀勢」の構えを取って石仮面に向き直る。その背後で「落し子」達が崩れ落ち、上がる水飛沫で冬峰の姿が石仮面の目から隠された。石仮面の足下の水も撥ね、石仮面の眼前に水のカーテンが出来上がる。まさかその一瞬の間に冬峰が距離を詰め、驚き仰け反った己の左腕を切り落とすとは石仮面には予想すら出来なかった。
「ぐおああああ。」
 石仮面は切り落とされた左肩の傷口を押さえ背後へ跳び、冬峰を睨み付けた。こんな筈では無かった。「落とし子」すら殺すどころか滅ぼしてしまう人間と、彼は初めて出会ったのだ。こんな東洋の島国で「ソロモン機関」や「聖堂騎士団」以外の〈K〉に対抗する組織があるとは聞いた事が無く、この島国特有の呪法「呪禁道」や「仙道」とも相見えたことがあったが何れも彼に痛打を浴びせることは無かった。
 おおいなる〈K〉に力と知識を授かったこの身は、何者も滅ぼすことが出来なかったのだ。
 なら、この若造の持つ剣は「聖剣」の類か、もしくはこの者自体が聖霊を宿す「救世主」の一人かと思われたが、この者に付けられた傷は浄化による消滅では無く、むしろ生命という炎に氷塊をぶつけた様に、ごっそりと何かを持って行かれた様な脱力感を伴っていた。そう、この少年自体が「死」そのものだという様に。
 冬峰は次の一撃で終らす心算か両足をやや広めに開けて腰を落とし、長脇差の剣先を右脇下に下げた。構えは「右脇構え」や新陰流の「一刀両断」に類似しており「右提僚刀勢」と呼ばれる。
 石仮面が残った右腕を突き出すと、その右腕が更に伸び冬峰の顔面を襲う。二人の間隔は約三メートル離れており、その驚異的なリーチに驚きつつ冬峰はしゃがんでその一撃をかわす。しかしそれが空中で軌道を変え振り下ろされて来るのを、辛うじて背後へ跳んでかわした。
 右腕が水面を叩き水飛沫を上げる。いや、それはもう右腕とは呼べまい。石仮面のコートの右袖から冬峰の足下まで延び、水面をうねくりバシャバシャと水飛沫を上げているのはどう見ても蛸か烏賊の触腕としか見えず、その触腕の表面には吸盤等という可愛い物ではなく、鋭い突起物が生えていた。
「怪○君?」
 ガアッと掛け声と共に再び石仮面の右手が冬峰を襲う。鞭の様に猛スピードで振られるそれは、空中で軌道を変えるなど変則的な動きをして冬峰を薙ぎ飛ばそうと迫ってくる。何とかかわしたその一撃が、廊下の壁を抉っていくのを目にしてフェランが驚きの声を上げた。
 冬峰も石仮面の懐に潜り込み斬り付けようとするが、石仮面の右手は鞭というより旋廻するプロペラのように素早く肉眼では捉えにくかった。また一旦かわしても、自由自在に角度を変え切り返して来る。右に通り抜けた触腕が下から跳ね上がり、次の瞬間左から襲ってくるといったトリッキーな攻撃が休み無く繰り返されているのだ。仮に長脇差で旋廻する触腕を捉えられたとしても、先程壁を削り取った威力から鑑みると斬るどころかへし折られるのが関の山だろう。
 石仮面の攻撃を後退しつつかわし続けた冬峰は、己の左踵が硬いものにぶつかるのを感じて動きを止めた。壁際に追い詰められ手も足も出ない冬峰に対し、石仮面は勝者の余裕を示すが如く、右手を扇風機のように立てて廻しながら一歩一歩ゆっくりと近付いてきた。じわじわと挽肉にでもするつもりだろうか。
 冬峰は暫く近付いてくる死の使いを眺めていたが、ちらりと左手側、窓のある方向へ視線を走らせた。屋外に出れば何か反撃の手段があるのではないか、そう考えたのか冬峰は手近な窓へ肩からぶつかるように助走も無しで跳躍した。
 あと少しで窓に激突する。その刹那、冬峰の足下から廊下を満たしていた水が吹き上がり冬峰の身体を巻き込んでいった。それはどんな手品を使ったのか、冬峰は突然出現した透明な水槽に閉じ込められた者のように口から、ごぽりと泡を吐いた。しかし気泡はは上へ昇らず口元で潰れていく。また冬峰は手足をばたつかせ泳ぐような素振りを見せているが水槽の中央から移動出来ず、手足を動かすと少しの間空間が出来上がることから、この水槽の中の水はゼリー状に変化しており、その質量で冬峰を押さえつけ身体の自由を奪っているのだろう。口と鼻も塞がれて呼吸出来なくなったのか、どんどん動きが鈍くなる冬峰を石仮面はその触腕を振るうでもなくじっと観察していた。
 続け様に低く太い銃声が廊下に響き、その水槽の表面に三個の穴が開けられたが、弾頭は一センチ程食い込んだ状態で停止する。フェランは更に石仮面の背中に向け、右手のコルト四十五口径を弾切れになるまで打ち込んだ。一九八〇年代まで米軍に採用され、未だに愛用者の多い軍用自動拳銃だが、散弾銃と比較すると威力不足なのは否定しようが無く、石仮面は僅かに身体を振るわせただけでフェランへ見向きもしなかった。
 水槽の中の冬峰はどうやら呼吸出来なくなったらしく、微動だにしなくなり刀も手から離れ冬峰の眼前の浮かんでいる。石仮面は俯いて見えない冬峰の表情を確かめる心算か、水槽の縁まで歩み寄り宙に浮いた状態の冬峰の顔を覗き込んだ。既に冬峰が水槽の中に閉じ込められてから五分程度経過しており、普通なら窒息しているはずだ。
 だから、有り得なかったのだ。冬峰の両目が開かれ、その両手が刀の柄を掴むとは。
 打ち下ろしの一閃。水槽は結合力を失ったかのように弾け廊下に飛び散った。
 冬峰の着地と、石仮面がその右手を振り上げるのはほぼ同時。しかし振り下ろした場所に冬峰の姿は無く、石仮面は上を向いた。冬峰は三角飛びの様に地面を蹴って背後の壁へ飛び、更に其処から天井に飛び上がったのだ。冬峰が低く宣告する。
「その首、もらうよ」
 石仮面は天井を蹴って逆しまに落ちてくる冬峰を見てどう思ったのか、僅かに触腕を振り上げようとしたとき、落下の勢いを付けた一撃が銀光となり石仮面の首筋を通り抜けた。濡れた雑巾を勢い良く叩きつける音がする。
 冬峰は斬り付けた体勢のまま濡れた廊下を滑り込み、張り出した廊下の柱にぶつかって低く呻いた。直ぐ片膝をついて起き上がり、切先を石仮面に向ける。
 石仮面は暫く立ち尽くしていたが、ぐるりと不意に背後を向いた。首から上のみが百八十度真後ろへ向いたのである。石仮面が一歩後ずさると同時に、いやこの場合前進すると表現すべきか、破れたビニールホースから水が噴き出すような音を立てて、首の全周から血が噴出し緑色の襟巻きを形作った。そのまま足を滑らしバランスを崩し倒れ込む。
 倒れながら胴体から離れた首は冬峰の足下まで転がり、足首にぶつかると頭と仮面に分かれた。その顔は鱗に覆われ左目は銀色の瞳をしており、唇は左側のみが耳まで裂けていた。
「滅ぼせた、のか」
 フェランが確かめるように訊いたのは、その首が魚の腐ったような匂いをたてながら、緑色の粘液と半ば化してからだった。胴体も同様に溶解しているらしく、黒いコートの膨らみが低くなってきている。
 冬峰はフェランの質問に答える風も無く、左手で胸を押さえて荒い息を吐いていた。
「お、おい、大丈夫か?」
 傍らに駆け寄ったフェランの顔を見上げた冬峰は、不思議そうにフェランの顔を見つめてから、頭を振って、「ああ、名前は、そうだった」と呟いてよいしょっと億劫そうに立ち上がる。 廊下の端に落ちた長脇差の鞘を拾い上げ、刀身を収めた。ん~と腰を伸ばす。
「帰ろうか」
「あ、ああ」
 今しがた死闘を繰り広げてきた様子も無く飄々とした冬峰の雰囲気に、フェランは頷きながらも戦慄を覚えざるを得なかった。
 不死と呼ばれる、またそうであり続けてきた代行者を殺せる人間。この者は味方であり続けるのか。なぜ彼は不死者を殺せるのか。そんな考えが頭の中を駆け巡るのだ。そして、こう思った。この少年は殺し馴れている、と。
 冬峰は携帯を取り出し校舎の四階で待つ千秋を呼び出し一言二言話した後、身を屈めて主を失った石仮面を拾い上げた。
「この石仮面、いくらで売れるかな?」
「いや、持っていると呪われそうな気がする」
「そう、まあ持って帰って調べてもらおう」

               5

 降りてきた千秋は不安そうに荒れ果てた一階校舎を見回していたが、冬峰とフェランの姿を視界に納めると足早に駆け寄ってきた。
「冬峰!」
「はいはい」
 鞘に収めた長脇差を肩の高さまで上げて答える冬峰の顔を見て、千秋は自分の両肩を抱いた。フェランはその両肩が僅かに震えているのを見て取り何か声を掛けようとしたが、冬峰を見て口を噤んだ。自分の役目ではないと思ったのだろう。
「あの男はどうなったの。怪我は無いの?」
 矢継ぎ早に問い掛ける千秋に、冬峰はその癖のある髪を掻きながらあっさりと答えた。
「始末した。怪我は無いよ」
 冬峰は昇降口に向かって歩き出したが、背後から足音が聞こえないのを不思議に思ったのか、足を止め振り返る。千秋は先程から肩を抱いたまま俯いたきり立ち止まったままだった。
「ご、ごめん。怖かったから、安心したら、その……気が抜けて。冬峰は、怖くなかったの……」
 冬峰は千秋を暫く眺めていたが、何かを呟きまた歩き出した。
「おい、君」
 冬峰を呼び止めようとするフェランを千秋は首を振って制した。冬峰はこう、呟いたのだ。
 怖いって、何だ、と。
 千秋は何故か、その言葉を昔に聴いた気がした。ずっと前、何も無い野原で。傷だらけの少年が同じことを呟いたことを。何故か、一階に降りて冬峰の姿を眼にしたとき、その光景が浮かんで悲しかった。
「終わったよ。明日から何時も通りだ」
「うん、うん」
 振り返らずに言葉を掛けて来た冬峰の背中に、千秋は眼鏡を外して目頭を拭いながら頷いた。
 校舎を出ると、あれだけ大騒ぎしたのに町は静まっており人影も見えなかった。連続誘拐事件の外出禁止令が幸いしたのかも知れない。千秋が校舎を振り返ると、まるで影絵の荒城の様に月明かりに浮かび上がっていた。赤い月明かりに浮かび上がっていた。
「?」
 その月の一点に影が生じると、それがぐんぐん大きくなりついに月を覆い隠すほどの大きさとなる。その影は絨毯の様な大きな翼を持っており、胴体はトカゲのような形状をしていた。例えるなら遥か昔、白亜紀と呼ばれる時代に存在した翼竜「プテラノドン」を彷彿とさせた。
「バイアクヘー」
 フェランが呆然と呟いた。その声は震え額には汗を浮かべている。そして冬峰はその翼竜もどきの背に、先程滅ぼした石仮面とよく似た黄土色のコートに仮面を被った者が腰掛けているのを見て取った。
 翼竜は学校の上空を通り抜け何処へと飛び去っていったが、冬峰達三人は夜空を見上げたまま、じっとその場に立ち尽くしていた。
「な、何よあれ。怪獣?」
 千秋の問い掛けに、フェランは沈鬱な表情を崩さず押し殺した、やや震えた声で答えた。
「あれは、星間飛行を可能とする生物で、旧支配者のひとつ(闇の皇太子)ハスターの使役する僕のひとつだ」
「そんな……。じゃあ、あの背中に乗っていたのは……」
 千秋はバイアクヘーの背に乗った仮面と目が合ったとき、あまりにも禍々しくて吐き気を覚えた。その仮面は笑みを浮かべていたのだ。いずれ、迎えに行くとでも言うかの様に。
「済まない、二人とも。まだ終っていない。あの背中に乗っていたのは石仮面と同じ〈不死の指導者〉だ。ハスターの代行者で名を〈黄衣の王〉。戯曲〈黄の印〉に出てくる死の使いだよ。」
 冬峰は眠そうな茫洋とした表情のまま、じっとバイアクヘーの消えた方角を見つめていた。新たな脅威の出現に対し、どんな思いを抱いているのか。その表情から伺うことは千秋には出来なかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.13 )
日時: 2020/07/20 22:56
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

  三章 死の旋風

               1

 暑い、ひもじい、喉が渇いた。
 容赦なく照り付ける太陽の下、白い砂色の建造物だった瓦礫しかない街で、彼は屋根の吹き飛ばされた家の影に身を潜めていた。
 日差しは遮られているものの、四十度近い気温はどうしようも無く、体内の水分が汗となり消費されていく。舌も乾いており、唾液の出る気配すらなく呼吸し難い。
 彼の左隣にも三人程並んで隠れているが、その者達も彼同様憔悴しきっているらしく、目の下に隈をつくり荒い息を吐いている。年齢は十五から十八歳程で十二歳の彼が一番幼かった。
 彼等は三日前、彼らの生活するキャンプから目隠しをされた状態で兵員輸送用トラックに載せられ、この崩壊した街で五人、六チームに分けられた。彼等を連れてきた白い髪をしたロシア系の軍人は彼等を見回した後、自分の横で偉そうにふんぞり返っているビール樽の様な太っちょの都市迷彩服姿の軍人を指し示し、これからゲームを始めようと朗らかに宣言した。 
 都市迷彩姿の率いる約二十名の軍人に明日の朝、町に分散し隠れている彼を含めたガキ共を殺すよう依頼した。一人殺す毎に殺した軍人の懐には少なくない金額のボーナスが手に入ることになっており、全滅させた折には部隊長に数年間遊んで暮らせるだけの金額が与えられる事になっている。また、少年兵側も少年兵の個人番号をプリントしてある左手首を持って帰れば、ひとつにつき一本、キャンプ場に帰還後レーションが与えられ、軍人の軍服左肩に縫い付けられた部隊章を持って帰れば、一週間、食事の量が増やされる。
 五日後に終了の合図であるサイレンが鳴り終えるまで生き残ることが、今回の作戦目標だと説明された。
 ゲーム開始一日目は少年兵同士の共食いであった。明日の糧を得る為、少年兵が小銃を撃ち合い、死んだ相手チーム少年兵の左手首を切り落とし奪い合った。
 彼のチームの隊長は十八歳ぐらいの白人の青年であり、去年このキャンプに連れてこられたメンバーの一人であった。副隊長は彼同様二年前からキャンプにいたが、本格的な戦闘は始めてらしい。
 副隊長はチームリーダーに、一日目は戦闘を行わず、逃げに徹するように進言した。理由は一日目に弾を消費すれば、後々軍人相手に生き残れなくなる。個人に与えられた装備はカラシニコフ小銃のコピーと予備弾倉三本、拳銃一丁、ナイフ一本だけであり、五日間を生き残るのに十分な量ではない。この作戦は、どう戦うかでは無く、どう生き残るかを目的としているのだろうと説明した。
 彼の意見に チームリーダーは、そんなことは分かっていると冷たく言い放った。
 副隊長は憤然とその場を去るチームリーダーの後姿を見送ったた後、二度、彼の頭を撫でる様に軽く叩くと笑顔を向けた。
 しかし作戦通りに事が運ばないのが世の常であり、彼等は二日目の早朝、別の少年兵グループと遭遇戦となり、さらに軍隊の介入を受けた。軍の保有する軽装甲車の十二・七ミリ機関銃は相手チームと、その背後に回りこんでいた副隊長を火線に捉えた。頭の右半分を失った副隊長を置き去りに、彼の隊は命からがら逃げ出した。
 結局、二日目はずっと隠れていた。街では散発的に銃声が鳴り響いていた。時折砲弾の宙を翔る音、おそらく迫撃砲だろう―が聞こえたが、夕方には静かになった。どうやら他の少年兵チームは隠れたか、軍人達に全滅させられたかも知れない。
 そして三日目、彼らの隠れた廃屋の立ち並ぶ通りに軍人達が通りかかった。彼等は少年兵の隠れていそうな建物の入口から手榴弾を屋内へ投げ込み、自動小銃を持った兵士が突入する行動を繰り返していた。
 じきに自分達の隠れている廃屋へ踏み込んで来る。彼は小さい手鏡を取り出し入口から外の様子を窺った。同じ通りの四軒向こうに、軽装甲車と六人の兵士が見えた。二人が手榴弾を屋内へ放り込み突入、続けて二人が援護するように突入。その間残り二人の兵隊は軽装甲車の左斜め後ろと右前につき、軽装甲車の弱点である接近戦に対してガードを固めている。隙を衝いて攻撃することは出来そうに無い。
 後五分も経たないうちに彼等は突入してくる。それまでに逃げる手段を考えないと、そう思い隊長を振り返ると、そこには小銃の銃口を彼に向けた隊長がいた。隊長は低い声で外に出ろと言った。お前が囮になれと、他の少年兵二人も彼に銃口を向ける。
 いつもそうだ。彼は組まされたチームでは最年少であることが多く、其れ故、彼は戦力外としてチームから外され囮役を務めさせられる。
 彼は外を窺い、軍人達が二軒手前まで迫っていることを確認すると、右腰に吊り下げたバッグからAK47用の連弾倉を一本取り出し、重さを確かめるように二、三度手の上で軽く放り上げた。
 兵士が二人、警戒しつつ彼のチームの潜んだ廃屋に近付いてくる。
 彼は右脇に吊り下げたナイフホルスターから刃渡り十センチ程度のナイフを抜き出し、歯で刃を咥えた。
 靴底が砂を噛む音が近付いてくる。三、二、一、彼は路上に落ちた影を見て距離を測りながら、発見される直前まで軍人を曳きつけてから飛び出した。
 彼は体のバネをきかせ、前に倒れこむようにして右手のAK47の弾倉を、軍人達の背後に控えた軽装甲車の頭上に放り投げた。
 軽装甲車の両脇にいた兵士がすばやく地面に伏せる。どうやら手榴弾が投げられたと勘違いしたらしい。
  彼に向け軽装甲車の十二・七ミリ機関銃と兵士達のイスラエル製自動小銃ガリルSARの銃口が動く。しかし彼の動きは素早く、軽装甲車の頭上へAKを乱射しながら、一番手前にいた兵士の左脇に身体ごとぶつかった。
 その背後でひと際大きな銃声が鳴り響き、軽装甲車の機関銃手とその両隣で地面に伏せていた兵士等三人が、悲鳴を上げてよろめいた。AKの銃弾を浴びた弾倉が爆発し、周囲に手榴弾の破片が飛び散る様に弾丸を撒き散らしのだ。致命傷では無いにしても、暫くの間行動不能だろう。
 彼はぶつかりながら咥えたナイフを左手に移し、兵士のボディアーマーの隙間、右脇腹を二度、下から掬い上げるように突き刺した。ナイフを用いた戦闘では、ボディーアーマーや小銃の弾倉等の装備が邪魔となる正面や背面を狙わずに、首筋、腋の下、脇腹、肘と膝の裏、内腿を狙う。これらの部分は可動部である為、防具の隙間であることが多く、また急所でもある。
 もう一人前衛を勤めていた兵士はナイフで刺された兵士の左後ろで警戒にあたっていたが、飛び出した少年兵が彼の戦友に獲り付きナイフを突き立てるのを見て、ガリルの銃口を少年兵に向けるも兵士に密着している為、少年兵の小さな身体は完全に兵士の身体に隠れた状態となった。
 仕方なく回り込もうとした兵士は自分の顔をめがけて飛来する投げナイフを目にして、慌てて首を前に傾けた。3本の投げナイフは辛うじてヘルメットに当たり跳ね返ったが、その隙に少年兵が地面を滑る様に彼の足下へ近付いているのを見て、慌てて少年兵に向かって引き金を引いた。
 彼は頭上を通過する弾丸をを無視するかに様に、兵士の足下に近付き左手を振った。
 右太腿の内側を切り裂かれた兵士は、地面にしゃがみ込み傷口を押さえて血を止めようとしながら何か喚いていたが、今度は首筋を銀光が通り過ぎ、噴水のように血を噴出しながら倒れた。
 軽装甲車の機関銃が彼に向かって鳴り響くことも無く、機関銃手は軽装甲車の屋根に備え付けられた銃座にもたれ掛かったまま動かない。飛び散った小銃の弾の当たり所が悪かったのだろうか。
 残り三人のガリルが火を吹き、彼は自分の隠れていた廃屋の向かいにある路地に飛び込み、半ば崩れた煉瓦の塀に隠れた。しかし、彼の隠れた塀は丈夫とは言い難く、兵士の構えたガリルライフルから放たれる五・五六ミリNATO弾は容赦なく、彼の隠れた位置に向け煉瓦を削り取っていく。
 彼は彼の所属するチームの隠れた廃屋はへ目を向けたが、援護射撃が行われる気配も無く、チームリーダー以下数名は奥に引っ込んだきり、出てくることは無い様だった。
 これも何時もの事だ。彼は常に切り捨てられる側であり、組んで利する相手とは見られたことは無かった。彼は彼が守ろうとする者達以外には守られたことは無く、逆に銃口を向けられたこともある。この弱肉強食の世界の理により、彼は死ぬべき対象であった。それ故に彼はその世界で生きていく術を身につける。
「!」
 塀を貫通した弾丸が彼の頬を掠める。其れが合図かのように彼は塀から飛び出した。彼を狙って三つの銃口が弧を描く。彼は身を低くして兵士達の前を横切り、最初に隠れていた廃屋の横の路地へ向かった。兵士達もその路地へ銃口を向けた。後数瞬もしないうちに彼の身体は無数の銃弾により引き裂かれるだろう。そして彼等三人の兵士に驚愕に目を見開いた。
 いない、いや消えた。違う。
 兵士は頭上で響いた何かを蹴る様な音を耳にして視線を上げた。そこには路地の両側の壁を蹴って、ジグザグに跳躍しながら上へ昇って行く彼の姿だった。
 ガリルで彼を狙い打とうとした兵士達の一人は、彼の動きが素早く狙いが定まらない事に苛つきながらも、さらに弾をばら撒こうと弾倉を取り替えた。が、頭上を見上げる兵士の目には、彼の姿がだんだん大きくなっていくように見えた。
 落ちてくる。少年兵が逆しまに落ちてくる。
 その兵士が再び彼に銃口を向けるより早く、半回転しながら彼の振るわれたナイフが首筋を切り裂いた。彼は落下の衝撃を殺すかのように、落下の瞬間両膝を深く曲げ、ゴムで出来たボールのごとく反動を利用して前方へ飛び出し、銃を構えたまま彼の動きについていけず、突っ立った状態のの兵士の脇を通り過ぎながらナイフで脇腹を切り裂いた。
 最後に残った兵士が悲鳴を上げガリルを乱射する。狙いをろくに定めておらず見当違いの方向へ銃弾が飛んでいく。いつの間にか接近していた彼の左手に握られたナイフは、まずガリルを構えた右手首を切り落とし、返す刃で兵士の顎先から額までを縦に切り裂く。
 彼は血煙を上げて倒れる三人の兵士に眼もくれず、直ぐに細い路地へと身を隠した。別の小隊が狙っているかも知れず、いつまでも通りに身を晒すのは自殺行為に等しい。
 路地の壁にもたれかかり息を整える。流石に三人も一度に相手をするのは我ながら無茶をするものだと思った。しかしこれで暫くの間、彼の仲間達の食糧事情は好転するに違いない。
 彼は路地に兵士を一人ずつ運び込んでから左肩の部隊章をナイフで剥ぎ取ろうと、路地から出て兵士達の死体へ一歩踏み出した。が、彼は背後にのけぞった後、再び路地へ飛び退いた。先程まで彼の居た辺りに土煙と着弾音が集中する。銃弾の飛んできた方向は彼の潜んでいた廃屋、その中からだ。
 更に彼の隠れた路地に向かって火線が集中する。釘付けになった彼に対して、もう勝ったつもりになったのかチームリーダーと二人の少年兵が廃屋から出て路地に近付いてきた。
 何故撃ってきたのか、その理由は彼にはよく分かっている。報酬だ。彼が手を下した兵士達は、彼同様彼等にとっても生きる為の糧となる。特に軍人六人分だとそうそう手に入るものでもない。飢える心配をしなくてすむのは誰にとっても魅力的に違いない。プラス彼の左手首も勘定に入っているのだろう。
 しかしこの危機にも、彼は表情を変えることも無く近付いてくるチームリーダーを見ていた。どうでもよかった。裏切られたとも思っていない。ただ、彼の命を脅かす「敵」になっただけだ。
火線の一つが途絶えた。弾倉を取り替えるのだろう。チームリーダーの右手に居る少年兵が、手に持ったAK47のバナナ型弾倉を取り替えているところだった。再びその少年兵が射撃を開始するまで約二秒。
 二秒あれば。
 彼は路地から滑りこむように火線の途絶えた側からチームリーダーに近付いた。早過ぎて銃口が追いつかない。背後の着弾音を気にした様子も無く、獣の様に身を低くした彼が漸く弾倉を取り変えた少年兵の背後に消える。
 チームリーダーは銃口を逸らした。撃つべきだったのだ生き残りたいのならば。何故ならその少年兵の足下から跳び上がった銀光は、チームリーダーの首を通り抜け、少年兵の両手を切り飛ばした。
「AAAAAAA!」
 血に塗れた少年兵の叫びも長くは続かなかった。もう一人の少年兵が彼の背中をめがけて小銃を発砲。瞬間彼は半円を描くように身体の向きを変えながら、銃弾をよけ、少年兵は避けられず、身体を震わしながら背後へ吹き飛んだ。
 もう一人の少年兵は銃口の向きを変え彼を撃とうとしたが彼の姿は無く、頭頂に重みを感じた瞬間、彼は背後を向かされ事切れた。正確には少年兵の首のみが背中を向いていたのだが。
 更に半回転彼は少年兵の頭の上で倒立したまま、首と一緒に独楽の様に廻った後、軽やかに地面へ着地した。少年兵の脳の制御から外れた肉体が、倒れた状態で歪なダンスを踊る。
 彼は一人で九人の命を奪ったにもかかわらず、顔色一つ変えず彼の元チームメイトの傍らにしゃがみ込み、彼らの身に着けた装備を剥がし始めた。武器弾薬はあるに越したことはなく、行動の妨げにならない程度に身に着ける。水筒の中の水も移し変え、自分の持つ水筒を満タンにして行動中に中の水が跳ねて音を立てないようにした。そして彼らの手首は切断した後、血の匂いが漏れぬよう千切った衣服にくるみ背負ったナップザックに入れた。軍人達の部隊章も死体の身に着けた軍服から剥ぎ取り胸ポケットにいれる。てきぱきとそれらの作業をを終らせ立ち上がる。早く別の隠れ家を見つけ、残り二日を生き延びなければならない。
 ふと最後に殺した少年兵の虚ろな視線を感じ振り返った。もちろん気のせいであり死体はぴくりとも動かず、ただ転がっている。敵となれば殺し、自分は生き残る。今迄もそうであり、これからもそうあり続ける。それ以外の生き方など、この世界では手に入るはずも無いのだから。

               2

 彼女は目を覚ました。
 カーテンの隙間からこぼれた朝の日差しが彼女の両眼を照らし、彼女は目を細め右掌を翳して光を遮り身動ぎした。思考が覚醒するまでの数秒間、彼女はそのままの姿勢で固まっていたが、彼女の眠っていたベットの足下に人影を認めて一息に起き上がる。ブルーのストライプの入ったパジャマの第二ボタンまで外して眠っていたので、慌てて前を合わせボタンを嵌めたが、ベットの足下に寝転んだ従弟がぴくりとも動かず眠り続けていることに安堵して手を下ろす。
「そうだった……」
 昨晩の記憶を反芻し、千秋は呟いた。昨晩の非常識な出来事に疲れきった彼女は、本家に戻ろうとする冬峰を替えの下着やら何やらを取りに行くと強引に説き伏せ、自分の下宿するアパートに帰ってきた。アパートの脇の階段に一人手持ち無沙汰にしている中年男が居たが、冬峰が傍らに寄り一言二言耳元で呟くと、首を勢い良く上下させ慌て駐車場に止めた乗用車に乗り込み去って行く。後にその場に居たフェランが「今宵の虎鉄は良く斬れる」とは何かの呪文かどうか千秋に尋ねたが、千秋は曖昧に笑ったきり答えは返さずじまいだった。
 結局夜中だったことも有り、二人は話し合って本家には明日の放課後に顔を出すことにした。とりあえず全ては明日からとシャワーを浴びた後パジャマに着替えた千秋は、玄関前で壁に凭れ掛かって眠っている冬峰を発見したのである。おそらく見張りの心算なんだろうが、こんなところで寝かせるのも何なので冬峰を寝室まで引き摺っていき、毛布を掛けて眠りに着いたのだった。
 常に眠たそうにしている従弟の寝顔は瞑想する僧の様に物静かで、寝息も長く微かに呼吸音が聞こえる程度であり、それがまるで眠っているのではなく死んでいるのではないかと一瞬千秋を不安にさせる。
「ん……」
 覗き込む千秋に気が付いたのか、冬峰の眼が微かに開かれる。
「………」
「………」
 がばっと冬峰の上体が跳ね起き「食事の用意」と呟いた後、ぼんやりとした目付きで周囲を見回す。
「?」
 何だ此処は、いったい何処だ、とでも言うかの様に千秋を寝ぼけた状態のまま見つめる冬峰を、千秋は呆れ果てたとばかりに嘆息して昨晩からの経緯を説明した。ひょっとして、この男は一晩眠れば何もかも忘れるんじゃないだろうか。
「そっか……」
 合点したのか、しないのか冬峰はそれだけ呟いてばたりと仰向けに倒れこんだ。そのまま眼を閉じ寝息を立てる。
「寝るな!」
 それから千秋は廊下に冬峰を放り出した後、いそいそと学生服に着替え食事の用意に取り掛かった。彼女の朝食は至ってシンプルであり、トースト一枚に焼いたベーコン二切れ、それにミニトマトとレタスのサラダといった内容だった。飲み物は粉末カップスープを牛乳で溶いたものを出し、出来るだけ食事の用意する手間を省いている。


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