二次創作小説(新・総合)
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 天門町奇譚
- 日時: 2020/07/19 13:49
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
序 異界侵食
まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。
しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
ごぽっ。
背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
ごぽっ、がぱっ。
何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
ごぽり、
芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。
- Re: 天門町奇譚 ( No.29 )
- 日時: 2020/07/22 01:15
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
力無く冬峰の体がゆっくりと影の中に没していく。この少年もホーヴァス・ブレイン同様にこの平面な黒い沼に囚われ、二度と浮かび上がってこないのは明確であった。
フェランは愛用のコルト・1911A1を左脇から抜いてナイ神父に向けるが七・六二ミリライフル弾が通用しない以上、拳銃弾である45ACPにこの状況を覆す力など無い。
ナイ神父は目を細くして口角を上げ、本当に幼子を見つめる父親の様な表情でフェランを見つめている。同じ様に銃弾が通じないにしても敵意の感じられる不死の代行者の方が、まだ理解出来た。
此処は引くか。フェランは決心した。しかし、引くにしても自分にはこの一手しか残されてはいない。今回ばかりはこの手段が通用するのか疑問だった。
フェランは左手でコートのポケットから小さいガラス製の瓶と妙な彫刻の刻まれた笛を取出し、親指でガラス瓶の蓋を弾いた。それを飲み干すのを黒衣の紳士は手を出さず見守っている。
手を出さないならこれ幸いと笛を吹く。
「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい あい はすたあ」
呪文を唱え終って虚空を仰ぎ見る。これでいつも通りなら遙か彼方のセラエノから、星間飛行を可能とする生物で旧支配者ハスターの下僕のバイアクヘーが召喚され、自分は一先ずセラエノまで逃亡出来る筈だ。
「ー」
何も来なかった。バイアクヘーの巨大な羽の羽搏きは聞こえず。フェランは宙を仰いだまま目を閉じた。
「ふはは」
ナイ神父が堪え切れないという様に宙を仰いで額に手を当てて哄笑した。
「いや、君も解っているんだろう。君はハスターの代行者〈黄衣の王〉に弓を引いた。おまけにハスターの眷属であるロイガーまで深手を負ったそうじゃないか。それに関わった君にハスターの加護など得られるわけないだろう」
言われるまでも無い。ハスターの加護が得られないことも予想していた。ただ、ここで自分の戦いが終わることに、これまでの仲間の死が無駄になることに耐えられないだけだ。
フェランは何も言わず再び銃口をナイ神父に向ける。
「無駄と判っているのに、君はそれしか残されていない。ならこれで終わりにしましょうか」
ナイ神父が右手を振ると指に葉巻が挟まれて火が付いた。それを一息吸ってから人差し指を上下させて灰を足元に落とす。
その気障で優美な行為の結果に生じた現象は、銃を構えたフェランの眉を顰めさせるものであった。
灰の落ちた足元から現れたものは、黒い色紙を切り取って作られたように平面な、子供の落書きの様な六つの人影だった。それは眼も鼻も無く、口だけが耳元まで裂けて背後のナイ神父の姿がその中から覗く。
「これも私の作った下僕でして、影鬼とお呼び下さい。非常に悪食で、人を消すのに使ってます」
耳まで裂けた口の上下は鋭く尖った牙の様にギザギザであった。
薄っぺらい両手を胸前に掲げてにじり寄る異形の影絵を迎え撃ったのは長い轟音であった。
六発の銃声が一発に聞こえるような速射で額を撃ち抜かれた影鬼は、暫く仰け反った姿勢で硬直していたが、銃声の残響が治まると共に姿勢を戻して、何事も無かったかのようにフェランに向き直った。
「無駄ですよ。銃など私達に通用しない事を、そろそろ理解してほしいですね」
ナイ神父の指摘通り、影鬼はダメージを負った風も無く意外な敏捷性を発揮してフェランに肉薄するや、その鋭い平面な鉤爪を振るって襲い掛かって来た。
舌打ちして仰け反り鉤爪を躱したフェランだったが、その鉤爪が自分の影のコートの裾に重なり通り抜けると、コートの裾がぱくりと裂けたのに驚愕して声を漏らした。
「影鬼の鉤爪が影を切り裂くと、その影の持ち主が切り裂かれる。影鬼が影を喰い千切ると、その先は言わなくとも解りますね」
ナイ神父はくくくっと忍び笑いを漏らした。フェランは悪趣味な化物だなと毒づきたくなったが、そんな事をしてもなす術も無く喰われる運命が変わるわけではない。
「いいですね、その表情。そのまだ戦い続けようとする気概が、最後にはどのように変わっていくのか。私はそんな人間の感情が、絶望の中で抗おうとする健気な行為が大好きでして」
宙を仰いで陶酔するかのように目を閉じるナイ神父の姿は、己の指揮する楽団の音楽に酔いしれるカリスマ指揮者の様に神々しくもあった。
「さあ、君はどのように絶望してこの世を呪うのか。それを見せー」
それはフェランはおろか、ナイ神父すら予想だにしなかった事だろう。その証拠に彼は不思議そうにそれを見つめていた。
己の腹部から突き出た鈍い光を放つ曲線を描いた刀身を不思議そうに見下ろした。
すっと何の抵抗も無く刀身はナイ神父の体内に没した後、長く伸びたナイ神父の影から現れたのは人の腕だった。
その黒いカッターシャツに同色のジャケットを纏ったその腕の持ち主をフェランは知っている。その腕は何事も無かったかのように地面に手を付くや、よっという掛け声とともに力が加わり地面から人の上半身が現われる。
フェランは奇術の様にナイ神父の影から抜け出してくる人影を、ただ茫然と眺める事しか出来なかった。既にこの人物は〈K〉と戦い続けて来た男にとっても理解の範疇を超えていたのである。
その人物は片足を地面について勢いを付けて全身を地上へ持ち上げた。右手に握られた長脇差と背負われたその鞘、所々跳ね上がった癖毛の少年は状況を理解しようとでもするように辺りを見回す。
その視線は、彼が地上へ抜け出すと同時によろめいた黒衣の紳士を捕えて止まった。
「御門冬峰」
初めてフェランはその名をフルネームで呼んだ。その声には僅かな畏怖の響きが含まれる。
その声に冬峰はフェランの存在に気が付いたように振り返る。
「やあ、おっさん。無事だったか」
その屈託のない物言いに、フェランも相好を崩して苦笑を浮かべる。
「いや、おじさんは、今、絶体絶命なんだ。つまり、君も絶体絶命なんだよ」
「……」
「……」
冬峰は、はあ~と面倒臭そうに溜息を吐いて頭を掻く。
「結構、ややこしい状況ってことだな。で、この歓楽街の夜の帝王っぽい此奴は何者なんだ?}
「……そいつは一応、聖職者なんだが」
少年の一言につっこむフェランだったが、再び動き出した眼前の危機、影鬼の存在に表情を引き締めた。
「気を付けろ。此奴等に銃は通じなかった」
一匹の影鬼が素早く冬峰の足元に走りより、大口を開けて鋭い牙を見せつける。それを無造作に片手で長脇差を振り下ろす。
長脇差の刃は何の抵抗も無く影鬼の頭頂から股間まで通り抜け、冬峰の手に手ごたえを感じさせなかった。
「無駄な事は止めて、今は逃げるのが……」
フェランは言葉を止めて目を見張った。影鬼の厚みの無い身体が刃の通り抜けた線に沿って捲り上がり、ぺらりと左右に分かれたのだ。
「ふむ」
ナイ神父はその光景を顎先に指を当てて真剣な面持ちで眺めている。
己の影の牢獄を強引に切り裂き抜け出した少年に少し興味が湧いた。ナイ神父は黒い手袋を嵌めたまま器用に指を鳴らす。いちいち貴公子然とした仕草が様になるのがフェランにとって何とも腹ただしい。
それを合図と取ったのか、残り五体の影鬼が冬峰へ襲い掛かる。
ある者は跳躍して頭上から、またある者は地面すれすれに這い寄り足下から、ある者は通り過ぎた後に反転して背後から、影鬼は僅かにタイミングをずらして冬峰に牙をむいた。
しかし影鬼に覆い隠されようとする冬峰の周囲に奔った銀光は、的確に影鬼の身体を捉え、通り過ぎて行く。
影鬼が寸断されて無数の黒い紙切れの様に舞う中、冬峰は長脇差を右撩刀勢、日本の剣術では右脇構えで黒衣の紳士を見据える。
乾いた布を打つ音が公園に響いた。ナイ神父が両掌を打ち合わせて冬峰の視線へ笑みを返す。
「見事。神速の太刀捌きを見るのは何年ぶりかな」
この少年、中々の剣の腕を持っている。しかし、過去に相対した英雄の様な段階までは達していない。ならばその剣に影鬼を葬るような神秘が隠されているかと、その剣に注意を払ったがどう見ても只の刀だ。
「となると」
ナイ神父は冬峰の内側まで覗く様に目を細めた。肉体的には只の人間。年齢相応の体格で、人より多少鍛えられている様だが、あくまで人の範疇に留まっている。
だが、彼は影の牢獄を破り、影鬼を葬り去る偉業を成し遂げた。
「さて少年。影鬼を葬ったのは大した腕と褒めておこう。しかし影鬼程度でこの危機を脱したとは思わんことだ」
ナイ神父の足元から巨大な鳥の翼が生えてきた。それは二、三度羽搏くとそれに応える様に犬と思われる前足が同じようにナイ神父の足元から伸び上がり、公園の地面を踏みしめ鋭い爪で引っ掻いた。次に現れたのは眩い光を放つ黄金の王冠で、それは三重冠と呼ばれる特殊なものだ。そして王冠の下にある顔は奇妙な事に黒い絵の具で塗り潰されたかのように、眼も口も鼻も無くただ光すら飲み込むような暗黒の渦巻く洞窟が口を開けている。その奇妙な頭部に続き犬、いやこの形状はアフリカのサバンナの掃除屋であるハイエナであることが見てとれた。
五メートル程の全身が現われ、その禍々しさと神々しさの入り混じった威厳をもつ姿を見たフェランは何かを思い出したかのように声を上げた。
「鋭く尖った鉤爪に禿鷹の翼、ハイエナの胴体を持った三重冠の王冠を被った貌の無いスフィンクス。教授に聞いたぞ。古代エジプトのネフレン・カの治世に現れた異形の神。その正体は這い寄る混沌!」
フェランの指摘にナイ神父の笑みは深く歪な物へと変化する。ようやく気付いたかと、不出来な学生を見下ろす教授の様な笑みでフェランと冬峰を嘲弄した。
「無貌の神、ナイアルラトホテップ!」
無貌のスフィンクスの羽搏きで巻き起こる突風に、フェランと冬峰は両腕で顔を庇いしゃがみ込んだ。
そのスフィンクスの圧倒的な存在感は深き者共や不死の指導者を凌駕しており、昨晩御門家に顕現したロイガーに匹敵する。
そして、フェランにこの状況を如何こう出来る手段は無く、影鬼によってもたらされる予定だった死が別のモノにすり替わっただけに過ぎない。
そして少年は、何時もと変わらない茫洋とした面持ちで眼前の脅威をぽけっと眺めている。
「大袈裟だな、これ」
冬峰の呟きにフェランは大いに同意したかったのだが、それどころではない事態が起こりつつあった。
異形のスフインクスの翼から数枚羽根が抜けて宙に浮かんだ。その羽根は紫色の光を纏って根元を冬峰に向ける。
「おっさんは下がってろ。巻き込まれるぞ」
「わ、解った」
言い終らぬうちに羽根は冬峰に向かって銃弾をも凌ぐ速度で、その肉体を穿つべく飛来した。
空気のはためく音を残して姿を消した冬峰の立っていた場所に、数枚の羽が地面に突き刺さる。
「あ」
小規模な爆発に巻き込まれ背後へ吹き飛ばされたフェランだった。冬峰の指示通り彼から距離をとっていなければ確実に命を失っていたであろう。
冬峰は短距離ランナーすら凌駕する速度で公園の遊歩道を回り込んで、飛来し続ける羽根から逃れていた。機関銃から放たれる弾丸の様に引っ切り無しに襲い掛かる羽根は、冬峰の背後に紫色の爆炎を起こし続けて、その光景は炎を纏った竜が暴れているようにも見える。
冬峰が疾走する方向をスフィンクスに向かって転じた瞬間、一枚の羽がその身に接触するかのように見えたが、長脇差に一閃され冬峰が通り過ぎた後に爆散した。
スフィンクスまで残り三メートルを切った位置で冬峰は地面を蹴って跳躍、長脇差を頭上に構えて斬撃の体勢を取る。
だが、スフィンクスも冬峰の攻撃は予想済みだったのか、本来顔の有るべき場所に開いた大穴から白く輝く光球が発射された。
それは空中で避ける事の出来ない冬峰と接触して、彼の身を一瞬の内に青白い炎に包みこんだ。
長脇差を振り上げたまま青白い炎を上げて落下する冬峰の姿にフェランは目を閉じて顔を背け、ナイ神父はその笑みをますます深いものとする。
しかし、その笑みは強張り目には驚愕の色が浮かんだ。
炎に包まれ地面に崩れ落ちると見えた少年が地面に足を付けた瞬間に、何事も無かったように炎が消え失せて長脇差を一閃したのだった。
スフィンクスの右前脚が半ばまで切り裂かれる。
「!」
今度は冬峰が顰めて背後へ飛び退いた。
スフィンクスの切り裂かれた右前脚を黒い煙の様な何かが吹き上がり、一瞬の内にその傷を埋めて塞いでしまったのだ。
「やっぱり」
冬峰は己の斬撃が無効化されることに予想をしていたのか、さほど衝撃を受けた風も無く〈右定膝刀勢〉、右足を前に出して膝を曲げ、相手に対して半身で中段に長脇差を構える向身晴眼、新陰流の青岸の構えによく似た姿勢でスフィンクスに相対した。
「成程、我々の攻撃を無効化する方法を君は身に付けているのか。しかし、君にそんな加護が与えられた形跡は見られないんだがね」
ナイ神父は顎先に手を掛け、高難度の数式を解くかのように眉を寄せる。その仕草は妙に人間臭く、彼がフェランの指摘した様な〈K〉と同等の危険な存在とは一見しただけでは解らないであろう。
「あんたこそ意地が悪いだろう。いくら攻撃してもあんたは痛くも痒くも、いや、少しは堪えるだろうが無視できる程度のダメージだろう。そりゃそうさ、あんたは此処に居ないからな」
ナイ神父はほう、と息を漏らして少年を見返した。出来の悪い生徒がやっと答えを見つけた事を喜ぶかのように深く頷く。
「あんたはスピーカーか操り人形みたいなものだ。あんたの本体は遥か遠くの別の場所で、俺達を意地の悪い笑みを浮かべながら見物してるんだろ」
冬峰は一旦言葉を切って黒衣の紳士の反応を窺った。
「正解だ。よく看破したものだ。いつ気付いたのかね」
「あんたの影に呑まれて目を覚ました時さ。影の中にも化物が数匹いたけど、一際強い気配が暗闇の向こう側から吹きつけて来たからな」
「なら解るはずだ。君が私をいくら攻撃しようとも、私自身は痛痒を感じない事を。それとも君は私に、その一刀を届かせることが出来るのかね」
「出来る」
「ほう」
短い冬峰の答えにナイ神父の瞳が赤く輝く。ただ激昂する訳でもなく、面白そうに口角を僅かに吊り上げているのが彼の内心を物語っていた。
冬峰の答が戦いの再開となったのか、スフィンクスの前足が一歩踏み出される。
冬峰は長脇差を剣先を上に向けて柄を顔の左横まで上げた。柳生新陰流の〈左太刀〉の構えだ。
目を閉じて心を鎮める様に己の内側へ意識を向ける。
そしてその心臓の上にある黒く深い孔に集中した。
その穴は彼が物心ついてからずっとそこに存在していた。
幼い彼はいつも自分がその中に引っ張り込まれるのではないかと非常に恐れており、実際にその穴に引き込まれるような感覚を覚えると、今自分は誰なのか、自分の目の前にいる人は何なのか、自分は昨日はどうだったのか、それらが思い出せなくなっていた。
そして笑い方とか悲しみ方とか痛み方とかそういったものがどんどん希薄になっていく。
何か大切だったかもしれないものがどんどんその孔に消えていく。
今、彼が意識を繋いでいるのはそんな己の内にある孔だ。ぐらりと脱力感に苛まれ膝を屈するのを堪えて更に剣先を上げる。
新陰流の〈霞太刀〉、示現流の〈逆トンボの構え〉に似たその構えは、冬峰は〈朝天刀勢〉と教わった。
冬峰はその高々と上げた剣先から己の足先まで、己が一本の剣となる様に意識を集中させる。自分の胸に開いた孔から広がる喪失感もそれを伝う様に剣先まで届く。
それは巨大な手で己の意識を掴まれ、引き抜こうとされる感覚であった。
それが限界を迎える前に冬峰はスフィンクスへ跳び込んだ。
いや、跳び込んだ様に見えるスピードだが、実際には駆け込んでいるのが正しい。〈朝天刀勢〉の姿勢のまま己の両踵を上げて爪先に体重を掛ける。倒れ込む身体を足先を前に滑らせて支え、またそれを繰り返す。それを驚異的な速度で繰り返し、瞬間移動の様にスフィンクスの正面に現れた。
「いえええっつ」
頭上から袈裟懸けに振り下ろされた剣筋は、フェランに空間を切り裂いたように錯覚させたように鋭く、スフィンクスの両前足の間、胴体に斬撃を送り込んだ。
地球より遠く離れたある暗黒星雲の一か所。
そこは光すら届かぬ漆黒の闇の中、ある存在が咆哮を上げていた。
その存在は三つに分かれた燃えるような光を放つ目と巨大な翼を持った不定形に形を変える黒い影であり、その周囲を同じく不定形に形を変えるものが、蠢く度に調律の誤ったフルートの奏でるような音を立てて衛星の様に回転し続けている。
その存在は何十億年以上、この場所でこの狂ったフルートの音色を聞き続けており、その存在自体でも気が付かない退屈という物を内側に溜め込んでいた。
千以上の存在の分身ともいえる端末の拾う情報も、殆どがその存在を崇め奉る類の者であり、彼の怠惰を終わらせる様な興味を引くものなど絶えて久しかった。
今この瞬間までは、そうであった。
- Re: 天門町奇譚 ( No.30 )
- 日時: 2020/07/22 01:22
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
前触れも無く不死に近い彼の肉体を衝撃が通り抜けた。それは彼の肉体を僅かに傷付けたに過ぎないが、それ以上にその存在の生命力を焼けた火鉢を押し付けられた氷の様に急激に奪い去った。本来彼の不定型な肉体を傷付けるものなど皆無に近く、仮に傷付けられたにしても瞬時に塞がるものである。
しかし、今味わった衝撃によって生じた裂け目は一向に塞がる気配も無く、その衝撃を受けた端末は消滅と、その他多くの端末へダメージを転移していた。
その事実は怠惰に微睡んでいた存在の意識へ僅かな苛立ちと、それを遥かに上回るその衝撃を与えた者への好奇心を浮かび上がらせていく。
吠えた。
歓喜に震え吠える。
その咆哮は従者の狂ったフルートの音色を打消し、暗黒の宇宙にてその声が聞き取れるもの達に畏怖と歓喜を与え続けた。
そして天門町の公園では一つの戦いが終わろうとしている。
少年は一刀を振り下ろした姿勢のまま両膝をついた。前のめりに倒れそうな身体を、長脇差の刃を地面に立てて何とか支える。
手応えは有った。その一刀を受けた異形のスフィンクスは刃が通り向ける直前に黒い霧となって飛び散り、その傍らで少年の戦いを観戦していた黒衣の紳士は、端正な顔を苦痛に歪めて少年と同様に膝を付いている。
冬峰は異形のスフィンクスが消滅すると同時に味わった脱力感と吐き気に辛うじて耐えていた。己の心臓に、スフィンクスを構成する何かと、冬峰自身の生命力と意識が、ごそり、と吸い込まれて持って行かれた感覚は酷く不快であった。
「……これは、信じがたい事だ」
ゆらりとナイ神父が立ち上がる。その蒼白な肌色と乱れた長髪は病み上がりの貴公子の様で、多感な女学生が目にとめれば、歓声が沸き上がるだろう。
「その技の力か、いや、君だな。君に何があるのだ?」
ナイ神父は目を細めて、冬峰の存在そのものを見透かすように凝視した。
そして、何を見つけたのか眉を顰める。
「君は、いや、まさか」
フェランはナイ神父がこのような呆然とした声を上げるのを予想だにしなかった。ナイ神父の視線を追う様に冬峰へ目をやった。
「そうか、それなのか」
髪を掻き上げたナイ神父の唇が両側に吊り上がり、瞳に愉悦の色が灯される。
「何だ、君の胸に開いた孔は何なんだ」
その問い掛けに冬峰は応えないがその問の意味は知っているのか、歯を食いしばった冬峰は視線を落として沈痛な面持ちをしていた。
「よく、あちら側に通じる通路が胸に開いて生きているものだ。その向こうは死で無だ。生半可な呪いや魔力は、いや、その穴だと大抵のものはそこに吸い込まれるな。だが、君の命、存在も少しづつ吸い込まれているぞ」
余程面白いものを見つけたのか、ナイ神父は掌で顔を覆い笑いをかみ殺した。その体が少しづつ宙に浮いて行く。
「いや、面白いものを見させてもらった。その礼としてここは引いておこう。ミスター・フェラン以外に面白いものが無いものと思っていたが、君の様な存在に出会えるとは。まだこの世界も捨てたものでは無いな」
ナイ神父は徐々に色彩が薄くなりつつある己の姿を気にした風も無く、何かを思い出した様に指を鳴らした。
「そうそう、この情報もサービスとして教えてあげよう。我々旧支配者の同胞であるイタカだが、如何やら君達の姫君を攫うつもりが、逆に返り討ちにあったらしい。君以外にも恐ろしい相手が居るものだな。これなら、あの少女の能力も我々の期待以上の役割を果たしてくれそうだ」
冬峰の顔が上がり両膝を伸ばすが、バランスを崩した様に前のめりに倒れる。
「貴様、千秋をどうするつもりだ」
ナイ神父は肩をすくめた。
「〈K〉の奴等の願いは、何時もひとつしかないさ」
「大いなる〈K〉、クトゥルーの復活だな」
フェランが冬峰の疑問に答えた。普段の茫洋さは息を顰め、視線で射殺す様にナイ神父を睨み付ける。
「どうやって大いなる〈K〉を復活させる。またアメリカ西海岸同様、大いなる〈K〉の血筋を確保しているのか」
「どうするかはこの狂宴のラストステージに来れば解る。ルルイエだ。ルルイエに来たまえ」
「ルルイエ」
フェランは戦慄を含んだ声音でその名を繰り返した。一生忘れる事の無い、ある怪奇作家の創作とされていた邪神の眠る島。
「ルルイエで、君と私の決着を付けることにしよう。君が招待に応じてくれることを期待しているよ」
黒衣の紳士の姿は完全に消え失せ、声のみが夜の静寂に木霊する。
それから数秒後、フェランは声が完全に途絶えた事を確認してから、地面に片膝を付いた冬峰に歩み寄り手を差し出した。
冬峰はその手を掴まず、よろめきながらも独力で立ち上がり長脇差を鞘に納めて歩き出す。
フェランはその背中を苦笑を浮かべて見送り口を開いた。
「ルルイエまで出てくるとはな。こうなると軍への協力要請が必要だが、君はまだこの件に係わるのかい?」
冬峰はフェランに背を向けたまま歩み続ける。
「千秋が其処に居るなら助け出さないと」
「やめておいた方が良い。あの島に居る存在は我々の理解の範疇を超えるものだ。先のナイ神父に匹敵するだろう。ナイ神父、いや無貌の神と大いなる〈K〉、その二つを刀一本で相手するのは自殺志願者のすることだぞ」
冬峰はその忠告を耳に入らなかったかのように背を向けたまま公園を出た。
フェランは早足で冬峰の前に回り込み、その正面に立ち塞がる。両肩を掴んで言い含める様に静かな声音で語りかけた。
「聞け。アメリカ西海岸で派生した大異変の元凶となった大地震。あれはその場所で人間から大いなる〈K〉に変化した青年の力によるものだ。そしてその青年は大いなる〈K〉を信奉する組織によって攫われた女性が、大いなる〈K〉に蹂躙され受胎させられて産み落としたんだ。その女性は青年を生んだ後亡くなったよ」
「……何が言いたい」
「ナイ神父も言っていたな、〈K〉の目的は大いなる〈K〉を復活させることだと。だから千秋君、彼女がそれを産み落とす母体に選ばれているとしたら。ルルイエが復活して我々が彼女を見つけ出した時に彼女が大いなる〈K〉を宿していたら、世界を守る為に彼女を殺さなければならないんだ。君にそれが出来るのかい?」
「……」
冬峰は視線を落とした。その選択を彼女を守り続けていた少年に問うのは残酷な事だろう。だから、千秋が攫われた以上、フェランは冬峰にこの件から手を引いて欲しいのだ。
手を汚すのは自分でいい。フェランにはその覚悟があった。
「これから先、君は関わるな。何もかも忘れて静かに暮らせ」
フェランは冬峰の両肩を放して一歩離れた。
千秋を手に入れた以上、〈K〉の連中は大いなる〈K〉の復活を急ぐだろう。ルルイエの浮上もそう遠く無い筈だ。早急にソロモン機関や各国の軍隊、諜報組織と連絡を取り手を打つ必要がある。
フェランは冬峰に背を向けた。明日中にも此処を離れて南に飛ぶ必要がある。
「何度も死にそうな目にあってきた。今更、命を惜しめと言われても、そんな生き方なんか思い浮かばないな」
フェランの背に届いた少年の反論は、フェランの足を止めて振り向かせるほど静かで、機械の出す回答の様に感情を含まないものだった。
そして、それを答えた少年の眼は光は茫洋としたもので、その唇の浮かんだ苦笑はただ、その形に唇を動かしただけの空虚なものの様にフェランは見てとった。
「でも、千秋を守ることは、俺と彼女の間に交わした約束だ。それが俺の存在意義だ」
冬峰の眼に光が戻る。それは力強くフェランを見返した。
「俺は何があっても千秋を連れ戻す。それだけだ」
その静かな気迫にフェランは気圧される。未来を恐れず一歩を踏み出せる強さに羨望さえおぼえた。
「そうか、なら明日の朝、迎えに行く。後悔するなよ」
「する暇などあるの?」
「無い」
フェランの回答は簡潔だった。
6
「う……」
千秋は身体の節々に痛みを覚え、無理矢理意識を覚醒させられた。
畳み部屋に両手足を縛られたまま寝かされており、両手首と畳に接した右肘、右膝に軽い痛みを覚えた。
「此処は?」
室内を見回すと家具ひとつない室内に襖と、その反対側に格子戸があり、そんな座敷牢の様な部屋に無造作に寝かされていた。
身に付けた純白のワンピースの湿った乾き具合から、自分が攫われてからまだ日が経っておらず、まだ日本に居る事が予想される。
そして彼女は思い出す。自分を守ろうとした従弟が深き者共に襲われる姿を。
千秋は己の意識の覚醒と共に顔を伏せた。あんな状況ではいくら冬峰といえども無事では済まないのではないか。生き残っているのは自分一人だけではないかと。
また涙が零れる。もし彼が命を落としたのなら、それは私のせいだ。
私が彼の護衛を、冬峰の申し出を突っぱねていれば、彼は無事でいられたのではないか。
声が聞きたかった。彼の茫洋とした眠たそうな口調で元気づけて欲しかった。
自分でも驚いている。わずか数日で、茫洋とした従弟の存在がこれ程自分の中で大きくなろうとは、全く予想だにしなかった。
無事でいて欲しい。
不意に荒々しい足音が室外から響き、襖が音を立てて開かれた。
「目を覚ましたか。クソガキ」
濁り血走った眼で彼女を見下ろしたのは、事件の始まった夜に彼女を攫おうと声を掛けた〈K〉の一員である紺背広だった。ただ、あの夜はこざっぱりとしたエリートビジネスマンのような姿だったが、今は後ろの撫で付けた髪も乱れて跳ね起きており、細面の顔を無精髭が侵食した居る。背広も皺が目立っており数日間着た切り雀のようだ。
「今、自分がどんな境遇に落ちているかも知らず眠りこけやがって。おい、俺はお前等と係わってから不運続きだぞ」
足先を千秋の腹の下に居れ、勢いよく引っくり返した。あの夜は、千秋を丁重に扱えと命令していたのが間違いであったかのような態度だった。
「貴様等の往生際が悪い御蔭で、組織の長を失くしたんだ。代わりに海外から別の組織の代表がやって来て、〈K〉は丸ごとそいつの組織の傘下に下ると言いやがった」
紺背広はしゃがみ込み千秋のワンピースの襟元を引っ掴んで、乱暴に上体を引き起こした。軽く左手の甲で千秋の頬を叩く。
「俺は不死である指導者を失った責任を取って消されるかもしれん。だから何とかして手前を聞き分けの良い子猫ちゃんにしててなければならないんだ」
千秋は紺背広の憎しみに満ちた視線を受け止め、逆に睨み返した。
「そう、それはご愁傷様。私を放っておいてくれたら、そんな境遇に落ちなかったかも。自業自得ね」
紺背広は黙って千秋を見返すと右手を放して畳の上に千秋を落とす。更に畳の上に横たわった千秋の腹をサッカーボールのように蹴り飛ばした。
「!」
壁に背中を打ち付けて身体をくの字に曲げる千秋の髪を、紺背広は引っ掴んで壁に押し付ける。
「いいか、俺は手前に協力してくれとお願いしてるんじゃないんだ。お前が協力するから許してくれって縋り付くんだよ」
千秋に一言一言言い聞かせるように耳元で言い聞かせて手首を振る。苦悶する千秋の事などお構いなしに言葉を続けた。
「薬を使ってもいい。だがな、お前にはもっといいことを用意してやってもいい」
紺背広は意地悪い笑みを浮かべると、千秋の髪を引っ掴んだまま立ち上がり、千秋を畳の上で引き摺りながら格子戸の傍までより上から垂れ下がった鎖を引き下ろした。
木製の格子戸が引き上がり、その開いた空間から千秋の上体を突き出す。
下から吹き上げる風は潮の香りを含んでおり、八メートル程下に水面が見てとれた。
千秋が痛みに耐え乍ら目にしたのは、その水面の下から千秋を見上げる者達の姿であった。
それは、千秋達を千川で襲った半魚人、深き者共であり中には人の姿を保ったまま泳いでいる者もいる。
そして彼等の視線には、全て共通の感情が纏わりついているように千秋には感じられた。
情欲だ。
千秋の顔やまだ濡れたワンピースの胸や腰辺りに彼等が関心を向けていることを知り、彼女は嫌悪の鳥肌を立てた。
「此処は奴等の日本侵攻作戦の為に作られた入江だ。ここで彼奴等は集い繁殖して数を増やしていく。だが困ったことに奴ら同士の交配では、大抵は雄が埋まれて雌が生まれる事など滅多にない」
紺背広はその水面から覗く彼等を見下した様に冷たく眺めてから言葉を続けた。
「そうなると、あとは女を攫ってきて此処に連れてくるしかない。それでも追い付かない場合は俺達が女を調達しているがな。此処まで言えば、解るよな。奴等は人間の女性と交配することによって数を増やしていくんだ」
千秋の顔色が血の気を失う。そんな様子を紺背広は楽しむように不気味な笑みを浮かべた。
「お前はこれから、この下で犇めいている奴等の子孫の苗床となるんだ。奴等の女の扱いは乱暴でな、二、三回でぶっ壊しちまう。運が悪けりゃ興の乗った奴等に手足を喰われる奴もいるしな。それはそれで大人しくなって助かるんだが」
「い、嫌」
振り返ろうとする千秋の頭を奈落の方へ押しやる。楽しくてたまらない様に哄笑した後、千秋を引き戻す。
「まあ、大抵、心の方は一回でぶっ飛んで狂ってしまうんだが。地下にはそんな女が二十人ほどいる。それで女に飽きてくると食料となるんだが。お前は一回目が終わった後、俺達に協力するか聞いてやるよ。だから最初に狂わないように耐えるん……」
不意に紺背広は口を閉じた。畳に横たわった千秋の肢体を眺めて笑みを浮かべる。獣のような笑みだった。
「お前、中々良い身体つきをしているな。よし」
紺背広の右手が千秋の豊かな胸を濡れたワンピースの上から掴んだ。それのもたらす嫌悪感に千秋は身体を捩って逃げようとするが、手足を縛られて逃げる事も出来ない。
「初めては人間が相手してやるよ。いつか俺に感謝するさ。なあ」
「やだ、やだ、助けて。冬峰ーっ」
抗う千秋は絶望感にさいなまれていた。
自分の母親からもよそに売られ、攫われて不当な扱いを受けようとしている。そして自分を守ろうとした少年もいなくなった。
何故、私が。疑問が何度も湧く。
私に自由は無いのか。私に私の生き方を決める事は許されないのか。
私、は、そんな、御門家にとって、母にとってどうでもよい存在なのか。
あの家は、あの当主さえいれば満足威なのか。
その疑念は、彼女の意思に関わらず、この座敷牢にある変化を与えていた。
彼女を組み伏せようとする紺背広は気付かなかったが、座敷等の天井に黒く小さい穴が出現して少しずつそこに大気が引っ張り込まれていることに。
遠く信州の天門町で、邪神の来襲で荒れた庭先を掃除している女性が手を止めて切迫した面持ちで宙を見上げる。
「千秋さん? 駄目!」
遠く離れた漆黒の壁紙に絨毯で設えられた部屋で、同色のソファーに腰掛けた長身の紳士が笑みを浮かべる。
「これは、合格だ」
彼の姿が黒い霧に包まれていく。
家路に急いでいた少年が胸を押さえて地面に両膝を付いた。苦しそうに前屈みに背を折る。
「こんな時に、勘弁してくれ」
座敷牢で暴れる千秋をようやく抑え込んだ紺背広が、千秋の顔を覗き込んで下卑た笑みを浮かべる。
「大人しくしていろ。あの餓鬼なんか死んじまってるよ。諦めろ」
「いや、彼はしぶとい」
背後から掛けられた声に紺背広は、ぎょっとして手を止める。千秋は室内に黒い煙の様な霧が漂っていることにようやく気が付いた。
「全く、彼女は我々にとって大切な存在ということを、君の主人は説明したはずだが。私も丁重に持て成す様に指示したが、別の意味にとったのかね」
霧が一点に集まり人の形を取る。
「女性の扱いを教わらなかったのか。なら君はこの任務に相応しくないな」
長身で豊かな黒髪に浅黒い肌をした黒衣の美丈夫は、背広の内ポケットから煙草入れを取出し葉巻を指の間に挟んだ。マッチやライター等見当たらないのに独りでに葉巻の先端に火が灯る。
「去れ」
黒い霧が紺背広に集まり、彼を黒い球体に閉じ込める。それが瞬く間に縮小されて中から何かを砕くような音がした。
黒衣の紳士は葉巻を口に咥え息を吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
その球体はビー玉大から更に小さくなり、ついに肉眼で視認が不可能となり消え失せる。
横たわった千秋は突然現れた黒衣の紳士と救済に理解が追い付かず、ただ涙に濡れた眼で呆然とその光景を眺めるだけだった。その顔の前に恭しく掌が差し出され、両手足を縛るビニールロープが切断去れて畳に落ちる。
「立てないなら、手を貸しましょうか、レディ」
「……」
「ふむ、着替えもいるな。ここは陰鬱で仕方がない、移動しよう」
羽織ったジャケットを脱いで千秋の背に掛けてから、彼女の肩と両膝の下に手を通し抱き上げる」
「ちょ、ちょっと」
驚いて声を上げる千秋へ、白ワイシャツと黒ネクタイとなった紳士は笑みを浮かべる。
「しばらく我慢を、レディ。ここは私を従者と思って気兼ねなく」
千秋は紳士の、その整った精悍な顔を暫く無言で見上げてから諦めたように顔を背けた。頬が紅い。
「ああ、名乗り忘れていました。私の事はナイとお呼び下さい」
冬峰から受けたダメージは微々たるものだったのか、ナイ神父は千秋に邪気の無い笑みを向けた。
- Re: 天門町奇譚 ( No.31 )
- 日時: 2020/07/22 01:30
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
ナイ神父は千秋を俗な言い方をすれば〈御姫様抱っこ〉に抱きかかえて重厚な木製のドアの前まで歩み寄った。
「?」
千秋の記憶によると、出口は木製のドアでは無く襖だったはずだが、いつの間に変わったのであろうか。ナイ神父は両手が塞がっている為か、革靴の先でドアの下方を二度軽く蹴ってからドアの向こうに声を掛けた。
「私だ。レディをお連れした。ドアを空けてくれないか」
暫く待つと蝶番に軋む音を立ててドアが開かれ、住処からスーツ姿の少女が顔を覗かせた。
その少女の白磁の様な白い肌に、襟足で纏められた銀髪と、切れ長の銀色の瞳に魅せられて千秋は息を呑んだ。
「お帰りなさいませ。ご主人様」
深々と一礼する。ほぼ千秋と同じ年齢の外観をしている。
「お夕食とお風呂どちらを先になさいますか。それとも私?」
「……」
「……」
棒読みの少女の言葉にドアの前で固まるナイと千秋。じろり、と千秋がナイを見上げて睨み付ける。
「……アナベル、その日本語の使い方は間違っている。済まないが彼女に着替えを」
「承知しました」
アナベルは恭しく一礼して二人に背を向けて歩き出した。
ドアの向こうには、黒い壁紙に黒い絨毯、黒い革張りのソファーに黒い重厚なテーブル。その部屋をこればかりは豪華な装飾を施したシャンデリアが白光を放ち照らし出していた。
その部屋の煙草入れ、奥のカウンター、壁際のワインクーラー等、詳しくはない千秋の眼にもそれが一流の品であることが見てとれるものばかりだった。
床に下ろされ不安げに見上げる千秋へ、ナイは微笑みかけた。
「彼女が君の着替えを用意してくれる。着替えたら話をしよう」
銀髪の少女は千秋に一礼すると再び背を向けて歩き出した。付いて来いという事だろう。
千秋は少女に続いて部屋を出た。暗い廊下に開けられた窓から外をのぞく。
「?」
窓の外の風景は海では無く、林立するマンションなどの高層建築と、アスファルトで整備された道路とそこを行きかう車と人であった。
窓から離れて反対側の壁に背を付ける。一体、いつこんなところへ移動したのか、一体ここは何処なのか、千秋は案内する少女へ顔を向ける。
「何か?」
「此処は、何処なの?」
「私は日本の地名には疎いのですが、確かこの国の首都とか聞きました」
小首を傾げて答える少女の言葉に千秋は呆然とその地名を口に乗せる。
「首都、帝都〈東京〉」
予定なら千秋はこの街からソロモン機関の本部へ移動する予定だった。するとナイ神父はソロモン機関の一員なのかと千秋は疑問に思った。
「こちらへ」
再びアナベルに後に付いて歩き出す。
廊下の途中に木製のドアがあり、そこを通り抜けると上階へと通じる階段があり、アナベルはその前で千秋を振り返った。
「お客様、申し訳ありませんが、この館でお客様の年頃の着替えとなると、私のシャツとスカートをお召しになって戴くことになります。もしお気に召されないのであれば、ご主人様に可愛い服が着たいと私と一緒に交渉することになりますが、いかがなさいますか?」
「……私は服装にはこだわりは無いのでスーツでも問題ありません」
「……遠慮はいりません。どうぞ正直に」
「遠慮していません」
アナベルは表情一つ変えず、じっと千秋を観察するように銀色の瞳で見つめていたが、不意に背を向けて階段を上がり始めた。
千秋はその後に付いて行ったが、何故か精神的な疲れを感じてため息を吐く。
数分後、アナベルの用意した衣服に着替え、アナベルの後に付いてナイの元に戻ると、ナイとアナベルとよく似た少年が、掌より僅かに起きい木箱を前にして何事かを話し合っていた。
二人が帰ってきたことに気付いたナイ神父は千秋を目にして満足そうに頷いた。
「ふむ、君には清楚な服装がよく似合う。少々、サイズが小さかったようだが」
ナイ神父の指摘したように、シルクのブラウスの第一と第2ボタンは千秋がどう頑張っても嵌めることが出来ず、少々ルーズな着こなしとなってしまった。
「は、はい。済みません」
千秋は恐縮して、つい誤ってしまったが、その背後に控えた銀髪の少女が己が主人の感想を聞いて眉を顰めた事を誰も気が付かなかった。
純白のシルクのブラウスに紺色の綺麗な折り目のついたやや厚手のスカート、これも絹のストッキングとアナベルと御揃いの服装となった千秋は、ナイ神父の傍らに立つ銀髪の少年へ一礼した。
「よろしく。でも普段見慣れている服装でも、身に付ける人によって印象は変わるんだね」
アナベルと同じ顔をした癖のある銀髪のベスト姿の少年は邪気のない笑みを千秋に向けた。アナベルが無表情なのに対して、この少年は柔らかい笑みをいつも浮かべている様だ。
「エドガー、私は見飽きたのかしら」
「いや、そんなことないよ。姉さんはいつ見ても美人だし」
二人のやり取りについ、千秋は笑みを浮かべてしまう。
「二人共、レディが呆れているぞ。全く、彼等はこう見えても私の世界では有名なフルート吹きなんです」
ナイも苦笑を浮かべて千秋に対面に腰掛けるよう手で示した。
「さて、飲み物は何にする。好きな物をリクエストして構わないよ」
「それじゃあ、コーヒーを頂けますか」
数分後、珈琲はエドガーが、バウンドケーキはアナベルが千秋の席の前に並べて恭しく一礼した。
千秋は珈琲を一口含んで味を確かめる。酸味の後に甘味が口の中で広がる。エチオピアの豆だろうか。
「一息ついた事だし、本題に入ってもいいかね? 御門千秋君」
「今の私に、嫌だと返答する権利があるとは思えませんが」
千秋の答えにナイ神父は苦笑を浮かべて手を振った。
「確かにそうだ。君にはどうしても我々に協力して貰わなければならないんでね」
千秋は警戒したのか、目を細めてナイ神父の端正な顔を睨み付けた。その視線を平然と受け止めてナイ神父は言葉を続ける。
「薄々解っていると思うが、私があの陰鬱な座敷に居合わせたのは偶然では無い。〈K〉も私もある存在に隷属する立場でね。私は本来、別の存在に仕えているんだが、その存在から〈K〉の手助けをするように指示があってね。君を探していたんだ」
千秋はナイの言葉に落胆したように、肩を落としてため息を吐いた。
この慇懃な態度で接してくるナイも、あの仮面をかぶった魔人達同様に、千秋や春奈達の御門家の能力を手に入れるべく助けたのだと知ったからだ。
「それで、私をどうするつもりですか。聡い人なら私の様な細やかな力しか持たない出来損ないより、多少手強くとも御門家の当主を手に入れようとするでしょうね」
千秋の言葉にナイ神父は自嘲するような笑みを浮かべた。
「勿論、別の一派でも力ある者がその本家に二度、強襲をかけたのだが、君も知ってのとおり一度目は戦闘継続不可能になる程の深手を負って撤退、二度目は手も足も出ず滅ぼされたらしい。代行者の黄衣の王は行動不能。手下のロイガーは深手を負い、イタカは滅ぼされた。闇の皇太子の面目丸潰れといったところかな」
ナイは味方が苦戦している様が面白いのか、自嘲に冷笑を咥えたような複雑な表情を浮かべる。
「たかが東洋の島国の魔術師、容易く軍門に下るだろうと高を括ったのか、油断し過ぎだな。〈K〉の不死の指導者、黄の王、ロイガー、イタカ。この件に関わって深手を負った、もしくは滅んだものがこうも出てくるとは」
ナイ神父の両目に冷たい光が満ちてくるのを感じて、千秋の背に冷たいものが差し込まれた。
千秋は思う。やはりこの一見紳士風の男も何か別の者だろうと。
「しかし、私も人のことは言えないな。君の護衛に手痛いしっぺ返しを食らったよ」
相好を崩し手を打つナイ神父に、千秋は腰を浮かせた。
「護衛って、それ……」
「ああ、君の守り手である少年剣士だよ。言っただろう、彼はしぶといと」
千秋は力が抜けたように深々とソファに身を落とした。
「そう、生きてたんだ」
放心したような気の抜けた表情で呟くと、俯いて両手で顔を追った。
声を上げる事も出来ない。なぜ、己が泣くのか、それも解らずただ涙を流す。
ナイ神父はそんな千秋の姿を、ただ黙って見ている。
無貌の神とも呼ばれ恐れられる彼であるが、千秋を見守るその姿は普段の冷笑癖も鳴りを潜め、迷えるものを見守る守護者の姿のようであった。
「冬峰は、今、何処にいるんですか」
暫くして落ち着いたのか、千秋はエドガーから手渡されたハンカチで両眼を拭いながら尋ねる。
「彼はまだ天門町だ。彼に会いたいかね?」
千秋は目を閉じて俯いた後、左右に一度ずつ首を振った。
「解りません。ただ、理由は解りませんが彼は己が傷ついても私を守り通そうとするでしょう。それは間違いありません」
「それは間違いないな」
ナイも同意する。
「だが、彼は特殊だ。彼の身体にはある異常があり、その異常故に我々に対する脅威となっている。その異常は何か、君は知っているか」
すうっと千秋の顔から血の気が引いたが、彼女は首を左右に振ると何も知らない事を意思表示した。
「いいえ、ただ母や本家以外の一族は冬峰を忌避しています。冬峰は数年前まで海外で少年兵として戦地を巡っていました。ひょっとしたら彼を亡き者にしようとしたかも」
そうだ、彼が帰って来た時、私は彼と自宅の庭先で会っている。私は何を話したのか。
「彼は肉体的には何の異常もない。だが彼の魂というべきかな、それともエーテル体か。その心臓に孔が開いているんだよ」
ナイ神父の指摘に千秋を目を見張ってその顔を見返した。
「孔って」
「孔は孔だ。何らかの理由で彼の胸には穴が開いている。私が見たところ、その穴は我々ですら知らない、また知り様の無い〈虚無〉もしくは死そのものに繋がっているようだ。普通、そんなところに穴が開いていれば魂自体が吸い込まれ消滅している。入れ物の肉体も直ぐに滅びるだろうよ。しかし、彼はそれを持ち堪え生き永らえている。強固に己を保っているようだ」
ナイ神父は感心したように首を上下に振った。千秋は手を口に当てて、ナイ神父の言葉のもたらした衝撃に耐えていた。
「彼が我々に対抗出来たのは、此れまでの戦闘経験と技術や己を繋ぎとめようとする意志、それに皮肉にも彼自身を死に至らしめようとする孔による浸食だろう。彼に攻撃されるとされたものはその孔に存在を吸い取られるからな。更に魔術による攻撃はその術式を構成する魔力がその孔に吸い込まれて、彼に大した効果を与えられない。正しく我々に様な存在に対抗する抑止力だ」
肩の高さに手を上げて首を振ったナイ神父は、舞台俳優の様にその両掌を返して千秋に向けてため息を吐いた。
「だが、それは彼自身の寿命を縮めることになるだろう。彼が剣を振るい我々の眷属をその穴に叩き込む度に、彼自身の存在も少しずつ削られ希薄になっていくのだから」
「……そんな、そんなこと」
彼に守られていた。彼は守るといった。
それが冬峰自身の命を削り、死に至らしめる。
「冬峰を死なせるのは、私?」
守り続けて命が絶えるか、それとも戦いの最中に膝を屈するのか。何れにせよ千秋が〈K〉に狙われ彼が闘い続ける限り、彼の耳に死神の足跡は確実に近付いて来るだろう。
どうすればいい。私はどうやって彼を守ればいい。
千秋は組み合わせた両手を額に当てた。彼をこの件から手を引く様に働きかけることは出来ないか、元々母は冬峰が同行することを潔しとしなかった。なら、私の警護が失敗したなら、彼は役立たずとしてこの件から外されるのではないか。
「それはどうだろうね」
千秋の胸中を読み取ったのか、ナイ神父は立てた人差し指を左右に振った。
「むしろ君を奪われた責任を取らされて、ただ独りこの件に突っ込まれる可能性の考えた方がいい」
それもあの一族ならやりそうだ。そして冬峰が力尽きた頃に後始末として当主がやって来るのだろうか。
「正直、君の一族は君をどうしたいのか。困ったことに我々に君の存在を教えたのは君の一族の末席の者だ。心当たりは有るかね」
千秋は首を振った。思い当たる人物が居ないのではなく、余りにも多すぎて見当がつかないからだ。親族同士の仲が悪く、隙あらば蹴落としてやろうと様子を窺っているのが当り前なのだ。
本家や千秋達の様に能力者を有する者は御門家の中でも序列が高く、高天原からの覚えも目出度い。しかし、能力者を輩出する血統はそれほど多くなく、多くの一族の者は財を成して本家をサポートする役目を負っている。
能力者を有しておらず、また財も限られたものしか持ち合わせていない者は働き蟻の様な扱いを受けるのだが、それでも時折手にする御門家の名のもたらす恩恵にすがる者が多いのもまた事実だ。
「そうか。なら君は自分がどのような力を手にしているか知っているかね」
千秋はまたも首を振った。千秋は自分はおろか、春奈の能力さえ目にした記憶がなかった。
今回の件が無ければ、朱羅木や青桐の異能さえ目にすることがなかっただろう。
「なる程、君自身ですら知らない、もしくは覚えていない君の能力を知る者。そんな者が末席に居る事はあり得ないな。とすると、我々に情報を与えたのは限りなく君達の一族の中枢にいる者。または中枢そのものか」
高天原が千秋の情報を〈K〉の者に与え、千秋を襲わせる。千秋はそんなことは無いと否定したいが、その確証は無かった。己の母親すら御門家の為なら、他の組織へ実の娘を人身御供に捧げるのだ。否定出来る筈が無かった。
「それは、何の為に? そのせいで私だけじゃなく当主の身も危険に晒されたのは、リスクが高いと思いませんか」
「ふむ、それはいい質問だ。それに対して私は仮説を立てているのだが、聞いてくれるかね」
「……」
ナイ神父は控えめに同意を求めているが、その眼はどこか愉悦が浮かんでおり如何にも説明したそうだ。千秋は内心、話が長くなりそうだなとか、断ってもどうせ聞かされるんだろうな思ったが機嫌を損ねても困るので拝聴させて頂くことにした。
ナイ神父はソファアから立ち上がり、腰の後ろで手を組んで部屋を歩き始めた。
エドガーとアナベル、二人の従者は「ほら、始まった」と半ば白けた表情で己の主人を見やっており、千秋の心に僅かな不安を与える。
「私は御門家が君を使い何を企んでいるか、三つの仮説を立てた。まず一つ目」
右人差し指を立てて前後に振る。
「君をソロモン機関に貸し与えることによる、ソロモン機関への影響力を大きくする。大異変後の世界で我々に対抗する戦力を保有し、世界に対する発言力を高めているソロモン機関での御門家の、いや日本の皇の地位を確立して世界へ影響力を確立したい」
ナイ神父は部屋の端まで歩きくるりと踵を返す。突き出した右手の人差し指と中指を立てているのを見て、アナベルが小さくため息を吐いた。邪神探偵此処に参上。
「二つ目は襲い掛かる我々を撃退することによる、御門家の保有する戦力のデモンストレーションを行う事。君と当主に襲い掛かる我々を排除して、御門家の有用性をアピールする。これは営利目的としてその後、世界各国に当主を初めとする使い手達を貸し出すことを考慮しているのだろうな」
千秋は豊かな胸の前で腕を組んだ。今まで聞いた二つの仮説、どちらも正しい様な気がするのだ。
「三つ目なのだが……」
薬指を立てるナイ神父は千秋を見下ろし、己の胸に手を当てて如何にも話したく無い様な仕草を見せた。何処となくワザとらしく千秋の癇に障った。
「なんです?」
ナイ神父は左右に首を振った。わずかに口元が動き何か呟いたが、その内容を千秋は聞き取れなかった。
「いや、君にとって、この三番目の仮説は残酷なものと思ってね。聞いても君には不快さしか残らないが、それでも聞くかい?」
千秋はナイ神父の端正な顔を見返した。
此処まで話しておいて、そこから先はあなたの判断だ、そう黒衣の神父は問い掛ける。口元に浮かんだ笑みは、千秋を安心させるためのものか、それとも哀れな子羊を嘲笑したものか、千秋には判断出来なかった。
千秋は目を閉じて深呼吸する。この黒衣の男も千秋の能力を利用しようとしているのだろう。しかし嘘はつかない。そんな気がした。
「大丈夫、話して」
ナイ神父も彼女の決心した力強い眼差しを受けて小さく頷いた。
「三番目の仮説は、我々に君を奪わせて我々の目的をある程度、達成させることだ。我々の目的は〈大いなるK〉を復活させることだが、あえてそうさせて御門家の持つ能力を誇示する。君はその為の人身御供だ」
「……」
千秋は組み合わせた両掌に力を込めた。彼の立てた仮説はどれも正しい。千秋にはどこか確信があった。そして、あることにも気が付き、ナイ神父の顔を見返す。
「私を試しているのですか?」
「さて、レディには真摯に対応するのが私の信条でね」
レディだけですよね、と指摘するエドガーを無視して千秋に微笑みかける。
「三番目の仮説は重要な部分を抜いてるんじゃないですか」
「そうかね、私には解らないが」
「私にすら解るんですから、あなたが気付かないはずがありません。あなた方の目的をある程度達成した私を処断することにより、まだ若い御門家当主の力と権威を御門家一族、皇や世界に知らしめる。それが真の目的でしょう」
「……」
- Re: 天門町奇譚 ( No.32 )
- 日時: 2020/07/22 01:37
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
「……」
ナイ神父は目を閉じて髪を掻き揚げた。おそらく正解だろう。
結局、私には自由が無く、ただ使い捨てされるだけの存在だった。御門家も〈大いなるK〉も大した違いはないではないか。千秋は自嘲した。もう悔しいと思う気持ちさえ持てそうもない。
「私の仮説は話した。それで君はどうするね」
千秋は意外な言葉を聞いたとでもいうように目を見開いてナイ神父を見上げた。
「強制はしないんですか」
「無理矢理かね? 君はまだ我々に敵対行動は取っていないし、今は巻き込まれただけの被害者だ。本人の協力がなければ我々の必要な力も手に入れられないだろう」
両手を広げて宙を仰ぐナイ神父に苦笑を浮かべる。
正体不明の怪しい人物で、変な能力を持っている。本当に警戒すべき危険人物は彼なのだと千秋には解った。
「我々に協力する気がなければ、ここから解放して北欧への飛行機便を取ってもいい。そこへ逃げても君の一族やソロモン機関の手は伸びてくるだろうな。そして君はいつまでも彼等の都合の良い道具のまま一生を送る」
「まるで、貴方達は違う、そう言っているように聞こえるのですが」
そうだな、とナイ神父は葉巻を加える。
「君は我々にとって必要な存在であり、君達の一族の様に君を使い捨てに出来るほど恵まれてはいないんだ。むしろ君にとっても我々に協力することは、君を使い捨ての道具とした君の一族から君自身を守る為に利用すべきだと、私は、そう考えている」
ナイ神父は千秋を魅了するように笑みを浮かべた。私は君を守ることが出来ると自信に満ちた笑みだった。無謀の神、人は彼をそう呼ぶ。
「君はどうする。君の意思を尊重するよ」
再度、ナイ神父の問い掛けに千秋は決意した引き締まった表情で答えを返した。彼の言いたい事は読み取れた。手助けはする、なら君はどう行動すると。
「私は貴方達に協力します。私は自分の自由を掛けて戦います」
ナイ神父は視線を受け止め一度だけ頷いた。手に嵌めた黒手袋を外して千秋に開いた右手を差し出した。
「君の勇気ある意思を尊重する。私は君の相棒だ。遠慮なくこき使ってくれ」
千秋はその右手を握り返し、何故か温かい体温を感じることに意外さを覚える。
「ただ、私からも譲ることの出来ない願いがある。君の守護者、御門冬峰と決着をつけさせてくれ」
「え?」
「彼はとても興味深い少年だ。彼との戦いは私に取って重要なのだよ」
「……冬峰は強いですよ」
「重々承知」
ならいいですと、千秋は承諾した。きっと彼は私たちの前に現れる、そんな予感があった。
ナイ神父はエドガーから渡された小箱をテーブルに置いた。
「明日にでもここを発って、大西洋のある小島でこの木箱と君の能力を開放する。ただ我々もそれが成功するかどうか確かではないんだ」
「それは私次第ですね」
「そうだ」
千秋は手のひらより僅かに大きい小箱を見下ろした。これが自分の運命を決めるカギなのだ。
「それと、もう一つ」
ナイ神父が背広のポケットより銀色のカギを取り出す。
「これは銀のカギと言って、時間遡行できる魔法の道具の模造品だ。模造品故に一度しか使えず過去の映像を見るだけだが、よければ使ってみるがいい」
千秋は受け取ったカギを顔の前に持っていき左右に振った。もし本当なら使い道は決まっている。
「では、今日は休みたまえ。明日の朝は早い。アナベルの作る朝食は美味しいから寝坊しないように」
アナベルが立ち上がり千秋へ一礼する。
「お部屋へ案内します」
「あ、ええ」
部屋を出る直前、千秋は振り返りお休みなさい、と声を開ける。
覚悟はある。私は私の為に、これから御門家と対決する。千秋はその後戻り出来ない選択肢に、これまでに感じた事のない高揚感を覚えて苦笑した。
御門家と決別したからと言って、〈K〉の庇護下に入ることに違いない。私が本当に自由に身になるにはしばらく時間が掛りそうだ。
これまで己を守って来た少年と自称ジャーナリストの顔が浮かんだが、それすら彼女の胸に小さな痛みを与えるのみで決断を覆すには至らなかった。
- Re: 天門町奇譚 ( No.33 )
- 日時: 2020/07/22 19:44
- 名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)
五章 邪神の島
1
少年は一人、裏庭のベンチで腰かけていた。
他に人影は無く、少年はただ裏庭を見つめている。
それは裏庭の風景を愛でているのではなく、ただ少年の瞳にはその風景はただ映っているだけであり、何らかの感慨を抱いているようには見えない。
正直、少年にはどうでもよかったのである。
血と硝煙に塗れた戦場から、一見平和な日本に帰ってきたことも。
遠い異国で成長して帰って来た息子に対して、能面のような顔で接してくるが、不意に出会った時は明らかに嫌悪の表情を浮かべている父親の事も。
顔を合わせる度に、何故あなただけ帰って来たのとなじる御門家の親族の事も。
蔑む様に〈廃棄物〉と呼び、関わり合いを避ける分家の事も。
何故か笑顔で接してくる、己を戦場から連れ出した従姉の事も。
その従姉の背に隠れて怯えた表情で見上げてくるその妹達の事も。
昔、共に遊んだと再会した時に泣いてくれた二人の幼馴染の事も。
その全てに対して何の感情も湧かず、ただそんなものだと思っていた。
戦場に置いてきてしまった従兄弟やその友達に関しては、不意に思い出すと何かを叫びそうになるがそれが何なのか考えても解らなかった。
「時間が経てば、少しずつ良くなるよ」
従姉はそう言って励ましている様だが、何故か少年の日に日に己の中の空虚なぽっかりと空いた欠けた何かは、日が経つほどに大きくなって、己自身の事すら考えれなくなってきた。
このまま壊れて消えていくのが自分の運命なんだなと、何となく解って来たので益々全てがどうでもよくなった。
少年は宙を見上げる。
小春日和の空は青く、僅かばかりの雲がゆっくりとした速度で漂い平和な日常の風景を作り上げていた。
三日前、少年が歩いていると背後から車に撥ねられた。そのまま車は止まることは無く走り去り通りかかった人の連絡で救急車がやって来たが、救急隊員の一人は少年を見るなり「見捨てておけよ」と運転手に言ったのを彼は耳にする。
今頃、従姉とそれを補助する当主代行の間で、自分の処遇について議論されているのだろう、
従姉は自分と共に暮らしたいのだろうが、当主代行は隔離することを望んでいる。
それすらも少年にとってはどうでもよい。むしろ隔離された方が色々と煩わしくなくて良いとさえ思っている。
ああ、そうしよう。さっさとここを離れてどこか遠くへ行こう。独りで生きていくことは苦痛では無く、戦場で何とかする術を学んでいるからどうにかなるのではないか。
少年はそう考え、春の庭から立ち去ろうとベンチから腰を上げようとした。
草を踏みしめる音が聞こえて其方へ視線を向ける。
裏庭の小道からひとりのTシャツとデニムのスカートにピンクのパーカーを羽織った少女が顔を覗かせた。うつむき加減で何か考え事をしていたらしく、ベンチのすぐ手前で漸く少年の存在に気が付き、ぎょっとして顔を上げた。
「あ……」
少女は少年の姿を目にして息を呑んだ。
少年は右手を怪我しているのか肩から三角巾で吊って固定しており、頭に巻かれた包帯と左目を覆う眼帯が痛々しくあった。
「……」
「……」
少年は何の感情も灯っていない硝子の瞳を少女に向け、少女は困惑の視線を少年に向ける。
少女は少年の視線に耐えきれなくなったのか、視線を外して左右を見回し助けを求めるような表情をしたが、裏庭には他に誰もいない事を知りまた俯いた。
「……」
少年は少女に対して興味を失い視線を外した。危険はないと判断したのだ。
少女は少年が気になるらしく数度、少年へ視線を向けていた。視線を宙に彷徨わせてため息を吐いた。
「あ、あの、貴方は新しく雇われた護衛の人? お、お母さんは来客中で話は長引きそうだから」
「……」
少女が話し掛けて来たので少年は再び少女を視界に納めた。機械の作動音でも聞こえそうな動きに少女がびくりと肩をすくめる。
改めて少年は少女を観察する。武器の類は持っておらず、華奢な体は戦うものでは無い。
少女は艶のある癖毛のショートカットで、端正な顔を赤い縁の眼鏡が彩っている。背はそれほど高くは無く平均的であろう。
「えっと」
無表情に見返す少年に気圧されたのか、少女は一歩だけ後退った。その場に居づらい雰囲気に少女は踵を返す。
「それじゃあ……」
用は無いとその場を立ち去ろうとして少女は肩ごしに少年を顧みる。
一人ベンチに腰掛ける少年。
少女にはその姿が酷く孤独でもろく感じられた。だから振り返りベンチの前まで歩み寄った。そうしなけらばならない。なぜかそう思った。
再度少年の視線に晒されるも、それに耐えて声を掛ける。
「……この家、息苦しいよね」
少女はパーカーのポケットに両手を入れて、独り言を呟くように放し始めた。
「普通、家は安らげる場所らしいけど此処は別。何時も緊張感が漂っているの。此処に用のある客もどこか張りつめた表情をしているの」
「……」
少年にとってどうでもいい話題なので、少年はただ聞くだけで応対する事もしなかった。少女もそれを必要としないようで、更に独白を続ける。
「でも客同士は表面上は問題は無いように見えるけど、内面はお互いに問題を抱えて、相手を蹴落として成り変わろうとか、格下のくせに増長するなとか腹に一物を置いているの」
そんなことはよくあることだ。今迄自分が居た世界も、昨日は味方で今日は敵である事など日常茶飯事であった。人も獣と同じで生き残る為にはどんな事でもやってのける。そう少年は確信している。
「母はそんな一族の間を取り持ったり、逆に片方を抹消する調整を多く請け負っていた。だからかもしれないけど、私は母の笑顔や泣き顔を見た事が無いの」
笑顔や泣き顔等、自分も浮かべたことは無い。一体どうやって浮かべればいいのか、どんな時にそれをすればいいのか少年には解らなかったからだ。
「それに、母は私の存在を疎ましく思っているかもしれないの。お前には期待していない、私は母からそんな視線を向けられたことしかない。私の気のせいかもしれないけど」
少年は少女の言葉に僅かながら興味を持った。そうか、親という者は子供を疎ましく思う者なのだと思った。ならば、父が自分に向けた嫌悪の表情も理解出来る。
「だから私にとって家の中に居る事も苦しいの。時々本当に息が詰まるんじゃないか、そんなに苦しいの」
少女はその時を思い出したのか、胸の前を押さえて俯いた。
苦しいのか? まあ、息が出来なくなったら苦しいだろう。少年は納得する。ただ、一人で死んでいく器用な奴だとは感心した。
「だから私にとって、この執事の時春が手入れしてくれる裏庭が唯一安らげる場所なの。ここはあまり人は来ないし、春夏秋冬いろいろな姿を見せてくれて飽きないから」
少女の言葉に少年は彼女が何故此処に居るのか合点がいった。つまり、
「それは、俺にこのベンチから立ち去れってことかな」
「違うわよ、馬鹿」
馬鹿ってなんだ?
「私は此処はいい場所だから気が済むまで居ればいいって、そう言いたかったの」
少女は少年の前に立って前屈みになり人差し指を少年の眼前に突き付けた。
「そんな、自分には何もないって感じの無表情でいたから。落ち着くまで此処にいたら」
いや、本当に何もないんだから別にいいじゃないか。少年は少女をおかしな奴だと認識した。面倒臭くなってベンチから腰を上げる。
「どこへ行くの?」
「ここを出ていく」
少女は少年の答えに目を丸くした。
「帰るの?」
「何処へ?」
「何処って、家?」
「家なんかない」
「え……」
少女は少年の答えに更に目を大きく見開いた。会話が噛み合っていない。
「家がないって、両親は?」
「父がいるが、どこに住んでいるか知らない」
少女は額に指を当てて宙を仰いだ。厄介な奴に声を掛けてしまったと後悔しているかもしれない。
「じゃあ今はどこに住んでいるの」
「確か、従姉妹の家に住まわされている。御門、春奈、確かそんな名前だったような」
少年の答えに少女はああ、と合点がいったのか声を漏らした。わずかに表情が硬くなる。
「分かった。うん、本家のところに引き取られた子なんだ。確か、母がそんなこと言っていた」
少女が納得したこと見届けたからか、少年はベンチから立ち上がり少女の傍らを通り過ぎた。
「本家に帰るの?」
「何で? 帰るところなんてないよ」
「でも本家に引き取られて」
「別の場所でも生きていけるよ」
歩き出そうとした少年の手首を少女は掴んだ。
「駄目だよ。ほかの場所じゃ生きていけないよ」
少年は言葉の意味が分からないとでも言うように少女を見返した。
少年の居た所では、少年といえども食い扶持は自分で探さなくてはならない。どうしても糧が得られない場合は、他人から奪って生き永らえていた。
「待って、私の話を聞いて」
少女は少年の手を引っ張りベンチに腰掛けた。
「とにかく、座って」
強引に自分の隣へ少年を座らせる。少年は明かに面倒臭そうな表情を見せたが、少女の指示に従い大人しくベンチに腰掛けた。
「薄々気が付いていると思うけど、私達の親戚は普通じゃないの。親戚同士で徒党を組んで組織を立ち上げているの。そこまでは解る?」
「何となく」
少年の回答に少女は頷き説明を続けた。
「私達は帝都の〈皇〉、テレビで時々見かける、ある意味日本で一番偉い人に仕える血筋で、皇の為に公に出来ない色々な仕事を請け負っているの。それというのも私達の家系は元々、皇家の為の審神者や巫女を輩出していた血筋で、他の人達とは違うの。そこまではいい?」
「……」
まあ、何となく。少年はそう伝えたが、実際のところ半分も理解出来ていなかった。
「まあいいわ。特に私達の当主は代々女性で、巫女としての能力が最も優れている人が選ばれるの。見た事は無いけど普通でない能力を有しているって聞いているわ」
一瞬、少女の目が伏せられて表情が翳ったが、少年は別の事に気を取られていた。
普通でない能力と聞いて、彼は己が外国で戦闘ヘリに追い詰められた時の事を思い出していた。
あの助けに来た春奈は、日本に帰ってきてから目にする春奈とは異なり、戦闘ヘリと渡り合う能力を発揮していた。あれは自分にも異常な能力だとはっきりと判る。
「当主以外にも普通では考えられない能力を持った人達もいて、その人達が当主を守ったり、皇の依頼を片付けたりしているの」
少女は一旦言葉を区切って少年の様子を窺った。
少年は茫洋と少女の顔を見返すだけだった。まあ、そうだろうと少女は思う。こんな話を信じろと言う方が間違っている。
「そんな一族だから秘密を守る為に色々掟があるらしいの。だから」
少年を見つめて言い含める様にゆっくりと語りかける少女の表情に痛ましさが浮かんでいるのは、この少年の境遇に対する憐れみか、それとも同じ枷を持つ己の未来に対する諦念か。
「この御門家から出て行こうとすると、確実に殺される」
「……」
少年は少女の思い詰めたような表情を見返した。
「うん、分かった」
その平然とした物言いに、少女は毒気を抜かれたように呆然と少年を見返し眉を顰める。
「ホントに。嘘じゃないんだよ。怖くないの」
「怖いって何だ?」
少年は理解できないとでもいう様に不思議そうに聞き返した。
「怖いってことが何か解らないけど、珍しい事じゃないんだ。殺したり、殺されたりするってのは」
少年は視線を落とした。その視線はこの裏庭ではない別の場所を見つめている。
「助けられても、そんな世界なんだなって」
少年の声音に含まれているのは、悲しみか憤りか。少女は少年の瞳に浮かんだ何かから目が離せなかった。
「俺は、ずっと彼奴等をそんな世界から外に出したくて、ずっと戦ってきたよ。いつか彼奴等が俺と同じにならない様に、外で生きていけるようになれば、そう願ってきたんだ」
少女はさっきまで空虚だった少年の中から、何かが浮き上がってこようとしていることに気が付く。それは少女が今まで秘めて来たものと同じものかもしれなかった。
「それ以外はどうでもよかったんだ。でも、俺はこんな場所に居て、もう彼奴等を救えない」
もう、生きていないかもしれない。言葉に出さず、唇だけがそう動いた。
「此処を出て、彼奴等が傷付け会う事のない世界」
ギブスに包まれた右手が裏庭を照らす日の光に向かって伸ばされる。
「そこに行けたら彼奴等を救えるかなって思ってた。でもそんな場所は、無いんだね」
「……」
世界は残酷だ。少女はそう思う。
救われたはずの少年は本当は救われておらず、ただ別の戦いに駆り出されるだけ。そして、その戦いに彼の守りたい者はいないのだ。
少年の瞳は再び石の無いガラス細工の弾の様な光に戻ろうとしている。
それは駄目だ、少女は思った。
私は、この少年を守らなければならない。何故か、その衝動が身体を突き動かした。
少年は少女がベンチから腰を上げ、己の前に立つのを感じて顔を上げた。
少女は眼鏡の奥から少年を睨み付ける様に見下ろしている。
「名前は? あなたの名前」
「御門 冬峰」
冬峰、冬峰ね。少女は少年の名を僅かに唇を動かして反芻した。
眼前に差し出される少女の右掌。少年はそれを見るが意味が解らず、再び少女の顔を見上げる。
「わたしは」
世界が曖昧になっていく。少年は少女の言葉を聞き取ることが出来なかった。
少女の口が開く。力強い意志を込めた視線が、今まで誰からも向けられた事の無い己を奮い立たせる様な視線が少年に向けられている。
「私は……」
2
意識の浮上と共に目を開けた。
視界に飛び込んだのは見慣れた己の部屋の天井であり、自分を心配そうに覗き込む少女の顔であった。
目を覚ましたことに喜色を浮かべる少女の顔を見返しながらある事に気が付いた。
「おはよう、フユお兄ちゃん」
「うん、おはよう……」
上体を起こしながら冬峰は眉を顰めた。
彼は少女が誰かよく知っている。人見知りだが、同居している自分には懐いてくれている本家の末っ子だ。
その家族同然の少女の名前を、冬峰は呼ぶことが出来なかった。
思い出せないのだ。
何故か少女が誰か、これまで共に過ごして来たというのに、その名前が、彼女をどう呼べばいいのか解らないのだ。
「大丈夫? 春奈お姉ちゃんが怪我をしてるって言っていたけど、まだ痛いの」
目を覚ましてからその鈍痛に気が付いているが、背筋を伝わる汗はそのせいではなかった。
脇腹に手を触れ、増した痛みに現実であることを確かめる。ふと頭の中で何かが弾けた。
「ああ、大丈夫だよ、夏憐ちゃん。大したことはないんだ」
「ホント、無理しちゃだめだよ」
「しないよ」
嬉しそうの微笑んで夏憐は立ち上がった。
「ご飯の用意は出来てるから、早く食べに来てね」
「ああ、有り難う。助かるよ」
部屋を出て行く少女の背中を見送った後、冬峰は表情を曇らせる。
夏憐の名前が思い出せなかったことなど初めてなのだ。この数年間で何度、その名を呼んだことか。昨日の戦闘で頭でも打ったのだろうか。
また、昨晩からの奇妙な倦怠感も尾を引いている。
あののっぺらぼうのスフィンクスに切りつけた際に生じたものであり、これについては原因は解っているのだが、その解決方法が思い当たらない。
その喪失感は、夜の校舎にて奇妙な仮面を被った大男の首を刎ねた際にも味わったものだが、それはこれ程酷いものでは無かったので、別に気にもせずに過ごしていた。
今は心臓に上に穴の開いている感覚があるのだ。
あの昨晩の一刀は、冬峰の全霊を込めた一撃であった。そうしなければ、あのスフィンクスとその向こうに居る存在に一矢報いることは出来ない。そう判断したからだ。
その一撃の影響がこの喪失感だろう。それが自分の記憶にも悪影響を与えているのだろうか。
冬峰は布団を片付けた。昨日は着の身着のままで眠ってしまったのだろう、身に付けた黒のカッターシャツとスラックスは所々が破け汚れている。
取り敢えずシャワーでも浴びて身支度を整えてから従姉妹達と会うことにしよう。
着替えの黒カッターシャツと同色のスラックスを箪笥から取り出そうとして、冬峰は手を止めた。
「……何番目の引き出しに仕舞ったっけな」
上から順番に引き出しを開けて、二番目の引き出しに納められているのを見つけて手に取る。
何かが自分の身に起こっている。何か重大な事、最も大切な事を忘れている様で、それが何なのか冬峰は今朝からの記憶を探ってみる。
「あ……」
何時もは同じ夢を見ている。何時もはその夢は最後に誰かと話して、それを覚えていたはずだ。だが今日はそれが誰なのか、そして何を言ったのか。それが思い出せない。
それを自覚して冬峰は一人立ち尽くす。
三十分後、風呂からあがり着替えを済ませた冬峰が居間に顔を出すと、座テーブルには春奈と紅葉、夏憐の三姉妹の他に一人、お邪魔虫が鎮座しており冬峰の片眉を僅かばかり跳ね上げた。
それは先程の冬峰同様、昨晩から着の身着のまま薄汚れ皺の入ったカッターシャツと折り目の無くなったスラックス姿で朝食を掻き込んでいる。
朝食は御飯に常備菜の金平牛蒡、白菜の御浸しと梅干、桜干しに豆腐と玉葱の味噌汁が用意されていた。