二次創作小説(新・総合)

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天門町奇譚
日時: 2020/07/19 13:49
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

   序 異界侵食

 まるで影絵のようだと戸田芳江は思った。
 商店街の中心に位置する公園だというのに、ベンチを占領する若者やゴルフクラブの素振りに励む中年男性、仕方なさそうに飼い犬の散歩をする女性等の人々の姿が無く、耳の痛くなるような静寂が公園を支配していた。
 午後八時頃にしては、この人気の無さは異常であり、離れた場所に黒く佇む家々と、それから微かに漏れる明かりが独特の雰囲気をかもし出し、この風景をより一層影絵めいたものにしている。
 芳江は公園を抜け商店街に出た。見渡してみればシャッターのしまった店舗はともかく、それに連なる住宅さえも雨戸やカーテンを閉め、家屋から漏れる灯りを少なくして黒い箱と化していた。
まるで住んでいる者たちが目を閉じ、耳を塞ぎ、何かを拒むかのように。
 何かが通り過ぎることを願い、じっと耐えるかの様に。
 外で起こる物事には一切関係がないと、外界との係りを拒絶しているようなこの家々の姿勢を芳江は当然の反応だと納得している。
 なぜなら芳江が足を速める理由もそれであり、自分の住むアパートの一室に帰っても彼らと同じ様にカーテンを閉めて電気を消し、すぐさまベッドに横になり、朝の訪れをじっと待つのだろう。
 この天門町では今年入ってから5月までの間に十九人もの行方不明者が出ており、その内容は二十代の男性が三人、十代の女性が六人、二十代の女性が八人、三十代の女性が二人と男性と比較して女性の行方不明者が多い。それ故にこの田舎町では珍しい営利誘拐事件や人身売買事件の可能性ありと警察は捜査を開始したが、事件は全く別の方向へ動き出し、この町の住人はこの事件が自分たちの理解の範疇を超えたものだと認識したのだった。
 この行方不明事件を怪異なものと、この町の住人が恐れるのは最初の行方不明者である男性と、八人目の行方不明者である女子高生が、三月の寒い朝に揃って町外れの雑木林で発見され、その月に行方不明者リストに加わった女子大生が、町の中央を流れる千川で発見されたことだった。
 最初の行方不明者である豊田雄二〈二十七歳、会社員〉は、一月上旬、今年最初の大雪の次の日の早朝、屋根の上にぎっしりと積もった雪を父親と下ろしている最中に行方不明となった。
 雄二と父親は一時間程黙々と雪かきに精を出していたが、さすがに寒い中での作業は若い雄二でも辛いらしく、スコップで雪を掬う手を止め背伸びをした後、腰を二、三度叩いて街の反対側にある山々へ視線を転じた。
「何だ、ありゃ」
 息子の声音に異質な響きを感じた父親は、息子の顔を見やり、大きく眼を見開いた恐怖の相を浮かべていることに驚愕した。
 息子は何を見たのか、息子の視線の先へ顔を向けた瞬間、轟音とともに父親は自分の体が浮き上がるのを感じた。
 下の新雪に落下、めり込んだ上に、さらに屋根の上の雪が落ちてくる事を恐れ、あわててその穴から這い出した父親は、自分の目に入った光景にまたもや驚愕した。自分と雄二が先程まで苦労して下ろしていた雪は屋根の上から全て消えており、屋根の上の瓦までもがささくれの様に風圧で捲れていた。
 父親は息子も落下して雪の中に埋まっていると思い周囲を見渡したが、人の落ちた痕跡は見つからず、家の周囲を探しても雄二の姿は無かった。
 父親の息子を呼ぶ声を聞き駆けつけた近所の者が庭の雪を掘り起こす等、豊田雄二の捜索は丸一日行われたが、彼は忽然と消え失せたままであった。
 八人目の行方不明者である新藤雅美は、これも大雪の降った二月末日、部活を終えた帰り道に姿を消した。新聞部だった彼女は行方不明が多発している為、午後四時に帰宅する様、校内放送があったにもかかわらず暗くなる七時頃迄部室に残っており、下校時には一人であったことが推測される。
 その二人が町外れの雑木林で、早朝の散歩中の老人に発券された時、天門町の人々の間に衝撃と奇妙な安堵が駆け巡った。衝撃は彼と彼女が死体で発見された為、天門町で起こった行方不明事件に悲劇的な結末が用意されている事への恐れであり、安堵は、これで得体の知れない連続行方不明事件の目的が分かるかもしれない期待からであった。
 だが二人の発見された状態は、そんな人々の顔色に困惑という新たな色を付け加えた。
 二人の死体は山道沿いの雑木林に入り徒歩五分の位置で発見された。発見者である西田六郎は、毎日山道を散歩していたが、林の中にふと目をやると白い雪とは別の色彩が目に入り、それが人間だと分かり慌てて駆け寄った。半ば雪に埋もれた二人に近づくにつれ、それがオーバー姿の男と学校の制服を身に纏った女子という組合せから、もしかすると心中事件かと六郎は思ったが、それにしては二人の周囲に木の枝が散乱しており、二人の服も所々破けている。特に男性は額から右頬にかけて潰れている為、まるで空からこの場所に落ち木々に体をぶつけた様に思われた。
 連絡を受けた警察官や現場の調査を行った鑑識も、この二人がどこから落ちてきたのか分からず首を傾げた。しかし二人の遺体を調査した結果、雪山で遭難した者特有の紅色死斑が浮き出ていることから墜落死では無く凍死であることが判明した。
 別の時期に行方不明となった二人が、何故一緒に奇妙な死体となり発見されたのか、警察やマスコミはさまざまな憶測を立てて調査を行うも、豊田雄二と新藤雅美の間に面識は無く、事件に巻き込まれる要因も見当たらない為、行方不明事件の捜査はまたも暗礁に乗り上げたのだった。そんな中、さらに混乱を招く事件が発生した。町の中央を流れる千川の下流で女性の手首が発見されたのだった。
発見者の自営業者、吉井直道は朝から釣り糸を垂れるも一匹もかからず、昼前に河岸を変えようと腰を浮かせたところ、ドポンと大きな石を川へ放り込んだ様な音が川の中央から聞こえてきた。目を向けると何かが川へ飛び込んだらしく、波紋が自分の足下まで広がってきた。
 三月の川の水は冷たく硝子の様に透き通っており、直道は何か大きな影が水中を中洲から上流に向けて泳いで行くのを目撃した。
 何かがいる。何か大物が、この川に住んでいる。
 直道は朝から一匹も魚が釣れないのは、この大物が潜んでいたせいだと考え、急いでゴムボートを取り出し足踏みポンプで空気を送り始めた。目標を大物に切り替えたのである。
 中洲に上陸し、巨影の泳いでいった上流に向けて竿を振る。七メートルほど先で糸が落ち水飛沫をあげる。

 しばらくして全長三十センチ程のブラックバスを釣り上げた。先程の巨影の主を狙っているのだが、朝から釣れなかった事もあり、これはこれで嬉しいものがある。
 ブラックバスをクーラーボックスに放り込み再び竿を振り上げたとき、中洲から川底へ続く傾斜の途中で、小魚が集まっているのが見えた。どうやら死んで石に引っ掛かっている魚の死体を啄んでいるらしく、白い腹が見えている。
 いや、と直道は目を細めた。魚にしては形がおかしい。尾鰭に見えているものはもしかして。
 直道は初春の冷たい水の中へ膝まで入った。魚の死体に見えたものが、自分の予想するものかどうか見極めようと、やや離れた水面へ目を凝らした。
 そして、その魚の死体に見えたものが何なのか正体が分かると、彼は唇の隙間から小さく声を洩らし硬直した。
 それは血が抜けた為か、やや青白く変色した人間の肘から先であった。所々魚に啄まれ中身を露出させた人間の腕に間違いは無かった。
 しばらく、その残骸に見入っていた直道だが、ふとある考えに囚われ、川の水温に体温を奪われ白くなった顔色を、さらに白ちゃけたものに変化させた。
 先ほどこの中洲辺りから上流へ向かって行った影は大きかった。もし、あれが深く潜っていた為に実物より小さく見えたとしたら、実際は一メートル程度ではなく、もっと大きな怪魚でこの腕はそいつの食べ残しとしたら。
 直道は左右を見回しながらゆっくりと後退し始めた。背中を向け音を立てるとその巨影に襲われる、そのような恐怖を覚え中洲の中央まで戻り、のろのろとゴムボートまで歩いていった。高価な釣竿や道具等置き去りにしても気にはならず、ただ静かに出来るだけ波を立てないようにオールを動かす。
 数時間とも感じられた数分後、川岸に上がった直道はその場にへたり込み数十分動けなかった。
 直道から携帯電話で通報を受けた警察は、ボートで中州まで乗り上げ問題の腕を確認した後、直道に矢継ぎ早に質問した。質問の口調がやや殺気を帯び直道を怯えさせたのは、その捜査員が先週街外れの雑木林で発見された二人の変死事件の担当者であり、捜査に進展が無いことに苛立っていたのである。
 現場調査と回収した腕の調査を終えた結果、その捜査員はさらに訳の分からない事件が増えたと頭を抱えた。
 その腕は先週に家族から行方不明届けの提出されている女子大生早川音奈と判明した。家族より本人の特徴のひとつである、右手の人差し指と親指の間の股に火傷の痕が残っていたことが判別の決め手であった。子供の頃、誤って熱せられたフライパンを握ってしまった為出来たものだと、確認に来た母親は魂を失くしたように淡々と語った。
 またもや捜査員や鑑識員を悩ませたのは、肘側の骨の断面に、名に尖ったもので擦った様な筋が残っており、何かに噛み千切られた可能性を示唆していることだった。類似した歯形は歯筋の間隔の狭いことから鰐や鮫ではなく、トカゲやヤモリに類似していると音奈の通っていた大学の助教授から説明されたが、その助教授は最後に一言だけ付け加えた。
 この歯形を持つ生物で、人の腕を食い千切れるものは存在しない。
 発見現場の中洲を調査した結果、少量の肉片と血液の流れた痕跡を示すルミノール反応によって大量の血液の流れた痕が発見されており、その場で強行が行われた事が判明した。吉井直道は運が良かったのである。
 千川には人を食う何かがいる、と警察がマスコミに緘口令を布いたにもかかわらず、そのような噂が広まった為、それから千川で釣りや漁をするものは激減し、二ヶ月経過した今でも千川のほとりは閑散としたままである。
 今、芳江が足を速め、アパートへの帰り道を急ぐのはそんな町なのだ。誰も二十人目の行方不明者にはなりたくない。だからこんな時間帯に自宅へ籠もり、じっと何事も起こらないよう息を潜めているのだ。
 自分の住むアパートのひとつ手前の十字路まで辿り着き、ようやく芳江は足を止めた。
 駅からここ迄十分程早足で歩いてきた為、芳江の心臓は乱暴なリズムをたたき出し、呼吸も肩を大きく上下させる程せわしない。
 しかし何事も無くアパートの前まで辿り着きアパートを視界に入れると、普段は安っぽい灰色の壁もしっかりとした建物に見えてくるのも可笑しなものだった。
 芳江は十字路を渡りアパートの前の歩道へ右足を乗せた時、目の前に何かが落ちて来た事に驚き体を硬直させた。
 それは酷く耳障りな音を立ててコンクリートタイルの上をバウンドしていたが、アパートの柵に接触してコインが倒れるように動きを止めた。
 それは直径五十センチほどのマンホールの蓋だった。重さ五キロは確実にあるマンホールの蓋が落下してきたのである。
 芳江は先程迄自分が抱えていた恐怖も忘れ、憤然としてアパートの屋上を見上げた。誰かの悪戯であろうが、かなり質の悪いものとしか言いようが無い。当たり所が悪ければ死んでしまう事もあるだろう。
 屋上に下を覗き込んでいる人影は見えなかった。おそらくマンホールの蓋を落として、すぐに引っ込んだのだろう。落として人を驚かすことが目的で、当たろうが当たるまいが、どちらでも良かったのかもしれない。
 すぐ管理人に報告して犯人を突き止めてもらおう。アパート前のマンホールの蓋をわざわざ屋上まで持って上がり落とすなんて―。
 いや、それは違う、自分の記憶を探った。先程十字路を渡った時、マンホールの蓋は被さっていたはず。自分はその上を、マンホールを踏んで十字路を渡ったのだから。
 もしかすると、別のマンホールから蓋を外し持って来たかも知れないと、芳江は考え振り向こうとした。
 ごぽっ。
 背後から、詰まったパイプからヘドロが逆流した様な音が響き、芳江はびくんと体を震わせた後硬直した。
 ごぽっ、がぱっ。
 何者かが背後から彼女の前にマンホールに蓋を投げ落とし、彼女の足を止めた。
 ごぽり、
 芳江は、そのマンホールの蓋を投げつけたものがマンホールの中にいる。そんな気がしてならないのだ。
 マンホールから汚物でも流れているのだろうか、不快な臭気が周囲に立ち込めていった。その臭気のもたらす嘔吐感をこらえながら、芳江は振り向いてはいけないと強く思った。それほどまでに、背後からのしかかるような圧力を感じたのである。
 前へ、アパートの中に入らなければ自分は終わってしまう。芳江はゆっくりと一歩を踏み出した。踵が地面につき、次の一歩が踏み出される。
 ごぽり、と一際大きく波立たせるような音が響き芳江の視界が緑色に支配されるとともに、何かが体に巻きついた。
 悲鳴を上げようと口を開けたが、顔にも緑色の粘液に塗れた何かが巻き付き、芳江の声を封じてしまった。
 成人の太腿ほどもある緑色の粘液を滴らせたロープ状の何かは、マンホールの中から芳江の全身に巻き付き、くいっと彼女を引き寄せる様に震えて撓んだ。
 それだけだった。その程度動いただけで芳江と彼女に巻きついていたロープとも触手ともつかないものは消え失せ、そこには蓋を失ったマンホールと、そこに続く変色した泥のような粘液で書かれた線だけが残った。
 三階のアパートの一室のベランダが開き、寝ぼけ顔の中年男が何やら文句をつぶやきながら顔を出した。どうやらマンホールの蓋の落下音が気になった様で、階下を見回しアパートの前に倒れたマンホールの蓋を見つけると「なんでぇ、悪戯か」とつぶやき顔を引っ込めた。
 だが、彼がベランダの窓を閉じた直後、マンホールから出現した触手の様なものがマンホールの蓋に巻き付き、神速のスピードで戻りマンホールに蓋を被せた事に、そして、この町の行方不明事件の被害者が、また一人増え二十人となった事に彼は気が付かなかった。

Re: 天門町奇譚 ( No.4 )
日時: 2020/07/19 14:41
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 店内を見回す。カウンターは満席。テーブルも二席空いているだけだが、今店内に居る客は全て常連であり、それぞれ背もたれに身体を預けたり目を閉じ音楽に聞き入るなどのんびりとした雰囲気が店内を満たしつつあった。現在七時二〇分、おそらく八時の閉店までくつろぐつもりだろう。
 今店内に流れているのは一九三〇年頃、フランスの酒場でよく唄われていた曲らしく、アコーディオンの音が冬峰の耳に心地好かった。眠くなる。
 不意に冬峰の尻ポケットに入れられた携帯電話が振動し、冬峰の意識を覚醒させた。着信を見ると「根神一」と表示されていた。
「ふぁいはい。何だ、バイト中だぞ」
「寝てたのか」
「ねえよ」
 面倒くさそうに携帯電話に話しかける冬峰へ、携帯電話の向こうから根神が突っ込んだ。
「バイトは、あと四〇分程で終わるけど、小夜子さんに何かあったのか?」
 冬峰の脳裏に、何故か昼間校門で見かけた背広二人組の姿が浮かんだ。
「いや、小夜子さんには何も無かったんだ。だがな、お前の言った背広二人組らしい奴等がな、今、俺達の横を通って学校の方向へ歩いて行った」
 小夜子では無い、とすると彼等は何故学校の校門に居たのか。彼等の見ていた方向には―
「あいつ等が学校に用があるかは解らんが、学校にはまだ御門とクラス委員がいる。三人で戻って御門達を待っててもいいが、俺ひとりじゃ手が廻らねえ。すまねえが、ちょっとバイトをフケて手伝ってくれないか」
 彼等の見ていたのは一階生徒会室。おそらく食堂から戻る途中の千秋を見かけ、そのまま見張っていた可能性がある。しかし何故千秋なのか。
「解った。根神は二人を早く送ってくれ。別に俺を待たなくてもいい。直ぐに千秋を迎えに行くから、早くそこから離れろ。いいな」
 携帯電話に向かって彼には珍しく一方的に喋ってから、返事も訊かずに切る。マスターはカウンターでのんびりと文庫本を読んでいるが、エプロンを外しながら冬峰が早退を申し出ると無言で頷いた。根神との会話が聞こえていたらしい。カウンター内にエプロンを放り込み、引き出しからケーキ用のフォークを数本、学校制服のブレザーのポケットにねじ込む。これとカッターシャツの胸ポケットに入れられたスイス・ビクトリアノックス社製の多機能ナイフ「ウエイター」が手持ちの武器となる。
 駆け足で店を出て、脇に止めた愛用のマウンテンバイクに飛び乗った。必死でペダルを漕げば一〇分程で学校に着く。出来れば、それまで千秋が学校を出なければよいが。冬峰はそう思いながらペダルに足をのせた。
 黒色のマウンテンバイクは、持ち主の期待に応えるように音も無く滑らかにチェーンを回転させ、駅前広場から学校のある郊外に向けて駆けて行った。

 千秋が昇降口の扉に鍵を掛けて扉横のポストにその鍵を放り込んだ頃には、時計の針は既に八時近くに迫っており、今日彼女はアルバイトを欠勤してしまったことに気が付いた。結局彼女は他のクラスの小冊子作りも手伝ってしまい、他の生徒を先に帰らせ最終戸締り係として一階の戸締り状態を確認していたら遅くなったのだ。一瞬、「ラ・ベルラ」のマスターと冬峰に申し訳なく思ったが、直ぐに心配ないだろうと打ち消した。あの二人は妙にのんびりした所があり、喫茶店の経営等、どこか忘れ去っている雰囲気がある。きっと自分の欠勤も大して重要視されていないだろう。実際、自分がアルバイトとして店に入る迄、マスターは不定期営業(気分が乗らないときは休み)を通しており、千秋が小言と赤字帳簿を振りかざすことにより、漸く毎週月曜日のみ定休日にしたのだから。
 千秋は昇降口の階段から降りるとほっとしたように息をつき、胸に手を当てて深呼吸した。実に忙しい一日だった。
 静かな夜だ。頭上に輝く月は茫洋と霞んでおり、この街に建てられた家々を影絵の様に見せる。振り返ると校舎も影絵の一部となり、千秋は自分が校舎を出た瞬間、世界は別の世界へ切り替わったのではないか。そう思った。
 校門へ目をやると校門の周辺は闇がわかだまった様に暗く、校門の向こう側の世界がどうなっているのか千秋には見えなかった。
 千秋は校門を出る直前で歩みを止める。今日に限って校門に人影は無く、何かいつもの下校とは異なる雰囲気を千秋に与えた。
 一歩踏み出し校門を抜ける。ただそれだけの事なのに、校門を抜けると人影が湧いた。
 どこから、どうやって、先程まで居なかったのに。
 人影はゆらゆらと揺れながら千秋に近付いて来た。見ると平凡な紺色の背広を着た、これまた平凡な顔つきのサラリーマン風の男であった。
 紺背広はいつの間にか千秋の背後に居た茶背広に頷くと、にこやかに千秋に語りかけてきたのだった。
「御門千秋さんですね。ああ、そう驚かないで下さい。私達はそんな怪しい者ではありません」
こんな時間、急に学校の校門に現れ語りかけてくる人間を、どうすれば怪しくないといえるのか、千秋はそう思いながら男達に対して不振の眼差しを向けた。
「私達は別にあなたに対し危害を加えるつもりは無いのです。むしろ丁重にお迎えしようと待っていたのですよ。我々の目的には、貴女の様な方が必要不可欠なのですよ」
 そこまで話し、紺背広はまるで大企業の中間管理職が、自分の会社を自慢するかのようにわざとらしく両手を広げ点を仰ぎ見た。
「私達の目的と貴方達一族の目的は、とても共通する面があります。決して貴方達の損にはなりません」
 千秋のそれまで醒めた表情を見せていたものが、急に怒気を孕んだ視線を紺背広へ向けた。一言一言区切り、彼女は紺背広の要望に異を唱えた。
「私は一族には、一切関係が無い。別の人に当たって下さい」
 失礼と紺背広を押し退ける様にして、怒り肩で歩き去ろうとした千秋の両肩に茶背広が背後から掌を置いた。軽く置かれた様にしか見えないが、千秋はギチッと両肩の軋む音と共に顔を苦痛に歪める。
「何をまどろっこしい真似をしている。さっさと連れ帰って協力させればいい」
「無理矢理だと、〈門〉を開けんかも知れんぞ。この女が貴重な存在ということを忘れるな」
 紺背広と茶背広の言い争いに他の男たちは静観を決め込んでいるらしく、誰も見向きはしなかった。
「それ程時間が有るわけ無いと思うがな、倉田。これ以上俺達が活動を長引かせると、ソロモン機関や聖堂騎士団が介入してくるぞ」
「それは解っている。車に乗せろ」
 路地の奥から音も無く、黒色のワゴン車が校門の前に横付けされた。夜間目立たなくする為かライトを消し、テールランプもガムテープで塞がれている。茶背広は千秋の両肩を掴んだまま、彼女をワゴン車の開いたドアへ押し出すように歩を進めた。
 間違い無い。彼等は今、街を恐怖に陥れている誘拐犯だ。千秋は自分の身に何が起こっているか、正確に理解した。それは、もうこのワゴン車に乗ってしまえば、二度と日の当たる場所に帰って来れない事だった。。
 普段の冷静沈着だと思っている自分のスタイル等、何の役にも立たず無力だと解り彼女は絶望したが、それでも一縷の望みに賭け大声を上げて助けを呼ぼうとした瞬間にそれは起こった。
 低い呻き声と共に千秋の両肩に加えられた圧搾間が消え、振り返ると茶背広の横っ面に黒いマウンテンバイクの前輪がめり込み、横倒しになるところであった。
「冬峰!」
 マウンテンバイクから飛び降りざまに千秋の手首を掴んだ従弟は、彼女を背後に押しやるや否や、立ち上がろうとした茶背広の左こめかみに向け、ゴルフクラブの旋廻するような音を立てて回し蹴りを叩き込んだ。
 ゴッと鈍くくぐもった音と共にまたも茶背広が横倒しになるが、今度はマウンテンバイクにぶつかられたときよりダメージが大きいらしく、茶背広の目は焦点があっておらす虚ろな状態になってており下半身が奇妙なステップを踏んでいる。
「何者だ」
 紺背広の問いかけを無視して、冬峰は千秋の手を引っ張り紺背広達の包囲網を抜けようとするが、多勢に無勢、冬峰登場によって生じた空間は別の誘拐犯のメンバーに埋められた。バス停まで百メートル。長いとはいえない距離だが相手の数が多く容易に進めそうに無い。
 二人に飛び掛ろうと低くしゃがみ込んだ男が、「ぎゃっ」と声を立てて右目を押さえ地面に倒れた。
 冬峰は残り三本に減った手元の武器、「ラ・ベルラ」から一掴み取ってきたケーキ用フォークを手に紺背広を睨みつけた。冬峰は内心、予想した人数より多いことに舌打ちして、フォークを紺背広に向かって狙いを付けるように突き出した。先程の茶背広が千秋の両肩を押さえつけていた手を放した原因が、フォークに両手首を射貫かれた為であり、疾走する自転車から精確に目標を射貫く冬峰の腕前は驚嘆すべきものといえよう。
「動くと次は、あんたの目を眼鏡ごと打ち抜くぜ」
 そう宣言して、じりじりと路地の入口まで千秋を庇いながら後退する冬峰と、その後を追う誘拐犯達の間の緊張が高まり、ついに紺背広が一斉に飛び掛るよう号令を出そうと手を上げたとき、彼等の背後に停められたワゴン車のスライドドアの開く音が大きく響き、大きな人影がゆっくりと地面に降り立った。
 ざんばらな大きく脈打つような腰までかかる灰色の髪に、黒いマントコートを着た二メートル近い背丈の人物は、ゆっくりと首を回し冬峰と千秋に目をやった。
 銀光が人影の額に向けて走り、硬い音を立てて跳ね返った。それは冬峰が人影と目が合った瞬間、反射的に投げたフォークが人影の顔に被せられた仮面に当たった為であった。その仮面は鈍い光沢を放つ石のようなもので出来ており、吊り上がった両目と左右に切れ上がった口の形は仮面が凶悪な笑みを浮かべる鬼のような印象を冬峰に与えた
 冬峰が仮面の大男に気を取られた隙に、彼の背後に庇われた千秋の両側からTシャツにジーンズ姿の若者とダボダボのオーバーサイズのパンツルックの禿頭が飛び掛った。それに気付いた千秋は身を硬くして逃げることもかなわなかったが、不意に冬峰の背中が現れると半回転しながら左手のフォークでラッパーの喉を、右手の逆手に握ったフォークでTシャツの額を突いていた。喉を貫かれたラッパーは「ぐええ」と白目を剥いて倒れ込んだが、Tシャツは少々タフだったらしくよろめいただけで持ちこたえた。
 追い打ちを掛けるように更に冬峰は回転し、左の肘をTシャツのこめかみに叩き込み、横転させる。
「冬峰!」
 千秋の悲鳴に彼女の視線の方向をみるとワゴン車から現れた仮面が冬峰へ向かって跳躍している姿が目に入った。仮面の後方引かれた右手が、着地間際に冬峰へ向かって放たれる。
 後ろへ飛びのいた冬峰の元いた場所が、仮面の右手の一撃でアスファルトがめくれ上がり地面に穴を穿った。
「化け物か!」
いつもの面倒臭そうに話す従弟とは程遠い口調と切迫した表情で叫ぶ冬峰へ、更に仮面の回し蹴りが襲い掛かった。技もテクニックも無い力任せの一撃を、しゃがみ込んで辛うじてかわした冬峰の頭髪が風圧で逆立つ。
 哀れにも回し蹴りの軌跡の延長にいた者が、身体をくの字に曲げた状態で学校の白い塀に激突し、大きな赤い花を咲かせた。
 フォーク二本じゃ分が悪い。千秋に向かって走り出そうとした冬峰の前に、仮面は信じがたいスピードで現れ千秋に向かって手を伸ばす。
「逃げろ!」
 叫ぶが蛙が蛇に睨まれた様に千秋は動けず、冬峰の投付けた2本のフォークも仮面の左手が閃き叩き落される。
「千秋!」
 突然響いた轟音に仮面が片膝を附いた。ゆっくりと路地の入口に顔を向けるが、更に鳴り響いた轟音に仮面の胸に多数の弾痕が穿たれ、衝撃で仰向けに倒れる。
「早くこっちに来い」
 路地の入口に軽乗用車のライトを背にして立つ男は、散弾銃を肩づけしたまま銃身の下のフォアエンドを前後させ、次弾を発射出来る状態とした。
 冬峰は千秋の右手を掴んで、ぐいっつと引っ張りあげると手を繫いだまま車に向かって走り出した。
「まて、逃がすな」
 紺背広の他、数人の男達が二人に追いすがろうとしていたが、足下に向かって火を吹いたM870レミントンショットガンに牽制されたたらを踏んだ。
 冬峰と千秋が後部座席に乗り込んだことを目の隅に捉えた男は、紺背広達に銃口を向けたまま後ずさりして車の横まで下がるや否や、身を翻し運転席に飛び込み軽乗用車を急発進させた。
 紺背広と二、三人の男達は懐から小型のピストルを抜き、男の運転するダイハツ・ミラへ銃弾を叩き込んだ。
 何発かがドアにめり込むものの貫通するまでの力は無いらしく、ドアの内側を膨らませるだけに留まった。
 けたたましい音を立てて去っていく軽乗用車へ苦々しい視線を向けていた紺背広は、背後で何か大きな質量が動いたことを感じた。
 振り返ると散弾で撃たれたはずの仮面が、ゆっくりと眠りから醒めるように起き上がる光景を目にした。コツコツとアスファルトの上に、仮面の胸から散弾がこぼれ落ちる。
「申し訳ありません。〈門〉を開く女を逃してしまいました」
 深々と仮面に向けて頭を下げる紺背広には目もくれず、仮面は地面に昏倒している茶背広へ近付き己の仮面を外した。それを目にした紺背広以外の男達が顔を背けた。彼等の殆どが次に何かが起こる事を知っているのだ。
 バリッツと何か硬いものが砕ける音が響きいた後、鼻から上の部分を失った茶背広が地面に倒れ込みビュウビュウと顔の断面から血を噴出させる。
 暫く何かを咀嚼するように顎を動かしていたが、それを飲み込んだ後再び仮面をかぶった男は、何も言わず長身を屈めてワゴン車の後部座席に身をもたれさせた。
「出せ」
 紺背広の運転手に命じると静かにワゴン車が走り出し、残った男達は頭を垂れて見送った。どうやら仮面の男は特別な地位にいるらしく、ワゴン車の窓は黒いカーテンを閉め切った上、床には同じく黒いカーペットが敷かれ車内を静謐な空間へと変貌させていた。
 仮面の男はじっと何かを考え込んでいる様子だったが、不意に面を上げ指先でコツコツと仮面の額を叩いた。
「また彼奴が邪魔するか。もう嗅ぎつけて来るとは、流石我等と長きに渡る戦いを繰り広げてきただけのことはある」
仮面は先程のショットガンを構えた男の姿を脳裏に浮かべた。
「だが此処迄だ。今迄は後一歩のところで逃してきたが、今回は〈闇の皇太子〉も静観する事を宣言している。バイアクヘーすら無い貴様等がどう抗うのか、見せてもらうぞフェラン。」

                4

 冬峰と千秋、二人を助けた男の運転するダイハツ・ミラは学校から千曲川沿いの道に出た後、町外れに向けて夜道を進んでいた。
 千秋は後部座席に腰掛けて、今日自分の身に起こったことを思い出していた。
 誘拐組織らしき男達に連れ去られかけた。男達は営利誘拐ではなく私が目的らしく、〈門〉がどうとか言っていた。そして従弟が助けに来たが、仮面を被った怪人に追い詰められ、銃を持った男に助けられ、今、その男の運転する車で逃げている。
 千秋は隣に腰掛けた冬峰を伺った。冬峰は先程から車の窓の外を眺めているようで、身じろぎひとつしない。
「それにしても、凄かったね」
 運転席の男が前を向いたまま口を開いたので、千秋は男の後頭部へ視線を転じた。少しカタコトの様な日本語だったが聞き取れない事も無かった。目の隅で冬峰が左右に首を振っているのが目に入る。どうやら眠っていたらしい。
「ええと、君は、そのブドーとか忍術とか使えるのかな。暫く見物していたけど、君のナイフ投げはなかなか素晴しい腕だよ」
 この男が武道と口にすると果物の葡萄に聞こえるなと、千秋は思った。
 確かに今日の冬峰には普段と違う驚くべき言動が多かった。いつもは眠そうな半眼で、やる気無さげな前屈みの歩き方をする従弟とは少々違った。彼女は冬峰の動きを目で追えなかったのだ。
「そう言うアンタは何者だ。一般人は銃身を短く切った散弾銃なんて所持して無いぞ」
 散弾銃は一度に複数の弾丸を発射出来る弾薬を使用する。銃身を短く切った場合隠し持つ為でもあるが、弾丸が散らばりやすく近距離での殺傷力が増すといわれている為、かの銃器大国のアメリカでさえ銃身を切り詰めたショットガンを所持することは禁止されている。日本ならば確実に刑務所行きだ。
「それに、この先には夏休みしか開いていないキャンプ場があるだけだ。そこの住人だと言うわけでもないだろう」
 いつの間にか冬峰は男の首筋にボールペンの先を押し当てていた。
「車を停めろ。目的を話すんだな」
 男はふうっと一息ついて路肩に車を寄せた。ボールペンが刺さらないよう注意しながら、ゆっくりと僅かに背後を顧みた。
「いや、別に話すのは構わないけど、とりあえず、助けた礼ぐらいは言ってくれてもいいんじゃないかな」
「ありがとう。さあ話せ」
 冬峰は眠たそうな、しかし目は鋭く男を見返して言った。
 男は茶色のやや癖のある髪をした三十路前半ぐらいの、どこか人懐っこい笑みを浮かべ、青い目で千秋と冬峰を見つめた。両手を二人を刺激しない程度の動きで肩まで上げ、敵意の無いことを示す。
「OK、分かった。何故助けたか話すよ。別に隠す気も無いからね」

Re: 天門町奇譚 ( No.5 )
日時: 2020/07/19 14:50
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 男は草臥れた茶色の背広上下に青色のシャツを着た人懐っこい新聞記者のような外観だが、どこか力強い眼差しが年齢を解らないものにしていた。
「私の名はアンドルー・フェラン。日本へは、ある危険な組織を追ってやって来た。その組織は太古の昔から存在しており、彼等は自分達の崇める神を復活させ、この宇宙に混沌と破壊をもたらすことを目的とするんだ」
 そこまで一息に語り、男‐フェランは二人を見た。たぶん馬鹿にした様な、もしくは精神異常者を見る様な怯えた眼差しを向けられるかと思ったのだが、冬峰と千秋の反応は他の人々と違った。冬峰は宙を仰ぎ、千秋は額に手を当ててそれぞれが「神様か……」と呟いた。
 冬峰は視線をフェランに戻した。その目はどこか覚悟した者特有の色を帯びていた。フェランはバックミラーに写った、そんな凍った色をした目をした人々を見たことがある。特に多かったのは邪教集団の暗殺部隊だった。
「あいつ等は何の目的で何人も攫っているんだ。その目的と千秋を攫おうとした目的は一致するのか?」
 冬峰は硬い声でフェランに訊ねた。フェランはボールペンが刺さらない様に器用に首を振る。
「いや、違うね。私の知る限り多く行方不明者は、組織‐「K」と言うのだがね、彼等の信じる(大いなるクトゥルー)や、その眷属の食料もしくは欲望の対象となっている。私は彼等教団を追っていたのだが、彼等人間の手で拉致しようとした事は、君の場合、何か別の目的の為だろう。何の目的かは知らないが」
「クトゥルーだって」
 冬峰が信じられないと呟いた。
「パルプフィクションの神様がこんな田舎町に何の用があるんだ。H・P・Lは本当の事を小説にしたというんじゃないだろうな」
「本当のことさ。君が何故ラブクラフトの名前を知っているかは分からないが、一九二五年にルルイエは浮上したし、一九八五年の〈大異変〉もクトゥルーの眷属によるものだ。大異変の発生地、アメリカ、ロサンゼルスには私も居たのでね」
 冬峰と千秋の脳裏に学校の授業にて聞いた〈大異変〉の説明が浮かんだ。
 大異変とはアメリカのサンフランシスコからメキシコのカルフォルニア半島までが地球上から消失し、オーストラリア、ニュージーランドが水没、南半球の島々が国際連合の指示で、渡航禁止となった事件で、未だにその処置は解除されていない。
 その大異変の発生地に、この一見人懐っこい新聞記者のような男がいたとは冬峰には信じられなかった。よく助かったものだと感心する。
「それで私も君達に教えてほしいんだが、君達が何故彼らの標的になっているのか、心当たりはないのかな」
「無いな」
 あっさりと冬峰は返答した。
「私もありません」
 千秋も同意するのを、フェランは暫くバックミラーから探るように見つめていたが、不意に表情を緩め苦笑した。
「まあ、いいか。本人が何も知らない事もよくあるからね。で、これからどうする。「K」はまた、君達を狙ってくるぞ。信用できないかも知れないけど、私なら彼等を少しは相手出来るんだが」
 冬峰はフェランの首筋からボールペンをどけ、ミラの後部座席のドアを開けた。
「ああ、まだ信用出来ない。とりあえず帰って警察にでも相談するよ。連続誘拐事件に関係あるのなら、鼻先であしらわれたりしないだろ」
 千秋を視線で促して車外へ出る冬峰を、フェランは一瞬厳しい表情顔つきで何かを呟いて見送った。甘いなとでも言いたかったのかもしれない。
「分かった。無理強いはしないよ。その代わり、これを持っていてほしい。この石を身につけている限り、クトゥルーの下僕達は人間と眷属以外、君達に手出し出来なくなる。」
 フェランの手から直径一〇センチ程の丸石の表面に星形‐五芒星が刻み込まれた物を冬峰と千秋は受け取った。
「分かったよ。警察にはアンタのことは黙っておくよ」
「ありがたい」
 軽乗用車のドアが閉じられ、フェランは後手に手を振って車を発進させる。
 冬峰と千秋は小さくなっていく軽用乗車のテールランプを暫く眺めた後、街までの足が無い為、冬峰の携帯電話で千秋の自宅に車の手配を頼んだ。千秋は渋ったが信用できる人間かどうかもか分からないアンドルー・フェランに千秋の下宿先まで送ってもらう事など出来ず、タクシーなど二人の経済的事情から論外であろう。
 次に冬峰は自分の下宿させてもらっている御門家本家へ電話を掛けた。
 暫く呼び出し音を響かせた後「は…」と誰かが応答したが、次の瞬間ガタガタと衝撃音と共に「あっあっあー」と声が響いた。
「……」
 冬峰は暫く携帯電話を耳に当て相手の出方を待っていたが、約一分程してから漸くゆったりとした女性の声で「もしもし」と応答があった。
「もしもし、もしもし聞こえていますか、聞こえていますよね。もしもし大丈夫ですか?」
 大丈夫ですかというのは、もしかして自分に向けられているのではないだろうか。もしそうなら彼女は電話の受話器が地面に落ちると通話者もダメージを受ける、そう思っているのだろうか。それとも受話器そのものに訊ねているのだろうか。
「あのー、すみません。私の声、聞こえていますか。聞こえていたら右手を上げてください。」
「聞こえているよ、春奈さん。」
 冬峰は彼女を落ち着かせるべく声を挿んだ。どうやって右手を上げたことを確認するのだろうか。
「あー、よかった。冬峰さんでしたかー。大丈夫ですか?」
「オレは大丈夫です。大丈夫かどうかは受話器です」
「は、はい、そうですね。すみません」
 幾分か気落ちした様に声がトーンダウンする。受話器の向こうで彼女は、しゅん、とうなだれているに違いない。
 冬峰は、大丈夫ですかの意味は彼女の身にも連続誘拐犯のアプローチがあり、それで心配しているのではないか。ふとそんな気がした。
「春奈さん。今日大学の帰りに何かあった?」
冬峰は声を低くして訊ねる。千秋が誘拐の対象となるなら、彼女も対象となってもおかしくは無い。天門町と信州大学の通学時間は約1時間半。いくらでも襲うチャンスはある。
「はい、珍しく太郎屋の抹茶シュークリームが売り切れてなかったので、買わせて頂きました。本当はお一人様二個までだったんですが、通りがかりの親切な方に手伝ってもらいまして、すごいことに四個手に入ったんですよー。だから冬峰さんの分もありますよ」
「……はあ」
 酷くゆったりとした口調で平和な日常を語られた為、先程まで自分の体験した物事とのギャップに冬峰は溜息をついた。まあ、声を掛けてきた親切な人も、もしかすると〈K〉の者かも知れないが、多分彼女のペースに巻き込まれたのだろう。
「それで冬峰さんは何かあったのですか? 帰りが遅い様ですけど」
「いや、バイトが遅くなって千秋を送ってから帰ることにするよ。晩御飯は食べた?」
「いいえ、夏憐はともかく、紅葉はテーブルに突っ伏して空腹を堪えていますよ」
 クスクスと春奈の含み笑いに、彼女はどうやら居間のテーブルが見える位置に居るらしい。
 冬峰は腕時計を見た。暗闇でも反射しにくいようにマットブラックに表面が処理されたその時計の針は、午後八時四十六分。すまん紅葉と心の中で謝る。多分シュークリームも食後のデザートと言うことでテーブルの真ん中にでも置かれたままなんだろう。
「悪い。もう少し時間がかかるから晩御飯は先に食べといてくれないか」
 長女で二十歳、大学生の春奈。三女で小学六年生の紅葉。四女の小学四年生の夏憐。三人は両親を早くから亡くしているが、後見人の叔母の下、助け合って暮らしている。三年前から冬峰が下宿しており、意外と手先の器用な従弟は午後六時迄に晩飯の下拵えを終らせてから、アルバイトに出かけるようにしている。最初の頃は見た目は二の次で、味もまあまあだったが、現在では休日にパスタを中心に、リゾット、サラダ等のコース料理まで作れるほど上達している。
「はい、わかりました。気を付けて帰ってきて下さいね。あっ、千秋ちゃんにもよろしくって伝えて下さい。遊びに来てくれると嬉しいです」
「ああ、伝えておくよ」
 そう答えて冬峰は携帯電話を閉じた。苦笑を浮かべて「気を付けて、か」と呟く。既に気を付けてどうにかなる範疇を超えているように思われた。
「春奈さんが遊びに来いって」
 冬峰の言葉に、千秋はふうんと答えたのみで何も言わなかった。彼女は冬峰から目を逸らして暗い空を見上げた。どうやら春奈に対して話題にすることに抵抗があるらしく、気まずい雰囲気が二人の間にあった
 暫く二人が黙っていると、クラクションが二度短く鳴り響く音と共に、ライトの光が二人の姿を浮かび上がらせる。どうやら迎えが来たようだ。
「また動いていたか」
 迎えの車を見て冬峰は憮然と呟いた。 
 スバル360、日本初の一般大衆向け国産自動車で、てんとう虫と異名を取る白く小さな車体は、二人の前にのろくさと停車すると中から黒の三揃を着た背の高い初老の男を吐き出した。
「御久し振りです。お嬢様、冬峰様」
慇懃に一礼する男へ冬峰は軽く手を上げ挨拶したが、千秋は目を合わそうとはせず「久しぶりね、時春」とだけ答えた。
 時春と呼ばれた男は、そんな態度を気にした様子も無く千秋に対してにこやかに笑いかけ、車の後部座席のドアを開けて二人を座らせた。
「いつもの車はどうしたんだ」
確かベンツだったよなと思いながら冬峰は尋ねた。少し窮屈らしく身体を前屈みに倒し、尻の下に掌を置いている。千秋も同様の格好をしていることから、どうやら後部座席のスプリングがへたって居るらしい。
「ただいま車検中でして、今回は奥様のコレクションしか足はありませんので、少々乗り心地が悪いのは我慢してくださると助かります」
「でも一番古いのをわざわざ持ち出さなくても」
千秋の抗議もどこ吹く風、時春はどこか嬉しそうにハンドルを操り、後部座席の二人を車の左右に押し付けた。
「楽しそうですね。」
 冬峰は千秋にもたれ掛からぬ様に足を踏ん張らしながら訊ねた。どこか非難めいて聞こえるのは気のせいでは無いだろう。
「はい、昔、私もこの車にことがありますので、つい若い頃のハンドル捌きが思い出されます。昔は、この「出目金」に乗って千曲川沿いにレースを行ったものですよ」
 よっつ、はっつ、とか掛け声を掛けながら千曲川沿いの道を猛スピードで(といっても時速六〇キロ程度だが)下っていく老人へ、冬峰は何か言っておこうかと思ったが、何となく無駄になるような気がして口をつぐんだ。
「無事に着けたらいいや。」
そう誰に聞かせるでもなく呟いて、冬峰は目を閉じ座席にもたれかかった。目が覚めると、そこは天国だったというオチはつきませんようにと心の中で祈る。
 数分後、天門町の住宅地より外れた坂の上に一際大きな洋館が姿を現した。白い鳥が翼を広げた様にも見える。
 車が正門の前に到達すると、高さ三メートル幅一〇メートル程の門は中央から左右に分かれ、門柱の陰から時春と同じ格好をした三十歳頃の男女が車を挟み込む様に歩み寄ってきた。
「時春様。冴夏様が応接間まで冬峰と千秋様を案内するようにと」
「うむ、朱羅木と青桐は屋敷の周辺を見回って、何者かに見張られていないか調べておくように」
 一礼する二人組をおいて、スバル360は敷地内に入り込んだ。車の左右を流れる花壇には整然と花が植えられており、日頃の手入れの良さを物語っていた。
 三分程走った後、時春は表面に無数の文字が彫刻されたドアの前に車を停めた。
「私は車を置いてきますので、お二人は先に応接間へとお進み下さい」
時春がスバル360のドアを開け、二人を屋内へ促した。千秋は暫く黙って玄関を見つめていたが、車から降りるとスタスタと玄関を抜け、屋内へあがり込んだ。それもそうだろう。彼女は二年前はここに住んでいたのだ。冬峰も軽く一礼すると屋内へ足を踏み入れた。大人が三人ぐらい並んで歩ける幅の廊下の壁には、冬峰がどこかで見たことのあるピエロの格好をしたややデフォルメされた女性が、物憂げな微笑を浮かべている。
 千秋は廊下に入った一番手前のドアを二、三度ノックして返事を待ったが、何も返事が無かったのでドアを開け勝手に部屋に入っていった。
 部屋は十二畳ほどの広さの洋間であり、緑色の絨毯にこげ茶色の木製のテーブルが草原の中のお茶会場所という落ち着いた雰囲気をかもし出していた。置かれている家具や小物も地味なものが多いことから、この家の主人の性格を物語っているようであった。
 千秋はテーブルと同色のソファアの中央に腰掛けた。それはレンガ色の一人がけ様のソファアの正面に置かれており、冬峰にはそこがこの部屋での彼女の定位置だと、何となくそう思った。
「家出娘の帰還か」
 千秋が唇の端を歪め自嘲するように笑みを浮かべた。
「危なくなると助けを求めるって、まるで一人じゃ何も出来ないヒヨッコですって言ってるみたい。」
「仕方ないよ。実際僕等は何も出来ない学生なんだし」
 冬峰は慰めているのか、けなしているのかどちらとも取れない眠そうな口調で言った。何も出来ないと口では言っていたが、千秋を助けた冬峰の動きは何かしら常人とは違うスピードを発揮しており、千秋もそれについては一言も冬峰に尋ねていないというのが妙といえば妙であった。
「分かっているわよ、そんな事」
 千秋は前を向いたまま答えた。彼女としては、これから実の母親と会う。その事が面白くないのであろう。家出に近い形で一人暮らしを始めた手前、久し振りに会う母親に対してどんな態度を取れば好いのか解らず、戸惑っているいるのかも知れない。
 ふと冬峰がドアへ視線を向けるのと、ドアから短く二度ノック音が響くタイミングはほぼ同時であった。
 ガチャリと意外に重い音を立ててドアノブが回転し、ドアを開けた時春と、ベージュのスーツを着た一見やり手の女社長‐ひっつめ髪で細い眼鏡を掛けた女性が二人の前に現れた。どことなくキビキビした所作と切れ長の目が千秋と似ている事から、彼女が千秋の母親でこの洋館の主人である御門冴夏であることは間違い無いであろう。
「久し振りね、冬峰、千秋」
千秋の正面に置かれたレンガ色のソファアに腰掛け二人に微笑んだが、千秋は目をあわそうとはせず横を向いたままであった。
「まず、何が遭ったのか説明してくれないかしら。時春は連続誘拐犯に襲われたと報告してきたのだけど」
冴夏の問い掛けに冬峰は眠そうにしながらも、これまでの経緯を学校の校門前での出来事からフェランとの邂逅まで、つつみ隠さず報告した。冴夏も途中、仮面の大男に関しては眉をひそめ何か言いたげにしていたが、それ以外は目を閉じてじっと耳を傾けていた。
「なるほどね、彼らは〈門〉を開く事が目的と、そう言ったのね、千秋。」
「ええ、間違い無く〈門〉を開くって、そう言っていたわ。」
千秋の言葉に、冴夏は形の良い眉を顰めた。
「〈門〉を開くことが目的だとすると、御門本家も狙われている可能性が高いわね」
「春奈さんに訊いたが、別に変わったことは無いと言っていた。単に気付いていないだけかも知れないが」
「そうね、春奈は私達よりおっとりしているから」
冴夏は冬峰の意見に頷いて携帯電話を取り出し、一言二言話した後、安心したように息を吐いた。
「本家の警護についている者に連絡を取ったけど、怪しい者は見当たらなかったそうよ」
「すると、常に監視されている本家の者より、私の様な分家が狙い易かったということね。」
 千秋がいかにも迷惑そうに呟いた。半ば投げやりな口調に、冬峰は何故かいたいげな表情を浮かべた。冴夏も娘を叱り付ける様な厳しい顔付になり口を開いたが、偶然響いたノックの音にタイミングをずらされた。
「何です」
「失礼します。お茶をお持ちしました」
落ち着いた声音で時春がティーカップとポットを載せたトレイを片手に入室してきた。手馴れた様子でテーブルに置かれたカップに紅茶を注ぐ。
「国産の出雲地方で取れました紅茶で御座います。無農薬栽培された高品質の葉で、渋みも少なく飲みやすいのが特徴です」
 部屋に紅茶独特の華やいだ香りが立ち込める。心なしか先程までの重い雰囲気も幾分か和らいだようだ。
「しかし冴夏様、〈門〉を開く巫女の存在は口伝でのみ一族の者に伝えられます。更に分家で資格を持つ者の存在を知る者となると、ほんの一握りとなるでしょう」
 どうやら室内の会話が耳に入ったらしく、時春は一礼して意見を述べた。応接間のドアは厚さ30ミリあり、室内の会話は殆ど聞こえないはずだが、この初老の執事も只者ではないらしい。
「そうね、身内を疑う事になるでしょう。それに関しては私の方で手を打ちます。問題は彼等〈K〉の目的は何か。〈門〉を開いて何を行うか」
冴夏は一息ついた後、時春の淹れた紅茶で唇を湿らせた。
「私も彼等〈K〉もしくはクトゥルー教団と呼ばれるのだけど、彼等について耳にしたことがあります。日本でも夜刀浦という古い漁村で活動していた事実があり、彼等は九頭竜とよばれる神を信仰していたわ。その事件の後始末には陰陽寮、宮内庁、防衛庁が出動しました。」
「それは大変だったね」
 冬峰としては、ただ唖然とするばかりである。

Re: 天門町奇譚 ( No.6 )
日時: 2020/07/19 15:05
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

「彼等クトゥルー教団は世界中に存在しており、彼らの祈りによりクトゥルーは縛めから解き放たれ復活するとされています。ある意味私達、御門家に最も近い者達かもしれません。」
「始まりにして終わりのもの。一つにして百のもの。門の中にあり万物の生と死をつかさどるもの。その名を〈神〉と呼ぶ」
冬峰の言葉に冴夏は目を閉じ左右の組み合わせた手指を苛ただしく動かした。
「御門の悲願を達成する為にも、本家、特に春奈は守り通さねばなりません。本家には朱羅木と青桐を警護に就けます。千秋」
千秋は母親に呼ばれて顔を上げた。メタルフレームの眼鏡の奥の目は、何故か憎しみを込めた光を放っているようであった。
「あなたは明日から本家で下宿すること。いいわね」
母親の命令に千秋は顔色を蒼くした後、立ち上がり母親に詰め寄る。
「どうして勝手に決めるのよ。本家になんか行かないわよ!」
 本家なんかって、俺、居候しているんですけど。と冬峰はそう思ったが口には出さなかった。
「あなたも狙われている以上、警護の者を就けなければならないのは分かるでしょう。それなら最も警備の厳重な本家に、一纏めにしておいたほうが効率的なのよ」
冴夏は冷たく娘を突き放すように答えた。暫く娘と母親との睨み合いが続いたが、千秋は納得いかなそうに下唇を噛むと、足音荒く応接間から出て行った。
 暫く千秋の背を見送った後、冴夏は軽く溜息をついた。どうして分からないのかしら、と冴夏が呟くのを冬峰は聞き逃さなかった。常に冷静であることをモットーにしている様なこの女性でも、自分の娘だけは勝手が違うようだ。
「冬峰」
 冴夏の呼び掛けに冬峰は視線で応じた。両足を前に投げ出し上体を深々とソファアに埋めた姿は、何となく面倒臭そうだ。
「あなたには学校内での千秋の警護を命じます。流石に朱羅木に学生服を着せるわけにもいかないでしょう」
 冬峰は朱羅木の学生服姿を思い浮かべ、確かに似合わないと呟く。普通三十過ぎの男がするべき服装ではないだろう。
「必要なものはこちらで揃えるわ。多少の破壊活動も認めます。あなたは千秋が彼等〈K〉の手中に入り、異世界の邪神なんかの手段に使われることが無い様、あの子を守ること」
 冴夏のその言葉は御門家当主を補佐する物としてか、それとも娘を案じる母親としての言葉か、冴夏の冷然とした表情からは何の感情も伺えなかった。冬峰も別に気にした風も無く、眠そうに半眼となっている。どうでも良いのかも知れない。
「うーん、学校内で警護となるとあまり派手なことは出来ないよね。まあ、竿は取り回しやすい二尺程度がほしいね。短物はこっちで用意出来るとして、千秋用に花が一つと種が二百個あったらいいね」
「分かったわ。明日の朝、時春に届けさせます」
 冬峰の注文を机の上に置かれたメモ用紙に書き取り、時春に手渡した。時春はその文面に目を通した後、ううむと眉間にしわを寄せ気難しそうに唸った。
「竿はともかく、花と種ともなると明日の朝までは、一寸難しいかもしれませんな」
「必要ないかも知れ無いけど、念の為」
 会話の内容からすると、園芸でも共通の趣味とするのであろうか。
「じゃ、失礼します」
 冬峰は立ち上がり背を伸ばした。ポキポキと背骨の音がして何となく爺むさい。
 時春の申し出を断り、徒歩で屋外へ出た冬峰は、自分で左右の肩を叩き首を左右に回した。どうやら彼にとってこの家は居心地が悪いらしく、一つ大きな溜息をついて肩を落とした。
「なんか、面倒な事になってきたかな。春奈さんに何も起こらなければいいけど。」
その姿は数時間前の非情な面影は無く、どこかのんびりした高校生そのものだった。

Re: 天門町奇譚 ( No.7 )
日時: 2020/07/19 15:17
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

  二章 学園闘争曲

            1

「人はあっけなく死ぬものだ」
 薄暗い倉庫の中、白髪の眼帯で左目を隠した大男は、低く、言い含めるような低い声で呟いた。
 夏の日差しは窓の無い倉庫内には入って来ないが、それは空気も同じ。フライパンの様に暖められた屋根がら放射される熱波が、己の庇護下にある倉庫内の空気をぬるま湯のような感触に換えている。
 そんな中、この大男は低く太いそれ自体が重量を持っているような声で言葉を続けた。
「例えば首の両側」
 大男は人差し指で左右の顎の付け根から喉仏の下までをなぞる。
 彼はそれを食い入るように見つめていた。倉庫内の澱んだ真綿に纏わり付かれたように感じる湿気と気温混じって、錆びた鉄のような臭いに彼は気分が悪くなって唾液が口腔内にたまっていたが、それに耐え大男を瞬きもせず見つめ続ける。それが生きるために必要なことだと知っているから。
「この部分を深く切ると血が噴き出す。また気管も切られるため呼吸も難しくなる。待つのは確実な死だ」
 淡々と事実だけを告げた大男は、人差し指をさらに下げて第二ボタンまで開けた方―シャツの内側、左鎖骨の窪みを指先で軽く押した。
「ここにも太い血管が通っている。此処を突き刺し、刃先で抉ると相手は数秒で死に至る」
 彼は大男と同じく自分の左鎖骨の窪みに指先を当てる。血管の中に血液が流れる脈動を感じた。これが生きているということだろう。
「そして心臓」
 大男は軽く握り拳で己の胸の中央よりやや左の部位を叩いた。
「心臓を潰されれば即死する。だが心臓は胸骨や肋骨に守られ攻撃し難くなっている。また攻撃される者も肘や拳で心臓を防御する。直接狙うことは不可能に近いと思ったほうがいい」
 不意に大男はしゃがみこんで、右手の指先を伸ばし彼の左胸を突く。
「不意を付くか、相手を押し倒すか、行動の自由を奪ってから攻撃しろ」
 次に大男は彼の顔を右掌で覆い、軽く突き放した。大男は軽く押しただけだろうが、彼はその力に抗いきれずに尻餅をつく。間髪入れず大男の左手が彼の左肩を押さえ込み、薄汚れた床へ身体を押し付ける。
 彼は身体をよじり逃れようとするが、人の形をした岩に圧し掛かれた様にピクリとも動かず圧倒的な力の差を彼に教えた。
「この体勢は攻撃する側にかなり有利になる」
 大男は右手の人差し指で首、鎖骨のくぼみ、心臓、腹を次々に素早くなぞる。それは公明な料理人が調理台の前に置かれた食材を切るように淡々としており、大男がこの作業を何千、何万回と繰り返し慣れている事が彼にも容易に推測できた。
「押し倒し相手の自由を奪っても、素早く作業する事を覚えておけ」
 そう言うと大男は彼から手を離し解放したが、大男の人差し指のなぞった部分にひりつく痛みを感じ、彼は顔を顰めながら立ち上がる。
「しかし今のお前の体格では、立ったままでは首や胸には届かず押し倒すには力が足りない。だから狙い所はここになる」
 大男は自分の左太股の内側を平手で叩いた。黒色のスラックスが小気味良い乾いた音を立てる。
「この奥にも動脈があり、ここを傷つけられると即死とはいかないが出血が酷く身動き出来なくなる。標的の前にボールを転がし、拾うふりをして相手にぶつかり太股の内側を何度も突き刺すが良い」
 彼は先程の経験から、そんなにも上手く出来るのかと信じ難かった。相手は動き騒ぎ反撃する。狙い通りの位置に攻撃することは、口で言う程容易くは無いんではないか。
 そんな彼の考えを読み取ったのか、大男は二人の背後にあるもの、先程から倉庫内の生暖かい空気に錆びた鉄を嗅いだ様な臭いを混ぜているものを顎でしゃくって指し示した。
 それはうつぶせに倒れた少女の死体だった。少女の背中と身体の下、地面に広がっていく赤はそれ自体が死だという様に大きくなるにつれ、少女の肌の色を青白く白蝋に染めていく。大男はそれを暫く詰らなさそうに眺めた後、革靴のつま先を少女の身体の下に入れ借り上げるように少女を引っ繰り返した。波打った金髪の下の信じられないと開かれた瞳と、重ねられた両掌の下から覗く傷が生々しかった。
「確かにお前は相手に悟られること無く、先んじて相手を攻撃出来た。しかし狙い易かったのだろうが、お前がナイフで刺した場所は腹だった。腹を刺された相手は確かに動きは鈍くなるものの、死にたくないから必死で自分が死ぬまで反撃し続ける。結果、こちら側も余計な傷を負う。」
 大男は彼の上腕の切り傷や膝の擦り傷をじろりと睨み付けた。
「今回のように相手の得物もナイフだった場合、相討ちの可能性も無くは無かった。だから、先ほど教えたとおり、確実に急所を衝いて相手の息の根を止めることだ」
 彼は大男の言葉を聴いているのかいないのか、少女の死体をただ見つめていた。それに何を感じ取ったのか、大男は一言ずつ、言い含めるように言葉を続ける。
「これからお前はこの場所で、自分自身と仲間を護る為に人を殺し続ける。相手は昨日まで共に飯を喰い、護り合った者達だ。それはお前が合格するか死ぬまで続けられる」
 彼は顔を上げた。その黒瞳には何も浮かんでおらず、ただガラスの球の様に鈍く光を跳ね返すだけだった。床に臥した少女と彼が昨日まで、彼の妹分と共に少ない食事を分け合っていた相手であっても、彼は普段どおり無表情にその亡骸を見つめるだけだった。
「そして何があっても躊躇うな。何が自分にとって大切か、それを見失わないことだ。それが生き残る力となる」
 彼にとってそれは共にこの場所へ連れて来られた従兄弟達だった。彼等を護る為に自分は存在するといっても過言ではない。だから躊躇わずに彼女を刺した。
「私としては、お前がこの犬の共食いに生き残ることを期待するよ」
 大男が踵を返し倉庫の外に歩み去る足音が消え去っても、彼は倒れた少女と広がって行く血溜りを見つめていた。その光景を、瞬きすることも無く、ただじっと見つめ続ければ少女が起き上がって来ると信じているかのように、ただじっと見つめ続けていた。

             2

 五時五〇分、冬峰はいつも通り目覚まし時計の鳴り響く前に目を覚ました。出来ることならこの五月の暖かくなりゆく日差しの中でもう少し惰眠を貪っていたかったが、あいにくその役目はこの家の主人が担っており、彼の役目はその主人を速やかに眠りの園から連れ出すことにある
 まず彼は洗顔、着替えといったひと通りの身支度を整えた。といっても学生なので黒の学生ズボンとTシャツの上に白いカッターシャツを羽織っただけであり、そう着替えに時間は掛からない。所々跳ね上がった髪の毛は放っておくことにする。
 彼の居候する御門本家は築百年以上の平屋であり、中庭を中心にコの字型に建てられている。本当は」型だったのだが戦後離れと道場が新設された為コの形となった。突き出た一方には玄関、十二畳の和室が二つ並んでおり、玄関側を応接間、奥側を食堂として使用している。突き当たりが台所と風呂場、ここから廊下が直角に曲がり、玄関に近い側から長女春奈、三女紅葉くれは四女夏憐かれんの部屋が並ぶ。また直角に廊下が曲がり離れの冬峰の部屋と道場、物置となる。アルバイトや用事で帰りが遅いとき、冬峰は姉妹を起こさぬよう物置の勝手口から帰宅することが多い。
 冬峰は姉妹達を起こさぬように姉妹の部屋の前を通り、台所でエプロンを羽織る。黒色のシンプルなタイプで、大き目のポケットが誂えられているのが彼は気に入っていた。
 ご飯は昨晩から水につけていた玄米を圧力釜で炊き、鯵の干物を弱火で炙る。巻き卵焼きを焼いた後、豆腐とゴマと白味噌で葱をあえ、キャベツと人参の千切りにミニトマトを添える。更にパンを十二枚焼き、薄玉子焼き、ハム、豆腐マヨネーズ、レタス、胡瓜を挿んで4人分のサンドイッチを作り、冷蔵庫にしまいこむ。
 ここで沸いたお湯を火から外し三人姉妹を起こしに行く。彼女らが起きた頃、お茶の淹れ頃となる六〇℃まで下がっているはずだ。
 端から順番に、まず春奈の部屋のドアをノックする。
「春奈さん、起きて下さい。六時二〇分ですよ」
 暫く待つが大抵は返事が無く、二、三度繰り返すと漸く返事がある。しかも、
「あ~と~五~ふ~ん~」
「駄目です」
突っぱねると中から鼻を鳴らす音がして、なにやらごそごそ重いものを引きずる音がするので放っておいて次の部屋へ向かう。
 隣の紅葉の部屋のドアをノックしようとすると、左の部屋、夏憐の部屋のドアが開き中からつやのある黒髪を腰まで伸ばした少女が顔を覗かせた。冬峰と視線が合い、顔を綻ばせる
「お早う、フユおにいちゃん。」
「お早う。夏憐かれんちゃん」
 冬峰も微笑んで挨拶を返す。ただこちらは何故か気だるげで、朝の爽やかさとは程遠い。
 可憐と呼ばれた少女は冬峰のそんな様子を気にした風も無くくすくすと笑い、冬峰の隣へ並んだ。眉が隠れるぐらいの位置で切り揃えられた前髪と、動くたびに鈴の音が鳴りそうな黒髪の少女は、その見た目からご近所から「お人形さん」と呼ばれている。やや大きめの瞳と人見知りするおずおずとした話し方から、天門町商店街の小父さん達に人気が高い。冬峰がこの御門本家に来た時、この少女は春奈の背後に隠れてなかなか冬峰と目を合わそうとしなかった。今では気兼ねなく会話も出来、冬峰の帰りの遅いときは食事の用意もしてくれる力強い相棒となっている。
「紅葉お姉ちゃんは起きたの?」
「これから起こすところ。もう起きてると思うけどね。」
 再度ドアを叩こうと手を上げると、タイミングを計ったかの様にドアが開いた。
「おはよ、夏憐、フユ」
 冬峰と同じく癖のある髪をショートカットにした、やや釣り目の目鼻立ちの整った少年の様だが、実はこの家の三女の紅葉くれはである。
「ういっす」
 冬峰の挨拶も男友達にするように、かなりぞんざいだ。
「お早う。紅葉お姉ちゃん。やっぱり起きてたね」
「そりゃそうだろ。コイツのハルねえを起こす声で大抵は起こされちまう。あれで起きなかったどうかしてるよ」
 冬峰はやれやれと肩を竦めた。どうやら紅葉にとって実の姉である春奈は、どうかしている存在らしい。
「ハルねえもフユを見習って早起きすればいいのに。昨日は遅かったんだろ」
 よくやるねえと、少し心配そうに見上げる紅葉に、冬峰は苦笑して紅葉の頭の上に手を載せくしゃくしゃと掻き回した。
「俺は学校で寝ているからな。そう大変でもないさ」
 うーやめろよー、と冬峰の手を払いのけ紅葉は手櫛で髪を整えようとするが、基より癖っ気のある髪質なので更に髪は思い思いの方向へ跳ね上がった。夏憐はクスクスと笑いながら紅葉の髪を押さえては放し、また押さえては放しを繰り返し遊んでいる。
 三人は居間の座テーブルのそれぞれの位置に腰掛ける。既にテーブルの前には冬峰の用意した朝食が並べられ、紅葉と夏憐の食欲を刺激した。
「「いただきます」」
 行儀良く三人とも手を合わせ唱和する。白味噌と葱の和え物を口にした紅葉の口元に笑みが浮かぶのを、冬峰はほほえましそうに眺める。
夏憐はリスがどんぐりをついばむように少しずつ口に運ぶ。その仕種は彼女の外観にうまく組み合わさっており、本当に可愛らしいと形容したくなる。
 冬峰の視線に気が付いたのか、夏憐は口に運ぶ手を止めて顔を赤くして俯いた。どうやら食べている仕種を見られるのは、とても恥ずかしいらしい。
「フユ、夏憐が恥ずかしがっているから、食べるとこ見るのはやめろよな」
 こちらはちっとも恥ずかしくないのか、片っ端から口に運んでおり、なおかつ口に物を入れたまま喋っている。
「いや、主夫業の喜びを満喫していたところなんだけどね。て、どさくさ紛れに人の玉子焼きまで食べないように」
 冬峰に呆れているのか、それとも喜んでいるのか、どちらとも取れる表情で注意され紅葉は口許まで持っていった玉子焼きを、パクンと一息に頬張った。
「あ、紅葉お姉ちゃん酷い」
 つい夏憐が抗議の声を上げるが、紅葉は玉子焼きを嚥下して「ご馳走様」と両手を合わせた。
「しかし、もう少しゆっくりと食べられないのかな、こいつは」
 冬峰も気にした風も無く食を進めているが、冬峰はそれほど腹は減っておらず、むしろある程度紅葉が片付けてくれるのは、助かるというものだ。なにしろ昨晩の夕食が午前様だった為、箸の進みも遅くなっている。
 紅葉も普段やらないような横取りをしたのも、其れを見かねてのことかもしれない。まあ、育ち盛りの食欲の暴走かもしれないが。
 あらかた三人の食事が終わり、冬峰が空になった食器を片付け始めた頃、廊下から何かを引き摺る様な音が響き、襖が少しずつ開かれて行った。
 そこから細い女の手が居間に入り込み、ずずっと無理矢理身体を隙間に割り込ませた。
 それは髪の長い女であった。腰まで掛かる長い髪の毛は顔の前面を覆い隠し、畳を這い蹲って進む様はあるホラー映画を冬峰に思い出させた。
「えっと……貞子?」
「春奈お姉ちゃん、怖い」
 夏憐が冬峰の背中に隠れて、怯えた様に呟いた。
「……眠い……」
 力尽きたのか、上半身だけ居間に入り込んだ状態で動きを止めた長女の両脇に手を差し込み冬峰はテーブルの前まで運んだが、彼女はテーブルに突っ伏してぴくりとも動かない。
「やれやれ」
 冬峰は彼女を眠りの底から引っ張り上げる為、台所から手動式のミルと珈琲豆を取ってきて春奈の前で挽き始めた。深炒り豆がつぶされる香ばしい匂いが彼女に届いたのか、むくりと顔を上げる。
「ブラックでお願い~」
「はいはい」
 フレンチプレスまたはコーヒープレスと呼ばれる器具の中にひいた豆を入れお湯を注ぐ。暫く経って珈琲カップに注がれる珈琲を彼女はじっと見つめていたが、注ぎ終わると目を閉じ嬉しそうに微笑んだ。
「幸せの匂いですね」
 冬峰はその顔から目を逸らし、珈琲カップを春奈の手に押し付けた。
「そうかな」
「そうですよ~」
 一口飲んだ後、ふわっとした笑顔を浮かべて「優しい味ですね」と呟く。冬峰の入れる珈琲はアルバイト先の「ラ・ベルラ」から豆を買っており、マスターの焙煎するケニア産のフレンチローストに入られた豆は、「大異変」後に手に入り難くなったブラジル産に似たまろやかな味がする。
 珈琲を飲んで一息ついたのか春奈は朝食に取り掛かり始めた。玄米ご飯や玉子焼きを口にする度、ウンウンと頷いている様は何となく微笑ましくもある。
 春奈は両親を五年前に亡くしてから御門家の当主を勤めており、成人後は御門本家の顔としてこの街に伝わる神事を取り仕切ると共に、分家の運営する旅行会社や地場産業の経営状態にも気を配らなくてはならない。現在二十歳である彼女は、平日は学業、休日は御門家当主の勤めについて後継人である冴夏に学ぶ忙しい毎日を送っているはずだが、当の本人はおっとりとした雰囲気を崩さず、何も考えていないかも知れないが、ほややんとα波を放出している。
 彼女の容姿は「御門の姫様」と呼ばれるとおり腰まで掛かる黒髪と、年齢よりもやや大人びた、目鼻立ちの整った左右対称のうりざね顔をしており、細い少し目じりの垂れた目と、いつも微笑んでいる口許から「和み光線発生装置」との異名を取る。ただ御門本家の三女からは「のんびり過ぎて背中に発条をつけたくなる」と辛らつな意見が出されている。
「春奈さん、冴夏叔母さんからお願いがあって、最近物騒なんで千秋を下宿させてほしいって」
今年大学三年生となった春奈は通学に一時間半掛けて大学に通っており、アルバイトをしている冬峰とは、日によっては朝食時のみ顔を合わせるだけの場合もある為、連絡事項については朝食を取りながら話すことが多い。
「物騒って、連続愉快犯?」
「一人暮らしだと、やっぱり心配なんだろうね。通学も一緒にお願いしますって……聴いてます?」
 春奈はテーブルに突っ伏して「えぐっつ、えぐっつ、弟が冷たいよう」と泣き真似をしている。どうやら誘拐犯と愉快犯の引っ掛けを、冬峰がさりげなく無視したのが悲しかったらしい。
 連続愉快犯って何なんだろと心の中で呟きながら冬峰は話を続けた。
「アルバイトもしばらく休むことになるだろうからね。暫くの間、千秋にはうちで息抜きをしてもらうよ」
「そうですね。千秋ちゃんは一人暮らしでいろいろ大変でしょうから、せめてここではゆっくりと寛いでほしいですね」
 立ち直ったのか春奈は空になった朝食の器を、二人の妹と片付け始めた。冬峰が朝食を用意するようになってから、後片付けは三姉妹が行うようになっており、その間冬峰は弁当用のサンドイッチを用意している。
「じゃあフユお兄ちゃんも早く帰ってこれるの」
 食器を背伸びしながら食器棚に収めた夏憐はおずおずと冬峰に尋ねた。
「と思うよ。そろそろ部活禁止令だのアルバイト禁止令だの学校側が騒ぎそうでね」
 出来れば久し振りに街中を散策したいところだが、千秋の警護を仰せつかっている以上そうも行くまい。
 「夏憐ちゃんには悪いけど、暫く暇にしている高校生の相手をお願いできるかな。もちろん手が空いていたらだけど」
「大丈夫だよ。うん」

Re: 天門町奇譚 ( No.8 )
日時: 2020/07/19 15:28
名前: 飛鳥 瑛滋 (ID: wVVEXLrP)

 冬峰のお願いに、夏憐は両手の掌を胸前で握り締め、勢いよく頷いた。そんな夏憐の様子に春奈はそっと夏憐の髪の上に絵を置いて優しく撫でた。
「夏憐は偉いね。私も早く帰りたいな」
 春奈に褒められた為か、夏憐の顔が見る見る赤くなる。夏憐はどうやら中身はともかく外見の綺麗な姉を尊敬しているようであり、髪を伸ばしているのも春奈に対する憧れかもしれない。
 そんな二人を見て紅葉は冬峰の腰を肘で突付き、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あたしもフユの相手ならしてあげるけど」
「プロレス技禁止よ、紅葉」
「えーっ」
 快活な三女は冬峰が本家でのんびりと読書をしていると、大抵プロレス技、特に関節技を掛けてくる。おそらくこの快活な少年のような三女は他の姉妹が大人しいので暇をもてあますことが多く、どうしても冬峰を遊び相手に選ぶことが多い。特に格闘技には多少関心があるようでよく居間のテレビでプロレスの中継を見た後は、冬峰に技の相手をせがんで来る。春奈にしてみればもう少し女の子としての自覚を持ってほしいのだが、冬峰は別に今だけだろうと気にもしていない。おそらく二年もすれば頼んだって相手してくれなくなるに違いない。
 七時一〇分間近になると三姉妹は着替える為に自室に戻り、冬峰は食後の運動をするため庭へ足を運んだ。庭は松や庭梅、庭石が置かれている小さいながらも立派な庭園であり、その中央には物干し台が立ててある。
 冬峰は空を見上げて大きく欠伸をした。空は晴れ渡り洗濯物がよく乾くだろう。
 癖のある髪を軽くかき回した後、冬峰は背後を振り向き松の木の陰で身を隠した人影に声を掛けた。
「朝早くご苦労さん、時春」
松の陰から沸いた人影は悪びれた風も無く、三つ揃いの背広を隙無く着こなした上体を曲げ慇懃に挨拶した。
「お早う御座います冬峰様。朝早くからの主夫業は大変ですな」
「後は洗濯機を回すだけでね。俺の仕事じゃないよ」
 流石に彼女らの下着を干すのは、冬峰はともかく彼女等が嫌がるだろう。特に一度冬峰がたまたま早く帰ったときに夕立に遇い、彼女達の洗濯物を片付けたのだが、其れを二人の妹から聞いた春奈は顔を真っ赤にしてうろたえたのだった。
 時春は肩に掛けたボストンバックを地面に下ろした。ゴトンとボストンバッグの中身が重い音を立てる。
「齢を取ると、どうも重い荷物を持てなくていけませんな」
 腰に手をあてて「あたた」と呟くのを無視して、冬峰はボストンバッグを肩に担いだ。ずしりと重い。
「頼まれましたものはひと通り用意出来ました。しかしこれらが必要な事態にならなければ良いのですが」
「さてね。」
 韜晦しているのかのんびりと冬峰が答えて、また一つ欠伸をした。
「あら、時春様、お早う御座います」
 白いブラウスと同色のロングスカートに着替えた春奈が、両腿の前に手を重ね一礼した。その清楚な仕種から朝のだらしなさを想像するのは不可能だろう。
「これは春奈様。いつもお美しい」
「ですって、冬峰さん」
 照れたのか頬に手を当てて、平手で冬峰の頭をぺしぺしと叩く。
「早く行かないと遅刻するよ」
「はいはい、じゃあ行って来ます」
 二人に一礼して春奈は踵を返した。翻った黒髪と白いスカートが残像として冬峰の目に焼きつく。
「ふむビデオを持ってくるべきでしたな」
 冬峰はそんな色ボケ爺を呆れたように見つめて溜息をついた。
「今日から千秋を泊めるけど、学校以外の守りは任せるよ」
「お任せ下さい。朱羅木は春奈様に、青桐は紅葉様と夏憐様に同行出来る様、どちらも学校側に話しを通しております。多少の寄付金が必要となりましたが、本家を守る為なら大した額ではありません」
 どうやって校内までガードするのだろうかと冬峰はぼんやり考えたが、何も思い浮かばなかった。大学はともかく小学校は警護に困ると思うのだが。
「帰宅後はそのまま本家を警護することになります。〈K〉がどのような相手かは分りませんが、朱羅木と青桐ではそう遅れを取りますまい」
「だといいけどね」
 冬峰は昨晩出くわした仮面男を思い出した。逃げる間際、散弾をいくつか撃ち込まれていたが冬峰には其れでカタが付いたとは思えなかった。
「で、千秋の警護の報酬っていくらなのかな。」
 冬峰の問い掛けに時春は「はて」と呟き首をかしげた。ワザとらしく驚いたように目を見開きポンと手を打ち、「いや、しまった」と漏らす。
「冬峰様、申し訳ありませんが奥様をお送りする時間が来てしまいました。申し訳ありませんが本日のところは冬峰様だけで千秋様を守って下さいませんか。なに、装備も揃っておりますし、冬峰様なら大丈夫で御座いましょう」
「一寸待て、アルバイトも休んで警護するんだ、貧乏学生の懐具合も考慮してくれ。朱羅木と青桐には冴子伯母さんから給料が出てるんだろ」
 そそくさと門前に停めたスバル360に乗り込む時春の背へ冬峰は声をぶつけたが、見事に無視をされ走り去られてしまった。どうやらロハで働かせる心算らしい。
「どうしたのフユお兄ちゃん?」
 洗濯物を抱えた夏憐と紅葉が通りかかり冬峰の様子に首を傾げたが、冬峰もこの二人に理由を話せるわけも無く、ただ苦笑を浮かべるしかなかった。
 紅葉と夏憐を送り出す際、冬峰は昨晩、胡散臭いジャーナリストから受け取ったお守りの石を紅葉に持たせた。
「何これ?」
「お守り。登下校の時は必ず身に付けておいて」
 半信半疑で夏憐の手を引いて登校する紅葉を見送った後、屋敷の戸締りを終えた冬峰は、重いボストンバッグを左肩に掛け学校迄の徒歩約二十五分の道程を歩き始めた。約二十五分の距離というのも微妙で徒歩三十分ならバス通学の踏ん切りもつくのだが、結局冬峰はバスを待つのが面倒臭く、また自分の懐事情の為、徒歩通学日課としている。
 十五分ほど歩き雑木林沿いの通りに出ると、冬峰の前を見慣れた男女一組が横切った。男は背丈が百八十センチ以上ある短髪で挑戦的な目つきをした男子学生であり、女性は一見美少年と間違えそうなショートカットに目鼻立ちの整った顔に悪戯っ子の様な笑みを浮かべて、きびきびと歩く動作も様になっている女学生だった。
「アッラー、アクバル」
「普通に挨拶しろよ」
 目敏く冬峰を見つけた女学生、阿見志保理の挨拶に横から根神が突っ込みを入れた。「朝から元気だよな、コイツ等」と冬峰は思ったが、もう長い付き合いで別に口に出して言うことでもないので黙っておいた。
「冬峰、昨日は呼び出してすまなかったな。何も起こらなかったか?」
 根神は冬峰に片手で拝むようにして昨晩の出来事について訊ねてきた。表面上は平然としているが、顔を合わせて直ぐ訊ねてくるあたり、昨夜から気になっていたに違いない。冬峰は「別に」と短く答えて「そっちは?」と訊ねた。
「俺の方も別に何も無かったさ。いつもと違って静かだったからつい警戒してしまってな。それもこれも、お前が変な忠告をするからだぜ」
 別に起こった風も無く苦笑を浮かべてぼやく根神へ、冬峰も苦笑を返した。
「どうやら思い過ごしのようだね。悪かったよ」
 実際にはかなり危なかったのだが、冬峰はおくびも出さず答えた。それこそこの二人の幼馴染に昨晩のことを話せば、二人ともひとしきり信じられないと笑った後、何も言わずに助けに来る。冬峰はそう確信している。
 冬峰は暫く雑木林沿いに歩みを進めながら、放課後の過ごし方について相談をする二人の会話に耳を傾けていたが、ふと志保理が会話を唐突に止め、雑木林の奥へ目を凝らす。
「どうした?」根神は同じ方向を眺めて志保理に訊ねた。志保理の表情はこの少女には珍しく何かを堪えるような思いつめた相を浮かべていた。
「雑木林の奥に人がいた。」
「人? そりゃいるだろ。散歩する奴も居るだろうし」
志保理は根神を睨みつけ、区切るように「違う」と反論した。
「散歩を楽しんでいる感じじゃなかった。何か目的があるみたいに雑木林に入って行った。」
冬峰と根神は顔を見合わせ、どうしようかと呟いた。この雑木林は新聞部副部長で志保理の友人であった新藤恵美の凍死体が発見された場所なのだ。
「行こう、ハジメ、フユ。ひょっとしたら犯人かも知れないし、そうでなくても事件について何か知っているかもしれないよ」
 二人の手首を掴み強引に雑木林の方へ引っ張る志保理にはいつもの快活さは見られず、それどころか泣き出す寸前のように唇をきつく結び、雑木林の奥を見つめている。
「フユだってよく本を貸していたじゃない。恵美が居なくなって悔しくないの」
 冬峰は志保理を黙って見返した。彼女にとって新藤恵美は友達だったが、自分にとってはただの顔見知りに過ぎない。本を貸したのもただ、頼まれたので貸しただけだ。
「分かった。行こう」
 根神は諦めたように溜息をついた。こうなるとこの頑固な少女はてこでも動かないことを、幼馴染の少年はよく知っていた。
「ただし、危ないと分かったら直ぐ警察に電話して逃げるからな。冬峰もそれで良いか?」
「反対しても行くんだろ」
 冬峰は仕方ないと肩を竦めた。内心は本当に昨夜の連中が居た場合どうやって彼等二人を逃がすかだが、肩に掛けたボストンバッグの中には昨夜が本家で頼んだ道具が入っており不可能ではない。が、それを使って、後々彼等にどう説明するかが問題であった。
「行こうか」
 志保理を守るように根神が先頭を、冬峰が志保理を挿んで最後尾を歩く。雑木林の奥に続く道は一本道で凹凸も大きく歩き辛い。油断をすると地表に浮き出た木の根に足を取られ転倒しそうになる。さらにあまり手入れをされていない鬱蒼と生い茂った木々の為視界が利かず、誰かが身を潜めていても気付きにくいだろう。何かあった場合、逃げにくく待ち伏せされやすい地形であり、こちらがかなり不利だ。
「声が……」
志保理のつぶやきに根神が振り向いた。確かに風に乗って会話が聞こえてきた。一方は興奮しているらしく、どんどん大きくなっている。
「急ぐよ」
志保理は焦れたのか根神を追い抜き走り始めた。
「おい、待てよ。」根神は志保理の手首を捕まえ引き止めようとするが、一瞬遅く指先をすり抜ける。
 間に合わない。志保理がどれだけ急ごうが、墜ちて来る新藤恵美を受け止めることは出来ない。新藤恵美の物語はもう既に終っているのだから。
「やばい!」
 急に雑木林が開け、円形の広場になった入口で志保理と根神は隠れることも出来ず、広場の中央に居た男に注目された。暫く視線を交差させ沈黙する。
「……ここは危険ですよ。」
 そう切り出した男は背の高い茶色の髪に草臥れた茶色の背広を纏っており、やや浅黒いが日本人より薄い肌の色彩は、その男が別の国の人種であることを物語っていた。
「その制服はここら辺の学生だね。学校はどうしたのかな」
「私達はこの場所で亡くなった新藤恵美の友人で、今日は彼女にお供えを持ってきたんです。あの、あなたも彼女のお知り合いですか」
志保理は半分本当のことを話し、男の反応を探った。根神は志保理を庇う様に、男と志保理の間に長身を割り込ませる。男はそんな二人の警戒する様子に、安心させようとするようにどこか惚けたような笑みを浮かべた。
「僕の名前はアンドリュー・フェランで、フリーのジャーナリストをしています。この街には偶然観光で立ち寄りました」
「本当かよ。なら何でここが危険だと分かる。」
「それは……日本でもよく言うじゃないですか。二人あるときは三人目もあるって」
「二度あることは三度あるでしょう、それ」
 惚けたのか、それとも本気なのか、ピントのずれた答えを返したフェランに根神は突っ込んだ。
「まあ、僕もスクープが欲しいんでね。連続誘拐犯に関する情報を聴きたくて、事件現場を回っているわけですよ」
 ぬけぬけと言い放つ自称ジャーナリストへ、少女は殺意の篭った視線を浴びせた。
「人の不幸は生活の糧ですか。確かにジャーナリストですね」
 苦笑を浮かべてフェランは志保理を振り返ったが、その表情に先程までの惚けたような笑みは浮かんでいなかった。
「いいか、君達もここは危険だから二度と来ない方がいい。君の友達と同じ様な目に遭いたくなければね」
 志保理はフェランの眼光の鋭さに気圧されながらも、反論しようと口を開いた。
「アンタは何を知っている。中途半端な脅しは余計な反発を招くぞ。」
 志保理に助け舟を出した根神はフェランを睨みつけたが、フェランは少しも怯まず言葉を続ける。
「人の手に負えないこともあるのさ。君達が拘らなければ、少なくとも二人は助かるんだ。分からないことを、分からないままにしておくのも上手く生きていく術だよ」
「二人って何よ。一人は助からないってこと?」
「君と彼だろう。他に誰がいる?」
「誰って……」
 振り向いた志保理は根神の背後にいるべき幼馴染が、いつの間にか姿を消していることに気が付いた。
「ハジメ、フユはどこに行ったの?」
「えっ 」
 どうやら根神も気が付かなかったらしく、背後を剥いて硬直する二人を前にフェランは険しい顔付のまま呟いた。
「まさか、攫われたのか。やはり〈K〉だけではないらしいな」
 怒りに握り拳を振るわせる女子高生へ、フェランはこれで分かっただろうと、幾分か口調を和らげ言葉を続ける。
「ひょっとすると、君の友人は遠くに行ってしまったかも知れないな。だから、二度とここには来ないように。いいね」
 そういい残し雑木林の林道へ足を進めるフェランだが、その気の毒なことになったかもしれない友人が、昨晩彼の首筋にボールペンを押し付けた少年だとは、さすがに気が付いていなかった。
「ハジメ、Kって何」
「さあ。追いかけて訊いてみるか。話すとは思えないがな。」
「私もそう思う。追っても無駄」
 ゴッツと鈍い音が響き、志保理の蹴りを食らった木の幹が僅かに揺れる。
「あの昼行灯、きっと途中で面倒臭くなって引き帰したに決まってる。学校に着いたらとっちめてやるから」
 半ば八つ当たり気味に喚く志保理の背に、やれやれと肩をすくめて根神は後に続いた。学校に着いてからの一騒動を治めるには小夜子嬢の協力が必要になるだろう。
 二人が林道に姿を消して数分後、ぶかぶかのジャケットに鳥打帽を目深に被った人影が雑木林の中から林道に現れた。猫背で億劫そうに歩くその背へ、負けず劣らず面倒臭そうに間延びした声が掛けられた。
「待ってくれないかな。自称ジャーナリストは兎も角、あの二人を巻き込むのは遠慮してほしいんだけど」
 ゆっくりとした動作で鳥打帽が振り向くと、木の陰からブレザー姿の少年、御門冬峰が姿を現した。
「雑木林の中に気配を感じたんで迂回してみたら、あんたらあのオッサンを見張っていたんでね。尾行するのは慣れていてもされるのは慣れていないね。」
 のほほんとした口調で問いかける冬峰に、じりじりと鳥打帽が間合いを詰めるように近付いた。
「提案なんだけど、学生二人組みの事はきれいさっぱり忘れてくれないかな。あの二人は僕らの世界には相応しくないんだ」
 冬峰が言い終わらないうちに、それまでの愚鈍な動きを忘れたかの様に冬峰の眼前まで跳躍した鳥打帽は冬峰に向けて右手を突き出した。皮手袋に包まれた拳が空気を鳴らして迫ってくる。
 冬峰に背後の木が生木の裂ける生々しい音を立ててへし折れる。冬峰は右横に約一歩分移動して拳をやり過ごした。馬鹿力、と呟くも浮かんだ笑みは消えてはいない。
「やっぱり駄目か。しかし蛙みたいなジャンプだね」
 鳥打帽が右手を引いて二発目を放つより早く、冬峰は左手に隠し持ったビクトリアノックス製のナイフ〈ウエイター〉を振るった。刃渡り五センチの銀光が、尾を引きつつ鳥打帽の右手首へ走る。
「!」
 鉄と鉄の擦れるような音と、刃から伝わる感触に顔を顰めた冬峰は、続けて放たれた左フックをしゃがんで避けて、後方へ跳び下がる。ナイフの刃は刃が欠けるだけでなく、罅割れて曲がり、二度と物を切ることは出来なくなっていた。
 切れた鳥打帽の手袋の隙間から鈍い光が反射しており、冬峰は目を細めてその正体を見極めようとした。防弾服か?
「ゲ……ガカッツ、カ」
 鳥打帽が呻いた。いや、鳴いたというべきか。その声は人間の放つものではなかった。全身に力が籠められぶかぶかのジャケットが膨れ上がる。
「ゲカカカカッツ」
 内側からの圧力に耐え切れず、衣服がちぎれ地肌が顕になる。鳥打帽と一緒に頭髪も地面にずり落ちたところを見るとカツラだったようだ。靴と手袋から指の間に水掻きのあるツメが突き出てきた。
「これは……すごいね」
 代わりの服はあるのかな、と呆けた心配をしながら冬峰は眼前の元鳥打帽を観察した。身長約二メートル、腹と関節を除いた全身に緑色の光沢のある鱗が覆っており、やや前屈姿勢でアメフト選手のタックル寸前の格好をしている。外観は蛙より手足の生えたシーラカンスに見えた。
「信州の山奥に半魚人。出てくる場所を間違えてるんじゃないか?」
 その一言が呼び水になったのか、半魚人は大きく吼えて突っ込んできた。
「わお」


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