ダーク・ファンタジー小説

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君がいたから、ようやく笑えた。【大切なお知らせ】
日時: 2024/09/10 17:56
名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)

-序章-

『何もかも、私を苦しませるもの全てがなくなってしまえばいいのに。』
 
 いつからこんなことを思い始めてしまったのだろう。小学生の頃、友達と喧嘩した時から?中学生の頃、親に対して反抗期が始まった時から?
 
 いいや、違う。私の運命は生まれた瞬間から決められていたようなものだから。
 
 親が今まで敷いてきたレールの上をただひたすら、操り人形のように歩くだけ。
 
 そんな私の人生なんて、価値がない。色なんてない、白黒だけでできた世界なのだ。
 
 でも、そんな私に君は手を差し伸べてくれた。白黒だけの私の世界に、色を塗ってくれた。
 
 そうだ、そうなんだ。
-君がいたから、私はようやく心から…笑うことができたんだ。


 【 読者のみなさまに大切なお知らせ 】 >>010


 ❴ 目次 ❵    >>01-
 1.春風      >>01
 2.裏の顔     >>02
 3.出会い     >>03
 4.限界      >>04
 5.不思議な夢   >>05
 6.居場所     >>06
 7.不思議な感情  >>07
 8.隠された愛   >>08
 9.当たり前の幸せ >>09

 1から全部見たい人は >>01-をタップしてください


Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.6 )
日時: 2024/09/10 17:29
名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)



【Side 陽向ひなた


 ─────明日が、怖い。こんな世界なんて、嫌い。

 周りには強がっているくせに、1人でいる時はいつも塞ぎ込んでいた。

 ヒーロー気取りかよ、笑える。

 でも僕は別に、みんなに恰好つけたい訳じゃない。ただ、周りの目が怖いだけの臆病者だ。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


「……離れてゆく幸せが、離れてゆく温もりが。戻ってきて欲しいだなんて弱音、誰にも見せずに隠してきた」

 彼女の…怜愛の綺麗な歌声が、音楽室に響く。

 弾き語りをして欲しいだなんて半分冗談で言ったつもりなのに、怜愛は僕のわがままにちゃんと答えてくれた。そんな彼女は、きっと誰よりも優しくて温かい心を持っているのだろう。


 でも、歌っている怜愛の姿は誰よりも優しく、それ以上に…誰よりも悲しく見えた気がした。

「───それでも。大切な人が離れていっても、君が傍にいてくれるのなら。当たり前が当たり前じゃなくなっても、君が手を繋いでいてくれるのなら。僕は今日も、歩んでゆくよ─────」

 大切な人が離れていっても、当たり前が当たり前じゃなくなっても、か…。

 彼女の歌は歌詞の一つ一つが僕の心に響いたものだった。まるで、僕のために作られたような歌。僕は感銘を受けたあまり、しばらくその場から動けないでいた。

 すると、そんな僕の様子を見兼ね、ピアノの蓋を丁寧に閉めた彼女がこちらを覗いてきた。

 その目は心配の色で溢れていて、僕の反応を待っているようだった。

 不安そうに見つめてくる彼女を見て、僕は慌てて言葉を発した。

「すごい、すごいよ」

 お世辞なんかじゃない。心からそう思った。僕は咄嗟とっさに拍手をする。

「はぁ…良かった」

 安心したように笑う子供のような彼女を見て、一瞬さっきまでの歌声は嘘だったんじゃないかと思ってしまった。

「ピアノだけじゃないんだね。老後はシンガーソングライターにでもなれば?」
「残念ながら、ピアニストとして食べていけるくらいの知名度は十分あるので大丈夫でーす」

 僕が冗談を言えば、怜愛も笑いながら返してくる。

 このままずっと、こんな日々が続けばいいのに。‪”‬当たり前が当たり前じゃなくなる‪”‬なんて、もう二度となくなればいいのに。

 目の前にいる彼女の笑顔を見ながら、不覚にもそう思ってしまった。

「というか、こんな世界的な画家がレディーに向かって失礼なことを言う人だなんてみんな聞いたら、驚くでしょうね」

 そう言って彼女は笑いだした。つられて僕も笑う。こんな感じで、一時限目の授業は彼女と一緒に音楽室でサボった。

 何でもないようで、在り来りな日常。でも、こんな毎日が一番幸せなんだってことを、この時の僕たちはまだ全てを理解できていなかったんだ。




 - 6.居場所 -

「……違います。最後の部分はフェルマータをかけなさいと、何回言えば分かるのかしら?」

 五時限目。今朝あの人とサボった第二音楽室で、私は選択授業で音楽の授業を受けている。

 そしてそれと同時に、この授業を選んだことをとても後悔している。


 理由は一つ。音楽の先生がめちゃくちゃ厳しい人だったのだ。

 さっきから授業の一環で順番にピアノを弾いているのだけれど、生徒たちが次々に悲鳴を上げている。そんな中でも構わずに、先生が厳しく声を荒らげているという、何とも言えない光景だ。

「はぁ…………何でこんなにやる気がないの。仕方がないわね」

 ため息をついてそう言った先生が、急にこちらを振り返った。

「水瀬さん、ちょっと弾いてみてちょうだい」

 何を言うかと思えば、先生がそんなことを言ってくるから正直戸惑った。

 でも、そんな私に構わず、みんなが一斉に私の方を向いて期待の眼差しを送ってきた。

「…はい、分かりました」

 もちろん、こんな状況なので断る訳にもいかず、私は仕方なくピアノの椅子に座った。

 譜面台に置かれた楽譜にしばらく目を通す。そこで、私は少し驚いた。

 この曲…世界的にもめちゃくちゃ難しいと有名なクラシック曲。そりゃあ、みんなも弾けないわけだ。というか、いくら芸術学校だからと言って新学期早々こんな激ムズの曲を弾かせる先生もどうかと思うが。

 そんなことを思いながら、私は鍵盤に手を置いた。幸い、この曲はこの前のコンクールで弾いたことがある。

 私は視線が集まる中、ゆっくりとピアノを弾き始めた。楽譜に書いてある音符の数が尋常ではない。

 右手で主旋律を奏でながら、左手で黒鍵盤と白鍵盤を連打。曲の中盤に入ると、右手を鍵盤の端から端まで一気に滑らせていき、そこから両手をクロスさせ、高低と速度のあるメロディーを弾いていく。力強く、でも少し滑らかに指を滑らせていった。

 最後にフェルマータをかけながら、曲を終わらせる。曲が終わった瞬間に、教室中が拍手と歓声で包まれた。

「さすがね。皆さんも水瀬さんのように、表現力と正確さを向上させるように。では、これで授業を終わります」

 するとタイミング良く、丁度学校のチャイムが鳴った。これで先生の声を聞かなくてもいいと思うと、少し安心した。

 チャイムが鳴った瞬間、光の速さでいつもの女子生徒が私の方に群がって来た。

「怜愛様、めっっっっっっちゃカッコよかったです!!!」
「あの顔硬かおかた教師も怜愛様のピアノの音色に聴き惚れてましたよ!」
「あの先生がまさかあんな顔をするなんて…さすがです!」
「すごいです!もう一回弾いて欲しい!!」

 次々に送られてくる賞賛の声。あぁ、ピアノをやっていて良かったと、こんな時にだけ思う私は、相当単純で都合のいい頭をしているみたいだ。

「……ありがと、うっ…」

 …あれ?おかしいな。私、悲しくもないのに………泣いてる。

「怜愛様、大丈夫ですか!?」
「もしかして、体調悪い…?」

 みんなが心配そうにこちらを見つめてくる。

「だ、大丈夫だよ!ありがとう」

 私は顔を横に振った。なぜ、泣いてしまったのだろう。私は疑問に思いながら涙を拭った後、みんなと一緒に廊下へ出た。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


 午後の授業と帰りのホームルームが全て終わり、私は帰る支度をして校舎を歩いていた。

 まだ新学期も始まったばかりなので、今日は部活動も新入生の仮入部もない。まぁ、この学校は芸術校なので、基本的に運動部はないのだけれど。強いて言うなら…吹部くらい?

 そんなことを思いながら、私は廊下を歩き続けた。今日はこんな感じだから、どうせなら寄り道でもしていこうかな。

 家に帰っても結局、ピアノをやれだとかうるさく言われるだけだろうし。というか、あんな居場所のない家なんか帰りたくもない。

 私は思い立ったまま、何となく中庭の方に足を向けた。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


 入学式の時にも来た中庭のベンチに、私は腰を下ろした。

「…」

 そして一人、静かな空気が流れる中庭で私は考えた。

 今日の五時限目。何であの時、泣いてしまったのだろうか。私は人前であんなに堂々と泣いたことなんかなかったのに。

『こんなことで泣くなんて、情けない。恥ずかしくないのか?』

 父にはいつも、人前で泣くことなんて許されないと教えられてきた。

 だから私はなるべくみんなの前では泣かないようにしてきたし、泣く時はできるだけ一人の時に泣くようにしていた。

 ずっと、そうしてきたから。もう人前でなんて泣けないと思っていた。


 でも違った。じゃあなんで、私はあの時泣いてしまったの?何か悲しいことでも思い出してしまったのだろうか。

『すごい、すごいよ』
『怜愛様めっっっっっっっちゃカッコよかったです!!!』
『もう一回弾いて欲しい!』

 いいや、違う。悲しかったんじゃない。
 私はただ…嬉しかったんだ。
 
 親に自分の存在を認めてもらえず、何かを成し遂げても褒めてくれない。私の居場所なんて、この世界のどこにもないと思っていた。

 でも、違った。私の居場所は、ちゃんとあったのだ。

 周囲に評価されて、初めて気が付いた。あぁ、これが。これこそが、私が生まれてきた、今までピアノを弾いてきた意味だったんだと。

 私は音楽で、大好きだったピアノで、世界中の人々に希望を与える。そのために、ピアノを弾いてきたのかもしれない。

「………あれ、また会ったね」

 花壇の方から声が聞こえてきた。もう何回か会話した仲なので、誰の声かくらいはすぐに分かった。

「…あ」

 声のする方を向くと、そこにはスケッチブックと鉛筆を持った彼がいた。

「ここ、僕の秘密基地だったんだけどなぁ」

 残念そうにそう言いながら、彼は花壇の傍に腰を下ろした。そしてスケッチブックを開き、鉛筆で何かを描き始めた。

 私も何となく彼の傍に近寄り、話しかけた。

「…何描いてるの?」
「うーん、分かんない」

 のんびりした口調でそう言いながら、彼はスケッチブックに線を描き始めた。シャッシャッ、と鉛筆が紙の上を滑る、心地よい音がする。

「分かんないって…」

 何ともまぁ、彼らしい返事というか何というか…。どうやったらそんな返事が思いつくのか、彼の頭の中を一回覗いてみたいくらいだ。

 ……って、これじゃあただの変態みたいではないか。私はなんだか恥ずかしくなって、顔を見られないように目の前に咲く花たちに視線を移した。

「………家がさ、安心するって言う人って意味分からなくない?」

 ほぼ無意識で、私の口からそんな質問が零れた。そして、すぐに後悔した。私が家に対して不満を抱えている、というのを悟られてしまうかもしれない。

 そんな私を他所よそに、彼は質問に答えずに黙ったままスケッチブックに何かを描き続けている。良かった、聞かれていなかったみたいだ。

 しばらく私は、隣で集中しながら絵を描いている彼の横顔をじっと見つめた。

 絵を描いている彼の表情は真剣そのもので、本当に絵に心血を注いでいるんだな、と思った。

 それに比べて私は…本当にあんな理由でピアノを弾いているのだろうか。別にこれ以上ピアノが上手くなりたいとも思っていないし、ピアノを一生していたいともあまり思わない。

 一方、彼はどう思っているのだろう。本当に絵が好きなのだろうか。

「……あのさ、何で絵を描いてるの?絵を描くのは、本当に好きなの?」

 私は思わず、彼にそう聞いた。彼は未だに、顔を上げようとしない。集中すると、何も聞こえなくなるタイプなのだろうか。

「…………あぁ、ごめん。ちょっと真剣になりすぎたみたい」

 そう言いながら彼は姿勢を正すと、また絵を描きながら質問に答えた。

「何で絵を描いているのかって?……うーん、何でだろう」

 彼は鉛筆の動きを止め、しばらく首を傾げていた。

「絵を描いている時が一番、時間が経つのが早い気がするから。まぁ、それでも絵を描くことは好きかなぁ」
 のんびりと答えた彼は、相変わらず絵を描くことを止めないらしい。

「…じゃあさ、あなたが絵を描き始めたきっかけは何?」
「きっかけ?そんなもの、多分ない。初めて絵に出会った時に楽しいなって思って、気付いたら絵を描いてた。何かそこら辺のテレビ番組にインタビューされてるみたいだなぁ」

 彼はそう言って笑った。目を細めて微笑む彼は、本当に絵が好きなんだな、と実感した。

 そして同時に…そんな自由な彼を、とても羨ましく思った。

 好きなことを好きなだけできる、自分がしたいと思うことを自由にできる。自分の色なんかない私とは違う。

 両親が私にピアノを始めさせたのもきっと、父がやっているから。ただ、そんな理由だけしかないのだろう。

 私は父の背中だけを見て、操り人形ごとく着いて行く。道を外れて、違う景色を見ることすら許されない。ただそれだけの、つまらない人生。

「てかさ、あなたって呼ぶの何かよそよそしくない?もうこんな仲なんだからさ、名前で呼び合うくらいしようよ。怜愛」
「……え、あっ。呼び捨て…?」

 男の子に下の名前で呼ばれたのなんて、これが初めてかも。私は気恥ずかしくなって、思わず目を逸らした。

「わ、分かったよ」
「ありがとう‪”‬‪怜愛”‬」

 やけに私の名前を強調してくる彼…陽向に少し嫌気がさした。けどそれと同じくらい…いたずらっ子のように無邪気に笑う陽向に少しドキッとした。

「なっ…」
「どうしたんですか?怜愛様」
「べ、別に何でもないからっ」

 完全にからかわれている。私はムキになってそっぽを向いた。ムカつく…。
 でも陽向のおかげで、さっきまでのどんよりした気持ちが嘘のように吹き飛んで行った。

 ふと、陽向が持っているスケッチブックに目がいく。私は彼の絵を見て、一瞬息をするのを忘れた。それくらい彼の絵は、綺麗だったのだ。

 真っ白だったスケッチブックのページは、いつの間にか美しい花たちでいっぱいになっていた。

 花壇に咲いている菜の花やたんぽぽ、色とりどりの花が、写真のように繊細に描かれている。それも花1つ1つがとても丁寧に細かく描かれていて、雄しべの本数さえも全て正確なのだ。

「綺麗…」

 私は思わず声を出した。この花は、どこか陽向に似ている気がする。

 何よりも美しく綺麗で、何よりも…悲しくてどこか切ない感じが、彼の空虚な瞳を思い出させるからだ。

 私はこの絵に感銘を受けた。これが世界に認められた画家、蓮水陽向なのだ。高校生でこんな感動的な絵を描けるだなんて、誰もが彼の画力を認めるのも納得だ。

「本当?ありがとう」

 私がその絵に見惚れていると、彼は小さく微笑みながらそう言った。私はその笑顔を見て、あぁ、やっぱり彼は花なんだ。と思った。

「……やっぱり、心からこれが好きなんだってその人が思えるものの方がさ、客観的に見ても、すごく綺麗に見えるんだね。私もピアノが好きじゃなくても、ピアノを弾く理由が誰かのためにとか、そんな曖昧なものでもいいのかな…」

 私は独り言のように呟いた。別に彼に問いかけたかった訳ではなかったけれど、陽向はちゃんと返事をしてくれた。

「うーん。確かに気持ちがこもっていた方が、そりゃあ綺麗に見えると思うけど、でも別にその人がそれを好きじゃなくても、他人からは違う視点で見られてるのかもよ」

 言いながら、陽向は鉛筆を地面に置いた。

「例えば、僕が絵を描くことが嫌いだったとしても、僕の絵を見ている人は僕が描いた絵を見て、頑張ろうって思うかもしれない。ほんのわずかな希望を持ってくれるかもしれない、僕の絵が綺麗だって言ってくれるかもしれない。僕がどんなに絵が嫌いでも、僕と他者の、絵に対しての価値観や好意は違う。人それぞれだ」

 陽向は私の目をじっと見つめながら、優しく笑った。

「だからさ、別に心からこれが好きなんだって断言できなくとも、誰かのために何かを成し遂げるっていうのも、全然ありなんじゃない?むしろ、それって1番すごいことだと思うけどね」

 気ままな陽向らしくない言葉。けれど、そんな言葉が1番、私の心に深く、深く響いたのだった。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


 あの日から私は毎日の放課後、中庭に通うようになった。そこにはいつも絵を描いて待っている陽向がいて、私はその隣に座って彼と話す。そんな日々が、いつの間にか当たり前となっていた。

 ───そしていつしか彼とのこの時間は………私の居場所にもなっていた。


「陽向ってさ、何か猫みたいだよね」
「猫?そうかな」
「うん。何かのんびりしてるとことか、気まぐれなとことか」

「じゃあ怜愛は…鳥みたい」
「と、鳥?何で?」
「うーん、何となく?」
「…そういう所だよ、猫陽向」
「何か言った?」
「…別に」


 他愛もない会話。だけどそんな一時に、私の心はどれだけ救われたか。彼には分からないだろう。

 いいや、分からないとかじゃない。気付かれないようにしてたんだ。

 私は彼と話しながら、心の中で祈った。

 この小さな幸せが、ずっとずっと続きますように。もうこれ以上、両親のように大切な人が離れていきませんように。私の居場所が…もうなくなりませんように。

 青空の下、彼と笑い合いながら、私は密かにそう願い続けていた。

Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.7 )
日時: 2024/09/10 17:34
名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)



 - 7.不思議な感情 -

 6月も終わりに近づき、そろそろ夏が来ようとする中…私水瀬みなせ 怜愛りあは今、都会でも有名な美術館にいる。

 そして隣では…あの世にも有名な画家、蓮見はすみ 陽向ひなたがたくさんの人に囲まれている。

 なぜこんなことになっているのか…それは数日前にさかのぼる。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚


「ねぇ怜愛。日曜日、僕とデートしない?」
「……は?」

 ある日の放課後。いつも通りの場所でいつも通りに絵を描いていた陽向が、突然意味の分からないことを言ってきた。

「ついに絵描きすぎて頭おかしくなったか…」

 もしくは彼女ができた夢でも見ているんだろうか。いや、目は開いてるからそれはないか。

「何か言った?怜愛ちゃん」

 効果音がつきそうなくらいニッコリと笑った彼は、絶対に怒っている。だって目が笑ってないし。

「な、何も言ってないですけど?」

 誤魔化ごまかすように、陽向から目を逸らした。そんな私をよそに、彼はスケッチブックの別のページを開き、そこから紙のようなものを取り出した。

「これ行こうと思ってるんだけど」

 ほら、と目の前に突き出されたのは。

「白花美術館・特別展…?」

 そう書かれたポスターだった。さらに見出しの下には『未来の芸術家・世界の画家展』などと詳細が書いてあった。

「この展示にさ、僕が出るらしいんだよね」
「え?」

 いやいや。そんなことさらっと言われましても。

「絶対冗談じゃんって顔してるけど、本当の話だから」

 完全に疑っていた私はポスターにもう1度目を向けた。すると詳細の方には、確かに蓮見陽向という文字があった。

 でも世界に認められるこの人なら、確かに美術館に展示されていてもおかしくない。

 驚きを感じつつも1人でそう納得していると、陽向はポスターを閉じた。

「で、どうするの?行く?」

 彼はスケッチブックの元のページを開きながら、私に問いかけた。

 私はその質問を聞いて、真っ先に両親の顔が思い立った。普段の休日は、ほとんど1日中ピアノの練習ばかりしている。だからそんな貴重な練習時間をさぼるなんてことをしたら、父に何と言われるか。私の中はそのことでいっぱいだった。

「…」
「………何も言わないってことは、オッケーってことでいいよね?」
「え、ちょっ……」
「はい、決まりー」

 何を言うのかと思えば、陽向はさっきまで持っていたポスターを、私に少し乱暴に渡した。

「じゃあ、日曜日の10時に駅で集合ね」


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 そんなこんなで、今私は陽向と白花美術館にいるのだ。

 ちなみに親に言ったら絶対に怒られるので、父には外でピアノの練習をしてくると嘘をついた。

 父に嘘をついたのは生まれて初めてだったので、今もまだバレないかと内心不安になっている。

 そんな私に構わずに、誘ってきた当の本人は相変わらずたくさんの人に囲まれて、面倒くさそうに顔をしかめている。

 一方の私は水瀬怜愛だとバレないように、しっかりとマスクと帽子を着用している。

「やっぱ本物じゃん!!!」
「すごい、テレビで見るより100倍イケメン〜」
「連絡先交換しませんか?」

 隣の陽向は、特に若い女性や女の子の学生に人気があるみたいだ。

 ……というか、さらっと逆ナンされてる?

「……ちょっとあっち行きたいから通してもらっていい?」

 いつもより低い声で彼はそう言い、群がる人たちをき分けながら私の方へ近づいてきた。

「…ちょっと来て」

 人目が逸らされている間に、陽向は私の手をひいてエリアから離れた。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


「だから言ったじゃん、そんな格好で行ったら大変な目にあうよって」

 私は人気ひとけのない所へ連れてこられた後、すぐにそう言った。

「……だってマスクとか暑いし」

 不機嫌そうにそう言う陽向は、何だか駄々をこねる子供みたいで不覚にも可愛いと思ってしまった。

「確かにそろそろ夏来るし暑いけど、じゃあ陽向はちょっと暑いのと女の子にナンパされるの、どっちが嫌なの?」
「…」

 陽向は完全に黙り込んでしまった。

「……仕方ないから、今はこれあげる」

 私はもしものために持ってきた予備のマスクを陽向に渡した。

「…ありがとう」

 陽向は小さな声でお礼を言った後、渋々とマスクを着けた。

「じゃあせっかくだし、陽向が出るっていう特別展、言ってみよっか?」

 私もマスクを着け直した後、2人で特別展を見るためにその場から離れた。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


「凄かったね」
「……僕がいっぱいいた」

 あれから私たちは特別展を見に行って、今は少し遅めのお昼ご飯を食べている。
 もちろんマスクをとった姿は見られる訳にはいかないので、誰もいない公園のベンチに座った。

「僕がいっぱいいたって……語彙力小学生か」
「だってそうだったじゃん」

 パンを頬張りながら、陽向はそう言う。

「まぁでも………普通に感動した、かな」

 これはお世辞でも何でもない、本当に思ったことだ。

 特別展では、主に世界の有名な画家たちの代表的な作品や本人の写真が展示されていて、その中に陽向もちゃんといたのだ。

 彼の作品を見て、やっぱり世界に認められる画家なんだと、改めて感じた。

 毎回思うが、陽向の描く絵は何か胸を打たれるようなものを感じさせられるのだ。私に語りかけてくれるような、励ましてくれるような…そんな力が、絵に秘められている気がする。

「……というか怜愛、嫉妬してくれたんだね」
「嫉妬…?」

 どういう意味だ、と私は首を傾げた。

「僕がナンパされるの見て、ほんとは嫌だったんでしょ?」
「えっ…」

 図星だった。今日陽向がたくさんの女の子に囲まれていて、正直少しもやもやしていたからだ。

「その反応は…もしかして図星?」
「…っ、べ、別にそんなんじゃないし!聞かないで…!」

 陽向はふーん?と、にやにやしながら私の反応を見ている。

 ………絶対私の反応見て楽しんでいるやつだ。

「怜愛ちゃんは、僕のこと好きなんだ?」
「だ、だからっ、違う!」

 こんな感じで私たちはデート?を楽しんだ。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


「今日はありがと。じゃあ、また明日学校で」
「こっちこそ、誘ってくれてありがとう」

 お昼を食べてゆっくりした後、私たちは今朝集合した駅まで行き、陽向はこの後用事があると言って帰って行った。

 私も彼に背を向けて、見慣れた景色の中を1人歩く。


『嫉妬してくれたんだね』

 ふと、陽向の今日の言葉が頭の中で響き渡った。思い出した途端、私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。そんな赤い顔を冷ますように、私は反射的に顔を両手で覆う。

『怜愛ちゃんは、僕のこと好きなんだ?』

 ……私、陽向のことどう思ってるんだろう。今日は彼とデート?して、本当はすごく楽しかった。

 じゃあこの感情は、一体…?とくとくと鳴る胸を抑えながら、私は考えた。

 こんなこと、今までなかったのに。小さい頃からピアノしか弾いてなくて、他人になんか興味も持たなかったのに、本当に不思議だ。

 頭の中でそんなことを考えながらしばらく歩いていると、鞄の中に入っていたスマホが急に鳴った。

 スマホを取り出して液晶画面を覗いてみると、そこには『母』の文字が表示されていた。

 どうせ帰ってくるのが遅いんじゃないかとか、早く家帰ってもっとピアノの練習しろとか言われるんだろうな。

 そんなことを思いながら、私は渋々電話に出た。

「もしもし」
「怜愛!?」

 気だるけにそう言うと、母はいつもより大きな声で話すので少しびっくりした。携帯越しでも、相当焦っているのが分かる。

「どうしたの……………って、え?」

 私は思わず手に持っていた鞄を落としそうになった。なぜなら、母の電話内容は思っていたものと全く違っていたからだ。

「お父さんが………倒れた?」

Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.8 )
日時: 2024/09/10 17:39
名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)



 - 8.隠された愛 -

 母からの電話を切った後、私はさっきまでいた駅に引き返すようにして走り出した。

 父が、倒れた。今まで一度たりとも父が風邪を引いた姿ですら見たことがなかったのに、急に倒れたなんて絶対におかしい。今のこの状況にまだ実感が湧かないまま、私は電車に駆け込んだ。冷や汗がだらだらと伝っているのを嫌という程感じる。

 もしかしたら…もしかしたら、父が死んでしまうかもしれない。こんな時に限って、そんな最悪なケースを思い浮かべてしまう自分を殴りたい気分だった。それくらい、当時の私は相当焦っていたのだと思う。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


「お父さん…!」

 病室の扉を開けると、そこにはベッドに横たわる父と、その傍でずっと頭を抱えている母が座っていた。

 私は父のもとへ駆け寄った。

 ベッドに横たわる父は、今まで見たことがないくらいの弱々しい顔をしていた。

 酸素マスクをして苦しそうにしている父の腕には、何本もの点滴がしてある。そんな痛々しい光景に思わず目を逸らしたくなった。

「怜愛……」

 いつもの威圧的な太い声ではなく、蚊のようにか細くて弱々しい、小さな声で父は私の名前を呼んだ。

 私は父の手を優しく握った。父は本当に薄らと目を開けて、こう言った。

「怜愛……今まで、本当に…ごめん、な………」


 -ドクッ。

 父の細い目と合った瞬間、心臓が大きく鳴ったような気がした。父と目が合うのは、一体いつぶりだっただろうか。私はそんなことにいちいち感動しながら、父の目をしっかりと見返した。

「お父さんがしてきたことは、一生許されるわけない。私はお父さんがどれだけ憎かったか、お父さんにどれだけ泣かされたか………すごく、辛かった。苦しかった。それなのに…今更ごめんなんて、言わないでよっ…」

 気付いたら、涙で視界が滲んでいた。父の前で泣くのは生まれて初めてだった。

「でもあなたが弾くピアノは、私の苦しみよりも、もっともっと大きな苦しみを持った人たちの心を救ってるの。これからもっともっとたくさんの人たちに、世界中の人たちに、あなたのピアノの音色を届けたいんでしょ?……だから、まだ元気でいなきゃ。あなたを必要としているたくさんの人たちが待ってるの」

 こんなくそみたいな父でも唯一、私は尊敬しているところがあった。父が弾くピアノの音色はいつか見た陽向の絵のように、私にとって救いみたいなものだった。だから私はひそかにずっと、ピアノだけは……いつか父みたいに弾けるようになりたいと憧れをいだいていた。

「………本当は、私にもピアノの音色みたいな優しさを向けて欲しかった。二人が冷たくなってから絶望する毎日だったけど、それでも私がもっともっとピアノを頑張れば、二人に認めてもらえれば…きっとまた、みんなで笑い合える日が来るんだって……ずっと、信じてた。でもいつからか、それはただの願望でしかないんだって、気付いたの」

 涙で歪む視界の中で、父が悲しそうな顔をしていたように見えた。

「もう……泣いて、いいっ…?」

 父も母も何も言わなかった。私は我慢していた涙を一滴一滴零しながら、思いきり泣き出した。

「怜、愛……ごめん………ごめ、ん……」

 私が病室の中で泣いている間、父はその弱々しい声でずっと謝り続けた。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


 あの日から一週間が経った今日、私は父の葬式のため学校を休んだ。

 誰もが愛したあのピアニスト、私の父は昨日癌が原因で亡くなったことが明らかになった。本当に突然のできごとで、私は驚く暇もなかった。


 私は葬式の間、ずっと上の空だった。あの日、今まで溜めていた自分の気持ちを吐き出したからか、実の父親が死んでも意外と何も感じないんだな、と父が亡くなったことよりも自分の中にある感情が空っぽなことに驚いていた。

 あれだけ消えてほしいと願っていた父が死んで、むしろ清々する。これでやっと……ピアノに縛られながら父に怯える日々を送らなくて済む。これで、やっと……。


 葬式が終わった後、家に帰り、父の部屋を母と一緒に片付けていた。ほとんどのものはいらないものボックスに入れるのだが、あまりにもその量が多いので小さなダンボール三箱では入り切りそうにもなく、部屋には物が溢れかえっていた。

 クローゼットの中の父の私服を全部片付け終えた後、私は次にデスクにある小物を片付けようと引き出しを開けた。

「ん…?なんだこれ」

 引き出しを開けると、そこには表紙に『マイメモリー』と英語表記されている、深緑色の分厚いアルバムのようなものがあった。気になって本を開きそうになったが、今そんなことをしても時間の無駄になるだけだと思ったので、後で見てみようと私はそれをとっておいた。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


 その日、父の部屋の片付けが一段落した後、私は自分の部屋で例のアルバムを開いてみた。

「……え…?」

 私は目を見開いた。なぜなら……そこに貼ってあった写真に、全て私が写っていたからだ。

 何で父がこんなにたくさん、私の写真を持っているのだろう。私は不思議に思いながらも、一枚一枚の写真にそっと目を向けた。


 生まれた頃のまだ赤ちゃんだった私。
 笑っている父に抱き抱えられる私。
 初めて立った時の私。初めて喋った時の私。
 泣きわめきながらミルクを飲んでいる私。
 こぼしながら自分でスプーンを持ってご飯を食べている私。誕生日ケーキの前で笑っている私。
 初めてピアノを弾いた時の私。
 楽譜を持って嬉しそうに笑っている私。
 コンクールで初めて賞をとって父に抱きついている私。母と歌を歌っている私。
 学校の運動会で走っている私。
 漢字テストで百点をとって喜んでいる私。
 家族みんなと一緒に…笑っている私。


 私が写真を撮られたことを覚えていないものまでも、しっかりと写真が貼られていた。

 そしてどの写真にも、傍に必ずその日の年や日付が書かれていて、どれも楽しそうに笑っている私の写真ばかりだった。

 アルバムのページを次々にめくっていくと、今度は『ピアノの発表会』と書かれたページがあった。気になって見てみると、そこには─────。

「なん、で……」

 なんと、中学生から高校生の今の自分がこれまで出たピアノのコンクールの写真があったのだ。

「嘘っ……お父さん、見に来てなかったはずなのに……」

 私は驚きのあまり口を覆った。なぜだろう。父が冷たくなってから、あの人は一回も私のコンクールに顔を出したことはなかった。それなのに、なんでこんな写真を…。

 華やかなドレスを着て、真剣にピアノを弾いている私や、表彰台に立ってトロフィーを受け取る私。笑顔で拍手を送られている、嬉しそうな私。この写真たちの傍にもやはり、必ず日時が記録してあった。


 私、こんな顔してピアノを弾いてるんだ…。

 コンクールでピアノを弾く度に緊張していて、自分がどんな風にピアノを弾いているかなんて、考えたこともなかった。

 写真の中でピアノを演奏している私は、とても真剣で……とても、楽しそうな表情をしていた。


 あんなにピアノを弾くのが苦痛で、嫌で。両親に何を言われるんだろうと怯えながら、それでも毎日練習し続けてきたピアノ。私の隣には、いつもピアノという心強い存在があった。

 どんなに嫌でも、ピアノだけはやめなかった。それはあの日のことがあって、父にあんなことをもう二度と言わないと誓ったからだと、勝手にそう思っていた。確かにそれは事実だ。………けれどそれ以上に、私はピアノが楽しくて仕方がなかったのかもしれない。この写真が、それを全て物語っている。こんなにも楽しそうにピアノを弾く自分は、間違いなくそう思っていたのだろう。

「……っ、うっ………」

 ポタポタと零れ落ちる涙が写真にシミを作っていく。私は泣きながら、アルバムの最後のページを開いた。

 しかし、最後のページには写真は貼られていなかった。その代わりに、そこには何回か丁寧に折られた紙が挟まっていた。

「これ……手紙………お父さん、の……」

 紙を開くとそれは何枚か重なった便箋だった。便箋の一番上には『怜愛へ。』と父らしい達筆な字で書いてあった。

 手が、ものすごく震えた。きっとここに、父の全てが書いてあるのだろうと思うと緊張して、一体どんなことが書いてあるのだろうという好奇心と同時に、もしかしたら私が想像もできないくらい酷いことが書いてあったりしたら…という恐怖心が入り混じり、その手紙を読まずにはいられなかった。


 -ゴクッ。

 私は怖くなりながらも深呼吸をした後、閉じていた目を開け、恐る恐る文章に目を通した。



『 怜愛へ。

 ここには私の正直な気持ちを記したいと思う。素直な態度で君に接することができなかった分、もうこれ以上娘に嘘はつきたくない。自分勝手ながらだとは思っているが、どうかこれを最後まで読んでほしい。

 私は君が中学二年生だった時、急に身体に異変を感じるようになった。その時はまだ生活に支障が出る程でもなかったから、気にせずいつも通りに過ごしていた。しかし、それから半年が経ったある日、病院へ行ってみると癌だということが判明した。それもかなり状態が悪化していたらしく、ここから治ることはもうないだろうと言われた。医者に、持っても二年ちょっとだと余命宣告を受けた時は本当にショックで、理解が追いつかなかった。しかしこれはきっと今まで君に散々酷いことをしてきた罰なんだと、私は納得した。だから私は自分が病気になったことに疑問を抱くことはなかった。余命宣告を受けたことはもちろん誰にも言っていない。このまま静かに息を引き取れれば、私はそれが本望だ。

 怜愛に初めてピアノを弾かせた時、君は本当に嬉しそうだった。この子は生涯、ピアノに人生を捧げて、いつかきっと偉大な音楽家になるのだろうと。そう思った私は、君にピアノを教えることにした。
 最初は簡単な曲のワンフレーズが弾けただけで喜んでいたから、私も嬉しくなってつい怜愛を甘やかしていた。しかし歳を重ねるごとに、君は段々とピアノの実力も上がってきて、私が教えることなど、もうなくなっていた。
 君は私から離れていった。ピアノの一曲が弾けるようになっただけでは、もう喜ばなくなった。コンクールの受賞数も、気付いたら私より遥かに多くなっていた。だから私も、もう怜愛は一人でも大丈夫だと思い、君から離れていった。

 だが、私は君を信じすぎたあまり、いつの間にか重荷を背負わせるようになってしまった。家族への当たりも段々と強くなっていき、気付いたら私たち家族の間には亀裂が入ってしまった。これは全て、何も考えず行動した私の責任だ。
 ピアノで娘を喜ばせたいと、もっと楽しんでもらいたいと思っていただけだったのに、その気持ちはいつしかもっとピアノを上達させて世界的なピアニストにさせるんだ、というものに変わっていった。
 
 あの日、君がピアノをやめたいと言った日。私は本当に酷いことをした。お前がやりたいのはピアノじゃないのか、これだけ頑張って実力も伸ばしてきたというのに急に他のことをしたいだなんて何馬鹿げたことを言っているんだ。私の夢を踏みにじるなんて、なんてやつだ。当時の私はそう思って怒り狂っていた。
 しかし、馬鹿げたことを言っているのは私の方だったのだと、余命宣告を受けた時に気付かされた。
 子供の好きなことをやらせて喜ばせてあげたい。一番大切に思っていたことだったのに、気付いたら子供にやりたくもないことを強制させ、力で拘束させて自分の夢を叶えさせるという、ただの虐待行為になっていた。

 私は、全部全部怜愛のためなんだと勘違いして自己満足していただけの、なくてはならない最低な父親だ。それでも逃げずにピアノを続けて、私の期待に応えられるように一生懸命頑張る怜愛の姿が本当に誇らしい。
 父親と名乗られるのも嫌かもしれないが、私は君の父で本当に良かった。今までのこと、本当にごめん。謝罪してもしきれないくらい、私は君に酷く当たった。君が一生私のことを許してくれなくて当然だ。許してくれとは言わない。ただこの場を借りて謝らせてほしい。本当にごめん。

 最後に。これから私が生きられない分、君に伝えたいことがある。
 それは、人との出会いを大切にしてほしいということだ。友達でも恋人でも、出会ったからにはこんな風にいつか別れが必ず来る。別れまでの月日は決して長くは続かないかもしれない。君は今までピアノと共に人生を送ってきたから、あまり周りに目を向けたことがないかもしれない。だからこそ、人との一つ一つの出会いを大切にしてほしい。別れを告げた人間に、将来必ず会えるなんて保証はない。私のように家族を見捨てるなんてことは絶対にしないで、誰かと共に人生を謳歌してほしい。父親とも思いたくない人間に、こんなこと言われても君は嫌がるかもしれないが、これだけは約束してほしい。

 長くなってしまってごめん。ここまで読んでくれてありがとう。そして、生まれてきてくれて本当にありがとう、怜愛。怜愛はいつまでも、私の自慢の娘だよ。
 死んだら私は地獄に行くかもしれないけど、もし。もし天国に行けたら。

 私はずっと、空の上から怜愛のことを見守っているよ。   
               水瀬綾人  』


 私はそっとアルバムを閉じた。涙が溢れ出てくる前に、私は自分の部屋を飛び出し、リビングにいる母に黙ってアルバムと手紙を渡した。

「………お母さんっ……私の、お父さん、は……もう、この世には……い、ない…?」

 自分でもびっくりするくらい震えた、情けない声で、確かめるようにそう聞いた。

「……もう、いない」

 母は冷静にそう断言した。

 -ブチッ。

 私の中で何かが切れた音がした。あぁ、もうだめだ。もう……。

「……うっ、ぅぁぁぁぁぁぁあああっ…!」

 我慢していた涙が一気に溢れ出した。私は母の前だということも、今が夜だということも忘れ、ただひたすら、子供に戻ったかのように泣きわめいた。

 母はそんな私を叱ることなく、私が泣いている間ずっと背中をさすってくれていた。

「怜愛……ごめんね、ごめんねっ…」

 母は泣き止まない私にずっと謝り続けた。

「お母さん……私、私っ……!」

 私は泣き続けた。母の胸に顔を預けて、私は声を出して泣いた。


 私は、ちゃんと愛されていた。私が大好きだった父は、まだ父の中にちゃんと存在していた。

 父が私を愛してくれていたこと。
 私の幸せを一番に考えてくれていたこと。
 私の父で良かったと思ってくれていたこと。
 全部全部、嬉しかった。父の思いが、言葉が。

 あれだけ呪いたいと思っていた父が、今は会いたくて仕方がない。
 父が生きている間に、ちゃんと打ち解け合いたかった。父が病気になる前に、ちゃんと気付けばよかった、素直になればよかった。

 私の気持ちを、思いを。もっとちゃんと伝えていれば。家族の幸せをもう一度取り戻すことを、諦めていなければ。もしかしたら私たちには、今とは違う、幸せなハッピーエンドが待っていたのかもしれない。
 
 でも、今更そんなことにいくら後悔したって、いくら泣いたって、父が戻ってくることはない。家族三人で、幸せになることはできない。


 もう、父はいないのだ。この世のどこにも。

 今は、今だけは思い出したくない父の顔が、声が、ピアノの音色が。頭の中に浮かんでくる度に、涙は止まるどころか、余計溢れかえってくる。

 お父さん。私も伝えたいことが本当にたくさんあるんだ。でも、私が言いたかったことは、全部お父さんが言ってくれたね。

 いつか私たちの幸せは戻ってくるんだって、本当はね、ずっと。ずっとずっと、期待してた。

 今も自覚はないだけで、本当は心の中にそんな気持ちがあるんだと思う。

 でも、私はその気持ちにずっと蓋をしてた。どうせ、どれだけ待っても、私たちは昔のようには戻れない。分かってたから、隠してた。

 今思えば私は今までこの気持ちに、気付いていないふりをしてきたのかもしれない。でも、どれだけ蓋をしていても、どれだけ気付いていないふりをしていても、心の中にしまってあった悲しみが消えることはなかった。


 私は一生、お父さんが今までしてきた酷いことを許す日は来ないと思う。でも、これだけは伝えたい。

 私をこの世界に連れてきてくれて、ありがとう。
 だから、ちゃんと見ててね。いつか絶対、お父さんみたいな世界的なピアニストに、なってみせるから。

 私が弾くピアノで、いつかきっと。
 お父さんのように、世界中の人の心を、救いたいと。そう、思わせてくれた。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


「ただいま」
「おかえりなさい」

 父が亡くなってから、私の家は至って普通の会話ぐらいはまともに交わせるようになった。

 あの日、私が泣いて、泣いて、泣いて。ようやく落ち着いてきた頃に、母が言った。

「怜愛。お父さんはね、この手紙を病院でずっと書いていたの。あんな弱々しい姿で、何度も何度も書き直しながら。だから、この手紙に書いてあることは、お父さんが本当に怜愛に伝えたかったことなんだと思う」

 お母さんは私の手を強く握った。喋り方も、声色も、雰囲気も、全部私が小さかった頃のお母さんに戻っていた。

「怜愛、今まで本当にごめんなさい。あなたを傷付けたのは、私も一緒だから。これからはお父さんの分まで、私たち二人で幸せになろう」

 母は私の気持ちを確かめるように、包み込むような温かさで、私を優しく抱きしめた。

 私は母を抱きしめ返すことができた。こうしてようやく。ようやく、私たちは打ち解け合うことができたのだ。
 

『早くピアノの練習をしなさい』

 もうこんな両親の声は、聞かなくなった。

 父がいなくなったことでようやく、私は自由になれたのだ。ピアノに縛られることもなく、自由に生きられる……。


『怜愛、ピアノ上手くなったなぁ!』
『怜愛の将来の夢は、お父さんみたいなピアニストになることなんだぁっ』
『おっ、そうなのか。怜愛はお父さんを超えられるかな?』

 -あはははっ。

 ピアノの音色と共に、そんな楽しそうな笑い声が聞こえてきた気がした。

 私の将来の夢は、あの時から変わっていない。  

 ──────きっとこれからも、変わることはないだろう。

 

Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.9 )
日時: 2024/01/21 18:52
名前: しのこもち。 (ID: TqFD0e/Z)



 『君がいたから、ようやく笑えた。』読者のみなさまへ。

 更新がとても遅くなってしまい、大変申し訳ございませんでした……!!!!!

 中々描き上がらず、私も頑張ったのですが……まさかこんなに経っているとは……本当にごめんなさい。

 それでもまだ本編を見てくださっている方々(そんなにいないかもしれませんが…笑)本当にありがとうございます。

 またこのように更新が遅くなってしまうことがたくさんあると思いますが、最後まで読んでくれると嬉しいです。

              しのこもち。

 


 - 9. 当たり前の幸せ -

 【 Side 陽向ひなた

 怜愛が学校に来るようになってから、1週間が経った。僕たちは今日も、いつも通りの場所でいつも通りの会話をしていた。

 ただ、いつも通りと言っても、あの時から1つ変わったことがある。それは、僕たちは放課後だけではなく昼休みの間にも会うくらいの仲になったということだ。

「ねぇ、陽向。今日の放課後空いてたりする?」

 珍しく怜愛がそんなことを聞いてくるので、僕はびっくりして思わず顔を上げた。

「空いてるけど、なんで?」
「この前一緒に……デ、デート?してくれたから、今度は私からも誘ってみようと思って…!」

 顔を真っ赤にしながらそう言う彼女が、何だか子供を見守っている時のように愛らしく見えた。

「……ふーん?別にいいよ、行っても」
「えっ、いいの…?」
「うん」

 僕が頷き返すと、怜愛は相当緊張していたのかほっと胸を撫で下ろした。

「よかったぁ。陽向って気分屋だから、断られるかもってドキドキしてたよ」

 僕が怜愛との時間を断るわけないのに。そう口に出そうとして、すぐにその言葉を飲み込んだ。

 まただ。最近、怜愛といるとどうしても心の中で思っていることを吐き出してしまいそうになる。

 僕たちの間にある見えない一線を……越えてしまいそうになる。

٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 

「陽向、どこ行きたい?」

 放課後になり、僕たちは一旦人目のつかない場所へ移動した。もちろん、マスクをして。

「どこでもいいよ」
「………とりあえず何でもいいって言う男の人、モテないって知ってた?」
「知ってた」
「……まぁ、いいや。私が提案したんだから、行く場所くらい私が決めていいよね」

 そう言って怜愛は、僕の腕を引っ張って歩いた。

٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 

「やっぱり高校生と言ったらここでしょ!」

 連れて来られたのは、2人用の少し狭いカラオケの部屋だった。

「僕、行ったことないかも」
「えっ、そうなの!?」
「うん。今まで絵しか描いてこなかったし」「へ、へぇ」
「怜愛はその感じだとカラオケ行ったことあるみたいだね」

 さっき注いできたばかりのオレンジジュースを飲み、僕は向かいに座る怜愛をちらっと見ながらそう言った。

 すると彼女は分かりやすくビクッと肩を震わせた。

「……えっと、実を言うと……私も行ったことない、です…」
「え?あ、そうなの?」
「う、うん。……実は私もさ、小さい時からずっとピアノしか弾いてこなかったんだ。学校が終わったらすぐに家帰ってピアノの練習して、土日も休まず一日中演奏して……親にずっと言われてきたことだったし、私が好きで始めたことだから仕方がないんだけどね。でもそんな生活じゃ、もちろん友達とも遊ぶ時間なんかとれなくて。正直今のクラスで仲良くしてくれてる女の子たちも、ずっと私のこと慕ってくれてるだけで、遊びに誘われたりとかはされたことないし……私もまだ、友達って思える関係の人を見つけられてないんだよね…」

 さっきまでのテンションはどこへ行ったのか、怜愛は俯いてしまった。

「………もう、いるじゃん」

 落ち込む彼女を励ます言葉。僕には、これしか考えつかなかった。

「……少なくとも僕は、君を友達くらいの関係には思ってるよ。友達との付き合いが上手くいってるとかいってないとか、そんなの僕には分からないけど、僕は君に出会えてさ………」

 君に出会えて……その先の言葉を、口に出さないようにすぐに飲み込んだ。

「……とにかく、せっかくなんだし初心者同士でカラオケというものを満喫してみよう。ほら、怜愛なんか歌ってよ」
「……うん、ありがとう」

 彼女は僕が渡したマイクを受け取り、タブレットに曲名を何曲か打ち込んだ後、立ち上がった。

「〜♪♪〜♪♪」

 スピーカーから流れる音楽と共に、怜愛の綺麗な歌声が室内に響いた。それを聞いているだけで、心が浄化されていくような気がする。



 “君に出会えてよかった”

 こんな言葉を、僕なんかが伝える資格はない。なのに、口に出てしまいそうになった。こんなこと、今までなかったのに。そもそも僕は、自分の思ったことをそう簡単に口に出せるような人間じゃないのに。

 ………いいや、違う。僕がそういう人間になるために自分で“なった”んだ。


「陽向もなんか歌おうよっ」

 しばらく歌っていた怜愛が僕の腕を引っ張る。そのおかげで僕はよろめきながら立ち上がった。

「陽向の歌ってるとこも見てみたいなぁ」

 にやにや笑いながらそう言ってくる彼女の機嫌は、もうすっかり直ったみたいだ。

「えぇ。僕こう見えてめちゃくちゃ音痴だよ」
「歌に上手いとか下手とかないのっ。ほら、早く歌ってよ」

 彼女は机に置いてあったもう一つのマイクを手に取り、僕に手渡した。

「〜♪♪〜♪♪」

 最初は人前で歌うことに抵抗とためらいを感じていたけど、隣で怜愛が一緒に歌ってくれたおかげで、僕は小さな声でだけれど段々と歌うことができた。

「あっはははっ!うちらすごくない?ドレミの歌で95点取れてる!陽向歌上手いじゃん」
「さすがに僕がこんな単純なメロディーの曲ですら歌えないほどの音痴だとでも思った?あっ、もしかして馬鹿にしてるな?」
「し、してないです、してないですっ!」

 面白おかしく笑う僕たちの豪快で大きな笑い声が、部屋中に響いた。カラオケが防音な部屋でよかったと思うくらいに、僕たちは思う存分叫んで笑っていた。

٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 

「あー、歌った歌った」

 店を出た後二人並んで歩いていると、怜愛が満足そうに呟いた。

「そうだね。あんな面白い怜愛、見たことないよ」
「ちょっと、やめてよ……」
「……ふははっ」
「ねぇ、また思い出し笑いさせないでっ……あっはははっ」
「あはははははっ!」

 急に涙を出して、僕たち二人はまた笑いだした。周りの通行人に、なんだこの人たちって目で見られてる。

 でも、そんなの構わなかった。今はずっと、ただただこうして彼女と笑っていたかった。

 お腹を抱えて僕たちは気が済むまで笑う。

 あぁ、これがきっと。これがきっと“普通の幸せ”ってやつなんだろうな。

 僕は笑いながら、ふとそんなことを思った。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


 僕が絵を描き始めた理由。それは、時間が過ぎるのが早く感じるような気がするから。ただ、それだけ。

 でも僕はただそれだけの理由を利用して、目も向けたくない現実から逃げていた。





 僕が最後に両親を見たのは、小学3年生の時だった。
 別に事故で亡くなったとかではない。いや、もしかしたらそうなのかもしれないが、ただ朝起きると突然、昨晩まで一緒にいた両親がいなくなっていたのだ。

「…お父さん?お母さん?」

 両親の部屋に入っても、誰もいない。

 母は大抵いつも家にいるし、父は毎日僕より後に家を出ていくはずだ。昨晩早めに家を出るなどの話も特に両親からは聞いていないし、何かがおかしいということをこの時僕は悟った。

 なんだか嫌な予感がした僕は、家中を探し回った。全ての部屋を隅から隅まで探したし、クローゼットの中も確認した。それでも両親が見つかることはなかった。

 我にもすがる思いで両親の部屋をもう一度探索した僕は、あることに気付いてしまった。

 いつもは物が収納してある引き出しやクローゼットから、両親の服や物がなくなっているのだ。玄関を見ると、靴も何足か消えていた。

 僕は、さっきした嫌な予感が現実になってしまったということにこの時ようやく気が付いた。


 『家族が消えた』

 当時子供だった僕は両親がいなくなったことに驚きを隠せず、しばらくその場から動けないでいた。それと同時になぜ両親はいなくなってしまったのか、もしかしたら自分のせいなのではないかという不安や恐怖も感じていた。

 -プルルルル。プルルルル。

 何もする気力が起きないまま1時間ほどが経過した時、いきなり家の電話が鳴った。

 僕はびっくりしながらも恐る恐る、早く来いとでも言うかのような大きな音を出す電話に近付き、震える手で受話器をとった。

「もしも─────」
「蓮見さん?今日学校欠席って連絡きてないけど、今日は学校来れないのかな?」

 電話に出ようと口を開くと、その言葉を遮られた。声からして、電話の向こうの相手は自分のクラスの担任であることが分かる。

「………お母さんとお父さんが、いない」
「え…?」

 自分でも何が起きているのか、何を言っていいのか分からなかった。子供だった僕にとってはそんなのなおさらのことで、今見えている事実を伝える他なかった。

「本当に?お母さんとお父さんは仕事に行ってるとかじゃなくて?」
「……そんなの、聞いてない。部屋からも……物、なくなってる」

 電話越しで顔は見えないが、明らかに先生が驚いて焦っているということだけはなんとなく分かった。

「………わ、分かった。とりあえず今から先生たちで迎えに行くから、蓮見さんはそこで待ってて?」

 電話の向こうから担任の焦ったような声が聞こえる。バタバタと派手な音が鳴ったと同時に、担任の先生は電話を切った。

 -プーッ。プーッ。

 電話を切った後の電子音が、広い部屋に響き渡った。その音が余計に、一人でいることの孤独感と不安を煽ってくる。

 僕は体の力が一気に抜けるのを感じた瞬間、膝から崩れ落ち、先生が来るまでその場から動けずにいた。


٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 


 その後のことは、あまりよく覚えていない。
 気付いたら家に担任の先生や知らない大人の人たちが来ていて、気付いたら学校にいて。


 気付いたら………あの人に、出会っていた。


「こんにちは。陽向くん、だっけ?よろしくね」

 にこにこと笑いながら、朗らかとした雰囲気をまとったその人が目の前に立っていた。

 三十代くらいだろうか。男の人だった。背丈は父と同じくらいで、灰色のスーツを着ている。

「……誰、ですか?」
「ああ、そういえば名乗ってなかったね。僕の名前は─────」

凛空りあ

 そうか。怜愛と初めて出会った時‪”りあ”‬という名前をどこかで聞いたことがあるような、そんな気がしたのはきっと、あの人の面影おもかげがあったからなんだろうな。

 親戚もいない僕はいつの間にか、この‪”‬‪凛空”と名乗る人物の家にいさせてもらうことになった。

 恐らく、というか絶対に、僕の両親がいくら探しても見つからなかったから、こうして他人の家に‬同居することになったのだろう。

 僕は俯いた。涙が溢れないように顔に力を入れて、あの人にこんな情けない様子を見られないように極力下を向く。

 両親の顔が、頭から離れない。
 今でも覚えている、鮮明に。
 お父さんとお母さんの顔、声、温もり。

 今すぐ会いたい。声を聞きたい。
 そんな思いが僕の心を支配し、気付いたら我慢していたはずの涙が零れていた。

「……凛空、さん」
「ん?」
「僕、今すごく悲しいんだ」

 声が震えている。涙が溢れすぎて、うまく呼吸ができなかった。

「……っ、うっ………っ、」

 僕は俯いたまま嗚咽を漏らしながら泣いた。
 会ったばかりの人の前で泣くのは、これが初めてだった。

「……ぅっ、なんで……、なんでお父さん、とお母さんっ………いなく、なったの…?」

 純粋に知りたかった。何も言わずに出ていくなんて、子供を置いて行くなんてこと、あんなに優しかった両親が簡単にできるわけがない。

 精一杯声を上げながら僕は泣いた。一度泣き始めると涙は枯れないものなのか、自分でもこんなに泣いたことはないと思うくらいのたくさんの涙が頬に伝る。

 凛空さんはそんな泣きぐしゃる僕に何も言わず、黙ったままずっと背中をさすってくれていた。

 僕はその優しさに甘え、ただひたすら泣いた。

「お父さんっ、と…お母さん、に……っ今、すぐ……ぅっ、会いたい………」

 切実な願いを口にすると、凛空さんは少し変わったことを僕に提案してきた。

「…………陽向くん。それならさ、少し僕と遊んでくれない?」
「……っ、え?遊ぶ…?」

 泣くだけ泣いてようやく涙が引いてきた時、凛空さんは僕に微笑みかけた。

「うん。少し待っててね」

 そう言うと凛空さんは立ち上がり、しばらくすると部屋から紙と鉛筆、クレヨンに絵の具に色鉛筆にカラーペンに、とにかくたくさんの種類の画材を持ってきた。

「絵、描くの……?」
「まぁ、そうかな」

 凛空さんは袖をまくり、大きなサイズのスケッチブックを開いた。そしてなぜか白いクレヨンを取り出し、白いスケッチブックのページに何かを描き始めた。

「え、なんで白い紙に白い色で描くの?絵が見えないよ」
「そうだね。でも見ててよ?」

 不思議がる僕の様子を楽しそうに見ながら、凛空さんはしばらく絵を描いた後クレヨンを置き、今度は水彩絵の具で淡い水色を作り出した。

 そして真っ白なスケッチブックの上に、平筆で思い切り色を塗っていった。

「うわぁ、すごい………」

 クレヨンの油分が絵の具の水をはじき、みるみるうちに一本一本の線が浮き上がり、絵が徐々にあらわになっていく。

 それはまるで魔法のようで、僕は最初先生が手品でもしているのかと思ってしまうくらい、すごく滑らかで不思議な光景だった。

 そして数秒も経たないうちに、さっきまで真っ白だったスケッチブックには翼を広げた美しい鳥が、水色の絵の具を背景にたたずんでいた。

「綺麗……」
「だろ?これはバチックといって、クレヨンと水彩絵の具の異なる性質を利用した絵の技法なんだ」
「すごい、すごいよ!こんな綺麗で不思議な絵、初めて見た…!」
「ふふ。バチックだけじゃないぞ?絵の世界にはな、本当にたくさんの綺麗な技法や構成美なんかが眠ってるんだ」

 凛空さんはそう言って、興味深々の僕にたくさんの美しい絵の世界を見せてくれた。

「これは誰でしょう?」
「あ、これ僕だ!凛空さんは絵が上手いんだね」
「えぇ、そうか?」


 凛空さんの手から生み出されるものは全てが本当に綺麗で、僕はすでにこの時から絵という存在が隣にいたし、絵というものに惹かれていた。

「凛空さんはなんでそんなに絵が上手いの?」
「まぁ、一応美術の先生だからな」
「え、そうなの!?」
「うん、君の通ってる小中一貫校の中等部で美術教えてるよ。そんなに驚くことかな」
「そりゃあ、そうだよ。先生なんてすごい!でもなんで先生なんかになったの?こんなに絵が上手いんだから、画家とかやればいいのに」

 そしてこの時先生が言った言葉を、僕は今でも鮮明に覚えている。

「実は僕も……………陽向くんと同じ歳だったくらいの時にな、お父さんとお母さんが事故で亡くなったんだ」

 凛空先生は悲しそうに笑いながら、その真っ黒な瞳を切なく揺らした。

 急にそんなことを言われるなんて思ってもみなかった僕は、驚いて勝手に一人でショックを受けた。

「その時、僕も陽向くんと同じようにずっとずっと一人で泣いてたよ。一人でいることの絶望感とか、孤独感とか。それに縛られながら生きる毎日が本当に怖くて、僕は里親に引き取られた後もしばらくその人たちの名前を呼ぼうともしなかった」

 心配そうに見つめる僕の様子に気付いたのか、凛空先生は幼い子供をあやすように再びゆっくりと話し始めた。

「でも、そんな絶望する日々の中で…………僕は『絵』に出会ったんだ。絵は、白黒だった僕の心に色を塗ってくれた。何もなかった僕にとっては絵という存在が光だったんだ。自分のほしいものを絵に描けばなんだって手に入った気分になれたし、青空の絵を描けば心だって晴れる気がした。僕はそんな小さい頃から心の光だった大好きな絵の魅力を、少しでも多くの人に自分の口でちゃんと伝えたかった。だから、頑張って教師という道を選んだんだよ」

 僕は、何も言えなかった。
 いつも僕に見せてくれた先生の絵の美しさの中には、こんなにも切なくて儚い過去が詰まっていたのだ。

 僕は息を飲んだ後、しばらく閉じていた口をようやく動かした。

「…………僕、決めたよ」

 僕はスケッチブックを手にして、その場から立ち上がる。綺麗すぎるくらい真っ白で大きなその紙に、鉛筆で近くにあった花瓶の絵を描き始めた。

「僕はね、もっともっと、いっぱいいっぱい絵を描いて先生よりも絵が上手くなって、それでいつか………誰かに光を与えられるような、そんな絵を描くんだ」

 気合いを入れるようにしてそう口にした後、ずっと見守ってくれていた先生を見て、僕はその人に優しく微笑みかけた。


 いつかきっと、先生の過去の傷なんか吹き飛ぶくらい、すごい絵を描いてみせる。

 僕はそう心に決め、再び力強く鉛筆を走らせたのだった。

٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 

 それから僕の生活は少しずつ変わっていった。

 両親は未だに見つかることはなかったが、それでも僕の隣にはいつも凛空先生がいた。

 僕は小学生の時、ほとんど絵しか描いていなかった子供だったと思う。

 あの頃は絵を描くのが楽しくて楽しくて、学校の休み時間も放課後も寝る前も、毎日ほとんど欠かさず絵を描いた。

 家に帰ったら必ず先生がいるわけではなかったが、僕はその代わりに、夜になると学校から帰ってきた先生に絵を教えてくれるよう、よく頼んでいた。

 僕がそうねだれば、先生は嫌な顔ひとつせず、いつも一緒に絵を描いてくれた。

 先生と絵を描いている時間は心が満たされてすごく幸せだったし、何より楽しかった。

 今考えると疲れて帰ってきたのに先生に迷惑ばかりかけてしまったな、と後悔するほどだ。

 でも僕はそんなことを気にすらしないくらい、絵が本当に大好きだったのだ。







 ────でも、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。




 僕のせいで─────先生が死んだからだ。


 今の生活にも慣れ、先生と出会ってから五年が経過した頃。

 学校から帰っている途中、僕はその日自由帳に描いた自分の絵を見ながら、横断歩道を渡った。

 ちゃんとこの目で赤信号が青信号に変わったことを確認したはずだった。

 なのに、後ろから誰かが叫ぶような慌てた声が聞こえてきて、不思議に思いながらも振り返ろうとした………その時だった。

「陽向!逃げろー!!!」

 -プップッー!!

 車のクラクションが鳴る直前、僕は誰かに後ろから思い切り背中を押され、そのまま前に転がった。

 -ガッシャーン!!!

 ガラスが割れて弾ける音と、何かが大きくぶつかる派手な音が辺りに響いた。

 僕は恐る恐る音がした方へ振り返った。

 ─────すると、そこには。



「……………凛空、先生…?」

 そこには──────────ぐったりとたくさんの血を流して倒れている先生がいた。

「…………誰か!救急車呼べ!」

 近くにいた大人のたちが、呆然とする僕なんて構わずに慌てて動き出した。

「……先、生?嘘、だよね……っ……先生?」

 僕が話しかけてもピクリとも動かない。ものすごく嫌な予感がした。










「………………残念ながら、もうすでに息を引き取っています」

 医者のその言葉を聞いた瞬間、僕はあまりのショックで倒れそうになった。

「…………っ、……ぅっ……ぇぐっ……なんっ、……で………」

 気付いたらあの日から数日も経過していた。先生の葬儀も終わって………僕は先生と過ごしたあの家に帰った途端、泣き始めた。

 先生と初めて出会った時にここで泣いた日以来、泣くのはこれが初めてだった。中学生になってまでも泣く日が来るとは、思いもよらなかった。

 でも今はあの日と違って、そばには先生がいない。僕が殺したも同然なんだ。泣いたところで一体先生はどう思うか。

 そう自分に言い聞かせる。そんな僕の意思とは反対に、涙はとまるどころか勢いを増した。

 そうして僕は誰もいない真っ暗な部屋の中で、一晩中泣き続けた。

٭•。❁。.*・゚ .゚・*.❁。.*・٭•。٭•。❁。.*・゚ 

 その後、僕は児童養護施設に引き取られた。
 先生と過ごしたあの思い出の家を離れ、通い慣れていた学校も転校した。

 先生がいない世界は、まるで全ての色がなくなったかのように、僕にとっては何もない世界になっていた。

 もう何もする気力が起きないまま、学校では新しい友達を作ろうともせず、無意識にただ絵だけを描いていた。



 そして転校してから一週間が経ったある日、僕はいつものように自由帳を開いて一人で絵を描いていた。

 そんな絵しか描いていない僕は、クラスメイトたちから気味悪がられていた。

「あいついっつも絵しか描いてないよな」
「前の学校でいじめられてた陰キャ的な?」
「なんか可哀想ー」

 よくそんな声が聞こえてくる日も段々と増えてきて、僕はそれが聞こえないようにと日に日に絵を描く時間を増やしていった。

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 ある日のことだった。教室に登校するといつも以上にひそひそと声が聞こえてきたので、僕はどうしても気になって自分の席の隣で話していた人たちに耳を傾けた。

「ねぇねぇ。なんかさ、この前提出し忘れてたプリント先生に届けようとして職員室行ったら、先生たちがあいつのこと話しててさ」

 あいつとはきっと僕のことだろうか。
 ちらちらと隣にいる僕を横目で見ながら、その人たちは続けた。

「でね、気になって聞いてたら、あの人実は小さい頃に両親いなくなって別の人に引き取られたらしいんだけど、その人も事故で亡くなったんだって。今は家ないから施設いるらしいよ。先生が可哀想な子とかなんとか言ってた」
「えー、何それ。確かに可哀想」
「しかもその亡くなった人ってあの人をかばおうとして死んじゃったらしいよ?ほんと気の毒だよね」
「そうなの?でもさ、別にその人もわざわざあの人かばわなくてよかったんじゃない?」
「確かに〜」

 僕は聞いてしまった。
 自分のくだらない生い立ちが、こんなにもみんなに知れ渡っていただなんて。知られてほしくなかったことを噂され、僕は頭を鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。

 そして、僕のせいで亡くなってしまった先生ですら侮辱されているような気がして、完全に自分のせいだと分かっていながらも、腹が立った。

 けれど同時に、彼女たちの話に少し共感してしまっている自分もいた。

 先生はなんで僕をかばったのか。もしあの時先生が僕をかばわずに何もしなかったら、僕が死んでいた。それだけで終わったはずなのに。

 しかも先生の存在の方が、僕より全然価値が大きい。普通の人だったら親に捨てられた見ず知らずの子供を、ましてや独身の男性が引き取るなんてしようともしないだろう。

 なのに、先生は僕を選んでくれた。
 希望を与えてくれた。
 絵という素晴らしいものを教えてくれた。
 一緒に笑顔で過ごしてくれた。

 そんな先生が、例え不慮ふりょの事故だったとしても死んでいいはずがない。

 だったらあの時、僕が……僕だけが、死んでいれば。せめてそのくらいさせてほしかった。

 だってそうでも考えないと、僕の心にある鎖は永遠に解けない。いっそ死んでしまいたいくらいだった。

 僕はそんな感じで居心地の悪い教室で二年間を過ごした。もう感情なんてものも忘れてしまったのか、僕はその二年間、笑うことも泣くこともしなくなっていた。







 大好きだった家族、先生。そしてあの人が見せてくれた美しい絵の世界。

 幸せな日々や時間は、永遠なんて言葉は付いてこないのだと僕は知った。

 そして僕は何よりも大切な人を自分のせいでなくした。その罪は今になっても消える日なんて来ず、ずっと僕の心の奥底でうずいている。

 だから僕はそんな罪悪感や呪いから逃れたくて、大好きだった絵を描いて現実から逃げていた。

 本当に、自分がクズな人間すぎて呆れてくる。
 でも、こうでもしないときっと僕はいつか壊れてしまうから。

 だから神様、どうかお願いです。
 せめて絵を描くことだけは、僕から決して奪わないでください。

 そんなばかなことを願いながら、今日も僕は絵を描き続ける。


 ─────あの人が、大好きだった絵を。

Re: 君がいたから、ようやく笑えた。 ( No.10 )
日時: 2024/09/10 17:54
名前: しのこもち。 (ID: X2iPJYSg)



 【 読者のみなさまに大切なお知らせ 】


 こんにちは、しのこもちです。

 更新が遅くなってしまい、本当にごめんなさい。それでも最後まで読んでくれている方、いつも本当にありがとうございます。(何度も言いますが、そんなにいないか……笑)

 突然ですが、今日を持ちまして私しのこもちは個人作品(この小説)の執筆を休止したいと思います。

 理由は決して飽きたとかではないです。次のお話も少しずつ書いていました。

 ただ私自身とても忙しく、これから数ヶ月は更に忙しくなるとの見込みで休止することを決めました。

 恐らく二月か三月頃には帰ってくると思います。引退は今のところ考えていません。

 また、現在みぃみぃ。さんと執筆中の合作小説『ユリカント・セカイ』は完結するまで頑張りたいと思っています。

 急なことになってしまって、本当にごめんなさい。

 今まで一度でもこの作品に目を通してくれた方、応援してくれた方がいれば幸いです。

 五ヶ月後にまたここで、小説を書いたり読んだりできることを楽しみにしています。

 みなさんお元気で!!!


               しのこもち。


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