複雑・ファジー小説

■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
 入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)

【完結】魂込めのフィレル
日時: 2020/08/04 11:29
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)

——その少年の描く絵には、奇跡が宿る。
 彼の描いた絵は皆実体化し、生物を描けば動きだす。
 天才的な力、絵心師えしんしを持つ彼の名を、フィレル・イグニシィンと言った——。

 けれど彼はある日、自身の無邪気な性格ゆえに、取り返しのつかない過ちを犯す。
 自業自得から始まった長い旅。その長旅の結末とは——?

  ◇

 まとめ読み用! >>1-76

【目次】
 前日譚 戦神の宴 >>1-5

【第一部 旅立ちのイグニシィン】>>6-48
 一章 イグニシィンの問題児 >>6-11
 二章 悲しみの風は台地に吹く >>12-16
 間章 その名は霧の…… >>17
 三章 収穫者は愉悦に狂う >>18-24
 間章 動乱のイグニシィン >>25-28
 四章 死者皇ライヴの負の王国 >>29-40
 間章 英雄の墓場 >>41-43
 五章 最悪の記憶の遊戯者 >>44-48

【第二部 心の欠片をめぐる旅】 >>49-65
 六章 災厄の島と伝説の…… >>49-58
 七章 希望の花は、もう一度 >>59-65

【第三部 封神の旅のその果てに】 >>66-76
 八章 運命神の遊戯盤 >>66-67
 九章 文明破壊の無垢なる鉄槌 >>68-70
 十章 戦呼ぶ騒乱の鷲 >>71-73

 最終章 握った絵筆に魂を込めて >>74-76

  ◇

 2020/7/24 完結致しました。
 ここまで読んで下さった方、そして応援して下さった全ての方に感謝を。
 フィレルの物語は、この話だけでは終わりません。
 いつか書く続編で、またお会いしましょう……。

Re: 魂込めのフィレル ( No.47 )
日時: 2019/08/29 14:30
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


 やってくれたわね、とフィラ・フィアが怒りの声を上げた。
「よくもわたしの仲間を、酷い目に遭わせてくれたわね? やっぱりあなたは害悪よ。大人しく封じられるが世のため人のため。悪いことは言わないわ、さっさと諦めて悪夢を終わらせなさい」
「やめるとでも思ったのかなァ?」
 軋んだ声。心穿つフラックのくさびが、フィラ・フィアの中に突き刺さる。
 それでも、彼女は強く首を振って持ちこたえる。過去の自分は英雄の墓場に葬ったのだ、だからこの痛みは悲しみは、過去のもので今感じているものではないと。
 ユーリオの、ユレイオの、レ・ラウィの、死に様が浮かんでは消える。ユレイオの死に怒り狂ったユーリオの顔。そして笑って皆に後を託したレ・ラウィの広い背中と風の魔法。忘れ得ぬ遠い日の悲しみが彼女の胸を駆け巡るが、それでも彼女は血が出るほどに固く唇を噛みしめ、必死で耐えて舞う準備をする。
「ほゥ、強くなったねェ封神の姫。でもこれはまだ小手調べさァ。——本番は、ここからだよォッ!!」
 じゃらじゃらじゃらん。鎖が激しく振られ、虹色の魔法陣を形成していたフィラ・フィアの心にフラックの楔が突き刺さる。そう、彼女には最大のトラウマがあるのだ。自分を間接的に死に追いやった、

——『白蝶の死神』、シルークの死。

「やめてぇぇぇえええええええっ!!」
 フィラ・フィアは絶叫を上げた。
 謎めいた彼が好きだったのだ。いつも笑わず、声も出せず。不思議の存在『蝶王』によって声を奪われた彼は『蝶の魔法』でしか喋ることができず、そうやって作られた偽りの声は合成音声のようでどこか不自然で。誰にも心を開かなかった彼だけれど、ある時フィラ・フィアには心を開くようになって、初めて笑ってくれた。そして蝶王が調子に乗って、奪った『本当のシルークの声』で数声喋ったのだ。その声の美しさは魔性の美しさで、それゆえにシルークは声を奪われたのだとフィラ・フィアは理解した。
 暗く冷たく不器用な彼。それでも笑っている時は春のひなたのように優しく穏やかで。ずっとずっと一緒にいたいと、近くでその笑顔を眺めていたいと、密かにそう思っていた。この長い旅が終わったら、彼にこの不思議な気持ちを打ち明けてみようとさえ思っていた。しかし。
 そんな彼は、彼女を守って、死ん——
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ!」
 心の奥底に封じたはずの最悪の記憶が彼女を打ちのめす。作られつつあった魔法陣は虹色の破片と共に砕け散り、封神の舞はまた最初から。しかし今や彼女に魔法をやり直す気力なんて欠片も残ってはいなくて。
 無慈悲な声が、軋んだ音を立てる。
「封神の姫、面倒だなァ。容赦なく心の奥底まで破壊しないと後が大変かなァこれは?」
 蜘蛛の足が彼女に伸びる。イルキスの制止の声も当然のごとく無視して、蜘蛛の足が彼女を包む。
「眠れよ姫、永遠に。永遠の悪夢の檻に囚われよ」
 軋まない綺麗な声が、魔性の声が、彼女の記憶の底から引っ張り出された《本物のシルークの声》が、彼女の鼓膜を震わせる。
 そして彼女の全身はくたりとなって、動かなくなった。
 骸骨は勝ち誇ったような甲高い声を上げて、蜘蛛の足で彼女の身体を放り投げた。重い音。彼女はぴくりとも動かない。慌てて駆け寄ったイルキスが彼女の脈を調べ、生きていると知って一安心。しかしいくら揺すってみても呼びかけてみても、彼女の意識は戻らない。
 イルキスは彼女の傍にひざまづきながらも、ぼんやりと骸骨のフラックを見た。
 骸骨は軋んだ音を立てながらも解説した。
「心を壊してやったのさァ、彼女の、心を! 封神の姫はもう二度と意思を持って動くことはない。彼女はただ生きているだけで、心のない人形のようになったのさァ」
 これでもう封じられないなァ、と骸骨は笑う。
「憎いならば挑んでみるかィ運命の愛し子。ボクは身体を破壊されても、封じられなければ不死身だぜィ」
「……遠慮させていただこう。ぼくだって、壊れたくはないからね」
 努めて冷静な口調でイルキスは言った。
 ちらり、フィレルの方を振り向けば、暴れて疲れたのかフィレルは寝息を立てており、戸惑ったようにその身体をロアが抱いているのが見えた。眠るフィレルの顔は、悪夢でも見ているかのようにしかめられたままだ。
 イルキスはロアに言った。
「ぼくらの、負けだ。でも心が壊れたって封神の姫は生きている。再起する機会はまだあるはずさ。戻ってどうするか考えるんだ」
 帰り道はぼくが案内するから、とイルキスは意識を失ったフィラ・フィアを背負いあげ、扉を開けて進んでいく。ロアもフィレルを背負い、その後に続いていこうとした、矢先。
 軋んだ声がその背に呼び掛けた。
「剣士の少年。見えるぞ見えるぞォ、オマエに宿る最悪の記憶が。過去を知りたいならば教えてやろうかァ?」
「お断りする。オレだって、壊れるのは御免なんだ」
 きっぱり断りロアは部屋を出、扉を閉めた。
 バタンという音がふたつを隔てた。
 隔てられた扉の向こう、最悪の記憶の遊戯者がひとり、笑っていた。
「剣士……ロア……闇の気配……繋がった! ハァハッハッハァ、セインリエスめェ、粋なことをしているなァ!」
 その声は誰に届くこともなく、ただ閉ざされた空間に反響するのみ。

  ◇

Re: 魂込めのフィレル ( No.48 )
日時: 2019/09/02 14:38
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)


 トレアーの町へ戻り、手近な宿に部屋を借りて、部屋のベッドにフィレルとフィラ・フィアを寝かせ、作戦会議が始まる。フィレルはただ眠っているだけのようだが、フィラ・フィアの場合は違うようだ。その目は開いてはいるがどこまでも虚ろで、意思の光を宿さない。あんなに強くて真っ直ぐだった封神の姫が、この体たらく。他者の最悪の記憶を暴き、強引に晒すフラックは、封神のフィラ・フィアの心をも破壊したのだ。
「まず、これからどうするかなんだけれど……」
 疲れたようにイルキスは言った。
「フィレルはじき回復すると思う。で、問題はそこのフィラ・フィアだ。リーダーが動けないんじゃ旅を続けられないし、だいいち、彼女しか神々を封じられない」
「心を回復させるという手段は?」
「……あるとは、思うけれど。難しいねぇ」
 ロアの質問に、イルキスはそう返した。
「彼女の心を壊したのはシルークの死の記憶。でも、忘れちゃあいけない。シルークはあの時死んだけれど、シルークの契約していた蝶王は死んではいなかった。蝶王の寿命は十年と短いけれど、蝶王は何度も何度も転生し、過去の記憶をずっとずっと受け継いでいる。だから……」
「蝶王の生まれ変わりに会えればもしかして、ということか?」
 うん、とイルキスは頷いた。
「でも、シルーク本人じゃないからそれで彼女の心が戻ってくる可能性は薄……って、あっ!」
 何かを閃き、イルキスはぽんと手を叩いた。
「『魔性の声』だよ、蝶王の奪った! シルークは魔性の声を持っていたがゆえに美しいものが好きな蝶王に目をつけられ、その声を奪われた。蝶王は生まれ変わるたび、記憶以外にももう一つ受け継ぐことができるんだけど……今の蝶王が、まだずっとシルークの魔性の声を受け継いでいたのならば、可能性は、あるかもしれない」
 藁にも縋るような可能性だな、とロアが鼻を鳴らすと、何も無いよりはいいじゃないかとイルキスは反論する。
「ぼくが考えられる可能性はこれだけだ。だから、状況を見つつ、フィレルが落ち付いたら行動を開始するよ。蝶王が、伝説の存在が今どこにいるかなんて見当はつかない。これに関しちゃ運命の女神さまも答えてくれない。砂漠の砂の中で一粒の金を探すようなものなのかもしれない。でも、ほんの僅かでも可能性があるのなら」
 わかったから落ち付け、とロアが半ば立ち上がりかけたイルキスの腕を引き、座らせる。
「蝶王の居場所ならば、オレに見当がつかないわけでもない。シエランディアの南西方向、名前の付けられていない巨頭があるのを知っているか? 人が災厄の島と呼ぶその場所に、恐らく蝶王はいる。蝶王はな、シルークの死後、心を閉ざして人間と関わるのをやめてしまったんだ。シルークは蝶王の最後にして最高のパートナーだったらしい」
 ロアの言葉に、イルキスは驚いた顔をした。
「……どこで知ったのさ、そんなすごい情報」
 ああ、とロアは少し考えるような仕草をした。
「赤眼の鴉、だったか。いつの頃かは覚えていないが、赤眼の鴉が教えてくれた気がする。……ちょっと待てよ。赤眼の鴉……赤眼の鴉、って」
「闇神ヴァイルハイネン。極夜司る闇呼ぶ鴉、風の体現者、異界の渡し守。人間好きな奇妙な神様で、気紛れに人間の生に干渉し、その一生に寄り添って、相方が死ぬと一時的に天界に帰る。人間好きな神様だから、気紛れに誰かに話し掛けることもあるだろう。しかし驚いた。きみがあのヴァイルハイネンと話したことがあるとはね」
 ロアの言葉を引き継ぎ、イルキスが興味深げな表情を浮かべる。
 赤眼の鴉は闇神ヴァイルハイネンの象徴。災厄の島に行かなくとも、彼に会えればもっと確実な手段を得られるかも、知れないが……。
「まぁ、闇神さまに会えるかなんて、それこそ運だし。運命の女神さまでも神々の行動までは制限できないからぼくの力もこれには無力だし。大人しく災厄の島へ行こうか。目的地は決まったね」
 それにしても、きみってすごいねとイルキスは不思議そうな顔。
「英雄の墓場の文字も読めたし、偶然にしろ闇神さまにも会えてるし。……きみって、本当に何者なんだい?」
「生憎と、自分ではわからなくてな」
 そう、ロアは苦笑いを浮かべた。
 こうして一日が過ぎていった。
 敗北はすれども決して諦めじ。フィラ・フィアの思いを継いで、前へ進むためにまた一歩。

【第五章 完】

Re: 魂込めのフィレル ( No.49 )
日時: 2019/09/04 08:55
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


【第六章 心の欠片をめぐる旅】


 翌朝。
「う……ん」
 大きく伸びをしてフィレルは目を覚ます。その回顔には疲れがあった。その顔には恐怖があった。
 声を聞き、フィレルの目覚めを知ったロアは、そっとフィレルの手を握ってやる。
「起きたか」
「うん……。怖い夢、見たの。すっごく怖い夢。血がいっぱい飛び散って、その中に——」
 フィレルは固く唇を噛み締めた。忘れろとロアは言う。
「それは確かにお前の経験した過去かもしれないが、今は忘れろ。少しずつ時がその傷を癒すまで、下手に意識にのぼらせない方がいい。悲しみの記憶は、トラウマの記憶は——人を、壊すから」
 言ってロアが頭を撫でると、フィレルは安心した顔をした。その顔にいつもの明るさが戻ってくる。
 病弱なファレルはあまりフィレルに構ってやれなかった。メイドのリフィアは積極的にフィレルに構ってくれたが、フィレルは同性の友達が欲しかった。そんな中でロアが来たのだ。フィレルはいつもロアを困らせロアに文句ばっかり言われていたが、ロアによく懐いていた。だからロアがいればフィレルは、心の平穏を取り戻すことができる。
 ファレルはいつもフィレルを第一に考えてくれていたけれど、隠していることもたくさんあるし、時に冷たい顔を見せることもあってフィレルは少し怖かった。が、ロアは謎めいた過去こそあるものの嘘は言わないし、その剣の腕は広い背中は、誰よりも頼りになった。
 ファレルの知略とロアの腕に守られながら、フィレルは悲しみを知らないで生きてきていた、はずだったのに。
 知った過去。心の底に沈めながらも、フィレルはロアの顔を見て笑顔を浮かべた。
 その笑顔を見てロアは複雑な顔をする。
「オレに頼るのもいいが、自分で立ち直れるようにしておけよ」
「ロアはいなくならないよね?」
「またそんなこと。当然に決まっているだろう」
 縋るようなフィレルを、ロアはあえて突き放す。実際、この先何事も起こらなかったとしても、ロアの方がフィレルよりも若干年上である。ロアの方が早く逝くのは自明の理なので、フィレルにはもう少し自分ひとりで何とかできるようになってほしいとロアは考えていた。
 そうだ、とフィレルがロアに問う。
「ええと、イルキスと、フィラ・フィアは? フラックは封じられたのぉ?」
「それが、な……」
 ロアはこれまでの経緯を説明した。フィレルは難しい顔で頷いた。
「イルキスは今、船を探してる。災厄の島へ向かう定期便なんてあるわけがないから、指運師の力で賭け事をして資金を集め、船を買って出発する予定らしい。でもあいつ、海には不安があるようだが……背に腹は代えられない。あいつが海関係で嫌な思い出があったとしても、行くしかないんだ。あいつは風の魔導士でもあるから、風の魔法を船の帆にぶつければ、割と簡単にたどり着けるのかも知れないな」
 こんな形で海を見ることになってしまったなとロアは苦笑いする。別にへーきだよとフィレルは笑う。
「海、海、初めての海だよっ! ねぇねぇ今さぁ時間ある? 僕、この港町の絵を描いてみたい! 旅の記念にいいかないいかな?」
 海、という言葉を聞いて、フィレルの目に活力が宿る。仕方ないなとロアは言い、フィレルのリュックサックを投げて寄越した。
「イルキスが戻ってきたらフィレルは絵を描きに行ったと伝えておく。ああ、トラブルを起こしたりトラブルに巻き込まれたりなんてことはするなよ? 後始末するのはいつもこっちなんだから」
「わかってるよぅ。じゃあ、行ってきまーっす!」
 うきうきとした足取りでフィレルは出ていった。
 ロアは彼の為に用意していた朝食の入った盆を手に途方に暮れた。
「昨日あんなに疲れたんだからせめて何か口にしてから出掛けろよ……」
 海、という単語を口にしたロアの失敗である。
 少し落ち込んでいたって、フィレルはイグニシィンの問題児であることに変わりはないのだった。

  ◇

Re: 魂込めのフィレル ( No.50 )
日時: 2019/09/06 08:04
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


 海を見るのは初めてだ。フィレルはきょろきょろしながら町を歩く。町の奥に見えた青色を不思議そうに眺め、そちらの方へと駆けだしていった。そして港の船着き場にたどり着き、わぁっと歓声を上げた。
「これが、海……! 川の行き着くところ!」
初めて見る海は青く美しく、フィレルの心を打った。
「坊主、海は初めてか?」
 そんなフィレルを見て、たくましい体格の男が声を掛けてきた。擦り切れてボロボロになったシャツとズボン、同じような革のサンダル。頭には青いバンダナを巻いていたが、それもまたボロボロになっていた。男が腰にさげた短いナイフは年季の入った代物のようにも見えた。
 男は歯を見せてニッと笑う。
「海はいいぞぅ。海は男の浪漫だ。お前さんはこのどこまでも続く海の向こうに、見知らぬ島が見えた時の感動やワクワク感を知らないだろう。海は時に荒れて人の命を奪うが、海は生き物さ、怒りに打ち震えることもあるだろう。それでも俺たち船乗りは海に出ることをやめない。だって俺たちは知っているんだから、な!」
 海の向こうに広がる、新たな世界を、と男は誇らしげに胸を張りながらも言った。
 フィレルは目を輝かせて話を聞いていた。
「海ってすごいんだねっ! 僕さ、大陸の内側から来たの。だからこれまで海なんて見たことなかったんだけど……今、すっごく感動してる。この世界って、広いんだ。まだ僕の知らないものなんて星の数ほどあるんだね」
「海へ出れば、もっと見ることができるぞ。一日中太陽の沈まない日、逆に一日中太陽の昇らない日。ああ、そして海を泳ぐ様々な生き物や……海に沈んでいく夕日なんて、美しいなんて言葉じゃあ表せないぜ」
 いつか描いてみたいなぁ、とフィレルが言うと、絵描きなのかと訊いてくる。
 うん、とフィレルは頷き、旅の日々の中で茶色く変色してしまったエプロンをつまんでみせた。
「僕はある領主さまの弟なの。そこで僕はとんでもないことやらかしちゃって、その償いのために旅に出ているの。でも、本業は絵描きだし、綺麗なものを描きたいって気持ちはそのまんまなんだ。僕、仲間に海を描きたいって言って宿を飛び出してここに来たの」
 そこでようやく思い出したのか、フィレルのお腹がぐぅーっと音を立てた。それでやっと空腹に気付き、ふっと力が抜けてフィレルはそのままぺたんと座り込んでしまった。昨日、あれほど疲れたのにまだ何も口にしていないのだ、そうなるのも当然と言えた。
 おいおい大丈夫かと、男はフィレルの顔を覗き込んだ。
「今日は船出の予定なんてないしな。良かったらうちに来るか? 美味しい魚とか御馳走してやるよ」
「え、本当? わーい!」
 フィレルは目を輝かせて喜ぶが、一度疲れを意識してしまうと、どうにも立ち上がれなくなった。必死で立とうと動くフィレルを見、男は呆れた顔をした。
「芸術家の坊主よ、何かに夢中になるのはいいが、自分の身体の心配くらいしないと駄目だぞ?」
 言ってフィレルの身体を背負いあげ、「軽いな」と呟いた。
「まだ若いんだからしっかり食っとかないと大人になった時苦労するぞ? 家まで連れてってやるよ。まずは腹ごしらえで、海を描きたきゃあその後で描きゃあいいんだ」
 こうしてフィレルは男の家に行くことになったのだった。

  ◇

Re: 魂込めのフィレル ( No.51 )
日時: 2019/09/08 08:35
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


 魚の香草焼き、魚介類のダシで作ったスープに塩パン。
 男は家に着くとフィレルを椅子に座らせて、しばらくしてからそれらの料理を盆に載せて持ってきた。
 石造りの家はフィレルの予想したものとは違っていた。フィレルはもっと、船に関係する船乗り独特のものが置いてあるかと思っていたのだが、中は普通の家のようだった。
「ほら、食いな。港町ならではの魚料理だぜ。簡単なものだが元気になれる」
 にやりと笑った男。フィレルはありがとうと礼を言って、ナイフとフォークを手に取った。
 魚の香草焼きを一口食べた途端、溢れる笑顔。香草の香りが魚の臭みを討ち消して、良いアクセントになっている。魚の旨みがフィレルの口の中に広がった。
「うまいか?」
 そんなフィレルを見、男は問うた。
 うんっ! とフィレルは元気よく頷いた。
「おいしい、おいしいよっ! 魚ってあんまり食べたことないんだけれどおいしいんだねぇ!」
「港で獲れる魚は鮮度が違う。そう言ってもらえて何よりだぜ」
「このスープも……おいしいっ!」
「そりゃあ良かった」
 フィレルは貴族の端くれだが、イグニシィンの家は落ちぶれた。贅沢なんてさせてもらえないから、フィレルは食べ物を描き、それを実体化させて食べて空腹を凌いでいた時期もあった。でもそれは空気を食べるような感じがして、あまり満足できなかった。でも贅沢を言うわけにはいかなかった。フィレルが贅沢を言ったら、きっと心優しいファレルは「僕は小食だから」なんて言って、フィレルに自分のご飯を分けてしまうだろう。ただでさえ身体の弱い兄に、そんなことさせるわけにはいかなかった。
 出された料理を夢中で食べるフィレルを見、お前も苦労しているんだなぁと男は呟いた。
「んーとね、僕の家貧乏なんだー。領主さまの弟って言ったって、お金持ちってわけじゃあないんだよぅ」
 何でもないことのようにフィレルは返す。
 やがて全て食べ終わり、男に満面の笑みを浮かべた。
「おいしいご飯、御馳走様でしたっ! ありがとねー、元気になった!」
 はい、お礼、と言って、フィレルは男の手に何かを押しつけた。
「これは……?」
「似顔絵! ご飯作ってくれてる間に描いたんだ。良かったらどーぞ!」
 フィレルはにっこりと笑った。
 紙に炭で描かれたらしいそれは当然ながらモノクロだったが、まだ出会ってから大した時間も過ぎていない相手を描いたにしてはうま過ぎた。フィレルの絵の腕は本物なのである。
「ありがとねー! じゃあそろそろ僕、行かなくちゃ!」
 フィレルは海を描きたかったが、ロアやイルキスのことを思い出して我慢する。
 それに今後も描く機会があるかもしれないし、気にしないことにしたのだ。
 またね、と声を掛けて元気よく去っていったフィレルを見、男はぽつりと呟いた。
「……結局、名乗り忘れちまったじゃねぇかよ」
 モノクロの絵を抱き締めながら、元気でなと言葉を投げた。

  ◇


Page:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16



小説をトップへ上げる
題名 *必須


名前 *必須


作家プロフィールURL (登録はこちら


パスワード *必須
(記事編集時に使用)

本文(最大 7000 文字まで)*必須

現在、0文字入力(半角/全角/スペースも1文字にカウントします)


名前とパスワードを記憶する
※記憶したものと異なるPCを使用した際には、名前とパスワードは呼び出しされません。