幻想終着点 [ inzm11/BSR ]
作者/ 桃李 ◆J2083ZfAr.

知ることのない世界の話
「……葵、か」
噛み締めるように繰り返されたその名は、確かに私のものだった。けれど、円堂監督の目は、何かを懐かしむような目だったから、何て言えばいいのかわからなかった。でも、とりあえず微笑んでおくことが善良なのだということは、私を見つめているようで、どこか遠くを眺めている監督から察することは、いとも容易い話で。
「あの、私の名前、おかしいですか?」
無意識だったのか、へ? と間抜けな声を発した監督。本当の本当に、自覚無しだったのね。特に意味も無く笑ってみれば、悪い悪いと監督は繰り返した。その眼差しは、どこか優しい。
「葵って確かに在り来たりですけど、」
私、自分の名前気に入ってるんですよ。ほんの少し、頬を膨らませ、不機嫌そうな声色を紡ぎ出せば。監督がだからごめんって! と焦ったような声を出すのは知っている。
監督は葵という名に、何か思い入れがあるんだろうか。そんな疑問も浮かんだが、少し違う気もして。あれは、終わった恋を想う色の瞳じゃなかった。何か、こう、言葉にできない感じ。でも、大切な響きなんだろう。
私があんまり不思議そうな顔をしていたからか、監督は観念したように笑った。別に怒ってるとかそんな訳じゃないのになあもう。
「……昔、お前と同じ名前のヤツがいたんだよ」
ぽろりと落とされた言葉は、あまりにも切なげで。いつも明るい監督が、そんな表情をするなんて予想外だった。そのせいで言葉に詰まる。
「意地っ張りで、強がりで、無茶ばっかりで」
楽しそうに、愉しそうに。監督は無邪気な子供の如く、彼女のことを語る。
「素直じゃなくて、仲間大好きで、あったかくて」
嬉しそうに、幸せそうに。まるであの頃が一番好きだったとでも言うように、彼女のことを想う。
「寂しがり屋で、泣き虫で、甘え下手で」
サッカーが支配されたこの時代を、“円堂監督”と呼ばれるすべての瞬間を、忘れてしまったかのように。自分の人生で一番輝いていた時間を懐かしむように。
私は、監督の全てを知っている訳では無い。つい最近、部活の監督とマネージャーという関係になったばかりだ。それもあるけど、どんなに親しくなったとしても、私は“円堂守”を育てたその時代に生きることはできない。
嗚呼、なんて悔しいのだろう。
嗚呼、なんて憎いのだろう。
私と同じ名前なのに、私と同じ女の子なのに、私と同じ立ち位置なのに。
「――それで、そいつの名前はな、」
彼女は、監督の素晴らしい世界の中で生き続けることができるのだ。

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