社会問題小説・評論板

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大好きで大嫌い
日時: 2023/05/10 23:57
名前: たなか (ID: 3Mpht8EV)
プロフ: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=12904

平和に生きているつもりでも、過去は変わらない。


あの夜の恐怖と不快感は、簡単に思い出すことができる。


少しずつ僕の身を蝕んでいった障害も、今では手をつけられないほどに膨らんでいる。




こいつがそんなことしない。




あいつもその気は無い。




そんなこと思ったって無駄。


何も変わらない。


きっと変えられない。


記憶なんか無くならない。


無くなったらそれは僕じゃない。


でも、こんな記憶を抱えてまともに生きていけるはずがない。


どうしたらいいのか、自分にも分からない。


ただ僕にできるのは、誰にも触れられないようにするだけ。


なるべく相手の印象に残らないように、地味に生きるだけ。


大好きな人も、大切な人も、傷付けないように関係を消滅させていく。


傷付けないように、記憶に残さないように。


僕なんかいない方がましだ。


僕に優しくしてくれる人の期待に応えられないなんて。


いない方がましだよ。


さっさと消えろよ、とっくに穢れた命だ。


得意だろ、人の記憶に残らないことなんて。


大得意だろ、いつもそうやって生きてんだろ。







誰かのせいで、縮こまって生きてんだろ。

Re: 大好きで大嫌い ( No.68 )
日時: 2022/05/21 09:20
名前: たなか (ID: 5ROqhRB3)

*




山下さんのお母さんが落ち着いてきた頃を見計らって、僕は口を開いた。

「あの……山下さんの遺書って、見せて貰えますか?」

ふと思い出したように、山下さんのお父さんがズボンのポケットに手をやる。

中から出てきたのは、几帳面に折りたたまれた、想像よりも小さな紙だった。

大事そうに渡されたそれを、ゆっくりと開く。

壁の付箋が揺れる。

「としょしつで会ったあの日から好きだったのに、なんでいなくなっちゃったんですか。ずっと心の支えだったのに。もうたえられないから、私はしにます。みんなげんきでね。雫月くん、さようなら」

付箋は、揺れ続けていた。

かさかさ、かさかさ。

ひっきりなしに、音が聞こえる。

息ができない。

上手く、上手く息が吸えない。


私はしにます。


どこか幼さを感じるような、飾ることを知らない言葉。

心臓が痺れる。


「次、私が借りてもいいですか?」


皮膚を刺すような冷たい空気の中、少女の声が鼓膜を揺らす。


「お前が凪紗を殺したんだ」


つい先程吐かれた声が、鼓膜を揺らす。

あぁ。




そうかもしれない。




紙を持ったまま随分長いこと固まってしまった僕を心配するように、山下さんのお父さんが口を開いた。

「……大丈夫?」

「……はい」

明らかに大丈夫ではなさそうな、震えた声で返す。

頼りない指先でつまんだ紙を、山下さんのお父さんに差し出した。

「僕、山下さんと話したことあります」

そう告げると、2人が息を飲む音がした。

「今思い出しました。去年の冬、図書室で話したんです。山下さんが、僕が返そうとしてた本を借りたがってて。次、私が借りていいですか? って……でも、それ以外は話したことないです」

妙な緊張と恐怖からか、早口でそうまくし立てる。

「そう……凪紗は惚れっぽい子だから、仕方ないのかもしれない。『雫月くん』の話だってよく聞いてたんです。バスケ部のマネージャーで、マネージャーなのにバスケがすごく上手なんだって。勉強もできてすごいんだよーって」

柔らかく微笑んで、山下さんのお母さんが言った。

知らなかった。

あの時話した子が山下さんで、あの時から山下さんは僕を気にかけていた。

それに僕が気付けていたら、彼女の人生は変わっただろうか。

意味の無い後悔が、積もっていく。

2人が帰り、勉強を再開できるような状況になっても、シャーペンを持つことすら出来ない。

2人には見せまいと必死で我慢していた感情が、激しく押し寄せた。

心臓が酷く痺れる。

これで2回目だ。

たった10数年の人生の中で、僕は既に2回も引き金を引いた。

ふと、思い出す。



私はしにます。

雫月くん、さようなら



しにます。

雫月くん



し、死

しずく、雫



6画と、11画。

書きやすいのは、どっちだ。

焦ってても簡単にかけるのは、どっちだ。

より綺麗に書けるのは、どっちだ。

どっちだ。



分からないと、嘘をつきたかった。

Re: 大好きで大嫌い ( No.69 )
日時: 2022/10/23 09:31
名前: たなか (ID: U94d6Dmr)

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火曜日の朝。

足音で目が覚める。

階段から、母親の声がした。

「蒼真、そろそろ起きな。もう7時半すぎてるよ?」

7時半、という響きに一瞬焦るが、母親はよく7時半という時間をいいように利用してきた。

7時半だと言われて時計を見たら7時だったなんてことは幾度となくある。

慌てて1階に降りたら呑気に音楽を聴いていたことも。

今回もどうせそうなんだろう。

遠ざかる足音を聞き流しながら、まだぼんやりとしている目を擦り、机の上のデジタル時計を凝視してみる。

08:47 Tue



学校に着いたのは9時半過ぎ、1時間目が終わった頃だった。

職員室に寄り、平謝りをしてから教室へ向かう。

未だに大笑いすることすらままならないような雰囲気が残る他クラスの教室を眺めながら、自分のクラスへと近づいていく。

聞こえてきたのは、話し声でも足音でも、はたまた笑い声でもなかった。

机が倒れる音、女子の悲鳴、男子数人の怒声。

胸騒ぎがして、そっと教室をのぞき込む。

女子は壁の近くに、男子は教室中央に集まっていて、教室中央あたりの机が倒れていた。

大人数がひとかたまりになっているせいで、何が起こっているのか分からない。

適当な机に鞄を置いて、近くの女子に少し状況を聞こうとしたときだった。

「おい、やめろ田嶋!」

ひとりの男子が、そう叫ぶ。

田嶋。

その名前を聞いた瞬間、何となく事情を把握できた気がして、教室中央に歩を進めた。

人垣の1番後ろにいる男子の肩を叩くと、振り向いたそいつがハッとした顔で道を開ける。

中央にいるのは、予想通り大和だった。

馬乗りになって柊太の胸倉を両手でつかみ、何かを言っていた。

何人かの手が大和の腕に手をかけて、動きを制御しようとしている。

俺の存在には、まだ気づいていないようだ。

柊太が、少しにやけて口を開く。

周囲が騒がしくて聞こえなかったが、その言葉が大和の刺激になったことは分かった。

大和が右の拳を振り上げる。

右腕を掴んで動きを止めると、その時初めて大和が振り返り、俺の顔を見た。

口が、「やめろ」と言いかけたまま止まる。

見たことも無いほど鋭かった眼光が徐々に消え、腕の力が抜けていく。

「……蒼真」

小さく震えた声が聞こえた。

大和の腕を掴んでいた手が離れ、柊太が上体を起こす。

「ありがと」

少しにやついた柊太を見て、俺は思わず口を開いてしまう。

「悪いけど、今回はお前の味方じゃないからな」

立ち上がろうとした柊太が俺を見据えた。

攻撃性が潜んだ、座った目で。

「は?」

「大和は滅多に怒らない」

俺も柊太も手を引くことなく、数秒間睨み合いが続く。

ピリついた空気の中で、柊太の舌打ちだけが鼓膜を揺らした。

「なんだよ、結局お前もあいつの味方なんだな」

俺の手を弾いて柊太は立ち上がり、理科の教材を持って教室を出ていった。

少し俺を気にするような素振りで同じようにしてクラスメイトが教室を出ていき、最終的に大和と俺だけ残される。

大和は最初の位置からほぼ変わらないところで膝を抱えて蹲っていた。

「……大和」

「ごめん」

予想外の言葉が、大和の震えた声にのせられて空気を揺らす。

「なんでお前が謝んだよ」

「俺のせいでお前があいつから嫌われた……あいつだけじゃない。あいつの取り巻きの奴らだってもうお前を避けるかもしれない」

「いいよあんな奴ら」

「よくないだろ。俺はずっと羨ましかったんだよ」

「……一緒にいたって楽しくなかった。俺は嘘つきだから、楽しくなくたって笑えるだけだ」

初めて漏れた本音に、大和が顔を上げた。

じっと俺を見て、瞬きをする。

「いいよ。俺には雫月とお前だけで充分だから」

俺を見る大和がどこか心配そうだったから、また初めて、本音を漏らす。

俺もだよ、と大和が笑って呟いた。

どうして喧嘩をしていたのか聞けないまま、始業のチャイムが鳴ってしまった。

Re: 大好きで大嫌い ( No.70 )
日時: 2022/10/23 11:41
名前: たなか (ID: U94d6Dmr)

2時間目の理科が終わり、3時間目の現国が終わり、4時間目の数学が終わり、昼休みが始まった。

案の定、蒼真と柊太、そしてその取り巻きたちは今回の件で完全に仲違いしてしまったらしく、蒼真はずっと俺と一緒にいた。

でもそれを気にしてるのは俺だけで、当の本人は今までよりもすっきりとした様子で過ごしている。

これで良かったのか。

休み時間に他愛もない会話で大笑いできるような友達があまりできない俺にとって、蒼真と柊太たちの関係性は少し羨ましいものだった。

その関係性が、たった一瞬で崩れてしまうなんて。



一緒にいたって楽しくなかった。



今も耳にこびりついて離れないのは、聞いたことがないほど冷めた、蒼真の声だった。

初めて蒼真が本音を話した気がして、嬉しいと同時に辛くなる。

幸せじゃなくたって、無理をしていたって、上手くやれば幸せそうに見えてしまう。

嘘なんていくらでもつけるのだ。

少し苦しくなって、弁当を食べ終わってからすぐに教室を出た。

向かう先は、人気のない場所ーーー音楽室なら誰もいないだろう。

空中廊下を渡って南校舎に入り、階段を登る。

普通教室が多く集まる北校舎よりも静かで、空気が冷たい。

音楽室に足を踏み入れて、ピアノの椅子に腰を下ろした。

丁度1年ほど前、音楽の授業でひとりひとりピアノを弾かされたことを思い出す。

芸術科目で音楽を選択したクラスだったからピアノを弾ける人が多くて、肩身が狭かったことも。

たまたま家にアップライトピアノがあったから少しは練習できたけど、それがなかったら何も弾けなかっただろう。

ひとり2曲は弾かないといけなかったから、俺はどちらも童謡を選んだ。

通りゃんせとずいずいずっころばし。

短調であればたとえ童謡でもある程度は様になる、という言い訳めいた持論で臨んだら本当に様になってしまい、音楽の先生から「童謡マスター」と呼ばれた。

雫月が弾いていたのは、どちらもしっかりとしたクラシックの曲だった。

曲名こそ忘れてしまったが、小綺麗でさっぱりとした印象のものではなく、少し攻撃性を感じるような、予想外の曲。

雫月の細い腕に初めて筋肉を感じた瞬間だった。

弾き終わったあと、いつからピアノを習っているのかと聞かれて、困ったような笑顔で「親が教えてくれるんです」と返していた。

その笑顔と演奏中の雰囲気が結びつかず、少し恐ろしかったことも覚えている。

鍵盤に指をおいて、そっと押してみた。

抵抗のあと、柔らかく澄んだ音が小さな部屋に充満する。

音が消えていくまでの時間が、長いものに感じられた。

「童謡マスターの登場か?」

入口の方から誰かの声がする。

「......柊太」

柊太がひとりで、こちらに向かって歩いてくる。

ピアノの直ぐ側にある机に腰を掛けて、俺の目を見た。

人なつっこさを感じさせるような猫目。

「悪かった」

あまりにもあっさりと告げられたその言葉に、思わず拍子抜けする。

「たしかに俺は大島が苦手だよ。でもあれは違うよな......わかってたんだけどさ」

俺から目をそらして、少しうつむく。



山下凪紗が自殺したのは、大島雫月のせい。



そんな噂が流れ始めたのは、つい先週のこと。

今日俺と柊太が喧嘩をしたのも、その噂が要因となっていた。

「あと、蒼真のことだけどさ」

さっきよりもどことなく明るくなった声で、柊太が話し始める。

「多分俺、これからあんまり関わらないから。頼んだわ」

これもまた拍子抜けするほどあっさりと、友情の終わりが告げられた。

よほど俺が怪訝そうな顔をしていたのか、柊太は笑いながら口を開く。

「俺だって別に馬鹿じゃないからさ、うっすら思ってはいたんだよね。あいつ、お前とか大島雫月とかと一緒にいるときのほうが楽しそうだなって」

ここまで聞いてようやく、柊太の明るい声が作られたものだということに気が付いた。

勢いで乗り切ろうとしているのだろうか。

「丁度いいタイミングだし、良い具合に嫌われただろうし、今しかないかなって思って。だってあいつ、昨日より今日の方が楽しそうだよ。お前は気づいてないかもしれないけどさ。やっぱ数より質だよな。思い知ったわ。俺も......」

声が不意に途切れる。

あぁ、だめだったか。

「俺も、いつかそうなりたいよ」

聞こえるかどうかくらいの声量でつぶやく。

なにか返事をしようと口を開いた瞬間、始業5分前のチャイムがなった。

「じゃあ、俺先に教室戻るわ。じゃあな」

ぱっと笑って机から降りた柊太は、音楽室をあとにした。

聞いている方が辛くなるようなマシンガントークと、白鍵に指をおいたままの俺を残して。

Re: 大好きで大嫌い ( No.71 )
日時: 2022/12/28 13:18
名前: たなか (ID: U94d6Dmr)

蒸し暑かった空気は少しずつ冷たさを孕む。

いつの間にか高校2度目の体育祭が始まっていた。

ぎりぎりリレーメンバーに選ばれてしまった俺はくじ運も無いらしく、最初の練習で見事アンカーを引き当てた。

もちろん拒否権は無いため泣く泣く練習を続け、順番変更も行われないまま今日に至る。

あの時もう少し右の割り箸を選んでいたら。

あの時もっと手を抜いて走っていたら。

後悔するが時間が戻るはずもなく、第一走者が走り始める。

あぁ。

やけに緊張する。

今まで何度かメンバーに選ばれてはいたけど、今年は何かがおかしい。

何がおかしい?

練習はしてきた。

3日前の練習もスムーズにできたし、記録も更新した。

大丈夫、大丈夫だ。

たかが学校の体育祭で自分を元気づけることになるとは思わなかった。

くだらない。

熱くなった脳みそを無理矢理冷まして、トラックへと向かう。

俺がこのまま誰にも抜かされず、誰も抜かず走り切れば3位。

特別良い訳では無いが、誰にも責められはしない記録なのではないだろうか。

3位でいい。

4位でも別にいい。

指先の震えに気が付かないまま手を後ろに伸ばし、バトンが指先に触れるまでゆるゆると走る。

バトンを受け取って、今度はしっかりと走り出す。

抜かされないよう、抜かさないよう。

目標通りに淡々と走り続け、半分まで走りきった頃だった。

すぐ後ろから走ってきた走者の足が、俺の足に当たる。

絡まる、と言うほど大きなものではなく、ただ、当たった。

普段なら少し体勢を崩すだけなのに、今日は駄目だった。

地面に吸い込まれるようにして倒れ込む。

俺を抜かした走者は、何事も無かったかのように走り続けていた。

音がしない。

聞こえない。

何故だろうか、足に力が入らない。

息ができている気がしない。

走者がひとり、俺の横を駆け抜ける。

そいつは恐ろしい速さで、転んだまま立ち上がらない俺を気にする素振りも見せないまま走り続ける。

その背中が、誰かに似ている、気がした。


誰か。


雫月。


雫月。


それ以外、誰がいるだろう。

あぁ、そうだ。

あいつは足が速かった。

俺じゃなければよかったのだ。

俺じゃなければ。

あいつなら、あいつならすぐに立ち上がれたはずだ。

もっと速く走って、すぐ後ろに他の走者なんかいなくて。

もっと、もっと上手くいったはずなのに。

俺じゃなければ。

教えてくれ雫月。

お前ならどうする。

どうするんだよ、教えろよ。

今すぐここで、俺の目の前で教えろよ。

立ち上がらせてくれ。

助けてくれ。

俺は、俺はただお前みたいに、



「大和、走れ」



耳元で声が聞こえた。

雫月じゃない。

蒼真だった。

「立て、走れ。俺より速く」

第二走者としてとっくに走り終えたはずの蒼真が、俺の腕を掴む。

不思議と足に力が入って、ふわりと立ち上がった。

蒼真が走り出す。

雫月じゃない、蒼真の背中が見えた。

膝と肘から血が流れているのを感じながら、もう一度走り出した。

蒼真を抜かす。

俺がゴールした瞬間、2年のクラス対抗リレーは終わった。

膝に手をついて、息を落ち着かせる。

「平気か、大和」

蒼真が俺の顔をのぞきこんで、眉間に皺を寄せる。

泣いていた。

目の前が滲んでいた。

馬鹿みたいだと、頭のどこかで思う。

「俺じゃなければ」

思わず口をついて出る。

「は?」

「俺じゃなければよかったんだ」

蒼真の肩を掴んで揺さぶりながら、何度も何度も、それこそ馬鹿みたいに訴えた。


俺は雫月みたいになりたかったんだ、と。


情緒不安定で頭がおかしいのは自分でも分かっていた。

それなのに言葉が、涙が止まらなくて、周囲の喧騒は耳に入らない。

不意に蒼真の端正な顔が歪む。

俺の後頭部に手を置いて、そっと引き寄せた。

されるがままに蒼真の胸板に額をつける。

雫月みたいになりたかった。

足の速さだけじゃない。

立ち上がる早さだけじゃない。

頭の良さだけじゃない。

優しさだけじゃない。

強さだけじゃない。

弱さだけじゃない。

俺の全部がそのまま雫月になればいいのに。

俺はいなくなればいいのに。

足は速くないし転んだら立ち上がれないし、頭も良くないし優しくないし、強くないし弱くもない。

いなくなればいい。

いなくなれ、いなくなれ。

ぼたぼたと涙は溢れて、早く顔を上げたいのに上げられなかった。

確かに俺は雫月が好きだ。

何よりも好きで、大切だ。

だけどそれと同じくらいに、妬ましい存在で。

雫月といると自分の人間性が劣っていることを感じさせられるような、そんな気がしていた。

苦しかった。

段々と涙腺が冷静になってきて、周囲の声も聞こえ始めた。

それでもまだぼんやりとした頭で、誰かに向かってつぶやく。



雫月みたいになれなくてごめん。



それは口に出してしまったのか出していないのか分からないけど、蒼真は俺から手を離して口を開いた。

「……俺だって、雫月みたいになりたいよ」



雫月みたいな、笑顔だった。

Re: 大好きで大嫌い ( No.72 )
日時: 2023/03/19 00:42
名前: たなか (ID: 3Mpht8EV)

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淡々と、それでも他の奴らに劣らない速度で走り続けていた大和が体勢を崩す。

なにか様子がおかしいとは思っていた。

どことなく空虚な目と、声をかけた時の反応の遅さ。

意識が違うところに向かっているのには気付いていた。

ただ、それがどこなのかは分からない。

体勢を崩した大和を置いて、何人かが走りすぎていく。

大和は地面に手のひらをついたまま動かない。

応援席が少しざわつき始める。

「大丈夫か」と心配する声と「大袈裟だな」と嘲笑する声が混ざり合う。

「……大丈夫か、あいつ」

俺のすぐ後ろで声がして、振り向くと柊太だった。

誰かに向けて言った言葉では無いようで、俺が振り向いたことにも気付いていない。

視線を大和に戻す。

……大丈夫か。

丁度トラックの反対側で様子が分からない。

応援席に目を向ける。

プログラムをめくる誰かの母親、撮ったビデオを覗き込む誰かの父親。

俺の視線を奪ったのは、その奥の人物だった。

明らかに場違いな存在感。

大きな瞳が俺を捉えて、少し目を伏せる。

やけに大人びたその仕草は年不相応で、俺が知らないものだった。

もう一度、目が合う。

次はそらすことなく、じっと俺を見据える。

そいつの声が、聞こえるような気がした。



今、大和を助けられるのは僕じゃない。



今、大和を助けられるのは誰だろうか。

すぐ答えが見つかるような問いを頭の中で繰り返しながら、脚はそれより速く動いていた。

未だ全く動かない大和のそばにしゃがみこみ、口を開く。

「大和、走れ」

光の無い瞳が俺を捉えた。

腕を掴みながら立ち上がる。

「立て、走れ。俺より速く」

腕から手を離して、大和が丁度追い抜けるようなスピードで走り出す。

ゴールの10mほど手前で大和が俺を抜かした。

俺よりほんの少しだけ小さな背中が、どんどん遠ざかっていく。

俺は誰だ。

俺は誰なんだ。

幼い頃から何度も考えていた。

社会にうまく溶け込むこと以外に大切なことは無くて、自分が何者なのか、分からないまま生きてきた。

他人の真似事をしないと人と話せない。

心の中は日に日にどす黒く腐っていく。

その感覚が少し薄れたのは、丁度1年ほど前。

やっと息ができる。

そう思った。

俺に呼吸をさせてくれたそいつがいなくなって、何もかもがうまくいかないような感覚を、ずっと抱えて。

最下位でゴールした大和の背中を見つめる。

真似はもうしなくていい。

今ここにいるべきは、他の誰でもなく、俺だった。

俺だけだった。

そうだよな。

応援席の少し奥―――雫月が先程までいた場所に目を向ける。

そこにはもう、誰もいなかった。


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