社会問題小説・評論板
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- 大好きで大嫌い
- 日時: 2023/05/10 23:57
- 名前: たなか (ID: 3Mpht8EV)
- プロフ: https://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=12904
平和に生きているつもりでも、過去は変わらない。
あの夜の恐怖と不快感は、簡単に思い出すことができる。
少しずつ僕の身を蝕んでいった障害も、今では手をつけられないほどに膨らんでいる。
こいつがそんなことしない。
あいつもその気は無い。
そんなこと思ったって無駄。
何も変わらない。
きっと変えられない。
記憶なんか無くならない。
無くなったらそれは僕じゃない。
でも、こんな記憶を抱えてまともに生きていけるはずがない。
どうしたらいいのか、自分にも分からない。
ただ僕にできるのは、誰にも触れられないようにするだけ。
なるべく相手の印象に残らないように、地味に生きるだけ。
大好きな人も、大切な人も、傷付けないように関係を消滅させていく。
傷付けないように、記憶に残さないように。
僕なんかいない方がましだ。
僕に優しくしてくれる人の期待に応えられないなんて。
いない方がましだよ。
さっさと消えろよ、とっくに穢れた命だ。
得意だろ、人の記憶に残らないことなんて。
大得意だろ、いつもそうやって生きてんだろ。
誰かのせいで、縮こまって生きてんだろ。
- Re: 大好きで大嫌い ( No.38 )
- 日時: 2020/07/31 13:52
- 名前: たなか (ID: 5ROqhRB3)
*
学校が終わり、急いで家に帰っていると、何故かお母さんのことを思い出した。
なんでかは分からない。
ただ、いい思い出じゃないことは確かだった。
中学生の時、家に帰るとお母さんがキッチンの床に座っていた。
お母さんの顔を見て「ただいま」と言おうとして、やっと異変に気がついた。
ナイフを、手首の内側に向けて持っていた。
何してるの、思わずそう呟くと、お母さんは僕を見ないままで吐き捨てるように言った。
「お父さんね……お母さんじゃない女の人が好きなんだってさ。お母さんはもういらないんだってさ……」
お母さんとお父さんは仲がいいと思い込んでいた僕は、混乱した。
何故、同じ家にいて気付けなかったのか。
情けなかった。
とりあえずお母さんの手からナイフを取ろうとすると、突き飛ばされた。
「危ないから離れなさい!!」
そう言って。
……馬鹿なのか。
危ないのはお母さんの方でしょ。
場違いな程に冷静な思考でもう一度お母さんに近付き、ナイフに手を伸ばした時だった。
「離れなさいって……!!」
そう言って今度はさっきよりも強く僕を突き飛ばす。
……ナイフを持つ手も使って。
運悪くナイフの刃は僕の腹部に刺さった。
服が赤黒く濡れていくのを、客観的に眺めていた。
痛みはあった。
ただ、状況が上手く飲み込めなかった。
「……ごめんね、雫月……お母さんなんて早く居なくならないとダメだよね、ごめんね……」
泣きながらお母さんがそう言った。
なわけないじゃん。
助けようとしてるんだから、ちゃんと助かってくれることが何より嬉しいのに。
お母さんは、僕が上手く動けない間に自分の手首を刺した。
何度も。
白いフローリングの床に赤黒い血が広がっていくのが綺麗で、僕には助けられないと理解した瞬間からはただそれを見つめていた。
諦めていた。
……最低だ。
お母さんは、色んな人に傷付けられた。
お父さん、「お母さんじゃない女の人」、僕。
でも、生きて欲しかった。
まだここにいて欲しかった。
誰でもいいから相談して、対応して欲しかった。
……今の僕にも上手くできないことだけど。
お母さんがいなくなったあと、何度も自分を責めた。
お父さんの不倫に気づかなかった事。
お母さんを助けなかった事。
何度も死のうと思った。
でも、おじさんと暮らし始めた瞬間からはそんなのどうでもよくなった。
何をしても上手くいかないなら、何も考えなければいいんだ。
怖いけど、気持ち悪いけど、そう思うことで少し楽になった気がした。
先生が居なくなってからは元通り。
一度幸せを知ってしまった脳は、不幸を受け付けなかった。
でも、今回は自分を責めることでなんとか苦しまずに済んでいる。
……これ以上は考えない方がいいかな。
とりあえず今は早くバイトに行かないと。
そう思って家のドアを開ける。
あたりまえだけど、誰もいなかった。
手首を刺そうとしているお母さんも、僕の帰りをただ待ち受けるおじさんも、あまり美味しくないご飯を作っている先生も。
誰かいてくれよ。
「おかえり」って言ってよ。
「ただいま」って言わせてよ。
……もう一回、「ただいま」を聞かせてよ。
お母さんに、謝らなきゃ。
不意にそんな思考に襲われる。
僕が見殺しにした。
手を差し伸べ無かった。
助けようとしなかった。
諦めた。
謝らなきゃ。
謝らなきゃ。
ほとんど衝動的に、キッチンのナイフを手に取る。
あの時のお母さんと同じように床に座って、手首の内側に向けてナイフを持った。
手が震える。
なんだよ、意気地無し。
やっぱり何も出来ないじゃないか。
そう思いながら怒りに任せてナイフを振り上げる。
「……俺は好きだけど」
振り下ろそうとした瞬間、記憶の中で大和が呟いた。
僕がずっと嫌っていた名前だった。
女の子みたいだし、読みにくい。
それを褒めてくれた。
……それだけだ。
なのに、その声と同時にあることを思い出した。
名前の意味だ。
滴り続けて石に穴を開ける雫のように我慢強く、夜を照らす月のように優しく。
ナイフが手から離れる。
それは運良く床に落ち、僕の体には当たらなかった。
我慢強く、優しく。
……できてない。
できてない。
我慢強くない、優しくない。
もっとちゃんとしなきゃ。
胸張って死ねるようにならなきゃ。
お母さんと先生に怒られないように生きなきゃ。
……先生……。
僕のせいじゃない。
自分の首を絞めるのはもう嫌だ。
ちゃんと受け入れなきゃ。
でも……壊れる。
壊れる。
潰れる。
なんでみんないなくなるんだよ。
なんでみんな離れるんだよ。
……ただいまって、聞かせてよ。
数ヶ月ぶりに溢れそうになる涙を堪えながら蹲る。
泣きたかった。
でも、泣くのが怖かった。
背後のドアが、カチャリと音を立てて開く。
鍵を閉め忘れていた。
慌てて後ろを向く。
そこに居たのは、大和だった。
- Re: 大好きで大嫌い ( No.39 )
- 日時: 2020/07/17 20:27
- 名前: たなか (ID: 5ROqhRB3)
放課後、なるべく急いで雫月の家に行く。
でも何度か見失って少し遅れてしまった。
雫月もそろそろバイトに出る頃になったかもしれない。
……まぁ、聞くだけ聞こう。
急いでる時にしつこく聞かれると本音がこぼれるかもしれないし。
ちょっと卑怯だけど。
そう思いながら雫月の部屋の前まで行く。
インターホンを鳴らしたけど、反応は無い。
中から音もしなかったから、もしかしたら鳴ってないのかも。
何気なくドアノブに手をかけ、下ろす。
ドアは普通に開いた。
あ、やべぇ、勝手に開けちゃった。
少し焦りつつもドアを開ける。
雫月は、こっち側に背を向けて、キッチンの床に座っていた。
驚いたように振り向く。
大きな目に、溢れだしそうなほどの涙が溜まっていた。
思わず「え」と声を出してしまう。
雫月は自分の涙を隠すように少し俯いて、笑った。
「どうしたの?」
声が震えている。
よく見ると、雫月の膝の近くにナイフが落ちていた。
汚れていない、綺麗な状態のナイフだ。
なんとなく状況を察して、何も言わずに部屋に上がる。
雫月の近くまで歩いていってナイフを拾い、シンクに置いた。
「やめろよ」
独り善がりに聞こえないように気を付けてそう呟くと、足元の雫月が小さく息を吸った。
吐き出す息が震えている。
「ねぇ、大和」
さっきとは違う弱々しい声で、雫月が俺の名前を呼んだ。
「なんだよ」と雫月の方を見ないで聞くと、「こっち向いて」と返される。
雫月を蹴ってしまわないように注意しながらゆっくり振り向く。
「……座って」
言われた通りに雫月の向かい側に座った。
泣きそうになっている雫月を正面から見るのは少し可哀想で目線を逸らしていると、雫月がワイシャツを引っ張る。
優しく、乞うように。
「どうした?」と聞くけど、もう返事はない。
何度も何度も、ワイシャツを引っ張ってくる。
震える指で。
雫月が何をして欲しいのか分かってるけど、それを実行するのは少し気が引けた。
俺は別にいい。
雫月はどうなんだ。
怖くないのか。
気持ち悪くないのか。
しばらくそう迷っていると、雫月が顔を上げた。
キュッと結ばれた唇が緩み、そっと微笑む。
片目から、涙が流れた。
「もう……無理だよ」
優しい声で雫月が呟いた。
肩からリュックを下ろし、ほぼ衝動的に雫月を抱き寄せる。
細かった。
小さかった。
弱かった。
この体で独りで戦っていたのに、俺は何もしなかった。
情けない。
雫月は俺の胸板に顔をうずめ、声を上げて泣いていた。
小さな子供に戻ったみたいに。
……それでいいんだよ、雫月。
まだ子供だろ。
- Re: 大好きで大嫌い ( No.40 )
- 日時: 2020/12/04 23:43
- 名前: たなか (ID: dRBRhykh)
10数分ほどして、雫月は泣き止んだ。
でも俺の背中から手を離さず、ゆっくりと雑談を始める。
最近なんか天気いいよね
桜はいつ咲くんだろうね
そういえばこの前の理科の授業でさ
今は関係ない話をしていたいのかもしれないと思い、その雑談にしばらく付き合う。
でも、やっぱり気になって口を開いた。
「あの……大丈夫?」
「何が?」
「俺普通に触ってるけど」
「あぁ」
雫月が笑う。
あっはは、と明るく。
「大丈夫ではないかもなぁ」
明るいトーンのまま吐き出されたからか、その言葉の意味が一瞬分からなくなる。
頭の中で何回か反芻してやっと理解した俺は、即座に雫月から離れようとした。
でも、雫月はもっと強く抱きしめてくる。
「違う、怖いよ? 怖いけど……」
少し慌てたような声に、俺も動きを止めた。
なんだろう。
「他の人みたいな気持ち悪さは無いし、なんか安心するから、いいんだよ」
……安心。
なら、いいのか?
「それに、僕のこれは条件反射だから……あんまり気を使われるのは寂しい」
ぽつりと雫月が呟く。
胸の奥の奥から押し出したような、雫月の本音に思えた。
嬉しい
ありがとう
好き
美味しい
楽しい
明るい感情ばかりを伝えてくる雫月がたまに出す表情が、やっと言葉になった。
そう感じる。
そっか。
そうだよな、寂しいよな。
記憶の中の、やけに大人っぽく淡い雰囲気を纏った雫月に語りかける。
気付かなくてごめん、と。
伝えてくれてありがとう、と。
俺の腕に収まっている雫月には恥ずかしくて言えそうにない。
でも……きっと伝わっている。
そう信じることにした。
- Re: 大好きで大嫌い ( No.41 )
- 日時: 2020/12/04 23:47
- 名前: たなか (ID: dRBRhykh)
しばらくすると、雫月は急に腕を伸ばし、俺から離れた。
「バイト!!」
忘れてた、と続けて時計を見る。
時間はとっくに16時を過ぎていた。
「あああっ! 遅刻!!」
とんでもない声で叫んで立ち上がろうとする雫月の手首を何とか掴む。
「え、なに? 僕バイトなんだけど!」
手首を掴んでいる間も脚がそわそわと動いていた。
慌てている雫月に反して、俺はなるべく落ち着いて話す。
「今日くらい休めよ」
「駄目。無断欠勤になっちゃうから!」
「泣いたから頭痛いだろお前」
「痛いけどそんなに! 早く離してお願い!」
「週に何日休んでんの?」
急な問いに雫月は一瞬戸惑ったようだ。
脚が止まる。
「……日曜日だけかなぁ」
「それだけ?一日だけか?」
「そうでもしないと死んじゃうから!」
「バイト行ってる日は何時間くらい働いてんだよ」
「5時間半とか? 基本22時には家にいるようにしてるけど」
「忙しすぎだろ、無断欠勤でも仮病でもいいから今日は休め。バイトには行かせない」
手首を掴む力を強めてそう言うと、雫月は諦めたように唇を尖らせた。
本当はバイトなんか行きたくないだろう。
もっと勉強したい。
もっとバスケをしたい。
もっと、もっと……。
色んな欲がある歳なのにバイトにここまで縛り付けられるのは可哀想な気がする。
第三者でしかない俺が言うことでもないけど。
雫月の動きがすっかり落ち着いたのを見計らって、手首を離す。
「大和はどうするの? 帰らなくていいの?」
すとんと床に座った雫月が聞いてくる。
部活は元々無かったし、それを親に言っていない。
というか、急な職員会議でいくつかの部活が休みになった。
それを説明すると、雫月は「そっかぁ」と言った。
「それより、頭痛いんだろ? 寝てろよ」
「え、うん……」
「俺なんかほとんどいないも同然だと思えばいいから」
そう言って雫月をベッドに押し込む。
白い敷布団とブルーグレーの薄い布団に挟まれた雫月は、いつもより小さく見えた。
俺もベッドに寄りかかると、雫月は色々な話をしてくれた。
泰輝さんが亡くなったのが自分のせいじゃないのは分かってる、ということ。
それを理解しきってしまったら泣いてしまいそうで、泣いてしまったら泰輝さんの死を肯定することになりそうで怖かった、ということ。
自分の母親のこと。
自分の父親のこと。
自分の父親の息子のこと。
泰輝さんの話ではやっぱり辛そうにしてたけど、自分の家族の話はどれも幸せそうにしていた。
母親が自殺した時のことも、さっぱりと話してくれた。
父親の新しい息子の名前も、自分の母親との思い出も、話してくれた。
幸せそうな笑顔で、幸せそうな声で。
それを見ているうちに、俺が泣いてしまった。
- Re: 大好きで大嫌い ( No.42 )
- 日時: 2020/07/23 00:01
- 名前: たなか (ID: 5ROqhRB3)
「大和……どうした?」
上半身を起こした雫月が、心配そうに俺を見る。
話したかったけど、涙が溢れて止まらなかった。
雫月は、自分の父親に傷付けられた。
父親が勝手な事をしたせいで一生消えない傷を負った。
なのにこいつは、その父親の新しい家族のことを、幸せそうに語った。
なんでそんなことできるんだよ。
なんでそんなに優しいんだよ。
雫月の深い優しさに触れてしまった気がして、少し怖くなる。
暖かい恐怖を覚えた。
不思議な感覚だった。
雫月の綺麗な手が、俺の頬に触れる。
溢れ続ける涙をそっと拭った。
涙でぼやけた視界の中でも、雫月は優しい雰囲気を纏っている。
少し下がり気味の眉も、それとほぼ平行に垂れた大きな目も、その目を縁取る少しだけ反り返った長いまつ毛も、いつも少し口角が上がっている可愛らしい唇も。
全部優しかった。
綺麗、とか可愛い、とかじゃなくて、ただただ優しい。
それを見て俺は、また涙を流した。
俺に優しいものは合わない。
今はそう思う。
雫月は、ただ泣き続けるだけの俺を特に追及せず、見守ってくれた。
なんとか泣き止んで、今更恥ずかしさを感じる。
俺より辛いはずの雫月に慰められるなんて、情けない。
恥ずかしくて情けなくて、雫月を見ないようにしながら口を開いた。
「……なんで父親の家族のことをそんな顔で話せるんだよ」
言葉が足りなかったけど、雫月はちゃんと質問を理解してくれた。
俺の頬に触れていた手をそっと離して、話し始める。
「確かにお父さんは僕達の幸せを壊した。それに関しては憎いと思ってるよ。僕が今こんな生活をしてるのも、お母さんがいないのも、先生がいないのも、元を辿ればお父さんの不倫がある。でもさ」
そこで一度切り、俺に顔を上げさせると、目を合わせて笑った。
この世の優しさも残酷さも、嫌という程に味わってきた笑顔だった。
「幸せになりたかったのは、お父さんも同じなんだよ」
その一言にハッとする。
確かに雫月の父親はしてはいけない事をした。
雫月の未来も、雫月の母親の未来も壊した。
でもそれと同時に、自分が本当に愛する人と未来を築き、新しい未来を生み出した。
……プラマイゼロ。
そうなってしまうのか。
雫月を見つめ返すと、雫月は「ね?」と言ってもう一度笑った。
幸と辛は一画違いだけど、幸は何故幸になれたのだろう。
辛は何故辛になってしまったのだろう。
元から幸は幸なのだろうか、辛は辛なのだろうか。
それとも、途中から変わってしまったのだろうか。
辛が一画を奪ったために。
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