[イナズマ]多分…私は、貴方を愛しています

作者/伊莉寿(元・西木桜)

強く想っていたのに、


「?」

 返事が無い。問いかけたのに、ただ驚いてその男の子は固まっている。ゴーグルの下にある目は見開かれているんだろうな、ぼんやりとそう思う。でも驚いている理由が分からない。私はただ一言、質問をしただけ。普通の質問だと思うし、私が少し落ち着くために返事をしてもらいたい…。私は、もう一度同じ質問を口にした。

「あの、誰なんですか?」

じんじんとドアにぶつけてしまったらしい後頭部が痛む。
私は今、ドアに寄り掛かってしゃがみこんでいる。目の前にいる男の子は、まるで私を引き起こそうとしているようだった。でも私の質問で彼の中の時が止まってしまったらしい。知らない男の子と私、2人の空間。…そういえば私、何でこの男の子と一緒にいるんだろう。ハッと気付いて考えようとしても、力が入らない時の様に、さらりと流された。さっきまで何をしてた?私の、名前、は…?

「るり、か…?」
「っ!!!」

男の子の声を聞いた瞬間、鼻の奥がツンとして、視界がぼやけた。
震え、かすれた声で知らない名前を呼ぶ男の子。怖いと感じた。ここにいてはいけないと感じた。立ち上がって、ドアを押しあける。男の子が動けず、その場に立ち尽くしている気配が纏わりつく。怖い、何もかもが知らない物で出来ているこの世界が。
豪華できらびやかな廊下を走る。どこに行けば良いのかなんて分からない。ただ走っていれば、自分が居るべき場所にたどり着ける気がした。生温かい雫が頬を伝う感触が、嫌いだった。

「わかっ、らない、よっ…!!!」

たどり着いた星が彩る夜空の下、私は心から溢れる感情を、止める事が出来なかった。


















ワタシハナニヲシテイタノ、ネエ、アナタハダレナノ…?



***



{鬼道side}

 その日は、勉強会だった。定期テストへ向けていつも開かれているその会場はローテーションしており、今回は俺の家でやることになった。そして都合が良いと誰もが思った。年下だが底知れぬ知識を持つ流星姉弟が居たからだ。
2人は社会で使うかもしれないと資料を集めていて、俺はそれを無くなさいためにと俺の部屋へ置くことを提案した。俺も自分で丁度勉強会の資料を集めていたから、都合がいいと思ったのだ。…あんな提案しなければ、と後々後悔することになるとは、想定できるはずもなく……。





「!鬼道さんも、資料を取りに?」

 部屋に入ると、分厚くなったファイルをあさる瑠璃花の姿があった。西の空が夕日に紅く染まる、夜の始まりの事。
ああ、と頷くと必要な資料を見つけた瑠璃花が、安堵の表情を見せる。焦っているのだろう、落ち着きが無かった。泊りがけの勉強会と言っても、夕食を間に挟むと勉強の面で効率が悪い。あと20分くらいで夕食になる。俺も少し焦ってはいたが、彼女は見た目にも危なっかしかった。
と、その時何かが入り口近くの本棚から落ちた。最近整理したが不十分だったのだろうか、僅かな振動でも落ちてしまうとは。腰をかがめて拾うと、そこには細かい文字がひしめいていた。それは瑠璃花と魁渡を施設から引き取った際に作られた文書。少し眺めているだけで、不思議な感覚に襲われる。義理の家族である事を実感させられ、ならば普段俺は2人の事をどう思っているのか、と。家族?仲の良い友人?どれも当てはまらない気がしてならない。

「…?」

視線を感じて振り向くと、瑠璃花が紙を覗き込んでいた。俺が真剣に見ていたから気になったのだろう。

「何だか不思議ですね。」

内容を理解して、彼女が言う。

「いつも近くにいると、当たり前で…当たり前が、その価値も尊さもぼやけさせて…」
「…そうだな。」
「だから私は、魁渡も鬼道さんも大事、かけがえのない人…そう思って、毎日過ごすようにしています。そうすると、毎日が充実してくるような気がするんです!」

幼さの残る、いつもとは少し違う笑顔があった。
彼女の言葉は少し照れくさいような、味わったことのない不思議な感覚を俺に教えてくれた。ストレートで偽られていない、それは確かに彼女の本心だ。

「…あ、時間、が」
「!」

空気が一瞬にして変わったような気がした。しまった、夕食まであと少ししか時間が残されていない。彼女は慌てて部屋を出ようとして、足元へ注意が向かなかったようだ。俺も、もう回避する事が出来ないタイミングになって気付いた。
 先ほど落ちていた文書以外にも、もう1枚紙が落ちていた事に。

「っ!?」

足を滑らせても、いつもの彼女なら体勢を立て直せただろう。
ただ今回は、あまりにも不運な状況が重なりすぎていた。

急いでいた事。両手がふさがっていた事。周りに手すりなどつかまるものが無かった事。

ゴン、と鈍い音が部屋中に響く。どうにか体勢を立て直そうとしたのだろう、しかし上手くいかず後頭部を強打していた。バサバサ、と紙が舞う。彼女はドアの前でしゃがみこんでいた。駆け寄るも、動かずその場でじっとしている。

「…瑠璃花!?」

もしかして、気絶しているのか…?
顔を覗き込むと、わずかにまぶたが動いた。眉間に少ししわがより、ゆっくりと目が開かれる。瑠璃色の瞳が、俺をとらえた。
 無事だったことに安堵して、腕を引き体を起こすのを手伝おうとした、瞬間、瑠璃花の瞳が不安げに揺れる。思わず顔をしかめると、直後発せられた言葉に動作が止まった。


「…誰、なんですか?」



怯えさえ映るその瞳に、俺の思考回路は考えることを拒絶した。




「あの、誰なんですか?」

 何、が起きているのだろう。目の前にいる13歳の少女は俺の義理の妹で、ついさっきまで会話をしていたはずだった。偶然落ちていた紙に足を滑らせて後頭部を強打、その衝撃で……。何もかも忘れた、と?頭の回転が良くてマイナスの感情を抱いたのは初めてだった。否定したい、それが出来ないのは瑠璃色の瞳が真実だと訴えているせいだろう。

「るり、か…?」

冗談だと言ってほしい。だから彼女の名前を呼んだんだ、



だが瑠璃花だって頭の回転は良い。


「っ!!!」


全てを悟った彼女は、部屋を飛び出してどこかへ走り去ってしまった。





「…るり、か、」

大きな衝撃が、今になって襲いかかる。

『魁渡も鬼道さんも大事、かけがえのない人…。』

ついさっき、彼女はそういった。それも本当だったはず、だった。

「想っていた…」







それでも、彼女は。






































―――――――――心の穴を埋めるには、どうしたら良い?




**

 走り続けても、泣いているせいで上手く出来ない呼吸がさらに苦しくなるだけだった。何もかも風に飛んで行ってしまえばいいのに、自分の思い通りにはなかなかならない。足を止めたのは、明かりの少ない通りだった。辺りを見ようとして顔を上げると、視界をぼやけさせる水滴のせいで状況をなかなか理解できない。何も出来ない。大して走っていないはずなのに、脚が悲鳴を上げる。体の要求に従ってしゃがみこむと、寒さが身にしみた。それでもゆっくり深呼吸は出来て、走り続けるよりずいぶん楽だと思った。

「っ、う…」

誰だったんだろう、あの男の子は…。すごく衝撃を受けていたようだった。
 抜け出したあの家について考えていると、足音と複数の気配が後ろから近づいてきた。立ち上がって水滴を拭いたばかりの目を凝らすと、柄の悪そうな男の人が数人私を見ていた。あの男の子とは随分違う、つまり通りすがりの人なんだろう。無言で私に近づいてくる。なぁ、と低い声が降ってきた瞬間、頭の中で警報が鳴りだした。この人たちはダメだ、誰かにそう教わった気がしなくもない。

「君、」

気を取られている間に、男と私の距離はすごく縮まっていた。ダメって、どうしたら良い…?考えるだけ無駄、すぐに流されてしまう。何も覚えていない、使い物にならない私の頭。本能が働いているのか後ずさっているものの、背中が冷たい壁に当たった。背後はもう無い。
 危機を感じ取った時、大声が響いた。るりねえ、と誰かが誰かを呼ぶ声。

「何してんだよッ!!」
「チ…何だこの餓鬼」
「テメーが俺を餓鬼呼ばわりするなッ!!俺の姉ちゃんに手出しするんじゃねえ!!」

…あ、
私のこと?橙色の短髪の少年は、さっき通りかかった店の、きれいに磨かれたガラスに映っていた私と似ているような気がした。男の人達は、私から少し離れて少年を恨めしそうに見ている。すっかり怒っている少年を見ると、複雑な感情が渦巻いて行くのが分かった。心から溢れ出す感覚は、あの家で泣いたときと似ている。泣きたくなかった。

「…」
「…?瑠璃姉…?」

顔をしかめて訝しげ(イブカシゲ)に少年は私を見る。ごめんね、と気付けば呟いていた。

ワタシハキミヲシラナイ。

「餓鬼を餓鬼呼ばわりして何が悪いっ!!」

男が少年に拳を振り上げた。けれど彼は気にせず、蹴りを男のみぞおちに食らわせる。ミシミシ、と効果音が聞こえそうだった。そして男が私の後ろまで飛んでいく。少年はさみしそうな、翡翠色の瞳でどこかを見つめていた。

「…えれよ。」

それは私に対して言ったんだと、とっさに悟っていた。…まるで、意思の疎通が出来ているみたいに。

「…早く帰れよ、この男共にマナーを教えるには、道が狭すぎるんだ。」

カエルッテ、ドコニイケバイイノ。

…私は、道の奥めがけて走りだしていた。どこに行くのかなんて、分からなかった―――――ただ、脚が動くから走るんだ。


**

 死屍累々(シシルイルイ)。そんな状況に出くわしたのは、初めてだった。その状況を作ったのは魁渡だ。小学4年で背が低い、元気な少年…のはず。

「…どうしたんだ、魁渡。」

追わない訳にはいかなかった。家を飛び出した瑠璃花を。
彼女は廊下を一直線に走って行った。走る気力の無い足を強引に動かし庭に出ると、丁度道路を走っていく彼女の後ろ姿が遠くに見えた。行かなければいけないと思った、責任は俺にあるのだから…。少し迷った後――この事をサッカー部に伝えるかどうか、結果近くにいた執事に外出すると伝言を頼んだ――で、俺は瑠璃花の通った道と思われる道を走りぬけた。
 すると、彼女を見失った近くで何か物音が聞こえた。見てみると魁渡が居て、周りには動けなくなった男数人が転がっている。正しく死屍累々。魁渡も家から走り去る瑠璃花を見て追いかけてきたのだろう。
俺の気配に気づいたのか、背中を向けたまま魁渡は俯いて何かを呟いた。聞き取れなかった、と途端に声を大きくして俺に言い放った。

「瑠璃姉に何があった!!」
「っ!」

背を向けたまま怒りをにじませ、魁渡は言った。会ったのか、と思うと右手を握りしめずにはいられなかった。すまない、と口から言葉が出ていた。

「俺の…責任だ。」
「……それは答えになってねーぞ。」
「…」

今度は俺が黙る番だった。
と、男共が立ち上がる。魁渡を睨むようにしてみると次々に立ち去って行った。お前こそ何があった、と尋ねると瑠璃姉が囲まれてた、とぶっきらぼうな答えが返ってくる。

「状況を分かっていても、それが危険だってこと判断出来てなかった。…鬼道に言われてたことだろ、ああいうのには気をつけろ、って。」

なのに何で、と言いながらも、呼吸を落ち着かせようとしているのが分かった。深呼吸して胸元に手を当て、翡翠色の瞳で俺を見つめる。
言葉がさらりと漏れそうになって、一旦静止した。そんな簡単に言っていいものか、と不安になったのだ。言葉を飲み込んだ俺に、魁渡が疑うような視線を向ける。言いたくない、そう思っている俺が居た。…現実を受け止めたくないと、今更駄々をこねているなんてな。
と、視線を感じて道の奥を見つめた。その視線の先、遠くに見えるのはさっき魁渡に倒されていた男の1人。不敵な笑みを見せて、暗い道の闇へと消えていく。弱い男の気味の悪い笑みだ。…ただそれだけのはず、だ。


何なんだ、この胸のざわつきは…?



**

「…出来れば、ここを通りたいんですけど。」
「無理、だって俺たちお前に用があるからさ、行かれると困るんだよ。」

 作り笑いだって事はすぐ見破れる。だから余計に嫌な予感がして、イラつきと不安が募る。この男の人達は何をしたいんだろう、さっきあの少年にやられたのに懲りずにまた私に絡んでくる位だから、よほど重要な…。

「…用っていった、い…!!っ!?」
「お礼参りだよ、お譲ちゃん…」

背後に来ていた新しい男、それはこの人たちの中で地位があるらしかった。
態度が変わったということもあるけど、さらに彼等には無い物を持っている―――武器を。

「さっき何人動けなくなったっけ、いーち、にーい…4人か。」

じゃあ撃ったあと何回痛めつけてやろうか、というのは良く分からなかったけど、とりあえず物騒な人たちだと理解する。ドアにぶつけた個所に、丁度銃口が…意識をそこに集中させてしまい、あの時のジンジンとした痛みが蘇る。痛かった、そう振り返るのと同時に何でぶつけてしまったんだろう、という後悔も生まれた。ぶつけなければ苦しくならなかったと思うし、こんな風に走り回る事も、男の人達と絡む事もなかった。全て全て私の責任…。

そう考えると、自然と口から言葉がこぼれる。

「…ごめんなさい。」


私の言葉に、男たちが戸惑ったのが見て取れた。


**



私を知っている人は、悲しそうな目をするんだ。

私を知らない人は、良い思いをしないんだ。


不幸を運ぶことしか出来ない私なんて、私の命なんて、大事にする価値もないでしょう…?




「…お前、今、何て…」

気のせい?ううん、きっと気のせいじゃない。私に突き付けられた銃に入っている男の力が、少し弱まった。そんなに驚く事?やっぱり、記憶が無いと気持ちを読み取るのも難しいのかな。呑気かもしれない、ゆっくり考えていると男の子がまた動けずに私を見ていた。私が気付いた時もそうしてた。誰、と尋ねたら驚いて…。

「…ハハッ、そういうことだが…そうあっさりやるのもつまらねーな。」

優柔不断なの、この人?
 タバコの匂いが染みついたジャケットを身に付けた男の左腕に力がこめられ、私は咳きこんだ。男の右手には銃、銃口は私の頭に。さっきやってきた男の子は携帯電話を男に見せつけるようにしていた。警察に電話をかける、と脅していたらしい。対して男の人は、警察に電話をすれば私を銃で撃ちぬくつもりだと脅す。男の子は電話できないでいて、駆け引きが続いていた。
 この男の人たちは、人を殺した前科があるらしい。殺人を依頼されたら報酬を受け取りその依頼された人を殺す。私は誘拐が目的だったと男は吐き捨てるように言った。話を聞いていると、この人たちは悪い人。人を殺めてしまう、だから警察に捕まるべき人。なのに男の子が電話できないのは、何で?男の子を見ようとすると、視線が合った。私を見ていた。1秒くらい経つと、男の子は顔をそらす。
…私が居るから?

君も少年も、悲しそうな瞳をした。

『…私なんて、』

胸が痛い。苦しいを通り越して、痛い。私が足枷になっているなんて、やっぱり分からない。

『どうなっても良いから、もう…』


痛いよ、でも、沢山の人が殺される時に感じる痛みに比べたら全然だと思う。




『…お前、今、何て…』


「…だから、電話して。私には価値が無いから。」

気付いたら、笑っていた。初めて笑った気がする。頬が緩むのを感じながら、私は男の子に向かってそう言った。
男の子は両手を強く握りしめていた。俯いて、だから表情は見えない。

「…るな、」

?男の子が顔を上げた。私を見据える。心なしか、男の締め付けが強くなった。
男の子の口が動く。声は無く、口の形で私は読み取れた。

「……ぇ、」

刹那、通りにサイレンの音が鳴り響いた。男が携帯を持っている男の子を見る、けれど彼じゃない。電話をかけた様子など見せなかったのだから。

「…の餓鬼ッ…!!」

憎しみのこもった声とともに、引き金がひかれる。直後、誰かが誰かを呼ぶ大きな声が、通りに響いた。


***

「…消音器(サイレンサー)か、本当に恐ろしい奴だなコイツ。」

 触れようとして、慌てて魁渡は手を引っ込めていた。警察関係者以外が手を触れるのはまずい事だと理解しているからだろう。それにしても消音器…つまり銃声を抑える機械だが、それを持っているとは流石殺人の前科があるやつだな。

「鬼道、警察の人が話を聞かせてほしいって。」
「!分かった。」

円堂が伝達した通り、まだ若い刑事が俺の方を見ていた。その後ろには、連行される犯人達が見える。あれは下っ端の方だ、服が少し焦げている…そう思うと、思わず笑みがこぼれた。自業自得だ。悪事を働いていた方が悪い。
 男が銃を撃ったのとほぼ同時に、魁渡が呼びに行っていた円堂達が駆け付けた。瑠璃花は俺の指示通り腰を銃弾をかわし、その主犯格の男へ円堂が正義の鉄拳を食らわした。男に見事ヒット、ぶっ飛ばされたその男に驚いている他の下っ端数人には、豪炎寺の真ファイアトルネードがプレゼントされていた。だから今連行されている男の服は少し焦げている。豪炎寺の恐ろしさと強さを、改めて認識させられた。

「…」

視線を感じる。
振り向くと、処置をしてもらった様子の瑠璃花が立っていた。大きな外傷は無いらしいが、額の位置で包帯を巻いている。銃弾がかすめたのだろうか。
と、瑠璃花が俯き視線をそらす。何か…考え込んでいる様だ。見ていてふと思い出したのは、犯人が瑠璃花を囮(オトリ)にしていた時の事。彼女は映画のヒロインの様に、ただ自虐的な笑みをたたえて俺に言った。自分はどうなっても良い、価値が無いから、と。

「…」

あの時、伝えたかった言葉があった。全てが声にならなった、短い言葉が。

「…ふざけるな、」
「?」

俯いていた瑠璃花が、顔を上げた。視線が合う。必死に何かを読み取ろうとしている、瑠璃色の瞳。記憶が無い彼女は、以前よりも単純なように思えた。逃げたい自分と立ち向かいたい自分が2人いて、どちらか勝った方の要求に従っている。自分の周りに誰もいない事によって、後の事を考える事が出来なくなる。一直線に進んでもめ事に絡んでしまう。
そんな彼女を守る義務が、俺にはあったというのに。近くにいれば、あんな事に巻き込まれることも無かった、巻き込まれても怪我を負わせることは無かっただろう。それなのに、記憶が失われたのは俺のせいだというのに、怪我ひとつない俺は怪我をした彼女と向き合っている。

「……ごめんなさ(「お前に価値が無いなど、そんな事は決してない。」
「…!」

ふざけるな―――それは、俺が自分自身に向けて強く言いたい事でもあった。

「俺はお前を知っている。弟と仲の良い、まじめな姉だ。チームメイトと連携がとれる、強いプレイヤーだ。そして優しい、俺の義妹だ。」

だんだんと彼女の目が見開かれていく。一度深呼吸をすると、俺の言葉をかみしめるように断片的に繰り返していた。自信なさげに道路を見ながら、ゆっくりと。
辛そうで、弱くて、脆くて、今にも彼女が消えてしまいそうな…そう見えてならない。腕を掴んで手繰り寄せて、自分よりも冷たい瑠璃花がそこにはあった。顔を上げた彼女と目が合う。不安げに揺れる瞳には、雫が光っていた。

「私は…そんな人、知らないっ…!!」
「だが、お前は変わっていない。」

知らないはずの自分を、他の人が知っている。それは恐怖を感じ、独り取り残されたように感じる事だろう。反論しようと開かれた口から言葉が出て、それが今の彼女を支えることになれば、周りとの関係を断ち切ろうとするだろう。記憶を取り戻すより、記憶をなくした事を責めて…。だから俺は何も言わせないようにと―――その目をじっと見据えて言う。

…記憶があったころの瑠璃花と違くとも、今の彼女は周りとの絆を断ち切った瑠璃花自身だ。



「…っ!?」
「……大丈夫だ。」



支えよう、彼女の記憶が戻る様に。辛い思いをしないように。



**

「鬼道ッ!」

 顔を少し上げると、バンダナを巻いた人が駆け寄ってきた。男の子が振り向く。鬼道っていうんだ…。
そのバンダナの人の周りには、数人の男子が居る。特徴のある人ばかり。水色のポニーテールの人が私に気づいたらしく、近くに来て心配そうな声で言った。

「瑠璃花、怪我…大丈夫か?」

…返事に詰まる。ただこの人の優しさがパズルみたいに心にしっくりと来ていて、逆に怖くなった。どうしてこの人は、この人たちは、私が心の隅の隅で思っていた〝してほしい事〟をしてくるの?鬼道っていう男の子にしても、少年にしても、この水色の髪の男子も…。

「っ…」
「…?」

いつだろう…、脳裏に浮かんだ景色に懐かしさを覚える。サッカーボールを持って笑顔を浮かべるバンダナの男子と、振り返って笑う鬼道という男の子、ポニーテールの男子や炎の必殺技を繰り出した男子…バンダナの男子と一緒にいる人たち。その映像を見て笑いかけてくる少年。―――これが、記憶?

「!瑠璃花!?」

何かを掴んでいないと不安で怖くて、そして鮮やかになっていく景色を受け入れる時の苦しさを和らげようとポニーテールの男子の服を握りしめた。ふっ、と支えが無くなったように一瞬倒れる感覚がしたけど、ポニーテールの男子が道路に手をついて支える。突然前かがみになったから後ろに尻もちをついてしまったらしい。こんな事で迷惑をかけられない、と思っていても崩れそうな自分を抑えることに精一杯になっていた。

「風丸っ、瑠璃花は今…」
「…魁渡が言ってた事、本当だったのか…」

痛い、痛い、頭の中がいっぱいで…
滞り(トドコオリ)なく溢れる映像が頭の中を占拠して、服を握りしめる手からも力が抜けていく。顔を上げても涙でぼやけて…何も見えない。

「っおい!」
「!?瑠璃花!!?」


ようやく、〝瑠璃花〟が私の名前だと理解したのに……。


***


「瑠璃姉、大丈夫なのか?!」
「ああ、魁渡…すまないな、警察への説明を押しつけて…」
「そんな事は気にするなって!それよりっ…」
「大丈夫だ、気を失っているだけで問題は無いらしい。」

 安堵した様子を見せる魁渡。視線は壁にもたれる形で目を閉じる、彼の姉に向けられていた。
突然気を失った瑠璃花は、その場にいた警察関係者に容体を見てもらい問題は無いと診断された。犯人も問題なく捕まり、俺達は帰れる事になった。だから俺の代わりに知りえる事情を説明してくれた魁渡を待っていたのだ。…夕焼け時、カラスの鳴き声が街に響く。

「…そっか。じゃあ帰ろうぜ。」

そう言って瑠璃花に背を向けて魁渡はしゃがんで…え?

「いや、魁渡何をしようと…」
「?おぶって帰ろうと思って(「出来るのか?」

小柄な魁渡が瑠璃花をおんぶできるか、というのは傍から見ると絶対に無理だと思う。そもそもおぶる事が出来たとして安全に運べるか…。

「…した事無いから分からない。」
「代わろう、魁渡。」

目が覚めて傷が出来ていたら悲しいだろう。魁渡に手伝ってもらい、瑠璃花を背負う。思っていたより軽い。落ちないように気を遣いながら家への道を一歩ずつ歩いていく。ここから家までの道を頭の中で思い出し、その道のりの長さに少しキツイのではないかと感じた。さすがに長すぎる。途中に車で迎えに来てもらった方が安全だ。魁渡に連絡してもらおう、と携帯電話を探ると、瑠璃花の表情を窺い(ウカガイ)ながら隣を歩いていた彼が、ふ、と笑った。何だ、と短く尋ねるとさっきより優しい声が返ってくる。

「瑠璃姉…泣いた跡あんのにスッゲー穏やかな顔してるからさ、」


良い夢でも見ているのだろうか。
そんな事が出来るのなら、彼女はきっと大丈夫だろう。


+*+FIN+*+
(手探りで探り当てた、パズルのピース。まだまだ周りにたくさん落ちていそうな気がする)