複雑・ファジー小説

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断捨離中【短編集】
日時: 2024/02/21 10:09
名前: ヨモツカミ (ID: AZCgnTB7)

〈回答欄満た寿司排水溝〉すじ>>19
♯8 アルミ缶の上にある未完 >>8
♯12 夜這い星へ、 >>12

〈添付レートのような。〉らすじ>>23
♯14 枯れた向日葵を見ろ◆>>14
♯17 七夜月アグレッシブ◆>>17

〈虚ろに淘汰。〉すじ>>27
♯19 狂愛に問うた。 >>21
♯21 幸福に問うた。 >>24

〈曖昧に合間に隨に〉じ>>35
♯22 波間に隨に >>28
♯23 別アングルの人◆>>29

〈たゆたえばナンセンス〉あ>>41
♯27 知らないままで痛い◆>>36
♯28 藍に逝く >>37
♯29 Your埋葬、葬、いつもすぐ側にある。 >>38
♯30 言の葉は硝子越し >>39
♯31 リコリスの呼ぶ方へ >>40

〈拝啓、黒百合へ訴う〉ら>>51
♯32 報われたい >>42
♯33 真昼の月と最期の夏 >>43
♯34 泥のような人でした。 >>44
♯35 夜に落ちた >>47

♯37 銀と朱 >>49
♯38 海の泡になりたい◆>>50

〈ルナティックの硝子細工〉す>>56
♯39 愛で撃ち抜いて >>52

♯41 あたたかな食卓 >>54
♯42 さみしいヨルに >>55

〈ジャックは死んだのだ〉あ>>64
♯43 さすれば救世主 >>57
♯44 ハレとケ >>58
♯45 いとしのデリア >>59
♯46 大根は添えるだけ >>60
♯47 ねえ私のこと、 >>61

〈ロストワンと蛙の子〉じ>>70
♯48 愛のない口付けを >>65
♯49 ケーキの上で >>66
♯50 だって最後までチョコたっぷりだもん◆>>67-68
♯51 暗澹たるや鯨の骸 >>69

〈愛に逝けば追慕と成り〉あ>>79
♯52 鉄パイプの味がする >>71
♯53 リリーオブザヴァリー◇>>72
♯54 海に還す音になる◇>>75
♯55 そこにあなたが見えるのだ。◇>>76

〈朗らかに蟹味噌!〉あ>>87
♯56 お前となら生きられる◇>>82
♯57 朱夏、残響はまだここに◇>>83
♯58 夢オチです。◇>>84
♯59 あいしてるの答え >>85
♯60 さよならアルメリア >>86

〈寄る辺のジゼル〉あ>>90
♯61 熱とイルカの甘味 >>88
♯62 燃えて灰になる◇>>89

Re: 愛に逝けば追慕と成り【短編集】 ( No.71 )
日時: 2020/07/14 11:12
名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)

♯52 鉄パイプの味がする

 高校二年生のバレンタインデー、前日。明日はどうするかと浮足立っているクラスメイトを横目に見て、私には関係のないことだと目を逸らすだけの日になる。そのはずだった。
 数少ない友人が私に相談があるとか言って、放課後の教室に呼び出された。
 友人、と言っても彼女とはあまり良好な関係とは言えなかった。中学生の時のいじめが原因で人間不信気味になった私は、他人を信じることが苦手で、自分の本音で話すことも無い引っ込み思案で、はっきりしない性格の女の子になっていたから。だから、友人である彼女は、自分の意見をはっきり言わない私を良いように利用しているような、そんな人である。利用されていると理解しながら自分から離れる意思表示をできない私と、それすらもわかった上で私に擦り寄ってくる友人。関係性は最悪だ。
 なんの用、とぶっきらぼうに聞くと、彼女はきれいに巻かれた髪の毛を指先にくるくると巻きつけながら笑った。

「ねえほら、明日が何の日か知ってるでしょう? バレンタインデーだよ。あたしねえ、好きな人がいるんだけどぉ、直接渡す勇気がなくってさあ」

 スルリ、と指先から髪の毛が離れる。窓から差す夕日を浴びて、赤茶色っぽく色付いた髪先を見ながら、内心面倒に思いつつ、すべてを理解した私は、いいよ、と快く返事を返すのだ。
 要するに、代わりにチョコレートを渡して、その反応を報告しろということ。なんで私が。自分でやれよ。などの気持ちは一切表面に出さずに飲み下す。

「で、誰に渡したいの」
「んもう、あんたってばほーんとデリカシーないんだからあ。あたしの好きな人なんだよ? もっと遠回しに訊いてよー」

 ごめんね、と作り笑いを浮かべて、でも結局どんな言葉が最適なのかわからなくて、誰なの、と訊ねることしかできなかった。
 彼女は勿体ぶるように髪や頬を触ってモジモジしていたが、周りを見回して、誰もいないのをしっかり確認してから小声で伝えてきた。

「……村上くん、だよ。あんた同じ中学出身だからあたしより渡しやすいでしょー?」

 村上。うちの学年にその名前の男は一人しかいないし、同じ中学という時点でもっと確実に絞り込まれることになる。彼の名前を聞いた瞬間、しっかり防寒したはずの体が、急に凍りつくような錯覚に襲われる。
 そいつは、中学生時代、私のことをいじめ抜いてきた男だった。
 私物が無くなるのは日常茶飯事で、陰口も暴力もよくあった。でも、一番怖くて殺されると思ったのは、忘れもしない冬の屋上でのこと。
 村上の仲間たちに押さえつけられて、村上はニタニタしながら長い鉄パイプを持っていた。なんでこんなことになったんだっけ。わかんない。クラスでは目立たないように過ごしていたはずだ。どうして私に目をつけたのだろう。いつも考えるけれど、わからない。きっと偶々、都合が良かったとか、なんとなくで、大義名分なんて立派なものは存在しなかったのではないか。
 それで、とにかくあの長い鉄パイプで顔を殴られたんだっけ。頬骨をガツン、と。口の中が切れて、鉄臭い味が、口内を満たした。やめて、と言おうとしたらもう一発。顔は不味いって、とか、取り巻きが一応村上を止めようとしていた気がする。でも、あいつはやめなかった。
 殴られて、殴られて、顔だけじゃなくお腹とか、背中とかも。冬なのに、体中痛くて熱かった。
 最後に口に鉄パイプを突っ込まれた。血の味と大差ないそれを咥えさせられて。

「お前は偉いね。最後まで泣かなかった」

 違うよ、涙の流し方がわかんなくなっただけだ。本当は怖くて痛くて、泣きたくて仕方なかったのに。偉いね、の言葉と共に村上の温かくて大きな手が、柔らかく私の頭を撫でていた。なんであいつは、そんなに穏やかな顔ができるのだろう。私のこと、滅茶苦茶に殴り付けたくせに。村上の取り巻きが、アンタほんと歪んでる、って言っていた。私もそう思う。頭がおかしい。人を散々痛めつけておいて、こんなにも優しい顔と手付きができる理由は何だったのだろう。

「我慢できたね、偉いね」

 この男が、ちっとも理解できない。これだけ暴力を振るっておいて、何がしたいのか。しばらく私の頭を撫でて、それが飽きたら、村上と取り巻きたちは私を置いて帰ってしまった。頬は腫れて、酷い怪我をしたのに、させたのに、どうしてこうも何事もなかったかのように振る舞えるのか。
 でも、高校に入ってから村上が私に構ってくることは一切無くなった。単純に飽きたのか、取り巻きがいなくなって難しくなったのか、理由は何もわからなかったが、村上は本当に他人のように振る舞うようになった。
 あれだけのことをしておいて、どうして廊下ですれ違ったときに、私を空気みたいに扱えるのだろう。私はいつも村上が視界に入ると、怯えて肩が跳ねてしまうのに。
 とまあ、そんな具合に私は村上という男が怖くて仕方がないので、こんな依頼を受けるわけには行かないと思った。でも、彼女は私の数少ない友人で、何でも言うことを聞いてくれたお利口ちゃんが、急に期待に背いたらどうするのだろう。次の日から、村上みたいに何事もなかったみたいに、私を切り捨てるのではないだろうか。
 それでいいはずなのに、今更一人になるのが怖いなんて思う。都合のいい女だと使われるだけのはずが、私も彼女の隣を都合よく維持したかったのかも知れない。
 だから、彼女の手作りチョコレートを受け取ってしまった。
 可愛らしくラッピングされた袋の中で、定番のハートの形をした、チョコレート。添えられたメッセージカードには、村上に対する彼女からの思いの丈が綴られている。友人は、本気であんな男を好きになったらしい。村上も、高校に入ってからは大人しくしているから、その雰囲気に好意を寄せてしまう女の子もいるのだろう。中学生の時に、私にあんなことをしたなんて、誰一人知らないから。
 一応友人である彼女が、あんなゴミみたいな男を好きになることも、村上という男の過去を誰も知らない事も、何もかもが気に食わなかった。
 学校からの帰り道、友人の作ったチョコレートの包み紙を徐に開封する。チョコレート特有の甘い香りがして、美味しそうだった。
 それを、無表情に齧った。子気味いい音がして、欠けたチョコレートは、ちょっぴり苦いビターの味わい。
 明日、早く学校に来て、メッセージカードだけ村上の机の中に押し込んでおこう。こんなことをして、いつかは友人にバレるだろうに。バレたってどうでも良かった。食べ終わったら、袋はクシャクシャに丸めて、ポケットに突っ込んだ。苦い、ビターの効きすぎたチョコの後味が、いつまでも残ってる感じがした。
 次の日、メッセージカードを村上の机の中にそっと置いて、友人には何食わぬ顔で笑いかけた。バッチリ渡しておいたよ、とでも言いたげに。それをいつもお利口な私がまさか嘘を吐いているなんて疑いもせずに、彼女はありがとうだの、流石あたしの友達だのと褒めてくる。どうにも胸は痛まなかった。なんて薄情なやつ、と密かに自分を貶す。これがバレたとき、友人はどんな顔をするかな。まあでも、メッセージカードは捨てなかったんだから、なんとかなるだろう。どこか楽観的に考えたまま、その日は放課後まで何もなかった。そう、放課後までは。

「なあ、お前」

 聞き覚えのある声に、心臓が飛び跳び出しそうになる。自分の席で荷物をまとめて、帰る支度をしていたら、村上に声をかけられたのだ。じっとりと嫌な汗が滲む。怯えて竦む私を、村上は面白そうに眺めてから、ちょっと付いて来い、と言った。拒否権は、当然のように存在しないのだろう。でもここは高校だ。あの頃の関係性は無くなった。村上は私をいじめることはなくなったのだから。だとしたら、ここで私が逃げ出しても、報復を受けることはないのではないか。そう思うのに、その一歩の勇気が出ない。
 結局私は、小さく頷いたあとに、荷物を背負って村上の後に続くことしかできなかった。
 三階に続く階段を上がって、四階、五階と進んでいくと、屋上にたどり着いた。忌々しい記憶の詰まった、中学の屋上とは少し違う、でも殆ど変わらない風景に、私は足が竦んだ。

「お前といつもつるんでる女から、手紙もらってさ。一生懸命作りましたとか書いてあるから、なんのことだと思ったけど、今日バレンタインだったろ? だから、チョコレートとかも付いてるはずなんじゃねえのって思ったわけな?」

 早速、村上は話を切り出してきた。あのメッセージカード、そんなことが書いてあったのか。やっぱり渡さなきゃ良かった。そうすれば、こうして恐ろしい村上に呼び出されることはなかったのだから。彼女との交友関係に亀裂が入るのは間違いないが、どちらがマシかと聞かれれば後者である。
 怯えて縮こまっている私を見下ろして、村上は続ける。

「そんで友達が、お前が俺の机に手紙を入れるのを見たって言ってたから、どういうことか説明してみろよ」

 威圧する気は無いのだろうが、村上の声には嫌な圧がある気がする。私達は高校生になってすらも、いじめっ子といじめられっ子の関係を抜け出せないのだろうか。
 嫌だな。そう思っても、未だに怖くて足が震えているのだ。私達は何も変わってない。あの日の鉄パイプはここに無いけれど、男の力で殴られれば、素手でも勿論痛いだろう。
 何を言えば殴られずに済むかな。考えたが、私の小さな頭では何も良いアイディアを捻り出せない。
 結局、正直に白状するしかないのだろうと、私はボソボソと小さな声で説明した。

「手紙は、彼女からあんたに宛てたラブレターだよ。それで、中に入ってたチョコレートは、渡したくないから私が食べた」

 視線が合わないようにそう告げると、一瞬の間をおいてから、村上はくつくつと笑いだした。
 中学生の時も、こうやって高らかに笑いながら村上は私を殴った。同じように拳が振り下ろされるのではと身構えていたら、頬に彼の両手が伸びてきた。ビクリ、と身を引くが、力で引っ張られて、村上と視線が交差する。何をされるのだろうと、ギュッと目を閉じると、唇に何か柔らかいものが押し付けられる。冬の冷気で少し冷えていたが、それは隙間から舌を伸ばして、私の口の中に滑り込んできた。
 状況が飲み込めずに目を見開いて、村上を押し退けようとするのに、力では全然敵わない。どうしていいかわからなくて、泣きながら口の中の異物にガリ、と歯を突き立てた。

「痛ッ」

 村上が声を上げて、ようやく私達は距離を取る。それでも今の接触は、そう簡単に忘れることのできない、色濃いトラウマになりそうだと思った。
 キスをされたんだ。世界で一番嫌いな男に。
 なんで。
 何を考えているの。

 村上を睨みつけると、チロリと舌を出してきた。私が噛み付いたところから、血が出てる。

「なんのつもりなの?」
「チョコレートの味、残ってるかと思って」

 残ってるわけないじゃない。昨日食べたビターチョコレートは、苦くて全然美味しくなかったよ。
 言おうとした言葉は、音にならずに、私はとにかくこの場から逃げ出した。
 泣きながら、口を何度も拭った。
 大嫌いな男とのキスは、あの日振りぬかれた鉄パイプの味がする気がした。

***
この度は、何をやらかしたんだっけ……私が二年越しに傷跡を掘り返して馬鹿にしたことによる反省文でしたね(笑)
リクエストの「バレンタインにチョコを渡せなかった女の子」で書きました。この度は誠に申し訳ないことをしました。でも反省文がSSていうのちょっと面白いからまだ反省しないで置こうかな、嘘ですもう許してくれ、良好な関係を築こうよ私達……
本来、恋人たちのほろ苦い思い出ができそうな場面で大嫌いな男に接触しなくちゃいけない苦痛を書くという、私の趣味全開でした。

Re: 愛に逝けば追慕と成り【短編集】 ( No.72 )
日時: 2020/07/31 15:01
名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)

♯53 リリーオブザヴァリー

 ──村はずれの森の中には、けして入ってはいけないよ。あそこには悪い魔女が住んでいるからね。
 そんな母の言いつけを破りたくなったのは、ちょっとした喧嘩が原因だった。本当に些細なことで、自分が謝れば円満に片付いたことくらい、ノエルだって理解していたくせに、どうにも素直になりきれなかった。もっと幼い頃ならすぐに言えたごめんなさいも、思春期の少年の口からは憚られるものになっていて。
 魔女なんて出鱈目だ。子供を脅す、大人が作った都合のいい嘘。そう言い聞かせて、薄暗い森を早足に進んでいく。未知の場所に踏み込んでいく高揚感に、ノエルの足取りは軽かった。
 愚直に母の言うことを聞いてきた人生の中で、初めての反発だから、その背徳感とか後ろめたさも相まって、不思議な気持ちだった。でも、心地よい。いい子ちゃんのノエルはもうやめにした。村の子供たちがどんなに悪いことに手を染めても、真似する勇気が出なかったのに、どうして今日ばかりはこんな行動に出たのだろう。それこそ、森の奥の魔女が呼んでいたのかもしれない。
 随分深くまで来たと思ったが、何も見つからない。真っ直ぐに進んできたから帰れないということはないが、これ以上奥に行くのは不安だ。森の冒険は、思ったよりも味気ないものだった。だって、ただ同じような木が並んでいるだけで、何があるという訳でもなかったのだから。大人たちの嘘を信じていたわけじゃないけれど、魔女に出会えるかと思っていたのに。
 期待外れだ、と考えながら空を見上げる。来るときは青空が見えていたのに、いつの間にか雲が庇っていて、それで、木々の隙間から建物の影が見えた。もっと、森の奥の方に。大きな屋敷のようなものがある。本当に魔女が。そう思ったノエルは、恐怖と高揚感の入り混じったふわふわした足取りで森を進んでいく。
 木々を抜けた先に、寂れているけれど立派な門があって、その先に古そうな厳しい屋敷があった。
 門は人が一人通れる程度に空いている。ノエルは足音を忍ばせて、そこを潜り抜けた。
 人気がない。廃墟なのだろうか。確かにこんな森の奥に人が住んでいるわけもない。そう考えながら、屋敷の二階の窓を見上げたとき、ノエルは思わず息を呑んだ。
 銀色の絹糸みたいにサラサラの髪の毛と、緑の大きくて丸い瞳。あまりにもきれいな顔をしているから、人形にすら見える女性が、窓からずっと遠くの景色を眺めている。
 遠くてわかりづらいのに、絵画の中から抜け出してきたみたいに目鼻立ちの整った彼女を視界に入れた途端、ノエルは鼻の奥がツンとする感覚を覚えた。あ、と思ったときには両目から涙が溢れていた。きれい。そう、息を呑むほどに美しいものを見たから、あまりにも感動して、涙が形になって零れたのだ。
 本当にきれいだ。ただ無表情に外を眺めているだけのその人から、目が逸らせなくなった。
 あの人は、何を見ているのだろう。遠くには雲に覆われた空があるだけだというのに。鈍色と木の緑を見て、何が楽しいのだろう。
 本人に、直接それを聞いてみたい。あの人の声を聞いてみたい。実際に話をしてみたい。そう強く思った。
 ずっと見つめていると、ノエルの思いが届いたのか、不意に女性の視線が下に降りてきた。こちらに気付いた。目が合ったのだ。嬉しくなって、ノエルは大きく手を振った。彼女はそれをあまり興味なさそうにしばらく眺めてから、するりと窓辺から離れていってしまった。
 ああ、見えなくなってしまった。行き場を失った手を引っ込めて、地面を見つめる。なんだろう、この胸の高鳴りは。涙で濡れた目元を拭いながら考える。彼女のことを考えるだけで、体が火照った。なんだろうこの感覚は。僕はおかしくなってしまったみたいだ。ノエルは熱い頬に手を当てて、冷やそうとする。
 きれいだった。ずっと見つめていたいほどに。
 そうだ、話がしてみたい。ノエルは屋敷の玄関に駆け寄った。まだ胸が高鳴っている。ドアノブに手を伸ばすのを躊躇って、でも意を決して。そうして触れた瞬間、力を入れていないのに扉が奥に引かれていったので、ノエルはギョッとして小さく悲鳴を上げた。

「何方?」

 凛とした声に顔を上げると、緑と白のドレスに身を包んだ、先程の美しい女性が仏頂面で立っていた。心臓が飛び出るかと思った。この人は、声までこんなにきれいなのか。

「あっ、う、えっと……あのっ……」

 ノエルは言葉に詰まって、一気に顔の体温が上がるのがわかった。
 近くで見たら、肌が陶器みたいに白くて、長い睫毛に縁取られた瞳は翡翠を嵌め込んだみたいに透き通っている。ドレスと相まって、物語の中のお姫様みたいだと思った。

「ぼく、ノエルと申します……っ」

 やっとの思いで出た声は緊張で裏返って、こんなに格好悪いところを見せてしまったと思うと、もっと顔の温度が上がっていく。もうノエルは耳まで真っ赤になっていた。
 女性はそんなノエルの様子を見て肩を竦めながら、肩にかかっていた長い銀糸を払った。

「貴方、村の子供ね。こんなところに来ちゃ駄目でしょう? お母さんにそう言われなかった?」

 母の言いつけ。不意に思い出して、ノエルは彼女の姿をもう一度よく見る。長くて艷やかな銀色の髪と、精緻な顔に、少し時代錯誤なドレス姿。美しい見た目に惑わされて、忘れかけていた母の言葉を思い出す。森の奥には、悪い魔女がいる。でも、彼女の姿は少しも魔女には見えない。そもそも魔女なんてものがいるなど信じてはいないが。それでも、もしかしたら。

「あ、あなたが、魔女……なんですか?」

 ノエルがおずおずと尋ねると、彼女はふっ、と息を吐いて、その拍子になんだかもっとおかしくなってしまったのか、ふふふ、アハハと腹を抱えて笑いだした。
 笑った顔は少し子供っぽくて可愛らしい。ノエルは彼女の一挙一動に魅了された。
 一頻り笑いきると、涙に濡れた目元を拭いながら、彼女はとびきり馬鹿にしたような口調で言う。

「魔女なんているわけ無いでしょう? ふふ、村では私のことそう言われているのね。ふふふっ、おかしい」

 魔女じゃないんだ。じゃあこんな森の奥で一人、彼女は何者なのだろう。

「あなたは、誰なんですか?」

 訊ねられると、彼女は急に表情を失って、少し考えるような素振りを見せてから口を開く。

「ノエルって言ったかしら。丁度これから朝食を食べるところだったから、ご馳走してあげるわ。さあ、上がって頂戴」
「えっ、いいんですか? でも……」
「遠慮しないで。それとも、私が怖い?」

 冷ややかに微笑んで見せる。その氷のような笑みもまた、彫刻の如く美しくて、彼女の言う通り少し怖いくらいだった。でも、もう完全に彼女に引き込まれてしまっていて。ノエルは彼女に招かれて、屋敷の中へと足を踏み入れた。
 広くて立派な屋敷の中には価値の高そうな彫刻や絵画が幾つも飾られていて、天井にはきらびやかなシャンデリアが吊るされている。見惚れてキョロキョロとあたりを見回しながらも、ノエルは彼女の後をついていく。それら全て、物語の中でしか知らなかった物が現実にあることが不思議で、ノエルは本の世界に飛び込んでしまったような錯覚を覚えた。揺れる緑のドレスの裾と銀糸の束も、現実ではない気がしてきて、急に自分は家に帰れるだろうかと不安になって、後ろを振り返る。
 チョコレートの板みたいな大きな扉は確かにそこにあって、今すぐ駆け寄って開け放てば、またあの森が広がっていて、まっすぐ走っていけば村に戻れるはず。

「どうかしたの?」

 鈴を転がしたような声に、弾かれるみたいに彼女の方を見た。何でもないです、と早口に告げると、そう、と興味もなさそうにまた歩き出すので、ノエルは再び彼女の後に続いた。
 通された部屋の中央には、長いテーブルが置かれていて、椅子もいくつもあって、それも何かの物語で見たことのある貴族の食卓という感じで、ノエルは目を輝かせて凄い、と声を漏らした。机に等間隔に配置された燭台や白い花の入った花瓶も、本物を目にすることになるとは思わなかった。

「適当なところに座っていて頂戴。私が作ったスープを用意するから」
「あなたが作るんですか? 使用人とかは……?」

 ノエルが思わず訊ねると、彼女は不敵に笑った。

「基本的に此処には私一人しかいないの。お掃除をしに来る小間使いが何人かいるけれど、今はいないのよ」

 それがどうしてなのか。それを教えてもらう前に、彼女は奥の部屋に行ってしまったので、ノエルは仕方なく、彼女に言われた通りに一番近くの椅子に腰を下ろした。
 目の前には精緻な彫刻の施された花瓶があり、そこに何本かの鈴蘭が生けられている。可憐で儚い印象のある鈴蘭は、なんとなくこの机の上には似合わないような気がした。もっと華やかで鮮やかな色彩の花を生けるのが自然なんじゃないか。そう考え始めると、余計に鈴蘭が不釣り合いな存在に思えてきた。もしかしたら、彼女が特別好きな花なのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、木のトレイにスープの入った木製の皿とスプーンを乗せて、彼女が戻ってきた。コトン、と音を立てて机にトレイを置いてから、ノエルの目の前にスープの皿とスプーンを置く。
 クリーム色の液体に様々な野菜と肉が浮いていて、バジルと胡椒が振りかけられている。美味しそうな匂いのする湯気を吸い込んだ途端に、急にお腹が空いてきた。そうだ、今日は何も食べずに家を飛び出してきたんだっけ。

「どうぞ、召し上がれ」

 ノエルの前の席に腰を下ろした彼女が笑顔で促してくる。いただきます、と手を合わせてから、ノエルはスプーンをスープに浸して、口に運んだ。ろくに冷まさなかったせいでちょっと火傷しそうになる。でもクリーミーな舌触りと丁度いい味付けでとても美味しい。野菜と肉の旨味が溶け込んでいて、良い風味がする。

「美味しい! 凄く美味しいです」

 そう言ってノエルが夢中になって口に運ぶのを、彼女は嬉しそうに見守っていた。

「ふふ。そうでしょう? 私、身の回りのことは自分でやってきたから、料理も得意なの。残さず食べてね?」

 はい、と元気よく答えて、もう一口くちにしたとき、異変が起きた。ノエルが、持っていたスプーンを床に落として無機質な音が響く。

「……?」

 突然、手に力が入らなくなったのだ。なんで、と思って指先を見ると、寒くもないのに震えていた。なんだろう、と考えていると急に酷い吐き気に襲われて、ノエルは口元を抑える。喉が焼けつくような錯覚。耐えきれずに吐き出して、掌を見ると、真っ赤な液体が付着していて急速に背筋が凍りつく。血を吐いたんだ。どうして。縋り付くように彼女の方を見ると、呆れたように溜息を吐く彼女と視線が合う。

「やっぱり、駄目なのね」

 なにが、と聞くより先に不意に呼吸が苦しくなって、ノエルは喉を押さえた。心臓がおかしいくらいの速度で胸を叩いている。体が熱い。息が苦しい。
 なんだこれ。おかしい。死んでしまうかもしれない。このスープを飲んでからこうなった。まさか、まさか彼女が。

「なに……入れ、たの?」
「何も? 何も入れてないのに、こうなっちゃうのよ」
 
 息が苦しくて、視界が回る。ゲホ、と咽るたびに口の中に血の味が滲む。死んじゃう。毒だ。スープに毒が入っていたんだ。
 目元に涙を滲ませて彼女を睨みつける。この人は僕を殺すつもりだったんだ。酷い。声にならない言葉を訴える。それを読み取ったみたいに彼女は微笑んだ。

「大丈夫、貴方は死なないわよ。人間ってね、しぶといの。この程度じゃ死んでくれないわ」

 そう口にしながら、机の上の花瓶の中の鈴蘭を一本手に取ると、それに彼女は息を吹きかけた。瞬間、白い花と茎は朽葉色に色付いて萎れる。

「生まれつき、私の家系には呪われた娘が産まれるの。その呼気にすら毒が含まれていてね、側に居すぎた者はその毒に当てられてやがて命を落とす。だから、私の作った料理すらも毒を持つの」

 彼女は朽ちた花を放って、ノエルが食べていたスープの器を手にとって、口をつけた。

「美味しい。私が私の毒を摂取しても何の問題も無いのに、貴方が口にしたらこうなってしまうなんて、酷い話よね」
「ぐぁ……ひゅ、」
「可哀想に。私に近付いたからこうなるのよ。これに懲りたらもう、この森に近づいちゃ駄目よ」

 言いながら彼女は長い机を迂回して、ノエルの肩と膝の下に手を回して、抱え上げた。酷い吐き気や倦怠感でされるがままのノエルは、思わず彼女の顔を凝視する。密着したことでより側で見ることができる彼女の表情は、憂いを帯びていた。伏せられた長い睫毛の下、潤んだ翡翠がとても美しかった。こんな状況でも漠然と彼女の美に浸る自分は馬鹿だな、と思う。
 でもなんで、そんなに悲しそうな顔をするのだろう。

「空き部屋の寝台に寝かせといてあげるから、具合が良くなったら自分で帰ってね。私は側にいたら、貴方を殺してしまうから、別の部屋にいるけれど。私を探したりはしちゃ駄目よ」

 そう言って、彼女はノエルを連れて食堂を出て、階段を上がって長い廊下の一つの部屋に入った。最低限のものが並んでいる部屋のベッドに寝かせられると、横になったことにより、少し楽になった気がした。
 おやすみなさい。そう声をかけられたから、ノエルは目を閉じる。
 混濁する意識の向こうで、彼女が言葉を零すのが聞こえた。

「ねえ、本当は貴方が来てくれて嬉しかったのよ。毒の娘はこうやって森の奥に隔離しておくしかないって、誰も会いに来てくれないんだもの。お伽噺みたいに、王子様が迎えに来て、私を連れて行ってくれるのをずっと待っているの。ふふ、叶いもしない夢は儚いものね」

 それから暫く寝込んでから、目を覚した。ノエルは体がなんともなくなっていることに安心して、胸を撫で下ろす。そうして、彼女の言い付け通り、屋敷の中の彼女を探すことなく真っ直ぐ出口に向かった。
 空は薄い紫と深い青のコントラストに染まっていて、陽は沈みかけていた。それだけ長いこと自分が眠っていたのだと知る。
 去り際に、来たときと同じように二階の窓を見上げると、思った通り彼女がいた。遠くの空の境界をひたと見つめるその表情には、やはり何処か寂寥感が漂っている。
 空と木ばかりの景色を見据える、その理由。結局聞き逃してしまったな、と思いながらノエルは森の中を進む。
 でもなんとなく、理由を想像することはできた。彼女はきっと、迎えに来る誰かをひたすらに待ち続けているのだ。一人きりの屋敷で、今も寂しく待ち続けている。
 毒がそれを阻もうとも、諦めきれなくて。毎日、誰かが連れ出してくれるのを。
 

***
お題、毒。第一回みんつくに投稿した作品です。
閉じ込められた美少女と何も知らない少年という関係にエモーショナルを覚えます。数年後にノエルが迎えに来たらいいな、とか。

Re: 愛に逝けば追慕と成り【短編集】 ( No.73 )
日時: 2020/07/08 23:08
名前: 立花 ◆FaxflHSkao (ID: rtUefBQN)

 大変遅くなりました!!! 感想を書き殴りに来ました。相変わらず感想を書くのは下手くそなんですけど、ヨモさんの小説好きって気持ちだけでも伝えたかったので、生暖かい目で見ていただけると嬉しいです。



 「鉄パイプの味がする」


 タイトルがまず好きです。もちろん鉄パイプとか食べたことないのでどんな味かは全く分からないけどきっとめちゃくちゃ不味いんでしょうね。物語の語り部のトラウマを表しているみたいで、なおかつインパクトもあって好きです。
 最初は百合かな百合かな、とヨモさんの作風を読み切ったとばかりに文字を目で追ってスクロールしていってたんですけど、正直裏切られたという感想です。もちろんいい意味で。死ぬほどヨモさん好きやわと職場で泣いて喜びました。
 語り部の話を聞いてると、友人がどうして村上のことを好きになっちゃったのか理解不能なんですけど、恋ってそういうものなのかなって。
 私はめちゃくちゃ「我慢できたね、偉いね」が好きです。なにこれ名言中の名言じゃないですか。本当にリアルでこういう奴がいたら死ぬほど嫌いになると思うんですけど、こういうDV特有の傷つけた後に優しくして私にはこの人しかいない、と思わせる方法。ストックホルム症候群とかもこうやって作り上げていくんだろうなっていう一種の洗脳みたいな彼の発言に軽率にときめきました。語り部の子がしっかり彼に嫌悪感をもってるところがさらに最高です。
 きちんと村上の取り巻きは彼のことを「頭がおかしい」と認識しているのに、それを止めることができない。鉄パイプの味、語り部にとっては血の味と変わらない。その表現が好きです。血って軽く舐めたことがあるんですけどめちゃくちゃ不味いじゃないですか、鉄の味ってきっとそれくらい不味いんだろうなって。

 どうして村上が高校になって語り部を突き放したのか、それが想像でしか賄えないんですけど、彼はもともと語り部のことがきっと好きだったんだろうなって。恋というかもう独占欲みたいなものに近いのかもしれないんですけど、大切なものほど傷つけたい、自分だけのものであってほしい、と勝手に想像するだけで大変楽しいです。彼にとって飽きた、というわけではなさそうなので、解放してあげたと考えるのが一番なのかなと。
 キスが鉄パイプの味がする。あの時の苦い最低な思い出の味がするってことですよね。村上が面白がってキスをしたというよりは個人的にほんのばかし好意をもってキスしたと私の中で解釈したので、私の中ではもう村上は「好きな子はとことんいじめたい小学生」という印象です。好きです。最低で最高です。何を言ってるのかよくわからなくなってきたんですけど、クズってめちゃくちゃいいなって久しぶりに思ったってことですね。

 深夜テンションで書いてるので頭がおかしい感想になってると思います。書いてる途中でも頭がおかしいなって理解できるのでたぶんやばいです。ちゃんとした文章に書きかえたいんですけど、率直な感想はこれなので一度これで送らせてもらいますね。


 二年越し。あれは私がまだ働きだしたばっかの頃でしたね。ヨモさんが反省してるって言ったから許してあげたのに。本当に激おこでしたからね、でも最高すぎたSS書いてもらってしまったので許しますね。こちらこそありがとうございます。だけど三ツ矢サイダーとシスコーンは会わない。不味い。鉄パイプの味より絶対に不味い!!! 混ぜるな危険!!!
 ヨモさんがわたしのために作品を書いてくれたということがとても嬉しかったです。ありがとうございました。感情が先走って意味の分からない感想になってしまって申し訳ないです。正直、読んだ私の妄想がたくさん入っているうえ作者本人の解説とか抜きなので、結構的外れなことを言ってるかもしれません。お許しください。
 これからもヨモさんの創作活動応援しております。ありがとうございました。

Re: 愛に逝けば追慕と成り【短編集】 ( No.74 )
日時: 2020/07/14 21:58
名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)

>>花ちゃん

タイトル私もお気に入りでした。私も食べたことないけど、錆とかついてて苦いんだろうなって思ってる。
この作品が私のために書くものなら百合にしたかもしれないけど、花ちゃんのために書くと考えたら、歪な男女関係がいいよなって思いまして。
友人が村上を好きになったのは、普通に高校デビューしてモテてたので、オチました(笑)

そう、あれだけ酷いことしたのに、最後には優しくするんですよ。痛いのに我慢できたね、泣かなかったねって。リアルでいたらころしてやるレベルの嫌悪感しかありませんが、これはSS。物語の登場人物としては最高に魅力的なんですよね、村上。

裏事情としては、はなちゃんの言うとおりです。村上は多分主人公に好意を持っています。それこそ「好きな子はとことんいじめたい小学生」なんですよ。キスをしたのは、好意があるからです。でも、意地悪もしたかった。好きだからキスしたくて、好きだから彼女の嫌がることしたくて、そんな幼稚な口づけでした。はなちゃんの解釈大体あってます。そういうの全部伝わってくれて嬉しいな。

悪いことをしたら反省するのは当たり前なのでね……こんなんで許されるなら、というか私の文章を好きだと言ってくれることが嬉しいので、またいつか機会があればはなちゃんのために書くのも楽しそうですね。
じっくり作品を読んでくれたのがわかる感想で、とても嬉しかったです。作品を書くのも楽しかったから、機会をくれてありがとうございました。

Re: 愛に逝けば追慕と成り【短編集】 ( No.75 )
日時: 2020/07/23 12:14
名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)

♯54 海に還す音になる

 その水族館に来た家族連れは、何組も頭を悩ませた。普通に水生生物を見て回っていたはずが、途中で子供が姿を消すのだ。

「鈴の音に誘われたの」

 たった一人、行方不明になってから三日後に見つかった少女は、ぬいぐるみを撫でながらそう語った。
 子供にだけ聞こえる音がするのだという。
 最初にリンリンリン、と三回。可愛らしい音に振り向くと、そこには水のドレスを着こなした小さな手の平サイズ女の子がいるのだとか。
 あなたはだあれ。訊ねれば、代わりに響く鈴の音。どうやらそれが、その女の子の声なのだろう。だんだんそれが、こっちへおいでとでも言っているように聞こえる。
 導かれた子供は、そのまま帰ってこなくなるらしい。もう一日に何回も迷子のアナウンスを流したが、子どもたちが帰ることはなく。

 なのに、行方不明になって三日経ったある日突然、その少女だけが帰ってきた。
 どこにいたのかと訊ねられると、それはそれは楽しい経験をしたと笑って答える。
 知らない子どもたちが混ざって、真っ青な水槽の中を元気に駆け巡ったのだと。喋るとコポリと泡を吐くだけで、声にならない。だからお互いが何を言っているかは理解できなかったが、その幻想の中では最早言葉も必要なかったという。
 少女が帰ってきたのは、お母さんに預けたままのぬいぐるみのことを思い出したから。イルカちゃんのぬいぐるみ。お土産売り場で買ってもらった、大切なやつ。あれがないと寂しいもの。だから、道を引き返した。
 でもそうしたら、もう三日も経っていたらしい。
 出会った大人たちがみんな血相を変えて少女を保護した。何が起こったのかわからない彼女は、ただぬいぐるみを探していただけで。
 他の子どもたちはいつまでも帰ってこなかった。水の中の泡沫のように、消えてしまった。
 それはまるで、ハーメルんの笛吹き男が子どもたちを隠してしまったみたいだ、と誰もが思った。
 謎の鈴の音。水の妖精が、悪戯に子供達を攫ってしまったのだろう。

 少女にはまた、リンリンリンと、耳鳴りのように鈴の音が聞こえる事があるらしい。執着の強い水の妖精が、彼女を呼んでいるのだろう。
 まだあなたを諦めてはいない、と。
 少女はそれが怖くて耳を塞ぐのに、鈴の音が鳴り止まない。リンリンリン。お母さんと過ごしていても、ご飯を食べていても、お風呂に入っていても、付き纏うみたいに鈴の音が響いた。
 等々耐えられなくなった少女は、鈴の音が何処から聞こえるのかを探し始めた。リンリン、リン。こっちだよ、こっち。囁くような声が、呼んでいる。
 こうなったら、音の元凶を捕まえて、もう煩くしないように懲らしめてしまおう。そう思った少女は、鈴の音を追いかけて、家を飛び出した。
 リン、リンリン。近い。そこにいるのね、と少女は音だけを頼りに進んで、そして、
 甲高い悲鳴が上がる。
 弾かれたように少女が振り向いたとき、もう遅かった。
 少女が立っていたのは、横断歩道。あ、と思う間もなく、信号の通りに走っていた車が少女に衝突して、鈍い音が響く。
 リンリン。遠のく意識の向こうで、青藍の中を泡が舞っている景色が映る。海の中で、少女と同じ年くらいの子供達が楽しそうにはしゃいでる声が聞こえた。

 目が覚めると、病室のベッドに寝かされていて、母親が傍らで両目に涙を貯めていた。少女は奇跡的に助かったらしい。
 鈴の音はまだ傍らで聞こえている。まだわたしに付き纏うつもりなのか、と少女はベッドを殴りつけた。それでも音は消えない。
 おかしくなりそうだと思った。
 やがて月日が経って交通事故の怪我も回復し、少女は退院した。

 鈴の音は消えなかったが、少女もそれをいちいち気にすることはなくなって、そして彼女は小学校に上がった。友達と話しているとき、授業を受けているとき、微かに遠くで鈴の音は鳴り続ける。呼ばれているのだ。だけど彼女は根気よく無視し続けた。
 そうして何年がすると、音がしなくなっていたのだ。しかし代わりに、おかしな夢をよく見るようになった。
 ──深海にいる。
 そうわかるのは、口を開くと透明のあぶくがコポリと音を立てるから。それと、青く透き通った光が差している。周りに生き物はいないけれど、ここは幼い頃に一度連れて行かれたあの空間に似ていると気付く。水の妖精が鈴の音で誘って、沢山の子供達が迷い込んだ、あの不思議な場所。
 自分の体を見下ろすと、腕がおかしいことをすぐに悟った。黒くて長い、うねうねした蛸の足みたいになっている。自分は蛸になってしまったのだろうか。わからないが、自分をよく観察するごとに、自分が人間とはかけ離れたものになっていることがわかって、怖くなる。うねうねと長い触手は何本も生えていて、表面をよく見ると鋭い歯のようなものがギザギザと並んでいる。

 そして、そんなことは気にならなくなるほどに少女は酷い空腹感を覚えていた。

 ──食べたい。今すぐに何か。なんでもいいから食べないと死んでしまいそう。
 そう思っていると、丁度何人かの幼い子どもたちが楽しげにこちらに近づいてくるのが見えた。
 少女は咄嗟に触手を伸ばして、子供の一人を捕まえて、喉元に食らいついた。
(非表示 ※運営規約上食人表現について保持できません 2020.07.23) もっと。もっとと、触手を伸ばした。子どもたちは怯えて逃げることはない。むしろどうしてか、楽しそうにこちらに向かってくるのだ。こんなに都合のいい獲物はいないだろう。
 リン、リリン。
 そのとき、あの鈴の音が聞こえた。
 何処から。
 自分自身からだ。
 どうしてだろう、と少しだけ思考して、そんなものも酷い空腹感が覆い尽くしていく。
 今はただ、(非表示 ※運営規約上食人表現について保持できません 2020.07.23)お腹が満たされるまで。

***
ちょっとホラーテイストにまとめてみました。
みんつくのお題「鈴、泡、青色」より。


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