『四』って、なんで嫌われるか、知ってる?

作者/香月

第六話


 「…であるから、この憲法九条に基づいて…」

 若い女の先生が、教壇の上で動き回っている。
 私の好きな、社会科の授業。
 なのに、ぜんぜん頭に入ってこない。
 眠いからじゃない。
 今朝の光景が、頭から離れないからだ。


 あの後、お父さんたちも起きてきて、獣医さんを呼んだ。
 もしかしたら、まだ助かるかも…という薄い望みからだった。
 でも、ダメだった。
 あんな朝早い時間に来てくれた親切な獣医さんは、ジャクソンを丁寧に診てくれた後、私たちに奇妙なことを言った。

 「篠原さん、ジャクソン君なんですが、少しおかしなことがありまして」
 「おかしなこと?」
 「ええ。あんなに血が流れていたのに、ジャクソン君には傷がないんです」
 「え?」
 「周りの血がジャクソン君のものかどうかは、DNA鑑定をしないと分かりませんが…」

 本当に、奇妙な話だ。
 私は学校に向かう道でも、遅刻で学校に着いてからも、ずっと獣医さんから聞いた話について考えていた。
 
 傷がないのに血を流す方法なんて、まず無い。周りの血がジャクソンのものじゃないなら話は別だけど、物理的に不可能だ。
 
 そうすると考えられるのは、あの獣医さんが嘘をついていた、ということ。普通に考えたら、これが一番ありえる。
 …いや、ないな。
 私は首をふる。
 あの獣医さんが嘘をついて得することは、何も無いはずだ。逆に人格を疑われる可能性だってある。多分、とても正直で親切な人なんだろう。そんな人が、わざわざあんな嘘をつくとは思えない。

 となると、あとは…。
 ここまで考えたとき、急に私の脳裏に凛の声が響いた。

 『……シアン』

 かすかに、震えていた。

 「……」

 私は前を見つめる。
 授業はもう終わっていた。


 学校からの帰り道。
 空が茜色に染まっている。
 腕時計を見ると、もう七時。なのにまだ蒸し暑い。

 「蘭!」

 ふいに背後から声がかかる。
 ふり返ると、褐色の肌と白い歯が、私の目に映った。

 「…玲」
 「よー、帰り?」
 「当たり前じゃん」

 家に帰る以外に、何か用があるのだろうか。

 「あ、そうそう。この前向井が、蘭と進展がないーとか訴えてたぞ」
 「なんであんたが言うの」

 向井くんとは、クラスメイトにして私の彼氏だ。
 彼氏といっても、形式上の、だけど。
 とはいえ、別に嫌いなわけでもなく、むしろ話してると比較的楽しい。果たしてこれが『恋』なのかが、よく分からないだけ。

 「いやあ、俺なりに心配なわけよ、向井とは仲いいからな」

 あまり玲に心配されたくない。なんか下剋上された気分だ。

 「それはどうも」
 「…で?どこまでいった?」
 「はい?」
 「とぼけんなよ。もうキスはしたんだろ?」

 玲の質問に、私はほほ笑む。

 「どうでしょう?」
 「何だよ、教えろよ」
 「…聞いて驚け。まだ手もつないだことない」

 目が点になる玲。
 ちなみに私と向井君は、もうすぐ付き合って半周年。

 「…あー、それはかわいそうだわ、向井」
 「なんで?いいじゃん、ピュアな少女でしょ」
 「自分で言ってる時点でピュアじゃねえよ」

 玲と言い合いながら家に入る。
 入ったとたん涼しい空気に包まれて、思わず吐息をもらした。

 「お帰り、二人とも」

 お母さんだ。今日は出掛けてないらしい。
 どうせなら、こういう晴れた日に出掛ければいいのにと思うのは、私だけだろうか。

 「母さん、アイスある?」

 玲がエアコンの前を陣取って言う。

 「あるけどご飯前なんだから、一個だけよ」
 「サンキュ!」
 「蘭は?」
 「私はいいや」
 「あら、そう?」

 こんな時間にアイスなんて、胃がもたないと思った私は遠慮する。

 「あ、そういえば」

 お母さんが何かを思い出したように、私たちに顔を向けた。

 「今朝来てくれた獣医さんの奥さんから、さっき電話があったのよ」
 「電話?」
 「そう。なんかね、獣医さんが私たちの家に来てくれてから、まだ帰ってないらしいの」
 「え?」
 「蘭に玲、何か知らない?」



 その日の夜、私は本棚から辞書を引っ張り出した。
 ある単語の意味を、調べるために。

 「シ…シ……あった」

 シアン。
 刺激臭のある、猛毒気体。

 辞書には、そう書いてあった。

 「…猛、毒………」

 私は無意識につぶやいていた。




 「……玲?どうかしたの?」
 『…蘭…やばい、俺……血が、とまん…ない…』
 「…玲?…ウソ?玲っ!どうしたの!?玲!!」