コメディ・ライト小説(新)
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- こひこひて
- 日時: 2018/01/29 22:18
- 名前: いろはうた (ID: hYCoik1d)
恋ひ恋ひて
後も逢はむと
慰もる
心しなくは
生きてあらめやも
万葉集 巻十二 2904 作者未詳
あなたに恋い焦がれ、
またきっと会えると、
強く己を慰める気持ちなしでは、
私はどうして生きていられるだろうか。
そんなことはできない。
綺宮 紫青
綺宮家の若き当主。
金髪青紫の目の超美青年。
鬼の呪いで、どんな女性でも虜にする。
そのため、愛を知らない。
自分の思い通りにならない梢にいらだち
彼女を無理やり婚約者から引き離し、自分と婚約させる。
目的のためには手段を択ばない合理的な思考の持ち主。
水無瀬 梢
綺宮家分家筋にあたる水無瀬家、次期当主の少女。
特殊能力を買われて水無瀬家の養子となる。
婚約者である崇人と相思相愛だったが、
紫青によって無理やり引き離され、無理やり紫青と婚約させられる。
しっかりとした自我をもった少女。
- Re: こひこひて ( No.2 )
- 日時: 2018/02/03 00:13
- 名前: いろはうた (ID: hYCoik1d)
「何をしている。
さっさと出ていけ。」
「私は、護衛を仰せつかった身。
お傍を離れるわけにはまいりませぬ。」
こちらとて本家からの命令でなければ、とっくに出て行っている。
脳裏に、養父と養母の顔が浮かんだ。
水無瀬家の養子として拾われたのは、十年も前のことだ。
平民である梢が拾われるきっかけとなったのは、その特殊能力のおかげではある。
だが、跡継ぎのいない養父と養母は、梢を我が子のようにかわいがってくれた。
本家の命令に背けば、水無瀬家は取り潰しとなるだろう。
それだけは、何としてでも避けなければならない。
「伴など、いらぬ。」
「任を解かれぬ限り、お傍を離れるわけにはいきませぬ。」
「ならば、今ここで、当主であるおれが任を解いてやろう。」
梢は伏せていた顔をはっと上げた。
何も功を立てずして、すぐに任を解かれたとなると、水無瀬家の面目は丸つぶれだ。
それでは養父と養母に顔向けできない。
数ある分家の中でも、水無瀬家はただでさえ弱い地位にある。
これ以上、日陰に水無瀬家を追いやるわけにはいかない。
「若様、それだけは、どうか。」
あまりの必死さにひきつった表情を浮かべているのだろう。
梢の顔を見ると、紫青はつまらなそうに鼻を鳴らした。
その目にあるのは嘲りと蔑みの色だ。
「所詮、己が保身のために走るのが人間か。」
「違います!!」
思わず大きな声を出してしまい、はっと目を見開いた。
対する紫青は目をすがめてこちらを見ている。
「五月蠅い。
かように大きな声を出さずとも聞こえている。」
「申し訳、ありません。
ですが、今のお言葉、訂正していただきとうございます。」
「おまえの家のためにそうも必死なのだとでもぬかすつもりか?」
こちらを見透かしたような目と言葉に、一瞬言葉に詰まった。
伊達に今を時めく今上帝と血がつながっているわけではなさそうだ。
その観察眼と洞察力は度肝を抜くものがある。
人の上に立つことに慣れていることが言葉の端々、所作からにじみ出ている。
ふう、と短く息を吐くと、紫青はけだるげに頬杖をついた。
色素の薄い髪が紫青の陶器のような頬にさらりとかかる。
「図星か。
おまえは、平民出身の養子らしいな。
拾ってもらった恩い報いるためなどと大義名分を掲げているようだが、馬鹿馬鹿しい。
家のためといいつつ、家に己が捨てられぬよう、保身に走っているだけではないか。」
梢はびくりと震えた。
咄嗟に何も言い返せない。
違うと即座に切り捨てることができなかった。
強くこぶしを握り締める。
「驕られないでくださいませ、若様。
我が力を振るうのは、貴方様をお守りするためではなく、我が家をお守りするためにございます。」
「戯言を。
まだそのような綺麗事をぬかすか。」
不敬に値する言葉を放ったにも関わらず、意外にも紫青は激昂しなかった。
声音はどこまでも冷徹だ。
やがて紫青は裾をやや乱雑にさばくと立ち上がった。
「付いてくるな。
我が視界に入らなければ、滞在は許す。
それ以上は、許さぬ。」
それだけ言うと、紫青は部屋を出て行ってしまった。
部屋に一人取り残されて、手に込めていた力を緩める。
紫青の瞳はまるで氷のようだった。
凍てつくまなざしは、全てを射貫く槍のようで、何も映さぬ鏡を思わせた。
- Re: こひこひて ( No.3 )
- 日時: 2018/02/05 01:57
- 名前: いろはうた (ID: hYCoik1d)
その目に映るのは
私だけでありたい
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
梢はひそやかにため息をついた。
今は、紫青の後をずっと追っているところだ。
このような生活をして、はやくも数日が過ぎた。
姿を見られたら護衛の任を解かれるようだから迂闊に前にも出られず、かといって紫青を放っておくわけにもいかず、こうして背後から見守っているのだ。
「……温室育ちのおぼっちゃま、というところでしょうか。」
物陰に隠れながら一人呟く。
この数日、紫青の護衛をしながら彼の観察もずっとしていた。
彼の第一印象は最悪だったが、その印象は一向に良くならなかった。
梢の護衛を嫌がり、すぐに任を解こうとしたのは、単に気位が高くて女に守られるのが癪に触っているだけなのだと思っていたが、思い違いだったようだ。
紫青の態度は、梢に対してだけ悪いのではなく、臣下に対しても悪かった。
世話ついでに世間話をしようとした女中もすげなく追い払い、昼夜部屋に引きこもる日々。
しかも、夜になれば必ず一人は若い娘が人目を忍んで紫青の部屋を訪れるのだ。
梢は顔を覆った。
紫青の顔がよいの認める。
あの顔の造作は神が作ったものと言っても過言ではない。
だが、中身は、引きこもりってばかりのとんでもない人嫌いだ。
崇人とは大違いだ。
梢はきゅっと唇をかみしめた。
崇人は梢の許嫁である。
とある貴族のの次男坊で、屋敷で一目見かけた梢に一目ぼれをしたのだという。
一目ぼれなど最初は信じられなかった梢だったが、崇人の誠実さに次第にほだされていった。
心の準備と両家の準備が整えば祝言を、と思っていた矢先にこの護衛の任が下りたのだ。
ため息をつきそうになる。
今度こそ、本物の血のつながった家族を持てると思ったのに、しばらくは氷のような冷酷無慈悲な人嫌いの主人の護衛をしなければならないとは、つくづくついていない。
「崇人様……。」
かすれた声で名を呼べば、その響きだけで体が震えた。
会いたい。
心がじわりと温かくなる。
もどかしいような優しい感情が胸に灯る。
崇人の春の日差しのような優しい笑顔が脳裏をよぎり目を伏せた。
しばらくは、本家の屋敷に滞在するため、崇人とはしばらく会えない。
それもしばらくの辛抱なのだと、自分に言い聞かせて、梢は引き続き紫青の姿を観察した。
- Re: こひこひて ( No.4 )
- 日時: 2018/02/13 22:45
- 名前: いろはうた (ID: hYCoik1d)
ことは数日後の夜に起きた。
梢は、いつものように空を見上げ、息を吐いた。
群青の空は今日も美しい。
空が宵闇に染まれば護衛の仕事は終わりだ。
あとは、綾宮家の隠密部隊がひそかに紫青の身の安全を守る。
いつも通り、視界の端に黒衣の人影を幾つか見つけてから、その場を後にしようとした。
しかし、動かそうとした足はひとりでに止まった。
「……待ちなさい。」
闇からにじみ出てくるようにして現れた人影に低く声をかける。
いつもと空気が違う。
この肌を刺すような感覚。
殺気だ。
梢が身構えるよりも早く人影たちが動いた。
「……くっ。」
人間離れした速さで突き出されてきた短刀を咄嗟に身を捩じって避ける。
この一瞬で間合いを詰めたというのか。
梢は素早く右手を突き出した。
パキパキ硬い何かが割れるような音が小さく響いた瞬間、ぐらりと人影が倒れた。
梢はただ手をかざしたようにしか見えない
その異様な光景に他の人影の足が止まった。
だが梢は躊躇しなかった。
手をかざすごとに、その先にいる人影が声もなくその場に崩れ落ちる。
恐れをなしたのか最後の一人がその場から逃げ出そうとした。
「駄目……!!」
逃がすわけにはいかない。
つい腕に力がこもった。
バキキッ
人影は動かなくなった。
その身は巨大な氷の塊に覆われていた。
やってしまった。
梢は力が抜けてぺたりとその場に座り込んだ。
力をまた暴走させてしまった。
「それがおまえの能力か。」
冷たい声に梢はのろのろと視線を上げた。
そこには紫青が立っていた。
あたりが薄暗いためその表情は良く見えない。
ぶるぶると手が震えているのにようやく気付いて、強く手を握り締める。
「なるほど。
通りで、本家のおいぼれ達がおまえを護衛役になどするわけだ。」
「近づかないでください。」
紫青が一歩こちらに近づいてきたのを見て、梢は鋭く叫んだ。
その必死さに、さすがの紫青も足を止めた。
今は力を制御できない。
紫青にこの力を使ってしまえば大変なことになる。
「対象を凍らせる能力か。」
「私が、力を使うのを待っていたのですか。」
かすれた声で問い返すと、不機嫌そうに紫青の声が低くなった。
「質問に答えろ。」
「……そのとおりです。」
梢の特殊能力は、手をかざした対象を意識的に凍らせる能力だ。
しかし、感情が高ぶったり冷静さを欠くと、自分の意志とは無関係に対象を凍らせたりしてしまう。
つまり、自分の力を上手く制御できないのだ。
「この者たちは氷漬けにされていないようだが?」
「……気道を少し凍らせて、息ができないようにしました。」
その間にすたすたと紫青が近づいてくる。
梢は目を見開いた。
この男は来るなと言ったのをもう忘れたのか。
「おれも氷漬けになどしたら、おまえだけでなく、おまえの家も潰されるだろうな?」
恐怖で体がこわばるのを感じた。
床に手をついた拍子に、パキパキと硬質な音を立てて、床の表面が凍り付いていく。
「どうも、力を制御できていないようだな?」
「だから、近づかないでください……。」
喉の奥から絞り出すように言っても、紫青はゆっくりと距離を詰めてくる。
楽しそうに笑う目の前の男が憎らしい。
唇をかみしめて、紫青を睨みつけた。
「ああ、そうだ。
あのおいぼれどもがわざわざ分家から、しかも大嫌いな平民を護衛に任命した。
裏があるに違いないと、泳がせてみたが、まさかかほどなまでに面白き力とは。」
やはり、こちらの様子を観察していたのだ。
見張っているつもりが見張られていたのだと思うと、かっとおなかの底が熱くなった。
自分の未熟さが恥ずかしい。
「おまえを、護衛として認めてやろう。」
「は……?」
唐突な言葉に間抜けな声が出た。
- Re: こひこひて ( No.5 )
- 日時: 2018/02/17 22:35
- 名前: いろはうた (ID: hYCoik1d)
その日から、屋敷の者の態度が少しだけ軟化した。
どうやら、紫青から屋敷の者に何か言ったらしい。
今までは表立って蔑みの言葉を投げつけてきた者達が、苦々しい顔をするだけになったのだ。
しかし、居心地の悪さは相変わらずで、一刻も早く任を解いてほしかった。
「おい。」
全ての元凶が読んでいる書物から目を離さずに不意に声を上げた。
半眼になって紫青を見つめる。
二人は、紫青の私室にいた。
だが実際に私室にいるのは紫青で、梢は廊下に正座をして見張りをしている。
昨晩のことが嘘のような静けさだった。
「何でしょうか。」
「今日は何も凍らせないのか。」
「……不必要に力を使う趣味はございません。」
「つまらぬ。」
生まれてこの方、くそまじめ、と言われても、面白い人間だ、とは言われたことがない。
つまらなくて結構だと、梢は無言で目を細めた。
そもそも自分の能力を好いてはいない。
この力は、奪うことしかできない。
それよりも、と伏せていた顔を上げた。
「昨夜の者たちはどこの手の者にございましたか。」
「知ってどうする。」
突き放す響きを帯びた言葉に、かすかに目を見開く。
紫青の言葉は今までも冷たいものだったが、今のは一際響きがきつかった。
見れば、紫青は不機嫌そうに眉根を寄せている。
「私は、護衛の者として知る義務があるかと。」
「おまえには関係のないことだ。」
今度こそ紫青は言葉で梢を拒絶した。
部外者には知る権利はないということか。
「……出過ぎたことを申しました。」
再び床に視線を落として考える。
昨夜はあれからすぐに追い払われてしまった。
だから、あの刺客たちがどうなったのか、どこの者なのか、何も知らない。
それからしばらく重い沈黙が落ちた。
ぱらり、と紫青が書物の紙をめくる音のみが響く。
「ああ、そうだ。」
完全に自分の思考にふけっていた梢はびくりと肩揺らした。
今度はなんだというのだろう。
「明日は、宮廷に出向く。
おまえも護衛ゆえ、付いて来い。」
またも唐突な言葉に、梢は目を丸くした。
宮廷だなんて、生まれてこの方行ったことがない。
宮廷作法も何もしらないため、顔から血の気が引いていくのが分かった。
護衛は護衛らしく、ひっそりと紫青の近くに侍っていれば見とがめられないだろう。
「……承りました。」
その日、紫青はそれっきり話さなくなってしまった。
- Re: こひこひて ( No.6 )
- 日時: 2018/03/10 17:43
- 名前: いろはうた (ID: hYCoik1d)
生まれて初めて訪れた宮廷は春色に包まれていた。
うららかな春の日差しの中、蝶が飛び回り、花が咲き乱れている。
焚きしめられた香の匂いが鼻をかすめる。
梢はわずかに上げた顔をまた下げた。
その身はさっぱりとした浅葱色の水干に包まれている。
長い髪は頭の上で一つにきちんと結わえられていた。
堂々と歩く紫青の後を、数歩離れて後ろからついて歩く。
紫青は、男性で加えて身分を高いゆえに、宮廷を出入りすることも多いのだろう。
よどみなく動く足は、この地をよく知っている証だ。
「梢様……?」
よく知る声が聞こえた気がして、足が勝手に止まった。
見れば、庭に婚約者である崇人が呆然と立っていた。
久しぶりに見る恋しい人の顔を見て、胸がいっぱいになる。
紫青もその声に足を止め、怪訝そうな顔で振り返っている。
「平城家の者か。」
「はい。
お久しゅうございます。」
平城家は、帝の血縁である綺宮家よりも格が低い。
紫青の姿を見た崇人は、さっと身分の上の者に対する礼の形をとった。
咄嗟に何を言えばいいのかわからない。
崇人には、本家の護衛役に抜擢されたとは伝えていない。
実際、彼の伏せられた瞳には困惑の色が見てとれた。
「知り合いなのか?」
紫青の瞳は嘘を許さない。
この者はおまえのなんだと言外に問うている。
梢はわずかに瞳を揺らした。
「梢様は、私の許嫁にございます。」
崇人が迷いない口調ではっきりと言った。
紫青がそうなのか?、という視線を向けてきたので、小さく頷いた。
嘘をつく必要はない。
「おそれながら、なにゆえ梢様をお連れに?」
「この者は、今、我が近辺に置いている。」
しれっとそう言う紫青の横顔を思わず見てしまう。
そんな言い方をされたら、崇人に勘違いされてしまう。
訂正しようと口を開こうとしたら、紫青に視線だけで制された。
ぐっと唇をかみしめる。
主人である紫青には逆らえない。
崇人の顔が見たいが、その顔は伏せられていて表情が見えない。
「さようでございますか。」
「ああ。
……行くぞ。」
そう言うと、さっさと紫青歩き出した。
梢は少しだけ躊躇した後、紫青のあとを追った。
胸にはとげのように後ろめたさが刺さって抜けない。
「なにゆえ、あのような言い方を。
あれでは、勘違いされてしまいます。」
「その程度で揺らぐなら、その程度の関係だったということだろう。」
紫青の言葉は平坦で、感情を感じられない。
どういう意図でわざと抽象的な言い方をしたのか見当もつかなかった。
すたすたと歩く紫青に遅れまいと早足で歩いていると、目の前に立派な屋敷が見えてきた。
「歌会……?」
庭では薄桃色の花が咲き乱れ、きらびやかな衣に身を包んだ殿上人が談笑している。
梢は、その匂うような美しさに目を細めた。
紫青の姿に目を止めた人々が、静かにざわめく。
黙っていれば、太陽神のような美しさなのだ。
無理もないだろう。
見目麗しく、式術にも秀でている紫青は、宮中でも注目の的のようだ。
「遅いではないですか、綾宮の君。」
中でもひときわ美しい女性が立ち上がり、紫青の手を取った。
その手を振り払わずに、導かれるまま紫青は人の輪の中に入っていく。
梢は、お付きの者らしく、紫青から少し離れたところに控えた。
紫青の手を握っている女性はまだ若く、笑みを浮かべる様子は愛らしい。
一目で紫青を好いているのだと分かる。
紫青の恋人だろうか。
もしそうなのだとしたら、先ほどの仕返しになにか言ってやりたいが、
身分上そうもいかない。
しかし、その女性だけでなく、
次々と若い女性たちが紫青のもとへと向かっていった。
思わずまばたきを繰り返してしまう。
まんざらでもなさそうな笑みを浮かべている紫青は、
うまく女性たちをいなすと、自分の席に着いた。
その紫青にすら、はりつくようにして女性たちが群がっている。
他の殿上人はこの光景に慣れているようで、半眼になっている。
「まこと、鬼の血とは恐ろしいものよ。」
「あらゆる娘を虜にする血ゆえよ。」
鬼の血。
分家にいた時からその噂は聞いていた。
綺宮家の長男は、あらゆる女性を虜にする。
しかし、本当に愛する者の心は手に入らない、という逸話が起こっている。
そもそも、紫青が人を愛するような人間には思えないと、
梢も半眼になって目の前の光景を見つめた。
通りで夜な夜な見知らぬ若い娘が紫青のもとを訪れるわけだ。
「あさぼらけ……。」
歌読みが始まった。
こうなってしまうと護衛役はただただ暇だ。
殿上人は、ただ歌を詠んでいるのではない。
歌を上手い者こそ、風雅を知るものとして出世していくのだ。
この機会を逃すまいと、みな必死である。
ふと視線を感じてそちらを見た。
目を見開く。
末席ではあるが、崇人がそこにいた。
崇人も、紫青より身分が低いとはいえ、彼も貴族だ。
歌会に招待されたから、彼もここにいるのだ。
その彼に、ついに白羽の矢が立った。
「平城の君。
何か、花の歌が詠んではくれまいか。」
「さような。
春らしいものがよい。」
花の歌は難しい。
詠みつくされているからこそ、無難なものではいけない。
それをわかっていて、他の者は意地悪をしているのだ。
しかし、崇人は顔色を変えずに、さらさらと筆を走らせている。
「山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ。
(山桜が霞の間からほのかに見えるように
ほのかに姿を見たあなたが恋しいことだ)」
その場にいた者が、ほう、と感嘆の息を吐く。
春を詠む歌の中で、恋い焦がれる切なき歌は少なく、
崇人の歌は際立っていた。
歌を詠む間、崇人の視線はずっと梢に向けられていた。
まるで、梢のことを詠んでいるかのようなまなざしに胸が切なくなる。
「次は、私が読もう。」
突如、紫青が声を上げた。
姫君たちが、小さく黄色い声をあげる。
崇人は、春の歌を詠んだというのに硬い表情だ。
その間にも、紫青がさらさらと筆を走らせていく。
「夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ。
(夏の野の茂みにひっそり咲いている姫百合のように
人知れぬ恋は苦しいものです)」
斬新な歌だ。
春なのに、夏の歌を詠んでいるが、それが新しさを感じさせる。
なにより、この紫青が秘密の恋に焦がれる歌を詠むのが
女性たちにはたまらないらしく、彼女たちはうっとりとしている。
両者一歩も引かない歌の精度に、他の者達も負けじと歌を詠みだした。
楽しむべき歌会なのにも関わらず、崇人の表情は相変わらず硬かった。
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