ダーク・ファンタジー小説
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- ゆめたがい物語
- 日時: 2017/06/03 23:50
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: ZpTcs73J)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=10136
お久しぶりの方はいらっしゃるのでしょうか。
社会人になり、二年目になってやっと余裕が出始めました。
物語の事はずっと頭から離れず、書きたい書きたいと思い続けてやっと手を出す事ができました。
ほとんどの方が初めましてだと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
描写を省きつつ、大切な事はしっかり書いて、一つの文章で、後々に繋がる描写がいくつできるか、精進していきたい今日のこの頃。
と言うわけで、構成ぐちゃぐちゃ、文章ボロボロ、誤字脱字がザックザク……と、まあ、相変わらずそんな感じですが、よろしくお願いします。
二部開始
芙蓉と三笠、兄妹水入らずの旅行。一方で動き出す福井中佐と西郷隆。そしてシベルからは修学旅行でボリスが訪れていて……
——春の夜の、儚い夢も、いつの日か、願いとなって、色を持つ。色は互いに、集まって、悪夢を違える、力となる。
アドバイス、コメント等、大募集中です!
お客様(ありがたや、ありがたや^^
風猫さん
春風来朝さん
夕暮れ宿さん
沙由さん
梅雨前線さん
ヒントさん
彼岸さん
夢羊さん
- Re: ゆめたがい物語 ( No.57 )
- 日時: 2013/10/16 20:55
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: SsRumGYI)
安倍ほたるが上の空で帰宅したのは、九月の夕日がだんだんと空を染めながら顔を出し始める時刻であった。
いろいろな感情が渦巻き、何をどう考えて良いかも分からない。雑然と散らかった玄関の靴を、並べ直すこともなく、また彼女自身も靴を放り投げて、二階にある自分の部屋へと上っていった。
「……あ」
部屋に入るなり目に入ってきたのは、昨日東郷三笠からもらった芙蓉の髪飾り。整理された小さな机の上に、ちょっとした華やかさを添えるように、ひっそりと置かれていた。
無意識のうちに拾い上げた。感情がドロドロに渦巻く。
「こんなの……!」
心のどこかで三笠の優しい笑顔が浮かんで、胸の奥が痛んだ。
だが、それを振り払って、ほたるはペン立てにあるカッターナイフを取り出し、髪飾り、その花の部分に突き立てようとした。
その時だった。
部屋が、勢い良く開く。カッターナイフと髪飾りを、何か罪を隠すかのように机の上に素早く戻し、少女はドアのほうを見た。
そこには、ほたると似た雰囲気の、髪の長い女性。緑のゴムで一本結びにして、胸のほうへと流していた。
「お姉ちゃん、今日は、帰ってたんだ」
「まね、研究も一段落ついたし、それに……」
お姉ちゃん、と呼ばれた女性は、そんなことを明るい口調で言いながら、帰宅早々で汗のにじむ妹に近づいてきた。
ほたるの表情が、少しだけ緩む。大好きで、また尊敬する姉なのだ。
憲兵隊の西郷隆が称したように、優しくも、また行動的な女性である。最高峰、東城大学を首席で卒業し、現在はその大学院博士課程一年生。一介の、どこにでもある町の小さなたこ焼き屋の娘にしては出来すぎた経歴の姉であった。
「ほたるが、何か悩んでそうだったし、帰ってきちゃった」
「どうして……」
学問的に優秀、というだけではなく、この姉は昔からどんなに離れていても、妹のことは何故か良く知っていた。
二人の似た瞳が交差する。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
先に口を開いたのは姉、安倍かずらのほうで、芙蓉の髪飾りを机から拾い上げながら、妹の顔を見ずにしゃべりだした。
「国防軍少尉の東郷三笠君がキツネ面で、実は法的に裁かれ罪を償うはずの犯罪者を大勢殺していたんだってね」
爽やかな、不自然なほどくすみのない笑顔だった。
姉の言葉を理解するまで、数秒を要した。そして、そのあと、ほたるの背筋に冷や汗が流れる。
姉の手の上では、三笠が優しい笑顔で手渡した芙蓉の髪飾りが揺れる。暖かないくつもの声が、胸の奥で響いた。
それでも、かずらは容赦なく続ける。
「法的には、東郷三笠は捉えて憲兵隊に引き渡さないとね、未成年者とはいえこれだけ多くの人間を不法に殺すとどんな判決がくだされるか、とても興味深い判例になりそう、無慈悲、残酷な人殺しはどうなるか、この件は法学を研究する身としてはとても……」
「そんな風に言うのはやめて!」
嬉々として語る姉に、ほたるはおそらく初めて声を荒らげた。
キツネ面を否定し、三笠についても失望していた彼女が発する言葉とは思えなかった。
そんな妹を見て、かずらはやはり面白そうな口調で続けた。手のうちにはやはり、芙蓉の髪飾り。
「あら? 大量殺人の犯罪者を擁護するなんて、あなたらしくないわね」
「擁護してるわけじゃ、それにあんなやつ嫌いだし、どうなっても……」
姉の言葉に、ほたるは動揺したように、先ほどの怒鳴り声とは打って変わった自信なさげな弱々しく口を開く。だが、目だけは正直で、ある程度答えが決まっているかのように姉を貫いていた。
「じゃあ、何でそのカッターナイフを私に向けているのかしら?」
「え……?」
姉に指摘され、初めてほたるは自分が歯を出したカッターナイフを、大好きな実の姉に向けているのに気がついた。刃はまっすぐにかずらの胸を向き、その手はかたかたと震えていた。
「無意識に、東郷三笠君の害になりうる私を黙らせようとした。それって、ほたる、やっぱりあなたがまだ彼のことが好きだからじゃないの?」
かずらは、ほとんど泣きそうな顔で自分の手にある凶器を見つめる妹に、優しい口調で囁いた。すっと伸びた色白の長い指が、カッターナイフに触れて、そっとほたるの手から取り上げる。
静かにそれを机の上に戻すと、かずらはにっこりと微笑んだ。
「分からない、東郷君、たくさん人を殺してるのに、それでも、何か違う気がする、でも何にも分からない、どうしたら良いのか、分からない……!」
ほたるは、泣きじゃくって姉に訴えた。誰にも相談できないと、そう思っていた。それを、姉は全てを知った上で受け止めてくれる。机の端をぎゅっと片手で握りながら、ほたるは真っ赤な目をかずらに向けた。
「分からないのは当然。ほたるは東郷三笠君のことを、実はこれっぽっちも知らない。知らないと、何も始まらない。学問の基本よ」
かずらは冷静な口調でそういいながら、妹の手首に芙蓉の髪飾りをつけた。薄紅色の花が、二つ並んでしゃくり上げる少女を見上げる。
「もし、東郷三笠君が何者か知りたいなら、手がかりだけあげる。時は四年前、五月四日。この日を境に、東郷三笠少尉の人生は大きく変わってしまった。ここまで分かればあとは調べるだけよ、この時間なら、図書館開いてるんじゃないかしら?」
かずらはそれだけを言うと、さっさとほたるの部屋を去っていってしまった。まるで、はじめからこの情報を渡すために来たとでも言うように。
考えている余裕はなかった。ほたるは鞄を再び担ぎ、すぐに玄関へと走っていく。
外に出ると、自分の向かう図書館とは反対方向に、姉の姿が夕日の中で小さく見えた。
- Re: 【ひっそり】ゆめたがい物語【復活】 ( No.58 )
- 日時: 2013/10/30 01:18
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: SsRumGYI)
「一面記事は、芸能人のスキャンダルか、でもこれは関係ないと思う……」
図書館に着いたほたるは、四年前の五月五日の新聞を、目を皿のようにして速読していた。前日、何か大きなニュースはなかったか。大手新聞会社をはじめとして、ひたすらに読み漁っていた。
だが、大々的に取り上げられているのはどこの社も有名アイドルの不倫の話題。その他の記事をさがしても、特にこれと言ったものはなかなか出てこなかった。
数十分の末、ある地方新聞の、小さな記事に目がいったところで、ほたるの視線は釘付けになった。
「五月四日、大和海上でシベルを出発したハチロウ社の客船が沈没、乗客の二名の死亡が確認された」
本当に、小さな記事であった。写真も載っていない。人が二人死んだくらいでは、この程度の扱いで、それよりも芸能人のスキャンダルのほうが、世間は興味を示すのだ。
しかし、その小さな記事の続き。ほたるは確信を得た。
「亡くなったのは先日の柔道ジュニア国際大会で優勝した東郷三笠君の両親で、大会の応援に行った帰りだったという」
新聞記事を前にして、ほたるはしばらく言葉を失い、固まってしまっていた。
不意によみがえるのは、三笠が前に言っていた言葉。
——親が、遠くにいてな。
遠かった。外国というレベルではない。手の届かないところだった。
溢れそうになる涙を、ほたるはすんでの所でこらえた。何か引っかかる。このことだけなら、三笠がキツネ面をしていることと繋がらない。そんな気がしたのだ。
図書館閉館五分前の音楽が鳴る。新聞をカウンターに戻しながらも、ほたるは考え続けていた。
「あれ? かずらの妹さん」
新聞を受付の女性に返していたちょうどその時、突然降ってきたどこかで聞いたことのある声に、ほたるはバッと振り返った。
そこにいたのは、スーツ姿の若い男性。胸には憲兵隊を示す桜のバッジ。右頬にはほくろがある。黒縁の眼鏡こそ掛けていたが、それは昨日文化祭で会った姉の大学時代の友人、西郷隆だった。
「勉強熱心、偉い偉い」
と、言いながら、隆も新聞を何種類か抱えていた。眼鏡の奥では穏やかな瞳が優しくのぞいている。
だが、それもつかの間、ほたるが返した新聞を見るなり、その目の色は変わった。
「四年前の、五月四日……」
小さく、つぶやいた。胸についている憲兵隊の桜の紋が、きらりと光った。
「この日について、何かご存知なんですか?」
隆の反応を、ほたるは見逃さなかった。今は、どんな些細なことでも良いから、とにかく多くの情報が欲しかったのだ。
「君が何について調べたかったのかによるけどな」
隆は抱えていた本をカウンターにどさりと置きながら、眼鏡を蛍光灯の下で光らせた。優しげな瞳が、反射で見えなくなる。
「海難事故について何ですけど、何かご存じないですか?」
「……君は、東郷少尉について調べてるんだね。いいよ、教えられる範囲内で教えてあげる」
ダメ元だと、上目遣いがそう語っていたが、隆は柔らかく微笑むと、眼鏡を外して鞄にしまった。
ちょうど、追い出すように閉館の音楽がなる。「遅いし、家まで送っていくよ」と言いながら、隆は足早に図書館の出口へと向かい、ほたるもそれに続いた。
月明かりが図書館前の植木を淡く照らす。その影では、一匹のキツネが、出てきた二人を見つめていた。
- Re: 【ひっそり】ゆめたがい物語【復活】 ( No.59 )
- 日時: 2013/11/06 23:05
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: SsRumGYI)
朝から曇り空だった。
それは放課後になっても変わらず、鉛色が、窓の外にどんよりと広がる。
屋上へと続く階段に足を一歩乗せると、安倍ほたるはその重たい雲を、強いまなざしでキッと見つめた。
——東郷少尉は、両親と妹と、ごくありふれた幼少期を送っていた。
昨晩、図書館を出たあと、西郷隆が語った言葉が、頭の中で反復する。
まとめた茶髪をわずかにゆらし、ほたるは、薄暗い階段を一歩一歩ゆっくりと上がっていった。
——柔道のジュニア大会でも優勝し、天才少年としての名を恣にしていた少尉の人生が決定的に変わったのは小学校六年生の五月四日。国防軍も、裏家業も関係なかった頃。シベルでの大会のあと、乗っていたハチロウ社の客船が、事故を起こして両親が亡くなった。
街灯の下で静かに語る西郷隆。チカチカと切れかかった光はその表情を照らしては隠し、また照らしと、落ち着かない様子だった。
西郷隆は話し続けた。キツネ面が三笠であることは知っているようで、そのことについては軽く触れただけだった。
その声を頭で響かせながら、ほたるもまた電灯の切れかかった階段で足を進める。
——ハチロウ社からの賠償らしい賠償もなく、他に身寄りもない東郷少尉は孤児院に入ることになったけれど、ものの一週間足らずで少尉は飛び出した。
そんな声が、歩み続ける足を弱らせた。
ふと立ち止まり、ホコリの溜まった階段に視線を落とす。剥がれかけた塗装の下からは、コンクリートの鉛色が、ぼろぼろになりながらもひっそりと姿を現していた。
——事情については知っているけど、これ以上は僕からは言えない。でも、知っておいてほしいのは、東郷少尉は、三笠は、決して無慈悲な殺人者なんかじゃない。無慈悲なのは、運命の女神と、それから世の中の人たちなんだと思う。
おそらく、西郷隆はこれが言いたかったのだろう。ほたるはその時の憲兵隊員の目を見て、それを確信した。
犯罪者を捕まえる側に人間の言葉である。少女は戸惑いを覚えたが、それ以上に、何かが強く動かされた。
屋上の鉄扉の前に立った。この先に三笠がいることを、ほたるは知っている。屋上。その広い空の下は、三笠の特等席なのだ。
ドアノブに手をかける。その腕はひどく重たかった。
震える手でゆっくりと回し、重い扉を、音もなく開ける。
その先。鉛色の空の下には、こちらを向いて目を見開く、東郷三笠の姿があった。
「安倍……」
三笠は、唇だけそう動かすと、視線を一度落として、再びほたるのほうを見た。今度は、冷静さを形作った瞳になっている。
飛行機が、割と低めの空を飛んでいった。
「私は、東郷君、あなたのことを知りたい。どうして東郷君は、面を被って自分を隠すの?」
何故キツネ面なんかしているのかと、そういう風には問わなかった。
予想していた罵倒、ないしは無視の類いではなく、真摯にそう訊いてくる少女。三笠は不意打ちを食らったかのように、その場に立ちすくんでいた。
「四年前の海難事故のこと、調べたよ。国防軍でお金を稼ぐのは生きていくためだって知ってる。でも、それじゃキツネ面まで説明がつかない」
鉛色の空の下、乾いた風が、二人の間を通り抜けた。放課後の屋上では、校庭の部活動の声が、靄の向こうから聞こえてくる。
三笠は一度目をつむった。
風が、パッツリと切った前髪を舞い上がらせる。
目を開き、少年は一歩一歩、ほたるのほうへ歩き出した。
「力のない、素のままの俺じゃ、大切な人を守れない。自分を殺してでも、他の誰を殺してでも、俺が守り抜くって決めたんだ」
強い瞳をほたるに向けながら、三笠はそう語った。
ここにいない誰かに向けた言葉。不意に、ほたるの脳裏にはあの髪飾り、今日も鞄の中に忍ばせてきてしまった、あの芙蓉のヘアゴムが浮かんだ。
「安倍は、医者を目指していたな?」
「え? うん、まあ」
その問いは文字通り不意打ちで、ほたるは少し詰まりながらも答えた。
ちょうど三笠が、少女の前に立った。少し背の高い彼が、ほたるを見下ろす感じだったが、不思議と威圧されている風ではない。
太陽が少しだけ、雲の合間から見えた。
「じゃあ、病気に対する差別とも、無縁と考えて良いんだな?」
それは、ほとんど懇願するような口調だった。
要するに、お前を信頼しても良いのかと、そう問われているのだとほたるは思った。
三笠が、初めてイヴァンや竹丸などのごく限られた人間以外に心を開いた瞬間だったかもしれない。
いや、それは正確ではない。ほたるが、イヴァンや竹丸の同列となりつつある瞬間だったのだ。
ほたるの答えは決まっていた。しっかりと三笠の目を見て、そして大きくうなずいた。
「ついてきてくれ。お前に俺のやっていることを認めてほしいとも、理解してほしいとも思わない。ただ、知ってほしい。それだけだ」
以後黙っていく三笠の背。触れられる距離まで近づいてみる。だが、やはりその間には大きな壁があるように思えた。
だが、確実に、やっと見える位置まで来たのだという実感が、そこにはある。知ろうとしなければ、見えなかったはずの、その背中だ。
学校前の停留所から乗った空いたバス。表示を見ると、そこには海岸病院とあった。
- Re: ゆめたがい物語 ( No.60 )
- 日時: 2013/11/25 22:36
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: SsRumGYI)
大和国首都、東城。その臨海部に位置する海の区。
とはいうものの、近くには山や森がそびえ立ち、限りなく山の区に近い、その地域。
二階建てのアパートがあった。赤さびた手すりをたどって、抜け落ちそうな階段を行くと、くすんだ銀色のドアノブ、その向こうから、魚の焼ける良いにおいが漂ってきた。
夕日が、ドアノブを鈍く光らせる。
その奥からは、男女の声。
「さすがはかずら、こうも思い通りに妹さんを動かすとは」
椅子に座り、コーヒーを片手にそうつぶやいたのは、整った顔たちの青年だった。長い茶髪を一本結びにして、首からは壊れた銀の懐中時計を下げている。
カップを置き、すっと立ち上がると、男はキッチンへと歩き、魚の調理をしている女性の隣に立って、洗い物をし始めた。
「竹丸のためだからね、三笠君を助けろって」
茶髪の女性は、フライパンに塩をふりながらこともなげに言った。知的な瞳が、楽しそうに光る。間違いなくそれは、安倍ほたるの姉、安倍かずらであった。
「感謝するよ。これで三笠は、とりあえずは潰れない」
そういう竹丸の表情は、下を向いていてよく見えなかった。泡が、水に跳ねて竹丸の鼻頭につく。
「とりあえずは、ね」
かずらは、長い指をそっとのばし、竹丸の形の良い鼻を撫でた。決まりが悪そうに、青年は洗い物を続ける。
「とりあえずさ、こんなんじゃ、あいつにとって何の救いにもなってない、でも……」
歯ぎしりが聞こえた。
首から下げた懐中時計、その止まった針が異様に目へと入ってくる。
かずらは、そっと後ろに立つと、そのまま抱きしめ、子供をなだめるように手で優しく恋人の厚い胸板をたたいていた。
海岸病院。
エレベーターの中で、三笠はずっと無言を貫いていた。七のボタンがオレンジ色に光り、流れるような早さで階が上がっていく。だが、七階に近づけば近づくほど、ほたるには終わらぬ時間が流れているように感じた。
エレベーターが止まった。
開いた扉の先には薄暗い病棟。受付係の看護師が、三笠を見ると軽く頭を下げ、次に後ろからついてきたほたるを見ると、はっきりと分かるほど表情を崩して驚いていた。
三笠は、一つの病室の扉の前で止まった。入院患者の名が記されているはずのプレートに名はない。
ノックをした。三笠の表情が少しだけ変わる。
何も返答はない。表情には若干の影が入った。
「いつも」
三笠はドアを開けようとした瞬間、つぶやいた。
「ノックしたら、答えてくれるんじゃないかって、期待してるんだ」
悲痛な声だった。今まで聞いたことのないほどの、つらい色があった。
そっと、ドアを引く。
オレンジ色の夕日が、薄暗い純白の病棟へとぱっと差し込む。
ほたるは、声を失った。
そこには、機械に繋がれ、顔すら分からない誰かが横たわっていた。
「三年間、目を覚ましていない。機械がないと心臓すら動かせない。治療には、莫大な金がかかる。世間ではこの病気への差別が根強くて、誰に頼ることもできない」
三笠はそんなことをつぶやきながら、ベッドの横に膝をつき、その小さな白い手を取った。
「でも、生きてる。ちゃんと手だってあったかい、生きてるんだ」
目の前の患者が誰なのか、ほたるは知らない。だが、泣き出しそうな三笠の震えた声を聞いていると、キツネ面がどうのこうのなどということは、頭から消えてしまった。
紅の夕日がまぶしい。痛いほどに、輝く。
「……紹介するよ。良ければ手を握ってやって」
三笠は、そんな夕日の中で、ほたるに促した。白くて小さな手のひら。それだけが、機械もなく生身の手のひらだけが、人間であることを示している。
壊れ物に触るかのように、ほたるはそっと、だが迷いなくその手を取った。ほのかに暖かかった。脈拍も、かすかに感じられる。
「芙蓉だ。妹の、東郷芙蓉。あと三ヶ月で、十二歳になる」
「妹、さん……」
語る三笠の口調はどこか誇らしげで、また優しさに満ちあふれていた。
芙蓉。ほたるは、確信を得た。鞄を漁る。中から、あの髪飾り、芙蓉のヘアゴムを二つ取り出した。
三笠の目が大きく見開かれる。
「このヘアゴム、妹さんにあげようと思ってたんじゃない? 東郷君」
唖然とする三笠をよそに、ほたるは眠り続ける少女の枕元に、ヘアゴムを二つ揃えて置いた。夕日に照らされ、薄桃色の芙蓉が、赤く輝き、微笑みを浮かべる。
「……安倍は、何か、芙蓉に似てるんだ。どこかで、お前と芙蓉を重ねていたのは事実だと思う。すまなかった」
三笠は深く頭を下げた。
しばらく沈黙が続く。
波の音が遠くで聞こえた。
ほたるは、深くため息をついた。その瞳は、オレンジ色の優しい光を宿している。
「……東郷君は、きっと優しすぎるのね。これでキツネ面のことも全部説明がつく。優しいのよ、痛いほどに、苦しいほどに」
「違う。力がなくて、弱いだけだ」
三笠は、自分の手のひらを見つめながらつぶやいた。
なおもほたるは夕日の中で優しい視線を向ける。
「何で、俺が神からもらったチカラは、イヴァンみたいな医療系じゃなかったんだろうな。俺の願いは、俺は、芙蓉を守りたかっただけなのに……」
悲痛な声の向こうに、ほたるは憲兵隊の西郷隆の言葉を思い出していた。
——無慈悲なのは、運命の女神と、それから世の中の人たちなんだと思う。
三笠には、敵が多すぎた。
突然一人になってしまった彼に、いったいどうすることができただろう。
ほたるの茶色い瞳からは、自然と涙があふれていた。夕日できらめく涙は、止めどなく頬を伝っては落ちていく。
抱きしめたり、慰めたりといったことを、三笠はしない。
ただ何度も、ありがとうと、その言葉をつぶやき続けた。
面会終了時間を告げる放送がなるまで、夕日がそんな二人を優しく包んでいた。
- Re: ゆめたがい物語 ( No.61 )
- 日時: 2013/12/08 14:22
- 名前: 紫 ◆2hCQ1EL5cc (ID: SsRumGYI)
第十一章 ゆめたがい
——戦闘兵科付軍医なら、限られた物資でいかに多くが助かるか考えろ!
血と薬品と硝煙の臭いで、鼻の奥が痛くなる。
寒く薄暗い洞穴の中で、黄緑色の髪の少年が年配の白衣の男に頬を殴られた。そのままよろけた彼は、ベッドの上の患者に倒れ掛った。
血の臭いがする。倒れた先の患者からは、暖かみが感じられない。胸にはカボチャほどのえぐられた傷があり、既に事切れていた。
——助からない人間は捨てておけ! その包帯で、消毒液で、何人助かるか考えてみろ、俺たちは、軍医だ!
ちりんと、涼やかな音が外から聞こえたような気がした。
薄暗い洞穴に、突然、明るい日差しが差し込み、年配の軍医の姿は見えなくなる。血の臭いも、消毒液の臭いも硝煙も、だんだんと薄れていった。
青年は、茅葺き屋根の民家の軒先でごろりと寝転がっていた。うっすらと目を覚まし、ぼんやりと釣下っている赤い金魚の風鈴に目を向ける。透明の風鈴の先には、険しく聳え立つ山が見えた。
「お前が、呼び戻してくれたのか」
金魚の絵に向かって、青年はシベル語で語りかけた。
九月末の生暖かい風が、汗ばむ前髪を撫でて、また風鈴を鳴らす。
イヴァン=ボルフスキーは、寝転がったまま伸びをすると、素早く立ち上がった。
家の奥から老人が歩いてくる。旅の途中、これから先にある険しい山を登るというと、この家の老婆が少し休んでから行きなさいと、軒先を貸してくれたのだ。
金魚の風鈴に別れを告げると、イヴァンは玄関のほうへと歩いていった。
九月も終わりになると、高校生たちも夏休みの余韻からすっかり解放され、しっかりと勉学や部活に励む、というのが理想である。
だが、少なくとも、一年生トップクラスの才女、安倍ほたるはそうではなかった。
ずっと、気になることがあるのだ。
ほたるは、屋上で少し強い風に当たりながら、一人フェンス越しに遠くの海を見つめた。
「東郷君、今日も学校来てない」
つぶやいた言葉は、生暖かい風の中に溶けて消えた。
メールを送っても、返事はなかった。電話をしても、いっこうに出る気配はない。三笠のクラスの担任に聞くと、国防軍から少し休ませてやってほしいという連絡が、福井中佐という人物から下士官伝えに入ってきたという。
上着のポケットから携帯電話を取り出す。やはり、三笠からの連絡は何もない。
——知らないと、何も始まらない。
不意に、いつかの姉の言葉が頭に響いた。
見つけた気がした。手がかりが、あるような気がした。
ほたるはきびすを返して、小走りで屋上を後にする。
その途中で、ほたるは素早く電話をかけた。画面に表示されたその人の名は、姉の友人である西郷隆。三笠のことで何かあったらと、連絡先を教えてくれていたのだ。
薄暗い階段を下りながら、ほたるは望みを胸に、かの憲兵隊員が電話に出るのを今か今かと待っていた。
——主は、僕に何ができるとおっしゃるのだろう?
黄緑色の髪の少年は、小銃を抱えて木々の間を走っていた。
時折、銃声が響いたと思うと、彼のすぐ横の木にめり込む。
「こちら第十六小隊斥候、報告いたします、敵兵数……」
大きな木の陰に身を隠し、少年は小声で得た情報を報告する。
その時だった。
ちょうど遠くから何かが飛んでくる音がした。少年は報告そっちのけで、咄嗟に距離を取って身を屈めた。
拳ほどの大きさの何かが飛んできた。地面に触れるや否や、閃光を出して破裂する。
距離を取ったとはいえ、少年はそれに耐えきれず吹き飛ばされ、別の木に叩き付けられた。
耳につけたインカムからは、兄の友人でもある上司が金切り声をあげて応答を求めている。
「ほ、報告、続けます、敵位置は……」
薄れいく意識の中で、少年は己に課された任務を続けようと、伝えきれなかった情報を荒い息の中でつぶやいていく。
「ボリス! 報告は良いから、動けるか、怪我は? イヴァンが有給でいないんだから無茶するな、迎えにいくから敵に気をつけて待ってろ」
インカムからは、そんな声が聞こえてきていた。
だが、ボリスには届いていない。ほとんど残っていない意識の中で、報告だけを続ける。そして、ヨロヨロと立ち上がると、少し歩いた先の洞穴に身を隠し、倒れ込んだ。
——主よ、チカラも何もない僕は、どうすればあの子を救えるのですか。
暗い洞穴の中に、いつかの少女の白い手が、ぼんやりと浮かび上がる。
手を伸ばすと、何もなかったように消えてしまった。
寒い洞穴だ。暗く冷たく、上からはしずくがぽたぽたと降ってくる。
——主よ、もっと僕が頑張れば。
何滴目かのしずくが額に落ち、そこで少年の意識は途絶えた。
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