複雑・ファジー小説
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 失墜 【完結】
- 日時: 2021/08/31 01:24
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: bOxz4n6K)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19157
歪んだ恋愛小説です。苦手な方はご遠慮ください。
>>1 あれそれ
☆この作品の二次創作をやってもらっています。
「慟哭」マツリカ様著 URL先にて
「しつついアンソロ」雑談板にて掲載中
キャラクター設定集 >>80-81
あとがき >>87
>>99
>>100
- Re: 失墜 ( No.50 )
- 日時: 2016/10/04 02:28
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
- 参照: 大ファンなので第四次川谷絵音ショックを受けています
『はじめまして罪と罰よ』
僕はいつか、青山瑛太を殺すつもりだ。
酷く澱んだ六月の空が間近に迫り、今年は梅雨明けも遅いのか、ぽつりぽつりと雨が頬を打つ。そろそろ受験というものを本格的に考えなければいけない僕らの気は重く、ここから見上げる二階の図書室では、何人かの生徒が教科書とノートを開いていた。その静寂の何メートルか下にいる僕らを、風に揺れる木々さえ嗤っている。
壁際に倒れ込む僕と、道端のゴミを見るような目線を僕に向ける青山。ポケットから財布を取り出し、渡すと、更につまらなそうな顔をされる。ケンカが弱い青山は、更に弱い僕を痛めつけて遊びたいらしい。
「……三千かよ、すっくねえ」
舌打ちと、とすん、と僕の財布がコンクリートに落ちる音がする。破れた穴から落ちた十円が転がっていく。青山は野口英世を三枚学ランのポケットに押し込んで、次は五千だからなと言って、ガムをぐっと噛んで、端正な顔をゆがめる。
まさか誰も、僕らがこんなことをしているとは思わないだろう。青山は学年でも指折りに勉強が出来て、つい最近までテニス部の副部長を務め、中体連ではダブルスの県大会まで勝ち進み、さらには生徒会からも声を掛けられているという、正真正銘の優等生だ。対して僕は、勉強はそれなりにできるけれど、あとはてんでだめで、友達もろくに居ないから、暇とストレスを持て余した優等生のサンドバック兼財布になっている。
最初に呼び出されたのは、今年の五月の事だった。中体連に向けて練習している奴らの声がうるさくて、帰宅部の僕は放課と共に自転車に乗って速攻家に帰るような生活を送っていた。
忘れもしない五月十六日、酷いくらい空は晴れていた。四時間目が終わった後、前の席の青山が、「放課後体育館の裏に来てよ」と笑いかけたことを鮮明に覚えている。それが、僕と青山の初めての会話だったかもしれない。教室の隅の日陰で涼んでいる僕と、眩しい太陽の下で友達と笑い合っている青山は、それほどまでに関わりが無かった。話しかけられたとき、なんとなく、嫌な予感はしていた。青山はいつだってクラスの真ん中に居る奴で、僕はそもそもそういった男が嫌いだ。「矢桐」と僕を呼んだ時も、目を逸らしたくてしょうがなくて、だけど無理矢理合わせた瞳は、大嫌いな僕の兄にどこか似ていた。
終わったなあ、と思った。僕が崩れていく音がした。これまでも僕は、無意識下で「搾取される側」の人間だったけれど、それをついにはっきりと認めさせられた気がした。青山は、その辺の友達が多い男とは少し違う。薄々とはわかっていた。いくら女の子に好かれても、テストの点数が良くてみんなの前で先生に褒められても、青山が浮かべる笑顔は全部、心からの物には見えなかったし、むしろ、楽しそうに笑っている奴らをどこか冷めた目で見ながら、「お前らはそんなので満足してるんだな」なんて言いたげにしているような、そんな印象があった。
心の中で、僕は青山を怖がっていたのかもしれない。放課後、矢桐の家って金持ちなんだよね、と切り出した時の青山は、五月の爽やかな空の下、真っ直ぐで、そして狂った瞳をしていた。
「僕、彼女できたんだ。高校生の人なんだけどさ、デート代足りないから、貸してくれない?」
千円でいいからさあ、と青山は笑う。手の込んだことをするな、と思った。周りからは上手く隠れられて、上はちょうど誰も居ない理科準備室で、逃げようにも後ろにあるのは壁。青山は、ずっと前からこの場所を探して、完全犯罪を成し遂げるつもりだったらしい。もちろん、最初は断った。だけど、お前の家は金持ちなんだろ、と迫られた時の、今まで見たことのなかった人間の顔に、僕はなんだか圧倒されてしまって、気付けば財布を差し出していた。その時の僕の所持金は五千と少しだったと思うけれど、そのうちの一枚を引き抜いて、お札だ、と呟いた青山の恍惚の表情は、たぶんずっと忘れられない。今まで誰にも見せなかったであろう、心から満足したような顔だった。学年で噂になるくらいの美少年が、白い肌を上気させて、薄い唇をだらしなく開いて笑っている。この異様な光景は、僕に恐怖しか植えつけなかった。そして、千円札を広げて、本当に、心から嬉しそうにしている青山を見て、うっすらと悟ってしまった。
後で聞いた話だが、僕が思っていた以上に青山は貧乏だった。父親は生まれた時にもういなくて、病気持ちの母親はラブホテルの清掃のパートをしているけれど、給料と呼べる額すら手にできなくて、さらに高校生の姉も居て、生活保護で暮らしているらしい。想像もつかない話だけど、全部本当だ。そうでもないと、千円札を見て宝くじが当たった人みたいに喜んだりはしない。
ありがとう、これで、今度は嫌われないで済むよ。青山は、ぱっといつもの作り笑いみたいな顔に戻って、僕に言った。この時点でもう、この千円札は帰ってこないし、これからもたかられるんだ、ということを、ぼんやりと感じていた。僕も青山も、もう戻れない。大切そうに千円札を財布に入れる青山を見て、可哀想だなと思ってしまう僕を、可哀想はどっちだよ、と別の僕が叱る。
人の多い方へ消えていく青山を見つめながら、僕はそんな事だけを延々と思っていた。
「神様も不公平だよなあ。矢桐なんかが金持ってたところで、ゲーム買って終わりだろ。僕なら、周りの人を喜ばせてあげられるのに。この金も、最初から僕の物だったら、矢桐も余計に殴られたりしなくて済んだのに」
六月。あの日から、青山は定期的に僕を呼んでは、金をせびるようになった。僕も馬鹿ではないから、だんだん大きくなる欲求額に、「それは無理だ」と言い返すようになった。すると、それまでは申し訳なさそうにしていたのが嘘みたいに、「僕は追い詰められてるんだよ」と、怖い顔で迫って、それでも拒否すると殴られる。青山はケンカはそんなに強くなさそうだけど、でもやっぱり痛かった。
倒れ込んだ僕に、最初からこうすればいいのにと冷たく言い放ち、財布を取り上げる青山は、いつも他人のせいにしたがる。自分が貧乏なのも、僕から金を取るのも、仕方のないことだと思っているらしい。馬鹿みたいだ。僕は、もう青山が大嫌いだった。電話が来ると吐き気がするし、教室ですべてを隠して笑う姿も見ていられなかった。でも、僕から金を取るようになってから、青山の人生は順風満帆そのもので、友達と遊びに行くことも増えたし、年上の彼女とも仲良くしているみたいだった。僕はさらに腹が立って、受験勉強どころでは無かった。
だけど、卒業さえしてしまえば、僕と青山は会う事もなくなる。幸いなことに僕らは三年生だった。このころの僕と青山は大体成績が同じくらいだったけれど、あいつの家じゃ到底いけないであろう私立高校に入ってしまえば、同じ学校になるという事はないだろう。特に勉強する必要もない中堅どころの私立高校を希望して、僕は青山から解放されるのを待っていた。高校生活に夢も見ていた。気の合う友達が二、三人くらいできて、一年生の時に少しだけ気になっていた女の子と、二年生の夏に付き合って、みたいな妄想もした。というか、それだけが生きがいだった気がする。青山に金を取られるようになってからは趣味のゲームも買えなくなったし、学校帰りにコンビニで肉まんを買う些細なぜいたくさえ厳しくなった。でもこんな生活も、ちゃんと終わる。金を渡すたびに、「僕はお前なんかとは違って、幸せになってやる」と心の中で呟いていた。
そんなある日、青山は初めて、土曜日に僕を呼んだ。日曜にまたデートがあって、その金が足りないらしい。中学生の彼氏に金を出させるなんて、彼女の方もなかなかに狂っていると思うのだが、しょせん青山の彼女だ、そいつも同等のクズなんだろう。しかし、中学生のうちから変な女と付き合っていると、もう少しすると本気でラブドールとかと付き合いだしそうで怖いな。いっそ、そうでもしてくれた方が、金もかからなくていいかもしれない。向こう側のバス停からやってきた青山を見ながら、僕はそんな事を考えていた。
いつものように金を渡し、そのまま帰りたかったのだけれど、青山は唐突に、駅までの道を歩きながらこんな話を振ってきた。
「矢桐って、高校どこ受けるの?」
「……え、高校? 桜鳴塾のつもり」
青山が日常会話を振ってくるのはこれが初めてだったので、動転して咄嗟の嘘も出なかった。
へえ、そっか、私立なんだ。金持ちだしね、と青山は言い聞かせるみたいに言う。その調子には、少しの焦りも含まれていた。そして、帰り際に、とても不安定な瞳の色を見せて、こう言ったのだ。
「僕は、矢桐と同じ高校に行くつもりだから」
殺すしかないな、と、この時初めて思った。僕の描いていた高校生活は崩れ去り、青山瑛太はこれからも僕に近くて遠いところで笑いつづける。その現実を受け止めた瞬間、僕は居てもたってもいられなくて、部屋にあったカッターを取り出していた。要求の金額はどんどん上がっていく。千円から、二千になって、三千になって、ついに五千になる。僕の家だって無限に金があるわけではない。こんな時は、大人に告げ口をしたら良いんだろうけれど、その時の僕に、もう理性はなかった。
あいつを殺したい。僕のこの手だけで、突き落としたい。そうでもしないと、あいつは一生ついてくる。僕の大嫌いな青山の息の根をこの手で止められたら、どれだけ気持ちいいだろう。そんな感情だけが僕を支配して、他の事をなんにも考えられなくなる。あいつを殺したい。殺さなきゃいけない。僕がこの日々に終止符を打たないといけない。カッターを学ランのポケットに押し込んだ。幸せな高校生活の妄想は、大嫌いな男をずたずたに引き裂く妄想に変わった。
今日も明日も、全部を隠して青山は笑う。僕は金を渡す。その裏で、何を考えているかも知らずに。ポケットの中のカッターを、いつか取り出せる日を夢見ていた。
さあ、僕らはすでに共犯だ。気のすむまで、馬鹿げた駆け引きを続けよう。
- Re: 失墜 ( No.51 )
- 日時: 2016/10/09 02:29
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
12 恋をしに行く
女子バレーは危機的状況にあった。エースの柚寿が体調不良を訴えて、午前中のほとんどを保健室で過ごしていたのだ。肝心な時に彼氏の瑛太くんとは連絡がつかなくて、柚寿に直接聞いても、曖昧な返答をされるだけだった。
「……別れるんじゃないの? 青山と小南」
このご飯を食べ終えて、少し準備運動をしたら、ちょうどよく試合が始まる時間になるだろう。女子バレーは今日の花形種目だ。廊下ではしゃぐ女子生徒たちも、教室にいる男子たちも、この種目の時だけは体育館に来る。だんだん近づく本番に、緊張してきたけれど、私は私がやれることをやるだけだ。
食堂で、私は梓と二人でお弁当を広げている。ブロッコリーをもそもそと食べている梓は、小さな声で私に言った。別れるんじゃないの。そんな事を言われると、少し期待してしまう。瑛太くんがフリーになったら、私が正式な彼女になれる可能性もちょっとだけ上がる。早く別れちゃえばいいのになと思ってしまう私は、たぶんすごく性格が悪い。だけど、盲目みたいな恋をしてしまうと、他の全部がどうでもよくなってしまう。舌先で溶けていくチーズのグラタンみたいだ。ここまできたら、もう戻れない。
「別れたら、ワンチャンあるかな。私」
「……あのさ、もう一回だけ聞くけど、ほんとにセックスしたの?」
「ほんとだって、何回言わせるの」
梓はじとっとした目で私を見て、持っていた箸を弁当箱の上に置く。くだらないと言い捨てて、「あんた、遊ばれてるんだよ」と付け加える。余計なお世話だ、人の恋愛につべこべ言うなんて。梓は仲のいい友達の一人だけど、こんなに否定されると腹が立つ。
瑛太くんとホテルに行ったのは、本当だ。思い出すだけで心も体も火照ってきそうになるくらい、鮮明に覚えている。公園で告白みたいなことをしてしまった時、彼は驚いていたけれど、すぐに笑顔に戻って「僕も好きだよ」と言ってくれて、そのまま近くのホテルまで一緒に行った。びっくりしたのが、ラブホテルには受付が無いことで、瑛太くんはすごく慣れた手つきで部屋を借りて、そして、一緒に階段を登った。もし私が柚寿だったら、手でも繋いでくれるのだろうかと思ったけれど、柚寿のことを考えるのは辞めた。きっと、瑛太くんもこの時は柚寿の事をあんまり考えたくなかったと思う。真っ白なシーツ。控え目に流れるBGM。ハンガーに綺麗にかかっている瑛太くんのジャケット。一生忘れないだろう。耐えきれない恋心に負けて抱きしめた、細いけど確実に男の子だった体も、心も、全部、今だけでいいから、私の物にしてしまえたら。甘い匂いがじんわり頭の中を溶かす。見上げた瑛太くんも、とろんとした瞳で私を見ている。今だけ両想い。この瞬間のために、私はいくつもの初めてを捨てても良い。幸せだった。痛くなかったわけじゃないけれど、瑛太くんはどこまでも優しかったし、私もいっぱい頑張った。終わった後淹れてくれた熱いコーヒーを飲みながら、男の子もけっこう喘ぐのね、なんて呑気なことを考えてしまうくらいには余裕もあったし、瑛太くんも、バイバイする最後まで彼女みたいに扱ってくれた。柚寿、って一回だけ呼ばれたけれど、それは聞かなかったことにして、私たちは笑顔で別れた。
この話は、もちろん梓にもした。梓はやっと私の話を現実だと理解し始めたのか、「ありえない」と言いながらも聞いてくれるようになった。
「……嫌いなのよね、青山。なんかいけ好かないっていうか、柏野みたいに頭に何も入ってない馬鹿とは違って、全部見透かしてて、それで見下してる感じ。前からただの優男じゃないなってのは、なんとなく感じてたけど、まさか浮気男だったとはね」
レタスにドレッシングをたっぷり付けて、梓は言う。私は何かを言い返そうと思ったけれど、言葉がうまく見つからない。違う、瑛太くんはそんなんじゃない、と言いたいのに。
「やめときなよ。あんなのに身も心もボロボロにされて、自分の価値を失墜させてくのは、あんたなんだから」
「……そんなこと言わないでよ。恋するくらい、自由にさせてよ」
ばっかみたい。私の言葉を切り捨て、梓はお弁当のふたを閉めて立ち上がる。「もうすぐ試合だし、またあとでね」と言い残して、そのまま食堂を出て行ってしまった。食堂の人混みの中に消えていく梓から、途中で目を逸らす。残った私のお弁当。少しだけ余った、もう冷めたグラタン。
そういえば、柚寿は午後のバレーに参加できるのだろうか。ふと気になって、保健室の方を向いてみるけれど、この窓から白いカーテンで仕切られた保健室が見えるわけもなく、瑛太くんからの連絡もなく、結局なにもわからずじまいだった。
柚寿がいなければ、一回戦も勝てない。女子バレーのメンバー全員がそう思っている。だから、柚寿も多少無理して来てはくれるだろう。柚寿は頑張り屋だから、いくら体調が悪くても、いつも通り振る舞うんだ。そして、ちょっと弱ったところを瑛太くんに見抜かれて、心配されて、みんなに優しくしてもらうんだ。球技大会の日にまでこんなことは考えたくなかったのに、こんなことばかり、頭を巡ってしまう。「別れるかも」は梓の希望的観測であって、まだ別れたわけじゃない。瑛太くんと柚寿がいちゃついているのを目の前で見るよりは、一回戦で負けてしまったほうがマシだと考えてしまう、馬鹿な私に、よく効く薬が欲しかった。……いや、そんな薬があったとしても、私は盲目のまま、地獄へ突っ込んでいくのだろうけれど。
- Re: 失墜 ( No.52 )
- 日時: 2016/10/13 03:01
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
「試合、出れるの? 無理しなくても良いけど、せっかく頑張ったんだし、一回戦だけでも出ない?」
「うん、もう大丈夫だから。試合には出るよ」
気の強そうな顔を、珍しく不安げに歪めていた紅音を、安心させるみたいに柚寿は笑う。
柚寿が出れるなら、準優勝くらいまではいけるだろう。優奈たちも嬉しそうだった。時計を見る。もうすぐ、体育館に行かなければいけない。がんばろうねと、最後に声を掛け合って、私たちは体育館へ向かうことにした。
瑛太くんからは、まだ連絡がきてないのかな。ふと、少し前を歩く柚寿を見る。瑛太くんが出る予定だったというサッカーは、残念なことに四組と当たって一回戦で負けてしまったらしい。四組はほとんどの男子が運動部に所属しているという、異例なスポーツ科みたいなクラスで、柏野くんや瑛太くんみたいな運動ができる男子でも、まったく歯が立たなかったみたいだ。たぶん、みんな学校のどこかには居ると思うけれど、どこに行っちゃったんだろう。連絡も返さないのは異常だなあと思っていたその時、窓から見える下駄箱のところに、瑛太くんを見つけた。
球技大会を抜けて、外に出ていたらしい。瑛太くんからの連絡を待っているであろう柚寿に教えてあげようかと思ったけれど、やめてしまった。私は、瑛太くんと柚寿を応援できない。奪ってしまったストラップは、大事に持っている。瑛太くんを、心から私の物にしてしまうその時まで、私は柚寿とはあまり仲良くしたくないのだ。
窓からただ眺めてる瑛太くん、その隣にいる男子は、いつも一緒に行動している柏野くんや八巻くんではなかった。他のクラスの友達かと思ったが、どうにもあの後ろ姿に見覚えがある。矢桐くんだ。変な組み合わせに、思わず立ち止まって二度見してしまった。隣の梓に「なにやってんの、早く行くよ」と言われてしまったから、つられるみたいに歩き出したけれど、瑛太くんが矢桐くんと一緒に球技大会を抜けてどこかへ行くなんて、何があったのだろうかと、気になってしまう。
あとで、矢桐くんに聞いてみよう。笑顔を浮かべて、「なんでもない」と、言って、また歩き出した。
第一体育館は大盛り上がりで、まだ試合が始まっていないにもかかわらず、いろんな学年の生徒たちが集まっていた。たぶん、女子バレーくらいしか見る競技が無いから惰性で集まっているんだろうけれど、これから柚寿がこの場の全員の目を引くくらい大活躍するんだと思うと、私の気は重くなる。その群衆の中の、ひときわ目立つところに瑛太くんもいて、笑顔で柚寿に手を振っている。私はただ、この大勢の中の一人でしか無い。
軽いルール説明の後、ついに最初の試合が始まる。向こうのコートで二組対四組の試合が行われ、こっち側のコートでは私たちの一組と、五組が戦う。紅音によると、「五組は強いけど、勝てない相手じゃない」らしい。ネットを挟んだ向かい側に並ぶ五組は、柚寿にただならない警戒をしているだろう。それを逆手に取りつつ、そして柚寿の体調不良も気遣いつつ、紅音がメインアタッカーとして試合に臨む作戦だった。
笛が鳴る。最初にサーブを打つ優奈が、とん、とシューズのつま先を鳴らした。ふと体育館脇を見ると、瑛太くんと柏野くんと、二人の友達であろう他のクラスの男子がいた。その後ろに、ずらりと一組の生徒が揃っている。この中に、柚寿を応援している人は山ほどいるのに、私を応援している人は、きっといないんだろうなあ、と思うと悲しくて、すぐに視線をコートに戻した。
五組の、身長が高い女の子が、まっすぐ飛んだサーブを打ち返す。ネットのすぐ前に飛んできたボールが、軽い音を立てて床に転がる。駆け寄ってハイタッチをする五組のみんなを横目に、私は、今ボールを拾うべきだった梓を見る。
今のは、梓が取らなくてはいけなかった。私の隣の紅音が、今にも舌打ちをしそうな顔をしている。梓は運動が苦手だけど、練習ではこれくらい簡単にできていたはずだ。仲間を責めるなんてことをしてはいけないのに、勝ちへの執着と、柚寿や瑛太くんへの想いで、親友である梓を攻撃したがるなんて、私は最低だ。でも、それくらい余裕が無かった。だから、次に飛んできたサーブにも直前まで気づかず、あともう少しのところで見過ごしてしまう、すんでのところで、私はボールを打ち返す。軽く飛んでいくそれは、紅音に渡り、そして、ネットのすぐ近くにいた柚寿が綺麗にスパイクを決める。無音の体育館、床に打ち付けられたボールが、転がっていく。柚寿は、明らかに格が違った。次の瞬間、体育館に歓声が起こる。私たちはハイタッチを交わす。ナイス、と声を掛け合う。
そこからは快調だった。五組が未だに一点しか取らないまま、柚寿のサーブの番になる。長い髪がゆらゆら揺れて、柚寿はシャボン玉でも飛ばすみたいに軽く、かつ銃弾みたいに速く、ロングサーブが一直線に飛んでいく。ネット擦れ擦れの殺人みたいなサーブを、素人の五組が拾えるわけもない。またもや歓声が上がる。もはや柚寿の独壇場みたいになった体育館で、そのまま五点くらい獲得したところで、五組の意向によりタイムが取られることになった。
「柚寿、ナイス! このまま五組なんて倒しちゃお!」
優奈が嬉しそうに言う。紅音もそれに同調して、柚寿を褒めるようなことを言う。見に来ていた五組の男子さえ、目線が柚寿にいっている。あんなに活躍しておいて、髪も綺麗で、顔も整っていて、肌が真っ白で、すらりとスタイルのいい、本当の美少女なのだから、視線が集まるのは仕方のないことだろう。ありがと、頑張ろうねと笑う柚寿は、みんなに注目されていることも知らずにいる。いや、全部知っていて、それでも知らないふりをしているんだとしたら。
体育館脇に水分補給しに行った柚寿が、瑛太くん達に話しかけられている。もう勝ちは見えているのか、一組の席は大盛り上がりで、五組の方は通夜みたいな雰囲気が漂っていた。やる気の無さそうな五組のメンバーが重い足取りでコートに立つ。試合再開。笛が大きく鳴り響き、柚寿が高くボールを上げた。
「おめでと。体調大丈夫?」
二十対四。一組の圧勝に終わった。コートを出た私たちを、一組の仲間が出迎えた。真っ先に柚寿に話しかけている瑛太くんの言葉だけが大きく聞こえてくる気がした。柚寿は適当に誤魔化していたけれど、明らかに悪くなった顔色と、疲れた表情に、柏野くんもどこか心配そうだった。
次の試合に備えて、髪を直さなきゃいけないなんて言って、紅音たちはトイレの方へ向かっていった。取り残された私と梓は、体育館脇で、すごかったね、と話しかけてくるクラスメイトに、すごいのは柚寿だよという言葉を飲み込みつつ、笑顔を作っている。
「ねえ、柚寿」
「ごめん、私忙しいの。昼ご飯もまだ食べてないし。あとでね」
聞いたこともない、柚寿の強い言葉が聞こえて、私はおもわずそっちを向いてしまった。会話が途切れることも気にしなかった。さっきまで、梓やみちるがミスをしても笑顔で励ましてくれた柚寿が、瑛太くんを突き放すみたいに言い放ち、そのまま人混みに混ざるように、体育館を出て行ってしまった。
別れるんじゃないの、と梓が言っていたことを思い出す。それが現実になる日は近いのかもしれない。瑛太くんは、午前中保健室に居た柚寿に連絡も返さず、矢桐くんなんかと遊んでいるし、柚寿の態度はこれだし、もしかしたら。胸が高鳴る。別れちゃえばいいのにと思った、最低な私が、両手を上げて喜ぼうとしている。でも、なんで。そう思ったとき、あのストラップが頭をよぎった。
私が奪ってしまった、柚寿のストラップ。全部が全部、そのストラップが原因ではないとしても、少しでもあれが別れの引き金になっていたとしたら。耐えられないくらいの罪悪感がなだれ込んできた。気持ち悪くなってきて、立っているのがつらくなってくる。もし、バレてしまったら、私は柚寿にも瑛太くんにもずっとずっと恨まれるだろう。
申し訳ないことをしたな、と思いつつ、私は瑛太くんの体も一回奪ってしまったのだから、今さらそんなことを気にしてもどうしようもないな、という気持ちにもなり、どうしていいかわからない。でも、私が取り返しのつかないことをしてしまったのは確かだ。
泣きたくなる気持ちを抑えての、第二回戦。シードで勝ち上がった三組が、柚寿や紅音をちらちら見ながら作戦を立てているのが目に入る。コートに並ぶと、さっきよりもいくらか強そうな女子たちがそこにいた。
- Re: 失墜 ( No.53 )
- 日時: 2016/10/13 03:05
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
大きな歓声と、ハイタッチの音が、向こう側のコートに響く。私たちは気が抜けたような顔をして、何も言わずに体育館の真ん中で立っている。二十対四。まったく手ごたえのない、盛り上がりに欠ける試合だった。
二回戦の相手であった三組には、余裕で勝った。私やみちるが、柚寿や紅音にボールを回し、ブロックさせる隙も与えないくらいの鋭いスパイクを打っているうちに、あっという間に二十点に達してしまったのだ。コートを出るとき、今年の優勝も一組だね、と各地で声が聞こえた。その一員として、少しだけ誇りを持ったような気分にならなくもなかったのだが、ついに決勝戦と言う時に、柚寿が体調不良で試合の離脱を申し出たのだ。
……いや、正確に言えば、柚寿は離脱させられた。決勝戦が始まる前、柚寿は明らかに体調が悪そうで、それでも試合には出るよと言って笑っていたから、柏野くんや瑛太くんが心配して保健室に連れて行ってしまったのだ。一人で体育館に戻ってきた柏野くんは、「三十八度。柚寿ちゃんが試合に出るのは無理」と、珍しく沈んだ顔をして言った。柚寿の代わりに試合に出ることになった長岡さんも都合が悪そうにしていたし、紅音はもう諦めたのか、ろくに作戦も立てずにコートに入っていく。勝つのはほぼ不可能だった。柚寿のいなくなった私たちのチームを見て四組は、チャンスだ、とでも言うように目配せをした。そして、試合が始まると、拍子抜けしちゃうくらい歯が立たなくて、あっけなく四組に負けてしまった。
柚寿がいたら優勝できただろうに、私たちは準優勝で終わった。体育館脇に戻った時、柏野くんや八巻くんは、よく頑張ったと褒めてくれたけれど、その中に瑛太くんは居なくて、きっとまだ柚寿のところに居て、私たちはなんとなく消化不良なまま教室へ戻った。
「……仕方ないよ、まあ、来年もあるし、来年は絶対優勝しよ」
優奈とみちるが話している、そのちょっと前を不機嫌そうな紅音が歩いていく。最近、ずっと紅音は機嫌が悪い。付き合っているという彼氏と上手くいっていないのか、嫌なことが重なって起きているのか、私にはよく分からなかったけれど、紅音に気を遣わなければいけない柚寿や優奈たちは大変だな、と思った。ほどけかけている赤いリボンが視界をゆらゆらする。隣の梓は、死んだような目で「疲れた」と繰り返していた。
女子バレーが準優勝。サッカーは一回戦負け。卓球はメンバーが体育館に行くのを忘れ一回戦で棄権。一日目の競技は散々だった。やっと教室に戻ってきた瑛太くんや柏野くんは、明日頑張ろう、と教室のみんなに声をかけていて、みんなもなんとなくその空気に流されているけれど、正直言ってこの結果では明日も望み薄だろう。私は明日の持ち物が書かれた黒板を見ながら、ロッカーのカギを指に絡め、くるくると回していた。球技大会に非協力的な担任が淡々と告げる諸連絡の後、私たちは放課となった。荷物をまとめながらなんとなく見ていた瑛太くんが、保健室に居る柚寿の分の鞄を持つ。その時、血の気が引いて、咄嗟に立ち上がって、逃げるみたいに教室を出てしまった。ストラップの事、今度こそ瑛太くんにバレてしまうかもしれない。廊下を歩く人たちの波に逆らうように、小走りで玄関へ向かう。お願いだから、私を放っておいて。もしかしたら、もう全て私の犯行だと、みんなに知れているかもしれない。そんな被害妄想が頭を支配してしまうくらい、不安定なまま学校を出た。ああ、私はなんてことをしてしまったんだろう。
□
「お疲れさま、瀬戸さん。準優勝ってすごいね」
ゆっくり時間が流れるような放課後。偶然会った矢桐くんと、またサイダーを飲んでいる。あの頃より少しだけ気温が上がった夕方、まだ空は高く、夕焼けのコントラストがうっすらと見え始めている。
「ありがとう、でも、優勝狙ってたからショックだなあ」
「……あ、あれは、小南さんが出なかったからだよ。あいつ、頭おかしいんじゃねえの、なんであそこで抜けるんだよ、体調管理くらいしとけって……」
そこまで言って、矢桐くんは我に返ったように顔を上げて、「ごめん」と笑った。夕焼けに照らされて赤くなった頬を見て、意外と綺麗な肌をしてるんだな、と思った。
球技大会なんか、もうどうでも良い。私はあの奪ってしまったストラップの事だけが頭にあって、あの時、なんであんなことをしたんだと、ずっと自分を責め続けていた。だから、矢桐くんも私が落ち込んでいると思って、こうやって優しい言葉をかけてくれる。しゅわしゅわしたソーダは私の喉を潤してくれるけれど、筋違いな優しい言葉を掛けられたって、心は枯れたまんまだった。
「……元気、出してよ。瀬戸さんは頑張ってたよ」
「ありがとう、矢桐くんもお疲れさま」
「え、あー、どういたしまして。僕、何にも出てないけど」
あたふたしながら、それでも笑っている矢桐くんは、なんだかとっても幸せそうだ。好きな人と話していると、私もこんな気持ちになれるのかな。瑛太くんに会いたいな。そして、ストラップの事、優しく許してくれないかな。そう考えると泣けてきて、私はそんな私を誤魔化すみたいに、ソーダを流し込んだ。
私は何度でも、あの事を思い出してしまう。浮かんでは消えて、そしてまた波みたいにやってきて、ペットボトルの蓋を閉める暇すらない。話題も逸らせない。無難な話を選ぼうとして、出た言葉がこれだった。
「……そういえばさ、今日矢桐くん、瑛太くんと一緒にいたよね? 何してたの?」
「瑛太くん」という単語を出した瞬間、一瞬だけ矢桐くんの表情が固まったような気がした。一緒に学校を抜けるくらいなのだから、仲は良いんだと思うけれど、そんな反応をしなくてもいいのになとも思う。
「……ちょっと、コンビニ行っただけだよ。それで、相談乗ったんだ。小南さんと別れそうなんだって。仲良かったのにさ、びっくりだよね」
小南さんも、お揃いのストラップ外したみたいだし、たぶんもう別れるんだよ。矢桐くんは言う。ストラップ、という単語が出た瞬間、いままで何とか笑っていられた、ギリギリで支えていた心が崩れ、お腹が痛くなりそうになった。矢桐くんでも気づいてるという事は、当事者の柚寿たちが気付かない訳がない。私を疑っていたらどうしよう。もう学校に行けないかもしれない、と思うと、足元から崩れるような感覚を覚えた。
矢桐くんはこんな話をしていても、笑っている。そういえば、この人は私の事が好きなんだっけ。私はもうダメで、夕焼けで頭がぐるぐるして、言葉をぼろぼろに吐き出そうとしていた。好きなら、全部受け止めてほしい。私が瑛太くんにそうしたように。
「……そのストラップ、盗ったの私なの」
「え?」
「柚寿の鞄のストラップの事でしょ。あれ、私が盗んだの」
「……なんで」
「好きなの、瑛太くんが」
「……」
矢桐くんの顔は見れない。好きすぎて、私の物にしたくて、ストラップを盗んでそんな気分に浸っていました。馬鹿らしくて仕方ない。矢桐くんは、私の予想通り、何も話さなくなってしまった。私という人間は、矢桐くんが思う程綺麗ではない。人の物も盗んでしまうし、矢桐くんじゃない男の人のことを好きになる。好きなら全部認めてよ。私を慰めてよ。行き場のない想いが夕暮れに飛んでいく。どうせ話す相手も居ないと思うけど、「これは絶対秘密ね」と付け足そうとしたとき、矢桐くんは珍しく、しっかり私の方を見て、決意したみたいに言った。
「そのストラップ、僕にちょうだい。僕が盗んだことにして、青山に返しておいてあげるよ」
「……え?」
「……僕、青山と仲良いからさ。悪ふざけだと思って許してくれるよ。瀬戸さんの気持ちもわかるし、でも瀬戸さんのこと悪人にはしたくないから、僕に渡してよ。お願い」
「……ほんとに? いいの?」
うん、任せてよ、と矢桐くんは頷いた。
救いの手のように思えた。私を安心させるみたいに、優しく微笑んでいる矢桐くんは、夕焼けの中できらきらしていた。肩の荷が一気に下りたような気分になる。ああ、この人は、本当に私の事を大切に思ってくれているんだ。自分を犠牲にしてでも、私のためになってくれるんだ。もう無下には扱えない気がした。人は、誰かのためにこんなに善人になれるんだ。明日にでも渡してよ、待ってるよ、と彼は言う。涙をこらえて頷く。矢桐くんは、私が思うよりもずっとずっと、優しい人だった。こんな人と、人並みくらいに幸せになれたら、もうそれでいいのかもしれない。夕焼けの下、ありがとうと言って笑い合う、ふたりだけの秘密。まだ帰りたくはない、私たちの時間がゆっくり動き出した。
- Re: 失墜 ( No.54 )
- 日時: 2016/10/15 02:11
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
13 愛の逆流
そういえば、柚寿とファミレスに来るのは初めてだな、と今さら思う。
マックとか、チェーン店のファミレスとか、そういうお店に彼女を連れていくのは恥ずかしいことだと思っていた僕は、金も無いくせに、高めのレストランばかり選んでいた。実際のところ、このハンバーグと、あの有名店のハンバーグの違いは、よくわからない。きっと柚寿もそうなんだろうな、と思いつつ、これまで無駄になった金の事を考えては、そんな金があれば何ができただろうかと考える。自分のくだらない見得のために、背伸びしすぎてしまった。
「最初から、ファミレスで良いって言ったじゃない。お金ないんだったら、無いって言えばいいのに」
「……ごめん」
時刻は午後十時過ぎ、男物のだらしない服を着ている柚寿は、疲れた顔で僕に悪態を吐く。いつも僕に会う時は綺麗に化粧をして、髪も天使の輪ができるくらい綺麗にセットしてくるのに、今日は唇も渇いたままで、髪も無造作に結ばれているだけだ。こうしていると、あんなに美人だ美人だと褒めたたえていた柚寿も、人並みくらいの女の子に見えてくる。いや、彼女からしたら、僕なんて並以下なんだろうけど。今まで優しく微笑んでくれていた柚寿が、こうやって明らかな敵意を僕に見せてきたことが、それを苦しいくらいに証明していた。
僕はブラックコーヒーを飲めるフリをするのをやめた。たっぷりミルクの入ったカフェオレを見て柚寿は、「歯が溶けそうな飲み物」と形容して、ウーロン茶なんて可愛げのかけらもない飲み物をストローで啜っている。女の子は甘いものが好きと無条件で信じ込んでいた僕は、これまで柚寿の事を何も知らずに、甘いものばかりを勧めていた。嫌いなら嫌いって言えばいいのに。僕も柚寿も、嘘だらけの関係だったみたいだ。
「本当は、甘いものも好きじゃなかったんだろ」
「……甘いものが好きな、可愛い彼女でいたかったの」
でも、それももうおしまい。柚寿はピザに手を伸ばす。僕だって、完璧な彼氏でいたかった。そう言うけれど、柚寿から帰ってくる言葉はなかった。だから、諦めてハンバーグをナイフで切り分ける作業に戻る。しばらくして、ゆっくりピザを飲み込んだ後、やっと柚寿は口を開いた。
「……だめだね、私達。お互い嘘ばっかりついて、馬鹿みたい」
「……」
「別れよ、なんか、この機会に全部リセットしたほうが、私にとっても瑛太にとっても、良い気がする」
疲れ果てた顔の柚寿が、諦めたように言う。僕の手は停止し、あまりにあっけなく告げられた別れの言葉が、沈黙に残る。
嘘だろ、と言いたくなるのを抑える。一年付き合ってきて、僕は柚寿に、人の金とはいえ大金をはたいたのに、こんなにも簡単に関係が崩れるのが信じられなかった。昔付き合った先輩は、僕が十分にお金を持っていなかったから上手くいかなかったけれど、今度は完璧だったはずなのに。柚寿は真面目すぎるのだ。別に、矢桐の金で僕が遊んでいてもいいじゃないか。矢桐なんかより、僕の方がちゃんとお金を使えるのに。僕が誰よりも柚寿を幸せにしてあげられるのに。
「いや、気が早すぎだって。僕、柚寿には迷惑かけてないし、矢桐にも、金返すし……」
「迷惑とかじゃなくて、モラル的にもう駄目だなって思ったの。しかも、ばっちり私にも迷惑かかってるわ、この前も、渋谷くんと会ったんだけど、瑛太のことで弱み握られて、抱かれちゃったんだよ」
「……え? なんだよ、それ」
柚寿は冗談を言うタイプではない。少なくとも、こういう時には。全身の力が抜けるような、ひどい感覚に陥る。翔が僕を嘲笑っているような気がして、飲み込んだばかりのハンバーグを吐いてしまいそうになる。
翔に話したのが間違いだったと今さら気付いた。あの時翔に話していなかったら、いや、その前に矢桐のお兄さんと会って気持ちを不安定にさせられていなかったら、そもそも、矢桐から金を取っていなければ、僕はこんなことにはならなかった。ついに気持ち悪さが限界に達して、手を付けていなかった水に手を伸ばす。僕は、僕の所有物を盗られるのが一番嫌いだ。「柚寿ちゃんは可愛くて美人で羨ましいなあ」と会うたびに言っていた翔は、初めからこのタイミングを虎視眈々と狙っていたのではないだろうか。気持ち悪い。中途半端に切られたハンバーグ、隣の席の煙草の匂い、全部全部気持ち悪くて、本気で吐きそうになって、そんな僕を、柚寿はただ黙って見ていた。ね、別れたほうが良いでしょ? なんて、そんなことを言いたげに。
「……渋谷くんも、瑛太がそんな人だって、実は見抜いてたんじゃないかな。私、瑛太とすごく似てるからわかるよ。本当に信頼できる友達は、実はいないんだよね」
「なんで、そんなこと」
意味のない言葉ばかり、しどろもどろになって吐き出す僕は、もう、誰なのかがわからない。柚寿の前では必死に取り繕ってきた僕が、どんどん崩れていく。これが最後だ。柚寿はもう、僕のもとへは帰らない。翔に汚された柚寿を上書きしたいといくら願ったって、もう戻らない。受け入れなければいけないのに、この期に及んで、僕は柚寿を繋ぐ言葉を探している。もう別れてしまうのなら、せめて最後に一度だけ、僕のものだという証を付けられたら。最低だとはわかっていても、こんなことばかり考えてしまう。僕は柚寿の何が好きで、柚寿は僕の何が好きだったんだろう。こんなに簡単に恋人に別れを告げて、そのピザを全部食べたらすぐにでも立ち去ろうとしている目の前の女は、サイボーグか何かなのかもしれない。人間の情と言うものを少しも感じさせないで言う、「好きだったのになあ」という言葉が棒読みに聞こえてしまう。
「……帰るね。お金、払っとくから」
フォークをテーブルに置いて、柚寿は伝票を持って立ち上がる。僕は咄嗟に立ち上がって、その腕を掴む。折れてしまいそうなほど細い腕から伝わる体温は恐ろしく低かった。
「待ってよ、柚寿」
「もう柚寿じゃないでしょ、青山くん」
最後にそう残して、僕の恋人だった女の子は、優しく腕を振りほどいて、ファミレスのレジへ消えていった。
隣のテーブルに居た大学生の男女が、ちらちらとこっちを見ては、小声で何かを話している。中途半端に残っているピザとハンバーグ、無くなった伝票、僕は、ファミレスで惨めに取り残されて、これからいったいどうすればいいんだろう。ついに本気で具合が悪くなってきて、頭が痛くなってきた。手に残っているのは、柚寿の腕の感触だけで、僕はもう彼女に触れられないのかと思うとやるせなくなる。
柚寿は、もっと僕の事が好きなのかと思っていた。こんなとき、一緒に再出発しようと言ってくれるような子だと思っていたのだ。虚しいなあ、と心の中でつぶやいたところで、何も満たされない。スマホの充電はもう切れかけで、平然と入っている友達からの連絡も無視して、電源を切った。このまま朝までぼーっとしたかった。外の光が、どんどん目に痛くなってくる。深夜十一時のだらしない空気の中で、そういえば柚寿が着ていたシャツは僕のだったけど、返されるのかなあとか、なんの解決にもならない事ばかり考えていた。
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