複雑・ファジー小説
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- 失墜 【完結】
- 日時: 2021/08/31 01:24
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: bOxz4n6K)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19157
歪んだ恋愛小説です。苦手な方はご遠慮ください。
>>1 あれそれ
☆この作品の二次創作をやってもらっています。
「慟哭」マツリカ様著 URL先にて
「しつついアンソロ」雑談板にて掲載中
キャラクター設定集 >>80-81
あとがき >>87
>>99
>>100
- Re: 失墜 ( No.71 )
- 日時: 2016/11/18 03:11
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
家に帰った時、ぼろぼろの私を見て、お母さんはすごく慌てていた。紅音たちとの事を全部話そうかと思ったが、実の親に、彼氏である瑛太以外の男と、自分の意志で体の関係を持っていることをどうしても知られたくなかったので、「帰り道にレイプされた」と嘘をついた。無表情のままの私を、辛かったね、ごめんねと言いながら抱きしめるお母さんの体温は私よりもずっと暖かく、「そんなこと言わないでよ、本当は全部私の自業自得なんだから」と、思わず言いたくなった。
もう一度風呂に入り、傷の手当てをしてもらって、汚れた制服をクリーニングに出しに行った帰り道、お母さんは警察に相談することを提案してきた。だけど、もう思い出したくもないから、忘れさせてほしいと、また嘘をついてしまった。車はゆっくりと家の敷地に駐車し、私はふらつく足取りで部屋に向かう。
今日は、柚寿の好きなハンバーグにしようねと、台所でお母さんが、無理やり明るさを装っている。外は夕焼けが滲み、夜が来て、また朝が来る。それを考えるだけで吐きそうになるのに、「明日からはお母さんが車で学校まで送り迎えするから」と真剣な顔で言うから、私は休むことも許されないのだった。
少しだけ眠って、起きたら午後七時だった。今までの私なら、この時間はまだ瑛太と遊んでいるか、紅音達とご飯を食べていた。もう全部失った私は、スマホを見る気力もなくし、ベッドに死んだように横たわっている。
体重はどうなっているだろう。美容のサプリも、もう一週間はサボっている。明日の小テストだってきっとボロボロだ。どうしたんだよ、小南と問いかける、不安そうな顔の担任が思い浮かぶ。ごめんなさい、私はもう小南柚寿ではないの。魔法が使えなくなった私は、その辺にいる女の子よりちょっとどんくさくて何もできない、有無現象みたいな存在なんです。
「柚寿、椿くん来てるけど、どうする?」
洗濯物を持ったお母さんが、私の部屋の前で、不安そうな表情を浮かべている。はて、と私は首をかしげる。
借りていた漫画を返せとの催促だろうか。なにも、今日来ることもないのにと思う。私は、「椿なら大丈夫よ」と、何が大丈夫なのか解らない言葉と共に笑顔を残し、部屋着のまま階段を降りていく。言葉通り、ビニール袋を手に提げた幼馴染が、玄関のドアの前に立っていた。
「どうしたの? 椿の方から来るのって珍しいね」
「さっき、駅前で柚寿っぽい奴見たけど、やっぱりお前だったのかよ。髪切ったんだ」
「まあね」
無理やり明るさを装って部屋まで誘導し、私はベッドに座って、椿は学習机に付属してある回る椅子に座る。部屋に来ると、すぐ私の隣に座ってあれやこれやと甘い言葉をささやいてくる瑛太とは違って、私たちの間にはいつも一定の距離感があった。付き合っているわけではないので当たり前なのだけれど、ここ最近は渋谷くんや矢桐くんなどという人たちに好き放題されてきたので、感覚が麻痺しつつある。椿はそんな人たちとは比べられないくらい優しいから、一緒にいると少し気分も落ち着くのだった。
「それで、なんか疲れてそうだったから気になったけど、この前よりは顔色も良くなってるし大丈夫だな」
「それだけのために家まで来たの?」
「別にいいだろ、通りかかったんだから」
何の用事もないのに、女の家に上がり込むなんて。私は少し面白くなって、声を出して久しぶりに笑った。椿は、私がなぜ笑っているのか解らない、と言った感じに目を見開いて私を見つめる。
私は、その変な笑顔のまま、ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染に言う。返答次第で、これからの関係が一変する質問だと、わかっていてもなお、聞いてしまった。
「ねえ、こうやって部屋に来るとさぁ、期待ってするの? もしかしたら、えっちできるかもしれないとか」
「……は? どうしたんだよ」
ふやけた半笑いの私と、突飛な質問をぶつけられて明らかに目が泳ぐ椿。なにしてるんだろうと、自分でも思うけれど、私は気を抜けば寂しさに負けて目の前の椿に抱き着いてしまいそうだったのだ。
もう、誰とでも関係を持ってしまう自分への嫌悪感は消えていた。むしろ、どろどろになるまで溶かされて、全部忘れたいくらいだった。男の子が、こうするとみんな落ちるのは知っている。潤んだ瞳で、もう後には引けない幼馴染の彼を見上げる。
しかし、数秒おいて、ため息のあとに帰ってきた返答は、私の予想を大きく逸していた。
「ばっかじゃね。柚寿はそういうんじゃねえよ、そもそも付き合ってないし、俺好きな子じゃないとたたねーし」
椿の声で、はっと我に返る。変にはだけた自分の服装が急に恥ずかしくなり、外はもう夏なのに、慌てて厚いタオルケットを体に巻き付ける。
思えば、そうなのだ。椿の言っていることは正しい。こういう事は、好きじゃない子とはしてはいけない。私は、ちゃんとわかっていたはずなのに。だんだん醒めていく気持ちの中で、さっきまでのふやけた自分を殴りたい衝動に駆られる。
全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。そして、それを誤魔化すような照れ笑いを浮かべた。
「だよねー……。なにやってんだろ、私。ごめん、最近いろいろありすぎて、ちょっとおかしくて……」
「知ってた。いきなり髪切るのもおかしいと思ったし、この前も病院で突然泣き出すし」
「……優しいんだね」
まだ私の事をこんなに気遣ってくれる人が居るとは思わず、そんな言葉が息のように漏れる。今日だって、私を気遣って、お菓子を買ってきてくれたらしい。
「椿と付き合ってたら幸せだったのかなあ」なんて余計な事まで、口を滑らせてしまう。私は、こういう人並みの幸せがずっと欲しかった。椿のためなら、このどん底からもスタートできるかもしれない、そんな期待すらあった。
そして椿は、小さく口を開く。
「……もう、おせーよ」
「……え?」
「俺だって、柚寿と付き合いたかったけど、柚寿はエータくんと付き合ってるから、諦めたんだ。それで、ちょっと前に、やっと彼女が出来た」
「……」
「今はその彼女が大事だから、柚寿のことはそういう目では見れない」
外は、どんよりと深い青に包まれていた。氷みたいな椿の声が、夏の暑ささえ冷やしていく。理解の及ばない頭が、熱くなったり寒くなったりして、私にはどうにもできない。
「なんで、今なんだよ。あと二週間早く言ってくれよ」
「……ごめん……」
やりきれない沈黙が、部屋の空気を重くしていく。なにか言いたくても、何を言ったらいいかわからない。椿も同じらしく、目が合って、そして逸らして、を何回か繰り返した。そのうちにお互いとうとう間が持たず、交わした言葉は、
「……お幸せに」
「……うん、ありがと」
で、当事者ながら、気の抜けた、社交辞令みたいなやり取りだと思った。
お母さんが、椿くんも夜ご飯を食べていかないかと、優しくドア越しに問いかけている。いらないと私は言い放つ。椿はまだ気まずそうに、私の本棚に並んでいる、安っぽい少女漫画を見ていた。
□
「髪、短い方が似合ってんじゃん。僕はそっちの方が好きだよ」
「……それはどうも。矢桐くんと同じくらい短くなっちゃったけど」
次の日の朝、下駄箱で矢桐くんと会った。私が家で、自分で切って長さをそろえた髪は、肩の少し上で跳ねている。長い髪は私のチャームポイントだとひそかに思っていたけれど、トリートメントをしなければ艶は保てないし、所詮素人が切ったのだから、長さも綺麗には揃わなかった。
矢桐くんは一瞬私の事をけなしているのかと思ったが、彼は回りくどい言葉は使わない印象があったので、素直に褒められたのだろう。全然嬉しくないけど。
靴を履き終えた私は伸びをする。皺のない夏のワイシャツが、ぴんと伸びた。
「……あー、ねむい」
昨日は全く眠れなくて、夜中まで布団の中で震えていたので、朝の光が眩しくてかなわない。矢桐くんも夜遅くまでゲームをしていたのか、眠そうに、その大きい瞳を擦っていた。教室までの道を一緒に歩きながら、私は小さい欠伸を何度もした。
そして、ふう、と息を吸って、機会があれば彼に聞きたかったことを問いかける。
「京乃の事が好きなんでしょ? あんなに名前呼んでたもん」
意地悪のように、私は笑顔を浮かべる。矢桐くんは、思っていたより、その無表情を崩さなかった。
「……そうだけど、だからどうしたんだよ」
「頑張ってね、京乃可愛いから、競争率高いかも」
「もう、あの子の事は諦めるよ。だって僕、近々青山を殺すんだ」
「あはは、矢桐くんって面白い。そうだよ、あんな奴、殺しちゃえばいいんだ」
だって、私ももうすぐ死ぬしね。そこまでは言えなかった。
矢桐くんは時々面白い冗談を言う。冗談の割には、瞳の奥にはかつてないほどの決意が見えているし、この前差し出してきたカッターは、頑張れば人も殺せそうだった。一瞬、もしかしたら本気なのではと思うけれど、矢桐くんにそんな殺人をやるだけの度胸があるとも思えないし、あんなだめ人間のために、自分の人生を投げ打つ必要性もない。
矢桐くんと階段を登りながら、スマホの手帳のアプリを開く。デザインが可愛くて、気に入っていたアプリだが、友達も恋人も居ない私には、もうずっと予定が無い。あるとしたら渋谷くんや矢桐くんとの体の関係だけど、そんなもの、ここにわざわざ記録しておくに値しない。
目星をつけたのは、六月十二日、金曜日。朝の電車に体を投げ出そう。小南柚寿は、やっとちゃんとした形で、終わることができる。
僕はあいつを殺して英雄になるんだと語る矢桐くんの隣、ありふれた生活、教室の冷たさ、全部、あと少しでおしまい。魔法の使えなくなった私は、もう死んでいるようなもので、今日も魂の抜けた体を引きずっている。「あ、そういえばさぁ、今日の放課後、また体育館倉庫に来てくれないかな」と、階段の途中で突然矢桐くんは私の腕を掴んだ。
にっこり笑って頷いた。生暖かい風が、私たちの間を吹き抜けていった。
- Re: 失墜 ( No.72 )
- 日時: 2016/11/21 02:21
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
18 ズッ友
人生と言うすごろくで、「二回休み」を二連続で食らったあと、「スタートに戻る」のマスに止まってしまったような僕は、もう三日後すら、どうなっているのかわからない。例の動画を停止して、今日も爽やかに一日は始まるけれど、画面の中で泣いている柚寿と目が合って、胃液がこみ上げてくるのを感じてトイレに駆け込んだりしたりして、朝から気分は最悪である。
ふああ、と欠伸をして、牢獄みたいな窓越しに見る青い空は、生理的な涙で滲んではいたものの、とても澄んでいた。僕はソファーから降り立ち、散らかった部屋に足を着く。
「今日は、学校行かないから」
「……なんで? 珍しい。瑛太、学校大好きじゃない」
隣の部屋のドアを開け、布団も敷かずに雑魚寝している姉さんに声をかける。薄暗い部屋からは、酒の匂いがしてきた。
そういえば昨日、茶髪で襟足を伸ばした男が、酔ってしまってほとんど意識のない姉さんを家まで連れてきた。ありがとうね、ケイくんと、虚ろな目で手を振る姉さんは、それでも少し嬉しそうで、そいつが帰ったあとに、僕が暖かいお湯を姉さんに出したときも、ケイくんは本当に頼れる後輩だからと、何度も言っていた。もし僕が女の子と一緒にいて、そんな状況になったら、確実にホテルに連れ込んで一夜過ごしていただろうから、そのケイくんという男は、姉さんにとって信用のおける存在らしいことはすぐにわかった。
「……学校は、嫌いだよ。僕、今日は夕方までは帰らないから、よろしく」
適当な私服に腕を通し、髪をそれなりに見えるくらいに整えて、朝ご飯も持たずに外に出た。ガムなんか噛むのは、中学生の時以来かもしれない。あの時は金が無くて、初めて付き合った先輩に振られてしまったことに腹が立って、とにかく八つ当たりがしたかったのだ。そこで目を付けたのが矢桐で、ちょっと脅したら矢桐は簡単に僕の都合のいい財布になってくれたんだっけ。
もう矢桐から金を奪ってはいけない。柚寿も瀬戸さんも翔も見切った今、僕が完璧に信用していい人間は矢桐しかいない。矢桐は昔からなぜか、僕の悪事を大人に言いつけるという事をしなかったから、実は僕と仲良くしたかったのかもしれないとさえ思っていた。薄々感じていたそれはビンゴだったみたいで、僕がこの前「友達になって全部やり直そう」と矢桐に頼み込んだとき、どことなく、矢桐は嬉しそうな顔をしていた。
だから、もう金なんか取ってはいけないし、これからは僕が矢桐に金を返していかなくてはいけない。だけど、この前瀬戸さんがラインしてきた内容は「生理が来ないの」で、僕はこの世の終わりでも見たかのような気持ちで彼女に電話した。瀬戸さんが語る内容から推測するに、彼女はほぼ確実に妊娠していて、さらに頭を抱えた。そして最終的に、中絶の費用を僕が全額負担することで話に決着がついた。確かに避妊をしなかった僕が悪いけど、危険日なら危険日って最初に言ってほしい。これだから処女は嫌いなのだ。
中絶には付き添いが必要だとか、まず瀬戸さんの両親に殴られなきゃいけないなとか、色々と考えていたが、瀬戸さんによると、「瑛太くんはお金だけくれればいいの」らしい。ひとつの命を消すことについて、僕は何日か全然眠れない夜を過ごしたが、瀬戸さんの方はいたっていつも通りに振る舞っていて、本当はちゃんと考えているのかもしれないけれど、僕は彼女がなんだか怖く見えた。
「ってわけで、お願い。金貸してくれないかな」
「……瑛太って、お前が思ってる以上にクズ人間だよなー。きょうちゃん、かわいそー」
駅前のスターバックス。親友の渋谷翔が、嫌悪感を隠そうともしない目で僕を見ている。昼に差し掛かる店内は、暇そうに平日を過ごす者で賑わっていた。
翔まで学校をサボらせてしまったことを申し訳なく思うが、翔の学校は出席日数さえ足りていれば後はゆるいらしい。こうして学校をサボって遊びに行くという事は、はじめてではないようだった。
「僕だって、こんなことになるとは思わなかったよ」
「俺が柚寿ちゃん妊娠させて、中絶の費用を瑛太に払えって頼んでるようなもんだぞ。ひっでぇ話」
「バイトでも何でもして返すから、とにかく期限が近いんだ。だから、お願い」
瀬戸さんに示された金額は、これまで僕が矢桐に提示してきた金額よりずっと多い。それでもトータルで見ると、僕が矢桐から奪ってきた金の方が圧倒的に多いのだろう。
翔はそんな僕を見て、ずっと微妙な表情を浮かべている。翔は、柚寿や矢桐に比べて、感情表現がわかりやすい。そんな顔をしたいのは僕だって同じなのに、と思う。
しばらくの沈黙の後、翔は大きなため息をついて、こう言った。
「……いいよ。金は貸すし、バイトも紹介する。だから、ちょっとだけ俺の話聞いてよ」
「……話?」
「初恋の話。俺、きょうちゃんの事が好きだったんだ」
キャラメルマキアートに浮かんだマシュマロが、ゆらゆらと水面を漂っている。そんな光景から顔をあげると、翔は今まで見たことのない顔をしていた。戸羽さんと付き合ったときも、社会人の彼女を振った時も、こんな顔はしなかった。
そして、翔は話し始める。中学生の時まで、自分は全然目立たない存在で、教室の中に咲く小さな花のようだった瀬戸さんに恋をしていた。卒業した後、自分は高校デビューを果たして一気に女にモテるようになったけど、誰とも長くは続かなかった。いつもどこかに瀬戸さんの存在があって、そんな時、偶然瀬戸さんに再会したけれど、全然うまく話せなかった。そして、この前、瑛太が瀬戸さんと浮気をしたと聞いて、もうこの初恋は一生引きずる運命だと悟った、と。
「……正直さ、瑛太のこと、恨みたいよ。今も殴りたいって思ってる。最低最悪のドクズだなって、思ってる」
「……」
「だけど、なんかそんな気にもなれないんだ。俺だって柚寿ちゃんに手を出したけど、それがどんなにダメかって、今やっと気付いたよ。俺ら、さいてーじゃん」
マジもう死にてえ、なんてことを翔は簡単に言う。僕も同じ気持ちだったけど、それを実行に移す勇気はない。
休みだからか、もう僕と居る時にお洒落をする必要性を感じないのか、翔の耳のピアスは随分少なくなった。金髪に光る銀メッシュは今日も完璧な角度で決まっていたけれど、そのグレーの瞳に、いつものような活気はなかった。
- Re: 失墜 ( No.73 )
- 日時: 2016/11/30 14:58
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
「僕って、誰かを不幸にすることしか出来ないのかな」
夏に差し掛かろうとしている遊歩道を矢桐と歩いている。梅雨だと言って雨が降ることもあれば、今日のようにアホみたいに晴れている日が来たりして、それは僕らの気持ちのように安定しない。隣の矢桐も時折恨めしそうに視線をあげては、太陽を睨みつけている。
ずっと無言で横を歩いていた僕が唐突にこんなことを喋ったのが、薄気味悪かったらしい。矢桐は眩しい光に細めていた目をこっちに向けた。
「今更」
「……そうだね、今更」
そう言い合って、再び沈黙が訪れる。僕は翔の言葉を思い返して落ち込むのに忙しいし、矢桐も僕と特に話すことはないようだった。
しばらく通学路を歩いていた時、矢桐がふと足を止めた。僕も同じものを見て歩を止めた。次に矢桐の方を向くと、珍しく僕と矢桐の目がぴったり合った。
六月十日、花火大会のお知らせ。そう書かれた紙が、電信柱に張ってある。そういえば、このあたりで一番大きな花火大会が近づいていたことを思い出す。まだ付き合っていたのなら、僕は柚寿と一緒に行こうと思っていたのだけれど、この最悪な現状が全部夢でもない限り、そんなことはありえないのだった。
「……だから、人が地味に多いんだ」
矢桐が歩道橋を歩く人間を見て、呟くように小さな声で言う。そして僕に、「お前も小南さんと付き合ってたら行ってたんだろ」と吐き捨てた。
「僕、花火大会なんか興味ないよ。火見て楽しいって、原始人かよ」
「……ふーん。こういう時は素直に楽しめばいいのに」
「矢桐にだけは言われたくないな」
本当は、夏の夜は嫌いではない。お祭りともなれば、不思議と気持ちは浮つく。浴衣姿の女の子も可愛いし、屋台で食べるたこ焼きは、いつもより美味しく感じる。だけど、誘う相手がいないのを誤魔化したくて、興味のないふりをしてしまった。柚寿も翔も、もう誰も僕には見向きもしないのだ。
「……僕の部屋から、ちょうど見えると思うけど」
「マジ? あー、矢桐の家からなら見えるかも」
まあ、三階建てだしね。矢桐は稀有なことに、どことなく得意げな表情を浮かべて言う。この流れを僕は、友達みたいなやり取りだと思ったし、実際僕らは友達だった。
じゃあ、今年は矢桐の家から花火見よっかな。水色の空に薄く差し込むオレンジを見ながら、僕は返す。矢桐は嬉しそうにも嫌そうにもしていないようだった。僕ら、友達だし。そんな風に付け加えると、「ああ、そうだったっけな」と曖昧な返答が戻ってきたものの、それでも、前まで時折見せていた僕に対する不快感は消えていた。
ついに矢桐しか頼れる友達がいなくなった自分に対して、思う事は何もない。ついにこんなとこまで墜ちたか、とか、矢桐と一緒に歩いてるのをクラスの奴にでも見られたら恥ずかしい、とか、今まで思っていた、そんないっさいの感情が消え去っていた。もう僕は僕の事がどうでもよくなったのかもしれない。いや、それとも、僕は僕なんかより矢桐に興味があるのかもしれない。柚寿と付き合ったときも、翔と仲良くし始めた時も、僕は僕自身の評価の事ばかり考えていたから、こんな感情になるのは、はじめてだった。
そっか、こう思う事を友達っていうんだな。勝手に納得して、さっきよりもゆっくり歩く矢桐の隣で、ジーパンのポケットに入っていたガムを一枚取り出した。
□
これが家かよというのが率直な感想である。矢桐は目を大きく開いたままの僕を、物珍しそうに見ていた。
「……こんなにでかかったっけ? あれ何? エレベーター? ステンドグラスなんかあるし、庭も広すぎだし、この庭だけで僕の家の十倍はありそう」
「……静かにしろよ、兄さんに見つからないうちに部屋入らないと、また面倒なことになるだろ」
オートロックと言うものを僕は初めて見た。矢桐は慣れた手つきで玄関を開錠し、冷房がガンガンに効いた玄関に足を踏み入れる。矢桐の言うとおり、あの気持ち悪い兄に絡まれたら僕はこれまでのことも相まってその場で泡を吹いて倒れそうなのだが、そんなことも気にならなくなるくらい豪華な内装に、僕はため息しか出なかった。
高そうな壺、つりさげられた金色のシャンデリア、壁に立てかけられた、額縁に入れて飾ってある中世風の絵。何もかもが、ドラマで見るような世界。同じ人間なのにここまで格差があっても良いものなのだろうかと、真剣に思いをはせるのは僕の廃れた家。今からすでに、家に帰るのが億劫になりそうである。
学校と同じくらいの長い廊下を進んでいく。矢桐は、ぱかぱかとスリッパを鳴らしながら僕の少し前を歩いている。隅から隅まで格調高い雰囲気を纏うこの豪邸に、矢桐はとても不似合いに思えた。僕と家庭を交換してくれ、あの兄はいらないけど。そんなことを思いながら、やっとたどり着いた矢桐の部屋の前で、「ちょっと片付けるから待ってて」と止められた。
「……やだよ。ここで待ってる間にお前の兄さんに会ったらどーすんだよ」
「兄さんの部屋はずっと向こうだから、会わないよ。青山が来てるって知ったら、わざわざこっちに来るかもしれないけど」
「ほら、だから嫌なんだ。あいつ、そういう奴じゃん」
「……じゃあ入れよ。僕片付けするから、お前はどっか邪魔にならないとこに居てよ」
心底嫌そうな顔の矢桐がドアを開ける。その向こうに広がっていたのは、予想通りの広い部屋だった。ぱっと目に入った大きなテレビには名前も解らないゲーム機が無数に繋がれており、絡まり放題のコンセントに視線が映ってしまう僕はやはり、A型の人間である。矢桐はそんなことも気に留めないで、床に散らばっていた漫画や数学のテキストを拾い上げて、一つずつ本棚に戻したり、ファイリングをしたり、ゴミ箱に捨てたりしていた。
僕はそれをしばらく見ていたけれど、飽きたので、キングサイズと思われるベットに腰を下ろした。柔軟剤に交じって、たまにふと矢桐の匂いがした。柚寿の部屋のベットも、甘いシャンプーの匂いがしたことを思い出して、また気分が暗くなりそうだったので、一人で寝るにはあまりにも大きすぎるベッドを見渡して「ラブホかよ」とだけ言っておくことにした。
「……あ、抱き枕。いいなあ、僕も欲しいんだよね」
「……あんまり見るなよ。僕、人に部屋漁られるの一番嫌い」
そんなこと言うなよ、だって僕ら友達だろ。そんな事を言おうとして、口を開きかける。結局何も言う事は出来なかったけれど、矢桐に言いたいことはたくさんあった。瀬戸さんの事はどうすればいいだろう。柚寿をあんな風にしたこと、実は許せてない事だって口にしてしまいたい。友達という関係になったとしても、僕と矢桐の間には秘密だらけだ。別に友達だからと言ってすべての情報を公開するべきかと問われれば違うのだが、僕は矢桐に、いや、大事な人にもう隠し事はしたくない。いずれバレてしまったら、みんなは離れていく。それを知ってしまったからこそ、僕は、僕の全部を受け入れてくれる奴しか信用したくないのだ。
……こんな人間のドクズみたいな僕を、全部受け入れてくれる人間なんかいるわけないのに。ベッドに転がっていた、猫を模した大きめの抱き枕を見ながら、僕は言う。
「……ごめん、矢桐」
「……そんな、ガチなトーンで謝るなよ。抱き枕触ったくらいで怒ったりしないって。青山がクズなのは最初から知ってるし、今更謝られる方が気持ち悪い」
僕は別に、抱き枕の事を謝りたいわけではない。そう言いたかったけれど、矢桐の方も、なんとなく僕が何に対して謝っているのかを悟っているような気がした。
だから僕は、中途半端に許されたような気分になってしまう。矢桐はずるい。最初は僕が矢桐を利用する立場だったのに、今じゃ完全に相手のペースに呑まれてしまっている。もうかつてのいじめられっ子ではなく、僕と対等になった矢桐は、床に堕ちていた漫画の最後の一つを拾い上げて、そして僕に言った。
「僕は、青山の味方だよ。……友達だろ」
ばん、と大きく何かがはじける音がした。夕暮れに照らされた矢桐が眩しい。それは、僕の世界に革命が起きる音だった。矢桐の言葉を頭の中でリピートしようとしても、爆発音にかき消されて思い出せない。
ああ、花火大会か。まだ明るいのにな。矢桐はそう言って、つまらなさそうに、オレンジがいっぱいに降り注いでいる空を見る。僕はそれでやっと我に返り、とても大きな窓の向こうに広がるベランダの、さらにその先を見る。これから花火大会が始まる。二階の矢桐の家からは、河川敷が見えた。きらびやかな屋台が立ち並び、私服姿だったり、浴衣の男女が、豆粒のようにそれに群がっている。去年の僕も、柚寿と一緒にあの中の一人として存在していたけれど、なんだ、こんなにちっぽけだったんだ。僕が必死になって柚寿にしてあげてきたことを順番に思い出して、そんなの全部、これほどまでに小さいことだったのだと苦笑いをする。
「ベランダから見えるかもよ、花火」
「……アイスでも食べる?」
「もちろん」
僕は笑う。僕よく似た友達も珍しく楽し気に笑う。現実を見たくなくなるくらいには、僕は今が楽しかった。矢桐だけは、僕が失墜しきったとしても、見捨てずにいてくれる。そんな確証を得た気がした。
- Re: 失墜 ( No.74 )
- 日時: 2016/12/03 02:29
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
暗い夜空に花火が打ち上がるたびに、僕らの口数は減る。今まで誰かと一緒にいるときは、話題が途切れないようにと気を遣ってばかりいたが、この透明な夏に染みわたる沈黙は心地がいいとさえ思えた。僕は最初から矢桐を人間として認識していなかったので、いつもは人前で弄らないスマホにもすぐ電源を灯してしまうし、かっこつけて苦いコーヒーを飲むこともしない。僕が矢桐に気を遣わないのはいつものことなのに、今日はこれが、友達として、気を許しているからこその態度に思えて、なんだか、とても長い付き合いの友人と一緒にいるように感じた。
思えば僕と矢桐は、こうした特別な間柄になってから、もう三年近く経つ。柚寿も翔も知らない僕の事をたくさん知っている。僕も矢桐のことは、一通り知っているつもりだ。人を殺す物騒なゲームが好きで、国語が得意で数学が苦手で、瀬戸さんに恋をしていて。たまに、すごく反発的な態度を孕んだ目をして、大人しいと思いきや意外と口が悪い。好きな食べ物は確かハンバーグで、嫌いな食べ物は知らないけど、多分野菜はそんなに好きじゃないと思う。
矢桐は、ちゃんと人間だった。金を奪われれば反発して泣いたりもするし、僕が殴れば怪我もする。最後まで大人に言いつけるという事はしなかったけれど、僕が矢桐にしたことは、一生取り返しがつかない。だから僕は、これから償っていかなければいけないのに、瀬戸さんは大量の金を欲求してくるし、翔はあんなことを言うし、心の支えの柚寿はもう居ない。タイミングが悪すぎるのだ。もう少し落ち着いたら、矢桐にちゃんと謝罪をしよう。そう思いながら、部屋の壁にかかっている地味なカレンダーに目を向けた。今日は六月十日。本格的な夏が来るまでには、少しでも良い状況になっていてほしい。
瀬戸さんに金を渡し、バイトをして翔に借りを返し、そこからゆっくり矢桐との関係を修復していこう。全部終わったころにはきっと、柚寿のことも忘れている。花火が一つ夜空に花開くごとに、新しいスタートラインに立つ僕が、ちゃんと目標として具現化されていく。ベランダの椅子に腰かけて、溶けかけのアイスを食べている矢桐は、そんなことどうでもよさそうに、黒い空に散らばる光を見つめていた。真っ黒な瞳に、鮮やかな赤や青が映ってキラキラ輝いている。そして唐突に、花火って綺麗だよなと、小さく呟いた。
「あはは、矢桐らしくないな。矢桐にも、花火を見て綺麗って思う感性があったんだ」
「……僕を何だと思ってんだよ、お前の彼女じゃあるまいし……」
小南さんみたいに、人形じみてないから、僕は。矢桐はアイスをやっと食べ終えて、「はずれ」と書かれた棒を、ベランダの柵の間から、ぽいと投げ捨てた。下に人が居たらどうするんだよと思ったが、口にはしなかった。僕もさっき同じことをしたからである。
「……柚寿って、最後までよくわかんない子だったな。ぶっちゃけ、今のショートカットも似合ってないしさ。髪綺麗だねっていつも褒めてたし、本人も自分の髪には自信あったみたいなのに、なんであんなにばっさり切ったんだろう」
「お前の事が嫌いになったからだろ。僕は短い方が可愛いと思うけどね」
「そうかな。全然似合ってないよ、あれは。僕が切ってあげた方が可愛くなると思う」
「……未練たらしい奴は次も上手くいかないんだぞ、もう小南さんのことは諦めたほうが良いと思うけど」
まさか矢桐に恋愛の事で上から何かを言われるとは思わなかった。翔やほかの友達に、僕の恋愛観を否定されると実際かなり腹が立つのだが、この前まで童貞だった矢桐に言われると、逆に笑えてきそうになる。
柚寿の事は、もう割り切ったつもりなのに、まだうまく整理がつけられずにいる。妊娠させたのが瀬戸さんではなく柚寿だったら、僕は柚寿を繋ぎ止められたかもしれない。そんな最低なことさえ思ってしまうのだが、生憎僕は本命の相手と行為に及ぶときは避妊具を欠かさないので、そういう事になる確率は極めて低い。ちなみに矢桐の方は、柚寿を無理やり襲ったときも律儀に避妊具を使用してくれたらしい。変なところで真面目な奴である。
「お互い忘れような。瀬戸さんも、柚寿も。次があるよ」
「それはどうかな。次なんて、もう無いかもよ」
「なんでそんな事言うんだよ。矢桐、聞き上手だし、よく見れば顔もまともだし、女なんかすぐ出来るよ」
「……違う、そういうことじゃない。僕ら、明後日とかに、いきなり死ぬかもしれないだろ」
「なんだよ、いきなりそんな話するなよ」
「……言いたいことも言えずに、やりたいこともできずに、終える人生なんか、そんなのゴミだ。花火みたいに、一瞬だけでもこれ以上ないくらいに輝けたら、あとは燃え尽きて死んでもかまわない」
しゃべりすぎた、ごめん。矢桐はここまで話して、少し頬を赤く染めて、僕からふいっと目を逸らした。
言っていることはよく理解できなかったけれど、どうやらまだ瀬戸さんを諦める気はないらしい。誇大表現かもしれない。しかし一人の女の子に生死すらかけられると豪語する矢桐がだんだん怖く思えてきた。機会を狙って瀬戸さんを妊娠させてしまったことを話そうかと思ったが、そんなの、とてもできそうにないほどの熱意である。
しばらくの間、僕らはまた黙っていた。僕はぼうっとしていたが、矢桐は何かを考え込んでいるようだった。そして、ついに口を開いた。
「青山」
「……なんだよ」
「僕ら、友達だろ。この前みたいに酒飲もうよ。ちょうど兄さんが買ってきたチューハイがあるんだ。この前のお礼だと思ってさ」
「……珍しく気利くじゃん。酒飲むのは良いけど、ぶっ倒れんなよ」
「あれは、ちょっと色々考えすぎてただけ。もうその件については決心ついたから、大丈夫」
本当かよと疑うが、ガラス張りのドアを開けてベランダから出て行ってしまった矢桐を引き留めたりはしなかった。ロッキングチェアを揺らしながら、どん、と打ちあがる花火を見あげる。大きく打ちあがる大輪みたいな人生は、僕なら嫌だ。みんなの目を惹くような、一番星になることは望まない。常に一番の奴の横をキープし、美味しいところはしっかりいただいていく、そんな奴になりたかった。そんな風に上手に生きたかったのにな。
矢桐はさっき、これからの人生に期待を寄せているような言い方をした。矢桐が僕を置いて幸せになってしまったらどうしようかと真剣に悩み始めた時、やっと帰ってきた。両手に持っている透明なガラスのコップに、ピンクの液体と緑の液体がしゅわしゅわと泡を立ててはじけている。
「……チューハイをコップに移し替える奴初めて見た。缶ごと持って来いよ」
「お手伝いさんにバレたらめんどいし。はい、青山のはこっち」
ピンクの方を渡される。色々と突っ込みどころがあるものの、ひんやりと手に伝わるチューハイの冷たさがすぐに欲しくなって、礼も言わずにぐいっと一気に飲み干した。いちご味の炭酸が、喉元から体を冷やしていく。美味しい。隣に腰かけた矢桐も、ぶどう味と思われる炭酸をちびちび飲んでいた。
花火大会も大詰めだった。派手なのが三つ同時に打ち上げられたり、やたらとカラフルな豪華な花が咲いたり、クライマックス感が増してきているのが素人目でもわかった。屋台も空いてきているようだ。酒を飲めば、当然のようにつまみが欲しくなる。それを察したか、矢桐の方からたこ焼きでも買いに行こうよと誘われた。断る理由がなかった。僕はコップをベランダの縁に置いて、財布を持って立ち上がる。その時に、弱い立ちくらみに襲われた。まさか、もう酔いが回ってきたのだろうか。まだ半分くらいしか飲んでいないのに、それもチューハイだ。
本当はもう少し時間がたってから行きたかったが、矢桐がさっさと部屋の中に入ってしまったので、僕も後を追うようにベランダを出た。立ちくらみのふらふらした感じは気付いたら消えていたから、きっとこれまでのストレスの表れか何かなのだろう。適当に結論付けて、僕らは家を出た。お互いに、知り合いと会うのが嫌だったので、回り道をすることになった。人気の少ない方へ向かって、歩き出す。
- Re: 失墜 ( No.75 )
- 日時: 2016/12/07 04:02
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
19 錯乱
僕は青山瑛太を殺すつもりだ。それだけを目標に過ごしてきたようなものだった。
夢や希望を根こそぎ奪われ、やっとできた好きな子さえ奪われてもなお、僕は生存意義を見失わなかった。こいつを殺す、僕はそのために生きている。だから、目の前で、「僕ら、友達だよな」と縋るように言われたって僕は、動じたりなんかしないのだ。
友達になれて、青山は嬉しそうだった。僕も嬉しかった。わざわざ十二日まで待つ必要がなくなったからだ。青山が僕の家に行きたいと言い出したときからチャンスだと思っていた。こんな好機は二度とない。千載一遇のチャンスである。僕は今日、これから、青山を殺す。そう決めて家に通し、最期の花火大会を二人で眺めた。
適当なタイミングで酒を飲もうと提案し、僕はキッチンまで降りて、冷蔵庫から取り出した缶チューハイを台に並べた。そして、透明なガラスのコップに移し替える。缶チューハイをわざわざコップに移し替えるなんて、おかしな話だが、僕はやらなければいけないことがあった。
兄さんの部屋から持ち出した、粉末状の薬を手に取る。ネットで調べただけだが、これは精神を安定させるための薬で、副作用として強いめまいや、体に力が入らなくなる症状が出るらしい。なぜこんなものを僕の兄さんが持っているかと言うと、まだあいつは青山のお姉さんを諦めていないらしく、次に出会ったら飲食店に連れ込んで、この薬を飲ませて無理やり襲う予定だったみたいだ。本当に気持ちの悪い奴である。僕の知らないところで、勝手に死んでほしい。シンクに転がる缶チューハイの残骸に冷めた目を向けて、僕は青山の待つ部屋へ向かった。奴は酒をコップに移し替えた件について、驚いてはいたが詮索はしてこなかった。
さて、青山は人の少ない、暗い路地を僕と歩いている。周りには誰も居なかった。誰も居ない道を選んだのだ。屋台がある方はこっちではないのに、青山はなぜか僕を止めない。まるで自分から殺してと言っているようなものだ。
友達になってからの青山は、気味が悪いほど僕に引っ付いてきた。もう僕以外に何も頼れないからだと思う。
僕は別に、友達が少ないからと言ってそのうちの一人に必要以上に絡んだりはしないので、青山はたぶん、ひとりになるのがとても怖いんだろう。今まで僕を物としてしか見ていなかった青山が、突然瞳の奥に「矢桐は僕から離れないよね」なんて言いたげな光を宿らせて、照れたように笑いながら僕に話しかけてくるのだから、僕はそれにもちろん拒否反応を起こして、その場でカッターを取り出したくもなった。僕らは仮契約の友達だ。そんな、数年来の友人のように気安く話しかけないでほしい。
「……あのさ、屋台ってこっちじゃないよね? 散歩したいんなら付き合うけど」
ほら、まただ。青山は小南さんにも見せないであろう、ふやけた笑みを向けている。僕は暗闇を見つめたまま、そんなんじゃない、と呟いた。そして、ポケットの中のカッターを、ついに引き抜いた。
路地裏。周りには人ひとりとしていない。突然立ち止まった僕を、青山は不思議そうな目で見ている。その深く青みがかかるほど綺麗な瞳が、虚ろに揺れ動く妄想を何度もした。殺人のシュミレーションはばっちりだった。取り押さえて、まずは抵抗しないように脅して、それから僕の憎悪をたくさんたくさん吐き出して、ゆっくり時間をかけて殺してやる。今僕は、ありえない程興奮していた。僕の願いが、夢がやっとかなう。
一番惨い人間の殺し方はね、と、兄が話していたことが頭をよぎった。まずは下半身はなくなったってどうってことないから、機械でどんどん削っていくんだ。ショック死するといけないから、チューブで繋いで栄養分は補給し続けるけれど。そして、心臓と脳だけ残して、上半身も削っていく。容赦なく栄養分は注がれるから、意識だけ残っている状態で、目も鼻も耳も削がれて、心臓は動き続け、意識だけは残るんだ。そんなことをしたり顔で僕に話して、あいつはやっぱり気持ち悪い笑顔を浮かべていた。
残念なことに、僕にも同じ血が流れている。僕の兄が言う程、反吐が出る残忍な殺人は出来ないけれど、精神面でこれ以上ないくらいになぶってやる気は満々だった。いつか青山が僕にそうしたように、とつぜん、僕は青山をコンクリートの壁に押さえつけた。壁に手をついて僕は、驚いて目を開く青山と目を合わせる。
「……何? 壁ドンの練習? 心臓に悪いなあ……」
「なあ。まさか、僕ら本当に友達だって、思ってないよな?」
「……え?」
心配そうに瞳が揺らぐ。その中に映っているのはほかでもない僕だった。
ここまで来て後悔などなかった。かちかちとカッターの刃を出す音を、わざと聞こえるように鳴らす。そんな暗い空間で、僕は青山だけを見ている。これから夢がかなう。僕の人生をめちゃくちゃに踏みにじった男を、僕の、この手だけで殺せる。
「……な、なにするんだよ。冗談やめろって……」
「冗談なんかじゃないよ。僕はずっと、この手でお前を殺してやろうって思ってた」
きらりと光る銀色の刃を、青山の前でちらつかせると、いよいよやばいと感じたのか、夏なのに白い顔をこわばらせて、ついに何も言わなくなった。たぶん僕を突き飛ばして逃げようとしたんだろう。弱々しい力で、僕の体がとん、と押される。もちろん青山の力が僕に敵う事はないので、すぐにまた取り押さえて、青山はコンクリートの汚い床に転がるように倒れ込んだ。痛い、と声が漏れる。
薬が効いてきたのか、青山は「なんで」と虚空に呟いた。せっかくだから全部話してやることにした。壁にもたれている青山の頬をカッターを優しくなぞりながら、混ぜた薬の事も、友達だよだなんて最初から嘘だったことも、僕がこいつに殺意を持ったきっかけも、小南さんの味でさえも、ひとつひとつ丁寧に話したかった。ただ、僕は青山に冥土の土産をやるほど優しくはない。薬のくだりだけをかいつまんで話すと、青山はこの期に及んでも僕の兄への嫌悪を丸出しにしていた。まあ、しょうがないことだと思う。僕の兄さんはこの世で一番気持ち悪いし。だけど腐っても身内だし、身内を馬鹿にされた僕の心情は穏やかではない。優しく頬に押さえつけていたカッターに力を込めると、耳に心地いい悲鳴がきこえた。白い頬を伝ってぽたぽた落ちる赤が、鮮やかで、汚くて、綺麗に思えた。
今までにない心の高ぶりを感じていた。瀬戸さんと一緒に公園でソーダを飲んだ時よりも、小南さんを襲った時よりも、心拍数は上がり続けて止まらない。淡い青春に思いを馳せるより、初めてのセックスをするより、大嫌いな男を殺すことに心臓が高鳴るなんて、僕の青春って結局何だったんだろう。だけど、目の前で震えているこいつを散々痛めつけて消せるのなら、僕は自分の人生さえ投げたってかまわない。そう思える何かが出来たのなら、僕の青い春は、充分に人に誇れるし、恵まれている。
「ごめん、こういうのやめようよ。謝るから……」
「謝って辞めるほど安い殺意じゃない」
綺麗な頬に浮かぶ一筋の切り傷からは、まだ艶やかな赤が流れていた。意外と深く切ってしまったらしい。そんな怪我をしたら、大好きな読者モデルの活動もできないだろう。
狙う場所は決まっていた。夏という事もあって軽装だったので、首元に目を付けていた。だけど、僕はどうしても、最高にもったいぶった上で殺したい。さてどうしようかと悩みながら、傷口にまたカッターを差し込む。いたい、やめて、と喚くその声に嗚咽が混ざってくる。うるさいな、黙って殺されてろよ。舌打ちをして思いっきりその薄い腹を蹴ると、青山はげほげほと咳き込んで、光のない目で僕を見上げた。
その拍子に、かたんと音を立てて、コンクリートに青山のスマホが転がった。ちょうど通知が来たみたいで、ツイッターのマークが表示されている。そんなことより面白かったのが、画面に映る壁紙がまだ小南さんとのツーショットなことで、なんだ、全然諦め悪いじゃないか、と僕は笑ってしまいそうになる。
スマホを拾い上げる。隣でよくスマホを弄っていたから、ロック解除のパスワードは知っていた。難なくホーム画面を開き、通知が来ていたツイッターを見ると、プリクラアイコンと自撮りアイコンの女から「いいね」と「リツイート」を山ほど貰っていた。昨日、雑誌の撮影があったらしい。僕の目の前で転がっているこの哀れな男が、雑誌に載っているキラキラした上流階級の男どもと同類とはまったく思えないのだが、女と言う生き物は(瀬戸さんを除いて)馬鹿しかいないから、こんなクズにも騙されてしまうみたいだ。そう考えると馬鹿らしいし、こいつの本性を公にもばらしてしまいたい。
「……そうだ。せっかくだから、お前の殺害現場を全国配信してやるよ。きゃす、だっけ?」
「や、やめろよ、僕……」
「いいだろ、死ぬんだし。僕もどうせ逮捕だし。最後に伝説残そうよ」
配信のためのアプリは、すでにダウンロードされていた。青山は友達とかと日常的に配信を行っていたのかもしれない。僕もゲームの実況配信をする動画をよく見ていたから、扱いは慣れている。「読者モデル殺害配信」とタイトルを入力し、青山にカメラを向けて、配信開始。ひとりふたりと閲覧者が増えていく。あっという間に三十、五十と増えて、三百になっても増え続ける。青山につられた奴と、物騒なタイトルにつられた奴で、ちょうど半々くらいの割合だろうか。茶化すようなコメントも、瑛太くんがどうたらとかいうコメントも、同じくらい流れ込んできた。
「……ま、まじでやってんの? ……やめろよ、最悪……」
「別にいいだろ、お前なんかもう生きてる価値ないんだし。生活保護で家は貧乏だし、壁紙にするほど好きな彼女には振られるし、顔に傷ついたからモデルもしばらくできないし、終いには友達だと思ってたやつに裏切られてさ。死んだほうがマシだよ、僕が殺すからさ、大人しくしてなよ」
「なんで、そんなこと言うんだよ。い、いやだ、助けて」
「うるさい、僕の人生めちゃくちゃにしたくせに」
携帯を青山に向けたまま、僕は言い放つ。無機質な画面越しに、ひっきりなしに嗚咽を零し、無様に生を乞う青山が映っている。流れるコメントは、これガチなの? とか、もっとやれとか、ちっとも追えない程大量に、小さな画面を埋めていく。僕がさっき、閲覧者のためにわざと説明口調で話してあげたのもあって、生活保護なんだ、彼女いたんだ、なんてコメントもちらほら見えた。
こんなものかと思ってスマホを投げ捨てた。観客は音声だけ楽しんでいればいい。最後に見えた、「もしかして、仙台? 通報しました」とのコメントを見る限り、もう時間は少ない。カッターを再び向けて、「ま、そんなわけだから。さよなら、青山」と僕は、今までで一番きれいに、心から笑う。いやいやと首を振る、子供みたいな青山は、僕のシャツの袖を引っ張って、殺さないで、と震えた声で繰り返す。まるで壊れた機械みたいだった。
もう時間はない。ついに首元にカッターを当てる。本当は何度も突き刺してやりたかったけれど、最後の最後で、僕は青山に言いたいことを見つけてしまった。僕の人生に現れてくれてありがとうなんて言ったら、こいつは最期、どんな顔をするだろうか。
青山がいなければ、僕は目標も夢もなく、ただ人生を食いつぶしていただろう。僕は青山瑛太という絶対悪を消すために生まれた。その目的を気付かせてくれただけでも、感謝したいと思った。人間なんて大抵は、自分の生まれた意味など最後まで知ることが出来ず、なんとなく生きてなんとなく死んでいく。だけど僕は、ちゃんと目的を果たして死ぬ。僕の青春は、人生は、青山の物だ。
さよなら瀬戸さん。小南さん、家族や先生、別に好きじゃないけどお世話になりました。僕は十七歳にして、人生の目的を果たせました。銀色の刃が、ゆっくりと深く刺さっていく。がたがたと震える青山の体はとても冷たくて、すでに死んでしまった人のようだった。目を閉じて、息を吸う。後ろから、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。
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