複雑・ファジー小説
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入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 失墜 【完結】
- 日時: 2021/08/31 01:24
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: bOxz4n6K)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19157
歪んだ恋愛小説です。苦手な方はご遠慮ください。
>>1 あれそれ
☆この作品の二次創作をやってもらっています。
「慟哭」マツリカ様著 URL先にて
「しつついアンソロ」雑談板にて掲載中
キャラクター設定集 >>80-81
あとがき >>87
>>99
>>100
- Re: 失墜 ( No.66 )
- 日時: 2016/11/08 07:25
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
- 参照: 一週間フレンズ
「なんかいいことあった?」
家に帰って、荷物を部屋に運び、ベッドに倒れ込み、お腹が空いたとすぐに起き上がる。一昨日父さんの仕事の知り合いから、どら焼きの詰め合わせをもらったので、兄に食い散らかされる前に僕が食べてやろうと思った。廊下を抜けて、階段を降りているとき、偶然にもその大嫌いな兄とすれ違い、僕は舌打ちをする。階段の向こうでは、家を建てるときにどうしても付けたかったという、玄関先のステンドグラスが夕方の光を反射していた。
立ち止まり、にやにやしながら問う兄から、視線をずらした。
「……いいことなんか、ないけど」
「そう? 顔に出てたぞ。どーせ、好きな女の子と話が出来たとか、そんなんだろ。いいなー、高校生は若くて」
年なんて、少ししか変わらないのに。言い返したくなったが、こんな奴と会話をするのも嫌なので、僕は無視して階段を降りる。「今のうちに淡い青春の想い出作っとけよ」と、後ろから声が飛んでくる。
今日は予備校はどうしたんだろう。僕と青山でなんとか撃退はしたものの、まだ青山のお姉さんにストーカーじみた行為をしていたとしたら、青山のお姉さんがいたたまれない。僕は意外とお人好しな人間なのだ。青山や兄のような、調子に乗った人間のクズが失墜していくのは大好きだけど、罪のない人間が不幸になるのは、単純に胸糞が悪い。
冷蔵庫を開けると、すでにどら焼きの箱は空になっていた。
好きな女の子とは、ろくに話も出来なかったけど、好きでもない女の子とは、さっきまで情事に及んでいました。お前がまだ知らない、女の味っていうのを知ってしまいました。
なーんてね、と、鍵のかかった兄の部屋の前で呟いて、僕はくるりとUターンして、自分の部屋がある東の方の廊下へ向かって歩き出す。空になったどら焼きの箱には、カステラ、ポテトチップス、あとソーダが入っている。僕の家に常にスタンバイしてあるお菓子たちだった。
もう一度ベッドに転がって、袋を開けて、真っ白の天井を見つめながら、一つずつ口に運ぶ。こんな穏やかな日々も、もうすぐ終わる。
壁に立てかけてあるカレンダーの、「一日」のところには、赤ペンで花丸が書いてある。母さんが年初め、「はい、今年のカレンダー」と手渡したそれを、なんとなく使っていたけれど、僕の誕生日に印をつけてくれるなんて、粋な計らいをしてくれるものだ。気付いたときは少しうれしかったものの、それを母さんに伝えることは、まだできていなかった。
青山瑛太殺害決行の十二日を睨みつけ、どうやっておびき出そうか、なんて、計画の細かいところまで考えはじめて、もう後には引けないことを知る。だけど左手に持つのはポテトチップスで、今諦めれば、僕はこれからもずっと、この生活を続けることができることにも、心が揺らぐ。
僕は本当に、生活を投げ出してまで、青山を殺したいのだろうか。いやいや、今まで息をするみたいに、「僕は青山を殺す」と言ってきたじゃないか、何を今さら。頭の中で議論を交わす僕同士が、うるさくてかなわない。殺したい。殺さなきゃいけない。僕のためにも、瀬戸さんのためにも。だけど、考えただけで足がすくむのはなんでだろう。ここにきて怖がるなんて、ここで諦めるなんてことをしたら、今までのただ日々に文句を吐いて何もしなかった僕と変わらないじゃないか。
やたらと楽しそうに笑う青山ばかりが頭の中で再生されるのを断ち切ろうと、カステラの袋に手を伸ばしたとき、鞄に入りっぱなしだったスマホが、ありがちな着信音を奏で始めた。
「……もしもし、矢桐です」
いかにも、「めんどくさい」という気持ちを前面に押し出して、僕は鞄からスマホを取り出して、電話に出る。相手の名前は見なかったけれど、もし瀬戸さんから連絡が来た場合、着信音はデフォルトではなく、僕の好きな「ロビンソン」が流れる仕様にしてあるので、瀬戸さんだという事は百パーセントありえない。
『……あのさ、なんのつもり? あの動画』
青山だった。出なければよかった。
さっき小南さんをレイプした動画を送り付けたことを思い出し、「そんなこともあったなあ」レベルの僕は、頭の中で流れるロビンソンを嫌々停止して、ベッドに座って、諭すように言った。
「この前言っただろ、レイプするって。埋めなかっただけ良かったと思いなよ」
『……僕、今すごく機嫌悪いんだ。五万持って、駅前来てよ。十五分で』
「……無理に決まってんじゃん……」
家から十五分で駅まで行けるわけがないのに、飼いならされてしまった僕は、重い腰を上げるしかなかった。もう癖のような物だった。
さっきまで躊躇っていたのが嘘のように、僕は醒めていた。カレンダーの「十二」と目が合う。どうせ、あと一週間もしないうちに、青山はこの世とはおさらばである。
『一分でも遅れたら、殴るから。覚悟しとけよ』
ぷつん、と一方的に電話が切れる。
もう、小南さんはお前の女じゃないのにな。僕は急ぐ気もなく、のんびり準備をして、お手伝いさんに帰りの買い物のメモまで貰って、家を出た。
□
はじめて、血が出るほどの暴力をふるわれた。青山はいつもやり方がうまくて、傷が残らない加減に僕を殴ったり蹴ったりしてくるのだが、今日はいつもとは違った。ただ力任せに僕を蹴り飛ばし、それに抵抗もせずにただ睨みつけている僕に、「いつからそんなに生意気になったんだよ」と、綺麗な顔を歪ませて何度も言い散らした。
待ち合わせの時間には七分遅れた。僕にしては大健闘したほうだ。だけど、青山はすぐに僕を人のいないところに連れ込み、子供が手に入らないおもちゃを欲しがるみたいな暴力で僕をねじ伏せてきた。
僕は、もう哀れにしか思えなくなってしまって、今も一方的な喧嘩に疲れて肩で息をしている青山を、コンクリートに横たわりながら、見下していた。さっきの小南さんも僕と似たような気分だったに違いない。
「……ねえ、なんであんなことしたの?」
汚いコンクリートにぽたりと、頬を伝った血が落ちる。青山はすぐ目の前にしゃがんで、猫なで声で僕に問いかける。ぱっちり開いた瞳の向こうに、どんな感情を抱いているのかは、三年くらい一緒にいるのだから、なんとなくわかる。
「……」
「ごめんごめん、もう怒ってないよ。ただ、もう別れちゃったけど、僕のものだった女の子が、あんな風になってるのが許せなかっただけで」
「……じゃあ、お前はなんで瀬戸さんに手を出したんだよ」
青山は、少し面食らった後、「へえ、それも知ってたんだ」と頬を緩めた。まるで、僕がこんな表情をするのを待ってました、と言わんばかりに。認めたくはないけど、認めなければならないくらい、整った顔立ちをしているからこそ、絶対的な恐怖を感じて、背筋が凍る。
次は何を言い出すつもりだろう。身構えるつもりで、コンクリートから体を起こした。全身に痛みが走る。
「……かまってもらいたかったんだ、矢桐に」
静かな空き地の路地裏に、消え入りそうな声が、夏の暑さに溶けていく。
思っていたより、凄くストレートな言葉だった。青山は、僕から目を逸らさないで、笑っている。
「……は?」
「矢桐だってそうだろ、僕の反応が見たくて、柚寿に手を出したんだろ」
「それは、そうだけど」
驚いた僕の口から、思わず滑り出る本音を聞いて、青山はふっと微笑んだ。なんだか嬉しそうだった。僕は青山が嫌がると思ってあんな行為に及んだのに、なんだ、これ。暑さで頭がよく回らない中、大嫌いな青山は、僕の手を取った。しっとり汗で濡れた手から、小南さんよりも熱い体温が伝わる。
「矢桐も悪い奴で良かった。一途な女の子を弄んで、人間のクズだよな、僕ら」
「……」
「……今までの事、全部謝るから、これからも仲良くしてよ。僕にはもう、友達も柚寿も、なにもないんだ」
コンクリートにつけた血の跡の上に、ぽたぽたと、大粒の水が落ちていく。僕はゆっくり、青山を見上げる。透き通った、角度によっては濃い青色にも見える大きな瞳から溢れる涙は、ソーダを零しているみたいで綺麗だった。ドラマの一部分のようで、僕はしばらくそれをじっと見ていたけれど、青山の方が僕から目を逸らして、薄いワイシャツの袖で目元を拭ってしまったので、僕も強制的に現実に戻り、青山の言葉を冷静に考え始める。
これからも仲良くしてよって、今まで仲良くなかっただろ。僕と青山は絶対的敵対関係にあったはずだ。しかし思い起こされるのは、公園で酒を飲んだこと、恋の話をしたこと、球技大会を抜けたこと、兄を撃退したこと、なんだ、友達みたいな事ばっかりしているじゃないか。こんなはずじゃなかったのに。
自分で傷つけておいて、「最初からこのつもりだった」と言いながら、青山はリュックから包帯と消毒液を取り出して、怪我を負った僕の手足に合うようにカットしはじめる。「中学校の時テニス部で、よくみんなケガしてたから、こういうのは得意なんだよ」と、泣き笑いみたいな表情を浮かべる。
「……僕は、ちょっと矢桐のこと気に入ってるんだ。だから、お願いだから、僕が失墜して何もなくなっても、見放さないでよ」
「……全部、お前が悪いのに」
「そんなの、嫌って程わかってるよ。これから頑張るんだよ。金も取らないし、瀬戸さんともちゃんと、決着付けるし」
白い肌が、少しだけ赤く上気している。青山が、「金を取るのを辞める」と明確に言ったのは初めてだった。なんでもできる青山は、その気になれば僕から自立することも、簡単にできてしまうんだろう。うっすら腫れた瞳と目が合う。目薬は持っているけれど、差し出していいのかはわからなかった。
前髪を抑えられ、出血していた額に、大きな絆創膏が張り付けられる。濡れたティッシュが、血が伝ったのであろう頬をなぞる。
僕は青山が大嫌いだ。こんなことで許すほど、器の大きい人間ではない。殺意はちっとも収まらないどころか、火に油を注いでいる。
なんで、やっと殺そうとしたときに、こんな言葉をかけてくるんだ。最後くらい、笑顔で終わらせてくれ。僕が正義で、青山が悪だってことを証明したいのに、なのに、そんな風にされると、まるで僕が悪いみたいじゃないか。
これだから、青山はずるい。天性の人たらしである。その人懐っこい言動に、今まで何度も騙されてきた。だから、今度は僕が騙す方だ。今の青山なら、僕でも欺ける。そんな自信がどこかにあった。
「いいよ、仲良くしよう」
ただし、一週間後に、僕はお前を殺すけど。
途端に嬉しそうな顔になる青山を見ていると、馬鹿らしくてこっちも笑いそうになる。この瞬間をもって、僕らは「敵」から「友達」に昇格した。そして一週間後には、「加害者」と「被害者」になる。人生最後の一週間くらい、夢を見させてあげよう。そこから突き落とすのなんて、楽しいに違いないじゃないか。
- Re: 失墜 ( No.67 )
- 日時: 2016/11/10 02:55
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
16 リバーシブル—
シーツを握り締めた手が汗ばんで、この部屋のエアコンが壊れていることを思い出す。
ラブホテルの中でも一番安い部屋なのだから、多少設備が悪くても我慢しなければいけないのだけれど、今まで全額出してくれた瑛太くんが、「今日は割り勘にしよう」なんて言い出すから、少し損した気分である。でも、こうやっている時が一番幸せだから、お金なんてどうでもいいんだ。くすんだ壁も、ベットとテレビしかない小さな部屋も、ぜんぶ大切な思い出になる。
「……ねえ、こんな感じでいいの? ほんとうに?」
うん、上手だよ、と優しく言って、瑛太くんは私の頭を撫でる。それが嘘みたいに心地よくて、今日もずぶずぶに、溺れていく。
ベットに二人寝転んで、薄いシーツだけ被って、気持ちいい場所を探っては、恥ずかしくて目を逸らす。ときどき小さく漏れる吐息がなんだか可愛くて、背中に手を伸ばして、ぎゅっと抱きしめる。このまま時が止まればいいのに。時計は無情で、どんどん針は回っていくけれど、私はいつまでもこうしていたかった。
エアコンの壊れた部屋の中、瑛太くんも暑いのか、額にはうっすら汗が滲み、白い頬を薄い赤に染めて、長いまつ毛の下に覗く大きな瞳からは、だんだん余裕が消えていく。乾いた唇を重ねた。わずかな水分を交換し合って、酸素が足りなくなって、頭も体も、この暑さに溶けてしまいそうになる。ねえ、好き、大好き。堪えきれない言葉があふれ出る私を、ほとんど光のない目で見つめる瑛太くんは、とてもきれいだった。
息が荒くなって、私を抱く腕にきゅっと力が入るのを感じる。ただ触ってるだけなのに、気持ちいいとうわごとのように呟く瑛太くんが愛おしい。漫画とかでもよく見るけれど、女の子がこういった行為で満足感を得るには、ある程度時間もかかるし、相手との相性とか、その場の雰囲気とか、いろいろと面倒なのに対して、男の子なんて、こんな簡単に気持ちよくなってしまうんだ。単純で、馬鹿で、そして、どうしようもなく可愛い。
「……今日は、瀬戸さんが上に乗ってよ」
「うん、わかった。今日は私が上」
まだちょっと痛いけど、好きな人のためなら、こんなの耐えてみせる。指を絡めて、もう一度抱き合って、キスをする。幸せだった。もう、付き合いたいなんてわがままは言わないから、ずっとこの居心地のいい関係に置いてほしい。
そんなわがままは、最後まで言えなかったけど。
瑛太くんがシャワーを浴びている間に、下着とワンピースに足を通した。彼はとても優しいから、いつも私に先にシャワーを譲ってくれる。柚寿と来たときは、二人で入ったりするんだろうか。もう別れてしまったという柚寿の事を考えるのはよくないのだけれど、やっぱり一番にはなれない私に、柚寿の存在はいつまでもついて回る。
奪ってしまったストラップだって、矢桐くんがなんとかしてくれなかったら、私はずっと罪悪感に苦しめられていただろう。そういう意味では、矢桐くんは私の恩人である。もし、素直に矢桐くんの事を好きになっていたとしたら、今よりも気持ちも立場も安定して、ずっと前からの夢だった「彼氏持ち」の称号も手にできる。それでも私は、瑛太くんとの関係に溺れてしまう。いい加減自分の駄目さには気付いているものの、断ち切れずにいた。
そろそろ諦め時じゃないの、と私は呟いてみる。シーツには、二人分の形跡がちゃんとある。
ベッドの上に、小さな箱が置いてあるのに気が付いた。最初は灰皿かと思ったが、違うようだ。なんとなくその蓋を開けてみる。避妊具がふたつ入っていた。その生々しさに、私はいけないものでも見ているような気分になり、すぐに蓋を閉める。
そこで私は、はっとしてゴミ箱に目を向ける。思えば私たちは一度も、つけたことがなかった。今までも、多分さっきも。慌ててスマホを鞄から取り出し、カレンダーのアプリを起動する。瑛太くんと会った日は、思い出としてちゃんと記録してあるから、その数字と、生理日予測を照らし合わせる。今のところ体調に異変は見られないし、とても運が悪くない限り、妊娠しているということはないと思うけれど、次からはちゃんとつけてもらわなくてはいけない。ふう、とため息を吐く。柚寿は大切にされていただろうから、きっと、ちゃんと避妊もしていたんだろうなあ。
疲れてしまって、ぽすんとベットに倒れ込んだ。
「この後ご飯食べに行かない? ちょっといろいろあって、奢ったりは出来ないんだけど、もうちょっと瀬戸さんと話したいなって」
いつもは、ホテルを出たあとそのまま解散してしまう瑛太くんが、そんなことを言い出した。外はもう暗くなりかけていて、私は門限的にも家に帰らなければいけないのだけれど、瑛太くんとご飯を食べに行きたいから、笑って頷いた。
柚寿と別れてから、瑛太くんは私を近くに置いてくれるようになったし、会う頻度も増えた。でも、「付き合おう」という言葉は出ない。つまり、そういうことだった。それまでの関係だったのだ。
まだ柚寿の事が好きなのか、それとも違う女の子を狙っているのか、それは聞けないけれど、私は一番ではない。二番でもないかもしれない。理解しているはずなのに、通り過ぎていく女の子たちが、みんな羨ましそうに瑛太くんを見ていくのが気持ち良くて、自分から関係を断ち切る気になれなかった。入ったファミレスで、ミラノ風ドリアを頼み、それを待つ間も、周りの目が気になって、私はちゃんと釣り合えているかが心配で、何度も姿勢を正す。
こんなに好きなんだから、ちょっとは報いがあってもいいのに。そう愚痴もこぼしてやりたくなる。私はまだ少女漫画的な恋愛に夢を見たいのだ。何の変哲もない、ただ英語がちょっと得意なだけの私が、学年でも指折りでかっこいい男の子と付き合う。そんな理想みたいな話が、ひとつくらいあってもいいのに。現実はいつも、思い通りにはいかない。
ストローでジュースを啜っていた時、瑛太くんは突然、にっこり笑って私に聞いてきた。
「……瀬戸さんは、誰かと付き合いたいとか、そんな気持ちになる事ってある?」
「どうかな。良い人が居たら、思うかもしれないけど」
恋愛の話だった。私はうまく返答が出来ているか解らない。目の前にいるあなたと付き合いたいの、なんて言えればよかったのに、恥ずかしくて言えなかった。もうけっこう告白はしているけれど、いつも曖昧にかわされてしまう。
「……僕、やっぱり柚寿とやり直したいんだ。だから、今日で終わりにしよう。一方的でごめんね、瀬戸さんは可愛いから、すぐ彼氏できると思うよ」
そんな私に、瑛太くんは最後の言葉を言い渡す。最初から用意していた文章をそのまま読むみたいな、平坦な声だった。
私は何も言えなかった。いつかこうなることをわかっていて、この関係を続けていたけれど、私の中で保たれていた気持ちが、さらさらと崩れていく。だよね、そうだよね。ずっと見ていたから、知っていた。席替えの時も、球技大会の打ち上げの時も、瑛太くんは、ずっと柚寿を気にかけていた。どんな事情があって別れたのかは、私にはわからないけれど、悔しいくらいお似合いなんだから、たぶんいつでもやり直せる。
「……そっか……」
私に一瞬でも甘い夢を見せてくれた瑛太くんに、逆に感謝でもするべきなのかもしれない。だけど、それなら今日会った時すぐ言ってくれればよかったのに。最後の最後まで、体の関係を求められた、私の存在がどこまでも軽く思えてきて、なんだか、乾いた笑いが出そうだった。
「うん、わかってたよ。私、好きだったけど。瑛太くんにお似合いなのはやっぱ柚寿だし、仕方ないよね」
私は笑う。瑛太くんは、少し申し訳なさそうな表情になって、もう一度「ごめん」と謝った。謝ってほしいわけじゃなかったのに。
これからも友達でいる約束をした。ああいう事をするのは今日で終わりだけど、近いうちに、またご飯を食べに行く約束もした。「今度は、僕と柚寿と、瀬戸さんとあいつで来れたらいいな」と言って、瑛太くんは弱く微笑む。
「あいつって誰? 瑛太くんの、お友達?」
「うん。もう聞いてるかもしれないけど、僕、矢桐と仲良いだろ。だから、今度は四人で来よう。あいつ、瀬戸さんと話したがってたから、仲良くしてあげてよ」
「……二人も楽しいけど、四人っていうのも、賑やかでいいかもね。賛成」
夜のファミレスで、二人で笑い合う。
この瞬間から私たちは、汚れた関係から普通の友達になった。だから、もう恋はおしまい。やめなきゃいけない。まだふっきれは出来ないけれど、ケンカ別れよりはずっと良い。これからも楽しく笑い合えるのは、嬉しいことでもあるのだ。
でも、適当に弄ばれて、都合のいい存在で、飽きて捨てられてしまったという事実は、これからずっと消えることはない。ファミレスを出たら、外は肌寒く、瑛太くんは逆方向に帰っていき、私は一人になった瞬間に、不意に泣いてしまいそうになる。
恋愛って、こんなに切ないものだったのね。そういう台詞を吐けるほど、綺麗な関係では無かったのだけれど。
公園のブランコに腰かけて、スマホを出して、親友の梓に電話を掛ける。まだ家には帰りたくはない。全部聞いてほしかった。馬鹿にされても良いから、今はとにかく、誰かと話していないと本気で泣いてしまいそうだった。
- Re: 失墜 ( No.68 )
- 日時: 2016/11/11 03:04
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
「ばっかじゃないの? ほんとどうかしてる、死ね、さいってい、最悪、あんな奴、もう同じ空気吸いたくないっ」
「……言い過ぎだよ、梓」
電話すると、梓はすぐに来てくれた。梓は両親が共働きで、夜の遅い時間まで姉と妹しか家にいないらしい。だから、門限というものが制定されていないみたいで、私は梓と顔を合わせるなり、さっき出たばかりのサイゼリヤに連れ込まれてしまった。
つい二十分前に食べたばかりのミラノ風ドリアの匂いを嗅ぎながら、店員と目を合わせないようにして、通された席に座った。適当な私服の梓が大人っぽく見えたのか、それともだらしなく見えたのか、テーブルの表示を見ると「喫煙席」とあった。すごく自然に禁煙席を選んでくれた瑛太くんとは違って、女同士で来るとたまにこういうことがあるから困る。居心地は良いけれど、男の人と居るときとはちがって、大切にされている感じはしない。
梓は私の話を無言で聞いていたが、「避妊具を使ってなくて」くらいまで話が進んだところで、徐々に苦虫を噛み潰したような表情になって、さっきのやりとりまで話を終えると、激昂して先ほどのようなことを、周りも気にせず言い出したのだ。「死ね」という不穏なワードが聞こえたらしい。隣の席でタバコを吸っていたくたびれたサラリーマンが、ぎょっとした顔で梓の方を向く。
「死ねばいいのに。私、前からだいっきらいだったけど、今回のでもう無理。京乃、なんであんな奴に騙されてたわけ? あんた小南の代わりにされてたんだよ?」
「梓にはわかんないと思うけど、好きになったらそんなこと、考える余裕なんて無くて」
「そんなゴミみたいな奴との恋愛なら、一生わかんなくて結構。ほんとムカつく、誰かに刺し殺されないかな、青山瑛太」
はー、気分悪っ。梓は吐き捨てるように言って、酒を飲むようにウーロン茶を半分くらい飲み干す。学校で会う時よりも跳ねが目立つ茶色の髪も、適当に合わせてきただけの服も、サンダルも、「急いで来ました」という感じだった。瑛太くんと会う時は、私は私なりの最大限のおしゃれをしていたので、こうしていると私たちは周りから見ると不自然な二人かもしれない。もっとも、深夜のファミレスはすでにガラガラである。だから、梓が「刺し殺されないかな」なんて割と大きな声で言っても、隣のサラリーマンが吐き出した煙に溶けてしまう。
現実主義で、いつも冷めている梓がこんなに怒るのを初めて見た。そんなに瑛太くんが嫌いなのだろうか。
「……前からおかしいと思ってたのよ。顔が良くて勉強も運動も出来るくせに、自惚れもせずに周りに愛想ばっかり振りまいてさ。そういう完璧人間って、絶対裏ではいろいろやらかしてるわけよ。ああ、すっきりした。小南もだけど、ああいう人間味を感じない奴って、何するか解らないから怖いのよ」
「……梓が言う程、悪い人じゃないよ」
「なにそれ、まだ好きなの?」
「……わかんない、けど」
梓は、呆れたように私を見ている。私の返答が曖昧なのを見て、それはだんだん苛立ちに替わっていく。
私は、梓が怖くなってきた。目の前の人間が、怒っている。怒りを露わにしている人に対して、私がこれまで覚えてきた対処法は、とにかく機嫌を取ることしかなかった。しかし、今の梓は、瑛太くんに怒っているのか、私に怒っているのかがわからない。
「……ごめん」
取り繕いのつもりはなかったけれど、出てきた言葉は謝罪だった。
「なんで、あんたが謝るの」
はあ、と、静かな店内に、ため息がひとつ、こぼれて落ちた。梓と目を合わせるのを怖がっていたけれど、いざ顔をあげて視線が絡むと、彼女は怒りを通り越して、諭すみたいな表情に変わっていることに気付いた。
そして、口調の強さはそのままに、梓は話し出した。
「私は、あんたのこと、大事な友達だと思ってるの……! あんたは他にも友達がいっぱい居るんだろうけど、私には京乃だけ。だから、もっと自分の事大事にしてよ。京乃がくだらない奴と関係持って、辛い思いするのは嫌だし、それをなんとか止めてあげることが、親友として、できることだと思ったの!」
声が震えていた。最初は私の方をしっかり見据えていた視線もだんだん下がり、調子も弱くなっていく。それでも、梓が私に伝えたかった事は、下手な少女漫画よりも綺麗な感情だった。さっきまで怖がっていたことも全部忘れて、珍しく感情をあらわにした表情をしている梓を見ていた。
「……京乃は私よりもずっと可愛いし、男子にも密かにモテてるんだから、あいつよりもかっこよくてまともな彼氏、すぐできるから。だから、早くまともな男作って、私におこぼれ紹介してよ」
「……うん、ありがと、梓」
私は、笑顔を浮かべて梓に言う。そして、「梓が仲のいい友達で良かった」と付け足した。すると梓は、とたんに顔を赤らめて、なにそれ、いきなりそんな事言わないでよ、と取り乱し始めた。梓だって、十分可愛い女の子である。カフェオレを口に運んで、私はあたふたしている梓をずっと見ていた。
私は、思っていたよりもずっと、周りに恵まれていたらしい。心配しなくても、瑛太くんとの関係はもう終わっているようなものだし、あとは遊んで全部忘れて、次の恋に向かうだけだった。
しかし、梓は「避妊しないとかありえない、なんか仕返しをしないと気が済まない」と言っている。
「仕返し? なにするつもり?」
「……あ、そうだ。あんた、青山に『生理が来ないんだけど、どうしよう』ってラインしてよ。それで、無様に京乃に謝ってるところに、私が現れてネタバラシ」
「梓、性格悪っ」
「むしろ、あいつに架空の中絶費用払わせよっか? その金で、夏休みは二人で旅行に行こうよ。どうせあいつ金持ちだし、それくらいぱっと払ってくれるって。慰謝料だと思ってさ、ね」
「……あはは、梓って面白い」
「冗談で言ってる訳じゃないの。京乃はそれだけの事をされたんだから、それ相応の仕返しをしなきゃ」
私を見る梓の瞳は、こっちを黙らせてしまうくらい本気だった。
責任は取らないからね、梓がやってよ。私はそう言いながら、スマホを梓に渡す。難しいことは解らないけれど、これって架空請求にあたるのではないだろうか。
しかし、確かに瑛太くんはお金持ちである。今までも何回も奢ってもらった。私との関係は、周りにも隠し通したいだろうから、梓の言う通り、ちょっと脅せば簡単に金をくれそうではある。さっきの態度を見る限り、私に対しては本当に申し訳なく思っているだろうし、体だって何回も差し出したんだから、少しくらい、いいよね。
「どこ行く? ディズニー? それとも、名古屋の方まで行っちゃう?」
パンフレット貰ってこなきゃ。私たちは笑顔で、未来の計画を語り合う。梓が、ぽちぽちと画面に文字を打ち、「送信」をタップする。
深夜のファミレスは、相変わらず閑古鳥が鳴いていた。
- Re: 失墜 ( No.69 )
- 日時: 2016/11/13 02:28
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
16 魔法が使えないなら
空虚な日々を過ごしているけれど、あなたはどうですか。
目の前が霞んで何も見えなくなって、道が途絶えるくらいなら、自分から道なんか外れて、どん底まで墜ちてやるわ。
「……なーんてね」
なんとなく家から持ち出してしまったカッターを、ポケットに仕舞った。数学の時間は酷く退屈で、放課後の予定を思い出しては、鬱屈した気分になってしまう。それならいっそ忙しい方がずっと良くて、反射する窓越しに、後ろの方に座っている別れた元恋人でも眺めていると、彼はいつも通り、真面目に授業を受けていた。
私は酷く空っぽで、もう何もなくなってしまった。目の前で繰り広げてある数式も、少しも理解が出来なくなった。夏服のワイシャツは、肘まで捲ってある。まだ日には焼けていない、おそらく焼けることもない白い手首に、今この場所でカッターを突き刺したら、私は放課後彼らの元へ向かわなくてもいいのかなと、うつらうつら考えるけれど、そんなことは私の美意識に反するから、やめた。
努力することを辞めた私の堕落は凄まじかった。まず、勉強が何もわからなくなった。今はここに平然と座っているけれど、次のテストはもう、どうなるかわからない。次に、ぼーっとしてることが多くなって、紅音達との会話でもうまく立ち回れなくなってきたし、体育でも平凡なミスばかり繰り返すようになった。明日が怖くて眠れず、肌の調子も崩れている。もはや小南柚寿じゃなくなった私に、何の価値があるのだろう。その答えはまだ、見つけられない。
「……柚寿、ちょっといい? あんたさぁ、翔とやったでしょ?」
昼休み。紅音は私を、真っ直ぐ見据えている。
いつものように学食で、紅音達とご飯を食べていた。私はもう体重管理をやめていたので、好きなものを食べてもいいのだけれど、食欲が無かったのでサラダだけを食べていた。すると紅音が、突然、私に用事がある、二人きりで話したいと言い出して、優奈やみちるを放って、私を連れ出したのだ。人気の少ない廊下の窓に体の半分を預けて、長い髪を指先で弄びながら、紅音は私にそう言った。
「……別れたって聞いたし、向こうが誘ってきたし……」
紅音が私に敵意を向けるのは初めてだったので、少し怖くなって目を逸らす。
渋谷くんとは、今でも続いているし、今日の放課後も会う予定だった。でも、付き合っているわけではない。付き合おうよとは言われたけれど、私が返事をしていないので、ずるずると体の関係だけが続いている状態にある。
「あのさ、元カレとは言えども、そう簡単に取らないでくれない?」
紅音は、まだ渋谷くんの事が好きみたいだ。私もそれは知っていた。
渋谷くんとこの前ご飯を食べに行ったとき、彼は、「紅音が復縁しようってうるさくて困る、柚寿ちゃんから、もう連絡してくんなって言ってくれないか」と笑いながら言っていた。彼は情が薄くて、紅音を人間以下と認識しているらしくて、付き合っていた女の子に対するとは思えない暴言をいくつも吐いた。私はそれに若干の恐怖を覚えながら、私もこんな風に言われていたら嫌だなあ、なんて思っていた。
紅音に本当の事を話したら、もう友達ではいられなくなるかもしれない。
でも、気を遣ってばかりで、本当のことも話せないなんて、そんなの友達じゃない。
私は迷ったけれど、思えば私はもう、みんなに愛されていた小南柚寿ではないのだから、なんでもいいや、と考えて、紅音に話すことにした。乾ききった唇を開く。
「渋谷くんは、もう紅音とは、話したくないって言ってる」
「……はあ? あんたに翔の何がわかるの? まさか、付き合ってるとか言わないよね?」
「付き合ってないよ。でも、昨日も会ったし、今日も会う。次の女が出来るまでのつなぎで付き合っただけだから、本気になられると困るんだって。もう連絡しないでほしいって言ってた」
「……っ、なんなの? 私のこと、そんなにバカにして楽しい? ちょっと翔に気に入られてるからって、生意気なのよ!」
紅音が、見たこともないくらい激昂している。廊下を通り過ぎる人たちが、私たちを一瞥して、関わりたく無さそうな目をして、通り過ぎていく。私はそれを何も思わずに見つめていた。ただ、綺麗になったと思っていた紅音が、ぼろぼろになっているのに気づいて、気の毒だな、と感じただけだった。アイラインは歪み、髪は軋みが目立ち、重そうな作り物の二重の瞳には、疲れがありありと見えている。私も似たような物なんだろうけれど、目の前にいる女は、美人では無かったが、健康そうな顔立ちをしていた、前までの紅音とはかけ離れていた。
「だいたい、翔の周りに、あんたが居たのが良くなかったのよ。翔は事あるごとに柚寿と私を比べて、本当は柚寿と付き合いたかったとか、そんなことも平気で言うし、邪魔なんだってば!」
振り上げて、私を殴ろうとした紅音の腕を、ぱっと掴む。
廊下を通り過ぎていく人間は、ついに途絶えた。もともと人気のないところだったから、昼休みも終わりかけている今、わざわざここを通ろうともしない。
私は、瑛太にすべてを取られてしまったあの子のまねごとのように、無言でポケットからカッターを取り出した。そして、出しっぱなしだった刃を向ける。何よ、と上ずった声で紅音は言う。まさか小南柚寿がここでカッターを取り出すとは思わなかったのだろう。私も、小南柚寿がそんな人間だとは思えない。だけど、私はもう、あんな完璧に取り繕う事が出来る、良い子ではないのだから。
「……くだらないことで、そんなに騒がないでよ。殺すよ?」
時の止まった私たちだけの廊下で、私の低い声が響く。
紅音はその顔を恐怖と驚きと怒りでいっぱいにして、私の腕を振りほどいて、反対側に向かって走り出して、居なくなってしまった。恐らく、人がたくさんいる、暖かい方へ。私はどうにもできなくて、ただカッターを見つめている。
矢桐くんも私に同じようなことをしてきたけれど、あの時の私もあれくらい間抜けだったのかな。カッターを廊下に投げ捨てて、私は教室に戻ることにした。その日は放課後まで、紅音には話しかけられなかった。
□
「調子乗んな、青山くんに振られたゴミクズのくせに!」
放課後になり、授業から解放された私たちは、一斉に校舎から吐き出される。部活に行く生徒も居れば、友達と遊びに行く女子たちも居るし、家に帰って趣味に精を出す人もいる。
私は、ゴミ捨て場で倒れ込んでいた。紅音が私の体を思いっきり蹴る、その横で、優奈とみちるが楽しそうに笑っている。汚いゴミに体が埋もれて、何度もお腹を蹴られて、吐きそうなのに胃液すら出なかった。紅音はともかく、優奈とみちるは、私がいつもフォローしてあげていたのに。裏切られたというか、しょせんそんな関係だったんだと思うと、涙ももう出なかった。
瑛太に振られたんじゃなくて、私が振ったのに。言い返す前に、また強く体を蹴られて、全身に鈍い痛みが走る。私の血で、捨てられていたティッシュに赤が滲む。ゴミ捨て場のドアの向こうに覗く光に向かって、助けを求めて手を伸ばすのに、それは簡単に遮られてしまう。
「私、あんたのこと、ずっと嫌いだった。ちょっと美人だからってまわりにちやほやされてさあ、かっこいい彼氏も居て、成績も良くて、周りに愛されて。今まで仲良くしてたけど、恋も邪魔されて、もう限界。あんたの存在がずっと私を苦しめるんだ。いなくなっちゃえばいいのに」
清々しいくらいの全否定を浴びせられる。その後ろで、優奈とみちるが、くすくすと笑う。二人も私の事をそう思っていたのだろうか。
あーあ、やってらんない。友達だと思ってたのに。私、死ぬほど頑張って、なんでもこなしてきたのに、全部無駄だったんだ。瞳を閉じる。いっそ、このまま気絶してしまいたかった。
「……わ、びっくりした」
意識が朦朧としてきたとき、突然、紅音と優奈とみちる以外の人間の声が聞こえた。眼を開くと、待ち望んでいた光の向こうに、よく見知った女子が居た。同じクラスの瀬戸京乃だった。今日は掃除当番でゴミ捨て担当だったのか、手には二つ、緑のビニールのゴミ袋が握られている。夕方の光を浴びている彼女が、救世主のように見えた。
「ね、今見たことは全部黙っててくれない?」
紅音が、営業スマイルを浮かべて京乃に近づいていく。京乃は、倒れ込んでいる私と、紅音と、優奈とみちるを順番に見て、大抵の事情を察したのか、微妙な表情になる。
お願い、助けて。そう言おうとしても、口がもう開かない。紅音への恐怖と、あと口の中が切れて、腫れてしまって、上手く動かないのだ。
立ったまま硬直している京乃と目が合う。綺麗な色をしている瞳が揺らぐ。助けて、と口を動かすと、京乃はさらに困ったような顔になっていく。でも、見て見ぬふりは出来ないのか、紅音に何かを言いかける。その瞬間、いつもより高くて調子のいい優奈の声に遮られた。
「あたし見たんだけど、京乃、青山くんと一緒にラブホテル行ったでしょ? 一昨日くらいだった気がするー。好きなの? 付き合ってる訳じゃないでしょ?」
「……そ、それは」
京乃は、ぱっと優奈に向き直って、ビニール袋を持ったまま慌て始める。図星みたいだ。
なにそれ、と私は、ぐらぐらした頭を更に混乱させる。京乃が、瑛太と? 瑛太は付き合っている間、京乃の話なんて一切しなかったし、したとしても、特別好意的な温度は感じなかった。ただひとつだけ心当たりがあるのは、この前矢桐くんに体育館裏で無理矢理襲われたとき、彼はひっきりなしに、無意識下で私じゃなくて京乃の名前を呼んでいたことで、多分矢桐くんの好きな人は京乃なんだろうなあ、と思ったくらいである。瑛太と矢桐くんの関係なら、矢桐くんの好きな人くらい、瑛太は知っていそうだけど、それでも簡単には理解できない。
「なにそれ、面白ーい。柚寿も結局浮気されてんじゃん」
紅音が、甲高い声で笑う。京乃は気まずそうに眼を逸らす。そして、「ごめん、柚寿」と謝った。京乃が謝る事ではないし、瑛太とはもう付き合っていないのだから、誰と何をしようが勝手である。だけど、なんだかとても気分が悪い。綺麗だと思っていた京乃が、歪んで見えてくる。
「こいつさ、人の男すぐ取るビッチだし、もう京乃が青山くんと付き合えばいいじゃん? そっちの方がお似合いだよ。京乃もよく見ると可愛いしさ、いいんじゃない?」
「……」
「京乃もやりなって。実はあんたも心の奥底で、柚寿のこと嫌いだったでしょ? いいって、誰にも言わないから」
紅音が、京乃の持っているビニール袋を取り上げる。そして、結び目を解いた状態にして、また渡した。これを私に浴びせろ、ということらしかった。
「……ごめん」
小さく謝る声が聞こえた後で、がらがらと大きな音を立てて、私にゴミがなだれ込んでくる。弁当の空や、ティッシュや丸めた紙はともかく、ペットボトルに残っていたジュースまで私の全身に降り注ぎ、べたついた髪が頬に張り付いて気持ち悪い。
あはは、と紅音達は笑っている。柚寿なんて、クラスの誰にも好かれてなかったんだよ、残念。優奈が笑い飛ばす声が、とても遠くに聞こえる。ごめんなさい、私はもう駄目みたいです。キラキラして、輝いていたあの頃の私が、今の私を見て泣いている。そんな夢を、日が暮れるまで見ていたような、そんな気がした。放課後はループのように、いつまでも続いた。
- Re: 失墜 ( No.70 )
- 日時: 2016/11/14 02:13
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
何度も何度もやめてと叫んだけれど、私は解放されなかった。これまでの恨みを、全部ぶつけられているらしい。京乃がそそくさと姿を消した後も、紅音達はやめてはくれなかった。
球技大会を途中で抜けてしまったこととか、そんな昔のことまで、わざわざ掘り出して、紅音は私を口汚く罵る。ゴミで埋もれた視界に、光は映らない。モノクロになった世界には、何も残っていなかった。
そんな私の世界に、鮮やかな赤が飛び込んでくる。はっと瞳を見開く。紅音が振りかざしていたのは、大きなハサミだった。家庭科室から持ち出したのか、普通に筆箱に入っているようなハサミとはわけが違う、人だって殺せてしまいそうな、大ぶりのものだった。後ずさりをしようにも、手に粘つくゴミが、そうさせてはくれなかった。
「もう、あんたにはなにもないんだからさぁ、なにされたって、なんともないんじゃない?」
どうしよう、殺される。思いっきり目を瞑った瞬間、ゴミでまみれていた、私の長い髪が、強い力で引っ張られた。痛みに悲鳴をあげそうになる前に、ハサミ特有の、物を切った時に鳴る、さくりという音が、耳のすぐ近くで聞こえる。
「……うそ、なんで」
切り落とされた私の髪が、ゴミと一緒に散らばっていた。肩よりも短くなってしまった右側の髪の毛先が、頬に突き刺さるように張り付く。
「その綺麗な髪も、自慢みたいで嫌いだったんだよねー。ああ、すっきり」
紅音が、あはは、と高い声で笑う後ろで、同調するように優奈たちも、私を見下している。
この時、やっと涙が頬を伝った。ずっと伸ばしてきた髪だった。嬉しかったことも、辛かったことも全部一緒に覚えている。瑛太に綺麗だと何度も褒められて、それが好きで、手入れを毎日欠かさないようになったんだっけ。私が私でなくなってしまったことが、今度は視覚としてはっきりと伝わる。
私が泣き始めて、ついに我に返ったのか、優奈が、「ねえ、やばくない?」と紅音に耳打ちをする。私は痣だらけで、ゴミまみれで、髪も変な位置で切られて、長いところも短いところもある。紅音が私にこんなことをしたと知れたら、確実に停学である。私は大人に告げ口する気はないけれど、さっきまでここにいた京乃はこの現場を目撃したわけだし、このままゴミ捨て場で騒がしくしていたら、バレるのも時間の問題だ。
紅音もそれを察しているのか、はたまた私で遊ぶのに飽きたのか、舌打ちを残して、後ろのふたりを引きつれて、ゴミ捨て場を去っていった。
ばたんと扉が閉じて、嘘みたいな静寂が私を包む。
明日から、どうやって生きていけばいいんだろう。ていうかまず、どうやって帰ればいいんだろう。私は絶望の中、投げ出されていた鞄からスマホを手に取り、ラインで会話した履歴を確認する。並ぶ名前は渋谷くん、紅音、優奈、みちる、瑛太、椿、あとは家族くらいで、私って全然友達が居なかったんだな、とまた、知りたくもないことを知ってしまう。ふっと消えてしまった心の炎が、スマホごと手放して、何も考えたくない頭が無意識に言葉として送り出し、「死にたい」と口でなぞる。
渋谷くんもたまには役に立つもので、彼と行った、学校から一番近いラブホテルを借りる、という決断に至ることができた。それまでの道のりは、できるだけ人の少ない道を選んだけれど、疲れ切った顔をして、服も髪も汚れきった私を見て、すれ違う人間たちはみんな、ぎょっとしたような顔をしていた。これまで赤の他人に羨望の視線を向けられていた私が、今はそんな、蔑む目を向けられている。堕ちるところまで堕ちてしまったと、思わずにはいられなかった。
安っぽい風呂のシャワーで、体を全部洗い流す。傷口に染みて、もうどこが痛いのかもわからない。白い腕が大きく擦り剥けて、赤く変色していた。シャワーを少しだけ緩めて、汚れてしまった部分に当てる。ひりひりして、思わず目を瞑りそうになった。
幸いなことに、私はいつも絆創膏を持ち歩いていたから、多少の傷はなんとかなる。体育があったから、ジャージも持ち帰ってきていたので、汚れた制服で帰らなければいけない、ということもない。
だけど、鏡の中に映っているこの女は、もう私では無かった。泣きすぎて腫れた瞼も、眠れない日々が続いて消えなくなったクマも、そして、肩の少し上で跳ねている、ぐしゃぐしゃの髪も、まるで別人のようだった。保っていた四十五キロよりすごく不健康に痩せた体を自分で抱きしめる。ぬるいシャワーはまだ、傷だらけの体に降り注ぐ。
頼れそうな人を、順番に思い浮かべてみる。渋谷くんは論外、紅音達もだめ、椿にこんな自分を知られたくない、親には迷惑を掛けたくない。瑛太は無関係の人。じゃあどうすればいいだろう。目の前に横たわる現実から逃れる手立てを考えて、何もないことに気付き、シャワーをやっと止める。そして、それを首にぶら下げてみる。流石にこんなに短いヒモじゃあ死ねないけれども、こんなことをすれば、怖くて仕方がない明日も、もう永遠に来なくなる。そう思うと、自らの手で明日を絶ちたくなった。
もうすぐ、私は死ぬのだろう。今までは、死の淵のぎりぎりを歩いて来ていると思っていたが、もうそれすらかなわないようだ。小南柚寿という女の子は死んでしまった。あとは、今ここにある、残骸みたいに残っている体をどこかに投げ出すだけ。
それだけなのに、なんで涙が止まらないんだろう。鏡の中の女は、ひどく崩れた顔を隠しもしなかった。そんなことさえもできなかったのだ。
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