複雑・ファジー小説
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- 失墜 【完結】
- 日時: 2021/08/31 01:24
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: bOxz4n6K)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19157
歪んだ恋愛小説です。苦手な方はご遠慮ください。
>>1 あれそれ
☆この作品の二次創作をやってもらっています。
「慟哭」マツリカ様著 URL先にて
「しつついアンソロ」雑談板にて掲載中
キャラクター設定集 >>80-81
あとがき >>87
>>99
>>100
- Re: 失墜 ( No.15 )
- 日時: 2016/08/26 10:14
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: y36L2xkt)
ピンクのベッドに座っている柚寿に、冷えた麦茶を渡す。しっとり濡れた白い肌を、汗がつたう。
僕もその隣に腰かけて、柚寿が半分くらい飲んだ麦茶を無言で受け取って、口に運んだ。どちらのものかわからない唾液で絡まった喉を、冷たい感触が流れていく。美味しい。
「……あ、ごめん。服」
「ん、いいよ。まだお母さん返ってこないし、洗濯しとくね」
さっきまで散々感じていた幸せが冷えていく、事後。僕は汚してしまった柚寿のワンピースを拾い上げて、机の上の箱ティッシュに手を伸ばした。
ほんのり上気した頬を少しだけ緩ませて柚寿は、僕を見ている。ベッドの下のゴミ箱に、ティッシュを丸めて放り投げて、僕はもう一度キンキンに冷えた麦茶を飲んだ。これが映画やドラマならタバコでもふかすのに、あいにく未成年の僕達は、気の抜けた視線を部屋の隅に向けることでしか、行為後特有の沈黙を誤魔化せなかった。
若い男女が付き合えば、こういう事をするのは、自然なことである。交際を始めてから一か月くらいで手を出してしまったのは我ながら軽率だったな、とか今更になって思うけれど、柚寿は思ったより無抵抗だったし、驚くくらい上手かった。柚寿くらい美人な女は、僕と付き合う前にも沢山の男と付き合っているだろうし、それなりに経験も重ねているだろうから、仕方のないことなのだけれども、男という生き物はどうしても、女にとって最初の相手でありたいらしくて、過去の男に嫉妬することもあった。僕だって散々他の女を抱いてきたのに、なんて自分勝手なのだろうか。
元カレの話とか、振ったら怒るかな。ちらりと柚寿を見ると、はだけた部屋着のボタンをかけ直しているところだった。さっきまで僕に触れていた長い指を絡ませて、上手に透明のボタンを穴に通していく。
僕は机に置いていたスマホを手繰り寄せて、届いていた通知を見る。ついでに柚寿のも取って渡してやる。
翔と戸羽さんからまた連絡が来ていた。内容は、わざわざ述べるほどのことではない。体の相性が合うかもしれないとか、運命の相手かもしれないとか、僕にとってはとてもどうでもいい文が並んでいるだけだった。
ふと、矢桐のことを思い出す。さっき電話をかけたから、履歴がまだ残っていたのだ。いつの間にかすぐ近くまで寄ってきた柚寿に、「誰の番号?」と聞かれたので、笑顔で中学の友達、と返しておいた。中学が同じだったことは確かだが、僕と矢桐は、間違っても友達ではない。
柚寿はめんどくさい女ではないから、それ以上疑いをかけてくることはなかった。僕の肩にもたれかかって、友達にラインを返している柚寿の小さな頭を撫でながら、考える。再来週のプレゼントだったり、そういえば近づいていた、同じ雑誌でモデルをしている友達の誕生日だったり。僕の金はすぐになくなる。きっと来週の火曜くらいには、僕はまた矢桐を呼び出して、金を奪ってしまうだろう。僕だってやめたいけど、やめた瞬間に全部を失う。柚寿も友達も、この地位も。僕には、それが限りなく怖いのだ。
「……わっ。もう、どうしたの、いきなり」
耐え切れなくなって、衝動的に柚寿を抱きしめる。折れてしまいそうなほど細くて、柔らかくて、暖かい。柚寿は優しいから、ぽんと僕の背中を叩いて、小さい子供をあやすように笑ってくれる。でも、僕は柚寿に全てを話すことができない。言葉にしきれない感情を、いろんな形でぶつけるだけだ。ごめん、しばらくこのままでいさせてくれないかな、と呟くように、ぽつりと吐き出す。柚寿は、僕に何も聞かなかった。ただ、「瑛太は、もっと私のこと頼ってもいいんだよ」と優しい声で言うだけだった。
□
僕が頼れるのは柚寿でも他の友達でもなくて、矢桐だけだ。それを思い出したのとほぼ同時に、スマホの通知音が鳴った。
そういえばさっき、矢桐の好きな女の子にちょっかいをかけてやろうと思って、ラインを送ったのを思い出した。瀬戸京乃さんという子である。地味で、子供っぽくて、頭の悪い女だ。矢桐はあれのどこがいいんだろう。確かに顔はよく見たら可愛いかもしれないけど、柚寿に慣れてしまうと他の女なんて霞んでしまうし、あの子は恋愛対象というよりも、マスコットキャラクターみたいな感じだと思っていたから、不思議でたまらない。矢桐の女性の好みはまったくもって謎である。
そんな瀬戸さんから連絡が入っている。適当に遊んでやる気しかなかったから、とても簡素な文章を送り付けたにもかかわらず、返ってきたのは綺麗に絵文字で装飾された文だった。
「月曜日の放課後、教室で待ってるね」とそこには書いてある。もし僕が、瀬戸さんを奪ってやったら、矢桐はどんな反応をするんだろう。僕に怒ったり泣いたりしてくれるだろうか。金を取られても、殴っても蹴っても、いつもの無表情を崩さない矢桐が、人間らしい顔をするのを見てみたい。
僕っていつからこんなに最低な人間になったっけなあ、と思いながら、もう外れかけている家のドアを開く。鍵は有って無いようなもので、強く引かれると簡単に開いてしまう。古びた団地の、市営住宅の一室が僕の家だった。未だに、誰一人として友達を入れたことはない。
母さんと姉さんは、スーパーに買い物にでも行ったのだろう。荷物を投げて床に座る。柚寿の部屋よりも狭いかもしれない僕の家は、夜が来ても薄暗いままだった。
- Re: 失墜 ( No.16 )
- 日時: 2016/08/15 11:48
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
4 ウルトラソーダ
世界がぐらりと傾く音がした。時が止まったみたいに静かな教室で、私はいっぱいに目を開いて、その綺麗な男の子を見ていた。
「瀬戸さんのこと、前から可愛いなって思ってたんだ。嫌だったかな……?」
「そ、そんなことないよ? でもちょっと、びっくりした」
あまりにもドキドキして、いつもより少し声が上ずっているのが、自分でもわかる。だって、今のがファーストキスだったから。私の髪を撫でる、瑛太くんの柔らかい手の感触が、まだはっきりと残っている。嘘みたいに高鳴る胸が、これは夢なんかじゃないと痛いほど教えてくれる。
かっこいいな、と密かに思っていたクラスの男の子に、放課後の教室で、キスをされた。私の持っている少女漫画みたいな話だけど、全部現実だ。夕陽のせいで少し赤くなった頬を緩ませて、瑛太くんはごめんね、と言う。ずるいなあ、そんな声で言われたら私は、許すしかなくなってしまう。誰もいない教室は、世界の終わりみたいに、しんと静まり返っている。
瑛太くんの綺麗な瞳には、ちゃんと私が映っている。いつもなら、違う女の子なんだけれども。そう、この世界は少女漫画ではない。瑛太くんには彼女がいる。
「……こんなことしたら、柚寿に悪いよ……」
我ながら、昼ドラみたいな台詞と共に、柚寿の事を思い出す。瑛太くんの彼女なだけあって、綺麗な顔をした女の子だ。クラスの、いや学年でも、一番か二番目に人気がある子で、私がどう頑張っても敵わない。だから、正直なんで今、こんなことになってるのか、私は全くわからない。なんで私なんだろう。「前から可愛いなって思ってたんだ」の言葉が本当なら、すごく嬉しいことだけど、信じてもいいのだろうか。私は勉強もできないし、単純に頭が悪いから、信じることしかできないのだけれど。
「柚寿のことも、もちろん好きだよ。でも、それとこれは別だろ」
「……ほんと?」
瑛太くんが微笑む。その言葉で、柚寿の事を考える余裕がなくなる。私の思春期を全部捧げてもいいって、本気で思えてしまう。
細いと思っていた瑛太くんも、やっぱり男の子なんだなって思う。強く抱き寄せられると、ちゃんと腕の中に私はおさまってしまう。心臓の音、聞こえてないかな。顔を上げる。目が合う。なんて整った顔をしているんだろう。柔らかそうな髪も、透けそうなほど白い肌も、薄い唇も、全部私の物になればいいのに。もう一度唇を重ねる。
柚寿は、いつもこんなに幸せな思いをしているのかな。私が勇気を出さなければ触れられない瑛太くんの袖に、簡単に触れて隣で笑える、あの子が羨ましい。柚寿になりたい。きっと、びっくりするくらい人生楽しいんだろうな。いいなあ。
「クラスのみんなには、内緒だよ」
唇に人差し指を立てるような、そんな漫画じみた仕草でさえも似合ってしまう瑛太くんと、無言で頷く私。すごくアンバランスだけど、もうなんだっていい。窓から入り込む風が、随分暑くなってきた気がする。もうすぐ、この街にも夏がくる。
夜が近づいているのに、帰りたくはない。まだここでドキドキしていたい。帰ろうかという瑛太くんの声に、少しの名残惜しさを感じた。
- Re: 失墜 ( No.17 )
- 日時: 2016/08/16 22:37
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
「だって、ほんとにキス、しちゃったんだもん……」
午後五時、ファミレス。私と親友の梓は、学校帰りにファミレスに寄るのが定番だった。
梓は超がつくほどの現実主義者で、さっき起きた出来事を話しても、全然信じてくれない。ただ、かわいそうなものでも見るかのような目をして、チーズケーキにフォークを突き立てるだけだった。
「……ほんと? ほんとに? 夢とかじゃなくて? あんた数学の時間寝てたでしょ、その時に見た夢だったり——」
「ぜったい違う! 私、キスしちゃったの、瑛太くんと!」
静かなファミレスの一角に、私の声が響く。梓はため息をついて、そんなわけない、とでも言いたげに首を振る。
死んでしまいそうなくらい、ドキドキして、大変だったのにな。梓ならわかってくれると思ったのに。前から食べようと約束していた、新作のチーズケーキも喉を通らないくらい、それは革命的な出来事だったんだよ。頭が悪くて、パッとしない私が、一瞬にして少女漫画のヒロインに上り詰めたのに、梓がこんな感じだと、なんだか締まらない。親友として、そこは素直に喜んでほしい。
「……小南はどうなるのよ。まさか、忘れてないよね? 小南柚寿」
それなのに、梓は私の話を否定するようなことしか言わない。私は言葉に詰まって、黙り込む。
柚寿とのことは、正直、わからない。でもたぶん、別れてしまうんじゃないかなと思う。もうそろそろで一年になるらしいけれど、他の女の子にキスする時点で、瑛太くんは柚寿の事はそんなに好きじゃないんだろう。柚寿は綺麗な女の子だけど、どこか冷めてて、あんまり笑わない子だから、元気だけが取り柄(と、よく言われる)な私に浮気したんだろう。
別に、付き合いたいとか、そういうわけじゃないんだけど、なんにもできない私が認められた気がして、嬉しかったの。瑛太くんみたいな男子とは、話すことも無かったし。
「……信じらんない」
「私も、まだドキドキしてるもん……」
梓はケーキを切り分けて、口に運ぶ。私はそれを、ただ見ている。もっともっと話したいことはあるのに、梓は聞いてくれそうもない。
午後五時のファミレス。オレンジの外、空の向こうにはもう夜がある。街灯が灯る瞬間が、ふと目に入った。黙ったままの梓に、私はしょうがないなあ、なんて悪態をつきながら、やっとフォークに手を伸ばす。
□
最後までパッとしなかった梓と別れて、私は帰路につく。梓とは家が反対方向だから、駅までしか一緒に帰れないけれど、今日はそれが好都合に思えた。帰宅ラッシュ、電車から吐き出される人たちは、それぞれに人生があって、それぞれの家に帰っていく。クラスの憧れの男の子とキスをしてしまって、浮かれているような私もいれば、仕事で取り返しのつかない失敗をして、暗く沈んだ顔をしている人もきっと、どこかにはいる。そう考えると、駅の中の寂れた売店とか、置いてある新聞に大きく載っているスポーツ選手とかが、とても尊く見えてくる。
夕陽は異様に眩しくて、駅を出た私は、住宅街の方へ歩いていく。反対側の出口は割と都会な方で、居酒屋もショッピングモールもあるから、ほとんどの人はそっちに行ってしまった。だんだん人が少なくなって、とうとう一人になったころ、私はスマホを出す。瑛太くんから連絡がきていないかな、と思ったけれど、来ていなかった。
なんだか、恋みたい。私の大好きな少女漫画だって、キスから始まるんだから、こんな恋愛があってもいいだろう。ただ一つの問題は、相手に彼女がいること。本当にこれが少女漫画なら、そんな弊害だって乗り越えられるんだけど、現実はそうもいかない。
「……ほんとに、そうもいかないのかな。なんか、いけそうな気もするけどなあ」
独り言。誰も居ないから、自分の頭を整理する意味で、ぽつぽつと言葉を吐き出す。私は、とうとう頭がマヒしてきたのか、それとも瑛太くんにやられてしまったのか、まあ、どっちでもいいや。私、好きになっちゃったんだなあって、ここでようやく理解した。
恋をすると世界がキラキラする。明日から学校に行くのも、きっと楽しみになる。スキップでもしたい気分になっていた時、後ろから声を掛けられた。
「瀬戸さんっ」
振り返る。うちの制服を着た男の子が立っていた。走って追いかけてきたのか、息が弾んでいる。なんだ、瑛太くんじゃないのか、と一瞬だけ思ってしまう。
「矢桐くん! こんなところで会うなんて、奇遇だね。家、こっちなの?」
そこに居たのは、クラスメイトの、矢桐晴くんだった。一回だけ席が近くになったことがあって、よく会話をする男の子の一人だった。
せっかくだから、お話ししようよと誘うと、彼は見るからに嬉しそうな表情になって、二つ返事で了承した。梓はあんな感じだったけど、矢桐くんはいつも私の話をニコニコしながら聞いてくれるから、さっきの事は矢桐くんに話そう。公園のベンチにふたりで座る。日はもう、暮れかけていた。
- Re: 失墜 ( No.18 )
- 日時: 2016/09/07 15:40
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: OBZwk3oo)
「矢桐くんって、好きな人いるの?」
「え、えっ? す、好きな人って、え、あっ……」
「いるんだぁ」
誰も居ない公園で、買ってもらったソーダを飲む。隣の矢桐くんは冷たい缶コーヒーを開けもせずに、私の話に付き合ってくれる。梓もこんな風に聞いてくれたらいいのにな、なんて思いながら、急にあたふたしだした矢桐くんを見ていた。
しゅわしゅわとはじけるソーダが似合う女の子になりたい。薄紫の空には、星が一つ二つ浮かんでいる。子供はとっくに帰る時間だけど、もう子供じゃない私たちは、ここで永遠に時間を潰せる。なんだかこのまま家に帰っても、心がふわふわして落ち着かないだろうから、まだ家路にはつきたくなかった。
「ねえ、その子って、どんな子? 可愛い? 勝算はある?」
矢継ぎ早に質問を飛ばすと、矢桐くんはさらに瞳を泳がせる。さっきから顔を赤くさせたり青くさせたりしている彼は、普段大人しいくせに、話をしてみると、とても表情豊かで面白い。
矢桐くんは、私の質問の内容をいちいち確認して、ひとつ深呼吸をして、次のように答えた。
「……すっごく、可愛い。勝算とかは、わかんないけど」
ほとんど聞き取れないくらい、弱弱しい声だった。
矢桐くんは前髪が長いから、少し俯くと表情が解らなくなってしまう。でも、乾いた唇から吐き出す言葉は、すべて本音に思える。指同士を絡めて、照れ笑いを浮かべる口元を見ていると、矢桐くんに恋されている女の子は、幸せだろうなあと思う。
「振り向いてくれるといいね、その子」
「……ほんと、振り向いてくれないかなあ」
別に、付き合いたいとかじゃなくて、ずっとその子だけ見てたいんだ、って笑う矢桐くんに、「そう思うってことは、もう付き合いたいって事じゃん」って助言して、私も笑う。矢桐くんはまた、そんなことないよと言って視線を逸らす。ころころ表情が変わる矢桐くんは、本当に面白いなあ。
口に運ぶソーダは、ぱちぱちしていて、美味しい。青春って、多分こんな感じの味をしていると思う。
次に私がこう言ったら、矢桐くんは、どんな顔するのかな。ちょっとした好奇心で、話さずにはいられなかった。
「私も、好きな人できたの。簡単にかなう恋じゃないと思うけど、がんばってみよっかなってところ」
「……あっ、そうなんだ、へえ……」
予想通り、というか、斜め上だった。意外と大きな瞳をいっぱい開いて、白黒させて、完全に硬直してしまった矢桐くんは、数秒後やっと我に帰って、へたくそな笑顔を浮かべた。矢桐くんはわかりやすいから、自然に笑顔になった時と、わざと笑顔を作った時では、簡単に区別がつく。こうやって、私の話をいつも全力で聞いてくれるところが好きだ。
「……振り向いてくれるといいね、その人」
弱弱しく微笑む矢桐くんは、本当は笑いたくないのが透けて見えている。
薄々は、気づいていた。自意識過剰でなければ、この人は私の事が好きだ。私以外の女子と話しているのを見たことが無いし、私と話すだけでこんな感じなのだから、もしかしたら、と思っていたけれど、今ので確信してしまった。違ったらすごく恥ずかしいけど、これは間違いないと思う。梓に話したとしても、多分納得してくれる。
でも、もう遅いよなあ。私は瑛太くんが好きだ。あの出来事は、私が今までに読んだどの少女漫画より、ドキドキした。私の最後の秘密基地を壊して、簡単にあがりこんできた瑛太くんを、どうしようもないくらい、好きになってしまったんだ。
今日の出来事より先に告白してくれたら、考えたかもしれないのにな。矢桐くんの性格上、こっちから大きなアクションを起こさない限り、告白してくることはないと思う。でも、こんなに一途な彼を見ていると、やっぱり罪悪感が残る。
だから、私は知らないふりを貫くことにした。幸いなことに私は馬鹿だ。勉強も出来ないし、地頭も悪い。矢桐くんの好意を無駄にするのは嫌だけれど、気づかないふりをこのまま続けてしまおう。ごめんね、と何回も心の中で謝る。素直に矢桐くんを好きになれたらいいのに、恋はいつも難しい。漫画でさえうまくいかないときもあるんだから、現実で上手くいくわけがない。
「うん、ありがと! お互い頑張ろうね、片想い」
「……うん、がんばろ」
お互い上辺の言葉を並べて、私たちは顔を見合わせて、笑った。
どうしたって思ってることが筒抜けになってしまう矢桐くんを見ていると、放課後の教室で瑛太くんとキスをした私も、こんな感じだったのかなあ、なんて嫌でも思ってしまう。矢桐くんは可愛いけれど、私がこんな感じだったら、瑛太くんは私のこと、子供っぽい女だなって思うかもしれないな。気を付けよう。
少しだけ残ったソーダを飲み干した。深い青の絵の具をそのまま塗ったような空、やっと缶コーヒーを開けた矢桐くん。私はやっと家に帰れそうな気分になってきたけど、もう少しだけ付き合おうと思った。もし瑛太くんと一緒にいたとしたら、私はきっと、帰りたくない、ずっとこの時間が続けばいいって思うだろう。矢桐くんもたぶん同じだ。私なりのサービスのつもりだった。
- Re: 失墜 ( No.19 )
- 日時: 2016/08/18 22:22
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
5 建物んちの君
瀬戸さんの好きな人って誰なんだろう。家に帰ってからも、ご飯を食べている時も、電車に乗っている時も、それだけが気になって、何も手に付かない。
朝。あと十分で、ホームルームが始まる。自分の席で昨日やり忘れた宿題を解いている間も、昨日の公園での瀬戸さんが頭の中をぐるぐるしていた。僕がこんなにも混乱しているのに、周りは至っていつも通りで、戸羽さんに新しい彼氏ができただとか、小南さんが友達数人にクッキーを焼いてきただとか、くだらないことで今日も盛り上がっている。
イヤホンを外して、専用の袋に仕舞う。音楽は何も聞いていなかった。昨日の瀬戸さんの衝撃発言のせいで、大好きな音楽でさえも、耳にうまく入ってこない始末だったから。もうずっと、ふわふわして落ち着かない。瀬戸さんは何事も無かったかのように、廊下側の一番前で、隣の席の相沢梓さんと笑い合っているけれど、どうしてそんなに冷静でいられるんだろう。僕は、今すぐ教室を抜け出して、あの公園でまたソーダを飲みながら、昨日の話の続きをしたいのに。
「なあ、矢桐」
名前を呼ばれる。振り返る。朝の喧噪の中に、僕に話しかけるには、少し不似合いな奴が立っていた。
……なんだ、瀬戸さんじゃないや。僕に笑いかける青山瑛太は、今さっき登校してきたらしく、まだリュックを背負ったままだ。僕の金で買ったのだろう、高そうなリュックに付いている、極めて控え目なストラップが、密かに小南さんとお揃いな事を、僕は知っている。おはようも言わないで本題に入ろうとする青山を、冷めた目で見上げた。
「英語の宿題。僕の分もやっといてくんない?」
三十四人も教室にいるのに、僕以外誰も、青山がこんな奴だとは知らない。騒がしい教室で、僕ら二人だけ、隔離されてしまったような感覚に襲われる。
僕以外の全員は、こいつを完璧な好青年だと思っているだろう。窓側の後ろから二番目の席で、いつも人に囲まれて、笑っている青山は、きっと僕より何倍も充実した生活を送っている。なんて世の中は不平等なんだろう。僕の金が無ければ、青山なんて全然大したことないのに。僕が居なけりゃ、何にもできないくせに。
死んでしまえばいい。クリアファイルに丁寧に入っている宿題を受け取る。どうせ昨日の夜も、小南さんと電話でもしていたんだろうな。本当に、死んでしまえばいいし、むしろ、僕が殺してやる。だけど、まだ踏み切れないのは、瀬戸さんの存在があるから。瀬戸さんに会えなくなるのは嫌だから、僕はまだここで、計画を立てるだけに留まっている。
よろしくね、と言って笑う青山が自分の席に戻っていくのを見送りもせず、僕は雑にクリアファイルを机に押し込んだ。
「……ちっ」
その際に見えた言葉に、自然に舌打ちが出てしまう。クリアファイルの中の宿題に、雑な字で、「放課後、三万」と書いてある。直接言えばいいのに、なんでわざわざこんなことするんだ。万が一クラスの奴らに聞かれたらまずいからだろうか。心配しなくても、僕がいつか、全部みんなにバラしてやるのに。思いっきりどん底に突き落として、絶望しているのを目いっぱい楽しんだあと、もう誰か解らなくなるほど惨く、殺してやるのに。完璧な失墜劇を、僕のこの手だけで作ってみせる。
この妄想をするのは、これで何回目だろう。今日もいつも通りの教室、僕らの爽やかな朝は始まった。
昼休み。よく晴れた空を眺めながら弁当を摘まむ。別に美味しくはない。家のお手伝いさんの料理はいつも凝っているけれど、朝だけはどうしても忙しくなってしまうらしく、今日も弁当箱には冷凍食品とご飯が詰められているだけだった。
偶然横を通りかかった瀬戸さんは、これから相沢梓さんと学食に行くみたいだ。ふわりと香る洗剤の匂いに、胸が高鳴る。トマトを箸で掴んで、また性懲りもなく、瀬戸さんの好きな人の事を考える。
瀬戸さんの好きな人が僕である確率なんて、無に等しいのは解っていた。僕には瀬戸さんしか居ないけれど、瀬戸さんはわりと、幅広く男子と話しているように思える。僕の前の前の席の江藤とか、真面目なクラス委員の泉とかと、楽しそうに話す瀬戸さんをたまに見かける。そのたびに僕は、殺す標的を青山からこいつらに変更してしまおうか、というほどの殺意を抱いてしまうのだが、江藤も泉も、それなりに良い奴ではある。青山瑛太のような、クズの頂点みたいな奴に取られるのは嫌だけど、ちゃんとした男にちゃんと幸せにしてもらえるのなら、もうそれでいい気がする。でも、ふとしたときに、瀬戸さんを僕のものにしてしまいたいな、と思う時があって、まさに今がその時だった。ありがちなラブソングを馬鹿にするくせに、頭の中が安い言葉でいっぱいになってしまう自分が嫌だ。僕は僕らしく、青山を殺したいだとか、帰ってきた兄の相手をするのが面倒だとか、そんな事を愚痴っていればいいのに、瀬戸さんのせいで、そうもいかなくなってきた。
好きな人って、誰なんだろう。僕には友達が居ないから、この思いを誰かと共有することもできず、悶々とするしかない。
昼休み。学食から帰ってきた、小南さんたちのグループを見て、ふと、青山なら的確なアドバイスをくれるのではと思ってしまって、一瞬でかき消す。あんな奴に僕の内情を知られてたまるか。じゃあ、この前帰ってきた兄。あいつもだめだ。あいつ、大学を辞めて呆けた顔で実家にやすやすと帰ってきて、このままニートになるのかと思いきや、少し前から真剣に予備校に通いだして、この辺りで一番頭のいい大学の教育学部に入ろうとしている。僕が邪魔したら、絶対に怒るのが目に見えている。
僕一人では解決しそうにない思いを抱えたまま、ここに座っているのは、苦痛だった。もう、五時間目の体育が嫌だ、と思う余裕すらない。はじめて僕に、相談できる友達がいればいいのにと思った。
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