複雑・ファジー小説
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入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 失墜 【完結】
- 日時: 2021/08/31 01:24
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: bOxz4n6K)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19157
歪んだ恋愛小説です。苦手な方はご遠慮ください。
>>1 あれそれ
☆この作品の二次創作をやってもらっています。
「慟哭」マツリカ様著 URL先にて
「しつついアンソロ」雑談板にて掲載中
キャラクター設定集 >>80-81
あとがき >>87
>>99
>>100
- Re: 失墜 ( No.20 )
- 日時: 2016/08/19 23:50
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
前言撤回。五時間目の体育ほど、僕が嫌いなものはない。
万年帰宅部の僕は、スポーツが少しも出来ない。初めて自転車に乗れたのは中学一年生の時だった。走るのも遅いし、球技なんて特にダメで、みんなよくまともに習ってもいないのにできるよな、とコートの隅で、一人冷めた目で見ているのがいつものことだった。
今日はバレーらしいよ。教室で着替えをしているとき、このクラスのリーダー格の男である柏野が、教室中に聞こえるような大声で言った。その横で、僕はバスケが良かったなあと青山がぼやいている。青山たちのような、カーストが高い男は大抵バスケが上手い。だから何だって話だが、僕が十七年生きて学んだことである。純粋に、目立つからだろうか。世の中の女子たちも、卓球が上手い男より、バスケが上手い男の方が好きである。卓球だって立派なスポーツなのにな。もちろん僕はどっちもできないんだけど。
学校指定のジャージに足を通す。既に着替えを終えた青山たちが、談笑しながら教室を出る。その時聞こえた「今日は女子と合同だって」の言葉に、さらに気が重くなる。瀬戸さんに失望されてしまうかもしれない。あーあ、面倒だな。帰りたいな。無駄に真面目な僕は、保健室にも行けず(むしろ、保健室は不良のたまり場になっているので嫌いである)、嫌々体育館に向かうのだった。
「今日はバレーなんだって」
廊下を歩いている、瀬戸さんと相沢さんを見つける。体育の時、女子はみんな髪を結ぶ。更衣室の鏡を小南さんのグループが占領しているのか、瀬戸さんたちは歩きながら髪をまとめていた。瀬戸さんは、髪を一つに結ぶと、ぐっと色っぽくなる。他の男子もこんなことを思っていたら嫌だなとか思いながら、僕は後ろを歩いていた。
体育館は暑い。体育教師はこんな場所で一日働いているのだから、すごい。今日はバレーなのに、バスケットボールを出して、シュートをしている柏野の横で、青山たちが雑談している。その横を歩いていく初老の体育教師が、やたらと偉い人に見えてきそうだった。
「……今日は男女合同だったよな? よし、各自準備運動して、適当にバレーの試合でもやっとけー」
本日二度目の前言撤回。日陰に置いたパイプ椅子に座って、スマホを弄る体育教師を見て、僕のもともとないやる気は静かに消えていく。僕以外のクラスメイトたちは大盛り上がりで、準備運動なんかすっとばして、チーム決めようぜ、と体育館の真ん中に集まり始めた。
僕はその輪から少し外れたところに立つ。男子のリーダーである柏野と、女子のリーダーである戸羽さんが何かを話し合っているけど、僕までは聞こえない。しばらくして、僕らは三つのグループに分けられた。僕らみたいな発言権のない奴等は自動的に配属されたグループで試合をするしかないようだった。
僕が入れられたグループは、クラスでも目立たない男女を寄せ集めたようなところだった。瀬戸さんも居なければ、青山も居ない。いらないものの寄せ集めのような集団だから、チームワークなんてあったもんじゃない。ばらばらに散らばっている僕らは、誰がどう見ても、「スクールカーストが低いやつら」だった。
暇だから、無意識に違うグループの瀬戸さんを目で追ってしまう。瀬戸さんのグループは、二軍的扱いの男女が混在しているところで、楽しそうに友達と話している瀬戸さんを見ると、こっちまで頬が緩みそうだった。あんまり見ているのがバレたら困るから目を逸らしたけれど、できればずっと見ていたかった。
もう一つは、柏野と戸羽さんのお気に入りで構成されたグループ。その中に青山と小南さんもいた。僕らとは違って一軍のオーラをばらまいている彼らは、彼らだけで、異様な盛り上がりを見せていた。いつもチーム分けは名簿順だから、こんな風に自由に組んだのは初めてだったけど、ここまで盛り上がる必要はないだろ、しょせん体育だぞ。
「試合やろうぜー」
柏野がバレーボール片手に、向こうで笑顔を浮かべている。
どうせ、今日も柏野と青山と、あとその辺の奴らが活躍して、女子にきゃあきゃあ言われるんだろう。僕はと言うと、サーブすらうまく入らない始末だから、試合なんてやりたくない。サーブだけじゃない、飛んできたボールをまともに拾えないのだ。この前も青山のクソ野郎が、ネットにうまく引っ掛ける性格の悪いサーブを連発してきて、僕がまったく取れないという事故が発生し、同じチームの柏野に「もっとちゃんとやれよ」と笑われてしまった。僕は青山を絶対に許さない。
そんなことを思いながら、盛り上がっているコートを見ていると、瀬戸さんも試合に参加していることに気付いた。彼女はバレーが得意らしくて、男女混合と言う場でもボールを沢山拾いに行って、すごく楽しそうに笑っていた。直視できないくらいキラキラしている。僕がもう少し運動出来たら、よかったのにな。そう思わずにはいられなかった。
六時間目は数学だった。体育の後の数学はなかなかきついらしく、主に廊下側の生徒たちが次々と脱落し眠りについていた。僕は一度も試合に出なかったから、眠気に襲われることもなく、無心で微分方程式の問題を解いていた。
僕の兄によると、「微分ってそんな早い時期にやったっけ?」らしいので、僕らの学校の数学はかなりレベルの高い授業をしていることが伺える。数学が苦手な僕からしてみると、迷惑極まりない。もう少し簡単にしてほしいものだ。
この先の生活にクソほども役に立ちそうもない問題を解き終えたころ、数学の滝本という教師に、「じゃあ次の問題を、矢桐」と当てられてしまった。その問題は既に解いているけれど、なんとなく自信がない。答えるべきかどうか迷っていたら、気の短い先生は、「青山ならわかるよな?」と指名を切り替えてしまった。
青山がすぐに答えた数値と、僕が計算で叩きだした数値は違ったけれど、どうやら青山が正解していたらしい。さすがだな、と褒められて少し得意げな青山を見て、無性に腹が立ったのは言うまでもない。
そんな感じで、最悪な今日が終わって、約束の放課後がやってくる。
- Re: 失墜 ( No.21 )
- 日時: 2016/08/22 01:06
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
矢桐、金。青山瑛太はそう言って、今日も僕に笑いかける。反吐が出そうな、いつも通りの放課後だった。蒸し暑い体育館裏、向こうからは部活動に励む奴らの声が聞こえてくる。うるさいなと思いながら、転がっている石を見つめる。
「……突然言われたって、用意できるわけないだろ。昨日の夜に電話しろよ」
「僕、昨日夜中まで友達と遊んでたんだ。ごめんね」
そう言う青山は一ミリたりとも、申し訳ないなんて思っていない。ここで下手に逆らうと、また殴られたり蹴られたりするだろう。「お前の都合なんか知ったことじゃないから、早く金渡せよ」って、今も思っているに違いない。
「ごめん。今日は、持ってない」
殺してやる、という気持ちを飲み込んで、僕は頭を下げる。僕にはこうすることしか出来ないのだ。青山が舌打ちしたのが聞こえたその刹那、僕の視界がぐるりと反転した。強い衝撃に、倒れ込む。自然に出てくる咳が止まらなくて、えずいて、吐きそうになる。反射神経の鈍い僕は、やっと、ああ殴られたんだなと気付いた。
「持ってないじゃないんだよ。明日、友達の誕生日でさ、金必要なんだよね」
この前あげたじゃないか。そんな言葉が出そうになる僕を、青山はじっと見ている。認めたくはないけれど、悔しいくらい整った顔をしている。その大きな瞳に映る僕は、無様に倒れて、助けを乞う言葉を垂れ流している。
金を渡さなければ、僕は何をされるかわからない。でも金は出せない。困るなあと言い捨てて、僕を蹴る青山が怖い。絶体絶命とはまさにこのことである。僕には全く非が無いのに、なんでこんな思いをしなきゃいけないんだ。悲しいくらいに惨めだ。僕をここまで追いつめたコイツを、絶対に殺してやる。溢れてくる涙を必死にせき止めて、思いっきり青山を睨みつけた。
「そんな怖い顔すんなって。家に帰れば金、あるんだろ? 明日の朝までにあればいいよ」
「……」
僕を見て少し狼狽えた青山は、珍しく僕に気を遣うような台詞を並べ始める。意外と小心者であることは、なんとなく、わかっていた。
青山は、僕に目をつけるまで、こういう事はしたことがなかったのだろう。もともとケンカや争い事はそこまで強くなさそうである。僕が無抵抗なのをいいことに暴力をふるうけれど、クラスの柏野みたいに体格が良いわけではないし、気に入らないものを全部「キモイ」で一掃する戸羽さんみたいに、鋭い言葉を使うわけでもない。
だけど、どうしたって僕が青山に勝てないのはゆるぎない事実だ。だから、青山が次のような無理難題を提唱してきても、僕は頷くしかなかった。
「僕の家に持ってきてよ」
「……え?」
「駅降りて、六番のバス停から出てるのに乗るだろ。市営住宅前で降りて、すぐ目の前が僕の家。一番古いB棟ってとこにあるから。よろしく」
あまり話したくない事なのだろう、少しだけ声が小さくなる青山を見ていると、だったら最初から話さなきゃいいだろ、と思ってしまう。
市営住宅。小学校の学区内に、ひとつだけあった。六階建てくらいの古い建物で、今にも倒れそうで、ベランダにはたくさん洗濯物が干されていて、あんな狭いところに、すごく多くの人が住んでいるんだな、と思ったものだ。「団地の子とは仲良くしちゃ駄目よ、ものを盗まれるかもしれないから」と、母が僕に言い聞かせたのも覚えている。当時の僕は誰が団地の子で、誰が団地じゃない子なのかわからなかったから、困ってしまったんだっけ。母のその言葉が、今になって身に染みる。目の前に立って、僕を見下して笑っている団地の子に、金だけじゃなくて、いろんなものを盗まれてしまった気がする。
「わかった。母さんが帰るのが夜だから、八時くらいになるかもしれないけど、それでもいい?」
「あー、いいよ。僕も今日それくらいの時間に帰るし。……待ってるから」
そう言い残して、僕に背を向けて歩き出して、騒がしい方へ行ってしまう青山を見つめる。死ねばいいのになと、とうとう声に出す。見栄っ張りでプライドの高い青山の事だから、あの口ぶりだと、友達も小南さんも、家に呼んだことはないのだろう。僕しか頼れないから、特別にってことで招待してくれたのかもしれないけど、夜にバスを乗り継いで市営住宅に行くってもはや、肝試しの域じゃないか。僕は霊感が無いから霊的なものは少しも信じていないけれど、場所が場所だから、汚い乞食に金をたかられそうだ。青山みたいなやつがいっぱい住んでいるところなのだから、十分にあり得る話だ。警戒していかなければいけない。
「ああ、ほんと、死ねばいいのに」
いつの間にか地面に落ちてしまったカッターを拾う。これをあいつが見たら、なんて言うかな。放課後、無残に潰れているたんぽぽに同情してみたりしながら、今日も真っ直ぐ帰路に就く。
その途中で瀬戸さんに会えればよかったけど、そんな嬉しい出来事は起こらなかった。
□
「ね、やっぱりあの数学、おかしいよね? 私もわかんなかったのよね、あの問題。瑛太とかさ、いったいどんな頭の構造してるんだろうね。ほんと謎」
「……はあ」
電車の中。僕はなぜか、小南さんに絡まれていた。小南さんは僕の事が好きなのだろうか。僕を見かけるなり、「おつかれ、矢桐くん」と話しかけてきて、こんな世間話を振ってくるのだから、まったく、よくわからない人だ。
通勤ラッシュに巻き込まれなかったから、電車はやけに空いている。僕と小南さんはガラガラの車両の端の席に座っている。革のスクールバックを膝に乗せて、今日も疲れたーと腕を伸ばす小南さんは、なんだか僕の彼女みたいだ。青山はいつもこんな光景を見ているのだろうか。別に羨ましくないけど。
「……頭良いよね、青山」
思ってもいないことを言う。本当に頭が良かったら、僕を脅して金を取ろうとなんかしないだろう。小南さんのご機嫌取りのつもりだった。相手を立てるのは会話の基本である。
しかし小南さんは何が不満だったのか、「ほんとね、嫌になっちゃうわ」と、片頬を膨らます。僕はそれがおもしろくて、笑ってしまいそうになった。普段つんとしているくせに、結構茶目っ気のある人だ。ラブドールを彷彿させる作り物じみた顔に、張り付けたような笑いを浮かべているイメージしかなかった小南さんは、意外とちゃんと人間だった。
だけど僕は、小南さんも許せない。あの青山の彼女でもなければ、僕はまっすぐ彼女と向き合って楽しくおしゃべりが出来たのかもしれないけれど、青山と親密な関係がある以上、小南さんを信頼することはできなかった。会話が途切れて、僕は伸びてきた爪に目を落とす。このまま駅についてしまえばいいのに、小南さんはまた僕にくだらない話を振ってくるから、視線を上げざるを得なかった。
長いまつ毛や、夕焼けに照らされる白い肌を見ていると、作り物感があるとはいえ、やっぱり美人だ。学年でも、いや学校でも、こんなに綺麗な顔をした子はいないだろう。青山なんかにはもったいないし、僕でも恐縮してしまいそうだ。僕は瀬戸さんで良いし、むしろ瀬戸さんがいい。
一番大きい駅のひとつ前で、小南さんは降りてしまうらしい。小南さんの家はごく普通の中流家庭で、住宅街のど真ん中にあると聞いた。電車がゆっくり止まる。立ち上がってドアが開く前、小南さんはこっちを振り返って、短いスカートを翻して、薄く笑顔を浮かべて、挨拶をするような軽いノリで、こう言った。
「瑛太と仲良くしてあげてね。あのひと、けっこう寂しがりだから」
夕焼けに染まる街が流れていく。小南さんはもう居ない。随分遠くなってしまった駅のホームの人混みの中に、消えていく。僕は舌打ちをする。
きっと小南さんは何も知らないまま家に帰って、僕が青山の家に向かう予定の午後八時には家族と夕飯を食べて、夜中まで友達と電話をして、今日も楽しかったなあって眠りにつくのだろう。あのアマ、僕と青山の事情なんか何にも知らないくせに、偉そうに言いやがって。無意識のうちに、ポケットに忍ばせたカッターに手が伸びそうになる。
僕は小南さんも嫌いだ。青山は優しくて美人な彼女にここまで大切に思われてるんだよ、という事実だけを押し付けて、夕焼けみたいにすぐいなくなってしまった。この数分でものすごく疲れた。憂鬱だな。このオレンジの空に食われて、世界なんか終わってしまえばいいのに。もう誰にも会いたくないし、何もしたくない。ぼーっとやり過ごしていると、僕の降りる駅さえ忘れてしまいそうだった。
- Re: 失墜 ( No.22 )
- 日時: 2016/08/23 02:27
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
- 参照: 未成年飲酒は犯罪です。ついでに今日は小南の誕生日です。
午後八時。駅の周りを闊歩する酔っ払いを掻き分けて、ようやくバス停にたどり着く。たぶんこれが一番最後だから、帰りは駅まで歩かなくてはいけない。
疲れきった顔の女の人と、僕しか乗っていないバスは、ゆっくり進みだす。駅から離れていくにつれて、街灯も少なくなっていく。ショッピングモールが立ち並ぶ場所と居酒屋街を抜けると、もう周りには廃れたお店と住宅街しかなくなった。僕らの住んでいる場所は地方政令都市とはいえども、大したことはないんだと思い知らされる。
母親の財布から抜き取った三万円が、裸のまま僕のポケットに入っている。母に対して罪悪感がないわけではないけれど、悪いのは僕ではなく青山だ。僕は何も悪くないと繰り返しながら、イヤホンを取り出して好きな曲を再生しはじめた。
市営住宅には、意外とすぐについた。このくらいの距離なら、駅まで歩くのもそれほど苦痛ではないなと思いながらバスを降りる。一緒に乗っていた女の人もここで降りるようだった。すごく疲れている彼女も、この市営住宅のどこかに住んでいるんだろう。誰も乗っていないバスが、暗闇に向かって走っていく。まばらな街灯を見上げる。
目の前に広がる異様な光景に、霊的なものは一切信じない僕も、いよいよ怖くなってきた。錆びた滑り台しかない小さな公園があって、ろくに手入れもされていない花壇があって、その奥にA棟からE棟まで立ち並ぶ建物は、まるで廃墟みたいだった。窓ガラスが割れている部屋もある。見かけた大きなゴミ箱は分別なんてされていなくて、たばこの吸い殻とカップラーメンの残骸で溢れかえっていた。
たしか、B棟の二階が青山の部屋だったはずだ。勝手に敷地に入り、B棟を目指して歩く。本当に肝試しに来たみたいだ。小学生の時、友達数人と廃墟を探検した時の事を思い出す。あの時は友達が居たのに、どうして僕は今こんなことをしているのだろうか。なんか、ムカついてきたな。B棟の前に立つ。僕の家よりも少し大きいくらいの、四階建ての建物。古くなって屋根が落ちかけている。青山の部屋がどこにあるかなんて、知るかって感じだ。
「……早くしろよ、殺すぞ」
そんな事を呟いてみても、冷たい夜に溶けるだけだ。連絡をしようと思ったが、青山の電話番号を僕は知らない。
帰りたい。兄の部屋からパクってきた新作のゲームがやりたい。なんで金なんか渡しに、わざわざここまで来なくちゃいけないんだ。僕の人生って、こんなはずじゃなかっただろ。そう思ったとき、ほとんど無意識に、夜に向かって叫んでいた。早く出て来いよ、青山。僕の声なんか全然通らないから、すぐに、しんとした空気に消えてしまう。一番端の部屋の窓が開いて、「うるせえ、今何時だと思ってんだ」と怒鳴られる。その部屋の窓がぴしゃりと閉まるのと同時に、後ろから肩を叩かれた。驚いて飛び上がったあと、恐る恐る振り返る。綺麗な女の人が立っていた。
「う、うわ、ごめんなさい」
「きみ、瑛太の友達?」
青山の浮気相手だろうか。長い髪をくるんとカールさせて、白のシンプルなトップスに赤のスカートを着ているその女の人は、市営住宅の住民にしては小奇麗すぎる。年齢はたぶん、僕の兄と同い年くらいだろう。
何も言葉がでなくなってしまった僕に、その人は優しく笑いかける。
「あたし、瑛太の姉の、美琴。狭い家だけど、よかったらゆっくりしていきなよ。ご飯作ってあげよっか?」
「あ、えっと、そういうのじゃないんです。ちょっと用事があっただけで……」
そんなに気を遣わなくていいのよと、美琴さんは僕の腕を引く。
青山にお姉さんが居るということは知っていた。よく見ると、心なしか顔立ちが青山に似ているような気がする。抜け落ちそうな階段を登って、ほとんど無理矢理連れてこられた、二階の左から四番目の部屋の前で、美琴さんは鞄から鍵を取り出して開ける。僕の家はオートロックだから、異様な光景だった。
「ただいまー、瑛太のお友達きてるわよー」
だから、友達じゃなくて。僕のそんな言葉は、後ろで美琴さんが部屋の鍵を閉める音にかき消される。
すごく狭い部屋だ。物で溢れかえっている玄関には、青山のものと思われる洒落た靴や、有名なブランドの紙袋が積まれている。この光景を僕の家のお手伝いさんが見たら、拒否反応を起こして倒れるかもしれない。
ほぼ玄関とつながっている居間からやってきた青山は、僕と美琴さんを見て、少しだけ嫌そうな顔をしたものの、一瞬でいつもの笑顔に戻って、「なんだ、矢桐か」と言う。休日会う時の青山はいつも、きっちりした私服を着ていたから、Tシャツにジャージで出てきたのがなんだか、新鮮だった。別に青山の服装なんかどうでもいいんだけど。
「姉さん。僕ちょっと出かけてくるよ。すぐ戻るから」
「えっ、いいの? 瑛太、友達も彼女も全然連れてこないから、おもてなししようと思ったのに……」
「大丈夫だって。じゃ、いってきます」
引きずるようにサンダルを履いた青山に、乱暴に腕を引っ張られて、僕は強制的に青山家を撤退させられる。「また来てね」とドアの向こうで美琴さんが手を振っている。ドアが閉まるのも待たずに歩き出して、階段を降りて、誰の姿も見えない市営住宅の入り口まで来たとき、やっと青山は僕の腕を離した。照らされた街灯の下、青山は誤魔化すように笑った。
「ごめん、あれ、僕の姉さんなんだけどさ。悪かったよ」
「……別に」
「すぐ帰ると怪しまれそうだから、ちょっとそこで喋っていこうよ」
向こうでセブンイレブンの光が揺れている、そのさらに奥の方を指さして、青山は言った。砂場とベンチがあるだけの、狭い公園が見える。
なんで僕の事をいじめる奴と、ベンチで雑談しなければいけないんだと思ったけれど、青山の左手に握られたコンビニの袋に、缶の飲み物とポテチが入っているのを見て、僕は無言で頷いた。ご丁寧に二つずつ入っているのを見るに、僕にも分けてくれるのだろう。
無言のままたどり着いた公園のベンチに二人で座る。時刻は午後八時半になろうとしていた。僕の家の門限は九時だけど、そもそも僕は夜出かけたりしないから、門眼なんて意味をなさないし、どうでもいい。
ベンチの隅に置いた袋から、青山はほろよいを二缶取り出して、そのうちの一つを僕に渡した。
「冷蔵庫にあったの、適当に持ってきたんだ。飲んでいいよ」
黙ってぶどうサワー味を受け取り、膝に置く。青山は日ごろから酒を飲んでいるのか、いちご味の缶を開けて、なんでもなさそうに飲み始める。それにつられるように、僕も一口だけ飲んでみる。ただの炭酸ジュースみたいな味だった。
「バレないかな」
「私服だし大丈夫だよ」
喉を潤す炭酸が、静かな夜が、心地いい。これで隣に青山が居なければ完璧だったのにな。ポテチの袋を開けて、「ていうか矢桐いつもその服だよね」とか雑音を流し込んでくる青山のせいで、風流な気分も台無しである。うるさいな、僕はお前とは違って服に金をかけない質なんだよ。服なんか、ユニクロで充分だろ。
「そうだ。瀬戸さんとはどんな感じ?」
「……なんで、瀬戸さんが出てくるんだよ」
青山は僕に問う。なんでいきなり、瀬戸さんが出てくるんだ。「瀬戸さんには好きな人がいる」という現実をやっと受け入れられそうになってきたのに、掘り起こしやがって。ごくり、と手に持ったぶどうサワーを飲み込む。
「瀬戸さんには、好きな人がいるみたいなんだ。……難しいよな」
「へー、そうなんだ」
そうなんだという割には、「恋愛なんて楽勝だろ」とでも言いたげな顔をしている。青山ほどのスペックがあれば、瀬戸さんの好きな人から瀬戸さんを奪う事なんて、簡単なのかもしれない。ムカつくな、死ねばいいのに。
早くも酔いが回ってきたのか、僕はいつになく饒舌になっていることに気付く。今まで話し相手がろくにいなかったから、話をするのが楽しくなってきたのかもしれない。
「……青山はいいよな。どうせ、小南さんともうまくいってるんだろ。今日、電車で小南さんと会ったんだ。瑛太をよろしくねって、言われた」
「え、矢桐と柚寿って絡むんだ。なんか、面白いな」
「別に何にも面白くねえよ」
青山は、教室で友達と話すときと、同じ表情をしていた。いつも僕の事は冷めた目で見て、殴ったり蹴ったりしてくるくせに、今日はすごく楽しそうだった。
なんか、普通の友達みたいだな。僕はそう思いながら、またぶどうサワーを口に運ぶ。いつの間にか開かれていたポテチも摘まむ。美味しい。そんな能天気な僕とは裏腹に、青山はふと思いつめた表情になって、つらつらと語り始めた。
「……僕、たまに柚寿のこと、わかんなくなるんだ。柚寿っていつもあんな感じだからさ、僕の事好きなのかもよく分からないし、矢桐とこういう関係なのも、もうバレてるかもしれないし。でも、今さら辞められないし、柚寿のこと好きだから、なんでもしてあげたくなっちゃうんだ。矢桐から金貰わないと、なんにもできないくせにさ。ほんと、かっこ悪いなあ」
言葉が、深い青に溶けていく。ああ、死にたいな、もう。冗談みたいに吐き出して、青山は弱々しく笑っている。僕は、なにも言葉が出なかった。「だったら死ねばいいだろ、僕のためにさ」とか、そんな事を言いたいのに、喉の手前でつっかえて、逆流して気持ち悪くなるだけだった。
「もしバレたら、柚寿は僕の事、嫌いになるかな。柚寿だけじゃない、友達もみんな居なくなって、何も残んないんだ」
限りなく無力に思えた。目の前の青山は、僕と同じくらい、いや、僕よりも弱い。僕に暴力をふるって金を奪う時とは、真逆の表情をしている。こんな顔をしていてもちゃんと絵になっている青山は、「ごめん、こんなこと言って。矢桐ってけっこう聞き上手だよな」と弱く微笑んだ。
今ならいける。心の中で、もう一人の僕が叫んでいる。ポケットの中のカッターが、今になってようやく存在を主張してくる。今なら殺せる。周りには誰も居ない。青山の話が、もう何も聞こえない。押さえつけて、カッターで切り裂けば、こいつは死ぬ。僕の夢がかなう。今までの恨みを全部晴らせる。
それなのに、体が動かない。いざ実行に移そうとすると、体が震えて止まらない。酒なんか飲まなければ良かったと後悔が押し寄せてくる。殺せって、心の中の僕が散々命令しているのに、僕は、ポケットの中でカッターを握り締めて、何もできずにいるだけだ。悔しくて泣きそうになる。僕は、青山に従い続けていたくないのに、それなのに、隣でこんな風に笑うから、僕は。目の前が眩む。僕は酒に弱いのかもしれない。これからは、控えないといけないな。頭がぐちゃぐちゃになって、吐きそうになる。
とうとう意識を失った。最後に青山が何か言ったような気がしたけれど、僕には聞こえなかった。
- Re: 失墜 ( No.23 )
- 日時: 2016/11/08 22:56
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
6 悲しくなる前に
いきなり気を失ってしまった矢桐の肩を揺さぶる。かろうじて意識は取り戻したものの、このまま帰すのは心配だから、僕は勝手に矢桐のポケットから携帯を取り出して、ついでに入っていた裸の三万円を押収して、最終着信履歴の「兄」に電話をかけた。別に矢桐がどうなろうと僕には関係ないけれど、酒を飲ませたのは僕だし、それが見つかって問題になったら困る。
矢桐のお兄さんらしき人は、ワンコールで電話に出た。僕はほろよいの缶をビニール袋に仕舞いながら、言う。
「もしもし、僕、矢桐くんの友達の、青山瑛太っていうんですけど。矢桐くん、具合悪いみたいなんで、迎えに来てくれませんか?」
隣でぐったりしている矢桐が、友達なんかじゃないし、と呟く。お兄さんの方も、電話の向こうで「晴に友達いたんだ、意外だなあ」と、へらへら笑っている。矢桐は自宅でも不愛想なのだろうか。もっと、さっきみたいに話せるようになれば、結構良い話し相手にはなりそうだが、もったいないな。
わかった、すぐ行きますと矢桐のお兄さんが言うから、僕は場所を伝えて、お願いしますと頭を下げて、電話を切った。僕はこいつの保護者かよと思いながら、古い機種の携帯を渡す。まだ体調が悪そうな矢桐は、おぼつかない手つきでそれをポケットに押し込んだ。
「……ごめん。酒飲ませて」
「いいよ、もう」
僕から顔を背けて、目を瞑る矢桐は、本気で具合が悪そうに見える。念のために、空いたビニール袋を差し出したけれど、「いらない、大丈夫」と首を振られた。弱いチューハイ一缶で酔ってダメになる人間って、都市伝説じゃなかったんだな。
ベンチに倒れ込んで、いよいよしんどそうな矢桐の背中でもさすってやろうと手を伸ばしたとき、一瞬で血の気が引いた。うそだろ、と、思わず言葉に出してしまう。
安っぽいジーパンのポケットから、不似合いなカッターが飛び出している。わりと大きめの、その気になれば人を殺せそうなカッターだった。普通、こんなの持ち歩かないだろ。もしかすると、僕が暴力をふるったとき、これを出すつもりだったのではないだろうか。こんなので、特に顔に傷をつけられたら、たまったもんじゃない。
矢桐は、僕に気づいていないようだった。僕は出来るだけ、音をたてないように矢桐のポケットからカッターを引き抜いて、ビニール袋に入れた。「こんなの持ち歩くなよ」と、吐き捨てるような言葉も添えて、隠すように反対側に袋を移動させる。矢桐はまだ苦しそうに、寝っ転がっていた。
「ごめんなさいね、お大事に」
「あっ、いえ、全然大丈夫ですよ、こんな奴、すぐ良くなりますから!」
十五分くらいして、矢桐のお兄さんが市営住宅まで、車でやってきた。外車だった。矢桐の家が金持ちなのは知っていたけれど、僕の姉さんと同い年くらいの若い男が、こんな良い車に乗っているのは、なんだか気に食わなかった。
後ろに立っている姉さんが、矢桐のお兄さんに謝っている。幸いなことに、僕が矢桐に酒を飲ませたことは、バレずにすんでいるようだ。
お兄さんは、すごく慌ただしい素振りで、まだぐったりしている矢桐の背中を強く叩いている。矢桐と似て、冴えない感じの人だから、美人と名高い僕の姉を前にしてテンパっているのだろう。ご愁傷さまと矢桐に心の中で悪態を吐きながら、「お大事に」と僕は手を振った。中まで綺麗な車だな、あんな男にはもったいない。矢桐があの車で盛大にゲロを吐く事を祈って、僕は走り出す車を見送った。
車が角を曲がって見えなくなったとき、姉さんが僕の肩を掴んで、悪戯っぽい表情で言った。
「瑛太、友達連れてくるなんて、初めてじゃん。あの子何者? 今まで、絶対何があっても友達を家に呼ばなかったのに。柚寿ちゃんすら呼ばないじゃん」
「……あー、うん。ちょっと、いろいろあってさ」
嘘はついていない。姉さんと並んで、階段の方へ歩いていく。
あんな家、友達を呼べるわけないじゃないか。狭いし、古いし、物で溢れてるし。あんな部屋に住んでることがバレたら、友達にも柚寿にも失望されてしまうに違いない。矢桐は唯一、僕が貧乏なことを知っているから呼べたけれど、他の知り合いを家に呼ぶなんて絶対に嫌だ。
そんな僕とは違って、姉さんは昔から、部屋に友達を連れ込むことが多かった。古い家だね、とか、市営住宅なんだ、とか、周りに笑われても、「あたしは貧乏だけど、いつか金持ちと結婚するよ」と自信満々に言っているのを何度も見てきた。現にさっき来た矢桐のお兄さんは完全に目がハートだったし、とうとうそれが現実味を帯びてきた。僕の姉さんと矢桐のお兄さんが結婚したら、僕にとっても矢桐にとっても悪夢でしかないから、やめてほしいな。
と、そんなことを考えていたら、急に姉さんが真面目なトーンで、「ねえ」と僕の肩をつついた。
「あの子から、お金取ってるんでしょ」
姉さんが、姉さんにしては強めの口調で言う。歩を止めることはなく、夜の中を進んでいく。あーあ、面倒だなと思いながら、僕は誤魔化すことも忘れて、姉さんからあからさまに目を逸らした。初めて人に矢桐との関係がバレてしまった。もし今隣にいるのが柚寿だったら、僕は取り返しがつかないくらい動揺していたのだろうけれど、不思議なことに姉さんだと、そうでもなかった。
「……なんで、そう思うの?」
「瑛太があんなに金持ってる訳ないし、普段の瑛太だったらああいう地味な子とは仲良くしないだろうし、あの外車見てビンゴだなって思った」
「へえ、そっか」
「悪いこと言わないから、やめときなよ。あの子、怒らせたら怖そう」
殺されちゃうかもよ。姉さんはそう言って、部屋の鍵を開けた。靴を脱ぎながら、ほろよいの缶と一緒に公園に捨ててきたカッターを思い出す。「最近、そういう事件多いでしょ」と、姉さんは飄々とした調子で言うけれど、洒落ごとではない。殺されちゃうかもよ。姉さんの言葉と、矢桐の顔と、さっきのカッターが反芻する。さっきまで僕の隣で、楽しそうにしゃべっていた矢桐が、そんなことをするなんて、考えたくはない。じゃあ金を取るのをやめろよという話なのだけれども、それもまた、僕にとっては難しいことだった。
「僕だって、やめれるならとっくにやめてるよ」
汚れた玄関の隅に呟く。「えーなに、きこえなーい」と、向こうの部屋で叫ぶ姉さんを無視して、僕は充電が切れかけのスマホを充電コードに繋ぐ。届いている通知も無視して、居間に座る。
姉さんは、それ以上僕に何も聞かなかった。ありがたいけれど、内緒で僕の学校に連絡をしないか逆に不安で、悩んだ末に、僕の方から聞いた。「連絡? するわけないじゃん、めんどいし」と言いながら、コンビニのサンドイッチの袋を開ける姉さんを見ていると、聞いた僕がバカだったな、という気持ちになった。
友達と通話を始める姉さんを横目に、やっと通知を見る気になった僕は、柚寿やクラスの友達からの連絡をぽちぽち返しはじめる。その中に、瀬戸さんもいた。矢桐の好きな女の子だ。僕は、矢桐を困らせてみたくて、この前彼女にキスをしてしまったけれど、思えばすごく軽率だったな。柚寿にバレたら面倒だし、このままフェードアウトできたらいいのだけれど、瀬戸さんからの連絡には、明らかに恋の温度があった。僕が柚寿と付き合っていることを知ってるくせに、まるで彼女が彼氏に送るような文面が広がっている。
ますます、矢桐が怖くなってきた、僕は、矢桐から瀬戸さんを奪ってしまったようだ。楽しそうに笑っている姉さんの声が、やけに遠く思えた。
- Re: 失墜 ( No.24 )
- 日時: 2016/08/26 02:09
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
次の日学校に行くのは億劫だった。いつもなら、「柚寿と待ち合わせをしているのだから、遅れてはいけない」という意識があるから、なんとか朝の支度をする気力が湧くのだが、どういうわけか、数日前から柚寿は僕と一緒に登校してくれなくなった。テストの二週間前だから、朝早く学校に行って、先生にわからないところを聞きたいらしい。朝にはとことん弱い僕としては、柚寿がなぜそこまでしてテストで点数を取りたいのか、わからない。柚寿はいろんなことを頑張り過ぎなのだ。勉強ができなかったとしても、少なくとも僕は、柚寿のことを嫌いにならないのにな。顔は美人だし、性格もすごくいいのに、これ以上何を望んでいるんだろう。
「いってらっしゃい」
後ろからやってくる姉さんに、いってきますと挨拶を返して、僕は家を出る。姉さんは今日確か、サークルの飲み会があったはずだから、家の鍵がリュックに入っているのを確認する。
火曜日、晴天。長袖のカーディガンが暑くなってきたということは、もうすぐ夏が来る。夏なんか、僕は大嫌いだった。梅雨の時期は髪がまとまらないし、盛大に金を使うであろう柚寿の誕生日もあるし、なにより僕の家にはエアコンが無い。暑い夏も、寒い冬も、大嫌いだ。永遠に春と秋が続けばいい。
ガラガラのバスは、駅を目指してゆっくり走り出す。市営住宅を抜ければ周りには閑静な住宅街が広がっていて、終点の駅で降りるとき、僕はやっと、青山瑛太という人間になる。僕の家が生活保護で市営住宅で、矢桐から金を押収しないと生きていけないなんて、絶対に、誰にもバレてはならない。暗転したスマホの画面に映る自分と目が合う。ちょっと乱れた前髪を直し、コインランドリーに毎日通って洗濯しているワイシャツの袖をぴんと伸ばし、今日もばっちりだなと、安心して心の中で笑った。
□
特筆することもなく、いつも通りに授業は終わった。放課後。帰宅したり、部活に向かったりする生徒が多い中、僕は図書室に行ってしまった柚寿を、教室で待っていた。朝は一緒に行けないから、せめて帰りだけはと、二人で約束をしていた。
この後は予定がある。同じ雑誌のモデルの友達の誕生日パーティーに呼ばれていた。その参加費用とプレゼント代がたりなかったので、昨日も矢桐に頼ることになってしまった。矢桐は今日も平然と登校し、賑やかな僕のグループとは離れた場所にひとりでぽつんと座っていたが、昨日の夜は一緒に酒を飲んで語り合ったのだ。それが未だに、今までの関係とはかけ離れすぎていて、あれは夢だったのではないだろうか、とさえ思う。僕が金に困っていなければ、矢桐となんか、話すこともなかっただろうに、人との関係はいつも不思議だ。
じゃあね、また明日と挨拶をするたびに、教室の話し声が消えていく。残り十人くらいになった時、教室に入ってきた女の子と目が合った。
瀬戸さんだった。矢桐をからかいたくて、わざとキスをした子。茶色の髪を低い位置で二つに結んだ彼女は、よく見ると、けっこう可愛い顔をしているけれど、やっぱりキスしたことは後悔してしまうし、柚寿や矢桐への罪悪感は拭えない。
こっちを向いて控え目に手を振る彼女に、僕も微笑み返す。付き合ったばかりのカップルみたいだな、と思う。矢桐が望んでも手に入れられないものを、僕はこんなに簡単に手に入れてしまった。
男という生き物は、基本的に獲物を追いかけ続けていたい性であり、もう手に入ったも同然の瀬戸さんへの興味はほとんどなかった。だけど、瀬戸さんの方はどうだろう。僕と矢桐のくだらないケンカに巻き込まれたかわいそうな女の子は、本当の僕らの事なんか何も知らないで、哀れに恋のような感情を抱いている。いや、恋ですらないかもしれない。「一目惚れしちゃったの、お姉さんには内緒ね」とかなんとか言って、僕の初めてを全部奪っていった、馬鹿な姉の友達のことを軽率に運命の相手だと感じていた昔の僕と、瀬戸さんは同じなのかもしれない。恋に恋をしている、そういう時期なのだ。それなら相手は僕じゃなくてもいい。僕よりももっといい夢を見せてくれる男がいるはずだ。
極力目を合わさないように、教室を出る。柚寿を迎えに行こうと思った。感情が倒錯して、自分の事が嫌になりそうなとき、真っ先に会いに行きたくなるのは柚寿だった。だから、僕は柚寿が好きだし、恋してるんだと思う。でも、瀬戸さんの運命の相手に代わりが居るように、僕のこの感情をぶつける相手にも、代わりは効くのかもしれない。そう思うと、もう恋というものがわからなくなってくる。大人になったつもりでいても、大人のまねごとをしてみても、結局僕らはどうしようもないほどに馬鹿な子供だ。こういうのを思春期っていうのかな、とか、適当な自己完結を下して、廊下を歩き出す。ちょうど、午後五時をまわった。柚寿は今も勉強しているだろう。飲み物でも差し入れしてあげようかな。自販機で足を止めて、金が申し分なく入っている財布を制服のポケットから取り出した。
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