複雑・ファジー小説
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入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- 失墜 【完結】
- 日時: 2021/08/31 01:24
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: bOxz4n6K)
- 参照: http://www.kakiko.cc/novel/novel6/index.cgi?mode=view&no=19157
歪んだ恋愛小説です。苦手な方はご遠慮ください。
>>1 あれそれ
☆この作品の二次創作をやってもらっています。
「慟哭」マツリカ様著 URL先にて
「しつついアンソロ」雑談板にて掲載中
キャラクター設定集 >>80-81
あとがき >>87
>>99
>>100
- Re: 失墜 ( No.5 )
- 日時: 2016/09/07 00:55
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
「あーっ、つかれた、つかれた、つっかれたあ。マッサージして」
「うっせーな柚寿、黙ってろよ」
ぴんと張っていた青いシーツは、私のせいでぐしゃぐしゃになってしまった。
心底迷惑そうな顔をした幼馴染が投げたクッションが頭に直撃して、漫画だらけの床に落ちた。
午後八時。あの後私たちは逃げるように教室を出て、ご飯を食べに行って、ついさっき、朝に待ち合わせをした時計塔で別れた。そのまま家に帰って明日の準備をしてもよかったのだが、なんとなく、久しぶりに顔が見たくなって、同い年の幼馴染である中川椿の家に上がり込んでいる。椿の家と私の家は、家族ぐるみでの付き合いがあるから、おばさんも突然来た私を笑顔で迎え入れてくれた。
「半年くらい会ってなかったんじゃない?」
「そんなことねえよ、先々週くらいにも漫画だけ借りに来ただろ」
椿は床に座ってスマホを弄りながら、「はやく返せよ、ワンピース」と吐き捨てる。そういえば、そんな漫画を借りていたような気がする。
見ないうちに伸びていた焦げ茶のくせっ毛や、白目の面積の方が多い瞳を見ていると、昔からちっとも変わらないな、と思う。瑛太に比べれば何倍も平凡な男の子だけれど、私が一緒に居て素を出せる唯一の存在だった。椿の方も、私を全く異性として見ていないようで、男友達と同等に扱ってくれるから、とても居心地が良い。一番仲のいい男友達といった関係である。
「……痩せた?」
「あ、わかる? 私、毎日四十五キロ遵守だから。一グラムでも増えたら、夜ごはん食べないから」
「なんだよそれ。死ぬぞ」
ベットに転がっていた私に、椿はファッション雑誌のモノクロのページを見せてくる。そこには、女子の平均体重は五十三キロ、といったことが書いてあった。
私の身長は百六十五センチだから、女子の中でも割と高い部類に入る。だから本当は、健康を重視するならば、もう少し体重を増やしてもいいのだけれど、どうしてもモデル体型と呼ばれる体重を維持したいから、酷い食事制限をやめられないし、そっちの方が自分に自信を持てる。
「エータくんとはうまくやってんの?」
私が日ごろ、どれだけ体重維持に命を懸けているかについて説明しようとする前に、椿に口を挟まれてしまった。
瑛太とは、うまくやっている方だと思う。紅音たちみたいにケンカしないし、瑛太は私の言う事を聞いてくれるし、私も瑛太の望む事は極力叶えようとしている。傍から見ている私たちは恐ろしいほど完璧で、幸せそうに見えている。今日だって、朝は一緒に登校して、放課後は教室でキスをして、夜ご飯を一緒に食べて、帰ってきた。
あんなに良い彼氏がいて、凄く私は幸せなのに、疲れたと息をするように吐いてしまうのは、私が必死に「絶対的な関係」を演じようとしているからなのかもしれない。良い子でいるのはとても疲れる。
「これだろ、エータくん。うわ、フォロワー三万人とか有名人かよ」
私はツイッターをやっていないから(というか、そもそもSNS全般が面倒で苦手である)、フォロワー三万人がどれだけ凄いのかはわからないけれど、椿が見せたスマホの画面の中の瑛太は、得意げな笑顔を浮かべていた。プリクラや自撮りをプロフィール画像にしている女の子から、たくさんリプライをもらっている。
「柚寿がリア充のオーラがある奴と付き合って、ここまで長く続くとは思ってなかったけど、ちゃんと話合わせてんの? お前中学のとき、こういう男子一番嫌ってただろ」
「……そんなの、過去のことじゃん。私だって頭悪くないから、誤魔化したり誤魔化されたりしながら付き合ってるよ」
へえ、やるじゃん。椿は珍しく私を褒めた。瑛太に褒められると嬉しいのに、椿に褒められてもあんまり嬉しくないのはなんでだろう。椿の喋り方が、本心からの言葉じゃないように聞こえてしまうからかもしれない。
「俺は、自分の素を出せる相手と付き合うのが一番いいと思うけどな。ぶりっ子してるお前好きじゃねえもん」
「別に、椿に好いてもらうために生きてる訳じゃないし」
「……早く帰れよ。エータくんが悲しむぞ」
「……じゃあ、帰る」
私にしては、率直な言い方だったと思う。椿は後ろを向いたまま、次来るときは漫画持って来いよと言った。
椿は、なんにもわかっていない。私がどれだけ努力して、今の地位を勝ち取ったかなんて。中学生の時は、もっと私の話をちゃんと聞いてくれたのになあ。椿は工業高校で溶接ばかりしているうちに、頭まで溶けてしまったのだろうか。
私は何も言わずに階段を降りて、玄関先までやってきたおばさんに笑顔で挨拶をして、夜の街へ出た。深い青色をした空の向こう側から飛んでくる、涼しい夜風が気持ちいい。
スマホを開くと、瑛太から連絡が入っていた。明かりのついた椿の部屋を見上げて、少し申し訳ない気持ちになる。幼馴染とはいえ、私が他の男の部屋に上がり込んでいたら、さすがの瑛太でも怒るだろう。何度もやめようと思うけれど、この妙に居心地の良い関係は私一人では切れるものではない。椿に早く彼女が出来たらいいのにな、と他力本願なことを思いながら、私は帰り道を急いだ。家に帰ってからも、まだやることはたくさんある。
家の鍵を開けると、いつものように母親がぎこちなくおかえりと笑いかける。聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ただいまと返事をして、私は階段を上った。
- Re: 失墜 ( No.6 )
- 日時: 2016/10/04 02:49
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
2 ぺんてる
僕はいつか、青山瑛太を殺すつもりだ。
放課後、旧校舎。まだ五月の中旬だというのに、暗くて狭い場所特有の熱気が僕の体温を奪っていく。体に張り付いたワイシャツが気持ち悪くて、僕は目の前にいる、人畜無害そうな笑顔を浮かべた男を睨みつけた。
「なあ、矢桐。僕昨日三万持ってこいって言ったよね? 困るんだよね、今日柚寿と予定あるのに」
「……無かったんだ、家に」
「ふざけるのも大概にしてくれないかな。僕に逆らえば、どうなるかわかってるくせに」
ふっと笑顔を消した青山の細くて冷たい指が、思いっきり僕の首を絞めつける。あっという間に酸素が足りなくなって、苦しくて勝手に涙が溢れてくる僕のことを、ただ無表情で見ている青山は、本当に教室で友達と笑っている青山と同一人物なのだろうか。必死に抵抗しようとしても声が出なくて、助けて、ごめんなさい、と、言葉にならないものを吐き出す。ついに意識を失いそうになったとき、やっと青山は僕から手を離した。
荒い呼吸をしながら、ポケットの中から財布を取り出す。一万五千円くらいは入っているはずだ。渡した財布を荒々しく受け取った青山は、中に入っていた一万円札と、五千円札二枚を抜き取ってポケットにねじ込み、残りをどうでもよさそうに僕に投げつける。足元に転がった僕の財布にはもう、小銭しか入っていない。汚い地面に転がっている十円玉を拾い上げる気にもなれなくて、ただ立ち尽くしている。
「明日、残り絶対持って来いよ」
「わ、わかったよ」
青山は、絶対に僕に傷をつけない。僕に痣が出来たり、出血したりしたら、周りにこの事がばれてしまうからだ。青山はそれを隠し通すのがすごく上手くて、今まで一度も見つかったことはない。
恐ろしいほど整った顔には、なんの表情も浮かんでいない。教室ではあんなに楽しそうに友達に囲まれていて、学年一の美人の彼女が居て、成績も運動神経も僕より遥かに高い青山が、まさか僕相手に、ほぼ毎日のように金を巻き上げているとは、誰も思わないだろう。きっと恋人である小南さんすら、全く知らない。
この前みたいに、他校の不良を呼んでリンチされたら、次こそ僕は絶対に死んでしまう。だから明日は、必ず残りの分を持ってこなければいけない。青山は、汚いようなものを見るかのような視線を僕に向けて、舌打ちをして本校舎の方へ向かっていった。その姿が完全に見えなくなったとき、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「……死なないかな、あいつ」
十円玉をすべて財布に入れ終えた僕は、無意識のうちにそう呟いていた。
僕と青山は、中学が同じで、こういった金のやり取りは中学三年生の時からしていた。前から、実家が少しだけ金持ちで、告げ口をしなさそうな僕に目を付けていたらしい。最初は千円だった金額も、だんだんエスカレートしていって、今の彼女である小南さんと付き合うようになってからは更に多くなって、今では一か月に十万近く払うことも多くなった。
僕が少しでも渋ると、殴ったり蹴ったり、首を絞めてきたり、酷い時には友達だという他校の不良を呼んで、比喩ではなく、死んでしまいそうになった事も何度かあった。
誰かに助けを求めればいいのだろうけれど、いつしかそれを、勿体無いと思うようになった。
ポケットに忍ばせていたカッターを取り出す。僕がこれを突き刺したときの、青山が見てみたい。大人に相談したところで、こんな最低なクズが、それなりの制裁しか食らわないなんて、僕が満足できないのだ。もうあとの人生なんてどうなってもいいから、あの勝ち組の中の勝ち組のような、青山をこの手で殺したい。身体的にも精神的にも社会的にも、たくさん痛めつけて、死ぬより辛い地獄を沢山味わってもらいたい。一度思ってしまうと止まらなくて、僕は誰にもばれずに着々と殺害計画を進めていた。いつか、必ず殺してやる。それだけが、今の僕の原動力だった。
人気のない旧校舎の方から、少し歩くと本校舎の、僕らの教室が見える。窓側の席で日誌らしきものを書いている、青山の彼女の小南さんと、その友達の戸羽さんは、何事も無いような顔で笑っている。そんな風に笑っていられるのも、今のうちだけなのになあ。
- Re: 失墜 ( No.7 )
- 日時: 2016/10/13 03:11
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
荷物を取りに行くため、僕は自分の教室にいったん戻ることにした。二年一組の教室に近づくにつれて、聞こえてくる声が大きくなってくる。小南さんと戸羽さんだろう。やっぱり別れたほうが良いよね、と言う戸羽さんに、小南さんがなにかを助言している。
みんな別れてしまえばいいのになあ、と思いながら、教室のドアを引いた。
「……あ、矢桐くん。まだ残ってたのね」
突然の来客に、小南さんが驚いたように大きな瞳を開く。その後ろの席に座っている戸羽さんは、ちらりと僕を一瞥して、日誌をまとめる作業に戻った。戸羽さんは、スクールカーストが低い男子とは関わりを持ちたくないらしくて、青山みたいな男子には媚びを売るくせに、僕らのような目立たない奴には、目に見えて冷たい。
対して、あの憎き青山瑛太の恋人である小南さんは、誰とでも分け隔てなく接する。でも、僕はなんとなく、彼女が苦手だ。あの青山の彼女だからという事もあるけれど、小南さんは顔もスタイルも整いすぎていて、まるで人間味が無い。浮かべる表情も、並べる言葉も、全てが作り物みたいだ。例えるなら、サイボーグとか、ラブドールみたいな非現実さで、僕はまったく馴染めそうにない。青山の女性の好みはまったくもって謎である。
「こんな時間まで何してたの? 矢桐くん、いつもすぐ帰っちゃうから、珍しいなって思って」
そんなサイボーグ小南さんは、張り付けたような薄い笑顔を浮かべて、僕に問う。
「……ちょっと、用事があっただけ」
「そっか、気を付けて帰ってね」
お前の彼氏に恐喝されてたんだよ、なんて言えば、彼女はどんな顔をしただろうか。
小南さんは口元を少しだけ緩めて、また明日ねと手を振る。僕は彼女みたいに、上手に笑顔を作れないので、我ながらぎこちなく挨拶を返す。小南さんは細かい所まで綺麗で、男の僕にはよくわからないけれど、透明にコーティングされた爪と、すらりとした長い指が印象に残った。横の戸羽さんと比べれば、肌の白さも、瞳の大きさも、髪の艶やかさも顕著であり、やはり小南さんは普通の女の子とは一線を画している、といった感じが伺える。
だけど僕は、こんな作り物みたいな美人より、普通の女の子の方が好きだ。小南さんにも戸羽さんにも、別に用事はない。重い鞄を持って、教室を出た。
「ねえ、柚寿。あんなに優しくしたら、あいつ勘違いしちゃうんじゃないの?」
教室を出た途端、後ろからそんな声が聞こえる。戸羽さんだろう。相変わらず、声が大きい女である。小南さんはそれに対して、そんなことはないと思うよ、と笑いながら言っている。野球部の練習の声のせいで、次の台詞は聞こえなかったけれど、悪口を言うのならせめて僕が完全にいなくなってからにしてほしいものだ。
そして、残念ながら、僕はあの憎き青山瑛太の彼女には一ミリも興味はない。
「あっ、矢桐くんだ! お疲れさま!」
オレンジの光がたくさん散らばる廊下の向こうからやってきた小柄な女の子が、満面の笑顔でこっちに大きく手を振っている。僕に声をかけてくる女の子なんて、ひとりしか心当たりがない。クラスメイトの、瀬戸京乃さんだった。
「お疲れさま、瀬戸さん」
その姿がはっきりと確認できたとき、自然に笑顔がこぼれるのを感じた。
瀬戸さんは、小南さんみたいな目立つ美人ではない。いつも控え目で、大人しいけれど、僕と話をするときは本当に嬉しそうに笑ってくれる。とてもとても、可愛いと思う。僕の生活は、クラスに馴染めなかったり、青山に金を取られたりして最悪だけど、瀬戸さんのおかげで、僕は何とか正気を保って、ここに居られる。
瀬戸さんは、数学が解らなくて、さっきまで先生に教えてもらっていたらしい。そんな努力家なところも素敵だと思う。焦げ茶色のおさげを楽しげに揺らして微笑む瀬戸さんと目が合うたびに、ドキドキする。永遠にこの時間が続けばいいのにな。もうすぐ階段を降りてしまうから、ここでさよならしなければいけないのだろうか。もう少し話していたかったな。そんな事、言えるわけないけど。
放課後。下駄箱の前を歩く。駅まで一緒に行こうよと誘う勇気はない。今日あったことを面白おかしく話す瀬戸さんに見とれて、こんなにじろじろ見ていたら嫌われるかな、と視線を逸らしたその時、これから教室に向かうであろう青山とすれ違った。
青山は一瞬、僕と瀬戸さんを交互に見て、驚いたような顔をしていたけれど、すぐに元の笑顔に戻って、僕らに軽い挨拶をして、教室の方へ向かっていった。
あーあ、せっかくいいところだったのに、青山なんかに会ってしまうと台無しだ。でも隣の瀬戸さんが、「途中まで一緒に行こうか」なんて言うから、もう青山も小南さんも戸羽さんも、明日の数学の小テストの事も、どうでもよくなりそうだった。僕は幸せだなあ、青山を殺して刑務所に入るのは、もう少し先でいいや、なんて呑気なことを思ってしまうのだった。
- Re: 失墜 ( No.8 )
- 日時: 2016/09/07 01:03
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
瀬戸さんと駅で別れてから、電車が来るまでの間、何回も頭の中でさっきまでの会話を回想した。あの時はもっと良い返しが出来たよなとか、話すのは苦手だからせめて聞き上手になりたかったなとか考えているうちに、ふわふわした幸せな気持ちは冷えていってしまった。駅のホームで、ただ風に吹かれている。やっぱり僕は、他のクラスメイト達みたいに青春真っ只中みたいな真似は出来ないんだと思い知る。
でも、瀬戸さんは可愛かったなあ。柄にもなく空を見上げて、彼女の笑顔だけを思い出していた。
「お帰りなさい、晴くん。お兄ちゃん帰ってきてるわよ」
家のドアを開けると、玄関の鏡を掃除していた母が、ロングスカートの裾をひらひらさせて、僕に笑いかけた。その言葉通り、見慣れない革靴が綺麗に並べてある。僕は「わかった」とだけ返して、靴も揃えず脱ぎ捨てて、スリッパに履き替え、自室がある三階を目指して歩き出した。
僕には、大学生の兄がいる。僕と似て、喋るのも聞くのも下手くそなくせに、普通を装おうとするから、見ていて痛々しい兄だ。東京の大学の医学部に進学してからは、会うことも思い出すこともなかったのに、どうしていまさら実家に帰ってきたのだろうか。
応接室や客室、父の書斎を通り過ぎた先の、和室に兄はいるらしい。会いたくなかった。僕の事を何一つわかろうとしないから、兄は嫌いだ。
途中で会ったお手伝いさんに適当な和菓子を貰い、自室の扉を開き、内側から鍵を閉めた。自室でゲームして、飽きたら睡眠欲に任せてただ眠るときと、瀬戸さんが笑っている時だけが僕の幸せである。窓から見える庭には、いつの間に買ったのか小さなゴルフコースが設備されていた。恐らく父のものだろう。金がたくさんあっていいな、と思った。僕の金は全部青山に取られてしまうから、自由に使える金がある事は、僕のあこがれだった。
ああ、家でまで青山のことなんか思い出したくないな。大きなベッドに座って、そのまま寝っ転がって、真っ白の天井を眺める。
無音の部屋で、瀬戸さんと話した、球技大会と文化祭の事を思い出す。笑顔がびっくりするくらい可愛い瀬戸さん。それに対して、作り物みたいな小南さん。僕の首を絞めて、無表情で金をポケットにねじ込む青山。遠い日の夏、きっと去年の事。僕の家を見て、大きな瞳を見開いていた青山は、あの時はまだ、ちゃんとしていたような気がした。僕が手遅れにしてしまったのだろうか。僕が責任をもって殺さなければいけないな。瀬戸さんが何回も僕の手を取って笑う。僕が普通の高校生だったら、普通の高校生の瀬戸さんと、普通に仲良くなる未来があったかもしれない。僕の青春を根こそぎ奪った青山に、また頭の中でナイフを突き刺す、一秒前、
「……晴?」
「う、うわっ」
扉が開いた。確実に鍵を閉めていたはずなのに。飛び上がってベッドの隅に逃げる僕を真っ直ぐ見て、兄は笑っていた。
見ないうちに、笑うのが随分うまくなった。私服が大人っぽくなった。久しぶり、と僕を見る。
「……な、なんで」
「あれ、母さんから聞いてなかったか? 僕、大学辞めたんだ」
「やめたって……」
僕が貰ってきた和菓子のパッケージを勝手に開けて、口に運びつつ、兄はなんともなさそうに言った。
僕はと言うと、驚いてしまって言葉が一つも出なかった。
「父さんみたいに医者になろうと思ったけど、やっぱ無理だよ。血見るの怖いしさ。僕は、教師になる。医学部の人間になるんじゃなくて、医学部に送り出す人間になることで、日本の医学に貢献しようと思ったのさ」
「でも、やめたってどういうことだよ……父さんも母さんも、納得するわけないだろ……!」
「……そう、まだ父さんには喋ってないんだよ。殴られるかもなあ」
その時は看病してくれよと、兄は冗談っぽく言って右頬を抑える。頭がくらくらしてきた。大学なんて、そう簡単にやめられるものではない。みんなそれをわかっているはずだ。母さんも、少しは僕に相談してくれたっていいのに。
「まあ、なんとかなるだろ。ていうか、母さん、僕じゃなくてお前の事心配してたぞ。高校に入ってから、成績が下がる一方だって」
ふう、と兄は息を吐いて、「タバコ吸っていいか?」と僕に聞く。そういえば、兄はもう二十歳になっていた。
煙を吐き出して、少しだけ神妙な顔つきになって、兄は言う。
「……お前さ、いじめられたりしてない? 母さん、晴が前よりも暗くなったって言ってた」
「……してない」
いじめられてなんかいないよ、殺そうとしてる奴はいるけど。そう言おうとしたけど、やめた。楽しみは後にとっておこう。犯罪者の家族として、このバカみたいな兄も一生好奇の目に晒されてしまえばいい。
兄は嫌いだ。悪意しかない青山とは違って、悪気が無いのに僕の痛いところを突いてくる。生きるのが絶望的に下手なのだ。いつも、空回りばかりしている兄を、僕はずっとそばで見てきた。今回だってそうだ。きっと、心の奥底では医者になる夢を諦めていないんだろう。大学でくだらない人間関係のトラブルを起こしたに違いない。兄が辞める必要なんて、なかっただろうに。
今日から浪人生だから、またここに住むことにしたよ。よろしく。兄はそう言って、少し寂し気な笑顔を張り付ける。僕の最悪な人生に、さらに嫌なものが追加されてしまった。早いところ青山を殺して、僕も死んでしまいたいと思った。
- Re: 失墜 ( No.9 )
- 日時: 2016/08/07 19:55
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
その日の夕飯はいつにも増して豪勢だった。ハンバーグをナイフで切り分けながら、僕は兄が父親に殴られるのを待っていた。
だけど、なんだか父も母も、兄が帰ってきたことを喜んでいるようだった。東京に出てからは一度も帰らなかったから、大学を辞めたことなんかより、無事に帰ってきたことの方が嬉しかったのかもしれない。僕の家は金だけはあるから、大学をやめたくらいの立て直しは十分に効くのだ。高い授業料を払ったと思えばいい。
「今日からは優も晴も居て、また家族四人で暮らせるわね」
そんなこと言ってる場合じゃないのになあ、と僕は小さくつぶやいて、切り分けたハンバーグを口に放り込んだ。僕の人生は、いつも少しだけうまくいかない。
席替えがあるらしい。青山のグループの男が教室に報告した瞬間、どっと歓声が上がった。
廊下側の一番後ろの席で、僕は机に伏せて寝ていたのだけれど、その声で目を覚ましてしまい、寝起きの目を擦った。
一時間目のロング・ホームルーム。入ってきた担任の中野が席替えの事実を告げる。「センセ、今回はクジですかー?」と戸羽紅音さんが真っ先に手を挙げる。この前クジだったから今回はちげーんじゃねえのとどこかから声が上がる。
楽しいはずの席替えだったが、担任の次の言葉で、教室は凍りついた。
「えー、今回の席替えは中間テストの成績順に席を決める。悪かった順に読み上げるから、名前が呼ばれた奴から廊下側に縦に座れ」
「え、俺一番前かもしれねー」
一瞬時が止まった後、バスケ部のエースの柏野が、冗談っぽく笑う。すると周りもざわつきはじめ、成績順ってやばくね、なんて声が各地で上がり始めた。僕は、この前の中間テストで何点取ったっけ。最初あたりに名前を呼ばれたら、公開処刑じゃないか。どうか、せめて一番廊下側の席にはなりませんように。
教室の後ろの方に、荷物を持って全員立たされる。こんな席替えは異例で、またクラスに緊張が走る。それでは発表しますの担任の声に、生唾を飲み込む。
「……瀬戸。瀬戸京乃」
一番最初に、瀬戸さんの名前が呼ばれた。つまりこのクラスで一番成績が悪かったのである。「やっぱ、やめたほうがいいんじゃねえの、これ」と、さっきまで威勢が良かった柏野がぽつりと呟く。クラスの中でもおちゃらけている柏野や、勉強嫌いで有名な戸羽さんの名前が呼ばれたのなら、それなりに盛り上がっただろうに、このなんともリアルな空気感に、ついに教室は押しつぶされそうだった。
「あ、あはは、私が一番下かあ」
瀬戸さんは、無理やり浮かべたような笑顔で、荷物を持って歩き出し、廊下側の一番前に座って、こっちを見てまた力なく笑った。
きっと、泣きたくて、消えたいに違いない。でも僕は、瀬戸さんを助けられない。無力すぎる自分を責めたくなった。僕は、瀬戸さんにたくさん幸せにしてもらっているのに、僕が瀬戸さんを幸せにすることはできない。
「次。どんどんいくぞー。柏野、戸羽、笹島、餅田、中重、倉持」
「ビリじゃなくてよかったー! ま、前から三番目なんだけどねー!」
戸羽さんが心底ほっとしたような顔で席に向かう。あっという間に廊下側は埋まった。僕の名前はたぶん、中間くらいで呼ばれるだろうけど、僕の事なんかどうでもいい。瀬戸さんが心配で仕方ない。
「相沢、野村、渡辺、真野」
瀬戸さんの友達の、相沢梓さんが、廊下側から二列目の一番前に座る。隣の瀬戸さんに何か話しかけているようだけれど、どうか僕の代わりに、慰めてあげてほしかった。
「えー、次。江藤、榎本、矢桐、斎藤」
半分くらい名前を呼ばれて、教室はやっと、普段通りのムードを取り戻した。僕の席は真ん中の列の後ろから二番目で、まあ、いたって普通の成績である。後ろを見ると、もう残りは十人くらいしかいなくて、真面目そうな男女が黙って立っている中に、青山と小南さんもいた。
あいつらが、瀬戸さんの代わりに廊下側の一番前に座ればよかったのに。人生はいつも、僕の思い通りにはいかない。青山も小南さんも、座っている僕らを見て、嘲笑っているようだった。
「はい、ラスト五人。佐倉、泉、小南、青山、八巻。以上」
窓側の五人は、どこか自慢げな表情で、席に座る。僕もこの五人に入れていたら、たぶんあんな顔をしていただろう。羨ましくないわけでは無かった。
「センセ—! 青山と柚寿ちゃん前後ですよ、いいんですかー? いちゃつかれても困りますよー!」
廊下側の前から二番目の、柏野が抗議する。その後ろの戸羽さんも、「そうだそうだー! 瀬戸さんと柚寿の席交換しよー!」と叫ぶ。たぶん戸羽さんは、瀬戸さんとは話が合わないから、仲のいい小南さんと近くの席になりたいんだろう。瀬戸さんを一ミリも青山に近づけたくない僕としては、その案は反対である。
「成績順で並べた時こうなるんだから仕方ないだろ。悔しかったら小南と青山くらい点数を取るんだな」
「それは絶対無理ー」
柏野と戸羽さんが顔を見合わせて笑う。青山と小南さんも一緒に笑っている。教室のど真ん中で僕は、青山を蹴落とすことも出来ず、瀬戸さんを助けてあげることも出来ず、ただここに座っている。限りなく無力だった。
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