Enjoy Club
作者/ 友桃 ◆NsLg9LxcnY

第5話『不確かなもの』(9)
4組の生徒を呼び出す校内放送が流れた瞬間、風也はハッとして黒板の上のスピーカーに目をやった。今日どうしても会いたかった人の名前が聞こえてきたからだ。職員室への呼び出しということは、確実に彼女は廊下に出てくるはずである。話すなら今がチャンスだと、話し合いだか雑談だかわからなくなっているクラスを放って、席を立った。
もう何日も前からメールが返ってきていない。もしかしたらどこかに出かけていたとかいう事情があるのかもしれないが、それならそれで構わない。とりあえず久し振りに顔だけでもと思い教室を出て、風也はすぐその場に立ち止まった。
目的の人物が、目の前に立っていたからだ。あまりのタイミングの良さに一瞬目を見張り、続いてほっと胸をなでおろす。しかし、「亜弓、お前全然連絡ないから心配したんだぜ?」と苦笑混じりに言おうとした声は、まだ半分も言わないうちに途切れてしまった。
彼の目の前で、亜弓が明らかな動揺を見せたからだ。今にも泣きそうに、くしゃっと顔を歪ませたからだ。
そして、状況が全く理解できないまま再び声をかけようとした風也の横を、彼女は猛スピードで通り過ぎていった。何の会話もないまま、気付くと目の前にいたはずの亜弓は姿を消している。
――……は……?
2、3拍遅れて、風也はようやく状況を把握した。亜弓が“逃げた”、という状況を。
――……逃げ、た……? 亜弓が……!? しかも――
「オレ、から……!?」
まるで何かをつかみ損なったような、酷く頼りない気分。今まで目の前にいた人が突然霧になって消失してしまったかのような、信じられない光景。呆然と、ただ呆然と、空っぽになった空間を凝視する。
この瞬間彼は、自分と亜弓とをつないでいた見えない何かが、ぷつっと音を立てて切れてしまったことを痛感していた。胸にぽっかりと穴が開いたように、強い喪失感が彼の心をえぐる。その穴をヒューヒューと音を立てて風が通るような、そんな冷気を伴う痛みと失望。
あまりの強烈な衝撃に限界ラインを超えてしまったのか、彼は自分でも気持ち悪いほどに落ち着いた、ゆっくりとした動作で後ろを振り返った。もちろんすでに亜弓の姿は影も形もなくなっている。凍るように冷たい汗が一筋、頬を伝い首筋へと流れていった。
とりあえず、メールの返信をしなかったのが故意だということは確実にわかったと、うまく噛み合わない思考回路で考える。そして自分は何か彼女を傷つけるようなことをしただろうか、とここ最近の自分の行動を振り返って、
ふと我に返って、教室4つ分続く廊下を見つめ、幾度も瞬きを繰り返した。不具合を起こしていた思考が、波が波を伝えるように一気に正常に戻っていく。
愕然とした表情で、ぽつりと呟いた。
「亜弓……、どこ行った……?」
思わず辺りに首を巡らすが、無論彼の視界範囲内にいるわけはない。
まるで金縛りにあったように固まっていた右足を力を込めて一歩踏み出すと、体をがんじがらめにしていた見えない糸がほどけて、体の感覚が戻ってくる。そのまま誰もいない廊下を、亜弓が行った方向に滑るように駆けだして行った。
自分でもそれなりの自信を持っている脚だ。中央階段まではものの数秒でたどり着いてしまう。問題は亜弓が上と下、どちらに向かったか、だ。普段なら上、つまり屋上にいる確率が極めて高いのだが、何せ今はこの状況である。彼と会いたくないのなら、まずそこには向かわないだろう。しかし下となると、学校全体と周辺全てを含むことになる。
まずは屋上を確認してからだ、と風也は階段を飛ばし飛ばしに駆けあがっていった。昇れば昇るほど、胸の内の焦燥感はつのっていくばかりだった。
たたきつけるように大きな音を立てて金属の扉を開く。いつもならこんな短距離苦にはならないはずなのに、今は呼吸が乱れて肩で息をしていた。
屋上に出てぐるっと1周見回すが、やはり視界に入るのは黒っぽい灰色のコンクリートと、さびたフェンスのみ。人のいる気配すらしない。
街が一望できるここからなら亜弓を見つけられるかもしれない、と淡い期待を胸に抱いてフェンスへと駆け寄る。1段高い床に足を置き、金網越しに風音の街を見渡した。彼が見ているのは、いつも学校を行き来している正門の方向だ。
引っ掛けた手に力がこもり、フェンスがギシッと鈍い音を立てる。
湿気のこもった生ぬるい空気が、白い頬や袖のまくられた腕をなで、じんわりと気持ちの悪い汗が体からにじみ出てくる。今にも街全体を飲み込んでしまいそうな黒く膨れ上がった分厚い雲が、彼の肩に重くのしかかるようだ。
流れる汗もそのままに、じっと隙間から目を凝らす。無音の中、体に響く重苦しい心臓の音が、徐々に速度を上げていく。両手が食い込むほどに、フェンスを強く握りしめた。
――……こんなんで見つかるわけねぇか……
ふと沸いてきた自嘲的な、あきらめを含む感情。しかしすぐに、もしかしたらまだ校内に残っているのかもしれないと気を取り直し、ゆっくりと深く息をつく。そしてフェンスから手を離した瞬間。
道を駆ける豆粒くらいの大きさの人が、視界の隅を横切ったのだ。心臓がはね、再びフェンスにしがみつく。
「見つけた……っ」
歓喜に満ちた声を上げ、風也は今度こそくるっとフェンスに背を向けた。
が、そこで。
予期せぬ人物が、腕を組んで仁王立ちしていたのである。
肩の辺りでシャギーにした漆黒の髪。長い前髪が風にあおられ、その下から形の良いつり上がった眉がのぞいた。白い腕を覆うブラウスの袖はまくられ、チェックのミニスカートからはすらりと華奢な脚が伸びている。背が低く全体的に小柄であるにもかかわらず、不思議と彼女は大きく圧倒的な存在に見えてしまう。今は特に、その体から発せられる痛いほどの威圧感が原因だろう。
今にも駆け出そうとしていた風也は、屋上の入り口に立ちふさがる彼女を見て不審げに片眉を上げた。
「恵玲……!?」
彼女を目にした途端、脳裏にこの間の光景が映像のように浮かんだが、それも一瞬にして消えてしまう。それをかき消すほどの濃い殺気が、恵玲のつりあがった真っ黒な瞳から感じられたからだ。事情の全く分からない風也はピリピリと張り詰めた静寂の中、息をつめて驚いたように彼女を見つめていた。
不意に恵玲が、にこぉっと背筋の凍る不気味な笑みを顔全体に浮かべた。
「風也くん、覚悟は……できてる?」
眉をひそめて、「は……?」と聞き返す暇もなく。
気付いた時には恵玲の姿はそこから消失し、風也の体は真後ろのフェンスに派手な音を立ててたたきつけられていた。くっと息が詰まり、背中にしびれるような痛みが走る。彼の襟元を、恵玲の小さな手が信じられないほどの力で押さえつけていた。今の衝撃が伝わってフェンスがピリピリと前後に揺れ、風也はそこに押し付けられる形となった。思わず冷や汗をかいて、ちらっと後ろ目にフェンスをのぞく。
――……壊れたらどうするつもりだ、この馬鹿力が……っ
「てめ――」
「あの人が風也くんにとって何であれ、亜弓をあんなに泣かせてあたしが黙ってるわけないでしょ……!?」
恵玲の叩きつけるような怒りに震えた声に、風也は目を見張る。同時に彼女から発せられる殺気が爆発的に膨れ上がり、風也の頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「お前何意味わかんねぇこと言ってんだ! いったん落ちつ――」
「落ちつけるわけないでしょ! ここ数日ずーっと我慢してきたんだからぁっ!」
「なっ――」
叫ぶと同時に襟元をつかんだ細い腕に力を込め、横へと振り投げる。まさかこの小柄な少女がここまでの腕力を持っているとは思わなかった風也は、正直度肝を抜かれて思いっきり吹き飛ばされた。しかしコンクリートにたたきつけられる寸前、ギリギリ受け身を取って片手を床につき、そのまま腕をバネのように使ってくるっと1回転、恵玲から4、5メートル離れた地点に綺麗に着地した。
能力を使ったにもかかわらず無傷で立つ彼に、恵玲は内心舌を巻いて、肩で大きく息をつく。同時に彼女から急速に殺気が消えていった。
「はぁっ、なんか思いっきり投げたらスッキリしたーっ」
「ざけんな、てめぇっ。危うく全身打撲になるとこだったじゃねぇか!」
「それぐらい腹立ってたの! それに風也くんならどうにかするでしょ! てか結局浮気なの、どうなの!?」
勢いに任せて吐き出した恵玲の言葉に、風也は一瞬理解が遅れて唖然とした様子で彼女を見つめた。頭の中で彼女の台詞が不気味に反芻している。
みるみるうちに不審げな表情になっていく彼を、恵玲は眉をひそめて見返した。
「え、何……。やっぱアレ、違うの……?」
思いっきり一方的にケンカを売ってしまった後で流れる気まずい沈黙。風也は手ぐしで前髪を後ろにすくと、目を閉じてこめかみを押さえた。
「その話、もうちょい詳しく」
本気で困ったような顔でそう言われ、恵玲はぎこちない笑みを浮かべてため息をもらす。まぁ泣かせたことに変わりはないんだし、とついさっきまでの自分の暴走を無理矢理肯定的にとらえておいた。

小説大会受賞作品
スポンサード リンク