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作者/ 友桃 ◆NsLg9LxcnY

第2話『灰に染まる波』(4)
屋敷へと入った白波は、この間麗牙のメンバーと向かった大広間とは違う部屋を目指し歩いていた。あの広間は基本的にウィルや扇を通すときだけに使われる場所で、普段影晴はあまり出入りしていない。その代わりによく使うのが、この屋敷の大半を占めている実験室や、今向かっている休憩室とも書斎ともとれる小さな部屋だった。
閑散とした冷たい廊下を表情ひとつ変えずに歩く。途中上った階段は、1人で使うにはもったいないほどの広さだ。廊下も階段も電気はちゃんと付いているのにどことなく薄暗く、通る者の緊張感をあおってくるようだ。もっともこの屋敷を歩きなれている白波は、緊張なんてほとんど感じていなかったが。現に肩の力も結んだ唇も適度に力が抜けている。
そう時間がたたないうちに、白波は目的の部屋にたどりついた。ほぼ等間隔に並ぶ扉の中の1つ。ごく普通の大きさの茶色い扉だ。白波はその前に立つと、何のためらいもなく手の甲で二度ノックをした。ここで影晴が中にいればちゃんと返事が返ってくるのだが、今回は少し待っても何の反応もない。嫌な予感が頭をよぎり、わずかに顔をしかめる白波。それでも気が進まなそうにドアノブを握り、ゆっくりと扉を開いた。
開いた瞬間、古い本独特のにおいが鼻をついた。それも当然、その部屋は分厚い専門書や実験資料のおさめられたファイルで埋め尽くされていたのである。壁にはずらりと本棚が並び、その本棚に囲まれるようにして年期を感じさせる机とふかふかのソファーが置いてあった。よく使う小物も棚や床に置いてあったりする。普段使っているのがその見た目や空気からよくわかる部屋だった。そしてその中央のソファーには、予想通りの人物が浅く腰かけていたのだ。
――天銀である。彼はいつも通りのオーソドックスなスーツ姿で、テーブルの上に置いた資料に視線を落としていた。所々はねた長めの茶髪がその視界を邪魔していたが、気にも留めていないらしい。ちょっと前かがみになって資料に意識をやっているその姿は、素直にみれば一心不乱に文章に読みふけっているようにも見えるが、あいにく白波の目にはやることがなくてとりあえず目の前の紙切れに目を向けているようにしか映らなかった。テーブルの上には資料から離してティーカップが置いてあったが、中身はほとんど飲まれないまま冷え切ってしまっている。その状況をざっと確認して、白波は柄にもなく肩を落とした。
――……最悪だ
白波が部屋に入ってきてからも、いっこうに顔を上げない天銀。入ってきたのが影晴でないことはわかっているのだろう。一瞬影晴を探しに行こうか迷いはしたが、彼が今何をしているかはだいたい予想がつくのでやめておいた。ドアを開いた体勢のまま、他に時間をつぶせそうな部屋を頭の中で思い浮かべてみる。しかしいくら考えたところで、結局ここで待っているのが一番手っ取り早いのだ。天銀がいるということは、かなりの高確率で影晴はここに帰ってくるのだから。
重く息を吐き出して、白波はようやく扉を閉めた。天銀が今さらながらに目を上げこちらを見てきたが、構わず部屋の奥へと足を進める。奥の壁に並んだ本棚。それを埋め尽くすいかにも難しそうな専門書の数々。白波は本棚の脇の壁にもたれかかり、なんとなく本の背表紙を眺めていることにした。『量子科学計算の応用』『原子吸光の実験と分析』『解剖生理学による人体の構造と機能』……。ひとつ、ふたつみっつと、白波の頭にクエスチョンマークが並ぶ。なんともチンプンカンプンなタイトルだ。白波は思わず眉根を寄せて、横目でちらりと天銀の背中を見た。おそらくこのよくわからないタイトルの本を彼は理解できるのだろうし、影晴にかかってはたやすく応用まで出来てしまうのだろう。
それにしても、白波がその場所に落ち着いてからも天銀は声すら掛けてこない。ただひたすらテーブルの上の紙に視線を落としている。しかしどの程度真剣に読んでいるかはかなり疑わしく、先程からページをめくる音すら聞こえなかった。白波も全く人のことは言えないが。
一応本棚に目を戻してはみたものの、もはや字の羅列が視界に並んでいるだけで、意味は全く頭に入ってこない。そうしてお互い無言のままじれったいほどゆっくりと時が過ぎていった。徐々に背表紙を見る目が睨むような目つきになってきた白波は、唐突に一言ぶっきらぼうな声を投げた。
「影晴は」
「3階の実験室だ」
即答。だが白波に負けないくらい、あるいはそれ以上に抑揚のない声。白波はそれ以上なにも言わず、壁に背を預けたまま腕を組んだ。
地下ではなく3階の実験室ということは、そう大規模な実験ではない。きっとすぐにここに帰ってくるだろう。それまでは待ちぼうけだ、と白波はあっさり目を閉じる。
元々天銀が物音一つ立てずに自分の世界に入っているため、当然部屋は人っ子一人いないような静寂に包まれた。まるでお互いの存在を認識していないかのような奇妙な沈黙がしばらく続き、さしもの白波も瞼を上げで前方の床をじっと見据える。組んだ腕に無意識に力がこもった。これが他の誰かだったら、何の苦痛でもなかった。仮に一緒にいるのがウィルだったら、こんな沈黙いくら続いたって平気だったはずだ。しかし、天銀だと話は別である。
ワインでも持ってくればよかったと内心後悔し始めた時、ノックもなしに突然扉が開いた。そして、実験用のラフな服装に汚れた白衣を羽織った影晴が姿を現したのである。入口の方に顔を向けて彼の姿を見た白波は、つい小さく息をついてしまった。
珍しく疲れた顔の影晴は白衣を脱ぎながら部屋に入り、こちらに気付くと包帯を巻いていない左目を丸くした。
「おや、白波ももう来てたんだね。すまない、待たせたかな?」
黙って首を横に振ると、影晴は小さく笑って今度は天銀に目をやる。その頃には天銀はすでにソファーを離れ、先程まで見ていた資料を棚のファイルに戻していた。そんな天銀とこちらを順に見て、人の悪い薄笑いを浮かべる影晴。
最近鈍感な白波にもいい加減わかってきた。影晴は、天銀と自分を見て軽い気持ちでからかっているのだ。影晴自身、自分達2人の関係が崩れた原因の一つだというのに、性質(たち)の悪い人である。そんな人に何も言わず従っている自分も、どこか感覚がねじ曲がっているのだろう。
先程まで天銀が座っていたソファーに深く腰かけた影晴は、疲労のにじむため息をついて独り言のように愚痴をこぼした。
「全く……不老の薬はだいぶ前に上手くいったというのに、不死の方はどうにもならないな。失敗してばかりだ」
そう言って影晴は誰の反応も待たずに、「天銀、悪いがコーヒーを入れてくれないか」と部屋の隅に佇んでいる天銀に指示を出す。黙って首肯した天銀は、日用品をかためて置いてある棚に向かってすぐにコーヒーを入れ始めた。コーヒーや紅茶はすぐに飲めるようにしてあるのである。その間白波は本棚の脇に突っ立ったまま、いつ話を切り出そうかと影晴の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
不意にその影晴が、首を後ろにひねってこちらを見る。包帯越しに目が合うと、彼は世間話のように言った。
「どうだい? 麗牙や月下に何か変化はあったかい?」
白波は一瞬頬をこわばらせ、影晴を見た。まさに言おうとしていたことだったのだ。直後、扇や園香、迅、春妃……月下白狼4人の公園での様子が頭に浮かび、ついで篠原扇の大胆かつ危険すぎる宣言がまざまざと脳裏によみがえってきた。思わずこちらが息をのんだ宣言が。
影晴は口元に余裕の見える笑みを浮かべながらこちらの返答をじっと待っている。そんな影晴の前に、天銀が音も立てずにコーヒーカップを置いている。しばらく無意味に口をつぐんでいた白波は、さりげなく影晴から目をそらし調子の低い声で言った。
「月下が……いや、月下の篠原扇と安藤園香の2人が、E・Cを抜けると……そう言っていた」
「それはいつのことだい?」
「ついさっき」
正面に目を戻してコーヒーカップを手にとる影晴。こちらからは後ろ姿しか見えないため、表情まではわからない。でも声音は至極いつも通りに聞こえた。ただし、白波はそういう微妙な感情の変化を読み取るのが苦手なため、確信は出来ない。影晴は優雅に脚を組んでカップを口元に運んでいる。その間部屋にまたも沈黙が下りたが、白波はあらぬ方向を見つめながら彼が口を開くのをただ待っていた。
陶器が触れ合う高い音で、白波は視線をゆっくりと影晴に戻した。カップをソーサーに戻した彼は、ゆったりと腕を組み何事かを考えている。しかしその時間もそう長くはなく、彼はこちらを振り返って突然新しい話題を振ってきた。
「ところで紫苑くんと友賀さんの様子はどうかな? 記憶を消した後、何か問題はなさそうかい?」
予想外の話題に目を瞬いた白波は、正直返答に困ってしまった。風也とはあれ以降会っていないし、亜弓とは元々1対1で話したことすらない。もちろん、尾行する気なんてさらさら無いのである。しかし実を言うと、天銀のあの能力を受けた2人がちゃんと無事に過ごしているか、気になっていはいた。あの能力は人の命をも簡単に奪えることを、白波はよく知っていたから。
黙りこくってしまった白波を見て、影晴が笑いを含んだ声で言う。
「知らなければ別にいいよ。あの2人のことは何も指示していなかったしね。恵玲から特別何かを聞いたりもしていないかい?」
「……あぁ、何も」
「だったらいいさ」
そう言って影晴はすくっとソファーから立ちあがった。ひじ掛けにかけてあった白衣をつかみ、扉の方に歩いていく。そして隅にひかえていた天銀の前を通り過ぎる際、「実験の続きをするから手伝ってくれ」と声をかけてから、どちらの顔も見ず唐突に話を本題に戻した。
「月下のことだが、今は一応様子を見てみることにする。だがもし、彼らが本当に脱退に踏み切ったその時は……天銀、白波」
振り返った彼と目があった。彼の声が、重みを伴って冷たく響く。
「君達2人に後処理はお願いするよ。もちろん嫌とは言わせない」
思わず強張った表情で並んで立つ影晴と天銀を見てしまった。天銀は相変わらずの暗い瞳でこちらを見ている。体の中心に氷柱が生じたかのような冷気が、白波の痩身を包んだ。
――……まさか、天銀の“精気吸収”の能力を使わせるということか……?
愕然とした思いを隠しきれずにいる白波に、影晴はあっけらかんとした表情で手を振った。
「それじゃあ白波、今日はごくろうさま。麗牙の方に帰っていいよ」
声がのどに詰まり返事が出来ない白波の前で、影晴は颯爽と部屋を出ていった。その後ろについて歩く天銀もこちらを振り返ることなく部屋を後にし、寂しい音を立てて扉が閉まる。
何かを言いかけた体勢のまま固まっていた白波は、ややあって目を伏せ唇をかんだ。久しぶりに胸の内に沸き起こってきた焦げるような感情をどうすることもできずに、ひたすら唇をかみしめてこぶしを握る。天銀の機械のように無感情な顔がちらつき、白波は壁に手を突き激しく頭を横に振った。代わりに無理矢理麗牙の家を頭に思い浮かべた。ウィルや恵玲、水希達が集まる場所。まるで家族が集まったような、こことは全く違った場所。天銀の影を意識から追いやるために。いつも通りみんな忘れて、胸の内に眠った激情なんかみんな忘れて、ただ流されるだけの日常に戻るために。
白波の手からしぼむように力が抜ける。自分の息遣いが聞こえるような静寂が、肌に痛かった。

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