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作者/ 友桃 ◆NsLg9LxcnY



第5話『不確かなもの』(10)



 学校を飛び出した私は、風音の住宅街をがむしゃらに駆け巡っていた。
 霞んで大きく歪んだ視界。滴がこぼれないように何度も手の甲で目元をこすりながら自分の家を通り過ぎ、まだ足を運んだことが無い場所まで走り続ける。
 そうでもしなければ、胸の内の様々な想いが溢れかえってしまいそうだった。ぐちゃぐちゃに乱れて、乱れ切って、自分では手がつけられなくなってしまいそうだったのだ。

 廊下で風也と出くわした瞬間、色々な感情が体中を巡り巡って、自分で自分の気持ちが分からなくなってしまっていた。もちろん最初に流れ込んできた感情は、驚き。まさか本当にいるとは思わなくて、しかもああいう風に対峙するとは思わなくて、それがきっと私の頭を著しく混乱させたんだと思う。そして直後に頭に浮かんだのが、あの光景。風也とおそらくその恋人が並んで歩いていた、親しそうに話していた、あの二度と思い出したくもない光景。胸が引き裂かれるような痛みを感じたあのときの感情が、勢いよく心になだれ込んできた。そして、彼から逃げる寸前。この滅茶苦茶な状況の中でも、やっぱり胸の中心に往生際悪く残り続けていたのは――……


 ポツ…


 とひんやりとしたものが頬の辺りに落ちてきた。
 反射的に足を止めて空を見上げる。どんよりとした今にも地上に落ちてきそうなほどに重々しい雲が、空一面を覆っている。それをぼんやりと眺めていると、再び空から降ってきた滴が手首を濡らした。

 ――……傘、忘れてきちゃいましたね

 そこでふと辺りを見回して、今更ながら私は体を硬直させた。
 明らかに知らない場所だったのだ。いつもは少々自信を持っている脚を、今ほど恨んだことはない。しかも風也のことばかりが思考を占領していたせいだろうか。爆走している間は、疲れというものを全く感じなかった。我に返った今になって胸が苦しくなってきている。

 そうしてその場に突っ立っている間にも、地面を濡らす滴の量は徐々に増えつつあった。

 途方に暮れた状態でまだ弱い雨にさらされていると、カツ、カツ、というヒールがコンクリートをたたく音が背後から聞こえてきた。住宅街の道路の丁度ど真ん中に立ち尽くしていた私は、邪魔かと思い端に寄りながら何気なく後ろを振り返る。振り返った瞬間、

 冗談ではないか、と思った。

 そこにいたのは、先日風也の隣を歩いていたあの美女だったのだ。

 あまりにも驚きすぎて、涙も一気に引いていく。めいいっぱい目を見開いて、傘をさそうとそちらに意識を向けている彼女を、穴が開くほどじっと見つめていた。

 私の視線に気が付いたのか、傘の留め具を外したところで美女が顔を上げる。その瞬間、私は思わず感嘆の吐息をもらしてしまった。

 顎のラインが綺麗な小顔に、ちょっとつった大きな瞳。対して、小さく形の良い鼻と口。濃いめの化粧が施してあるが、きっとこの人は化粧なんかしなくたって人の目を引き付ける整った顔をしているんだろう。金のメッシュが入った明るい豪奢な茶髪は、おでこを広く開けてセンターから両側に流れ、ふんわりと顔を包むように覆っている。そしてその綺麗に波打った髪は、腰の辺りまで流れるように伸びていた。加えて、顔に引けを取らないモデルのようなスタイル。胸元が大きく開いた薄手の服にショートパンツをはいており、その露出度の高さがさらに抜群の肢体を際立たせている。
 全体的に妖艶な、大人っぽい雰囲気を漂わせた人物で、年齢は20歳かその1つ2つ上くらいに見えた。

 初めて彼女と正面から、しかも至近距離で対峙した私は、そのオーラと迫力に完全に圧倒されてしまっていた。

 そして驚いたことに、彼女は初対面のはずの私を指さして、予想外に豪快な声音で叫んだのだ。

「あーっ! おっ前亜弓じゃーん!!」

 その瞬間、艶っぽく美しい、そして大人の女性という彼女のイメージが、ガラガラと音を立てて見事に崩れ去っていった。

 ぽかんと口を開けて見つめるだけの私に、なぜか彼女はとてつもなくご機嫌な様子で近付いてくる。目の前まで来ると、ヒールのせいもあるだろうが、彼女がすらりとした長身の女性だということがとてもよくわかった。

「そっかあ……。お前ってもしかしてこの辺に住んでんの?」
「えっ、あ……風音、に住んでます。……ここどこか全くわからないんですけど」

 口にした途端恥ずかしくなって、慌てて目を伏せる。

 不思議と黒々とした嫉妬の感情は、それほど湧いてこなかった。おそらく目の前の美女から、真っ直ぐとした正直な感情しか伝わってこなかったからだろう。裏をこれっぽっちも感じさせない、言ってしまえば無邪気な声音と表情が、私の警戒心をほとんど解いてしまっていた。

 突然迷子発言をした私に、彼女はちょっと目を丸くしただけで嘲るような感情は一切見せない。

「風音だったらあっちに行けばすぐ帰れるぜ。ここ暁の風音側だし」

 それを聞いて、私は大いに安心した。風音と暁は隣町で、私の家はちょうど境界線近くに位置しているのだ。

 ライバルに頭を下げてお礼を言った私は、そこでうつむいたまま固まってしまった。突然迷いが生じたのである。風也のことを切りだすかどうか、ということで。

 不意に、今までパラパラと体に当たっていた雨粒がおさまったような気がして、私は目を瞬きながら顔を上げた。目の前の女性が傘を半分分けてくれていたのだ。

「あ、ありがとです……」

 正直驚いて小さな声でお礼を言い、私は思い切って話しかけてみた。

「あのっ、お名前聞いても……いいですか?」

 年上というだけで、体に緊張が生じる。しかし彼女は、にっと白い歯を見せて快く答えてくれた。

「そーいや言ってなかったな。アタシは月上有衣! 下橋に住んでる花の女子大生だぜーっ! まぁ年下の奴はだいたい“有衣ねーさん”って呼んでくるから、そう呼んで」

 堂々とした口調。迷いの無い声音。自分への自信に溢れているような、そんな女性だった。それなのに、全く嫌味には聞こえない。むしろこの豪快さが気持ちいい。

 やっぱり下橋の人かと思いながら、私も当然の行為として自分の名前を告げると、有衣はなぜかニヤニヤと楽しそうな笑みを口元に広げ、ひらりと手を振った。

「あぁ、知ってる。よ~く知ってる。顔もプリ見てたからバリバリ覚えてたし」

 ハッとして、ついさっき彼女が突然私の名前を呼んできたことを思い出す。そして同時に私は、「ん?」と首をかしげていた。今の彼女の台詞を幾度も頭の中で繰り返して、軽く眉をひそめる。

「どうして知ってるんですか……? てかプリって……」

 すると有衣は心底意外そうに目を丸くして、さらりと驚きの発言をしたのだ。

「どうしてって……風也に見せてもらったんだよ」

 あっさりと出てきてしまったその名前に肩がピクリと反応するが、それ以上に彼女の台詞自体が私の頭を混乱させる。

 普通、見せるだろうか。学校の女の子と撮ったプリクラを、付き合っている女の子に……。しかも“よく知ってる”と言うほど、話すだろうか。
 加えて不思議なのが、有衣の表情。すがすがしい笑顔全開の、裏の無い表情。怒りも嫉妬も、そういう感情が何一つ見えない。

 風也の行動が理解できなくて黙りこくってしまった私に、彼女はさらに頭を悩ませる発言をしてくれた。

「てか亜弓、お前メール返してやれよー。まぁアイツそんな強制する奴じゃねぇから即刻返せとは言わねぇけど、さすがにあんな返ってこないと具合でも悪いのかって心配するぜ?」
「……え?」

 ようやく掠れた声が漏れた。

 期待が、わずかな期待が心の隅に生じ、色を失っていた頬に赤みが戻ってくる。口元に運んだ右手が小刻みに震えた。

「あ、あの……っ」

 揺れる声で気を引くと、私は体中にたまっていた感情を吐き出すように、思い切って声を飛ばした。

「彼女じゃ……ないんですか……!? 風也、の……っ!」

 それを口に出しただけで目頭が熱くなる。ギュッと唇を噛んで涙をこらえながら、真っ直ぐに彼女を見た。

 今度は、有衣が黙る番だ。それこそ目を点にして固まってしまっている。
 待っていてもなかなか返事が返ってこないので痺れを切らして口を開こうとすると、同時に有衣は強く眉根を寄せて、戸惑いを隠せないといった風に顔を歪めた。そして突然ガシッと私の両肩をつかんで真正面から私を見すえる。彼女の手から、さびしい音を立てて傘が滑り落ちた。

「彼、女って……誰が!? ……アタシがっ!?」

 急に肩を強くつかまれた私は、心底驚いて彼女の焦りに満ちた顔を凝視した。勢いに押されて、こくこくと何度も頷く。

「ち、違うんですか!?」
「違うっ!!」

 彼女は一瞬たりとも間もおかず、はっきりとそう言い切った。

 思いっきり全力で叫ばれ、私は頭の中がフラッシュがかかったように真っ白になり、ついで一気に全身から力が抜けるのを感じた。持ち上げていた腕が、気が抜けたようにゆっくりと落ちていく。そしてさっきまで一生懸命こらえていた涙が、せきを切ったように流れ出した。本当にあの日から私は泣いてばかりである。
 有衣が唖然として見つめる前で、私は両手で顔を覆ってその場にしゃがみこんだ。隣に彼女も膝を曲げて、がたがたと震える背中を優しくなでてくれる。しかしその声は、酷く切羽詰まったものだった。

「なんでっ、……なんでアタシだと思った!?」

 私は促されるままに、この間見た光景を彼女に伝えた。風也と有衣が並んで歩いていたこと。とても親しそうで、うらやましいくらいにお似合いの2人だったこと。しゃくりあげながらだったので、ちゃんと通じたかはわからないが。

 すると彼女はおでこに手をやって、しまったという風に「あ~」と声を上げた。私は疑問符を浮かべて、涙でぬれた顔を彼女に向ける。有衣は本気で困ったという感じの途方に暮れた表情で、ボリュームのある髪をくしゃくしゃとかき回した。

「確かに仲は良いよ? よく遊び行くし。でもさ、そういうんじゃねーんだよ。なんつーかケンカ友達っつーか。……むしろ、姉弟(キョウダイ)みたいな?」
「姉弟……?」

 予想外の単語に思わず口をはさむ。対して有衣は大きく頷いて、

「そ、姉弟。まぁあっちはアタシのこと姉貴だなんてこれっぽっちも思ってないだろうけど」

にっと再び歯を見せる。

「とにかくアタシらお互い遠慮無しなんだ、良い意味でも悪い意味でもな。思ったこと、全部言っちゃうんだよ。……そのせいでケンカ友達っぽくなっちゃってるんだけど」

 ぽかんと口を開けて彼女の話を聞いていると、有衣は一瞬ためらうような顔をして言いにくそうに事実を告げた。

「……まぁ、元カノではあるけど。でもなんか恋人って感じじゃなくね?ってなった上に、周りからもカップルっぽくないって言われて結構すぐに別れたよ」
「カップルっぽくないって……」
「話してる感じからして甘い雰囲気じゃねーの、アタシら。見ればたぶんわかるよ。明らかカップルじゃねぇから」

 はぁっとため息をついて有衣は勢いよく立ち上がった。私もごしごしと目元をこすってゆっくりと腰を上げる。

 突然色々な話を聞かされて、頭の整理にしばらく時間がかかりそうだ。
 相変わらずパラパラと降っている雨が、私の感情を冷ましていくようだった。まだ呆然としている部分はあるものの、ここ最近の中では1番気持ちが落ち着いている。

 ぼうっとあらぬところを見つめる私に、ついさっきまでライバルだと思っていた彼女が、再び傘をかざしてくれた。そして励ますようにバシッと私の背中をたたくと、口端を釣り上げウインクをする。

「まっ、そういうことで、アタシは2人を応援してる側なんだぜ! いや、この前のことはマジ悪かったけどさ。ダチとしてのつもりだったから、完全に」

 嬉しすぎて口元が緩むのを押さえながら、私はふるふると首を振った。

「いえ、私の勘違いですから。それに、友達と遊ぶのもダメなんてさすがに言う気はないのです」
「マジで!? じゃあアタシ、ダチとしてなら遊んでもいい!?」

 私が頷いて、「でも私付き合ってないんで、こんなこと言う権利ないんですけど」と呟くと、有衣はガッツポーズついでにお腹を抱えて爆笑した。全身で笑うと言った方が適切なんじゃないかと思うくらい、大胆な笑い方である。
 それを見て私もつい笑みがこぼれてしまった。こんなにも人の目を惹く美女が大口を開けて遠慮なく笑い声を上げるなんて、誰が予想するだろうか。本当に、予想を壊すように覆してくれる人である。

 「ほんとお前らいつ付き合うんだよ―っ」と笑い混じりに言いながら、たっぷり1分。ようやく彼女の笑いの発作はおさまった。ちょっと名残が残っているが、乱れた息を整え、最後に大きく息をつく。
 それにしても、とどこか遠くを見つめて呆れたような声で言った。

「亜弓みたいないい奴泣かせて、ほんっとどうしようもねー奴」

 あはは……と空笑いで答えると、彼女は深く息を吸い込んで、

「マジ何してやがんだ! あンのバ風也――!!!」

ものすごい声量で叫んだ。

 “バ風也”という呼称についくすっと笑みをこぼしてしまった私の背後で、ザッと湿ったコンクリートの地面をこする音。

「ユウ、てめぇ全部聞こえてんだよ、ボケッ」

 耳慣れた声に、ハッとして思わず振り返る。

 そこに、絹のような金髪から滴を滴らせ、肩で息をした、紫苑風也その人が立っていた――