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作者/ 友桃 ◆NsLg9LxcnY



第7話『友を取り巻くモノ1』(5)



 ウィルのしなやかな銀髪が、印象的な蒼い瞳が、あてつけのように風也の視界に飛び込んできた。反則だろうと言いたくなるような距離を無視したその能力を、完全に失念していた。ウィルが亜弓の背後で、反動をつけるために右手を後ろに引いた瞬間、風也は血の気が引くような戦慄とともに、反射的にたたきつけるような声で叫んでいた。

「――伏せろ!!」

 言いながら、風也自身無理だときつく唇を噛んでいた。伏せろと言われて瞬時に従える人なんて、早々いない。強いてあげるとすればずばぬけた反射神経を持つ恵玲くらいだろう。

 ウィルの手刀が亜弓の首筋に吸い込まれていく。周囲から一切の音が消滅し、全ての動作が、ウィルの手の動きが、嫌にはっきりとスローモーションとなって目に映る。全身から、汗が噴き出した。

 ところが。
 そこでその場にいる誰もが予想だにしない事態が起こった。

 亜弓が風也の声に予想外の速さで反応し、伏せるのではなく弾かれたように後ろを振り返ったのだ。おそらく背後にいる人の気配も作用していたのだろう。彼女の目は驚きと戸惑いに見開かれている。
 結果、手刀が命中する寸前に、狙っていた位置が大きく横にずれた。ウィルの顔に走る色濃い動揺。首は下手なことをすれば命に関わる部分だ。痛い、じゃすまされない。風也の、恵玲の、水希の、何より手刀を繰り出すウィル本人の顔に、緊張が走った。

「――っ!」

 呼吸が、止まる。風也は扉の方に足を踏み出した体勢で、金縛りにあったように全身を硬直させていた。見開いた目も、握りかけで半端に開いた両の手も、片方が爪先しか床に触れていない足も、ピリピリと震えるばかりで動かない。のどの辺りを寒気が生じるほどに冷たい汗が伝って、彼は固まったのどで無理やり唾を飲み込んだ。

 ウィルの手は、首まであと薄皮一枚というところで止まっていた。小刻みに震えるほど力の入った彼の手に、全神経が注がれているのが傍目にも分かった。彼も、ごくりとたまった唾を飲み下す。そして周囲が時が止まったかのように静まり返る中で、細々と震えるような吐息をはきだした。
 どっと部屋の中に安堵の息が漏れる。相変わらずぽかんと口を開けているのは、今まさに危険にさらされていた亜弓だけだった。
 一方風也はというと、安堵の息をつくとともに、別の感情が胸の内に広がっていくのを感じていた。それは熱い、ふつふつと煮えたぎるように熱い、怒り。ウィルへの、不甲斐ない自分自身への怒りが体中を満たし、思考をも侵食していく。先程の一瞬ともいえる時間のうちに急降下していた体温が、今度は逆にじわじわと上昇していく。体中に熱が広がり、彼は指が食い込むほどに強くこぶしを握っていた。

 彼の充満な殺気をこめた視線の先で、ウィルがまだ動揺の残る声で呟く。

「キミ、反応早すぎるよ……っ。下手に動かれちゃ逆に危ないのに、――っ!?」

 皆まで言わせなかった。
 風也はまだ戸惑ったように固まっている恵玲を放って、考えるよりも前に床を蹴っていた。そして一気にウィルとの距離を縮めると、怒りにまかせてこぶしを振るったのだ。
 “テレポート”と口にする暇など与えなかった。風也は自分のこぶしがウィルの白い頬をこするように殴りつけるのを、スローモーションのように鮮明な画(え)で見つめていた。殴られた勢いでウィルの体が大きくかしぎ、体勢を保とうと一歩、二歩、彼の足が流れるように動く。そして彼は倒れるよりも前に真後ろの扉にぶつかるように手をついて、体勢を大きく崩しながらもどうにか倒れず自分の体を支えていた。銀髪が激しく揺られ弧を描くように広がった後、彼自身の顔を覆うように垂れ下がったところでようやく落ち着いた。


 全員の動きが止まったところで、部屋中に沈黙が流れた。触れればすぐにでも爆発してしまいそうな、重苦しく刺々しい緊張感に満ちた沈黙だ。やがてその沈黙に、風也のあからさまな舌打ちが響いた。
 本当ならもっと吹き飛ばすくらいに命中させたいところだったのだ。しかし当たる寸前にウィルが本能に任せてぐっと顔を後ろに下げたことで、直撃には至らなかった。それでも骨に響くようなしびれを伴う鈍痛が彼の頬を襲っていることに変わりはないだろうが。

 赤い頬を手で押さえて体勢をもどしながら、ウィルは眉を辛そうに寄せて唇をかむ。そんな彼に風也は低く殺気をこめた声で言った。

「さっきあの男が恵玲に約束したこと、忘れたわけじゃあねぇよなぁ」

 ――“亜弓に危害は与えない”

 風也の元々鋭い眼光を放っているつり目がさらに剣呑なものとなり、底光りするようだった。彼の純粋な怒りの感情が一気に膨張してそれが圧力となり、ウィルの心を押しつぶしていく。ウィルの顔には一切の余裕はなく、今後どう出るべきかを真剣に考えているようにも見えた。

 不意に、それまで痛みに潤む瞳で風也を苦しげに見返していたウィルが、息を吸い込むと同時に大きく目を見開いた。ウィルへの怒りに心を満たし全意識をそちらにやっていた風也は、眼前のウィルのその表情を見る瞬間まで、自分の背後に忍び寄る気配に全く気が付かなかった。
 弾かれたように背後に向かって意識を飛ばす。体内に巨大な氷柱が生じたように背筋を悪寒が駆け抜け、冷や汗が全身ににじみ出る。背後に立っているのが誰なのか、その人物が自分に何をしようとしているのか。そういったことを考えるよりもまず先に、驚くべき速さで体が反応していた。
 つまり風也は後ろを振り向きざま、目に見えぬ速さで回し蹴りを放ったのだ。それは空間を真っ二つに切り裂くような鋭い一撃だった。
 そしてその蹴撃が直撃する寸前、彼は背後に忍び寄っていた人物が誰なのかをようやく認識していた。元々激しく鼓動を打っていた心臓が、その瞬間さらに強く音を立てた。

 ――……天銀!?

 それは先程まで無気味なほどに何の動きも見せずに、窓際に無言で佇んでいたはずの、天銀。その不気味な男の底無しの無感情な瞳と目が合い、風也は一瞬強い寒気を覚えていた。

 風也の足が天銀の脇腹辺りをとらえるのと、天銀の冷たく細長い指先が風也の首筋に触れるのはその直後、ほぼ同時だった。
 天銀の長身があっけなく吹き飛び、無抵抗に幾度か床にたたきつけられた後、元居た窓際の辺りにうつぶせの状態で静止する。しかし数秒後、彼はすぐに片肘をついて身を起こそうとし始めた。上半身を起こしたところで軽くせき込んではいるが、それほど大きなダメージは無さそうである。
 それもそのはず。風也はその蹴撃に全力を込めてはいなかった。蹴りつける瞬間、天銀は完全に無防備な体勢であり、かつ恵玲のようにガードができる様子も全くなかった。そのため風也は、足を振り切らずに衝撃をかなり弱めていたのである。

 それに対して。
 風也は自分自身の身体に起きた明らかな異変に、戸惑いと焦りを隠せずにいた。

「な……っ」

 ――……なんだ、これ……っ

 先程蹴り飛ばす瞬間、自分の首筋にわずかに触れた天銀のひんやりとした指先。てっきりウィルのように背後から手刀をたたきつけようとして、それが不発に終わったのかと思っていたが、とんだ思い違いだったようだ。

 今や風也の視界はぐにゃりと大きく歪み、自分のいる位置すらまともに認識できなくなっていた。床が上にあるのか下にあるのか、いやそれ以前に自分の足はちゃんと地についているのか。世界がひっくり返ったような錯覚を覚え、当然ひどい吐き気が生じた。おぼつかない足元に焦燥感を駆り立てられながら、風也の頭の中は掻き回されたように混乱していく。

 ――……天銀の野郎、なにしやがった……!

 す……と意識が遠のいていく。霞がかかったようにぼんやりと虚ろになっていく思考。体温が体の中心から外へと広がるように急速に落ちていくのを生々しく感じ取って、信じられない思いで右手で額の辺りを抑えつけた。

 亜弓と恵玲が戸惑ったように自分の名を呼ぶ声が聞こえる。それに混じって頭の中に響く、先刻の白波の声。

 ――“天銀には気をつけろ”

 ――……ははっ、こういうことかよ

 自分が倒れたら亜弓が危ない。それが痛いほどわかっているというのに、天銀の謎の能力にあらがうことができなかった。あらがう術を、知らなかった。ただただ自分の身体から急速に力が抜けていくのを、痛恨の気持ちで受け入れることしかできなかったのだ。

 一瞬だけ、風也の口元にひどく自嘲気味な笑みがこぼれた。直後、それまでどうにか保っていた彼の意識は糸が切れたように途絶え、がくんと膝から力が抜けた。彼の細身の体がうつぶせに冷たい床に崩れ落ちる。
 意識を手放す直前、ゆっくりと床が迫ってくるのを不思議な気持ちで見つめながら、彼の頭の中を様々な後悔の念が駆け巡った。そして落ちる瞬間まで見ることはなく、彼の視界は一瞬にして隙間のない黒に染まっていた。