Veronica(ウェロニカ)

作者/ 朔 ◆sZ.PMZVBhw

◇Oz.18:Schneesturm(シュネーマン)-哀しきさゞめごと② 後悔、先に立たず- Part6

 頭部に衝撃が走る。
 目の前に星が鏤められ、ハッとした。

「痛っ……」
フリッグは頭を抑え、顔を上げる。いつの間にか眠りに落ちていたらしく、まるでそれを覚醒させるかのように本が落ちてきたらしい。狙いはフリッグの頭上、綺麗に定まっていた。

 無理矢理の覚醒直後でまだ意識がしっかりとしていないが、フリッグは取り敢えず立ち上がる。床に落ちた本を拾い上げた。が、探してもその本が落ちてきた本棚は無い。
「あれ?」
疑問を感じ、部屋の高所を見回す。が、やはり本棚など無く――いや、それ以前に棚など存在して居なかった。誰かが、ユールヒェンでも投げてきたのかと思い彼女の方を見てみるが、彼女は寝息を立てたままだ。まさか、離れた三人が投げたのかとも思ったが、そんなはずなど無いと思い、詮索を止めた。何気なく、落ちてきた本の表紙を見る。
「何これ?」
思わず疑問が口からこぼれた。本に表紙など無い。只褪せた無地の表紙があるだけだった。背表紙も同様である。ためしに中を開いて見るが、ひたすらに真っ白の頁(ページ)が続いているだけだった。

 ――戻す場所も無いので、仕方なくそれを手におさめ、寝息を立てるユールヒェンに目を一瞬やってからフリッグは階段を降りて行った。


 彼が出て行った後の部屋はやはり静かだった。物音も無い、いや、ただ唯一薄倖の少女が立てる寝息があるだけだ。その部屋の窓の向こう、同じ高さの民家の屋根の上で雪に紛れ、微笑を浮かべている人の姿があった。黒い眼鏡の奥にある、あどけなさの残る暗めの青い瞳が静かに民家を見つめていた。靡く白いマフラーが、降雪と同化している。
「間違えちゃった、かな?」
瞳の持ち主である、少女は目を細め呟く。
「"彼"はいないみたい」
そう残念そうに吐き捨てると、右手を出し、指を鳴らした。途端に彼女の手元に表紙も背表紙も無地の本が現れる。手元に落ち着いた本を手で撫でながらくすりと笑った。

「まだ、早いのかな」



* * *



「此処が君の部屋」

エイルはウェスウィウスに顔を合わせることなく、淡々と案内した。その冷たい後を、青年は追う。
「合鍵はこれ」
鍵を渡した手は冷たかった。冷ややかな手から受け取った鍵を、ウェスウィウスは少し眺め、ポケットに収めた。エイルの冷えた紫の双眸が、ウェスウィウスを静かに捉えている。そんな女性を、ウェスはなんとも言えない様子で見ていた。

 栗毛に紫水晶の瞳。南方のアースガルド王国の人間であろうか。紫水晶の目を持つのは、南方に多く住むアメジスト種特有のものだ。訳有りと聞いたので、何かあるのかと訊ねようとしたら、逆に訊ねられた。
「貴方はハーフみたいだけど、どちらがカーネリア種?」
胸の前で腕を組み、桃の唇の艶を光らせ、エイルは静かに訊く。ウェスウィウスは一瞬戸惑ったが、特に支障は無いと思ったので、律儀に答えた。
「父親が。帝国軍人で、永雪戦争中に母と出会い、それからまあ……」
「そう、そうなの」
意外にもエイルは端的に返すだけだ。ウェスウィウスは一瞬焦る。会話が途切れてしまいそうになり、彼女に訊ね返すのが難しく感じられたからだ。

 今訊ねるのはどうかと思いながらも、今しかチャンスは無いと思い、ウェスは思い切る。
「あ、貴女は……?評議員のフレイって人は訳有りとか言ってたけど」
「ああ……」
エイルは一瞬だけ眉をひそめた。しかめ面は直ぐに直ったが、あまり言いたそうではない雰囲気が漂っている。やはり気まずい質問をしたものだ、とウェスは謝ろうとした。が、謝罪の言葉より先にエイルが言葉を繋げる。
「ちょっとだけ大変な帝胤――――でね」
「ていいん?」
意味が解らない単語を繰り返して呟くウェスウィウスに、エイルは一瞬母性に満ちた微笑みを浮かべた。
「帝胤、王家の血筋ってこと」
それから女性はウェスウィウスに指で鍵を開け、中に入るように示す。それをしかと受け取ったウェスウィウスはポケットをまさぐり、取り出した鍵で扉を開けた。

 部屋内部にエイルがウェスを案内する。ソファが二つ置かれたリビングにウェスを誘い、微笑しながら彼を自分のとなりに座らせる。
「貴方とは、ちょっと違うけど」エイルが長い睫を、憂いを漂わせながら伏せた。「居場所が無い人間に変わりはないわ」
「そうか」
わからない事情に対し、出せる言葉は安易な相槌だけだった。

 途端に気まずい空気が漂う。無言のまま、物音もない空間が部屋にあった。二人隣り合っているが、その二人間には何か隔てるものが在る。しかし、どうすることもできないので、二人、ぎこちなく居座っているだけだった。ウェスは、彼女を帰るように言うのは不躾だと思い、なにも言えない。エイルも、此処で立ち上がって、去っていくのは相手に悪い印象を与えるだろうと思ってそのままだ。決して好意を抱いて貰いたいというものがあるわけではなく、単にそんな冷たい態度を取る自分がなんだか赦せなかった。今すぐにこの空気を払いたいのは共通だ。だが、同様に話題が無い。ウェスは此処で変に訊ねて気を悪くさせたくなかった。だからと言って、替える話題も浮かばない。仕方無く、やはり黙っていた。軈て、切らしたのかエイルは溜め息をつきながら、口を開いた。


「あのね――――、私、アースガルドの帝胤なのよ」


それを耳に入れたウェスは短い感嘆の声をあげた。目を見開き、女の横顔を確りと眼球に捉えていた。アースガルドと言えば、現在鎖国下に入っている南の大国、アースガルド王国だ。紫の目を持つアメジスト種だけが住まうとされ、外交を全く断っている国だ。更に、約千年前まで存在していた都ウィンディアと同時代に成立した、歴史のある国なのだ。アースガルド王国は未だに絶対王政で、王家の者が国王となり、政を行う。エイルはそのアースガルドの帝胤だといった。つまり、代々王位継承する由緒正しいアースガルドの王家――――アースガルズ家の血筋と言うことだ。そう。現在の国王オーディンが死んだあとに、王位を継承する権利のある人間と言うことなのだ――。

 ――史学の本にあった項目が、ウェスの脳内に自然と流れた。

 ついでに、数年程前に見かけた記事を結びつけて思い出す。確か、アースガルドの次期国王と見られていた筈の長男は暗殺されていた筈だ。
それから国内では、王位継承の権利を持つものの命が狙われているとの事だった気がする。そうとまで行けば、大体推測出来た。眼前の女性は、命の危険から逃げる為に態々帝国まで赴き、身を隠しているのだろう。推測が、ウェスの口から跳ねた。
「ああ、何年か前に長男が暗殺されて、それから次男だったかによる王族の暗殺が国内にあるって言うから帝国まで逃げて――……」
「違う!」
握りしめた拳をソファに減り込ませ、エイルは金切り声で拒絶した。女の形相が一転、赤くなる。眼からはまるで憎悪の様なものが滲み出ていた。エイルはウェスウィウスの胸倉を掴みあげる。華奢な女性ながら、力は強かった。
「そんな権利すら、無かった!」
唾を飛び散らせながら女は悲痛な訴えを青年にぶつけた。勿論、ウェスウィウスなど全く関係の無いことだ。唐突すぎるものに、彼は自分の発言が起こしたものだと感じ、その中で謝ろうとしていた。しかし女性は謝罪をさせる間すら与えない勢いだ。「悪い、悪かった」と心の中でいくら紡いでも、それらが外界に出そうにない。エイルはウェスウィウスを押し倒し、彼に馬乗りになりながら怒号を上げる。


「母は娼婦、娼婦だったの!身寄りも身分も無い様な、そんな女に国王が孕ませた子供よ。そんなモノが王家に入るなんて許される筈が無いじゃない!そんな、そんな――汚れた血なんて入れたく無いって、無いって言っているのよ!」

 今迄、作りあげられていた"外"の彼女が崩れ落ちた瞬間だった。紫水晶の瞳には、薄い涙の膜が貼られていた。それは、最後の砦の様に、決して涙を流さないようにと、必死に溢れる涙を止めているようだった。止め処無く溢れてくる涙を堰き止める為に最後の砦は、薄い膜は、彼女の最後の強がりにも見えた。初対面で此処まで触れても良いのかと思えるほどに、彼女はさらけ出していた。――あの評議員が仕向けたのは、意図があったのだろうか?

 ――ただただウェスウィウスは彼女の訴えを聞いていることしか出来なかった。馬乗りになり、悲痛な聲(こえ)を挙げているいる女を如何することも出来ないのだ。
「居場所なんて何処にも無かった。母親が梅毒で、助けを求めに行ったって、誰も相手してくれなかったもの……!入れてもくれなかったもの……!それで母さんが死んでも、あの男は顔色一つ変えなかった」
女性の泣き声が徐々にフェードアウトしていく。涙声に変わり、声は掠れ、やがて啜り泣きに変わった。涙の膜が弾け、堰きとめられていたものが一斉に流れ出たのだ。それでも彼女は砦を築こうとしたのか、手で目元を隠した。其処からこぼれた一滴が、ウェスの右頬に落ちた。涙は意外にも冷たかった。――何処か、自分と似ていると感じた。

ゆっくりと上体を起こし、彼女を腕の中に入れる。虚勢は消えていた。其処にあるのは、弱弱しい女の姿しか無かった。小刻みに震える小さな肩に触れ、泣いている彼女の前に居る事しか出来ない。それがすべき行為で無くても、だ。


 傍にいた。

 そのか弱い女性が、心を落ち着かせるまで、ずっと。




 この行為が始まりだった、後悔が先にあるなど、考えずに、
 ただ、ずっと。