コメディ・ライト小説(新)
■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)
- マーメイドウィッチ
- 日時: 2016/07/30 19:31
- 名前: いろはうた (ID: b4ZHknAo)
世界が止まった。
手が震える。
数拍のちに気付く。
私は大切な人に裏切られたのだと。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.65 )
- 日時: 2017/07/11 20:49
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
結局、チノはそれ以上何もせず、体を離すと
床に座り込むようにして仮眠を取り始めた。
一方のフレヤは、同時にあまりにもたくさんのことが起こりすぎて
その夜は一睡もできなかった。
一人で寝るには広すぎるベッドで、何度も寝返りを打った。
チノを好きだと自覚してしまった。
そのせいで、心臓がばくばくと脈打って、意味もなくそわそわして、
とてもではないが寝られるような状態ではなかったのだ。
とはいえ、明け方にわずかにうとうとしていたところを、
チノに控えめに揺り起こされた。
よろよろと立ち上がって、出発の準備をする。
鏡を見れば、目の下にはうっすらとクマができていた。
城にいれば、メイドのハンナたちがさっと化粧を施して
ごまかしてくれていただろうが、ここはそんな贅沢なものはない。
奔放にふわふわとはねる癖の強い青い髪を何度も撫でつけていたが
どうしてもいうことをきかないので諦めるしかなかった。
どうやら自分は少しでもチノに良く思われたいらしい。
このクマをどうにかできないものかと唇をきつくかみしめる。
急激なまでの心情の変化に戸惑ってしまう。
ぐしゃりと髪をかきむしった。
世界が色鮮やかに色づいたような錯覚。
鼓動は甘く跳ね、視線が追い求めるのはチノばかり。
よりによってこんな時に恋を自覚してしまうだなんて。
「フレヤ?」
「ひっ」
鏡の前で百面相をしていたら、
チノがおずおずと背後から声をかけてきた。
鼓動がひと際大きくなる。
さっとふりかえると、わずかに気まずそうな表情を浮かべた
チノがそこにいた。
ぶわっとうなじの毛が逆立つ思いだった。
強く瞬きをして、好きな人の姿を焼き付ける。
ああ、だめだ。
直視できないくらいに格好いい。
窓から見える暁を背に立っているチノの姿は、
ほれぼれするくらいに格好良かった。
「そろそろ合流の時間だが……フレヤ?」
怪訝そうな声にはっと我に返る。
ぶわわわわっと、顔が熱くなるのが分かった。
すっとチノの指が伸びてきて、フレヤは思わずぎゅっと目を閉じた。
かさついた感触が、そっと目の下のあたりを撫でてきて
びくりと震える。
甘い体温だった。
「……昨夜、やはり寝られなかったのか?」
わずかにかすれた声がささやくように言う言葉の一つ一つが
色気にまみれていて、あやうくその場にへたり込みそうになった。
(冷静に、いつも通りに……!!)
「あ、新しい枕に慣れなくて」
「おまえ、王女のくせに野宿も平気でこなせていただろう。
枕ごときで寝られなくなるはずがない」
背中を冷汗が伝った。
だめだ。
冷静になんてなれない。
意識のすべてを、触れてくるチノの手に集中させてしまう。
「おれのせいか?」
そっと目を開けると、チノがわずかにほほ笑んでこちらを見ていた。
緑の目がとろけるような甘さとほのかな熱を含んでいて、
もうその顔だけで、危うく気を失いそうになった。
いっそのこと、気絶できたほうが楽なのかもしれない。
「そうだといい。
おれのせいで、心かき乱されるおまえが見たい」
ふざけたことをぬかす好きな人の顔面を殴れたらどんなにいいだろう。
彼は突然視力を失ったのだろうか。
現在進行形で、フレヤはチノの一挙手一投足、全てに振り回されている。
こんなの自分じゃないとわめき散らしたいほどだ。
「もっとおれで乱れたらいい」
そうささやくと、チノは唐突に指を離した。
夢から覚めたような心地になって、まばたきを繰り返す。
何事もなかったかのように、てきぱきと荷造りを始めるチノを見て、
フレヤもあわてて自分の荷物に向かって歩き出した。
本当に、願望が生み出した夢でも見ているのかと怖くなって
軽く頬をつねると、鈍い痛みが走った。
歌の力でうまく宿の店主の記憶を操作し、数分後。
フレヤは、深く頭巾をかぶりなおして、シウを待っていた。
立っているのは、オスロ王国王都の朝市。
シウ曰く、人通りが多いところならば怪しまれにくいだろうとのことで
あえて朝市を合流場所にしたのだという。
こういうことには疎いからどうにもわからないが、
たしかに数えきれないほどの人がここには集まっていた。
朝日に照らされながら、人々は忙しそうに行きかっている。
青臭い野菜の匂いや、生臭い魚の匂いが漂ってきて、
生々しく民の生活の一端を感じた。
思わず、視線だけであたりの様子を観察してしまう。
山に囲まれている国なだけだって、海産物よりも
野菜などを売っている店のほうが多い印象を受けた。
海に囲まれたコペンハヴン国とはまた違っていて興味深い。
いや、いけない。
いつもの視察癖が抜けない。
今は人を待っているのだから、もう少し周囲に気を配らなければ。
「……待たせたな」
背後から声をかけられて、振り返ると、
平民の格好をしたシウが立っていた。
フレヤは、まばたきを繰り返した。
一瞬誰だかわからなかった。
いつもの黒衣の民族衣装ではないので戸惑ってしまうが、
彼は造形がよいため、何を着てもひどく似合っていた。
この人ごみの中からこちらを見つけられるのはたいしたものだと思うが
おそらくフレヤが逆の立場でもきっと同じことができるだろうと思った。
シウはどこにいても華があり、目立つ人だ。
だけどそれだけではなくて、もっと同族同士のつながりのようなもので
なんとなくどこにいるのか気配で分かるのだ。
シウの真紅の瞳が、ちらりとフレヤの背後に向けられた。
「番犬はどうした」
「ち、チノは犬ではないと言っているでしょう。
……少し離れたところで控えてもらっているわ」
名前を呼ぶだけで、動揺してしまった。
あきらかに挙動不審なのがシウに伝わっただろう。
しかし、シウは片眉を上げただけで何も言わない。
なんとかいつも通りに振舞おうと、フレヤは口を開いた。
「先に偵察に行っていた、あなたの軍の人たちとは連絡は取れた?」
「……おい、言葉を選べ。
聞こえたらどうする」
シウがひと際声を低くした。
はっとした。
軍、などと他の人に聞かれたらどうなるか。
目を伏せて、謝罪の言葉を口にした。
しまった。
軽率な行動だった。
ここにはどこに耳があるかわからないのだ。
「……なにかあったのか」
「いいえ」
さすがに様子がおかしいと思ったのか、シウが低く問いただしてきたが
フレヤはそっけなく否定の言葉を口にした。
しかし、内心ではいつも通りに振舞うので精いっぱいだった。
無表情を保つのに、これほどまでに苦労したことはなかった。
頬がひきつるのをなんとかごまかす。
シウはそんなフレヤの顔をじっと見ていたが、やがて息を吐いた。
「まあ、いい。
前に汝が言っていた通りにやるが……よいな?」
「ええ」
そう答えて、ちらりとシウの背後に視線を走らせる。
先ほどから、シウと似た気配を感じていた場所。
ひっそりと影の様に佇む、鴉天狗の一族、ヤワラがいた。
相も変わらず神聖な雰囲気を漂わせているが、
フレヤと目が合うと同時に、表情を変え、ギッと睨みつけてきた。
よほどこちらのことが嫌いらしい。
しかし、いくら嫌われようとも、彼の協力だけは仰がねばならない。
この誘拐計画で、彼は最も大事な役割を果たす予定の一人だからだ。
「何か変わったことはある?」
「ああ。
細かいことについては、場所を変えて話す。
ついてこい。
そのあとに……決行する」
シウはさっと踵を返すと、ツカツカと歩き出した。
フレヤは、チノたちがいるほうに視線を一瞬よこすと
シウの背を追った。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.66 )
- 日時: 2017/07/12 22:06
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
シウは背が高くて、存在感があるから、人が自然と彼の周りを避け、
彼はこの人ごみの中でも流れるように歩けていた。
一方のフレヤには、そんな派手な存在感などないので
人ごみの渦に巻き込まれて、なんどもよろめいていた。
これほどの人ごみの中を今まで歩いたことがないので
どのように進めばいいのか見当もつかない。
右側から強くぶつかられて、ぐらりと体が傾く。
すかさず伸びてきたがっしりとした腕に抱き留められて事なきを得た。
しかし、この腕は。
「ち、チノ……!!
離れた所にいてって言ったでしょう……!!」
声が上ずった。
カッと耳が熱くなる。
恥ずかしい。
今の言葉を全部消してしまいたい。
「だからといって、おまえがころぶのを黙って見ていろと?」
支えてくれていた腕がするりと離れてほっとする。
しかし、次の瞬間飛び上がりそうになった。
ごく自然な動きで、チノが手を繋いできたのだ。
驚きのあまり言葉が出なくなっていると、フレヤの手を取ったチノは
そのままスタスタと歩き出した。
「これでもう、ころばないな」
これではいつもと逆だった。
いつもはチノの手を取って歩いていたのはフレヤだった。
いまは大きな手がすっぽりと手を包み込んでいて、
柔らかく引いてくれる。
鼓動がうるさい。
なんだか悔しくなってきた。
どきどきしているのが自分ばかりで馬鹿みたいだ。
不意に先を行くシウがこちらを振り返った。
フレヤの隣にいるのチノに気付いたようで、目を細めている。
猛烈に恥ずかしくなってきて、手を離そうとしたのだが
チノの手からどう頑張っても手を取り返せなかった。
なかば引きずられるようにして、シウの所まで連れていかれる。
もはや公開処刑される罪人のような気持ちだった。
その日の一つ前の夜。
オスロ国王宮は、王の帰還に慌ただしい空気に包まれていた。
王妃の祖国でもあり、隣国でもあるコペンハヴン国に政治的介入という
名目のためしばらくは帰らないとだけ言い残し、
ステファン王はこの国を発った。
なにやら王権に不満を持つ平民たちによる革命がおこったらしく
危険とのことで、王妃は城に残ることとなった。
王による突然の出発だっただが、その帰還も唐突なものだった。
王妃、ヘレナは夫の突然の帰還にあわてて部屋を飛び出した。
急いで階段を下りると、ちょうどステファンが
外套を脱ぎ、近くにいたメイドに手渡しているところだった。
外は風が強かったようで、ステファンの陽光のような金髪は
乱雑に乱れていた。
「おかえりなさいませ」
早足でステファンのもとへ行くと、アイスブルーの瞳がこちらの
存在に気付いて瞬いた。
一瞬、氷のような炎のような激しいものが
ステファンの瞳をよぎってすぐに消えた。
彼はいつも通り、ふわりと笑った。
「変わりないようでよかった」
「おけがなどはございませんか……?」
「大丈夫。
貴女が心配するような怪我は何もしていない」
春の太陽の様に優しい笑みを浮かべる夫に、笑みを返して
ヘレナはふと気づいた。
夫の首に一筋の傷があることに。
ずいぶんと妙なところにある傷だった。
まるでナイフでも突きつけられたかのような傷。
どうして、そんなところにナイフで作ったような切り傷があるのだろう。
一瞬、疑問に思ったが、
その傷に滲む紅が、姉の瞳の色を思い起こさせ、疑問も霧散してしまう。
「あの、お姉さまとお父様は……」
その言葉をおずおずと口にすると、ステファンは瞳を曇らせた。
ヘレナは息をのんだ。
顔から血の気が引いたのが分かった。
その場に崩れ落ちてしまいそうになる。
「ヘレナ様、落ち着いて聞いてほしい。
フレヤ様は、革命軍のせいで民を守ろうと無理をしすぎた。
精神を病まれ、王に手をかけてしまわれた。
そのフレヤ様を、野蛮な異民族の男がさらってしまったのです」
想像していたよりもはるかに過酷な内容に、
ヘレナはこぼれおちそうなほど目を大きく見開いた。
父が、死んだ。
姉が父を殺した。
唇がわななく。
そうだった。
姉は聡明な人で、いつも民のことを考えて動く人だった。
彼女がこっそり王宮を抜け出して、
貧しきものに施しを与えていたのも知っていた。
その聡明さと誠実さが、姉を壊したというのか。
「そんな……嘘よ……」
「……残念ながら、これは真実だよ」
足から力が抜け、ふらついた所を、ステファンがさっと支えてくれた。
視界が明滅する。
言われたことをうまく呑み込めない。
父のことを失うかもしれないと、ずいぶん前から覚悟はしてきた。
前に、お見舞いに行ったときに見た父の姿は
もう長くはないだろうと一目でわかるほど衰弱していた。
しかし、父だけでなく、まさか姉を失うことになるなんて。
しかも、父を失う引き金となったのが姉。
「おねえさまは……」
「いまだに行方はわからない。
現在、手を尽くして探させてはいるけれど……」
「そう、ですか……。
……私は、お父様の葬儀に行かなくては……」
ぽたりと涙が目から零れ落ちた。
絨毯に吸い込まれていく透明な雫を見つめるが、
次々に目からこぼれ落ちて、止まりそうになかった。
ステファンにふわりと抱き寄せられる。
「今はまだ、コペンハヴン国の混乱は落ち着いていない。
葬儀への参列は、時期を見て共に行こう」
「はい……」
「許せないのは革命軍だ。
いつか必ず、貴女の父上と姉上の仇をうちにいくよ」
だからどうか泣かないでくれと、耳にささやきこまれるが
どうしても涙は止まらなかった。
胸の喪失感はどう頑張っても無視することができないほど大きく
そして決して埋められないものだった。
「部屋へ行こう。
ここは風が入るし、体も冷えるだろう」
穏やかな声に促されて、小さく頷く。
身体を離して、うつむいて歩き出したヘレナには
ステファンの表情は見えない。
「今はおつらい時期だから、もしかしたら姉上の、
フレヤ様の幻覚でも見るかもしれない。
だがそれは、フレヤ様の姿かたちをかたどった、悪魔だ。
……どうか、その言葉に耳を傾けることはないように」
うつろな目のヘレナにささやきこむステファンの顔は
ぞっとするほど美しい天使の皮をかぶった悪魔のようだった。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.67 )
- 日時: 2017/07/18 13:48
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
空が宵闇色に染まった。
フレヤたちは、王宮から少し離れた王都の森の中にいた。
夜の森は危険で、普通の人間は近づかないからだ。
先ほど合流したばかりの龍族のロンに頼み、千里眼を使って
王宮の様子を確かめてもらう。
今は、ロンが金色の目をギッと細めて遠くを見ている所だった。
「おまえに、似てる金髪碧眼の娘だよな?
……見つけたぜ」
「本当!?」
「部屋に一人だ、誰もいない」
「じゃあ、今が好機、ね」
瞳を伏せる。
あのステファンのことだ。
罠、かもしれない。
いや、十中八九罠だ。
そうでなければステファンが実質人質であるヘレナを一人になどしない。
しかし、たとえ罠だと分かっていても、やるしかない。
「鴉天狗一族の者は三人。
龍族のロンも空は飛べるが、こやつの千里眼で王宮の様子を見たいため
待機組としてここに残ってもらう。
ゆえに、人魚姫、汝と汝の妹を抱える者ら、
あともう一人だけ護衛役として連れていける」
「なら、おれが……」
「っ、か、カルトに来てほしい!!」
名乗り出ようとしたチノの言葉を遮るようにして言うと、
あたりがシンと静まり返った。
目を見開くチノとカルトの姿が目に入り、はっとしたが時すでに遅し。
チノの顔が一気に険しいものに変わり背中に冷たいものが流れる。
だが、彼が近くにいると落ち着かないし、自分が自分でいられなくなる。
絶対に計画を成功させるためにも、
チノにそばにいてもらうわけにはいかない。
理性がそう言っているのに、心はチノから離れたくないと叫んでいる。
顔をゆがめてしまう。
なんて感情だ。
全然いうことを聞かないし、思い通りにもならない。
その様子を、じっとカインが見ているのにも気づけなかった。
「まぁ、その男は鼻もきくし、体術もある程度はできる。
連れて行って損はないか」
顎に手をあててシウはそう言っているが、
フレヤとしては、視界に入ったカルトを適当によんだだけなのである。
しかし、そんなことを言っていられるような空気ではなかった。
恐ろしいまでの冷気を漂わせているチノのほうを見れない。
「まぁ、別にいいけど」
飄々と言うカルトに小さく礼を言う。
こちらの感情に巻き込まれたカルトはいい迷惑だろう。
しかし、そうでもしなければ平静になれないのだ。
「計画は、先に話した通り、今回は陽動などは使わぬ。
既に使った手ゆえ、城の警備は最大限に引き上げられているだろう。
だから、侵入したと悟られぬように、隠密行動に徹する」
「はっ」
シウの配下である、三人の鴉天狗の青年がさっと頭を下げた。
「ロン。
ヤワラたちに、王妃のいる部屋の位置を教えてやれ。
そろそろ行動を起こす。
王妃を救い出さねばな?」
そう言うと、シウはにやりと笑った。
まるで悪役の魔王のようなほほえみだった。
言っていることと顔がちぐはぐで思わず笑みがこぼれてしまう。
とはいえ、これからの道は険しい。
もしヘレナの誘拐に成功したとしても、王妃誘拐の罪は重い。
追手はさらに増えるだろう。
もし本当にそうなったら、シウの国に身を寄せるしかない。
それ以上に安全な場所など存在しないからだ。
不思議と心は凪いでいた。
シウから鴉天狗の者たちに視線を移す。
フレヤを抱えて運んでくれるのは、ヤワラだった。
彼はフレヤと目が合うと、嫌そうに顔をしかめながらも
こちらに近寄ってきた。
「おい、娘。
この私をこき使うなど万死に値するのだ。
シウ様のお言葉がなければ、貴様の存在など塵になっているところだ」
「塵にはなりたくないけど、礼を言っておくわ。
ありがとう」
いらいらと視線をさまよわせながら、ヤワラはフンと鼻をならした。
神経質なうえに、プライドも高く、思い込んだら一直線。
この扱いが難しそうな男を、シウは一体どんな手を使って手なずけたのか。
若干胡乱な目をシウに向けたとき、視界が突然揺れた。
遅れて、やや乱暴な手つきでヤワラに抱き上げられたのだと知る。
彼は非常に細身に見えたのだが、やはり異形の者らしく
身体能力は人間よりもはるかに高いようだ。
ばさりと何かが羽ばたくような音がして、はっと目を見開く。
ヤワラの背にある大きな羽がばさばさと動いていた。
フレヤの視線は、つややかに月光を反射する闇色の羽にくぎ付けだ。
「視線が煩いぞ」
「だって、綺麗なんだもの」
思わず正直な感想を漏らすと、フレヤは地面に落とされそうになった。
あわててヤワラの衣にしがみつく。
しかし、それは落とされそうになったのではなく
ヤワラの手が滑っただけなのだと気づく。
さらに信じられない異物を見るような目で見られた。
「な、なに」
「……神の使いたる鴉天狗の羽だ。
美しくて当然だろう」
ぶっきらぼうな口調だったが、先ほどよりも若干丁寧に抱えなおされた。
への字に折れ曲がっていた口も、口角が少し上を向いている。
羽を褒められたのがどうやらうれしかったらしい。
わかりやすい人だ。
そう思っていたら、体が突然浮遊感に包まれた。
宙に浮いている。
正確には、空中に浮上したヤワラの腕の中にいるだけなのだが
宙に浮いているような錯覚に陥る。
小さく悲鳴を上げたら、ヤワラは煩わしそうに眉をひそめて
うるさいとつぶやく。
しかし、空を飛ぶのは、そう何度もできる体験ではない。
フレヤは、ヤワラの衣にしっかりとしがみつきながらも
瞳を輝かせていた。
「それでは、シウ様。
行って参ります」
「頼んだぞ」
「はっ」
ヤワラはひときわ強く翼を羽ばたかせると、夜の空へと舞い上がった。
それに続いて、他の鴉天狗の一族とカルトも夜空へと飛び出した。
びゅうっと風が耳元でうなる。
夜風が少し痛いくらいに体をたたく。
風はひどく冷たくて、体を縮めた。
目をぎゅうっと細めて前を見つめる。
先ほどまでいた森がもう見えない。
林檎ほどの大きさだった城が、どんどん近づいてくる。
数か月前、妹の結婚式に参列するために訪れた城。
満月を背負ってそびえたつ純白の城は、今はどこか禍々しくさえ見えた。
ヤワラたちが一心不乱に飛び続け、目指すのは
城の最南端にある塔の最上階だ。
ヘレナの自室はそこだ。
一見、景色の良い、最も日に当たる温かく明るい場所を
王妃の部屋にしているように見える。
しかし、実際は王妃の部屋からは、入り口は一つしかなく
脱出には果てしなく長く狭い階段を下りねばならないし
外へと窓から逃げるには、塔はあまりにも高すぎた。
狡猾で計算高いステファンらしいと唇をかみしめた。
彼はいつもそうだ。
太陽のような、天使のような外見と物腰で
他人から疑いや恐れなどを抱かれぬようにし、油断させるのだ。
ステファンが、妹のことを本当に愛しているのかも疑わしいところだ。
ヘレナは、昔から天使のような容姿で、誰からも愛されるような
可愛らしい女の子だった。
人を疑うことなど知らず、良くも悪くも素直な娘だ。
早く、救い出さなければ。
「……もうすぐ着く」
ぼそりと言われ、はっと目を見開く。
城の敷地内に入ったのだ。
こちらは、はるか上空を飛んでいるため、
衛兵たちも大きな鳥か何かだと思ったのか、全く気付いた様子がない。
好機だ。
そう思ったのか、ヤワラの飛翔速度が上がった。
塔がどんどん近づいてくる。
塔の部屋にはバルコニーがついていて、
バルコニーへと出られる大きな窓がついていた。
やがて、一行は、バルコニーへとふわりと降り立った。
中の様子を伺うと、本当にヘレナ以外の誰もいないようだった。
彼女は、ネグリジェ姿で、椅子に座ってぼうっとしている。
美しい金髪の巻き毛がゆるやかに華奢な肩を流れ落ち、
愁いのある青い瞳は伏せられている。
なにか物思いにふけっているようで、こちらの存在には気づいていない。
手枷などの本格的な監禁状態ではないが、
実質、この部屋から出ることをそうそう許されてはいないだろう。
ちらりとヤワラやカルトたちに目線を送る。
彼らが無言でうなずいたのを見てから、フレヤは静かに窓をノックした。
ヘレナはわずかに身じろぎをしただけで、こちらを見ることはない。
空耳だと思ったのか、思考にふけりすぎて聞こえていないのか。
フレヤは、静かにノックをし続けた。
あまりにも大きい音だと、他の者に気付かれる可能性があるからだ。
やがて、ぼんやりとした表情で、ヘレナがこちらを見た。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.68 )
- 日時: 2017/07/19 16:28
- 名前: いろはうた (ID: d2uBWjG.)
青玉のような瞳に、徐々に驚きの色が広がり、
零れ落ちてしまいそうなほどに見開かれる。
ヘレナは、もつれる足で転がるようにこちらに駆け寄ってきた。
窓が一気に内側に開かれ、ふわりと温かい風が部屋からあふれてきた。
花の香りのような良い匂いが鼻腔をくすぐる。
続いて、ヘレナが突然抱き着いてきて、バランスを崩しそうになった。
咄嗟に反応できなくて、固まっていたが、
ふと妹の体が震えていることに気付く。
「お姉さま……」
フレヤはおそるおそる手を持ち上げて、ヘレナの背に回した。
あやすように撫でると、
こちらの肩に顔をうずめている彼女から嗚咽が漏れた。
ああ、そうか、と悟った。
彼女は、肉親を同時に二人も失いかけたのだ。
フレヤは目を伏せた。
誰かを失う痛みは、知っている。
それは、妹には味わってほしくなかった。
彼女には日の当たる温かいところで、笑っていてほしかった。
それを守り切れなかったのは、自分の力不足だ。
「夢ですか……?
私は、夢を見ているのでしょうか……?」
「……夢じゃないわヘレナ」
ぎゅうっとひときわ強く抱きしめられた。
そのあと、ヘレナはすっと体を離して、こちらを見つめた。
涙にまみれた美しい顔。
メノウと全く同じ顔なのに、この娘こそ私の妹だと感じた。
「わかっております。
あの、くそ王子がお姉さまを陥れたのですね」
ひゅう。
冷たい夜風のみがその場で音を立てた。
思考が一瞬停止した。
今、妹は、何と言った。
「……やはり、毒でも仕込むべきだったかしら」
フレヤは痛いほどまばたきを繰り返して妹を見つめた。
ヘレナは、眉をひそめて、ぶつぶつとまだ何やら呟いている。
花の蕾のような可憐な唇から出たとは思えない言葉が
聞こえたのは気のせいなのだろうか。
「……おい、娘。
話はあとにしろ」
重圧を背後からかけられて、フレヤははっとした。
そうだ。
なんとかして、ヘレナを説得して、ここから連れ出さなければならない。
一瞬、横に向けた視線を戻すと、すでにヘレナは据わった目をしていた。
「連れ出してくださいませ」
「……」
攫うのはこちらなのだが、ヘレナ自身に
攫ってくれと言われるとは予想だにしなかった。
わずかに困惑しながらもフレヤは、ヘレナを見つめた。
ステファンに洗脳か何かをされているのかと思っていたが、
これではむしろ、ステファンの本当の姿を知っているような態度だ。
迷った末に、こくりと頷く。
「ええ、一緒に――――――」
ギイィィ
軋んだ音を立てて、ヘレナの自室のドアが開いた。
カルトと鴉天狗の青年たちが殺気立つ。
フレヤは、すうっと顔から表情を消した。
ヘレナが振り向き、目を見開く。
「ステファン、様」
太陽神のような姿をした、美しい悪魔が微笑みを浮かべて立っていた。
その腕に、ヘレナと姿がそっくりな一人の娘を抱えて。
ステファンの登場はある程度予測はしていた。
むしろ、いつ来るのかと、扉のほうを伺ってしまったくらいだ。
しかし、彼の腕の中の娘がここに現れるとは少しも考えていなかった。
「……メノウ」
複雑な感情の入り混じる声で、カルトが娘の名を呟いた。
メノウは目を閉ざしたままピクリとも動かない。
血の気のない顔は、彼女を美しい人形のように見せた。
メノウは、気を失っているようだった。
「こんばんは、フレヤ様。
ヘレナ様、夜分遅くに部屋を訪れてすまない」
彼は、いつものように挨拶を口にした。
この状況では、それが逆にいびつに見える。
ステファンが一歩、部屋に足を踏み入れた。
彼は、一人ではなかった。
背後に、黒ずくめの人間が何人も控えていた。
「まさか夜に会いに来ていただけるとは思っていなかったもので
たいしたもてなしもできず、申し訳ない」
よく言う。
こちらの来訪を予測せずして、
どうしてヘレナの部屋にすぐに現れられるものか。
「私、ここをじきに去りますので、お気遣いなく」
「そうはいかない。
国王殺しと王妃誘拐未遂の罪を背負った元王女の貴女を
そうやすやすと帰すことはできない」
フレヤはギリリと奥歯を噛みしめた。
ふざけるな、と叫びたかった。
どの口がそれを言うのだ。
しかし、取り乱せばそれこそ相手の思うつぼだ。
必死に平静さを取り繕う。
「さぁ、ヘレナ様。
その方は貴女の姉上ではない。
狂気にとりつかれた姉上の亡霊だ。
早くこちらへ」
「……」
ヘレナは答えない。
無言でステファンを睨みつけている。
その手はフレヤの手を強く握りしめていた。
それが何よりの答えとなったらしい。
ステファンは笑った。
いつもの春風のような笑みではなく、毒を含んだ笑みだった。
がらりと、仮面がはずれたように、暗くて冷たいものが
ステファンの瞳に宿った。
「残念だ。
もう少し、頭が弱い娘だと思っていたのに
姉ほどまではいかないが、多少は聡いようだ」
フレヤはぎゅっとヘレナの手を握り返した。
何故、ヘレナがステファンの本当の性格を知っているのかはわからない。
しかしそれは後で確認すればいい。
今は、この状況をどう切り抜けるかだった。
メノウに視線をやる。
おそらく、ステファンの中での今回の人質は、ヘレナとメノウ。
ステファンが来るのが少し遅かったため、
ヘレナはこちらの手の内に渡った。
それでもメノウは向こうの手の内だ。
メノウに対して恨みや憎しみがないと言ったら嘘になる。
だが、彼女は、アルハフ族の者だ。
最初は、アルハフ族を救うために、彼女は奔走していたはずだ。
だけど、王である自分の父に対する恨みと憎しみを
ステファンに見抜かれ、利用されたのだろう。
「だけど、フレヤ様。
貴女はお優しい。
たとえ自分を陥れた者だとしても、見殺しになどできない」
反吐が出る。
優しくなどない。
正直に言えば、メノウなど殺してやりたい。
ステファンに利用された娘だとは言え、父王を殺させ、
国を混乱に陥れた張本人だ。
憎い。
自分が味わったのと、同じだけの苦しみを与えたい。
だけど、それでも、彼女は恩のあるアルハフ族の娘だ。
アルハフ族の呪術師の孫娘だ。
(あのこを……どうか救ってやってほしい)
トンガの言葉が脳裏をよぎった。
横目でカルトの様子を確認すると、
彼は今にもステファンにとびかかってしまいそうな自分を
必死に抑えているようだった。
それは、前に一族を人質に取られた恨みだけの怒りではなさそうだった。
言葉で何と言おうと、
カルトはメノウのことをまだ仲間だと思っているのだ。
ステファンの言うとおりだ。
見殺しになどできない。
「その娘は、私を陥れた娘よ。
殺してやりたいほど憎いわ。
どうしてそんな娘を私が命を懸けて助けなければならないの」
だから冷たく言い放つ。
まるでメノウのことなどどうでもいいように見えるように。
ステファンには、こちらの考えていることを
できるだけ悟られないようにしなければならない。
それに、まだメノウとステファンはつながっているかもしれない。
メノウが気を失っているふりをしている可能性もある。
あらゆる可能性を考慮し、慎重に、
かつ迅速に行動を起こさなければならない。
「動かないでほしい」
殺気立つカルトを見てか、
ステファンが腰に差してあったサーベルを抜き放ち
動かないメノウのむき出しの首に突き付けた。
真っ白な首筋に、銀光を鈍く放つ刃が、
肌に触れるギリギリまで近づけられる。
フレヤは表情を変えないように努めた。
フレヤたちが誰も動けなくなったのに対して、
ステファンの背後に控えていた黒装束の者たちが
じわりと影のように動いた。
フレヤは、意を決して、ヘレナの手を放し、前に一歩進んだ。
とたんに、ステファンがサーベルに込める力を強くした。
反射的に歩みを止めてしまいそうになるが、さらに一歩進む。
ここでは、メノウのことなどどうでもいいという
態度を見せなければならない。
少しでも隙を見せたら喉笛を食いちぎられてしまいそうな緊迫した空気。
汗が背中を流れ落ちるのを感じた。
ステファンは、王でもあるし軍人でもある。
あのような柔和な物腰に惑わされてしまいそうになるが、
剣の扱いだって慣れている。
一瞬だってステファンはこちらへの意識を途絶えさせていない。
この距離だと、カルトの瞬発力でも、
ステファンのサーベルを跳ね飛ばすには至らない。
一瞬でもいい。
ステファンの意識をこちらにそらすことができたら。
「ステファン様。
私の歌の力、ご存知ですね?
私はその娘のことなど心底どうでもいい。
私たちを安全に退かせてくれる確証が得られなければ
私は……歌うわ」
強くステファンを見つめると、彼は片眉を上げた。
彼が何を考えているのか全く読めない。
そもそも、何故このようなことをするのか真意がわからない。
「それはおかしい。
あなたの目的が退却ならば、ここをさっさと去るべきだ。
何故、部屋に足を踏み入れた?」
「……っ!!」
思わず顔色を変えてしまった。
唇をかみしめる。
駆け引きなど、慣れていない。
それもステファンが相手だと、あっさりと看破されてしまった。
思考だけがめまぐるしく頭の中で渦巻いている。
今は自分の命だけでなく、みんなの命も背負っている。
誰も失うわけにはいかない。
突然どさり、とメノウの体が床に投げ出された。
床に転がってもうめき声一つ上げないところを見ると
本当に気を失っているようだった。
ステファンの行動がわからず、眉をひそめると
彼は微笑みながら言った。
「私も、この娘のことはもう必要ない。
ただの使い捨ての駒に過ぎない。
フレヤ様、貴女を繋ぎとめられるものだった別に何でもよかった」
ステファンの言いたいことをなんとなく察してしまい、
唇をかみしめた。
今までの言動をかえりみれば、おおよその見当はつく。
「等価交換といこう。
メノウを渡そう。
その代わり、フレヤ様、貴女はここに残るんだ」
やはり、と息が漏れそうになる。
なぜかはわからないが、ステファンの目的は、フレヤだ。
どんなに考えても、意味が分からない。
今まで数度、この男に殺されかけた。
そういえば、地下牢を襲撃した時も、
ステファンはこの身を欲していた。
この歌の力が目的なのだろうか。
いや。
それだったら、話す言葉で人を意のままに操れる
メノウも似たような能力を持っている。
だけど、ステファンはメノウのことを使い捨ての駒だと言い切った。
しかし、あの目は嘘を言っているようには見えない。
では、何が目的なのか。
「ふふ。
私の目的が何か、考えている?」
言い当てられて、ぐっと言葉に詰まる。
無言を貫き通すと、ステファンは笑みを深くした。
「無言は肯定の証。
貴女がここに残った暁には、教えてあげよう」
まるでこの場所にフレヤしかいないかのように
ステファンは楽しげに話す。
妻であるヘレナは視界に入っていないような振る舞い方に
フやはり二人の間に愛などなかったのだと知る。
「さぁ、フレヤ様。
こちらに来てくれ。
ああ、歌おうなどと変な気は起こさないでくれ。
メノウを殺さねばならなくなる」
柔らかな口調で物騒な言葉を吐かれ、
フレヤは唇をかみしめるしかなかった。
強くかみしめすぎたのか、鉄の味が口の中に広がる。
たとえ、フレヤがステファンのもとにいったとしても
彼がメノウを殺さない確証がどこにあるだろう。
あの冷徹な目は、用済みの駒を始末することに何の抵抗もない目だ。
フレヤは、意を決してステファンのほうに歩きだした。
背後から口々に行くなやらなんやらと叫ばれるが
今のこの状況では振り返ることすらできない。
やがて、ステファンのすぐ前までたどり着くと、足を止めた。
「さあ、お手を」
ステファンが白手袋に包まれた手を差し出してきた。
少しの逡巡ののち手を持ち上げて、載せようとする。
「――――――ふざけるな」
せわしなく耳元でささやかれた後、
目の間にいたステファンの体が壁にたたきつけられていた。
突然のことに思考が追い付かない。
次の瞬間、背後から荒っぽく腰を掴まれ、抱きあげられる。
悲鳴すら上げられなかった。
嘘だ。
この声は、今ここにいるはずのない人の声だった。
意図的に遠ざけようとした人の声。
「ち、の」
どうやってここに来たのか。
ギッと至近距離で殺気を込めて睨みつけられ、フレヤはすくみ上った。
金色の目だった。
狼の目だ。
満月の夜だけでなく、怒りのようなものが上乗せされて
さらに狼としての本能が強く表に出ているようだった。
「……本当にいっそ殺してしまいたい」
明らかに助けに来てくれた好きな人から、本気の殺意を告白されて
フレヤは目を白黒させた。
なぜかその視線が唇のあたりに集中したかと思うと、
思い切り舌打ちされた。
びくりと震えた瞬間、ぐいっと顎を掴まれた。
何をするのかと目を見開いたら、チノの顔が近づいて来るのが見えた。
「なにすっ……!?」
べろりとなめられた。
唇を。
ザラリとした湿った感触が唇に残る。
「おまえは血の一滴までもおれのものだろう?」
世界が遠ざかる。
傲岸不遜な言葉すら遠い。
危ない。
気を失いかけた。
見れば、フレヤの唇についていた血が
チノの舌を真っ赤に染め上げていた。
その舌で官能的にぺろりと唇をなめている姿は
発情したケダモノのようで、
フレヤは頭のてっぺんから足のつま先まで真っ赤になった。
気絶したい。
全力で気絶してしまいたい。
誰か、みぞおちに一発見舞ってくれないだろうか。
「行くぞ、てめえら」
誰だおまえはと問いただしたくなるほどの豹変っぷりだった。
カルトは慣れているようで、何事もなかったかのようにメノウの体を
回収しているが、鴉天狗の青年たちは一様に唖然としている。
ヘレナなんかはわなわなと震えすぎて言葉すら出ない状態だった。
「ひゃっ」
チノがフレヤを抱えたまま、勢いよく駆けだしてバルコニーに向かう。
バルコニーの手すりにのぼり、強く蹴ると夜の闇へと躍り出た。
一瞬の浮遊感の後、すぐにチノは着地をした。
着地したのは、巨大な蛇のような長い体。
キラキラと輝くうろこが月光を反射している。
龍族のロンが龍化した姿だった。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.69 )
- 日時: 2017/07/20 12:39
- 名前: いろはうた (ID: d2uBWjG.)
振り返れば、ヘレナとカルトはそれぞれ鴉天狗の者に
抱きかかえて運んでもらっており、
ものすごく嫌そうな顔でヤワラがメノウの体を抱え上げているところだった。
「……逃すな」
地を這うように低い声でステファンが命じると、
黒装束の者たちが一斉にヤワラに飛びかかった。
その動きは人間のものとは思えないほど速かった。
一瞬でヤワラとの距離を詰めてしまうほどに。
「くっ……!!」
ヤワラが顔をゆがめて、腰の剣を抜き、応戦した。
しかし、多勢に無勢。
しかも片腕にメノウを抱えている状態だ。
すぐにバルコニーの淵まで追い詰められてしまう。
カルトが助太刀しに行こうするのを、鴉天狗の青年が
必死に羽交い絞めにして止めていた。
フレヤは、それを見て迷いなく息を吸い込んだ。
『―――――――――ッ』
それは、音にならない叫びの歌だった。
これは、人間であれば、一瞬で意識を失ってしまうほど
強く精神に影響を及ぼしてしまう歌。
しかし、少しして、フレヤは愕然とすることになる。
黒装束の者たちが動きを止めていない。
歌が効いていない。
そして、人間であり、この歌の影響を最も強く受ける者のはずの
ステファンがゆらりと立ち上がった。
唇の端に流れる赤い血を拳でぬぐう姿すら見る者に気品を感じさせる。
「フレヤ様。
あなたの武器である歌は私には効かない」
ビッとヤワラの剣先が黒装束の者の覆面をかすめた。
はらりと覆面が取れて、その者の姿が月光のもと露になる。
とがった耳。
青白い肌。
アイスブルーの瞳。
月光を反射する白銀の髪。
ぞっとするほど整った造作。
まさか、そんなまさか。
「ダーク、エルフ……」
言葉が勝手に唇から漏れ出た。
物語で何度か見たことがあるのだ。
闇に堕ちたエルフの一族。
その心は生まれ落ちたときから、
人間を憎み、支配することしか考えていない。
その声に反応したのか、ダークエルフがこちらを見た。
まるで温度のないまなざし。
どこかで見たことがある。
あの瞳の色。
「気づいてくれた?」
無邪気さすら感じさせる笑みを浮かべて、ステファンがこちらに近づく。
そう。
ステファンの瞳と同じ色なのだ。
この国は、ダークエルフの国だっただろうか。
いや、違う。
民は、みんな人間だった。
宿屋の主人も、食堂の女将も、みんなフレヤの幻惑の歌の力が効いた。
では、これは一体どういうことなのだろう。
「チェンジリング、という言葉をご存知だろうか」
聞きお覚えのない言葉に、眉を顰める。
その様子を見て、またステファンは笑みを深くした。
「妖精の取り換え子というものだ。
ただ、私の先祖が、それをダークエルフにやられただけだ」
つまり、ステファンは純潔のダークエルフの子孫だというのか。
しかし、それにしては、あまりにも人間に容姿が似すぎている。
「……その髪と耳は人間のものに思えるのだけど」
「さすがに血は薄まるのでね。
何度も人間との交わりを果たしたせいで、
見た目は人間と大差がなくなってしまった。
なんて……汚らわしい」
笑顔で吐き捨てられた言葉。
どす黒いものの混じるそれに、顔をゆがめる。
どうやら、ステファンは純潔を尊ぶ性格のようだった。
人間の血が多く混じる己の身を疎ましく思っているようだった。
「……ここにいろ」
突如チノがそう囁くと、龍の背の上を器用に駆けだした。
それを見計らったかのように、ヤワラが宙に向かって
メノウの体を投げる。
弧を描いて落ちるその体を、絶妙なタイミングでチノが受け止める。
両腕が自由になったヤワラは、剣で強くダークエルフたちを薙ぎ払うと
宙に飛び上がった。
すかさず、紫がかった黒い魔力の塊を投げつけられるが、
ヤワラはそれをひらりとかわし続けている。
「もうこの際、話してしまおう。
私の目的は、私が人間どもの王として君臨すること。
そしてより強い子孫を残し、この地位を確固たるものにすること」
「……人間たちを奴隷にするとでもいうの」
「さすがフレヤ様。
察しがよくて助かる。
彼らは、ただの奴隷や家畜と同じような存在にすぎない」
自分の国の民を貶めるような言い方をされ、
フレヤは顔をゆがめた。
冷静でいたいのに、心がマグマの様にふつふつと怒りを蓄えていく。
「だから、貴女が必要なんだフレヤ様。
貴女と子を成したい。
貴女は、ただの人魚の子孫ではない。
闇の眷属たる人魚の魔女の末裔だ。
貴女の人魚の魔女としての血が、
我が子孫に強い魔力を宿すこととなるだろう」
「私を何度も殺そうとしたじゃない」
「そうだね。
兵たちの前で王女は死んだ、と見せつける必要があった。
それに初恋の人から殺されそうになれば、
絶望してくれるかと。
絶望は魂を堕とすのにふさわしい感情だから」
フレヤはきつくステファンを睨みつけた。
全て、試されていたというのか。
「私は、あなたに屈したりなんかしない。
人を、奴隷のように扱ったりなんかしない」
「そうだね。
貴女の魂は、闇の眷属の者なのに、純粋で清廉潔白だ。
どこまでも私を楽しませてくれるから、
どうすれば堕ちてくれるのか、色々試してみたよ。
貴女の妹姫に乗り換えてみたり、父王を殺させてみたり」
「私は、乗り換えられてなんかいないわ。
胡散臭そうな顔で、お姉さまに近づくから、
私が身代わりとなっただけよ」
忌々しそうに吐き捨てるヘレナの顔を驚きとともに見つめる。
彼女は、ステファンの本当の姿にとっくの昔に気付いていたのだ。
フレヤはその時溺れるように恋をしていた。
少しも気づけなかったステファンの本性に、
ヘレナはひそかに気づいて姉を守るために動いていたのだ。
守ろうとしていた妹に、守られていたのは自分だったのだ。
「ふふ。
まさか君に気付かれているとは思わなかったけど、ヘレナ様」
「……死んでしまえばいいのに」
おおよそ妹の口から出たとは思えない言葉の数々に
フレヤは人知れず打ちのめされていた。
ヘレナは少し間の抜けた愛らしい少女だと思っていた。
どうやら、思っていたよりもずっと強かな娘だったようだ。
「でも、やはり、貴女の魂は堕ちない。
どんなに裏切られても、むしろその魂の輝きは増すばかりだ」
だから、とステファンは言葉をつづけた。
冷たいアイスブルーの瞳。
そくりと背筋に悪寒が走る。
「貴女の大切なものを、順番に壊すのを続けていくよ」
目を見開いた。
大切なもの。
日常。
父親。
地位。
全部失った。
まだ、これ以上何かを失うというのか。
まだ、これ以上奪うというのか。
「近々、我がオスロ国は、コペンハヴン国と戦争を起こす」
ぎゅうっとこぶしを強く握った。
顔色の変わったフレヤを見るのが嬉しいらしく、
ステファンは楽しそうだ。
「王や指揮官のいないコペンハヴン国に、まず勝ち目などない。
貴女の国の民は、我が国の捕虜となり、奴隷へと身を落とすこととなる」
ぎりりと奥歯を噛みしめた。
怒りのあまり目の前が真っ赤に染まった。
「私が目的なら、私に直接手を下したらいい!!
何故、民にまで!!」
「こうでもしないと、貴女の魂が堕ちないからだ。
闇に堕ちた魂ほど、純粋な魔力を秘めているから」
ステファンがどこかうっとりと見つめてくる。
氷を炎で包んだようなまなざしに、背筋が震えた。
狂気に触れる一歩手前の恋情のようだった。
「貴女の魂が闇に堕ちたとき、それは美しい魔力を紡ぐだろう。
私は貴女の魂に恋をしているのかもしれない」
睦言を紡ぐようにステファンがつぶやくと、
彼はさっと手を上げた。
途端にダークエルフの者たちは、魔力での攻撃を辞める。
「今宵は逃がして差し上げようフレヤ様。
だけど、忘れるな。
貴女は、私だけのものだ。
私の妃に最もふさわしい唯一の娘。
いずれ、また会うこととなるだろう。
それが、貴女の最後の自由だ」
楽しむといい。
そうつぶやくとステファンはバルコニーから部屋の中へと戻っていく。
ダークエルフ達も影の様に彼についていった。
静寂が落ちる。
これも罠なのではないか。
そう思って、神経を張り巡らせてみるが、攻撃の気配はない。
本当に逃がすつもりのようだった。
Page:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20