コメディ・ライト小説(新)
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- マーメイドウィッチ
- 日時: 2016/07/30 19:31
- 名前: いろはうた (ID: b4ZHknAo)
世界が止まった。
手が震える。
数拍のちに気付く。
私は大切な人に裏切られたのだと。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.55 )
- 日時: 2017/05/03 18:59
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
時は数日前にさかのぼる。
彼はうめきながら目覚めた。
この容赦ない一撃。
姿は見えなかったがカルトのものだった。
気を失ったのは数刻ほどだろうか。
身体を動かそうとして、両手がぴくりとも動かないことに気付く。
目を開くと、呪術師のトンガの顔が真っ先に見えた。
手首に食い込む縄の感触。
縛られているのだと悟る。
「……トンガ。
縄を外してくれ」
「悪く思うなチョルノ。
これも我が一族のため。
こうでもせんと、おまえはあの娘を死に物狂いで追うだろう。
おまえも、わかっているだろう」
奥歯をかみしめる。
言われなくとも自分がすでにおかしくなっているのはわかっていた。
この焼けこげるような焦燥感が何よりの証拠。
もう、手遅れなのだろうか。
「……きたね、馬鹿孫が。
チョルノの縄を解いておやり、お前たち」
傍で見守っていたアルハフ族の仲間たちに、
声かけながら、トンガは前を見つめている。
スッと目を細めた。
この気配。
かなり大きな隊が馬に乗ってやってくるかすかな振動を
耳がとらえたのだ。
行動を起こす間もなく、すぐに馬に乗った近衛兵たちの姿が見えだした。
その先頭にいるのは、トンガの孫娘、メノウだった。
「安心おし。
女子供は既に逃がしてあるよ。
予知であのこが来ることはわかっていた」
わたしらは囮だよ、と苦々しげにつぶやくトンガの声音には
わずかながら悲し気な響きが混じっていた。
いまだにメノウが一族に帰ってくるのを待っているのだと悟る。
表面では切り捨てても、心の奥底では、待ってしまう気持ちを
殺しきれていないのだ。
手首をさすりながら立ち上がる。
ちょうどメノウが馬を止め、ひらりと地面に降り立ったところだった。
身軽な動きは、一族にいたときとほとんど変わらない。
「ひさかたぶりね、ばばさま」
鈴のなるような人を魅了する声も何も変わらない。
少し首をかしげてほほ笑む癖も何も変わっていない。
さらりとした金髪が肩を流れ落ちる。
抜けるような白い肌。
誰が、メノウをアルハフ族の血をひくものだと気づけるだろう。
ただ、その緑の瞳だけが無機質に輝いていた。
この娘、メノウが一族を抜けたのは一年と少し前のことだった。
あの時もこんな風に、綺麗に笑っていた。
メノウは、彼女自身が話していた通り、アルハフ族の呪術師だった。
呪術師のトンガの孫で、母親は幼い時に無くしていた。
彼女の見た目は、アルハフ族の中では異質なものだったが、
呪術師と言う力を持つ立場であるのと、
メノウ自身、人心掌握術に長けていて、孤立することはなく
むしろみんなから慕われていた。
その霊的力を武器に、彼女も一族を守るために立ち上がった。
最初は、アルハフ族をこの王国の民の一部にしたいという
一つの強い意志のもと行動していたはずだった。
しかし、ある日を境に、彼女の笑みは今の様に無機質になった。
なにか原因があるのだろうが、彼女はかたくなに話そうとしなかった。
そして、その日は訪れた。
アルハフ族の戦士たちとメノウの先導に従って、
森を抜けようとしたときだった。
王が現れたのだ。
狩りのために森に入ってきているようだった。
メノウの表情が変わった。
王を殺しましょう。
そうすれば、我らアルハフ族も安泰でしょう。
夢見るようなほほえみを浮かべてメノウは言った。
信じられなかった。
メノウは命を奪うことを嫌う娘であったはずなのに、
知らぬ間に違う人間のように変わってしまった。
馬鹿なことを言うなとののしると、彼女は一瞬無表情になった。
ありとあらゆる感情をそぎ落とした顔だった。
そして、次の瞬間浮かべたのは、笑みだった。
じゃあ。
あなたが死ねばいい。
メノウは叫んだ。
メノウの声はよく通る。
王たちはすぐにこちらに気付いた。
そして、近くにいる人影たちがアルハフ族の者たちだとわかると
その青い瞳に残忍な色を宿らせた。
このままだと殺されてしまう。
ここは自分が囮となって、仲間を逃がすことを決意した時には
メノウの姿はなかった。
あの後、メノウの館で目にするまで、彼女とは一度も会わなかった。
そして、その存在が目の前にいる。
自分とアルハフ族の仲間を危険にさらし裏切った娘。
その目的は、あの時は王への復讐。
今は、王女の復讐を完璧に果たしに来たのだろう。
メノウの近くの馬に乗っている、マシューとエリッシュの
焦点のあっていない瞳を確認する。
やはり、あの呪術師としての術と特殊な声を使って
彼らの意識を操っているのだ。
元王女のフレヤがいたアルハフ族の居場所を吐かせたのだろう。
どこまでも卑劣なことをする。
もはや手段など選んでいるようではなかった。
ざっと見た限り、兵の数は多くない。
おかしい。
聞こえてきた馬の足音と数が合わない。
はっとして後ろを見ると、馬に乗ってステファン王とその配下が
大量の馬に乗って現れたところだった。
囲まれた。
「……あの女の匂いが少しだけ残っているけど、ここにはいないわね」
メノウは目を閉じながらそう言った。
アルハフ一族は、身体能力が高い。
それはメノウも同じことだった。
一瞬でそのことがばれ、眉を顰める。
やはりメノウの目的は、フレヤだ。
メノウとステファン。
この国の革命軍の長と王。
この二人が出てこなければならないほど、
フレヤは重要な存在だということか。
兵の数を確認する。
いくらアルハフ族の精鋭たちがそろっているとはいえ、この数は厳しい。
メノウを睨みつける。
殺意すら込めたのだが、彼女は少しも動じなかった。
「メノウ、堕ちたな。
仲間を売るなど畜生以下のすることだ」
「私は、目的が果たせるのならば獣にもなるし
地獄にも落ちて悪魔に魂を売り渡す」
そう言ってメノウは笑った。
日が暮れるころに三人は王都についた。
途中何度も王都の兵たちに遭遇しかけたが、
カルトのよくきく耳と鼻の力でほとんどを回避した。
不意を突かれてはちあわせすることになったとしても、
シウの相手を思い通りに操る目の力で事なきを得た。
王都の町は、夕日に包まれてオレンジ色に輝いてた。
馬車を業者の者に引き渡すカルトを待つ間に、
瞬きもせずに王都の様子を眺めた。
フレヤは唇をかみしめると、フードを痛いくらいに強くかぶりなおした。
胸に生まれるのは切ないほどの懐かしさと、さすような痛み。
今やここは、慣れ親しんだ王国ではない。
敵国に等しい。
王都に近いせいで、元王女たるフレヤの姿を目にするものも多かったはずだ。
前よりも慎重に行動しなければならない。
「また酒場に行くの?」
カルトが戻ってきたのを見ながら小さく尋ねる。
彼は肩眉を上げた。
アルハフ族捕縛の情報を受けて、
もっとショックを引きずっているかと思ったが、
そうでもなさそうに見える。
「わかってきたじゃん。
おれは、アルハフ族の情報を中心に集める」
「我は情報収集などどうでもよい」
我か関せずという態度を終始一貫して貫くシウに眉根を寄せるが、
仕方がない。
彼は、部外者と言えば部外者だ。
「私は、王妃とアルハフ族、両方に関しての情報を集める」
自分に言い聞かせるように言うと、カルトが笑った。
なんだか幼子をみるような生ぬるさがまなざしに宿っている。
「言うようになったじゃん」
馬鹿にされている気がする。
失礼な男だ。
しかし、身体能力がどれもカルトには遠く及ばないというのも
事実と言えば事実だ。
そんなやり取りを交わしながら、王都で一番大きい酒場、
『夢見るカラス亭』に入る。
酒場はどこも変な名前の所が多いようだ。
中に入ると、鼻につく、むっとした汗くささと熱気。
飛び交う怒号のような声。
フレヤは委縮しないように、でも目立たないように静かに中へと進む。
席に着くと、すぐさま上げた肉が運ばれてきた。
こうばしい匂いがふわりと香り、
はしたなくも口の中は唾液でいっぱいになる。
そういえば、今日は道中ろくなものを食べていないのだった。
思わず手に取って、行儀悪くかぶりつこうとした。
「そういや、最近、王妃殿下の話聞かねえよなぁ」
手が止まった。
乾くほど目を見開く。
「はぁ?
王妃様はとっくの昔に……」
「馬鹿、うちの王妃様じゃねぇよ!!
お嫁に行ったほうだよ」
「ああーヘレナ様かぁー」
指先が震える。
唇をきつくかみしめた。
耳にすべての集中力をかき集める。
喧噪なんて止まってしまえばいいのに。
「なんでもよぉ……
王が、王妃のこと溺愛して、城に監禁してるとかなんとか」
「かぁーっ!!
お熱いこったなぁ!!
その旦那のステファン王が今この国に
支援に来てくれてるらしいじゃねぇか」
「メノウ様は、何してるんだか……
せっかく革命を起こしたんだから、なんかもっと
派手に改革とかしてくれないのかよ……」
ステファンがヘレナを愛している?
違う。
今ならわかる。
ステファンは、誰かを愛するような人ではない。
ヘレナのことも、愛しているかのように見せかけて、
ただの駒の様にしか思っていないのだろう。
手が止まっているのは不自然だと気づき。
何事もなかったかのように揚げた鶏肉を口に運ぶ。
ヘレナが監禁されている可能性がある。
もし、監禁されているとしたら、この国の城ではないはず。
隣国にあるステファンの城だ。
思わず表情が険しくなるフレヤに対して、
カルトとシウは淡々と酒と肉を口に運んでいる。
「悪くないじゃん、この肉」
「この国の肉はまこと味付けが濃いな。
口に合わぬ」
シウはそういいながらもパクパクと鶏肉を口に運んでいる。
何度も鶏肉を口の中でかみしめる。
しかし、シウが濃い味と言う鶏肉は、今は全く味がしなかった。
砂をかんでいるようだ。
今は、一刻も早くアルハフ族を救わなければならないのはわかっている。
だが、心が焦りを抑えきれない。
ヘレナは、無事なのか。
しかし、それ以上男たちが王妃について話すことはなく、
仕事の愚痴へと話題が変わってしまった。
耳を澄ませてみるが、アルハフ族についての話も聞こえてこない。
唇をかみしめた。
一体どうしたらいいのだろう。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.56 )
- 日時: 2017/05/05 22:50
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
三人は、酒場を出てから、また昨日と同じように宿で二部屋借りた。
念には念を入れて、シウの目の力で相手には、
こちらの印象をぼやかしている。
仮に兵に不審人物の宿泊の有無について問われても、
思い出すことはできないだろう。
三人で一部屋に集まり、小さな椅子に腰かけて
ようやく一息つけた。
王都には当然のごとく、近衛兵が
沢山行きかっていて、一瞬たりとも気を抜けなかった。
フレヤは向かいに座るシウとカルトのほうを向いた。
「二人とも聞こえていたと思うけど、王妃は、私の妹は」
「幽閉の可能性がある?
信憑性に欠けるな」
にべもなくシウに言い捨てられ、フレヤはぐっと押し黙った。
確かにそうだ。
確かな情報筋ではない。
ただの噂だ。
だが、もしそれが真実だったら。
「カルトのほうはどうだったの?」
「どうしたよ?
王妃の情報で頭いっぱいでなんも聞こえなかった?」
なかばあきれたように言うカルトを半眼になって睨むが
何も言い返せない。
たしかに、あの時はひどく衝撃を受けたし、頭が真っ白になる思いをした。
しかし、そういうからには、フレヤでも聞こえるような
場所と声の大きさでアルハフ族に関しての話が聞こえたのだろう。
「地下牢に閉じ込められているってさ」
フレヤは目を見開いた。
こみあげてくるのは悔しさだった。
心のどこかで、王宮にアルハフ族が連れ去られたら
自分が先頭に立って救い出せると思っていた。
だけど、地下牢だなんて行ったことがない。
「確かな情報筋なの?」
「話してるの、近衛兵だったからな」
こともなげにカルトは言ったが、フレヤはまた驚いた。
どうしてそんなことがわかるのだろう。
「仕事の愚痴垂れ流してたからな。
反抗的な異民族など地下牢でさっさと死ねばいいってさ」
ぎゅうっときつくこぶしを握り締めた。
こんな言葉が、自分の国の民から話されただなんて信じたくない。
だけど、これも事実。
自分たち王族が、今のこの事態を招いてしまったのだ。
「……愚痴や不満ばかりを言っていたわ」
「なに急に」
「民はもっと楽しくお酒を飲むものだと思っていたわ。
でも、だれも笑っていなかった。
みんな、悲しい顔や怒った顔をしてお酒を飲んでいた」
カルトとシウは何も言わなかった。
今までは、貧しき者たちを救うために、
王都にはほとんど施しを与えに行っていない。
だから現状を何も知らなかった。
悪い気がはびこっているのは、貧困にあえぐ村だけではない。
豊かなはずの王都でも、これだけの不満がたまっていたのだ。
これでは革命が起こって当然だ。
「でも、革命が起こっても、何故、彼らは嬉しくないのかしら。
全然幸せそうには見えなかった」
「変わってないというか、悪化してるからだろ」
「おい」
我慢できないようにカルトが言った。
それを咎めるようにシウが声をかけたが、彼は無視した。
さらにいらだったように言葉をつづける。
「国は何もよくなってない。
政をほったらかして、
元王女のあんたを血眼になって探してる統治者のせいだ。
近衛兵を動かしまくっているから、金も要る。
もともと高かった税金は跳ね上がっているし」
「おい」
さらに低い声でシウが言うと、カルトははっとしたように口を閉じた。
しかし、フレヤはしっかりと今の言葉を聞いてしまった。
「どういうこと。
知っていて、何故私に教えてくれなかったの」
「口止めをしたのは我だ」
ばれてしまっては仕方ない、とでも言いたげな表情のシウを
睨みつける。
彼は知っていたのだ。
「このような現状、知れば汝は死に物狂いで
この国を救おうと奔走するだろう。
我は言ったはずだ。
汝を我が国の女王に望むと。
本来ならば、汝をさらってでも早くこの国を出たい。
我が民が待っている」
はっとした。
そうだった。
シウもしぶしぶながらに付き合ってくれているが、
本来、彼も王だ。
彼を待っている民がいる。
それを引き留めているのはフレヤのわがままだ。
「……私がつかまるまで、この現状は続くのかしら」
「言っておくが、汝、わざと捕まろうなどと
馬鹿なことは考えるなよ。
なんのために我がここまで骨を折ってやったと思っている」
「でも……!!」
「黙れ。
反論は認めぬ。
アルハフ族を救い出し次第、この国を出る」
冷たい声だった。
冷酷な真紅のまなざしに唇をかみしめる。
一切の妥協も認めない声音に、反論したくなるが、
彼には彼の事情があるのだと自分に言い聞かせるしかなかった。
今夜もカルトはベッドで寝ようとしなかった。
何度もベッドでしっかり休息をとるように勧めたのだが、
見張り役で座った姿勢のまま競ることに慣れているから、と断られ続けた。
浅い仮眠のみで、見張り役をやってくれているのだろう。
フレヤはベッドの中で寝返りを打った。
なんて律儀な一族だろう。
たった一度、一族の子供を救ったという恩とチノの知り合いという
わずかなつながりでも、律儀に恩を返そうとしている。
これでは理由もなく彼らのことをケダモノの蛮族と蔑み罵る
コペンハヴン国の民とアルハフ族、どちらが蛮族なのかわからない。
「さっさと寝れば」
フレヤがなかなか寝付かないことに対していらだったように
カルトがそっけなく言った。
フレヤは毛布の中で縮こまった。
ばれていたのか。
「何考えているのかはしらないけど、
考えても別にものすごくいい方向に問題が解決はしないし」
「それでも、色々考えてしまうのよ」
「あんたって結構、面倒な性格してるよね」
「……」
それは、カルトに言われたくない。
そう反論したら、また辛口で返答が返ってくるのは
見えていたのでフレヤは黙っていた。
「明日、本当にアルハフ族を救い出しに王宮へ乗り込むのよね」
「なに?
怖くなった?」
「そんなことはないわ。
ただ……少し複雑なだけ」
「本当、あんたって面倒くさいね」
「……」
さすがにむかっときたので、ベッドから身を起こした。
カルトは壁に背を預けて座り込んだ。
申し訳程度の毛布しかその体を覆っていない。
危機が来ればいつでも跳ね起きることができるように
するためだと遅れて気づく。
その姿を見て、反論の言葉ものどもとで消えてしまった。
「どうすればいいのかわからないの……今回は、本当に。
自分が何をしたいのかもわからなくなっている」
ぽつりとフレヤはもらした。
本心からの言葉だった。
カルトが横目でこちらを見たのが気配で分かった。
「別にあのクソむかつく皇子とか気にしなくていいと思うけど。
どうせ義理でも感じてんだろ。
別に何でもかんでもあいつの言うこと聞かなくていいじゃん」
言い当てられて、フレヤは言葉につまった。
心のどこかで、シウの言うことに従わなくては、と
考えていた自分がいたことにいやでも気づかされる。
「……やっぱりもう少しだけ考えをまとめさせて」
「好きにすれば」
カルトがため息を吐いた。
フレヤは頬をまくらにうずめるようにしてベッドに横たわった。
しかし、心はぴんと張り詰めている。
目がさえわたって今夜はなかなか寝られそうになかった。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.57 )
- 日時: 2017/05/09 17:54
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
結局、答えは朝になっても出なかった。
ベッドの上で座り込む。
今日は何をすればいいのだろう。
その時、不意に、こんこんとドアをノックする音がした。
カルトが立ち上がろうとするフレヤを手で制し、
ゆっくりドアに近づく。
その右手は、腰にさしてある短刀にのばされている。
「我だ。
さっさと開けろ」
ドアの向こうから、ふてぶてしい声が聞こえた。
フレヤは緊張を緩めたが、カルトの右手はいつでも
短剣を抜けるようにしてあるままだ。
カルトは素早く左手でドアを開けた。
そのとたん、人影が素早く飛び込んできて、
カルトにとびかかった。
響く鋭い金属音。
カルトが自らの短剣を抜き放ち、その人影の刃を受け止めたのだ。
「シウ様に、刃を向けるとか!!
ありえない、殺す!!」
フレヤはあっと声を漏らした。
人影はつり目に茶髪の少女。
メノウの屋敷でシウの供の者としてその場にいた少女。
「リン、よい」
「シウ様!!
ですが……!!」
「よいと言っている。
下がれ」
「っ、はい……仰せのままに」
リンと呼ばれた少女は、しぶしぶ剣をおさめた。
しかし、この国では見たことのない形の剣だ。
たしか、東洋の国ジパングの出身のはず。
ジパング独自の剣に違いない。
「彼らが援軍……?」
フレヤの目は、シウの後ろに控えているものに向けられていた。
そこには、二人の青年が立っていた。
一人は藍色の髪色を持つ青年だった。
風変わりな白い衣を身に着けている。
その白さが神聖さを際立てていて、神官のような雰囲気を醸し出していた。
その瞳はフレヤやシウと同じ真紅に輝いている。
もう片方の青年は、シウと同じような民族衣装を身に着けていた。
こちらは、白ではなく薄い水色の衣を身に着けている。
しかし、純白の衣を着ている青年とは違い、
どっしりとした覇気を感じる。
おそらく武人なのだろう。
禁欲的なまでに、襟は首元まできっちりとしめられていた。
その瞳は、リンや満月の夜のチノと同じように金色だった。
人間とは大きく異なるその色に、彼らが異形の者なのだと
すぐに悟ることができた。
援軍なのだとしたらずいぶんと到着が早い。
「我の配下だ。
白いのがジパングに住む鴉天狗の一族の末裔、ヤワラ。
水色のが腐れ縁の龍族の長、ロンだ」
「おい、腐れ縁とはなんだ。
てめぇの配下になったつもりはねえよ」
すぐさま反論したのはロンと紹介された青年だった。
金色の瞳を不機嫌そうに細めている。
その仕草がチノに似ていてどきりとした。
「シウ様。
この娘が、シウ様のお探しになっていた娘なのですか……?」
一方のヤワラと呼ばれた青年は、不審そうにフレヤのほうを見ている。
じろじろと全身を無遠慮に眺めまわされ、フレヤは気まずい思いをしながら
こぶしを握り締めた。
「確かに、見目は我らと似通った部分がありますが、
この者、南蛮人であるうえに、ただの小娘ではありませぬか」
あきらかに馬鹿にされている。
元王女であるフレヤは、差別など生まれてからされたことがほとんどない。
だから、明確な差別の意思を含む視線に
一瞬視線をそらしかけたが、きっと睨み返した。
ここは、折れてはいけない気がした。
数秒にらみ合った後、先に視線をそらしたのはヤワラだった。
「たしかに我らの中では最弱であろう。
だが、人間どもを相手にしたとき、この娘の力は
我らの中でも最も強い部類に値する」
言外に歌の力のことを言われているのだと悟る。
左様ですか、といったんヤワラは引き下がったが、
その視線にはまだありありと不信の色が残っていた。
「シウ様、このクソ生意気な男、何ですか。
あたしが殺しちゃってもいいですか?」
まだ殺気を消さなかったのはリンだ。
その視線は、カルトに固定されている。
しかし、カルトはとっくの昔に、リンから興味を失って横を向いている。
それが、癇に障ったらしい。
「その男、我が国に勧誘している狼族の者だ。
もうすぐ、我が国の民となるのだから殺すな」
シウが珍しくアルハフ族のことを犬だと言わなかった。
一応狼の血を引く一族だということは知っているらしい。
リンはものすごく悔しそうな表情をしながらも、
大人しく引き下がった。
驚いた。
三人ともなんだかんだ言いながらもシウに従っている。
見た感じだと、シウの軍の幹部を呼び寄せた、と言うところだろうか。
フレヤは王宮の近くまで来ていた。
もちろんカルトとシウ、シウの配下三人も一緒だ。
「先ほども言ったが、この姫君の言う王宮の警備の薄い場所は
あまりあてにならない」
「……」
フレヤは顔をしかめながらも、無言だった。
ステファンのことだ。
警備の配置も変えていてもおかしくないからだ。
これからは、二手に分かれる。
今回の目的は、アルハフ族の救出。
囮役と救出役の二手に分かれて救出を確実なものにするためだった。
囮役は顔の割れていない、ロンとリン。
救出役は、鼻の利くカルト、いざとなった時には
人間の兵士に幻惑の力を使えるフレヤとシウ。
そして、鴉天狗のヤワラには驚いたことに翼があった。
その翼で弱っているアルハフ族がいた場合、
空中を飛んで抱えて救い出せるのだ。
シウを一人にするわけにはいかないと、
リンとヤワラがごねたが、最終的には二人ともシウの指示に従った。
「……兵はいないようです」
早速、背中の翼を使って上空から王宮の警備の様子を確認してきた
ヤワラが着地しながら言った。
確認してもらったのは、王宮の東にある壁側だった。
王宮の東側は海に面している。
あるのはわずかな足場だけで、
ここからは空でも飛べなければ王宮に侵入できない。
どうやら、フレヤの覚えていた兵の配置と
何も変わっていないようだった。
「罠じゃん、どうみても」
カルトが飄々とした態度で言うのを横目で眺めながら、
フレヤはシウを見つめた。
罠でもなんでも決意は揺るがない。
「それでも、救い出すわ」
「シウ様になんかあったら絶対殺すからねアンタ」
「シウのやつは殺しても死なねぇよ。
さっさと行くぞリン」
キッとひと際きつくフレヤを睨みつけると、
リンはロンとともに王宮の正門のほうに駆けだした。
その背中を見送ってからフレヤは前を向いた。
兵はいないとはいえ、気は抜けない。
ほぼ間違いなくこれは罠だ。
アルハフ族をとらえたのは、
フレヤをおびき寄せるための餌とみて間違いないだろう。
だが、それでも前に進まなければならない。
次は、こちらの行動の番だ。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.58 )
- 日時: 2017/05/11 10:18
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
近衛兵は、フードをかぶった不審人物が
王宮の正門に近づいてくるのを見つけた。
「止まれ!!
何者だ!!」
槍を握る手に力をこめ、大きな声を出す。
しかし、二人組は足を止めるどころか
こちらに向かって駆けだした。
その速度に、フードが外れ、不審人物の顔があらわになった。
二人とも、東洋国の顔だちをしていた。
一人は、茶髪の娘だが、もう一人はぞっとするほど造形の整った顔立ちに
老人のような白髪をもつ男だった。
その男が、走りながら大きく息を吸い込むようなしぐさを見せた。
その数秒後に、彼は息を大きく吐いた。
ボゴウウウウゥゥッッ
轟音とともに、烈風が吹きおこった。
近衛兵たちは、耐えきれずにその場から吹き飛んだ。
龍族のブレスだ。
巨大な岩をもたやすく破壊するブレスは、
王宮の正門に直撃し、それを破壊した。
耳をつんざくような音とともに、破片が四方八方に飛び散る。
「陽動にはこの程度でいいのか?」
「まだ足りないよッ!!」
茶髪の娘が走りながら、ばっとフードを脱ぎ捨てた。
一瞬でその姿が青白い鬼火で覆われ、
気づけば馬車よりも大きな化け猫がそこにいた。
とんでくるいくつもの矢を尾で軽くはじき返し、
前足で、いとも簡単に何人もの屈強な兵士たちを吹き飛ばした。
続いて飛んでくるいくつもの青白い鬼火が兵士たちに襲い掛かった。
「援軍を!!
援軍をよべぇぇぇぇええっっ!!」
その場にいた近衛隊長が大きな声で指示を出すが、
それすら聞こえがたいほど、その場は怒号にあふれていた。
しかし、現在はフレヤ元第一王女捜索のため、王宮の兵力の
八割がたが王宮にいなかった。
必然的に、残りの二割のほとんどが王宮の正門に集まることとなる。
それが、この二人の狙いだった。
そうすれば、王宮内の警備は手薄になるからだ。
「おっと」
とんできた羊ほどの大きさもある王宮正門の破片を、青年ロンは片手で
やすやすとつかみ取った。
そして、すぐさま王宮に向かって投げ返す。
数秒後に、地響きとともに阿鼻叫喚が巻き起こった。
「どのくらい城を壊してもいいのかねぇ」
暴れる巨大な化け猫を眺めながら、
再びブレスを吐くためにロンは大きく息を吸い込んだ。
王宮の敷地に、ヤワラに運んでもらうことによって侵入する。
思った通り、囮役は十分に役割を果たしているようで、
敷地内には、近衛兵の姿はない。
時々、地響きとともに、嫌な音を立てて城が揺れる。
遠くから兵たちの怒号が聞こえてびくりとする。
きょろきょろとあたりをまた見渡したが人はいなさそうだ。
ほっと胸をなでおろす。
できるだけ人に見つかるのは避けねばならない。
無駄に兵を傷つけたくはなかった。
フレヤは、あたりに誰もいないのか念を入れて確認した後、
ある一点に向かって走り出した。
城から少し離れた、敷地内にある建物。
「……ここよ」
幼いころから、姫がお入りになるような場所ではございませぬ、と
何度もこのあたりに近づくことを止められてきた。
目の前に広がるのは、石造りの階段。
それは地下へとつながっている。
階段の先は闇に包まれていてよく見えない。
それが不安を掻き立てる。
見張りの兵の姿はなかった。
これが罠なのか、それとも囮役が惹きつけてくれているおかげなのか
フレヤにはわからなかった。
だが、進むしかない。
情報が正しいなら、チノとアルハフ族のみんなは
ここに捕らえられているはずだ。
「さて……誰を残すか」
シウが顎に手を当てて考え込むような仕草を見せた。
はっとして振り返る。
見張り役ということだ。
「待って。
この状況で誰か一人をここに置いていくほうが危険だわ」
「いや。
全員で中に入り、その時に入り口をふさがれでもしたら
我らは、たやすく、死ぬぞ」
「……っ!!」
その可能性を考えていなかった。
やはりシウは頭が切れる。
しかし、見張り役が危険なことには変わりない。
「……本来なら、人魚の姫よ。
汝ほど適しているものはいないのだがな」
「……私の、歌の力ね」
胸に鉛が流し込まれたみたいに、気分が沈む。
歌の力は、今も好きではない。
「ああ。
汝の歌の力は人間には絶対にして最強の力。
しかも聴覚に作用する力ゆえ、広範囲の人間に
すさまじい効果を発揮するであろう」
「……ずいぶんと、私の力に詳しいのね」
「妃にする予定の娘だ。
調べて当然であろう?」
意味ありげな流し目をよこされ、さっと視線を逸らす。
シウの目は苦手だ。
目に力を宿す者独特の迫力があって、長くは見つめられない。
「シウ様。
そこの小娘よりも、わたくしめのほうが適任かと」
ヤワラが二人の間に割って入るように体を滑り込ませてきた。
一方のカルトは、さっそく階段に向かって一歩目を踏み出している。
見張り役などごめんだと、背中で言ってきている。
彼の鼻は探索に必要だ。
暗い中でも獣のように夜目もきく。
どちらにしろ見張り役にはできない。
「そうね。
ヤワラなら、何かあった際も飛んで逃げることも……」
「私を愚弄するか!!
敵前逃亡など言語道断!!」
あまりの迫力にわずかにたじろいだ。
シウのためならば鉄砲玉のごとく死に一直線に向かっていきそうな勢いに
わずかに不安を抱く。
本当に大丈夫だろうか。
こちらが無表情であるにもかかわらず、
雰囲気でフレヤの言いたいことを悟ったらしく
ヤワラの表情がさらに険しくなっていく。
「よい。
ならば、任せるぞヤワラ」
「は、はっ!!
お任せください!!」
今にも怒鳴りそうだったヤワラだったが、
シウの言葉に居住まいを正し頷いてみせた。
態度の急激な変化に面くらってしまう。
それだけ言い残すと、シウはスタスタと地下に向かって足を進めた。
「行くぞ」
「え、ええ……」
ヤワラのほうを最後にちらりと見たら、
ものすごい形相で睨まれた。
さっさと行け、と言うことらしい。
フレヤは、後ろ髪ひかれる思いで、地上をあとにした。
地下道へと続く階段を下り切ると、
そこはひどくじめじめとした場所だった。
ふわりと湿気が素肌にまとわりつく。
「……いる」
カルトがかすれた声で小さく呟いた。
いくつもの道に枝分かれしている地下道を、
彼はすいすいと進んでいく。
おそらくアルハフ族のことを言っているのだろう。
その足は止まることがない。
フレヤもはやる心を押さえて、足を速める。
地下道の中はひどく暗い。
シウの背中を見失わないようにするので精いっぱいだ。
ところどころに掲げられているほのかなランプの明かりだけを頼りに
進むこと数分。
カルトの足が一瞬止まった後、彼は唐突に駆けだした。
牢屋が見えた。
中には何人もの人影がうずくまっていた。
フレヤはその中によく見知った人影を見つけて駆けだそうとした。
牢屋の檻越しに緑の瞳が緩慢な動きでこちらを見る。
その瞳が限界まで見開かれた。
「チ……!?」
がっ、と後ろから何者かにものすごい力で首を締めあげられた。
視界が明滅する。
息が、できない。
突然のことに思考が追い付かない。
シウが珍しくひどく驚いた表情でこちらを振り返ったのが、
ぼやけた視界の中見えた。
首を掴む手につかみかかり、反射的に爪を立てたがびくともしない。
声が出ないほど強く、強く、のどを握られる。
「つかまえた」
薄暗い地下牢で聞くには場違いなほど穏やかな声が耳に囁きこまれた。
目を見開く。
この声は。
誰よりも愛しかった。
誰よりも憎かった。
「ステ…ファ……!!」
「こうしてしまえば、貴女も歌えまい。
ああ、私にはこれ以上近づかないでもらおうか」
悪鬼のようにゆらりと、シウとカルトが距離を詰めてくるのを
ステファンはやんわりと制した。
ぎりりとさらにきつく指がのどの皮膚に食い込み、
顔が醜く歪むのが自分でもわかった。
「フレヤ!!」
遠くでチノが叫んでいるのが聞こえた。
- Re: マーメイドウィッチ ( No.59 )
- 日時: 2017/05/15 20:41
- 名前: いろはうた (ID: Sm0HUDdw)
馬鹿な。
どうして彼がここにいるのだ。
呼吸ができない。
酸素を求めて、唇を動かす。
手足がしびれたように感覚を失う。
「お久しぶりにお目にかかる、フレヤ様。
あれだけいつも美しく装っていた貴女もひと月の間に
ずいぶんと薄汚れて獣臭くなってしまったものだ」
穏やかな声の中にはっきりと混じる侮蔑の響き。
わずかに指が緩む。
途端に気道に空気が入り込み、むせこんだ。
目の端に生理的な涙がにじむ。
ステファンはそれを見ると、唇で涙を優しくぬぐい取った。
「なるほどな。
我が見誤っていた」
涙でぼやけた視界の中、憎々し気にシウが吐き捨てた。
カルトは、いつでも腰にある短刀を抜けるように構えている。
「汝、どうやってここへ入った」
「これはこれは。
ミン国の第一皇子か。
私の婚姻のにいらしたときには、十分な挨拶もできず」
「御託はいい」
「この地下牢、入り口が二つあるのですよ。
フレヤ様は高貴な身分故、ここにはあまり立寄らず
ご存知なかったようだが」
荒い自分の呼吸がひどく耳障りだった。
指はまだ離れない。
緩やかにまた締まっていく。
シウを見た。
ステファンはただの力を持たない人間。
シウと目さえ合わせたら、こっちのものだ。
「……っう……っ!!」
「歌を歌えるほど回復されても困るのでね。
許してほしい、フレヤ様」
ぎりりとまた指が首に食い込んだ。
優しく、丁寧に、彼は微笑みながら首を絞めてくる。
ぼろりと涙がこぼれた。
この男は。
この男は誰なのか。
こんなに、狡猾で冷酷な目をした男は、知らない。
つま先が宙をかく。
彼は片手一本でフレヤののどを掴み、もう片方の腕で腰を緩く抱いている。
「メノウが貴女の捜索の先陣をきっているから、
私も留守だと思った?
そんなことはない。
健気に貴女の帰りを待っていた。
ずっと。ここで。」
くすくすとステファンが笑う。
アイスブルーの目はその色と同じように
氷のように冷たい光をたたえていた。
甘かった。
ステファンのことを侮りすぎていた。
彼は、自分なんかよりも何倍も頭の切れる男なのだ。
「汝は、その娘を殺せない」
シウが低い声で言った。
へぇ?とステファンは何でもないことの様に聞き返す。
次の瞬間、白刃が目の前に迫っていた。
見開かれた緑の瞳。
ひゅっと風切り音が聞こえた。
首を握る手の力がわずかに緩んだ。
腰に強い腕が回り、荒っぽく抱き寄せられた。
首から手が離れて、新鮮な空気が一気に体に流れ込む。
激しくせき込んでいる間に、景色が一瞬で流れる。
気が付けば、シウの背後にいた。
自分を抱き寄せている人物は、チノだった。
見れば、牢屋のカギは壊れていた。
今の一瞬で、牢から出てシウにとびかかったようだ。
咳が止まらない。
生理的な涙がほほを濡らす。
ステファンは自分の頬をゆっくりとぬぐっているところだった。
薄暗い中でも、白手袋に赤色かすれたように広がるのが見えた。
「ああ、奪われてしまった」
ステファンは笑った。
どういうことだろう。
今のは、シウが目の力を使ってステファンを操ったのか、
ただ意表を突かれたから簡単にフレヤを奪われてしまったのか。
いや、それにしては落ち着きすぎている。
あの余裕はどこからくるのか。
まるで、わざとフレヤを逃がしたように見える。
「貴方の力は存じている、シウ様。
目さえ見なければいい。
メノウから教えてもらったので」
「……」
シウは答えない。
フレヤは、ぜいぜいと荒い息を吐きながら、
ちらりと牢の中のアルハフ族の人々を確認した。
女性の姿が見当たらないということは、
どこかに避難しているのか、隔離されているのか。
彼らの体を見たところ、大きな外傷などは特になさそうだ。
衰弱はしているが、おそらくまだ歩ける。
彼らを、ここから逃がさなければ。
歌ってしまえば全て解決するのはわかっている。
だが、荒い呼吸が漏れるだけで、今はとてもではないが
声を出すことができない。
「貴女が表情を変えてくれるのを見るのが、
私はとても好きだ。
貴女はめったに表情を変えてくれないから」
場違いなほど穏やかに彼が話すのを睨みつける。
その視線など気にしていないかのように、
彼は穏やかにほほ笑み続けている。
フレヤが恋していたあの微笑を完璧なまでに美しい顔に乗せている。
胸がつぶれてしまいそうだ。
悪夢の続きを見ているようだった。
視界がぐらぐら揺れている。
今までのことは全てうそだったと、そう言ってくれたらいいと
願ってしまうほどに、心が弱っていた。
ああ、本当に嘘だと言ってほしい。
「私とて貴女を迎える準備を怠っていたわけではない。
ほら、見て」
彼が手で示す先には、通路を埋め尽くすほどの兵が立っていた。
中には、顔を知っている兵も混じっていた。
だがどの兵もフレヤを見ても何の反応も示さない。
いや、うつろな目はフレヤを映していない。
ガラス玉のように、ただ周囲の景色を反射している。
その目に、メノウの力である紅い輝きを見たとき、血が沸騰した。
メノウの力で、兵たちの意思を奪い、傀儡のごとく使っているのだ。
「今、正門で戦っているのは、兵力の一割にも満たない。
ほとんどの残りの兵力は私の傍に置いていた。
貴女を出迎えるために」
フレヤはただ愕然と目を見開いた。
だから、彼はこんなに余裕を持っていたのだ。
ステファンの背後には、メノウの傀儡と化した兵たちがいたのだ。
この男は、どこまで希望をへし折れば気が済むのか。
泣き叫びたいくらいなのに、声も出ない。
歌えたら。
彼らの目を覚ます歌を歌えたら。
震える唇を開いたが、かすれた音しか出ない。
言葉にすらならなかった。
「さぁ、獣の蛮族など捨て置いて、私とともに」
白手袋に包まれた手が差し伸べられる。
あの手が大好きだった。
あの手で優しくリードされるのが好きだった。
あの手を取って、踊るのが夢見るように幸せだった。
ぽたりと涙がこぼれた。
幸せなあの頃はもう遠い。
あるのは、死と隣り合わせの冷たい現実。
何をすれば、ここにいる人たちを救えるだろう。
ここで大人しく捕まればいいのか。
それとも地にひれ伏して許しを請えばいいのか。
そうすれば、彼らの命だけでも救ってはくれないだろうか。
いや、ステファンはそんなことはしない。
決して許さない。
不安分子は容赦なくすべて潰す人だ。
それをこのわずかな期間で嫌というほど知った。
では、どうすればいいのか。
ステファンの目的がわからない。
どう行動すればいいのかもわからない。
「そういえばフレヤ様とその従者たちの出迎えを忘れていたな」
その声に従うように、うつろな目をした兵たちが
すらりと腰の剣を抜いた。
はっとする。
パニックになっていたから気づくのが遅れてしまったが、
あの制服は、この国の騎士団の制服だった。
それは、この国でも有数の剣術の使い手だということを意味する。
フレヤは声が出ないから。歌うことで彼らを止めることができない。
あのガラス玉のような目は、メノウにそう命令されているのか、
決してシウの目を見ようとはしなかった。
状況は絶望的だった。
フレヤの頭は、きんと冷え切って、目まぐるしく思考が入り乱れていた。
どうすればいい。
何をすれば、この状況を打破できる。
「カルト」
「ああ」
突然、背中を支えていたチノの手が離れた。
恐ろしいまでの喪失感が胸を襲う。
ふわりと傾いたフレヤの背を、カルトが支えた。
目を見開いた。
急いで手を伸ばしたが、するりと黒衣が指をすり抜けた。
「……兵を退かせろ」
次の瞬間にはチノはステファンの首に短剣を突き付けていた。
その切っ先が、地下牢の明かりを反射して鈍く光る。
しかし、そのチノの首にも、素早く動いた騎士の一人が
剣を突き付けている。
自分の顔から血の気が引くのがわかった。
一瞬で、その場が緊張で満たされる。
まばたきさえ許されないような空気に、唇が震える。
「獣の蛮族ごときが、誰に許可をもらって私に話しかけている?」
剣を突き付けられているというのに、
ステファンはおそろしく冷静だった。
それどころか、その瞳は、煩い羽虫でも見るような嫌悪感に満ちていた。
その言葉に、アルハフ族の男たちが一気に殺気立った。
それをカルトが静かに手で制する。
「私を殺しても、兵はお前たちを全員殺す」
「やってみなければわからないだろう。
おれたちはケダモノの一族。
お望み通り、最後まであさましく生きてやる」
刃がステファンの首に食い込み、血が一筋垂れるのが見えた。
同じく騎士の剣も、チノの首にさらに近づいた。
チノが死ぬ気でステファンを止める気だと痛いほどに伝わった。
このままではチノが死んでしまう!!
とっさに動こうとしたら、カルトに素早く手首を掴まれた。
動けない。
どんなに力を込めても振りほどけない。
抗議の意味を込めてカルトのほうを振り返ったら、
ひどく凪いでいるカルトの目と視線が交わった。
手を出すなと、その目は言葉よりも雄弁に言っていた。
笑えてしまう。
もうこれ以上何も失いたくないのに、
こんな時にまでお荷物になってしまうだなんて。
守られているだけなのは、もう嫌だった。
この手で大切な人を守りたいと思った。
口を開いて、声を出そうとする。
無理矢理歌おうとしたのだが、歌声の代わりに出たのは咳だった。
目じりに浮かぶ涙は、何の涙なのかすらもうわからない。
「無理をしないで、フレヤ様。
たったこれだけの人数で、しかも武器もろくに持たない者たちだけでは
騎士団には勝てない」
ステファンがチノの時とは打って変わって、
穏やかで優しい声でフレヤに言う。
その口調は、婚約者だった時のものと何一つ変わってなくて
この状況でこの声音で話されることに、恐れすら抱いた。
悪い夢を見ているようだった。
「誰が」
突然、それまでずっと黙っていたシウが口を開いた。
ふと、ステファンの顔にいぶかしげな色が広がった。
音が聞こえる。
どんどんこちらに近づいてくる。
地下牢の狭い廊下に響き渡るかすかな音は、徐々に大きくなっていく。
この音は。
「誰がわが軍がこれだけだと言った」
シウの声がふてぶてしく響くと同時に、
悲鳴を上げて騎士たちが倒れだした。
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