Enjoy Club

作者/ 友桃 ◆NsLg9LxcnY



第4話『知る者、知らぬ者』(12)



 ――……ちぇっ、移動教室か

 友賀葵は横目でもぬけの殻の教室を見、唇を尖らせた。

 友人から“紫苑風香”という女の子の存在を知らされてから、葵は気が付くと彼女の存在を探すようになっていた。登下校中の道中で、校内で、休日も風音の街を歩きながら。例えいつもつるんでいる3人の友人と廊下を走り回っている時でも、風香がいる1組の前を通過する瞬間はしっかりと教室内に視線を投げていた。それだけ気にしていれば当然両手の指では足りないくらい彼女の存在は目に留めていたが、中でも一番会う確率が高かったのが1組の教室。……いや、“会う”というのは語弊かもしれない。遠くから一瞬様子を伺うだけなのだから。
 風香は第一印象と変わらず、いつ見ても不安げな様子の子だった。彼女の隣には常に同じ友人が1人寄り添っていたが、もしその友人がいなくなってしまったらそのまま支えを失って泡のように消えてしまうのではないか、そう思ってしまうくらい彼女は頼りなく、力ない存在だった。少なくとも、愛らしい顔立ちで明るくて、大勢の友人に囲まれている葵とは対極とも言える女の子。もしかしたら、風也が到底同じタイプとは思えない自分の姉を好きになったのも、今の自分と似たような感覚だったのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えている時だった。

「残念。またいなかったな」

 葵はハッとして目を上げた。右隣を歩く広野が、足を進めながら先程通り過ぎた1組の教室を振り返っている。風香を探しているのがバレていたと知り、葵は思わず彼から目をそらした。その途端、残り2人の友人が実に楽しそうな笑い声を上げた。

「なんだよ葵、照れてんじゃねぇよ!」

 言いながら勢いよく体操服の背中をたたかれる。「いってぇなぁ」と葵が睨むのと、背中をたたいた友人が「あ!」と声を上げるのとはほぼ同時だった。驚いてその友人を振り返ると、彼はやけにうれしそうな顔で前方を見ている。その視線の先を目で追っていき、葵はしかめていた顔を一気に輝かせた。移動教室から帰ってきたところなのか、噂の紫苑風香その人が、教科書とノートを細い両腕で抱くように持って歩いて来るところだった。艶やかでくせのない黒髪が肩口で揺れている。顔をちょっとだけ横に向けて、いつも一緒にいる友人と話をしながら歩いていた。その口元にはわずかながらも笑みが浮かんでいて、葵は胸が熱くなった。
 ――が。そんな幸せな気分は、すぐに友人の悪ふざけでぶち壊されてしまったのである。

「紫苑さんだぜ、おいっ。やっぱ影薄いけどよく見ると可愛いよなぁ!」

 服の袖をつかみつつ熱のこもった声でそう言ったのは、左を歩く友人。広野ではない。広野は葵の右隣で、音量を落とせというように人差し指を口元に立てている。葵もチラチラと風香の方を見ながら慌てて友人を止めた。

「お前声でけーよ。バレたらどうすんだよ!」
「いいじゃん、葵モテんだから大丈夫だって」
「何が大丈夫なんだよ、おれ別にそういうわけじゃ」
「へへっ、今さら隠すなよ! ほら、紫苑さん来たぜ。――紫苑さん! こいつが話あるって!」

 唖然として友人を見ると、先ほどの倍以上の力で背中を押され、小柄な葵は大きくつんのめって誰かにぶつかってしまった。反射的に謝りつつ顔を上げると間近に風香の顔があって、葵はスローモーションのようにぱっちり二重の目を見開く。ぶつかった拍子にいつも気にしている前髪が少々崩れていたりもしたが、この時ばかりは気が付きもしなかった。
 対して突然見知らぬ男子から名指しをされ、さらに見知らぬ男子に衝突された風香は、驚き以上におびえを含んだ瞳でこちらを凝視していた。その大きなつり目を真正面から見た瞬間、葵は思わず固まってしまった。

 一歩、風香が片足を引いた。胸元に抱いた教科書を固く握り直す。そしてこちらが声をかける間もなく、さっと顔を伏せるとそのまま葵の前から立ち去っていった。彼女の友人も怪訝そうな顔でこちらを見、慌てて彼女を追っていった。

 葵は耳まで真っ赤にして床に視線を落とした。このどうしようもない羞恥が、廊下を行き交う同級生達からの好奇の目のせいなのか、それとも全く別の理由なのか、自分でもさっぱりわからなかった。



 土で汚れた運動靴のつま先を地面に打ちつける。じん……とつま先がしびれているのに、特にわけもなくもう一度。それからしばらくは薄汚れた白い壁におとなしく背中を預けていたが、数秒後今度は少しだけ場所を変えて再び壁にもたれかかる。汗のにじむ手を強く握って、すぐに開いて、葵はかすかにため息を漏らした。瞬間、慌てて小さく首を振った。

 ――……いやいや、なに似合わないことしてんだよ

 気持ちを切り替え、葵は迷わずある一点に目を向けた。先程からどれだけ気持ちが落ち着かなくても、片時もそらさなかったある場所。1組の下駄箱である。





 友人に背中を押され風香に不快な思いをさせてしまった後、友人たちは手のひらを合わせて謝ってきた。

「ごめんっ。ほんっとごめん葵!」
「だから別にいいって」

 投げやりな口調でそう言って、葵は乱暴にハンガーを元の位置に戻す。この学校では生徒は全員制服で登校した後、体操服とジャージに着替えて一日を過ごす。そして、まさに今がそうだが、帰るとき再び制服に着替えて帰路につくのだ。たった今着なれた学ランに袖を通した葵は、カバンの置いてある自分の席へと足を急がせた。
 口ではもういいと言っていが、どこか不機嫌そうな表情の崩れない葵に、友人たちは困った顔でついてくる。正直広野は何も悪いことはしていない気がしたが、それを掘り返す時間も今は無い。なにせ自分は今非常に急いでいるのだから。葵は重たいカバンを背中に背負うと、肩身狭そうにしている3人を振り返った。

「さっきのは本当にもういいからさ、先帰っててくんない?」

 すぐに1人が眉をひそめて問い返してくる。

「なんで? せっかく今日部活休みなんだから、遊びにいこうぜ」

 肩身狭そうにしている癖に素直には帰りそうにない友人に、葵は仕方なく事情を口にした。茶色い髪をいじりながら、目をそらしてぼそっと。

「……紫苑さんに、謝りたいんだよ」

 3人の顔が一気に光を帯びる。だけでなく、「お~!!」と無駄に大きな声まで張り上げてしまった。クラス中の注目を浴び、慌てて口を押さえていたが。

「ご、ごめん」
「いいって。用事すんだら連絡すっから、3人で先遊んでて」

 ガラにもなく真剣な目で葵がそう言うと、友人たちも重々しい動作でうなずいてくれた。





 あれから30分。葵はたった1人、昇降口の隅で待ちぼうけをしている。一応かなり急いで支度はしたはずだし、広野達と別れてから猛ダッシュでここまで来たはずだが、もしかしたらもう帰ってしまったのだろうかと、葵は心の底から落ち着かなかった。

 風香とあんな風に対面を果たす気なんてさらさらなかった。勢いでいったらおびえて口もきいてくれなそうな子に見えたから、ゆっくり話せるタイミングで、騒がしい友人のいないところで話そうとそう思っていた。それがあろうことか、男子にからかわれたかのような状況で対面を果たしてしまったのだ。正直言って“最悪”である。友人の悪ふざけを恨む気はなかったが、葵の胸は焦りでいっぱいだった。

 おもむろに携帯電話をポケットから取り出して自分の顔を映す。前髪はオッケー。生まれつきの茶色い髪は右寄りの位置でいい具合に分かれ、二ヶ所きちんとピンで止まっている。首筋まである後ろ髪もはねていない。表情は……少し固いが、まぁ大丈夫だろう。携帯電話をしまうともう一度気合を入れ直し、再び1組の下駄箱に目をやった。そこに風香が姿を現わすはずだった。――その時。

「――あ」

 葵は心臓がはねそうになった。目当ての人物が、例の友人と共にようやく姿を現したのだ。彼女たちが靴をを履き替えて、ドアの方に来てから声をかけようと思っていた葵はしかし、待ちきれずに足を踏み出した。
 先にこちらに気が付いたのは、髪をハーフアップにしている友人の方だった。

「あっ。え、ちょっと……風香、またあの」
「紫苑さん」

 迷惑顔でこちらを見ている友人は無視して、葵は固い声でそう声をかけた。元々声変わりをしていないよく通る声をした葵だが、この時ばかりは思ったように声が出なかった。今にも後ずさりしそうな様子の風香の目を、葵は勇気を出して真っ直ぐに見た。

「さっきは、ごめん。本当にごめん!」

 そのまま勢いよく頭を下げると、やや時間がたってから返事が返ってきた。

「い……いいよ」

 消え入りそうな音量だが、耳に心地よい澄んだ声。初めてきちんと声を聞けたことに感動していると、友人が「行こう」と風香の手を引いた。そのまま走ってでも行ってしまいそうな2人を見て、葵は慌てて2人を呼びとめる。かろうじて振り返ってくれたが非常に帰りたそうな様子の風香を見て、葵はごくりと生唾を飲み込んだ。

 ――……ごめん紫苑先輩。名前、使わせてもらいます……!

「紫苑さんあの……紫苑、風也先輩のこと、知ってる……?」

 予想よりもはるかに、
 風香が大きく表情を変えた。

 波風が、立とうとしていた。